わたしを生きる手帖

月日神示学び始めました。- 感情と思考のメモ -

一歩前進

先日行った自然の中にあるカフェ



昨日、第一志望の企業から採用通知をいただいた。

これで無事、キャリアチェンジの転職活動が終わった。

 

これまでの中で、一番時間を要した転職活動であり、

かなりしんどく途中途中、不安に苛まれることもあったが無事終わった。

 

終わりが見えず、どんなに時間がかかってでも

「妥協だけはしない」というのが私自身とのお約束ごとだった。

元から自分自身を分析することは好きだったが、

今回はいつも以上に「自分が楽しく学び成長できる業界はどこか」など

あらゆるツールを使って精密に診断・分析し決めてきた。

「ここでいいや」ではなく、「ここなら」「ここがいい」という気持ちで。

 

私は転職回数が多いタイプで、

しかもこの歳で転職するとなるとこの国ではネガティブ視されることが多い。

この数ヶ月間、落ちることも多く私自身疲弊していることもあり

「自分には無理かもしれない」と自信喪失に陥った時期もあった。

だが、今回内定をいただいた会社様の最終面接を担当してくださった方から

採用通知書とは別で、お手紙のようなメッセージをいただいた。

メッセージには主に採用に至った理由などが書かれており、

そこには私の魅力であったり、私が活かせるスキルなど詳細に書かれていた。

 

先日書いた記事にも通ずるところがあるが、

自分がコンプレックスだと思っていた部分がある所では強みになっていたり

他者にはそれが魅力的に映ることもあるのだと改めて感じさせてくれた。

 

自分を過信しすぎてもいけないが、見くびってもいけないな、と思った。

 

転職回数が多いのは、

それは毎回、私の中でしっかりと「辞める理由」があり、想いがあった。

けれど、

いくら素直に理由を話したところで結局のところ真実は私にしか分からない。

小1時間で信頼関係は築かれないわけだし、

落ちても仕方ないなと受け止めるしかない。

 

そんな中で、

今回ご縁をいただいた面接担当の方は私の深い部分まで見てくださっている、

というふうに感じられた。

それは、面接の段階で感じていて、より一層素直にお話ししよう、と思えた。

言葉を取り繕うことなく、できるだけ自分の言葉でお話しさせていただき、

その日は本当に「話し切った」と思えた。

これまでの面接は反省することばかりだったが、その日は違った。

そしてその気持ちが届いたのか、ちゃんと伝わったのか、

今回、ご縁をいただくことができた。

 

未経験の業界に飛び込むのは、とても久しぶりで、

正直、楽しみよりも緊張というか不安の方が大きい。

けれど、せっかくいただいたご縁。

しっかり学び、成長し、一人前になっていきたいと思う。

 

とりあえず、また歳をとる前に決まってよかったと今は安堵感に浸っている。

 

他者の言葉

手作り檸檬シロップのプチギフト。友人に。

 

私という人間は基本、

自己完結型で自分の「したい」「したくない」に従いこれまで生きてきた。

 

幼少期〜学生時代は英才教育気味な母の機嫌を取り、

厳しいルールにも従うようにしてきたせいか、

物心ついた頃には「これからは何でも自分で決めていきたい」という

強い意志を持つようになりその頃から自分ファーストのスタンスを貫いた。

 

ただ、その中で思うことがある。

私は、これまで自分と沢山向き合い誰よりも自分を熟知していると自負している。

だけど、知人友人から言われる言葉に時々、ハッとさせられるのだ。

それは、『相手が知ってる私は知らない私』であったり。

「自分はこう思っていたけれど、意外とこういうふうに見られるんだ」という

だがそれは、一相手がそう思うだけであって、全ての人がそう思うとは限らない。

 

この他者の言葉、というのは私の性格を指すものだけではなく、

何かに対するアドバイスや助言そういったものも、だ。

 

「自分の人生を生きる」と決めた10代後半から20代前半までは

かなり頑固ではあったから誰の言葉も受け付けませんというスタンスだった。

だが、

他者の言葉で救われることもあるということを知ることになる。

 

他者の言葉で救われた例はいくつかある。

例えば、「その男はやめた方がいい」という友人に対して、

こちらはその男性が好きなので「何でそんなこと言うんだろう」とか

「何も知らないくせに」なんて思うが、徐々に相手の素性を知り、

「友人の言葉は本当だったんだ」と思い知ることになる。

ギリギリのところで別れられ、痛い目に遭わずに済んだこと。

 

自分が入社しようとしていた会社が、

実はブラックだったが周囲のNOのおかげで入社せずに済んだこともあった。

 

「自分には絶対に向いていない」と思い込んでいたことが、

相手からしたら「必要なスキルは持っているし絶対できる」と

押しに負けてやってみたらすごく楽しかったし向いていると気付けたり。

 

結局、選ぶのも決めるのも自分ではあるが、

選んで決める前に一度、他者の意見も聞いてみると良い、ということだ。

私がそういう人間だったから分かるが、

少しでも頑固さがあると人というのは他者の意見に最初は否定的であるのだ。

「貴様に何がわかる」というスタンスだ。

 

ただ、その頑固さや固定概念があるせいで、

幾つかのチャンスを逃したり、運の流れが停滞したりするものである。

 

スピリチュアルな表現をしていくが、

頑固さや固定概念はエネルギーが重いから停滞するのだ。

神様のような高次元の存在たちというのは、

素直(エネルギーが軽やか)な人にチャンスを飛ばす。

それに、他者を介してメッセージやアドバイスをくれたりもするのだ。

 

誰かとなんとなく話していたりする時に

ハッとさせられるようなことがあったり、

ある言葉が心に刺さったりする経験があると思う。

あれがそうだ、と私は思う。

それは、誰かとの会話の中だけではなくて、

何となく見かけた広告や、本の中の一節など。

ピンときたり、ハッとしたのならそれは今の自分に向けた言葉だ、と。

 

だから、積極的に聞きにいく。

その中でも最も大切にしたいことが一つ。

何かを始めようとしていたり新しい領域に進もうとしている時に

誰もかしこも『NO』と言った時は、立ち止まるようにしている。

この、誰もかしこものNOというのをものすごく大事にしていること。

 

これは、頑固な私だったら「私に成功して欲しくないんだ」というふうに

受け止めてしまうが、それは違う。

 

信頼している相手、自分をよく知っている相手からNOが出たら一旦考えること。

「今はタイミングじゃない」というメッセージの可能性もあるし、

こういう時のNOを無視して進むと詐欺被害など酷い目に遭ったりするからだ。

今の私はむしろYESより、NOを大切にしていたりする。

因みに私は、今のところ一度も詐欺被害などの痛い目には遭わずに済んでいる。

 

自分の中の「良い」を尊重し、進み続けることも大切。

選択するのも、決断するのも結局のところは自分自身だ。

だが、自分の内側に篭りすぎず、周囲の空気感や言葉もまた大切だ。

そのバランスさえ、取れるように意識すれば悪い方向には進まない。

 

これが、頑固だった私が学んだことだ。

 

淡々と

 

最近、日常の中で学んだことが一つある。

それは『淡々と』すること。

 

私は仕事に対してものすごいエネルギーを使ってしまうタイプである。

丁寧で完璧な仕事がしたいと思うあまり気が張っている。

誰かがルールを破ったり、サボっているところを見てしまうと

感情はかなり動いてしまうほうだ。

 

 

家事をしている時にふと「あ、今の自分、淡々としているな」と思う時があった。

家事をする時は、大抵何も考えずにただただこなしている。

それは、自分の空間を整えているから。

義務感などは一切なく、ただ、やる。

ストレスなども別にかかっていない。

掃除、洗濯、整理整頓、食器洗いなど気がついたら数時間経っている。

 

「面倒くさいな」と思う事もあるが、

結局、そんな中でも淡々とこなしている。

 

 

私は、この、淡々とこなすって良いなあと思った。

仕事に対してもこのマインドで取り組めるようになりたい、と。

改めて、言葉の意味を調べる。

 

 

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淡々と

感情を出さずに物事を落ち着いて進める様子

あっさりしている、ものごとにこだわらない

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仕事に対して熱心で生真面目なところが私の良さ、でもあるのだが

結構というかかなりの神経質で几帳面なタイプな上に

「丁寧に仕事をこなしたい」「完璧に」というマインドでは、

三者からはやりづらいと思われていても仕方がないだろうし、

私自身も結構、疲弊しやすくモチベーションが長続きしない。

 

やはりモチベーションを一定に保つ尚且つ長続きさせるためには

『淡々と』こなすことが一番であると結論付いた。

 

 

仕事も家事も毎日することであるが、

マインドの部分でこんなにも差があったとは…と今更になって気がついた。

この淡々とこなす癖をつけることで、仕事での疲弊度も減り、

モチベーションが必要な運動・筋トレも習慣化しやすい。

 

このマインドは私にとって、最強マインドだ。

 

整えるということ

私は日々の中で、とにかく自分を『整える』ということを大切にしている。

 

私は何かと影響を受けやすいタイプ。

空間(場所)、人などのエネルギーであったり、ストレスも溜め込めない体質ですぐに体調に出てしまう。

 

だからこそ、自分を整える時間や習慣がとても欠かせない。

 

とは言っても、特別なことはしていない。

私は日常の『基本』を意識して行っているのみ。その『基本』というのが生活リズムを崩さず、食事・運動・睡眠をしっかりすること。そして自分時間の確保である。

 

先月までは正社員として働いていた為、残業などで食事の部分が難しかったが、退勤後はすぐに帰宅し、30分ほどストレッチをし、日付が変わる前までには必ず就寝する。

普段の就寝時間は22:30〜23:00の間だが、起きる時間が早いので理想は21:30。

アルバイトに切り替わってから、「早めに行って仕事を」なんて事もなくなり、朝の時間は自由に使えている。

ここ最近は6:00〜7:00はジムに行き有酸素と筋トレをし、帰宅して朝食を摂り、軽く家事をした後にブログを書くという最高のモーニングルーティンができている。

 

食事はChatGPTに相談しながら、バランスの良い食事を心がけ、可能な限り同じような時間帯に、しっかり3食食べるという食生活を意識している。

私の中ではこの食事の部分がだいぶハードルが高かったが、日月神示を読むようになって『食』に対する意識・考え方も少しずつ変わっているからか気持ち的には楽になった。

 

という感じで、私はこの基本的なこと食事・睡眠・運動を日頃から意識して行うようにしている。

私の中で『整える』というのは、何か新しく取り入れる、というよりは『ゼロに戻す』という感覚のほうがしっくりきている。

 

少し話が飛躍するが、私たちには、自分を癒す力や何かを成し遂げる力(才)がすでに備わっていると思っている。あとは、自分自身がそれを引き出すのみであると思う。

磨くのも、引き出すのも、伸ばすのも、癒すのも本来であれば自分自身でできるということ。

その状態にするためにはまず『ゼロに戻す』のである。

まずは、自分の生活リズムを整える。自分にとって最適なリズムに整え、正しい食事をし、身体を動かし鍛えることでメンタルも安定する。

メンタルが安定すると、思考も定まり、正しい判断ができるようになる。

しっかり睡眠を取ることで、思考の整理が行われる。脳と身体が休まる。

 

このルーティンを今後も習慣にしたい。

今、私は2週間ほどこの生活をしているが、メンタルがかなり安定している。

 

今、私は、キャリアチェンジの活動もしているから多少のストレスはやはり伴ってしまう。

だからこそ、安定した精神状態を保つということは私にとって重要なことだし、このまま最後まで保てるようにしたいと思う。

キャリアチェンジや転職活動じゃなくても、私たちは普通に生活しているだけで無意識にストレスを溜めているから、やはり日頃から自分を整えることは大切だ。

 

 

自分に合ったライフスタイル

現在、私は雇用形態を正社員からアルバイトに切り替えて生活している。

 

仕事すること自体は好きだし、体の不自由が出ない限りは仕事をしていきたいと思っているが、何だか『仕事をするために休む』ような日々になっていくことに少し違和感を覚える。

 

私は26歳までフリーターとして接客サービス業をメインに色んな職場を経験した。

フリーターなので雇用形態はアルバイト。一応フルタイム勤務。

その頃は体力お化けだったので、朝から夜までハシゴするなどしていたが、休みたい時に休めるという大きなメリットがあった。

当時は『色んなことをやってみたい』という好奇心などもあり、ずっとフリーターでもいいなとすら思っていたのだが、コロナが流行しサービス業が大変なことになった。

 

 

収入源が無くなり、どうしようかと色々探していたら隣の県でオープニングスタッフ(正社員)の求人があり思い切って応募し、ご縁をいただいたので引っ越しをし入社を決めた。

正社員として働くのはそれが初めてだった。

サービス業ではあったものの、時間は固定制ではあったし、コロナ禍という事もあり残業は月に数時間程度。

その会社に入社する前までは、都内にある実家に住んでいたので、一人暮らしも初めてだった。自然に囲まれた環境という事もあり、私にとっては理想の暮らしだった。

5:30頃に起床し、支度と朝活を済ませ、8:00出社17:00退勤、21:30の就寝までは自由な時間がありかなりプライベートの時間が充実していた。

交友関係はかなり狭くなったが、その分飲み会など無駄な時間を過ごすことは一切なく、数ヶ月に一度都心に戻る程度だった。

 

そんな暮らしを1年間続けて、自分に合った環境、ライフスタイルがどういうものか、私の中の仕事とプライベートの最適な割合なども分かった。

自分に最適な生活リズム、ライフスタイルを確立するだけでストレスフリーに近い状態になる。

何より、当時の生活スタイルはリカバリーの時間も確保できていた為、精神的も身体的にも安定しやすい。

都会育ちだからか、そういう環境だったからか、自分が知っている大人たちは『朝から晩まで働くのが普通』だったし、忙しいことがデフォルトだった為、感覚が麻痺していたのもある。

都会から離れ自分に合ったライフスタイルを送っていく中で、麻痺していた感覚も徐々に回復し、一日中仕事で忙しい=充実という感覚に違和感を覚えた。

これまでは気がつけなかったことに気がつくことができて、改めて思い切って引っ越してまで入社してよかったと思った。

 

新たな職種を挑戦したいと思った事もあり、1年ほどで退職し都内に戻ってきて数年経つが私は初めて正社員になった時のあの暮らしが恋しい。

都内に戻ってくると、自分の理想的なライフスタイルを叶えるのは意外とできそうでできなかったりする。

だがどうしても実現したく、今はアルバイトに切り替えて、キャリアチェンジの活動をしている。

年齢的なものや未経験という事もありかなり茨な道ではあるが、私自身やはり自分のプライベートが確保できるような環境下で働きたいと思う。

『働くために休む』のではなく、『休日を充実させるために働く』というライフスタイルにシフトするために妥協はせずにしっかり活動していきたい。

 

 

スピリチュアルに対する考え方

 

私は、目に見えない力の働きはあると思っているタイプの人間だ。

いわゆる精神的なもの、スピリチュアルな考え方を持っているし大切にしている。

 

私は国外の生まれで、私が生まれた国はそういったスピリチュアルもの、霊的なものは日常的に、生活に溶け込んでいた。

例えば、宗教的で信仰心が熱いのはもちろん、占いも大半の人が信じていた。

天使や悪魔、妖精の存在も信じられており、今でもシャーマンは存在しているという。

 

 

人から「幽霊が見える」だとか、そういう霊的な力があると言われても「胡散臭い」と思わず、一旦は信じられるぐらいにはオープンだ。

 

私自身、霊を見たり幽体離脱をするなどの人生が大きく変わるほどの霊的な体験をしたことはないが、私の周りにはそういった人が多い。

例えば、私の母は予知夢のようなもの見る。これは、私が幼少期の頃から。

亡くなる人が、亡くなる前に母の夢に現れるという。それも、現れる時というのは、何もない無の空間でただそこに立っており、にこにこと笑っているだけ、という。

これはあくまで推測に過ぎないが、その人の魂が亡くなることを知っていて、そのことを知らせに挨拶に来たのではないか?

母がその夢を見た時というのは、夢を見た(数時間〜数日)後に、訃報のお知らせが来る。

それ以外にも母は不思議な夢を何度も見ているという。

 

あとは、知り合いにカードを用いた占いができる人がいて、その人の状態や今後を視ることができるというのだが、やってもらっていた人は後日「当たっていた」と必ず言う。

ただ、かなりエネルギーを消耗するらしく、占いをした直後から疲弊し寝込むのだとか。

実際、みんなで集まった時があり、占いができると言うことでその場にいた人が軽率に「やってよ〜」と占いができる人に言っていて、本人は「集まりを楽しみたいし、占いをすると疲れて寝込んでしまうから」と断っていたが、軽率な人間はそれを無視ししつこかった。

最終的には、場の空気もあって占いをしてしまったその人は、占いが終わったあとずっと体調悪そうにしていて結局すぐに帰ってしまった。

 

他の人のお話を聞いても、

そういった霊的な力を大なり小なり持っている人というのは、使った分だけ消耗するという。

このことから私は、「オーラが見える」などの霊的スキルがある人に出逢っても軽率に「視てよ〜」なんて言えない。

普段から使い慣れていたり、霊的スキルを磨き上げている人というのはちょっと使ったぐらいでは何ともないらしいが。

 

 

そういう環境で育ったという背景もあり、私自身スピリチュアルな価値観や考え方には抵抗がないどころか『普通』の感覚である。

スピリチュアル、というと結構幅広いが、私の中のスピリチュアルというのは前途でも述べたような占い、霊的な力も含め目に見えない何かの働きであったり。

宗教的な部分でいくと、私はかなりの神社好きだ。

神道や仏教など特定の宗教に所属はせず無宗教ではあるが、最近だと、日月神示を密かに信仰していたりする。

『神』や宗教に対する考え方については長くなりそうだからまた別で書こう。

 

 

今の時代の人たちというのは科学的根拠を求めたがり、「エビデンスが〜」などという人が多い。スピリチュアルな考えに対して否定的な人が多いように感じる。

特に日本において。スピリチュアルものはオカルトや都市伝説的な存在。

まあ、どのジャンルでもいいと思うが、私はもっと多くの人がスピリチュアルに対してオープンで、スピリチュアルな視点を持ってもいいのではないかと思う。

日本もかつては、かなりスピリチュアルな国だったはずだから。

例えば、呪術・霊的な職業だった陰陽師も国家レベルの重要なポジションであった。

現在で例えるなら、国家公認のスピリチュアル・天術・天文・災害対策の総合プロフェッショナル。

神様も数えきれない「八百万の神」と表現されているほどだ。

Chat GPT曰く、分類は5つに絞れるが、実際の数は数万〜数十万以上という。

つまり、日本は神様大国であるのだ。

 

 

科学が発展する前の時代というのは、目に見えない力や存在が大切にされていた。

だからこそ、その時代の人々は『感じること』が普通だった。感じることが大切にされていたその時代は『感謝すること』や『言霊』の概念も大切にされていた。

今は「弱肉強食」だとか「それが自然の摂理だ」と片付けられているが、

私たちのご先祖さまは命をいただく時も儀式が行われるほど、霊的存在や自然に対してかなりの敬意が払われていた。

私はその感覚が素敵だと思うし、もっと受け継がれる引きだったと思う。

 

もちろん何でもスピリチュアルっていうのも違うし価値観は様々だ。

ただ、科学が進むにつれ、私たち人間が大切にすべきものもどんどん失われていくような気がしている。

科学も大切だ。技術の発展など科学のおかげでいくつものことが救われたと思う。

ただ、世の中には科学的では説明がつかないような事もあるということ。

人間は知的な生きものだが、我々人間が目に見えている「世界」は、科学的に見ると全体の ごくわずか(およそ0.0035%以下)であり、実際、解明できていないことが星の数ほどある。

ということを忘れてはいけない。

 

私は、これからもスピリチュアルな概念や考え方・価値観を大切にしつつもしっかりと時に足をつけこの現実世界を生きていきたいと思うのだった。

自身に対する好奇心

私は面接の場であったり、周囲の人から「自分の気持ちを表すのが上手」「自分のことをよく分析、理解できていている」と言ってもらえることが多い。

 

少し前までは、あまりそうは思わなかったが、ここ最近は自分でもそう思うようになった。

 

何度か書いているが、私はとにかく自分の時間が好きで、自分の内側に浸ることが多い。

感じたこと、考えていることがあればすぐに書くなり残すようにしてきたし、自分の感情を押し殺したり閉じ込めるようなことはせず、何でも出すようにしてきた。

だからこそ、自分が今どんな状態なのか常に知っている。

そして、これまでの日記や思考・感情の記録は読み返して分析している。

 

そういう私にとって何気ない習慣というのが、自己理解につながって無意識に話していても第三者からすれば「思考が整理されている」というふうに感じてもらえるのだろう。

 

何より、私は【曖昧】が苦手である。

 

時には白にも黒にもならない事柄はあるし、そういったグレーな部分もまたそれはそれで良さがあるのだろう、と思う。

しかし、私自身の中でそのグレーな部分というのはあまり存在していて欲しくないのだ。

私は少しでもモヤっとするとすぐに整理したくなる、癖がついてしまった。

長年の習慣のせいか、おかげか、モヤモヤの正体をすぐに突き詰めてしまいたくなるのだ。だから、私は白か黒か、有りか無しか、0か100というのが基本である。

 

私自身の価値観や考え方はそれで良いのだが、

先ほども言った通り社会全体や組織全体には時折そのグレーな部分が必要なこともあったりする。

私自身、小娘だった頃はそういった柔軟性は無かったゆえ常にはっきりさせたい、といった性格ではあったが、社会に揉まれ色々経験し、分かったことがある。

グレーであるから救われることもあるし、わざわざはっきりさせなくても良い状況もある。

そして、「どっちでもいいや」という緩さも生きていく上では必要だったりする。

 

私は自分の価値観や考え方の部分ではしっかり白黒はっきりさせつつ、外部で起こる事柄や人とのコミュニケーションにおいては柔軟性と「どっちでもいいね♪」と言える緩さを兼ね備えていたいと思うのだ。

 

自分を一番に信頼し、固定概念ゴリゴリだった私が、こういうふうに思えるようになったこと自体、私の中では凄いことである。

社会に揉まれて、と言ったが決定的な大きな出来事があったとか「エピソードを語れ」と言われると少し考え込んでしまうが。

変な例えだが、料理みたいなものか、と思った。

煮込むほど具材が柔らかくなっていくように、パンはこねることで美味しくなるように。

私たちもまた、日常の中で、小さな変化を日々遂げているのだろう。

そして5年後10年後振り返ってみたときに気づく。

 

私はそれが楽しいのである。

本当は私はその小さな変化を一つ残らず拾って、意識的にちゃんと感じて、記録したい。

けれど、デジタルで例えるならば、私たちはきっと起動(普通に生活)している間に自動的にアップデートされることの方が多く、後日その通知が来る、みたいなシステムなのだと思う。

でも大事なのはやはり、人から頂いた言葉にしっかり耳を傾けることと自分を顧みることにあると思う。何もしなくても普通に生きているだけで価値観はアップデートされるとはいえ、意識的に行動することも大切なことであると私は思う。

そうしなければ、自分自身の価値観や考えに固執し、生きづらくなってしまうからである。

 

話は変わるが、

私のお気に入りの本の中に「思考は極力しないよう努力しましょう」みたいなことが書いてあったが、どうやらそれは私には難しいようである。

何故なら、私は私自身に対する好奇心が抑えられないからだ。

自分が今、何を考え、何を感じ、それが自分にどういう変化をもたらすのか。

ものすごく気になって、嫌でも考えてしまうから。

 

 

自分に気を遣う

 

私はかなりの自分ファーストである。

 

 

近年、「自分を大切に」「セルフラブ」といった言葉をよく耳や目にするが、

自分を大切にする方法っていうのは様々であると思うし正解はない。

私の場合、人に気遣うように、自分自身に気遣ってあげる。これが私の方法である。

 

例えば、

自分の大切な誰かが心ゆくままに食べていたら「病気など健康面、大丈夫かな?」と思い、「ほどほどにしてね」と言うはずである。

疲れていると知ったら、お湯を沸かしてリラックスさせてあげたくなるだろう。

そういう事だと思うのだ。

私たちは「誰か」になら気遣うことができる。その気遣いというのは思いやりの心からくるものである。

でも、自分のこととなると雑になってしまう。「こんなもんでいいや」という気持ちになる。

 

私の中では、セルフラブというのは自分を思いやることができ、気遣うことである。

自分自身のことは自分が一番知っている。

感情やメンタル面、身体的疲労の具合も。

日頃から自分に気を遣い、ケアしていくとより自分に対する理解度も深まる。

こうしたら私は嬉しいんだ、という積み重ねで自分の機嫌も簡単に取れるようになってくる。

自分を理解できるようになれば、自分がどういうことでイライラするのか、ネガティブな感情になるかも分かってくるから、阻止することだってできるようになる。

ネガティブになりやすいような関係性は断ち切るし、そういった環境も避ける。

身や精神を削るような悪習慣は多少リスクを背負ってでも無くす努力をした。

 

そうやって、常に自分ファーストで、気持ちや感情に常に向き合ってきたから対策法・対処法はある程度身についた。

 

私がこういう考え方になったのは、

私には私自身を疎かにしてきた経験があるからである。

 

自分よりも相手を優先したり、自己犠牲していた時期もあった。

「自分だけでは何もできない」「相手がいないと何もできない、不安だ」そういうネガティブなマインドで生きていた時期があった。

誰かと一緒にいないと楽しいと思えなかったり、笑えなかったり。

 

だが今は、そんな時期が嘘のような日々である。

人といる時間も楽しいが、私は一人の時間がこんなにも楽しい。なんでもできる!自由!と叫びたくなるほどに。

 

自分と向き合うっていうのは、最初は「孤独」との戦いである。

だけど一つ言いたいのは、「孤独」は悪ではないということだ。

孤独の意味を知り、孤独を超えた先に、自己愛に出逢い、一変する。

誰かを大切にしたり、愛したりするように、自分のことを大切にし愛すことができる。

そうなるともう、自分の感情や想いを無視するも誤魔化すこともできない。

 

親友や家族、恋人にするのと同じように自分に気を遣うことができるようになる。

 

 

これが私にとってのセルフラブであり、自分自身を大切にするということである。