
画像引用元: 映画.com『九月と七月の姉妹』フォトギャラリー(画像14) より引用
(C)Sackville Film and Television Productions Limited / MFP GmbH / CryBaby Limited, British Broadcasting Corporation, ZDF/arte 2024
(原題:September Says / 2024年製作 / 2025年日本公開 / 100分 / アリアン・ラべド監督 / アイルランド・イギリス・ドイツ合作)
※本記事は映画『九月と七月の姉妹』のネタバレを含みます。また、記載されている考察・解釈は筆者個人の見解です。
Filmarksの試写会に当選し鑑賞。トークショーには山崎まどかさんが登壇され、高校時代に著書を愛読していたこともあって感慨深かった。監督のアリアン・ラベドはこれが初監督作で、『ロブスター』や『アルプス』『アッテンバーグ』などでは俳優として活躍している。
あらすじ
舞台はイギリスの小さな町。姉セプテンバーと妹ジュライは、10か月違いで生まれた年子の姉妹である。学校では二人とも変わり者だといじめられながらも、互いだけが唯一の拠り所になっている。ファッションデザイナーの母シーラは娘たちに寄り添おうとするが、何度も停学になるセプテンバーへの恐怖を抱え、カウンセリングを受けるなど不安を抱えている。
ある日、学校でトラブルが起き、家族は海辺の田舎の今は亡き父の家へ引っ越すこととなる。引越し後の姉妹の関係は次第に共依存の色を濃くし、愛情と破壊衝動が入り混じる奇妙な儀式のような遊びが加速していく。
死の匂いが漂う姉妹関係
セプテンバーは支配的で、傍から見るとソシオパスのような性質を持つ。それは対外的にはジュライを守るためでもあるのだが、クラスメイトの髪をいきなり切ってしまったり、ジュライがカミソリで指を切ったら自分も同じように指を切り「私が死んだらあなたも死ぬ?」「私とあなた、どっちかが死ぬとしたら、あたしの代わりに死ぬ?」と言ったりするため、画面には常に緊張感が漂っている。これは10代の少女特有の自殺や自傷願望的な不安定さが表れているとも言える。この要素にはソフィア・コッポラの『ヴァージン・スーサイズ』を想起させられた部分もあるが、ラベド監督は少女時代や姉妹関係を一切美化しないまま、どこか異質に、しかし現代性も維持することでリアルに見せることに成功している。
女性のみの世界の描かれ方
セプテンバーとジュライは脇毛を剃らないまま水泳の授業に参加し、他の男子生徒も脇毛が生えているにもかかわらず「清潔感が無い女はプールに入れない」と同性の同級生にからかわれる。他にも、母のシーラがナプキンが透けるショーツを履いて踊る姿や、オンラインでのカウンセリング時に上半身だけ服を着ている姿が映し出される。女性を理想化するのでもなく、過度に見世物的な狂気として描くのでもなく、女性の身体性のリアルや、女性だけの世界、母娘/姉妹の関係に潜む残酷さや支配関係、言わば「生」や「生活」そのものを淡々と切り取っている点が新鮮であり、私が今映画に求めている女性の描かれ方だと感じた。
奇妙なギリシャの波の系譜
姉妹が動物の声真似をしたり奇妙なダンスをしたりする場面は、ラベド監督が出演した『アッテンバーグ』を想起させる。『アッテンバーグ』では経験豊富な女性と、性に関心を抱き始める女性との関係が描かれているが、それは同級生のライアンに興味を持ち始め、周りが見えなくなり、自ら危険な行為に手を出してしまうジュライと、それをたしなめるセプテンバーの関係とも少し重なる。
本作は物語だけを見れば、より劇的なサスペンス演出、もしくはもっとファンタジックに寄った描き方も可能だっただろうと思う。しかしラベド監督はあえて淡々としたトーンを選び、その合間に大袈裟な身体の動きや異音、動物の声真似を差し込むことで、全編英語が流れる作品でありながら、どこか「奇妙なギリシャの波」の系譜を感じさせる作品になっていた。
姉妹の共依存
『シャイニング』の双子をオマージュしたと思われるオープニングの水色のワンピース姿からも分かるように、セプテンバーとジュライは同じワンピースを着せて写真を撮る母を含め周囲から「似た者同士」と見なされている(学校では二人そろってfreakと呼ばれいじめられている)。しかし接近して見ると二人の性格は全く異なる。それにもかかわらず、本人たちまでもその違いに気づいていないかのように互いへと閉じこもり、独自のノンバーバルのコミュニケーションを築き、特にジュライは自分とセプテンバーとの境界線を見失っている。その姿は恐ろしく、破滅の予感すら漂わせていた。
ラストについて
鑑賞中、私は「これはジュライがセプテンバーを殺して終わるのだろう」と予想していたが、実際には全く違うホラー的展開を迎え、大きな驚きを覚えた。(しかし、オープニングから『シャイニング』の双子をオマージュすることでホラーであることは暗に示されているなど、種明かし後に細部に伏線的な演出がなされていることがわかる)
もっとも、セプテンバーが死ぬという結末そのものは予想から外れてはいなかったが、その死によってジュライは自由にも解放にも至らない。むしろ自分より強く、憧れていたセプテンバーの存在が彼女の内側に侵入し、本当に死んだのは自分の方で、今生きる世界は偽物ではないか、とジュライにさらに深い苦しみを抱いているように見える。
この結末は、この種の物語において新鮮に感じたと同時に、年の近い姉妹における他者には理解しがたい愛憎や共鳴、そして自分より力のある人間に従属することに起因するアイデンティティの喪失を鮮烈に浮かび上がらせるものであった。
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