
出典:いらすとや
なんだか過去が掘り起こされ始めているのでちょっと整理してみようと思った。
■ことの発端について
自分を「肯定」することと「正当化」することは違う
どこまでを肯定とし、どこまでを正当化するかが折り混ざり、難しくなっているというような趣旨。私の過去記事が引用されてたのでちょっと過去の自分に向き合うことになる。
■肯定でも正当化でも最初はいい
線引するものではない。過去の自分と対峙することになるのだけど、その認識に良識を求めても仕方がない。自分を肯定したり正当化するのは正解を求める話ではなく、転んだ時にしっかり受け身を取れるようになること。
■堕落になってないか?開き直りになってないか?
この問題に向き合うのは結構次のステージだと思ってる。真面目系クズと呼ばれる早い話成熟未発達な人は一時的にこの堕落や開き直りにも付き合う必要がある。
自己肯定感と開き直りはいつでも表裏一体のセットで、開き直った先には堕落が待ってる。
■堕落したくない
堕落しないためには人の手を借りる必要がある。孤独なままでは水は低きに流れていくがごとく、何でも「まぁいいや」になっていく。
■人の手を借りるとは
助けてくれーとかじゃない。自己肯定感を養ってからこそ、人に対抗心を燃やしたり、優れた人を見て自分に今足りてないものなどを見て、そして、焦る。ヤバい、開き直りすぎてたかも!と。
人を通して、人の手を借りて失敗を認識"させてもらう"。
■自己肯定感は受け身の作法
私達は正解を選び続けることは出来ない。
柔道では基本的に受け身から始まる。あらゆる体制からの受け身。どんなに良い投げ方から習っても、ぶん投げられて受け身がとれずそのまま選手生命が終わってしまってはどうしようもない。まずケガをしないため、受け身からはじまる。
自己肯定感を養うというのは、「ああ、自分失敗したかも…」と感じ時に、すかさずリカバリをかけるための精神的な訓練。健全な家庭で家族の機能がしっかりと行われていた家庭における子供は、父母にこの肯定感を養われながら健全に成長する。
ところが機能不全家庭ではここが機能せず、仕方なく自己防衛に走ることでしか自分を守れなくなってしまう。これにより発達に障害をきたす。いわば上手な受け身がとれなくなってしまう。失敗した時にすぐにへこたれてしまう。これが失敗恐怖症・完璧思考を育んでしまう。
■自分だけでもまずは自分の味方に
自己否定感で悩んでいる人は、味方が居ない。自分でさえも自分の敵や批評家になっている。できることは、自分がまず自分の味方になってやること。
■ナルシシズムはあまり恐れない方が良い
極度の自己愛としてナルシシズムが指摘されますが、自己否定感を抱えている人は過剰に自分を過小評価しすぎな感じもあるので、バランス取る上で自己肯定や開き直るくらいのことはしてもいいように思います。
というかただの通過点のような気もしてます。多くの子は早いうちに通過する。逆にここに停滞すると、ナルシシズムとして認定されるのかもしれませんです。
■完璧を目指すな 私達は必ず間違う
私達はその時時の環境やテンション年齢によって必ず何かしら間違いを犯します。私の過去ブログもなーに言ってんだ、なものが今読み返せばあったりもしますので。この記事もいずれ何言ってんだと思う日が来る。
■自分自身の記録
自分はどうしようもないクズだ(モジモジうじうじ)生きててごめんなさい死にたい死にたい(チラっ)
↓
自己否定感から周囲にもますます嫌われクズ呼ばわりされて自己否定感が増すループ
↓
もう自分をこれ以上傷めつけるのはやめよう 仕方ない仕方ない、いままでこうだったんだしなるようになるさ
↓
自分は沢山世間に傷つけられてきた、せめてそれを書き記そう
↓
親が悪い会社が悪い社会が悪い こうすべきああすべき ギャーギャー
↓
ブログがはかどる!
↓
これは…気持ちが楽になった感じがある…! 自己肯定すごい! 私は悪くない!
↓
…はっ、しかしこれは堕落なのでは…堕落とは自己愛とは人間とは…
↓
ログにして改めて気づく。私は何を勘違いしてたんだ、全部自分が招いたことじゃないか… 嗚咽
↓
あらためて、自分が最底辺クズであることに変わりない事実に向きあう
↓
ま、イチイチ落ち込んだりしててもしょうがないからゼロからはじめよう
↓
あれ、前ほど落ち込まないぞ
↓
そんなことより不勉強だったから勉強しよう(今ココ
■ブログのすごいところ
日記と違ってブログは公開している限り、どのタイミングで書いた記事にも何らかのシンパシーを誰かに与えることがある。その時その時の自分にしか書けないログが、誰かのためになる場合もある。無力感や自己否定感に陥っている人が人間的に成長するには誰かを助ける事が何より効果的、らしい。ペット療法とかよく言われるのはこれ。
同時にブログは、その時々の自分の了見を残している。だから、1年前の自分と向き合ったりなんてことも可能。過去の私、こんなこと言ってるけどその道のりがあって今があったんだねぇ、と。逆に過去の自分やその周囲のコメントなどに気付かされることもある。
■恐れるものじゃない 恥じるものじゃない
自己肯定は本来、子供の頃に終わらせておくものみたい。家庭内で育くまれるものらしい。だから、大人になってからそんなことに悩んでる奴は恥ずかしい人間として扱われる。ま、その「恥ずかしい」って感情も自分が決めつけてるだけなんですけども。
実際自己否定感に苦しめられている人は少なくないように思います。○○歳にもなって恥ずかしいって思いでますます自分を押さえつけるのは賢くないです。
■答えに固執しすぎないという考え方
認知療法の患者に見られる症状として、どれが正しいか間違いかで選択基準を極端に縛られる傾向があるそうです。白か黒かじゃなく、この世は白黒表裏一体でございまして、あちらが白ければこちらが黒くなることもあり、そしてその白と黒の間には幾重のグレーが存在します。
■自分に根拠の無い自信をもつこと、肯定感を持つことの本当の良さ
自分を肯定し、自分の過去や現在を認めることで、他人を認めることや許すこともできるようになる。絶対的な正解を選ばなければ、という恐怖心に襲われることも無くなる。
自信に理由や根拠は求めるものじゃない。根拠は勝手に後からついてくる。どれが正解か考えこむんじゃなくて、まずは自信を持つ、自分を肯定する。
やってみて、間違ってたら、方向転換するだけ。でも、何もせずに怯えているよりも行動してみた失敗というのは「あぁ、一つうまくいかない方法を学んだな」という気持ちになれる。
■「考えるな、感じろ」時々「考えろ、感じるな」
時々に応じて私達はこれを使い分ける事が必要なんだろうかと思います。私達は人間だから、人間の性、感性に身を任せる必要もある。が、感性ではない部分から時に学び考えなければならない。これを繰り返して成長するんだろうかと、ふと考えます。
■おわりに
人は成長したいと思って、もがいてればやっぱりそれなりに成長してる。過剰に頑張ることや努力することに縛られることより、とにかく沢山もがいてたくさん恥をかいて、失敗して失敗してまた失敗して、もがいてもがいてるうちに成長するものなのかもしれない。
幸いにも(?)歪んだ家庭で育ち、周りの人よりも随分遅れた発達をしてしまった自分は今になってようやく学ぶこと、もがきながら沢山の恥をかくこと、失敗をすることが自分に与える成長を感じられるようになりました。
あれ、なんだか本題の趣旨とズレてる。
とにかく、悩み過ぎたら単純化して「とりあえず自分のこと信じてやる」これでいいじゃないかなと思うのでした。自分信じてあげればそもそも言い訳に向かう事も堕落に向かうことも無いでしょうし。
いやほんと。


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