第393話 『大鯨と神雷』
慶応三年一月八日(1867年2月12日)喜望峰沖
荒れ狂った嵐は二日後には収まり、何事もなかったかのような晴天である。日本艦隊は旗艦『知行』を中心に、洋上に停泊していた。
・大村藩海軍旗艦『知行』
・同型の二番艦『大成』
・同補給艦三隻
・幕府海軍『富士山』
・同補給艦『神速丸』
・薩摩海軍『翔鳳丸』
・長州海軍『|壬戌《じんじゅつ》丸』
・佐賀海軍『|孟春《もうしゅん》丸』
・土佐海軍『南海丸』
『大鯨』と『神雷』の姿はない。
「各々方、『大鯨』と『神雷』のえい航索切断はそれがしの判にございました。二隻は小舟ゆえ、漂流となりましてございます」
次郎は苦痛を押し殺している。
あの決断が本当に良かったのか、自問自答しつつ発議していたのだ。
「つきましては、この先の艦隊の方向(性)を決めるべく、発議いたしたく存じます」
「議論の要なし! 何を悩むことがありましょうや。速やかに二隻を探すべきにござろう」
「さよう、何十人もの同胞を見捨てたとあっては、日本の恥にございます。折から万博へ向かうのです。なおのこと探さねばなりませぬ」
後藤象二郎と坂本龍馬が発言し、国沢新九郎も同意した。
その横で山内豊範が大きくうなずき、加賀の前田慶寧が全体を見渡して話を続ける。
「よろしいでしょうか? それがしも土佐の御家中のお考えに同じまする」
次郎と純武は立ち上がり、深々と頭を下げた。
「では蔵人殿、いかにして探すのだ」
「はい、まずは艦隊を二手に分けまする。一隊は東へ、一隊は南東へ向かいます。されど燃料と食料の儀がございますれば一ヶ月を限りとし、発見能わねば、レユニオン島へ戻り、補給をうけるべきかと存じます」
「北へは探さぬのか?」
素朴な疑問を徳川慶勝が投げかけたが、勝が近づいて小声で耳打ちすると、なるほどとうなずいている。
捜索の人員やその他の資源が潤沢にあるならば、わずかな可能性を考えて全方位を探すべきであろう。
しかし、現状では足りないのだ。
確かに北に進めば陸地は近いが、南へ流れるアガラス海流を考えれば燃料消費が極めて大きい。
また、途中で燃料が切れれば再び流され、結局南東方向へ漂流する可能性があった。
『大鯨』と『神雷』の艦長ならば、限りある燃料を使って逆行する可能性は低いだろう。
そのため次郎は、東と南東の二方向を選択したのだ。
『南東へ』という言葉が艦長たちの顔をゆがませる。
南へ進めば、再び嵐に遭遇するかもしれない。
「では、一方は『知行』『富士山』『翔鳳丸』『壬戌丸』、他方は『大成』『孟春丸』『南海丸』とし、補給艦は二隻ずつ分けましょう」
勝海舟が提案すると、次郎は静かにうなずいた。
嵐の影響で艦はかすかに揺れている。
「気圧計の値は?」
「29.8インチまで回復しております。しばらくは荒天の心配はないかと」
航海長の報告に、顕武は深くため息をついた。
だが今は、一刻も早く『大鯨』と『神雷』を発見しなければならない。
「では早速、捜索を開始いたしましょう」
次郎の言葉に全員がうなずいた。
窓の外では、落ち着きを取り戻した海面に陽光がきらめいている。しかし次郎の胸の内は、決して穏やかではなかった。
■慶応三年一月十六日(1867年2月20日)プリンスエドワード諸島
嵐の発生から十日がたっていた。
水雷艇『神雷』は、かろうじて島の入り江に漂着した。二日前のことである。
船体は無事だったが、乗組員たちは深刻な脱水症状を呈していた。
「水を……水を探せ」
艇長の深沢司書の声は、かすれていた。
島に漂着するまでの間、極限まで切り詰めた水と食料の制限が続いたのである。
島は岩がちで樹木は少なかったが、幸いにも小さな渓流を発見できた。新鮮な水を飲んだ乗組員たちは、ようやく生きる実感を取り戻したのである。
「ペンギンの卵がございます。それに貝も豊富にございますぞ」
水兵たちは手分けして食料を集め始めた。寒冷な気候ながら、なんとか生きていける環境はある。
ペンギン・アザラシ・アホウドリなど、食用になるものはなんでも捕獲したのだ。
「艇長! 見てください! あそこ! あれは、船じゃありませんかね?」
潜水艦『大鯨』が同じ入り江に姿を現した。
二日遅れての漂着であったが、『神雷』『大鯨』ともに奇跡的な生存である。
「無事だったか!」
乗組員同士の歓喜の声が響く。
しかし喜びもつかの間、現実が二つの艦の乗組員たちを襲った。
「艦長、第二機関士の熱が下がりません」
『神雷』には脱水症状の者が二名。『大鯨』にも高熱を発する者が一名いた。医療器具も薬品も限られている。
「ここには港の設備などありませぬ。修理も難しゅうございますぞ」
司書は『大鯨』艦長の深沢繁太郎と指揮官同士で話し合ったが、とるべき選択肢などない。
仮にここで燃料と食料・水を完全に補給できたとしても、レユニオン島にはたどり着けないのだ。
救助を待つしかない――。
その言葉を、誰もが胸に抱いていた。荒涼とした島で、二つの艦の乗組員たちは助けを待ち続けることになる。
寒風が吹きすさぶ中、彼らの視線は果てしない水平線に向けられていた。
「御家老様! あれをご覧ください! |狼煙《のろし》ではありませんか?」
次郎は見張りから報告を聞くやいなや、双眼鏡で海上を確かめる。この方角に流れてきたなら、この島しかないと、次郎は考えていたのだ。
「おお! おおおおお! あれはまさしく!」
艦橋全体に喜びの声が上がり、すぐさま全艦に通達された。
次回予告 第394話 (仮)『再会、そして再出発』
第388話 『結局、とサラワン王国』
慶応二年十一月三日(1866年12月9日) バタヴィア
「やや! 今なんと? ……我がんこ? なんか? 無理やり……最初……めん、つ?」
各藩がそれぞれの方言と共通語で翻訳するが、さっぱり分からない。
分からないが、次郎が感情をあらわにしていることは、どうやら理解できたようだ。
「う、あーごほん。つまりは、皆々様は港があった方が心安んじると仰せですが、それはつまり、イギリスに対して借りを作る事となりまする。えー、そもそも、航行できない船で来るべきではなかったと。そういう事にございましょう? |蔵人《くろうど》様」
ようやく笑いが収まった中牟田倉之助が、内容をじっくりと吟味しながら通訳して話し始めた。
「|然様《さよう》、|各々方《おのおのがた》、それがしはいささか疲れ申した。勝様、あとは御公儀の差配にてお決め下され。そもそも、それがしと大村家中が決めるべきものではございませぬ。甲吉郎様、よろしいですか」
顔を覆って頭を抱えていた次郎も冷静さを取り戻し、勝と幕府に丸投げした。
純武は静かにうなずく。
「え? いや……|然《さ》れど……」
「良いですか、勝殿。くれぐれも国益を第一にお考え下さい」
次郎はそう言いながら、勝の耳元に近づいてささやいた。
「(加賀藩の艦は嵐で遭難し、土佐藩の艦船は機関の故障に見舞われました。然りながら亀山社中の運用の力は及第点。これらを踏まえ、今後の処遇をいかがいたすかにございます)」
実は、次郎の心の中ではすでに結論が出ていた。
土佐藩を除くすべての艦船は、日本に帰す。
イギリスに寄港地を提供されれば弱みになるからだ。
日本の艦隊は遠洋航海の技術を持たないためにそうしたのだ、という誤ったうわさが広がる可能性もある。
まったく根拠がなければ否定もできる。しかし、事実が混ざっているのだから始末が悪い。
次郎は、日本を出港する際にもっと強く反対しておけばよかったと、何度も後悔していた。
土佐藩に関しては、機関の部品交換が可能だったため、しばらくの間は問題ない。
それに艦の航行は亀山社中のメンバーが担当しているため、他の藩と比べると経験値に大きな差がある。
また、万が一トラブルが発生しても、一隻だけであれば何とか対処できる。
「では、大納言様(徳川慶勝)、各家中への沙汰は、これでよろしいでしょうか」
「うむ。わしは船の事はよく分からぬゆえ、勝に任せる。重々熟慮の果ての答えであろうからな。障りなしじゃ」
「はは」
「では、各御家中の皆様に、公儀としての沙汰をお知らせいたします」
次郎と純武はここにはいない。
全員が勝の顔を注視している。
「土佐守様の御家中の船以外は、これをもって終わりとし、日本に帰るものとする」
「なんと!」
「ばかな事を!」
「なにゆえに土佐だけが?」
驚きと落胆の声が次々と上がる。
「土佐藩の艦は機関修理を完了し、航海を続ける事|能《あた》うと認められました。他の藩の艦につきましては──」
「待たれよ! 我が|天保録《てんぽうろく》も整備が終わったと聞いたが!」
宇和島藩の伊達宗孝が声を荒らげた。
すると他の藩も次々に続く。
「然に候。すべての御家中の船の修理が終わり申した。障りとなるのは今後にございます」
「さらば、何ゆえに土佐藩のみ共に進み、我らは戻らねばならぬのだ?」
「理由は二つ」
勝はこれで納得しなければ、日本に戻った際の処分も考慮していた。
「まずは練度。土佐は亀山社中の者が中心となって動かしております。彼の者等は年の半分以上、あるいは三分の二を海の上で過ごしており、間違いなく他の御家中より抜きんでておりましょう。現にさきの嵐も切り抜けました。マストや帆に失損傷はほとんどござらぬ」
じっくり、ゆっくりとそれぞれの名代、艦長の顔を見ながら続けた。
「次に機関ですが、修理部品の有無でございます。入港後に確かめましたら、それぞれの艦内には整備用の部品がほとんどござらん。港で点検や修理するにしても、限りがあり申す。これより先はフランス領土と中立国のブラジルにございますぞ。交換能う部品があるとは思えませぬ」
南海丸にはシャフト系の部品はなかったが、それ以外の部品はそろっていた。
他の藩は経費削減を優先しているのか、日本近海の航海だけを考慮しているのか、予備の部品がほとんど用意されていなかったのだ。
部品交換が必要な場合は、そのまま放置せざるを得ない。
「では伺います。この有り様で、いかにして欧州まで航海するのですか。もし障りあらば、事は一家中の問題に非ず。日本国全体の障りとなりますぞ」
勝は再び全員をじっくりと見渡した。
「あい、分かった(く……無念)」
宗孝が納得したので、しぶしぶ他の藩の名代も納得した。
艦長と乗組員はオランダ商船に案内されて日本へ帰国となり、名代やその他の随行員は各艦に分乗してヨーロッパを目指す形となった。
■慶応二年十一月十日(1866年12月16日)サラワク王国 クチン
「これはこれは、ようこそおいで下さいました。サラワク王国、国王代理のチャールズ・ブルックです」
「日本国全権のジロー・オオタワです。このたびは誠にありがとうございました。貴国のご対応に対し、わが国を代表して心より感謝申し上げます」
「いえ、とんでもない。さあ、ささやかなパーティーの準備が整いましたので、こちらへどうぞ……」
ブルックは次郎を籠絡するためにパーティー会場に誘おうとするが、次郎はまったく相手にしない。
「ご配慮いただきありがとうございます。しかし、私が一番気にかけているのは、同胞の安否です」
「それなら、ぜひお越し下さい」
不審がる次郎をよそに、ブルックは会場へと進み、案内を始める。
「あ!」
見ると、加賀藩の乗組員が歓待を受けているではないか。
「……!」
出鼻をくじかれた。
次郎はそう思いつつ、交渉のテーブルにつく。
次回予告 第389話 『再び、エイベル・アンソニー・ジェームズ・ガウワー』
第15話 『儲らない? 三人寄れば文殊の知恵』
1590年8月23日 オランダ ライデン
「おー、良いねえ良いねえ。まさに中二病だよ。ん、なんだ? こういうのを中二病って言うんじゃないのか?」
大学を出て川沿いをしばらく歩くと、森の入り口に朽ちかけた廃屋がある。
その扉には、誰にも解読できない奇妙な暗号が刻まれていた。
『運命のコンパス』
コンパス・オブ・ディスティニー。
日本語だ。
おそらく、いや、間違いなく誰も読めない魔法の文字だ。
基地(小屋)の中には、中二病を刺激するアイテムが無数にそろっている。
蒸留器・乳鉢・乳棒……フレデリック用
人体解剖図・薬品の化学式・医学系……オットー用
その他もろもろ、である。
「え、ああ、うん。まあ……」
フレデリックとオットーは、顔を真っ赤にしている。
中村健一はシャルル・ド・モンモランシー(68歳+40歳=108歳)、菊池大輔はオットー・ヘウルニウス(36歳+12歳=48歳)。
伊藤英太郎は、フレデリック・ヘンドリック(51歳+6歳)。
三人はあれ以来、今後のオランダについて話し合うために時間を見つけては会議を重ねている。オットーは学生とはいえ、まだ子供だ。
フレデリックは、時間に関してほぼ自由な状況にある。
シャルルだけが時間に制約があったが、それでも適当な理由を見つけては来ている。
「さて、私は転生してからかなりの時間がたったが、正直なところ、何もしてこなかった。この時代に生まれ、この時代を生きる一人の貴族として、やるべきことはやってきた。しかし、これからは違う」
シャルルは軍人の家系に生まれた貴族である。
ネーデルラント総督の補佐としての職務に加え、フレデリックとオットーと共にオランダを変革すると誓ったのだ。
「私は前世で農業バカだったが、今世ではその知識を生かして皆を豊かにして、ゆくゆくはオランダをも豊かにしたい。二人も同じ気持ちじゃないか?」
シャルルの言葉には不思議な自信が漂っている。
何でだろう、大人が一人加わるだけで、こんなにも雰囲気が変わるものなのか。
フレドリックは、そう感じずにはいられない。
「もちろんです。ですから昨年転生してから兄上にお願いして、今できること、つまり富国強兵の提案をしているんです」
「具体的にはどんな?」
フレデリックは、オットーに話していた内容を補足し、最新の情報を加えてから話し始める。
「まず、何をするにもお金がかかるから、お金もうけの方法を考えました」
オットーは横で静かに耳を傾けている。
・ジャガイモの栽培
・|曳《ひ》き船運河ネットワーク
・ポルトガル式帆装改良計画
・穀物先物取引市場
・亜鉛板防火屋根の義務化
・海上保険組合創設
・大学附属病院設立
・煙突掃除人ギルド
・運河沿いの風車地帯
「よく分からんが、金になるのか? これ。ずいぶんと初期投資も要りそうだが。いや、ジャガイモはいいな。金もうけというよりも、食料自給率が上がる。主食が小麦からジャガイモに移れば、小麦の価格も下がるし、|飢饉《ききん》対策にもなる。オランダの気候にもぴったりだ」
「でしょ? これは最初に考えたんだ。やっと見つけて、クルシウス教授にお願いして、少しずつ栽培面積を広げているところなんです」
なぜだ?
中身は51歳のおっさんなのに、なぜか6歳の言葉遣いになってしまうから不思議だ。
徐々にマウリッツに対する態度と同じになっていくのだろうが、今は間違いなく6歳児と40歳の男性の会話である。
「よし、そこは私も協力できると思うぞ。北海道はジャガイモの大産地だからな。やっと教授が言っていた意味が理解できた」
「え? それ何?」
「いや、表向きは貴族だが、私は実際は農学者だからね。大学で農学を探してみたら、農学はなくて医学部の中に植物学があった。まだまだいろんな分野が細分化されていない時代なんだな。そこで出会った教授がフレデリック、君の話をしていたんだよ。神童だってね」
「いやあ、それほどでも……」
フレデリックがデレッとしていると、オットーがくぎをさす。
「いや、お前が神童ならオレだって神童だし、シャルルさんだって神大人だぞ。それよりもお前の計画だけど、まず砂糖と塩、それから石けんとロウソクはどうするつもりなんだ?」
ジャガイモのプロジェクトは順調に進行したが、四つの提案はまだ四月に出したばかりだ。まずは小規模から始めることが決まっている。
「それは前に話したとおりちょっとずつ。砂糖はまずテンサイを10アール。塩は1ヘクタールの流下式塩田をつくる。石けんは魚油を使って、フランス産の酸性白土で精製して作る。ロウソクも同じだな。でも石けんとロウソクは同じ原料だから、調整しながらだね」
「テンサイ?」
シャルルの目がキラキラと輝いた。
「うん、オランダはブラジルはもちろん、カナリア諸島やマディラ、地中海にも植民地を持っていないでしょ。だから、サトウキビ以外にテンサイって植物を思い出したんだ。えーっと、ビーツ? こっちでは今飼料用らしいけど。それを栽培して煮詰めれば砂糖が作れるんですよね」
農学教授であり、実家でテンサイの栽培をしていたシャルルにとっては得意分野だ。
「そうか! じゃあジャガイモだけじゃなく、テンサイでも力になれそうだね。ちなみに10アールでどのくらいを見込んでいるんだい?」
「えっとね……だいたい1,600kgくらい」
「え?」
「え? 何、どうしたの?」
シャルルは真剣な表情を浮かべている。
「何を根拠に出した数字か分からんが、そんなに多くは採れんよ」
「え?」
次回予告 第16話 『利益の下方修正と伝染病』
第14話 『魔術師裁判』
1590年7月16日 オランダ ライデン
ライデン市庁舎の石造りの法廷には、いつもよりも多くの市民が集まっていた。
窓から差し込む夏の光は、緊張感に満ちた空気を和らげるどころか、むしろその場の重苦しさを一層際立たせている。
中央の被告席には、まだ幼さが残る12歳の少年、オットー・ヘウルニウスが座っていた。
彼の両脇には市の衛兵が立ち、前方には市の判事、助役、そして二人の町医師が並んでいる。
傍聴席には、オットーが|蘇生《そせい》させた子供の家族や町の有力者、さらにはうわさを聞きつけた野次馬たちが集まっていた。
蘇生させたのは、シャルル・ド・モンモランシーの息子、ジャンである。
その傍らには、がっしりとした体格のシャルルが寄り添っていた。
「静粛に!」
判事の重々しい声が法廷に響き渡る。オットーは小さな拳を膝の上でぎゅっと握りしめ、顔を上げた。
「オットー・ヘウルニウス、お前は神のおきてに背き、死者をよみがえらせる魔術を行ったとの告発を受けている。何か弁明はあるか?」
オットーは深く息を吸い込み、ゆっくりとした口調で話し始めた。
「裁判長、私が行ったのは医術であり、決して魔術ではありません」
その声は震えながらも、しっかりとした芯を持っていた。
傍聴席からざわめきが広がる。12歳の少年が、これほど堂々とした態度で答えられるだろうか。
「医術だと?」
判事は眉をひそめた。
「では、なぜ誰も知らない術を使ったのか?」
「父から……父からヒポクラテスやアスクレピアデスの古い文献の解釈を教わりました。その中には、呼吸が止まった者に対する処置が記されています」
オットーの隣で、父のヨハネスが静かにうなずいた。
「ほう。では、その文献を示せるか?」
「は、はい。父の書斎にあります。ただし、最近の例としては、60年前にパラケルススが提唱したふいご法があります。しかし、その場にはふいごがなかったので、口移しで空気を入れました」
「口移しで……?」
判事は首をかしげ、傍聴席が騒がしくなった。
「はい、口から息を吹き込んだんです」
オットーは冷静に説明を続けた。
この時代において、口移しの人工呼吸など知られていないはずだ。しかしだからこそ、古い文献を引用して、新しい治療法ではないと印象づける必要があった。
「さらに、胸を押して心臓を動かす方法にも触れています。これはアブルカシスの著作に……」
これは完全に嘘である。
そんな記述はない。
「待て」
判事は手を挙げてオットーを遮った。その目は鋭く、まるでオットーを貫くかのようにじっと見つめている。
「お前の年齢で、その古い文献を読めるとでも?」
確かにその指摘は的を射ている。12歳の少年が古代ギリシャやアラビアの医学書を理解できるはずがない。
その瞬間、後ろから声が聞こえた。
「私が指導しました」
ヨハネス・ヘウルニウスが立ち上がる。ライデン大学医学部の教授である彼の言葉には、深い重みがあった。
「息子は幼い頃から医学に興味を持ち、私の研究を手伝ってくれています。古い文献も私が日々教えています」
ライデン大学は国内で最高の学府であり、唯一の大学である。
教授には社会的地位や名声があり、発言には信頼性がある。社会に対する影響力も非常に大きい。
しかし、問題があった。
「なるほど。教授のお考えはしっかりと伺いました。参考にいたしますが、残念ながら被告は教授の実の息子でいらっしゃる。ですからいかに教授であっても、その発言は息子を擁護していると受け取られてしまうのは避けられないでしょう」
確かに、父親の証言は被告にとって有利に働く可能性がある。
その時だった。
「裁判長」
傍聴席から一人の男が立ち上がった。背が高く、がっしりとした体格をしている。
「私はシャルル・ド・モンモランシー。溺れた息子を救っていただいた父親です」
シャルルの声が法廷内に響き渡った。
後ろにはホールン伯フィリップ・ド・モンモランシーも控えている。
正直に言うと、大学の教授や独立戦争の英雄など、関係者に著名な人物が多くいる裁判は公平に進行するのが難しい。
利害関係やしがらみがどうしても生じてしまうからだ。
人の一生を左右する裁判において決してあってはならないが、この時代の魔女(魔術師)裁判では、法の存在が形骸化している。
ただし今回は、物事が良い方向に進んだ。
「息子のジャンは確かに溺れ、呼吸も心臓も止まっていました。しかし、オットー少年の迅速な処置のおかげで、今はこうして元気に過ごしています」
シャルルは息子の肩に手を置いた。ジャンは小さくうなずいている。
「これが魔術だと言うのなら、なぜ悪魔の力で救われた息子が、今もなお教会に通い、神を敬えるのでしょうか」
その言葉を聞いた判事は表情を硬くした。
被救助者の血縁者であるモンモランシー家の当主代理の証言は、判決に直接関与しない。しかし無視できない重みがある。
「しかしホールン伯……いや、シャルル殿……」
判事が続けようとしたその時、今度は別の声が聞こえてきた。
「私からも一言よろしいでしょうか」
法廷にいる全員の視線が、一人の男性に集中した。
ネーデルラント総督であるオラニエ公、マウリッツ・ファン・ナッサウである。
その横でフレデリックはちょこんと立ち、オットーに目で合図を送っている。
(すまん! 兄貴を説得するのに時間がかかった)
フレデリックの説得を受けて、デン・ハーグからライデンまで傍聴人として参加しに来たのだ。
「これは総督……。一体何でしょうか」
マウリッツは判事に向かってゆっくりと口を開いた。
「ここ数日、弟のフレデリックからこの件を詳しく聞いていた。オットー少年は、古代の医術の知識を現代によみがえらせただけなのだ。これは魔術でも悪魔の仕業でもない」
法廷内がさらに騒がしくなる。
総督の言葉には特別な重みがある。それは教授の言葉よりも重く、しかも血縁関係のないまったくの第三者だ。
「むしろ、これは神の|恩寵《おんちょう》ではなかろうか。神は古の賢者たちに、死にかけた子供を救う方法を授けられた。そしてその知恵は今日まで脈々と受け継がれてきたのだ」
マウリッツの言葉は、法廷の雰囲気を一変させた。魔術の疑いのあった医術が、突然神の恩寵として語られたのである。
「総督、しかし……」
判事が反論しようとすると、マウリッツは手を挙げて制止した。
「判事殿、私はこの術をライデン大学の正式な研究課題にすると決めた。オットー少年の父であるヨハネス教授の指導のもとで」
フレデリックは思わずガッツポーズをした。
兄の一言によって、事態は一変したのである。魔術の疑いは晴れ、逆に医学の進歩として認められることとなったのだ。
判事は深いため息をついた。もはや判決は明らかだった。
が……。
「承知いたしました、総督。しかし、最終的な判断は神に委ねるべきです。これ、魔女の|秤《はかり》を」
判事はそう言って助手に大きな秤を持ってくるよう指示した。
「被告オットーはこれに乗り、体重を量るのだ。99ポンド(約45kg)未満であれば、それは魔術師の証である」
まったく何の根拠もない判定方法である。
魔術師や魔女の話は荒唐無稽ではあるが、特に魔女は空を飛ぶために軽いと考えられていたのだ。しかし、これはまだマシな方だと言える。
容疑者は裸にされて拷問を受けた結果、自白を強要され、その自白が証拠として利用されていたのだ。
荒唐無稽な方法であっても、何らかの基準があるだけマシである。
102ポンド(約46.3kg)――。
それがオットーの体重だった。
16世紀のヨーロッパでは、推定によれば、少年たちの多くが魔女に該当するほど体重が軽く、身長も低かったのだ。
おそらく栄養状態も良くなかったのだろう。
にもかかわらず、オットーは合格した。
もちろん、オランダにおける魔女裁判の事例を調べ上げ、今日までオットーに毎日ドカ食いさせてきたのはフレデリックである。
「まったく、さすが2+2=4のマウリッツだな。しかし、本当に感謝しているよ」
シャルル・ド・モンモランシーは、戦友であるマウリッツに感謝の言葉を伝えた。
「いや、オレは主を信じていないわけじゃない。ただ、それによってオレの合理主義や実利主義が損なわれてはいかん。それに、お前にはもっと働いてもらわなきゃならんからな。息子を救ったせいで人が死んだとなれば、お前も仕事どころじゃなくなるだろう」
「ははは、確かに。でも、医学部の研究の件は本当なのか」
「ああ、弟のフレデリックもそうだが、なんだかオレの周りには神童が多い気がするな」
「私からもお礼申し上げます」
「ああ、これは教授」
オットーの父、ヨハネス・ヘウルニウスが深々と頭を下げた。
「いえいえ、生きるべき人が死ぬなんて、あってはならんことです。それよりも教授、頼みましたよ」
「はい、お任せください」
今日、この日が、オランダ医学の急速な発展の礎となった。
次回予告 第15話 『第2回コンパス会議とオランダの現状。今後の作戦会議』
第387話 『ぶち切れる』
慶応二年十一月三日(1866年12月9日) バタヴィア
「では各々方、|憚《はばか》りながらそれがし、太田和蔵人次郎左衛門が、議事を進めたく存じます」
次郎の隣には、大村藩の名代である甲吉郎純武が控えている。
幕府と加賀藩を除く各藩の名代と艦長(責任者)が、一堂に会してバタヴィア政庁の一室に集まっていた。
「議題は二つ。まず、これよりサラワク王国に向かい、加賀藩の皆様とお会いし、先方に感謝の意を表明する儀。されどおそらくイギリスの外交官もおりましょう。対応をいかにするか」
全員が次郎の顔を見つめ、真剣な表情を浮かべている。
「加えて今後の航海の儀。加賀藩をいかが致すべきか。また、申し上げにくい儀なれど、御公儀ならびにわが家中、長州・佐賀・島津家中以外の船をいかがいたすか」
二つ目の議題において、該当する藩の面々がさらに深刻な表情を浮かべたのは言うまでもない。
「まず、イギリスが出てきたとして、引き渡しは特段障りなく行われるかと存じます。されどその後、イギリスは何らかを求めてくるかと」
次郎は、イギリスがどんな要求をしてくるのか、全員に問いかけた。
会議室の空気が一層重くなっていく。
長い航海の疲れと遭難の現実が、全員の心に重くのしかかっていたのだ。
しばらくの沈黙の後、勝海舟が静かに口を開いた。
「イギリスはまず、自国の人道的な対応をたたえ、艦と乗員の引渡しに異議は唱えますまい。されど、その後には必ずや国交の回復や補給地の利用、あるいは通商の再開を持ち出してくるであろう。面子の回復を図るはずと存ずる」
次郎はふむ、ふむ、とうなずいている。
勝の意見は次郎の意見と一致していたのだ。
まず間違いないだろう。
それぞれの名代も同様にうなずいているが、本質を理解している者は果たしてどれほどいるのだろうか。
外交の経験もなく、知識も乏しい。
ただの代表にすぎないのだ。
その中で一人、純武だけが発言する。
「安房守殿のご意見、まことにごもっとも。さればいかほどの事をなせばよいとお考えか。それがしは、せっかくオランダの総督がいらっしゃるのだから、過去の事例をもとに、いかなる行いがもっとも適しておるか聞くのも一つの手かと存ずるが、いかに」
(ふふふ、さすが甲吉郎様)
次郎は純武の意見に満足そうにうなずいた。
その表情には、主君の嫡男である純武の成長を喜ぶ家臣としての誇りが表れている。
「マイエル総督、過去にイギリスとの間で同様の事例はございましたか?」
マイエルはしばらく考え込む様子を見せた後、ゆっくりと口を開いた。
「はい。1824年のロンドン条約の際、わが国はイギリスと東インドにおける権益に関して交渉しました。その経験を踏まえてお話しいたしますと……」
マイエルの説明が始まると、会議室の雰囲気が一変した。各藩の名代たちは、真剣な表情でその話に耳を傾ける。
「まず、イギリスは必ず見返りを求める国です」
マイエルの声が静かに響き渡った。
1824年に締結されたロンドン条約、いわゆる|英蘭《えいらん》協定は、マラッカ海峡を境にした勢力圏の明確な分割であった。
マレー半島はイギリスの支配下にあり、スマトラやジャワ島はオランダの領域である。その後、イギリスとオランダは互いの利権を尊重しながらも、アジアにおける覇権を巡る緊張関係は続いていったのだ。
「イギリスは恩義に対する見返りとして、補給地の利用や通商の再開、さらには国交の再調整を求めるでしょう」
次郎はオランダ語が英語ほど得意ではなかったが、この時点ではほとんど通訳を介さずに意思疎通ができていた。
他の面々は、その都度内容を名代に伝えている。
「表向きには人道的な立場を主張しながら、裏では通商条約の見直しや軍港としての便宜供与を求める。特に近年ではシンガポールやマラッカを掌握し、東アジア航路の重要な地点を支配下に置いています。彼らの要求は、決して一度限りではありません」
マイエルの言葉は、ただの警告ではなかった。
イギリスがこの地域で展開してきた外交手法は、インドの藩王国との軍事保護条約や、現地の支配者を介した間接統治に明確に表れている。
その本質は、武力と条約を巧みに使い分け、相手の弱点を見抜いて譲歩を引き出すことにあった。
唯一の例外は日本である。
日本は生麦事件を契機にイギリスの野望を打ち砕き、日英戦争を経てその権威を失墜させ、最終的に断交に至ったのだ。
ただ、どんな過去の経緯があったとしても、人道的な対応には誠意を持って取り組む必要がある。
……もしイギリスが本当に人道的な立場から行動を起こしているのならば、であるが。
「イギリスの要求に対して、我々がどれだけ冷静かつ巧妙に対応できるかが重要です。過去の事例を考慮すると、彼らはまず表面的には礼儀正しさを示しながら、徐々に本音を明らかにしてくるでしょう。例えば、今回のケースでは補給地の提供がその一例です。すべてがこちらの譲歩を引き出すための戦略的な布石と言えます」
マイエルの説明に対して、各藩の名代たちは深くうなずいた。
欧州列強の思惑が交錯するこの時代において、外交は単なる言葉のやりとりにとどまらない。
「ありがとうございます、総督」
次郎が感謝の言葉を伝えると、マイエルは笑顔で応じた。
「では各々方、それがしも同じ考えにござる。イギリスはわが国との国交や通商の回復、さらには先の戦争で|拿捕《だほ》した艦船の返還や名誉の回復などを提案してくるでしょう。それに対してはいかにすべきでしょうか?」
意見が出ない。
ざっくりとした基本的な指針が決定しただけだ。
ここまでは良いが、ここからはダメだといった具合に、明確に判断するのが難しいのだろう。
「では、それがしから。国交の儀は、どれほど譲っても和親条約までとする。通商の儀は、これを行わない。あくまでも薪水給与令を障りなく行うためのものとする」
また、と次郎は言葉を続けた。
「かかった費用の儀は、求めがあるならば全額支払う。無論、前田家中が出す事にはなりますが、これはご異存ございませんでしょうか」
またも、うなずくだけである。
「今一つ、こたびのフランス渡航の儀において、インドやアフリカでの補給を申し出てくる恐れもありましょう。それがしといたしましては、この儀は要らぬ申し出と存じますが、いかに?」
要するに、イギリスがフランスまでの寄港地を手配する代わりに、国交の正常化や貿易の再開、さらには条約の再締結を提案してくるだろうというのだ。
日本がそれを受け入れれば、完全にではないにせよ、ほぼイギリスの条件を受け入れることになる。
それは日本にとって避けなければならない。
第一、補給地の問題を事前に解決した上での航海なのだ。
航海の技術があるのなら、イギリスの支援は必要ない。
能力があるならば、だ。
「う、ごほん。それがしは、全てではなくとも、一つ二つ求めに応じても良いのではないかと存ずるが、いかに? 港が増えれば心安んじて航海できよう?」
仙台藩の伊達茂村である。
艦長の三浦乾也は、静かに横で話を聞いていた。
「さ、さよう、それがしもそれに、同じまする。港は多いに越したことはない。方々、そうではございませぬか?」
福井藩主松平茂昭。
「かようなことが二度とないよう、それがよいか」
宇和島藩の伊達宗孝も続いた。
しかし、そうだそうだ、との大きな賛同の声はあがらない。
「では美作守様(伊達茂村・仙台藩)、越前守様(松平茂昭・福井藩)、若狭守様(伊達宗孝・宇和島藩)、御三方はさようにお考えでございますね。土佐守様(山内豊範・土佐藩)はいかがでしょうか?」
幕府・大村・長州・佐賀・薩摩を除く五藩の中で、最後の藩である。
「いや、それは……確かに心安んじて航海できるのが一番良い……が……」
「待てっ次郎! 堪えよ――」
「あーもう! ! せからしかってなあ! わいたちゃ我がんことしか考えとらんとや? 何かそら(りゃ)! そいけんおいは嫌やったっさ! そいば無理やりねじ込んできたくせにさ! できんとやったら最初っから来んなさ! どがんすっとや! 国んめんつとわがえんめんつと! どっちが大事かとや! くそ腹んたつ!」
(あーもう面倒くさい! お前ら自分のことしか考えてねえのか? なんだそりゃ! だからオレは嫌だったんだよ! それを無理やりねじ込んできたくせに! できねえんだったら、最初っから来るなよ! どうすんだよ! 国の面子と自分の家の面子と! どっちが大事なんだよ! クソむかつく!)
隣で純武が頭を抱えている……。
佐賀藩名代である鍋島直彬(なおよし)と中牟田倉之助は、『くっくっく』と笑いをこらえていた。
次回予告 第388話 『結局、とサラワク王国』
第386話 『図らずも』
慶応二年十月二十九日(1866年12月5日) バタヴィア
『李百里』の遭難を受けて、次郎は全力で捜索すると同時に、全艦の整備点検を実施した。
「Mijnheer Otawa(太田和殿)、我々も全力をあげて捜索しています。考えられる場所としては、スマトラやボルネオの沿岸・島しょ部、さらには仏領のカンボジア。または……」
「イギリス領ですね?」
次郎の表情は暗い。
もしオランダやフランスの植民地以外に漂着した場合は、イギリスに支援を求める必要があるからだ。
日本とイギリスは戦後であり、現在は断交の状態にある。
「フランスにはこちらからも依頼しておきます。時間がかかるかもしれませんが、残念ながら万博の開幕式には間に合わないでしょうね。先発隊を出発させておいて、本当に幸いでした」
「ええ、まったくです……」
次郎はオランダ東インド総督のPieter Mijer(ピーテル・マイエル)の言葉に感謝した。
しかし胃の痛みが治まらない。
■サラワク クチン
「いいか。できるかぎり支援するのだ。食料や水はもちろんだが、船の修理やその他の物資に関しても、万全を期せ」
サラワク王国の次期国王、チャールズ・ブルックは、部下にそう命じている。
叔父であるサラワク国王ジェームズ・ブルックは病気のため本国に帰国していたのだ。彼は次代の王として国政を託されていた。
1866年の時点で、サラワク王国は、イギリスの直轄植民地でも保護国でもなく、理論上は独立した国家である。
しかし、実際にはイギリス海峡植民地政庁や本国との密接な関係を築いていた。
イギリスの支援や後ろ盾を受けながら、領土の拡大や統治を進めていたのだ。
今後も王国の外交や安全保障において、イギリスとの良好な関係の維持は最優先事項である。
そこに両国の利害の一致があった。
イギリスは日本との国交回復を実現するための手段を求めている。
サラワク王国はイギリス本国に対して恩を売っておきたい。
「陛下、植民地政庁のオーファー・カヴェナ総督がお見えです」
「うむ、お通しせよ」
■クチン港
「Heel erg bedankt voor het eten en het water, voor het repareren van het schip en het behandelen van de gewonden. Mijn Engels is niet zo goed. Ik zou graag de verantwoordelijke persoon ontmoeten. Spreekt er iemand Nederlands?」
(食料や水の補給、船の修繕とけが人の治療、真にありがとうございます。私は英語があまり得意ではありません。責任者に会わせてほしい。誰かオランダ語が話せる人はいませんか?)
「What? I don't know what you're talking about. Anyway, I've been told from the top to be extremely accommodating. What? A refill?」
(何だって? 何を言っているのか分からない。とにかく、上からは至れりつくせりで対応しろって言われてるんだ。何? おかわり?)
「雄次郎よ、船の修繕に加え、食料や水、物資の補充までしてもらっておる。さらにはこの歓待のされようじゃ。ぜひ、上役に直接感謝の意を伝えたい。通訳してくれ」
加賀藩の名代である前田慶寧(よしやす)は、艦長の岡田雄次郎に命令を下す。しかし雄次郎は困惑し、正対して平伏したのだ。
「又左衛門様(慶寧の通称)、真に申し訳ございませぬ。それがし、大村の伝習所にて学び、研さんを重ねてまいりました。されど我が意を伝えることすらままなりませぬ。これはひとえに、それがしの不徳のいたすところにございます」
雄次郎は、多くの他藩の士族と共に大村の海軍兵学校で海軍伝習課程を学んでいた。
幕府の長崎海軍伝習所は門戸を幕臣に限っていたためである。(後の神戸海軍操練所は、一般にも門戸を開放)
学んでいた内容は、測量・算術・造船・蒸気機関・船具運用であり、オランダ語が基本言語であった。
そのため英語を話せる人間はほとんどいなかったのである。
「|然様《さよう》か。よい。そちが努力しておるのはわしもよう存じておる。かような仕儀に相成ったのはわしの不徳のいたすところでもある。されど、この有り様は何とかならんかの」
船の修理や補給、けが人の治療だけにとどまらず、想像を超えるほどの手厚いもてなしを受けていたのだ。
慶寧の前には料理が並び、酒が振る舞われている。
「は、では今一度打診してまいります。同じ人。身ぶり手ぶりでできうる限りを伝えまする」
「うむ、頼んだ」
■クチン政庁
「総督閣下、よくお越しくださいました」
「いやなに。書状の内容を聞いて急いで来ました。ここは代理では済まされません、ブルック総督。私が行かなければ」
「恐縮です」
国王代理のチャールズ・ブルックは、海峡植民地の総督であるオーファー・カヴェナを丁寧に迎え入れた。カヴェナもそれに応じて礼を尽くす。
「さて、ブルック殿下、現在の状況はいかがですか?」
「はい、まずは人命が最優先ですので、乗組員に病人やけが人がいないか確認し、治療しています。また、水や食料、石炭なども補充しました。マストや帆、機関も修理しています」
ブルックはカヴェナに対して丁寧に説明し、自分の行動の正当性を示そうと努めた。
歓待は行き過ぎではないかとは思ったが、それでもイギリスの敗戦と日本との断交は知っていた。母国との関係を優位に保つための措置である。
「そうですか。それは非常に適切な対応です。感謝いたします。それでは、その後の状況はいかがでしょうか? 意思の疎通はうまくいっていますか?」
「残念ながら言葉を理解できる者がいません。ジェスチャーでのやりとりにも限界がありますので、通訳をお願いできますか」
英語でもオランダ語でもフランス語でもない。
中国人に似ているが、中国語ではない。
もし中国語ならば、現地に多数いる|華僑《かきょう》に頼めばすむのだ。
消去法で日本人になり、現在に至っている。
「いいでしょう。漂流者を助けるのは万国の常識ですが、今のわが国にとってはまさに渡りに船。日本が万博参加のために艦隊をフランスに向かわせているとの話を耳にしましたが、その中の1隻ではないでしょうか。うまくいけば……」
二人の顔に笑顔が広がった。
■バタヴィア
「Mijnheer(ミーンヘール) Otawa(太田和殿)! 漂着場所が分かりました!」
マイエルは、部下からの報告をそのまま次郎に伝えた。
「! それで、場所はどこですか?」
「……サラワン王国です」
「……そうですか。サラワン王国はイギリスの保護国ですね」
「ええ。独立国ではありますが、イギリスの強い影響下にあるのは確かです」
「……総督閣下、ありがとうございます」
次郎はマイエルに感謝の気持ちを伝えたが、その声には力がなかった。無事が確認できたのは良かったものの、間違いなく交渉が必要である。
「どういたしましょうか? わが国から使者を派遣いたしましょうか?」
「……はい、お願いします。こちらはこちらで準備を進めます」
次回予告 第387話 『サラワン王国での再会』
第13話 『シャルル・ド・モンモランシー』
1590年6月19日 オランダ ライデン
背が高い。
おそらく180cmはあるだろう。
日焼けしたがっしりとした体格に銀髪を持ち、その中に貴族的な品位が漂っている。
「モンモランシー家の当主代理、シャルル・ド・モンモランシーだ。それとも、フレデリック君と呼んだ方がいいかな。以前会った時はもっと小さかった」
シャルルは笑みを浮かべてフレデリックを見つめている。
「(おい、誰なんだ)」
オットーは小声でフレデリックに尋ねた。
しかし、フレデリックは信じられない出来事に直面し、ぼう然と立ち尽くしている。
「おい、聞いてんだろ! 何やってんだよ」
オットーは思わず声を漏らした。
その理由も納得できる。フレデリックの目の前に立っているのは、シャルル・ド・モンモランシーだからだ。
その名前自体は知らない。
しかし、フィリップ・ド・モンモランシーは知っている。
ホールン伯。
父であるオラニエ公ウィレムと共にオランダ独立戦争に参加し、処刑された男だ。また、ホールン伯には子供がいなかったはずである。
その人物がまだ生きており、さらに子供もいるのだ。
これは運命や転生の神様のいたずらなのか?
フレデリックは、そう考えるほかに選択肢がなかった。
「シャルル……おじさんなのですか?」
「おお! 覚えていてくれたか! いやぁ、ずいぶんと背が伸びたもんだ」
「ははは、成長期なんです。……でも、おじさん、急にどうしたんですか? こんなところに来て、何か用事があるんですか? 兄上ならハーグにいますよ」
フレデリックの言葉にシャルルは思わずニヤリと笑った。
従者は同行していない。
事実上の独立を手に入れたとはいえ、国の重要な人物が一人でこんな場所をうろついていいのか?
マウリッツの親和政策により、カトリック教徒とプロテスタント教徒は共存している。
しかし狂信的なカトリック教徒が存在しないとは言いきれない。
史実では、政治家が宗教的な敵によって暗殺される事件がしばしばあった。
父であるオラニエ公ウィレムも、その一人である。
「なに、今日はマウリッツに用があるのではない。そなたにだ、フレデリック」
「ぼくう?」
僕、ではなくぼくう? だ。
語尾が伸びて疑問形になるほど不思議だった。
久しぶりに会って、しかもこんな子供に一体何の用があるのだろうか。
フレデリックの疑問は尽きない。
「正確に言うと、その友人の金髪の君だよ」
「おれえ?」
今度はオットーが、フレデリックと同じく間延びした声を上げた。
「そう、君だ。名前は何と言うのかね?」
「え? あの、オットー・ヘウルニウスです。父は……」
「知っている。ライデン大学のヨハネス・ヘウルニウス教授であろう?」
「は、はい……。父をご存じなのですか?」
オットーはフレデリックとシャルルの顔を交互に見る。頭脳は|明晰《めいせき》だが、状況を把握できていないようだ。
「実はな……」
そう言ってシャルルは話を始めた。
「息子を死の淵から救ってくれた魔術師がいると聞いた。彼は見たこともない術を使って息子を|蘇生《そせい》させた、と」
「息子って……もしかして」
フレデリックは思わず息をのんだ。
「そう。あの溺れていた子供は、私の息子のジャンだ」
シャルルは柔らかな笑みを浮かべて、こう言った。
「何度感謝の気持ちを伝えても足りない。しかしな、気になる点が一つある」
シャルルの表情が一変する。
その鋭いまなざしは、まるで獲物を狙う|鷹《たか》のようだった。長身でがっしりとした体格に加え、軍人家系の嫡男としての風貌が、その鋭さを一層際立たせている。
「あの術は、一体何なのだ?」
オットーは思わず後ずさりしたが、フレデリックは冷静さを失わなかった。
「おじさん、あれは医術です。僕も見ましたが、呪文を唱えたり特別な道具を使ったりしていません。魔術でも何でもないですよ」
「医術? しかし、誰も知らない……」
「ヒポクラテスやアスクレピアデスの名前は古い文献に登場します。より新しい例としては、アブルカシスによる気管切開やパラケルススの呼吸補助、さらに……ヴェサリウスの心拍再開やブラッサボラによる気管切開による人命救助の事例があります。これらの事例は父から聞いた話です」
オットーは瞬時に言い訳を思いつき、口を挟んだ。その内容のほとんどは事実に基づいているが、人工呼吸と心臓マッサージに関しては虚偽である。
あくまでそれに関連する処置の事例であった。
父の、と付け加えるのも忘れない。
12歳の証言よりも、名声があり、教授である父親の発言の方が信頼性が高いからだ。
シャルルは目を細め、疑念の色はその表情から消えない。
「本当にそうなのか? それとも……」
シャルルは言いかけたが、やめた。何か別の意図が宿っているように見える。
「まさか、お前たちも……」
数秒の沈黙は、フレデリックたちにとっては数分にも感じられたかもしれない。
「いや、それなら人工呼吸(日本語)や心臓マッサージ(日本語)ができるわけがないな。なあ、二人とも」
「 「! !」 」
フレデリックとオットーは、驚きのあまり言葉を失ってしまった。
シャルルはそれを見て、確信する。
「君たち二人も転生者なのかな?」
も?
フレデリックとオットーは互いに顔を見合わせた。もはや隠し通せない。シャルルの鋭い洞察力の前では、どんな言い訳も通用しないだろう。
フレデリックが話し始める。
「……はい、おじさん。私たちは転生者です」
「私もそうです」
オットーは小さくうなずいた。
シャルルは大きく息を吐き出し、明るく笑った。
「なるほど、やっぱりそうだったのか! これで私を含めて、この世界には転生者が三人いると証明された! 私一人だけではなかったんだ! わはははは!」
「え? おじさんも……?」
フレデリックとオットーは驚きを隠せない。なんと、モンモランシー家の当主代理であるシャルルも転生者だったとは。
「そうだ。私はもう十数年前にそれに気づいたが、君たちはいつ自分が転生者だと気づいたんだ?」
フレデリックは昨年で、オットーは5年前である。
「そうか。フレデリック、マウリッツには?」
フレデリックは静かに首を横に振る。
自身が転生者だとは、誰にも知らせていないのだ。
「なるほど。しかしマウリッツは何と言っているんだ? 石けんやロウソク、塩の製造に、ビーツから砂糖を作る技術まで編み出したと聞いているが、ヤツは何も言わなかったのか?」
「え? おじさん、どうしてそれを?」
フレデリックが驚くのも当然である。
まだ規模は小さく、詳細は目の前にいるオットーにしか話していないからだ。
石けんなどの生産においては、表向きにさまざまな言い訳を考え、不審に思われないように配慮した。現場で働く人々は、給料さえ支払われれば細かいことにはあまり気を遣わない。
それなのに、なんで知っているんだ?
「テンサイからショ糖を作り、それを砂糖として販売しようなんて、今の時代の人には思いつかないはずだ。実は、私は前世で北海道の農家出身の大学教授だったんだよ」
すべてに納得した。
転生者でなければ知り得ない情報であり、さらに農業の専門家が転生したのであれば、納得がいく。
転生の事実に納得、ではない。
もはやそれはどうでもいいのだ。
「それで……あの、シャルル様?」
シャルルの驚くべき告白を受けて、三人はさまざまな情報を交換しながら話を続けていたが、突然オットーが口を開いた。
「その……シャルル様は、前世では何歳?」
「ん? ああ、68歳だ」
フレデリック(51歳+6歳=57歳)
オットー(36歳+12歳=48歳)
シャルル(68歳+40歳=108歳)
「そうなんですか……じゃないかと思っていましたが、一応聞いてみました」
シャルルの現在の年齢と、さらに前世が教授だったと聞いて、オットーはなんとなく感じていたことが確信に変わり、少し落ち込んでしまった。
「まあ、これからいろいろと考えなければならん。それにオットー。少し気になるうわさを耳にしたぞ」
「え? 何ですか?」
二人はシャルルから衝撃的な事実を聞かされた。
次回予告 第13話 『魔術師裁判』