
画像引用元: アイム・スティル・ヒア - 株式会社クロックワークス - THE KLOCKWORX より引用
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(原題:AINDA ESTOU AQUI(英題:I'M STILL HERE) / 2024年製作 / 2025年日本公開 / 137分 / ウォルター・サレス監督 / ブラジル・フランス合作)
※本記事は映画『アイム・スティル・ヒア』のネタバレを含みます。また、記載されている考察・解釈は筆者個人の見解です。
あらすじ
1970年代、軍事独裁政権下のブラジル。ある日、元国会議員のルーベンスが自宅から突然連行される。残された妻・エウニセと子どもたちは、理由も告げられぬまま日常を奪われ、幸せそのものだった家族の形が徐々に崩れていく。
家族の視点から描く軍事国家権力の恐怖
本作の特徴は、軍に連行されたルーベンスの行方や政治状況を“外の視点”ではなく、妻・エウニセの目線に絞って描いている点だ。観客は、家庭の外で何が起きているのかをほとんど知らされず、テレビの報道からわずかに時代状況を知るだけである。
その代わりに、軍事国家が「国を守る」という大義名分のもと、思想に反する者を「非国民」として排除し、不当に声を奪っていく様が、日常の隙間から滲み出す。軍隊が「抗議運動する奴らは叩きのめせ」と掛け声をあげながら訓練する場面は、その歪な苛烈さを象徴している。
エウニセを演じるフェルナンダ・トーレスの演技
フェルナンダ・トーレスは、子どもたちに余計な不安を与えないよう日常を保ちながら、夫の所在や拘束の真相を探り続けるエウニセの苦悩を、静かに、しかし確かな存在感で体現する。
彼女が見せるのは、感情の爆発ではなく、所作や表情に滲む葛藤と無力感。拘束から解放された後、シャワーを浴びながら全身をスポンジで念入りに洗い流すシーンは、言葉を介さずに彼女の恐怖と絶望を伝えていた。
写真とタイトルが持つ意味
物語は、ルーベンスが失踪した1970年代、国からルーベンスの死亡証明書が発行された1990年代、そして認知症を患ったエウニセが暮らす2014年という三つの時代を行き来する。
それぞれの時代で家族は写真を撮り続ける。写真は「その瞬間、確かに家族がそこに存在していた」という証であり、笑顔のルーベンスはその中で永遠に生き続ける。突然拘束され、国家から「いなかったこと」にされた彼にとって、写真は揺るぎない存在証明だ。
こうしてタイトル『アイム・スティル・ヒア』(私はまだここにいる)の意味が際立つ。同時に、このタイトルは「こうした恐怖は、今もここにある」という含意も潜んでいる。これについては後述する。
撮影と音楽について
1970年代のパートは35㎜フィルムと、家族が撮影する8㎜フィルムを使い分けて表現される。父が拘束される前の海辺、ダンス、食卓など、幸福な日常がフィルムの質感とともに鮮やかに焼き付けられ、それらは同時に、もう二度と戻らない時間の輝きとして胸に残る。
また、随所に流れるポピュラー・ミュージックが、家族の心情や当時のブラジル社会を映し出す。エラズモ・カルロスの「É Preciso Dar um Jeito, Meu Amigo」をはじめとしたブラジル音楽の名曲が時代の空気と重なり、作品を単なる社会派ドラマにとどまらない、豊かな映画体験へと押し上げている。
おわりに
本作はアカデミー賞で国際長編映画賞を受賞し、国際的にも高く評価されたのみならず、ブラジル国内でも大きな反響を呼び、興行的にも成功を収めた。その背景には、半世紀前の恐怖が再びよみがえるようなブラジルの政治状況がある。2019年から2022年まで政権を担ったジャイル・ボルソナロ大統領は、軍事独裁を肯定する発言や報道機関への圧力などで国際的な批判を浴び、本作が描き出す恐怖が「過去の出来事」ではなく「今まさに起こり得る現実」として観客に届いたというのだ。*1
そして、その恐怖は遠い南米の国だけの話ではない。報道や言論が抑圧される国、政治的弾圧が正当化される社会、分断が深まる世界情勢の中で、「私はまだここにいる」という声を上げ続けることの意味は重い。エウニセの静かな抵抗と記録の積み重ねは、過去を忘れず、未来に同じ過ちを繰り返させないための証言として響き続ける。
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