louribot’s blog

学習成果の出る企業内教育(教育全体)についての考察を語ります

「センスに頼らない」未来を

今回は、 ” 「センスに頼らない」未来を ” というテーマで考えてみます。

 

「センスに頼らない」未来を



基本的に平日しか記していないので、今年最後の投稿(?)になります。


(センス:sense)


物事の感じや味わいを微妙な点まで悟る働き。

感覚、また、それが具体的に表現されたもの。

判断力、思慮、良識。

 

経営者センス従業員センス」「教授者センス学習者センスというものがあります。


(経営者センス)


組織全体を導くための「俯瞰的な視点」と「意思決定力」。


・ビジョンを描く力

長期的な方向性を示し、従業員に「なぜこの仕事をするのか」を理解させる力。


・リスクとチャンスを見極める力

不確実な状況で、どこに投資し、どこを引くかを判断するセンス。


・人と資源の最適配置

「誰に何を任せるか」「どこに資源を集中するか」を決めるバランス感覚。


・市場や社会の変化を読む力

トレンドや顧客ニーズを先取りし、事業を柔軟に変化させる。


(従業員センス)


従業員には、現場で成果を出すための「実務的な感覚」と「協働力」が重要。


・仕事の優先順位をつける力

限られた時間で、何を先にやるべきかを判断する。


・コミュニケーション力

チーム内外で情報を正しく共有し、摩擦を減らす。


・改善・工夫の意識

指示されたことをこなすだけでなく、より良い方法を考える。


・顧客視点を持つ力

自分の仕事が顧客や会社にどう価値を生むかを理解する。


というようなことがよく言われています。


上記の「経営者センス」の ” 人と資源の最適配置 ” は、管理職の「従業員センス」と被り、「従業員センス」の中の ” 顧客視点を持つ力 ” というのはある意味「経営者センス」ですが、相対的に考えると、


”「経営者センスと従業員センス」は全く別モノ ”


であるということだと思います。


スポーツでよく言われる「名選手、名監督にあらず」ということと同じで、立場が違うとそこに求められる 


” センス ” の種類も質も量


も変わってくるということです。


中には「名選手」が「名監督」になるケースもたまにはあって、話をややこしくしてしまうのですが、ここ数十年の日本企業の経営者は大概が「従業員」としては優秀で、素晴らしい ” センス ” を持った人たちであったのでしょうが、「経営者」としての ” センス ” を持ち合わせていない人たちが大多数であるように思われるのです。


そういった「経営者センス」の無い経営者は、創業者や先代の経営者のやっていたことをそのまま引継ぎ、他社の事例を極端に恐れ、マネをし、、、、そして企業自体が劣化していく、、という図式です(勿論、大企業であれば売り上げは伸びていたりしますが、会社内部はあらゆる面で劣化します)。


そして、このことと同様に「教授者センスと学習者センス」も別モノですね?


企業構造と同じで、「学習者」として優秀で、素晴らしい ” 学習者センス ” を持った人が、「教授者」になり、「教育」はいい加減なモノとなり、、、、ということです。


「従業員」「学習者」としての ” センス ” を持った人たちが、「従業員」「学習者」としてそのまま優秀でいられる社会であれば何も問題はないのですが、現状ではなかなかそれは難しいと思われます。


何が言いたいか? というと、 


” センス ” に頼る「経営」「教育」は終焉をむかえるべきではないか、、、


ということです。


「経営者」「教授者」の ” センス ” が無い人が、真正な「経営」「教育」を行える環境・状況・システムを目指すべき時代になっているように思うのです。


「教育」においては、インストラクショナルデザインはつまりはそういうことを可能とする考えです。


” 誰がやっても同じ精度の高い教育、学習者支援 ” 


という理念があります。


そして、なぜそれが可能だと言い切れるかというと、そこには ” システム ” ” デザイン ” があるからです。


ですが、未だにインストラクショナルデザインは普及していませんし、先頭に立って導く人も今はいません、、、、


何かをきっかけにインストラクショナルデザインが学校、企業においても「教育」のスタンダードとなる日が来ることを信じてはいますが、、、


それと、「経営」については、おそらくこれまでのような従業員としては優秀だった人が経営者になるのではなく、経営者は ” AI ” がなることが期待されますね、、、


今時点での ” AI ” と、日本企業の経営者を比較してみても、圧倒的に ” AI ” の方が優れた「経営」を行うと思いますし、今後はさらにその差は開いていくのではないでしょうか?


倫理やハルシネーションといった問題がそれなりに解決して、


「 CEO は AI 」


という時代になれば、世界と大きく引き離された日本企業の質もレベルも追いつけるような気がします。


などと、年の瀬に考えてはみたのですが、、、、、相変わらずいい加減なことばかり記していた一年でした。


そして、多分、来年も同じように戯言を記していくのでしょう、、、


まぁ、ライフワークの1つなので仕方がありません・・・

 

ATDの考える「職場学習のプロセス」について

今回は、 ” ATDの考える「職場学習のプロセス」について ” というテーマで考えてみます。

 

” ATDの考える「職場学習のプロセス」について ”


今はそれほどでもないですが、昔の企業で教育関連や人材育成を担当している人たちが、年に一回(?)のastd(American Society for Training & Development、米国訓練開発協会)の国際会議(ICE)に参加するためにアメリカ出張をするといったブームがありました(余裕があった時代のアカデミアの先生たちも行ってましたね?)。astdは、2014年に名称をATD(Association for Talent Development)と変更しました(私的にはastdの方がしっくりきますが)。


以前にも、 ” 「ATD(The Associaton for Talent Development)は必要なのか?」 ” で少しふれましたが、今回は ” ATDの考える「職場学習のプロセス」について ” ということで、その内容と取扱い(?)について考えてみたいと思います。


(ATD:Association for Talent Development)


1943年に設立された教育研修・能力開発・パフォーマンス向上に関する非営利団体

世界中の企業、政治等の組織における職場学習と、社員と経営者の生産性向上を支援することを目的として活動し、世界120カ 国以上に4万人の会員を有している。その規模と活動内容から、人材育成の領域で世界最大かつ最高水準であることされている。 

ATDは国際的な企業と教育訓練に関する情報収集の場であり、トレーナーやトレーニング・マネージャーたちに専門的な情報やサービスを提供しており、人材育成、組織開発分野の会議やセミナーの開催、出版、資格認定制度等も大規模に運営している。


という団体です。


近年(といっても9年前ですが)では、カークパトリックの息子さんが「4段階モデル」を「新4段階モデル」などと発表していて、少しだけ話題になりましたね、、、


そのATDが出している本の中に、「職場学習のプロセス」ということが説明されています。


(Step 1) きっかけとなる出来事を経験する

(Step 2) 課題の重要性を認識する

(Step 3) 好奇心を高める

(Step 4) 情報を探索する

(Step 5) 情報を処理する

(Step 6) 情報を役立つ知識に変換し、加工する

(Step 7) 知識を適用する

(Step 8) 学習したことを記憶する

(Step 9) 学んだことを振り返る

(Step 10) 学習経験を評価する


ということだということです。


まぁ、乱暴に要約すると「コルブの経験学習」サイクルが「職場の学習」である、、、、といったような感じですね。


職場(現場)を経験して、課題を認識し、そのことについて学ぶ、、


ということに間違いなどあるはずがありません。


しかし問題は、


” それができない ” 


ということです。


そのために、教育・研修・人材育成の担当は様々な教育モデルや理論などを考え、適用するわけです。


「成人教育」は? とか「企業内教育」は? 


といった固有の共通課題、要因は確かにありますし、それは、


「現場経験」


というコトバに最も象徴されると思います。


ところが、その「職場」というのは、人も環境も状況、仕事内容もすべてが違うわけです。


環境、状況を含めたどの「職場」にも対応できる「職場学習のプロセス」も「教育モデル」もありません。


ATDのような機関が発信するこういった共通概念的な情報の捉え方として、


「一般的、統計的にこうだけれど・・・」


と、ある程度 ” 懐疑的 ” に捉える必要があります。


教育・学習について浅く学んだ人たちは、得てしてすぐに洗脳される傾向があり、


「ATDではこうなっている」


と、まるで「水戸黄門の印籠」のように出してきます。


また、こういったことは「事例絶対主義」「権威崇拝主義」が伝統(?)になっている日本の「職場」では、あらゆる場面で出くわしますね?


ということで、” ATDの考える「職場学習のプロセス」 ” から学ぶべきことは、何でもかんでも簡単に信じすぎず、ある程度 ” 懐疑的 ” になろう、ということです。

 

「インセンティブが学習の視野を狭くする」という思考について

今回は、 ” 「インセンティブが学習の視野を狭くする」という思考について ”  というテーマで少し考えてみます。

 

インセンティブが学習の視野を狭くする」という思考について


これまで何度も、


インセンティブが学習のモチベーションを下げる ”


という説について、” 完全ネガティブ ” に記してきました。


昔の資料等を整理していて、ダニエル・ピンク(Daniel H. Pink)TED での「やる気に関する驚きの科学」の中で、


インセンティブが学習の視野を狭くする」


というコトバがでてきて、少しだけ違和感を持ちました。


インセンティブ」と「モチベーション」に関するデシ&ライアン(Edward L. Deci& Richard M. Ryan)、ピンクらの説には今でも圧倒的に賛同できないのですが、


インセンティブ」と「学習の視野」


の関係性については、あまり考えてみたことがなかった気がします。


(学習に対するインセンティブ


インセンティブ(報酬や評価)は、学習者に「何をすべきか」を明確に示すため、短期的なモチベーションを高める効果がある。

その構造が「特定の成果や行動」に強く結びつくと、学習の幅や深さに影響を与える。


インセンティブのネガティブ面)


・目標の過剰な焦点化

報酬が「テストの点数」や「特定スキルの習得」に設定されると、学習者はその目標達成に最適化した行動を取り、周辺知識や応用力の獲得が軽視される。

 

・探索よりも搾取<Exploration vs Exploitation>


インセンティブが強いと、学習者は「確実に報酬を得られる方法」に集中し、未知の領域を探索する意欲が低下し、創造性や長期的な学習効果が損なわれる。


・内発的動機の低下<Overjustification Effect>


報酬が外的に与えられると、本来の「学ぶ楽しさ」や「好奇心」が弱まり、学習が「義務」や「取引」になってしまう。


といったことがよく語られます。


学校教育、企業内教育においても、大概はインセンティブのない学習 ”真正(!)にスタートすることもできないと思います。


これまで記してきたように、 


” 学習 ”を「始めさせ、継続させる」ということにインセンティブは必須


であり、 ” 内発的動機付け ” はあくまで補助的な、もしくは誘導され起動する場合が殆どだと思っています。


では、


「視野」は?


といわれると、確かに「狭くなる」ような気(?)はします。


インセンティブの有無にかかわらず)” 集中して学習する ” となると、どうしてもそうならざるを得ないと思います。


多くの ” 学習 ” は、目の前の「学習目標」を達成するために、行われる行動なので、アレもコレもとやっていては成果はでません(いくつもの学習目標の先に目的(ゴール)があります)。


インセンティブ関係なく)今話題になっている、


”「数学」の学習内容に「AI」を含める ”


といったような愚策がもし取り入れられ、「数学」ではなく「AI」のプロンプト学習に精を出す、、、みたいなことになってしまっては意味がありません。

 

こういったことを「視野が広い」というのでしょうか?


集中して学習させるには、「関係のないことやムダを極限まで削る」ということが基本的な教育の方略であると思います。


それを「学習の視野が狭い」といわれれば、そうなのかもしれませんが、、


インストラクショナルデザインでいうところの、「効果と効率(と魅力?)」を最大限に、、、という考えでは、基本的に「視野の狭い学習」つまり、「一点集中の学習」が効果・効率がいいとされています(細かく単元を切って、各単元を確実に習得させるような教育)。


と漠然と思ったのですが、ここまで考えてみると、


「学習の視野を狭くされる」のはたしかに「学習者」ですが、それは、


インセンティブのせい ”


ではなく、設定、誘導しているのは「教える側」であり、つまり「教育」側の問題であるわけです。


とすれば、「学習内容」「カリキュラム」「学習の視野が狭くならない」ようにデザインすればいいだけ(難しいですが)、、、のことですね?


そして、「学習」には「インセンティブ」が必須です。


ということで、相変わらず、人気者のデシ&ライアンやピンクには殆ど賛同できないということを再認識した次第です。

 

「認知地図(Cognitive Map)」作成には「Task-Centered Instruction(課題中心型インストラクション)」が必要だけれど・・・

今回は、 ” 「認知地図(Cognitive Map)」作成には「Task-Centered Instruction(課題中心型インストラクション)」が必要だけれど・・・ ”  というテーマで考えてみます。

 

「認知地図(Cognitive Map)」作成には「Task-Centered Instruction(課題中心型インストラクション)」が必要だけれど・・・



(認知地図:Cognitive Map)


新行動主義の代表的研究者であるTolman,E.C.(トールマン)が提唱。

人が頭の中で空間情報を地図化したもの。

距離や方向などの要素がそこにはあるが、頭の中のイメージであるため、物理的な情報とは当然異なり、同じ情報から形成された認知地図であっても、人によって異なる。

認知地図は、学習によって形成された空間関係の表象のこと。

動物(人間も含む)が空間的な情報を頭の中に地図のように保持し、それを使って目標に向かって行動する仕組みを指す。


(認知地図のポイント)


・単なるS-R(刺激と反応)ではない

報酬がなくても、環境を探求するだけで「場所」と「目標」の関係性を学習し、地図(認知地図)が形成される(潜在学習)。


・目標指向的な行動

動物は、単に刺激に反応するだけでなく、目標(餌など)に到達するための最適なルートや空間的関係性を頭の中で把握し、それに基づいて行動する。


・媒介変数(Intervening Variables)の導入

刺激(S)と反応(R)の間に、「認知地図」や「期待」といった観察できない内部の認知的プロセス(媒介変数)が存在する。


・実験的証拠

ラットを使った迷路実験などで、報酬がなくても空間を学習し、後にその知識を行動に活かすことを証明し、この概念を支持。

 
・具体的な例

初めて訪れた街で、地図を見なくても何度か通るうちに頭の中に道のりや目印(交差点、建物など)のイメージができ、迷わずに目的地にたどり着けるようになること。 


という非常に古い心理学の考えですが、教育としてとらえると、


学習者が「単なる知識の暗記」ではなく「構造化された理解」を形成する


ということに近く、教授方略としては、まず全体をある程度把握し(しなくてもいい)、個々の課題を順番や前提など関係なくこなしていく「Task-Centered Instruction(課題中心型インストラクション)」と親和性が高いように思います。


(共通した部分)


・構造的理解を重視


>認知地図:学習者が環境や概念の関係性を内的モデルとして構築。

>TCI:課題を通じて、知識を実際の文脈で結びつけ、意味のあるネットワークを形成。


・探索・問題解決を促す


>認知地図:ラットの迷路実験のように、試行錯誤で環境を理解。

>TCI:学習者が課題を解決する過程で、情報を整理し、関連性を発見。


・転移(Transfer)を重視


>認知地図:一度形成された地図は、新しい状況でも応用可能。

>TCI:実際の課題に基づく学習は、現実世界での応用力を高める。


・学習者主体の構築


>認知地図:学習者が自分で地図を作る。

>TCI:教師は課題を提示するが、解決のプロセスは学習者が主体。


といった感じでしょうか?


「構造化された知識形成」というのは大重要課題です。


TCIは学習者自身が意識せず最終的にトータルな知識・スキルを身に着けるという方略であり、認知地図を構築させるにはとてもいいように思います。


ただ、TCIには時間がかかることや、トータルなデザインを作成するには高度な能力(?)が必要なため、ほとんど取り入れられていないという事実もあります。


学校教育において「探求学習」などやるのは時間のムダだと思っています(目的が違うので)が、企業の研修や継続的な教育においては、本来はTCI的なインストラクションが今後もキーとなるように思います。


他社より一歩でも先を行きたい、そのために社員の知識・スキルを上げたい、、と本気で思うのであれば、このあたりを学び、取り入れる必要があるのですが、、、、そんな経営者はこの国にはいないでしょうね・・・

 

国立大学長の素養の変容について

今回は、「国立大学長の素養の変容について」 というテーマで考えてみます。

 

「国立大学長の素養の変容について」


昨今の国立大学の迷走状態を見ていると、どう考えても


「経営・運営をする素養のない人がトップに立ってしまっている」


としか思えません。


この ” 素養のなさ ” を最も顕著に露呈したのが、東大の総長による「学費(授業料)の値上げ」ですね?


規定としては、確かに


” 標準額(年額53万5800円)の1.2倍(約64万2960円)まで引き上げが可能 ”


とされています。


国立大に国から配分される金額が大幅に減らされ、運営に行き詰るという背景は誰でもが理解できます。


しかし、それを直接学生に押し付ける、、、というのでは、” 国立 ” の意味がありませんし、本末転倒としか思えません。


私立と違って、国立の大学は、


「国の教育、人材育成の要であり、国力を上げるための機関」


であると思います。


極論を言えば、私立大学の授業料が年間1000万円になったとしても、行きたい人(行ける経済力が親である人)は行くでしょうし、それはそれでいいのではないでしょうか(フェラーリが欲しくて、買える人は買えばいい、ということと同じです)?


国立大学の場合は、それでは困るのです。現在の50万以上の授業料というのも高すぎると思いますし、


” 親が裕福であるか、そうでないかにかかわらず、学びたい人が、学びたいことを学べる場所 ”


として、国立大、公立大は存在する。それが本来の姿だと思うのです。


東大総長の思いの中には、「東大が上げれば、他の国立大も授業料を上げることが容易になるだろう」という、 ” 間違った優しさ ” もあったのかもしれませんが、そこには ” 学校の主役 ”であるはずの、 ” 学生 ” の姿が全くないのです。


案の定、地方大学においても授業料の値上げがいくつも提案され問題となっています。


何が言いたいかというと、本題である ” 国立大学長の素養 ” の問題です。


国立大のトップである学長は、通常は、教授から副学長とかを経てなるのだと思います。


殆どの人が専門分野の研究者であり、博士様だと思います。


これは、大学の教育が「教育の専門家」ではなく、「教科分野の研究者」であるという状況と同じです。


工学、医学、薬学、理学、、、の専門家は、大学という組織、機関を運営・経営する専門家ではない

 

ということです。


これまでは、その大学を代表するような立場を重視して、各専門分野で実績を上げた第一人者みたいな人が国立大学のトップになっていたわけです。


国からの投資(運営費交付金)が普通に大学運営をできるだけの金額であった時代には、確かにその方がよかったのかもしれません。


しかし、法人化に伴い、運営費交付金を大幅に減らされ、ここ20年くらいで、まったく首が回らなくなってしまった状況(経営)を改善するには、、、となって、


「とりあえず、学費(授業料)を上げよう」


という愚かな発想になったわけです。


これを営利企業のトップだと考えると、従業員の給料・ボーナスを下げ、リストラを行い、、、買収してくれる会社を探す、、、倒産、、、。


つまり、経営者としての ” 素養 ” がないということです。


それはそうですね、もともと経営など何も興味がなく、学んだこともない人が学長となって大学を運営する立場になっているわけですから、、、


ほんの少しでも、経営の素養がある人が学長になれば、他大学を思いやることなどどうでもよくて(同業他社の経営を心配するのと同じ)、


・国を動かし、運営費交付金を元どうり(できれば元以上)に戻してもらう方略

・企業からの投資を増やす方略

・富裕層からの寄付方略


などを、まずは考えるはずだと思うのです。


今後の国立大学のトップには、研究の成果実績などではなく、先生様や博士様や教授様ではなく、 ” 機関を運営・経営していける素養のある人 ” が就任するべき時代になってきたのではないかと思うのです。


勿論、それにプラスして「教育」「学習」「学習者」を重視する人であればいいですが、とりあえずは、 ” The 経営者 ” みたいな人を各国立大学は学長にしてみたら、 ” 授業料を上げる ” などという愚策はまず出てこないと思うのです。

 

「痩せた豚よりも、肥ったソクラテスになれ」という現代教育

今回は、 ”「痩せた豚よりも、肥ったソクラテスになれ」という現代教育 ”  というテーマで少し考えてみます。

 

「痩せた豚よりも、肥ったソクラテスになれ」という現代教育



「肥った豚よりも痩せたソクラテスになれ」


という、昔の東大総長が卒業式で言ったとか言っていないとかのコトバ(原稿には書いてあったが実際には読まなかったそう)が拡散されて映画のセリフや、様々な本にも載っています。


このコトバは、元々、J.S.ミルの、


「満足した豚であるより不満足な人間である方がよい。満足した愚者であるより不満足なソクラテスである方がよい。そして愚者や豚の意見がこれと違っていても、それは彼らがこの問題を自分の立場からしか見ていないからである」

” it is better to be a human being dissatisfied than a pig satisfied; better to be Socrates dissatisfied than a fool satisfied. And if the fool, or the pig, are of a different opinion, it is because they only know their own side of the question. ”


であったようですね?


これを誤って解釈したというのが定説のようになってますが、格言というか贈る言葉としては、「肥った豚よりも痩せたソクラテスになれ」の方がインパクもあっていいようにも思います。


このコトバの元ネタを記した J.S.ミル は、1806年に生まれて、1873年に亡くなっていますから、今から150年も前の人です。


以前、 ” 積読 (つんどく) のススメ Part 5 ~ ブログ 500回 投稿記念 ~” で取り上げた「大学教育について」をじっくりと読んでみたのですが、理想的な「大学教育」についての J.S.ミル の考えは、この知性も倫理もほとんどない荒廃した現代に生きる教育関係者全てに是非読んでほしい、、、と思うくらいの内容でした。


教育分野では、同じ哲学という範疇で括られるジョン・デューイの方が圧倒的に有名で、J.S.ミル の教育について語られることはあまりないようにも思いますが、大学については 150年前のイギリス(スコットランド?)の教育の方が現代の大学よりも考え方としては数百倍優れているように思います。


「大学教育について」は J.S.ミル がセント・アンドルース大学の名誉学長就任の講演の内容で、それが1冊の本になるくらいですから、2~3時間の超ロング講演であったそうです(現代にこれをやったらみんな寝てしまいますね?)。


この講演で、 J.S.ミル はそれぞれの履修科目について細かく語っており、その内容は全てが全て共感できることではないのですが、それでも現代のどこの大学の学長が語ることなどより余程ためになる真実があります。


大まかにいえば、 J.S.ミル は、大学教育では、


「知的教育」:専門の知識と知的能力の訓練

「道徳教育」:良心と倫理道徳的能力の訓練

「美の教育」:芸術・美術(詩、絵画、彫刻等)


の3つを徹底的に習得するということを説明しています。


前回この本を取り上げた時には、「道徳教育」「美の教育」については現代のリベラルアーツ的な内容なので、今一つ同意できない、、、などと記したのですが、専門的学習がメインであることは変わりようがありませんが、やはり若干のリベラルアーツ的内容、特に「道徳・倫理観」の学習は必要であるのだろうという考えにだんだん変わってきました(いつもいい加減です)。


「肥った豚よりも痩せたソクラテスになれ」には誤解があると、今から10年前の東大卒業式で当時の総長が説明した内容の中で、


「肥ったソクラテスになればいいじゃないか」「タフでグローバルなソクラテスになれ」


なんていうことを言っているわけです。


この内容を読んで、もう10年も前から「大学教育」は終わっていたのだなぁ、ということを実感した次第です。この東大総長のコトバのどこに知性があるでしょうか?


しかし、 J.S.ミル やその他の教育者などがはるか昔に問題・課題だとしていた学校教育が、現代においてもほとんど何一つ改善されていない(学ぶ内容はおそらく何百倍も高度になっているとは思います)という事実には希望の欠片さえ見えませんね?


現代の人々は、


「痩せた豚よりも、肥ったソクラテスになりたい」


という思考が大半を占めているように思います。


とてつもなく偉いとされている大学の先生様の思考がそうなのですから、誰もが楽して「肥ったソクラテス」になりたいと思うのは仕方がないですね?


子供が YouTuber やインフルエンサーになってヒカキンのような生活をしたい、、、なんていう時代にしたのは、「大学教育」にも多くの原因があるように思います。


・「知的(専門)教育」はいい加減で誰もが適当にやれば卒業できる

・「道徳教育」などやらないし、やっても誰も真剣に学ばない

・「美の教育」などやっている余裕もない


こういうことが現代の「大学教育」です。


リベラルアーツ的な広範囲な内容を掻い摘んで、「コミュニケーション能力が一番大事!」などとやるのでなく、あくまでメインの「知的(専門)教育」は厳格に、しかし、同時に「道徳・倫理・芸術」についても習得できなければ卒業できない、、、、みたいな大学への移行というか、原点回帰しないと、今後も「肥ったソクラテス」を目指す世の中が続いて行くように思います。


「肥ったソクラテスというのは、ソクラテスではありえないし、 内容のない ” 擬き ” であり、具体的に例えれば、アメリカや多くの国の指導者や、巨大IT企業のCEOといったイメージです。


「道徳も倫理もなく、利益追求のためには他者はどうなってもいいという思考」


を、せめて「大学」では、

 

「それは違うよ」「少し考えようよ」

 

と、立ち止まらせる必要があると思うのです。

 

「ライバルを想定した学習」からの「自己競争学習」

今回は、 ” 「ライバルを想定した学習」からの「自己競争学習」 ”  というテーマで少し考えてみます。

 

「ライバルを想定した学習」からの「自己競争学習」


少し前に記した、「学習における ” 赤の女王仮説(Red Queen's Hypothesis) ” の競争概念」 の続きのような内容です。


最近は少なくはなりましたが、昔は「ライバル」がいることは素晴らしいことで、「ライバル」に負けないようにお互いに日々切磋琢磨する、、、みたいなテレビドラマや映画などが多くありました(最後はライバルと握手、、)。


そこで、「学習」においても、実際に「ライバル」となる人がいない場合でも ” 仮想  ” 「ライバルを想定した学習」をするということを推奨する考えがあります。


(ライバルを想定することの心理的効果)


・競争心の刺激

ライバルを設定することで、学習者は「負けたくない」という感情を持ち、モチベーションが高まり、社会的比較理論に基づく現象で、他者との比較が自己評価や努力量に影響する。


・目標の明確化

ライバルの存在は、抽象的な「頑張る」から、具体的な「相手より良い成績を取る」という目標に変わり、行動計画が立てやすくなる。


(成果)


・短期的な成果

ライバルを意識した学習は、集中力や学習時間の増加につながり、短期的な成績向上が期待できる。


・長期的な成果

過度な競争はストレスや燃え尽き症候群を引き起こす可能性があり、長期的には、ライバルを「敵」ではなく「刺激を与える存在」として捉えることが重要。


(条件)


・適度な距離感

ライバルが近すぎるとプレッシャーが強くなり、逆に遠すぎるとモチベーションが下がる。自分より少し上のレベルの相手が理想。


・ポジティブな比較

「勝つこと」だけでなく、「学びを深めること」を目的にすることで、健全な競争が維持される。


(実践例)


・学習アプリやオンライン講座で「ランキング機能」を導入する。

・チーム学習で「ペア競争」を取り入れる。


というようなことです。


こういった考えは、心理学、教育学、教育工学の考えに合致していて、有効であるように思います。


特に「学習」の ” とっかかり ” としてはそれなりにいい方略だとは感じます。


しかし、それだけを維持してしまうと、結局は「学習」が「勝った負けた」の勝負論になってしまいます


「ライバルを想定した学習」が継続していくためには、「ライバル」と同じレベルで上昇していくということ思考が必要になりますが、人間の心理としてはそれはなかなか難しいものがあります。


学校で「ライバルの Aくん が10番で、ボクが8番だった!」とか、会社では「同期の Bさん は係長のままだが、私は課長に昇進した」などとなって、つまらない勝負論を容認し、その後の「学習」に悪影響がでることも多々あります。


そこで、最初は「ライバルを想定した学習」からスタートしたとしても、” ある時期 ”「自己競争」に切り替える必要がでてきます。


(自己競争学習)


「他人ではなく過去の自分をライバルにする」という思考。


・スコアや成績の更新

例:前回の模擬試験で80点だったなら、次回は85点を目標にする。

ポイント:目標は「前回より少し上」を設定することで、達成感と継続性を両立。


・時間管理の改善

例:昨日は英単語を30分学習した → 今日から35分に増やす。

ポイント:学習時間や集中時間を少しずつ伸ばすことで、負荷を調整。


・スキルの段階的向上

例:プログラミングで「昨日はfor文を理解」→「今日は関数を使ってコードを書く」。

ポイント:過去の自分ができなかったことをできるようにする。


・習慣の記録と比較

例:学習アプリやExcelで「1週間の学習時間」を記録し、先週より増やす。

ポイント:視覚化することでモチベーションが上がる。


・タイムトライアル

例:昨日は数学の10問を20分で解いた → 今日同じ問題を18分で解く。

ポイント:スピードと正確性を両方意識。


という方略です。


最初から「自己競争学習」を推奨する人もいますし、勿論、それができればいいとは思うのですが、モチベーションコントロールが難しいですね?


特に企業内教育などでは、業務がメインであり、正直なところプラスの「学習したい!」という考えを持つこと自体が少ない(大学を出た後に「学習(勉強)」などしたくない、、、という)状況においては、


「ライバルを想定した学習」からの「自己競争学習」


緻密にデザインして移行させることができるかどうかが、企業内教育のポイントになるのではないでしょうか(難しいですけど)?


ただ、たまに町で見かける「自分越え」のTシャツを着ている人には少しひいてしまいます、、、、


などと、コーヒーを淹れながらふと思った次第です。

 

<悲しい書籍問題> ” 参考書 ” を買うか、それとも ” 問題集 ” を買うか

今回は、「 <悲しい書籍問題> ” 参考書 ” を買うか、それとも ” 問題集 ” を買うか 」 について少しだけ考えてみます。

 

<悲しい書籍問題> ” 参考書 ” を買うか、それとも ” 問題集 ” を買うか


学校の勉強で、受験対策で、本来は教科書(テキスト)だけですべて完結すればそれはそれでいいのですが、実際には殆どの学習者がそれぞれの科目の「参考書」もしくは「問題集」を購入します。


生徒、学生のいる家庭では、一時期「参考書」「問題集」の山が作られているのではないでしょうか?


しかし、「参考書」「問題集」というのは、大概その役割(テスト、入試)が終われば捨てられてしまう非常に ” 悲しい書籍 ” です。


最近では、ネットでその代わりができることも多いので、紙の「参考書」「問題集」の需要は減っていると思います。これはレコード、CDからストリーミングに殆どが移行してしまった音楽状況と同じかもしれません。


ストリーミング、サブスク、電子書籍については、どうしても ” モノそれ自体を持っていたい ” という(私のような)古い人間とは違って、現代を生きる若い人たちはとても合理的、効率的であると思います。


とはいえ、本屋に行くと昔と何も変わらずそういった関連の書籍は非常に多くの棚を埋めています。


やはり、受験テストといった切羽詰まった状況下においては、減ったとはいえいまだに紙の「参考書」「問題集」を必要とする人は一定数いるのでしょう。


物価の上昇にプラスして、紙の本が売れない今の時代に、個々の価格が上がってしまうことは仕方がないのかもしれませんが、ここ10年くらいの紙の本の価格上昇は限度を超えてしまっている、、、ような気もします(特に文庫本)。


と、愚痴はこれくらいにして、その人の ”経済 ” と、 ” 時間 ” 複合的な条件において、確実に捨てられる運命の ” 悲しい書籍 ” である、


” 参考書 ” を買うか、それとも ” 問題集 ” を買うか?


という問題があります。


両方買えて、両方消化できるのがいいのでしょうが、どうしても選択せざるをえない場合があります。


その際に、さてどちらを選ぶほうが効果的・効率的であるか? には当然所説ありますし、個々の状況にもよるでしょうが、一般的に、


(参考書を選ぶべき場合)


・基礎理解が不十分

まず概念や理論をしっかり理解する必要があるとき。


・体系的に学びたい

全体像を把握しながら進めたい場合。


・「なぜそうなるのか」を知りたい

単なる暗記ではなく、背景や理由を理解したいとき。


(問題集を選ぶべき場合)


・基礎は理解しているが定着していない

実践を通じて知識を使えるようにしたい場合。


・試験対策が目的

出題形式に慣れたい、時間配分を練習したいとき。


・アウトプット重視

「わかったつもり」を防ぎたい場合。


といった感じで扱われるようです。


多くの学校教育(小中高)においては、テストや入試をゴールとしている内容が多く、そういった面を考えると、もしどちらか一方を選択せざるをえないのであれば、


「問題集」の一択


になるように思います。


確かに「参考書」は教科書と違ったアプローチや周辺・背景情報などが記されているでしょうから、理解しやすいと考える人もいるのかもしれません。


しかし、大元となっている必要な内容は教科書に載っているのではないでしょうか?


教科書を見てもわからない、、、という人は、その同工程の「参考書」を見てもわからないことも多いと思います。


一方、「問題集」はというと、残念ですが殆どが ” 記憶 ” の強化および定着という用途です。


このことは、いつも推奨している公文式を考えれば理解できます。


公文式 ” は、とにかく問題を解いて満点であれば、次の工程に進むという方式です。


そのことを ” 理解 ” とよぶのか? という批判も当然のように多くありますが、方略としては何も間違ってはいない、、、というより、対目的に関しては相当に(というより絶対的に)効果的・効率的だと思います。


ということで、

 

経済的、時間的にどうしても選択をしなくてはいけない状況になれば、小中高の場合には、「問題集」を買った方がいい

 

ように思っています。


勿論、これが大学での学習においては、本来は全く当たらないということは誰もが理解できると思います(何のために大学へ行くのかという問題ですね?)。


嘗て私が学生であった数十年前には、定期テストの前になると学校の門の前(校内ではない)に、 ” 過去問を売る簡易店舗 ” などができていて、それを買って乗り切る、、、みたいなとんでもない時代がありました(今は、ネットで共有したりしているんでしょうが、、、)。


ほんとに本末転倒なダメ学生でした、、、

 

学習における ” 赤の女王仮説(Red Queen's Hypothesis) ” の競争概念

今回は、「学習における ” 赤の女王仮説(Red Queen's Hypothesis) ” の競争概念」 というテーマで考えてみます。

 

「学習における ” 赤の女王仮説(Red Queen's Hypothesis) ” の競争概念」


経営マーケティングの文脈で、赤の女王仮説(Red Queen's Hypothesis) ” がよく語られることがあります。


赤の女王仮説:Red Queen's Hypothesis)


進化に関する仮説のひとつ。

「他の生物種との絶えざる競争の中で、ある生物種が生き残るためには、常に持続的な進化をしていかなくてはならない」という仮説。

敵対的な関係にある種間での進化的軍拡競走と、生殖における有性生殖の利点という2つの異なる現象に関する説明。

進化生物学者であるリー・ヴァン・ヴェーレンによって1973年に提唱。

「ヴァン・ヴェーレンの法則」「赤の女王競争」「赤の女王効果」などとも呼ばれる。

ルイス・キャロルの小説『鏡の国のアリス』に登場する人物で、彼女が作中で発した「その場にとどまるためには、全力で走り続けなければならない(It takes all the running you can do, to keep in the same place.)」という台詞から、種・個体・遺伝子が生き残るためには進化し続けなければならないことの比喩として用いられている。


ということですね。


赤の女王仮説を持ち出すコンサル研修業者はとても多い実感があります。


” 企業競争 ” の中で、


「その場にとどまるためには、全力で走り続けなければならない」


というのは、おそらく真実でしょうし、経営者としては誰もが「そうだ」というでしょう(そして意味のないコンサルに無駄金を払い続ける)、、、


このことは「学習」にも共通したことであり、「学びをとめない」とか「学び続ける」といったトレンドの元ネタ(?)になっているような気もします。


ただ、そういったことを言う人の考えには、企業経営と同じで「他者との競争」という概念をバックグラウンドとして持ち込んでいることが多いように思います。


(他者との競争としての学習における意味合い)


環境や基準が常に変化するため、学び続けなければ現状維持すらできない。

他者も学び続けているため、自分が止まると相対的に後退する。

努力して学んでも「前進」ではなく「現状維持」になることもある。


(他者との競争としての教育方略)


・継続学習を前提とした仕組みづくり


マイクロラーニング:短時間で学べるコンテンツを定期的に提供し、学習を習慣化。

ラーニングカルチャーの醸成:「学びは業務の一部」という文化を組織に根付かせる。


・変化に即応するアジャイル型教育


最新トレンドを即座に反映:技術や市場の変化に合わせて教材をアップデート。

スキルギャップ分析:定期的に社員のスキルを評価し、必要な学習を迅速に提供。


・競争的・協働的な学習環境


社内ラーニングコミュニティ:知識共有やディスカッションを促進。

ゲーミフィケーション:ランキングやバッジで学習意欲を維持。


・「学び方を学ぶ」能力の強化


メタラーニング:自分に合った学習法を理解し、効率的に学べる力を育成。

自己調整学習:目標設定・進捗管理・振り返りを支援するツールを導入。


・評価指標の再設計


静的な知識テストではなく、適応力・更新力を評価。

 

学び続けること、学びを ” 習慣化 ” すること、新しい内容にチャレンジすること等は非常に重要なことだとは思います。


しかし、「他者との競争」の概念を「教育」や「学習」に求めることはどうも違う感覚があります。


勿論、現在の中学・高校・大学などの入試というモノは、 ” 他者との競争 ” になっている現実がありますから、仕方がないことだとは思います。


青臭い本質論を述べると、本来の「学習」は ” 自分のためのモノ ” であり、 ” 他者との競争 ” をして勝った負けたなどというモノではないはずです。


たとえ ” 選別 ” の入試であったとしても、インストラクショナルデザインや、多くの教育理論が述べている、


相対評価ではなく絶対評価


とし、基準とした合格レベル(前提知識)があるのであれば、そのレベルを超えた人はすべて合格とすることが求められます。


そのことがわかっている(?)はずの学校が、安易に相対評価をしてしまっているということは非常に残念なことです。


嘗てのように受験者数が膨大であり、相対評価で選別をしなければ学校運営ができない時代ではすでになくなってきているように思うのですが、、


こういった旧来からの文脈や構造のせいで、赤の女王仮説などを持ち出して、未だに「他者との競争」を煽るのではなく、せめて「競争」を煽ることが有効だと考えるのであれば、


「昨日の自分と、今日の自分と、明日の自分」


「競争」を煽ってもらいたいものです。

 

「60点」で出して、フィードバックを貰う「仕事が早い人」 の行く末

今回は、< ”「60点」で出して、フィードバックを貰う「仕事が早い人」  の行く末 ” > というテーマで考えてみます。

 

< ”「60点」で出して、フィードバックを貰う「仕事が早い人」  の行く末 ” >



昔からビジネス(書)関連の神話(?)的方略として、またコンピテンシー関連の(いい加減な)文脈において、


”  仕事が早い人の特徴 ” として、


「最初から完璧を目指さず、60点くらいでまず出して、フィードバックを貰うことにより、その仕事は完璧に近づき、早く終えられる・・・」


という ” 戯言 ” を信じきって疑わない人たちがいます。


これを実践すると、

 

自分には「能力があり」、「デキル奴」「シゴデキ」などと完全に誤解してしまう

 

ように思います(実際、このようなことをやる人を何人も見てきましたが、これまで高く評価したこともありませんし、少し考えれば誰でもわかることですね?)。


「フィードバック重視」「失敗から学ぶ」ということの弊害もあるでしょうし、「生成AIの普及」、「タイパ思考」の流行も関係していると思います。


もしかすると、ある種の「仕事」においては ” スピード ” だけが第一に求められ、その精度や品質は問われない、、、という ” やっつけ仕事 ” もあるかもしれません。


それでも、そういうことをやっていると、


「仕事が早い ” だけ ” の人」


と認識されるだけで、その仕事自体も、


「早いだけで何の重要性もない仕事」


しか、その後も与えられないように思います。


つまり、目指したはずの「能力があり」、「デキル奴」「シゴデキ」には永遠になれないわけです。


最近では、「学習」においてもこのような方略を取り入れてしまう学習者が多くなっていて、大きな問題にもなっています。


以前にも記した、大学のレポートなどを「生成AI」をコピペして素早く提出し、フィードバックされた内容をまた「生成AI」に投げて、、、、というようなことが代表例ですね?


しかし、ここで考えないといけないことは、


「生成AI」も「フィードバック」も自分の能力ではなく、また答えでもない


という事実です。


何度も何度も記しますが、インストラクショナルデザイン主要な教育理論の考えは、


「完全習得学習」であり、「学習目標」を達成すること


です。


「生成AI」も「フィードバック」も自分の能力ではないので、「完全習得学習」もしていませんし、「学習目標」も達成できません。


また、「タイパ」というのも、


「かけた時間に対して得られる満足度や効果の高さ」


でしょうから、誤った満足感は得られるかもしれませんが、「効果」としては何もありませんね?


単純に「単位を得るため」だけが目標なら、まぁ、それはそれで理にかなっているようにも思いますが、、、(こういう人が多いことはわかってはいますが、、)。


いまさら何を、、と言われそうですが、なぜこんなことを冬の寒い日に考えたかというと、ウォーキングの途中でランダム再生している音楽で何年かぶりにサヨナラCOLORを聴いて、、、、


” 楽がしたかっただけなの? ”


の歌詞で足が止まってしまったのです、、、


「仕事が早い ”だけ ” の人」になりたくない人、


何かを「学びたい」と思っていた人にむけて、、、

 


サヨナラCOLORSUPER BUTTER DOG


そこから旅立つことは
とても力がいるよ
波風立てられること
嫌う人ばかりで

 

でも 君はそれでいいの?
楽がしたかっただけなの?
僕を騙していいけど
自分はもう 騙さないで

 

サヨナラから 始まることが
たくさん あるんだよ
ほんとのことが 見えてるなら
その思いを 僕に見せて