郷土教育全国協議会(郷土全協)

土着の思想と行動を!郷土教育の今を伝えます。

「日本人ファースト」なんてケチなこと言わず 太っ腹の方が良い

もう旬の話題ではないかもしれないが、先の参議院選挙で参政党が「日本人ファースト」なる政策を掲げてそれまで選挙に関心がなかった層も含めて多くの支持を集めた。

 

この流れはその後も尾を引いている。

 

JICAのホームタウン構想が引き金になり、「移民を推し進めるもの」だと抗議の動きが活発化した。

当該市役所の職員は対応に追われて通常業務ができない程だったようだ。

これを受けてJICAはホームタウン構想を撤回するに及んだ。

 

また、北九州市では学校給食で食アレルギーの子どもに対応した措置をとっていることが、「ムスリムに対応した学校給食を始めた」として抗議の電話等が集中したという。

 

これらは事実が誤って伝えられたり、誤解に基づく判断だったりもしたが、根底にあるのは「外国人を優遇するな!」「移民を認めるな!」といった感情や考え方である。

 

過去にも、いや過去から今日に至るまで外国人を排斥する排外主義的運動や思想は脈々と続いている。

 

象徴的なのは、朝鮮学校に通学する子どもたちが高校授業料無償化の対象から外され続けている事実である。

在日朝鮮人が就学支援金の支給を受ける権利は憲法で保障されているにも関わらず、支給しないというのは憲法に反するばかりでなく意図的で露骨な差別であり人権侵害ではないか!

 

さらに、クルド人に対する排斥・差別行動もあからさまに行われている。

 

 

 

冒頭に述べた「日本人ファースト」なる言葉が選挙戦の中で堂々と発せられ、メディアに乗って国内外を駆け巡った。

さらに輪をかけてSNSでは連日のように外国人に対するヘイト的書き込みが止むことがない。

 

ヘイトスピーチが言葉だけに止まらず、ヘイトクライムとなって日本国内に居住する外国人の命と生活を脅かしている。

 

 

 

参政党が日本人の心の中に潜む日々の不満や差別意識を巧妙に取り込み、「日本人ファースト」を一般化してしまったのは大きな出来事と言ってもよい。

 

そしてこの言葉には、人によって様々な思いや考えに行き着く。

ある者は右翼的な思想にはまり、ある者は自分が一番・自分さえ良ければという利己的な考えに陥る。

 

 

それにしても不思議なのは、「日本人ファースト」を叫ぶ人たちが在日アメリカ軍基地に対して「日本から出ていけ!」とか言ったという話は未だ聞いていない。

アメリカは排斥・差別する対象からは外しているのだろうか・・・。

 

今度、アメリカ大統領トランプが来日するようだが、「日本人ファースト」の人たちは排斥するどころか大歓迎するかもしれないのだ。

アメリカ(自国)が一番」「自分が一番」の本家本元の人物がやって来るのだから、もしかしたら「トランプ詣」が沸き起こるかもしれない。

 

 

こんな情けない人々を大量に生み出した参政党ではあるが、この現象を見て先手を取られたと感じたのか自民党は負けじとばかりに低俗な排外主義的言辞をふりまいている。

まさに低次元かつ非人道的な動きである。

このまま両党とも没落していってもらいたい。

 

 

 

最後にこれとは真逆な現象を海外で垣間見て来たので紹介したい。

それは、7月にハンガリーブダペストを旅行した時のことだ。

 

言葉の良くわからない国で一番苦慮するのは交通機関を利用することだが、ブダペストの街はいとも簡単に移動することができたのである。

それは、「市内の公共交通機関は、65歳以上であれば国籍を問わず無料で乗車できる」という規定があるからだ。

 

この規定は2024年3月から施行されたものだというが、私はフランスに渡って初めて知ったのである。

明日からはブダペストだ、どういうふうに廻ろうか・・・と調べていた時であった。

地下鉄、バス、トラム、空港行きバスが、全て無料で利用できるというのだ。

これには驚いた。

 

一応、利用時はパスポート等の身分を証明できるものを常時携帯する必要があるというので、私はパスポートをコピーして携帯することにした。

本物は紛失する怖れがあるからだ。

 

 

現在の規定に変わる前にはEU圏内の人に限定されていたが、昨年3月から国籍を問わず無料化されたという。

また、未確認情報ではあるが、ハンガリーはさらに遡れば今のように国籍問わず無料の時代もあったという。

さらに、現在のチェコスロバキアプラハ市内でもブダペスト同様に国籍問わず65歳以上は無料だという。

 

 

私がトラムやバスを利用した際には偶然かもしれないが、一度も身分証の提示を求められたことはなかった。

(本来は提示を求められたら原本を示す必要があるようだが、その際は理由を述べてコピーを提示するつもりでいた。)

お陰で気分よく快適な旅ができたのである。

 

 

 

 

 

 

ちょうどその頃、日本では「日本人ファースト」を叫ぶ党派が国政選挙で大躍進をとげたというから、母国日本と、その有権者たちに実に大きな違和感を抱いたものだ。

 

ハンガリー人ファースト」などと言わず万国の観光客を差別なく受け入れる国の懐の深さを思わずにはいられなかった。

 

 

 

-S.S-

 

 

敗戦80年、戦争をとめる草の根の集い (3)

河野村分村の集団自決

8月15日、河野村分村に近隣の開拓団から敗戦の知らせが届く。

その日、村は地元の中国人たちに囲まれ、襲撃される。

16日再び襲撃が繰り返される。

 

男性は、67歳の団長と老人、15歳の久保田諫(14歳で単身で参加)と耳が不自由な青年の4人、71人は団員の家族、若い母親と7割近くは子どもたちで、着の身着のままでトウモロコシ畑に逃げ込む。

団長は地元民に殴られ瀕死の重傷、「楽にしてくれ」とうめく。

団長の首を絞め、子ども達の首を母親が絞める。

 

久保田少年は、茫然として座り込んでいた。

「何をしているんだ、さっさと手伝え」とどやされて、首絞めの手伝いをする。

最後に残った青年と相互に石で殴り合う。

血が噴き出て2人は気を失う。

 

翌日、二人は中国人に助けられる。

その後野宿をしながら、新京に着く。

新京で団長の息子に遭遇し、一部始終を語る。

 

 

「敗戦後、盛は満洲の開拓団の消息を求め、手を尽くすが、掴めない。

1946年4月村長を辞職する。

5月頃から、他所の開拓団員がぼつぼつ戻って来て、河野村分村の集団自決が伝わってくる。

送り出した責任、73人を集団自決させてしまったいたたまれなさ、中国侵略の加害者にさせてしまった重さ、国策に乗ってしまった無念さなど、苦悩を背負いきれなくなったのだろう、祖父は、自宅の鴨居に首をつって自死した。」

 

 

開拓団員たちは、1946年秋に全員帰国する。

久保田少年は、難民収容所で生き延び1948年夏帰国。

青年は病死した。

 

帰郷した開拓団員たちは、河野村にとどまり、再婚して新しい家族を作り村で暮らした。

満洲分村の73人の集団自決、胡桃沢盛村長の自死も、村人は、沈黙の奥底に封印した。

 

 

久保田諫さんは、伸さんに

「村長にあと3か月、待ってほしかった。秋には、開拓団の男衆が帰ってきた。村長の支えきれない苦悩を彼らと存分に語り、存分に泣き、背負いきれない苦悩を共有すれば、村長は自死しないで生き延びられたのではないか」

と語ったという。

 

 

 

なかったことにはしない

久保田諫さんは2023年93歳で亡くなった。

河野村開拓団最後の証人だった。

 

1945年8月16日の夜、トウモロコシ畑の集団自決の現場にいて、強いられた自殺ほう助−−村人は事実を知っても咎めない、少年も犠牲者だと分かっている、でも彼は、生涯あの夜の事件を背負い続けた。

講演会で自分の行為をさらして、語り続ける。

集団自決した73人の無念をなかったことにはできない。

 

 

 

今夏封切られた『黒川の女たち』—岐阜の黒川開拓団の幹部たちは、地元民の襲撃からの保護を侵攻したソ連軍に依頼し、その見返りに若い女性に「村のためだ」と「性接待」させた。

 

帰郷後「接待」させられた女性たちへの差別、偏見、誹謗中傷、彼女たちは故郷にはいられなかった。

 

2013年佐藤ハルエさんと安江善子さんが証言の口火を切った。

 

加害と被害の折り重なった「満蒙開拓団」の闇から、自分らが耐えさせられた苦しみ、悲しみ、不条理をなかったことにはしない。

 

 

満蒙開拓団員が荷担した加害——国が作った満洲国、現地の中国人から取り上げた農地と住居を開拓民に提供された。

 

開拓民は、広大な沃地を所有し作物を収穫する喜びに浸った。

しかし、関東軍が撤退すれば、開拓村は砂上の楼閣、現地の中国人からの報復に遭う。

 

現地の日本領事館から、政府に早期の帰還の要請があっても、政府は、「開拓民は現地に残存し生活せよ」という方針だったと言う。

畑も住まいもない、生活するすべもなく、どうやって暮らすのだ。

棄民。

自分らが分村移民を送り出しておいてその結末の責任をとらない。

国の犯罪を忘れてはならない。

 

 

開拓民は、死線をくぐって、やっと帰郷する。

しかし、故郷の村は邪魔者扱いで、冷たかった。

畑も家も処分して満洲に渡ったのだから、居場所はない。

 

満洲でいい思いをしたのだろう」「好きで行ったんだ、今さら」。

でも、村から分村移民を送り出したのは国であり、町や村であり、移民者の土地や家は村人で分配したのではないか…差別、分断は、根強い。

 

 

 

参政党が言い出した「日本人ファースト」、3Kの労働現場で外国人労働者がいなかったら、立ちいかない現実を見ないで、マナーの悪い外国人観光客をあげつらい、デマやヘイトを繰り返し「日本人ファースト」の風潮をふわっと広げる。

 

偽りの国「満洲国」で行われたことが「日本人ファースト」の原点だ。

 

 

伸さんは、「祖父に生きて、自分が何故道を誤ったのか、検証をしてほしかった」と語る。

「祖父は紀元2600年祝典を機に、天皇制に絡みとられていった。敗戦後、天皇は責任をとらなかった。

だから、加害の責任があいまいになった。

参政党のような「新日本国憲法構想案」が出てくる。

天皇制について、軽く考えてはいけない。

天皇制の動きを注目し、警戒をしていないと、とんでもないことになる」

と警鐘を鳴らしました。

 

 

 

-Ka.M-

 

敗戦80年、戦争をとめる草の根の集い(2)

◆講演  胡桃沢 伸さん(精神医・劇作家)

『沈黙の奥底』の上映後、作品の主人公、胡桃沢伸さんの登壇です。

 

「自分が生まれる20年前に亡くなった祖父が自死したことは、薄々知っていたが、それとなく聞いても大人たちは、話を逸らしてしまう、触れてはいけないことだと子ども心に思っていた。祖父の自死の理由を知ったのは、30代も後半、友人が送ってくれた新聞記事だった。」

 

胡桃沢盛の日記から

 胡桃沢伸さんは、祖父の日記を引用しながら、若き日の祖父をよみがえらせる。

 

「盛は、1904年生まれ、農業学校を卒業後、家の仕事を手伝い、信南自由大学に参加している。日記には小作料を取り立てに行き、申し訳なさを感じたり、農民は田んぼで泥だらけになって米を作り、食するのは金持ちだと社会の矛盾を綴っている。生きる意味を求めて悩んでいる姿に親近感を抱いた」という。

 

 

1929年24歳、父親が死去、胡桃沢家を継ぐ。29年の世界恐慌伊那谷一帯の主産業・養蚕が壊滅し、盛は養蚕に見切りをつけ、小麦などに転作を図る等、村の農業再生、「経済的自立した村」作り実現に勢力を注ぐ。

しかし、日本は大不況を戦争で解決するかのように、戦争に向かって歩み出していく。

1931年柳条湖事件満州事変、1932年満州国建設。

1937年日中戦争。日記には、「南京陥落で提灯行列を行う」 「英霊に感謝」の文字が並ぶ。村会議員、助役を経て、1940年10月36歳で村長就任。

 

 

1940年11月、紀元2600年の盛大な祝賀式典があり、村長の盛は出席。

皇居前広場に5万5千の参加者、天皇による勅語読み上げ。

盛は、雷に打たれたかのように、“聖代に生を受けた喜び” ”万歳三唱に感涙にむせぶ“とそれ迄にはなかった言葉が飛び出す。

1941年元旦の日記は「村のため、お国のため、己を空しゅうしてご奉公」と変わる。

伸さんは「祖父は『己を空しゅうして村のため、お国のため』というけれど、主体を手放し、批判的精神を捨て去ることではないか」——と批判する。

 

 

1936年から本格的に始まった満洲分村移民100万戸計画。

盛は、それまで、満洲分村には消極的だったが、政府は、「皇国農村作り」の施策を打ち出す。

皇国農村に認定されれば、農村のインフラ整備が整うと盛は応じたが、「満洲分村」が条件だった。

天皇直々の長野県知事への分村移民への要請、「大御心に応える決意」で、河野村に割り当てられた満蒙開拓団分村移住者を募る。

敗戦1年前、25世帯95人の移住が決まった。

 

 

1944年3月盛は、先遣隊と入植地を視察に行く。

河野村分村は、新京の郊外、肥沃な畑が丘を越えてつらなっていた。

盛は「いい村だ」と喜ぶ。

満洲拓殖公社がただ同然で、中国人から畑も家も取り上げ、開拓団に用意したものなのに、盛は疑問を抱かない。

 

 

入植した開拓団員たちも、誰かが耕作していた畑だとは気づくけれど、気にしない。

国民は「日露戦争で勝ち取った権益」「満洲は日本の生命線」とか国の宣伝を血肉にして、疑わなかった。

開拓団員たちは、広大な肥沃の土地の地主になれたことが嬉しかったのだろうか。

 

 

2017年8月伸さんは、長春(旧新京)の郊外に満洲開拓河野村分村の跡地を訪ねる。

当時入植地に住んでいた88歳の蔡さんと面談できた。

蔡さんは、当時14歳、追い出され、村から離れた誰も住んでいない湿地帯に草の家を建てて一家は暮らす。

野菜も米も作れずドングリを粉にして食べた。

日本人に殺されなくてよかった。

日本人のいう事が絶対だった。」                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                             

 

 

伸さんは、「お祖父さんは、自分で選び自分の人生を歩んでいるつもりで、大きな流れの元で、国の考える役割にはまっていった」と祖父の行動を悲しむ。

 

 

1944年5月河野村開拓団員本体が入植し、1945年1月家族を呼び寄せ、全員がそろう。

しかし、5月には、敗色が濃く関東軍は主力部隊を南方戦線に移動、開拓団の男性を根こそぎ徴兵、員数を補充。

開拓村には女性と子どもが残される。

 

 

(つづく)

 

 

-Ka.M-

敗戦80年、戦争をとめる草の根の集い(1)

「人はなぜ、戦争に協力してしまうのか」〜「満洲開拓移民」を通して考える〜のテーマで集会が8月10日(日)松戸市民会館で開かれました。

150名の会場は満員、立ち見が出て、資料は品切れになるほどでした。

 

始めに、実行委員会から「満蒙開拓団とは何だったのか?」のプレゼンがありました。

 

満洲国(1932年〜1945年)とは? 

   日本が中国北東部に建てた”傀儡国家“

 

満洲開拓団とは? 

「北満の沃野へ」「拓け満蒙 行け満洲へ」の標語やポスタ—で、国民を満州の広大な沃土へ誘い、満州国の農業開発、食糧増産、産業開発また満州国の防衛を担わせる目的もあった。

町村役場が窓口で、村ごとに、十数家族をまとめ1団を結成、分村として満洲に送り出した。

全国で約27万人、長野県は知事が率先して旗振りをし、3万8千人と突出していた。

8月9日ソ連侵攻、8月15日天皇の”終戦詔書“放送、関東軍はすでに退却、ソ連軍の略奪、現地住民による襲撃、開拓団の男性は根こそぎ徴兵されて、開拓団に残った女性と子ども、老人で逃避行、極寒の収容所で、飢え、病気、集団自決などで、8万人が死亡。

 

・帰国した中国残留日本人、帰国者の2世、3世の日本社会で生きる困難は、今なお続く「満蒙開拓移民」が残した課題だ。

 

満蒙開拓移民」とは何であったのか、国策に翻弄され、満洲国崩壊と共に、棄民された民衆が直面した逃避行、引揚げ—−8万人の死者の無念を受けとめ、加害と被害の実相を学び、次世代に真実を伝えていくことが、私達の課題と結んだ。

 

 

 

◆『沈黙の奥底〜河野村分村が問いかけるもの』

 

(2024年8月13日信越放送作成)の上映

 

https://www.youtube.com/watch?v=Zk17y7O-3OI

 

1944年〜45年、長野県下伊那河野村(現在は豊丘村)は満洲開拓分村移民に25世帯95人を送りだした。敗戦の翌日16日、開拓団家族73名が集団自決した。

 

「分村」の責任者、胡桃沢盛村長は、1946年7月自死した。

胡桃沢盛が18歳から42歳自死する数日前まで、24年間毎日綴っていた日記を孫の胡桃沢伸さんが読み、伸さんの目を通して、祖父の感じ、考えたことを辿り、祖父が国策に応じ実行していった変遷を分析して「満蒙開拓移民、河野村分村」の実態に迫り、今も生きる課題として問題を投げかける作品です。

 

(つづく)

 

 

 

-Ka.M-

ヘイトスピーチ、参政党の躍進

参院選の結果、参政党が熱狂的な支持者を集めて大きく議席を伸ばしたことがにわかに注目を集め、排外主義が日本社会を大きく揺るがしています。

 

なかなか政治が変わらない現状に対する不満が既成政党に対する失望へと変わり、閉塞感を打破してくれるのではないかという期待が参政党を大きく押し上げたという指摘が多く見受けられます。

 

確かにその通りだと思いますが、底流には2007年の第一次安倍政権の退陣以来、安倍政権の応援団あるいは親衛隊としての排外主義的な勢力による在日外国人への攻撃があると思われます。

 

この頃誕生した「在日外国人の特権を許さない会」通称「在特会」が不法残留と呼ばれる外国人への攻撃から始まり、「在日韓国・朝鮮人」たたきを始め今に至っています。

 

並行して2010年には「頑張れ日本!全国行動委員会」という新右翼の組織ができ、街頭で笑いながら「殺せ殺せ朝鮮人、毒を飲め、井戸に飛び込め」という聞くに堪えないヘイトスピーチを叫びながらデモ行進をしている姿をネットで見てがく然としたことがあります。

よくこんなことが堂々と許されているなと疑問に思いました。

 

彼らはそのうち、日本人であっても「在日」と見なせば「韓国、朝鮮人」とのレッテルを貼り、SNSでデマを流して攻撃をすることによって排除しようとする流れを強めていきました。

 

日本の国会議員も例外ではなく10年前、安保法制廃止の署名集めで近所を回った時に近所の知り合いの主婦の人から真顔で「民主党の菅さんや鳩山さん、枝野さんって『在日』なの?」と尋ねられ絶句したことがありました。

「大嘘ですよ。そんなことがあるわけない」と否定しても「だってネットでそう言ってたよ」と信じ込んで疑わない様子に驚いたことがあります。

 

 

SNS上ではまことしやかにこのような言説がまかり通り、一般の市民がそれを頭から信じ込んでいるという現状があります。

これでは立憲民主党の支持率が上がるわけはありません。

 

一方で日本人であればいいという訳ではなく、デマをきちんと正しながら、このような民族差別を許さないという姿勢を当時の政治家たちは示すべきだったと思います。

 

そして今年の7月、参政党の候補者の街頭演説の場で参政党の支持者から抗議する人々に「お前ナニジンだよ」「15円50銭って言ってみろ」と朝鮮人差別をむき出しにして許されない言葉が発せられたのです。

 

ヘイトスピーチヘイトクライムの現状が臨界点を超えている現状に対し立憲民主党有田芳生衆議院議員らが「包括的差別禁止法」を制定しないといけないと準備を始めたことが報じられていますが、最終的には日本政府がまだ批准していない「人種差別撤廃法案」を批准して日本国内の民族差別を許さないという姿勢を政治レベルでしっかり見せることが必要だと思います。

 

この点はまだまだ共通認識に至っておりませんが、様々な大災害が予告されている現在、100年以上前の関東大震災時の朝鮮人大虐殺をいまだに反省していない日本こそ必要な法律だと思います。

 

 

また、この排外主義の波はひたひたと足元に及び、私の参加する合唱団でも最近、川口市クルド人に対し「日本の治安を悪くしている」と信じ込んでいる男性の団員の言動を直接聞き啞然としました。

 

一方、夜間中学に通う外国人の子供たちを守るための活動の現場や市民連合の活動の現場でも、彼らの攻撃を避けるためにビラに「外国人支援」や「参政党批判」の文字を載せないようにしようという自己規制が起きています。

 

かつてのナチスドイツはユダヤ人差別・排斥・攻撃から共産党員への大弾圧、反政府のマスコミ、学校、教会などの取り締まりへと向かい最後は全体主義に至りました。

 

現在の日本社会では戦前からある在日韓国・朝鮮人差別から外国人排斥へと向かい、産業の民主化を掲げ中小企業の利益とそこで働く労働者の権利を守るために先鋭的に闘っていた関西生コン労組が大弾圧で消えかかっています。

 

さらに反政府の様々な活動自体がいまのSNSでは「左翼、極左、アカ」と叩かれ委縮させられていく傾向にあり、大きな分岐点を迎えつつあると言っても過言ではありません。

 

心してかからねば後世に大きな禍根を残すことになるのではないでしょうか。

 

 

-S.Y-

郷土教育全国協議会(郷土全協)のブログが引っ越します

2017年10月から開始した「郷土全協」のブログですが、もうすぐ開設9年目を迎えます。
しかし、残念なことにGoogleブログのサービス終了に伴い他のブログへ移転することになりました。
このgooblog(グーブログ)は使い勝手もよく、グーグルの広いネットワークに乗って多くの皆様に読んでいただきました。
心より感謝いたします。

さて、私たち「郷土全協」は紙ベースの機関誌『郷土教育』の発行を2025年3月の788号をもって終了しました。
とは言っても1951年に「武蔵野児童文化研究会」として発足した「郷土全協」のあつまり(組織)自体は消えたわけではありません。
今後も新しいブログ、いわば新居から私たち個々の活動や思いを発信していきます。

新しい引越し先はgooblogが推奨している一つであるHtenaBlog(はてなブログ)となります。
正式なURLは未だ決まっていませんが、上記の「HatenaBlog 郷土全協」、「はてなブログ 郷土全協」、「郷土教育全国協議会 ブログ」等で検索してください。
尚、2025年11月18日にgooブログはサービスが完全停止しますが、それまでの間に私たちも引越し手続きを進めてまいります。
引越しの完了後は11/18まではgooblogとリンクしてHatenaBlogに飛ぶことが可能かもしれませんので、試しにアクセスしていただけると有難いです。

新規投稿は今回をもちまして終了させていただきます。
次にお会いできる日を楽しみにお待ちしております。
ありがとうございました。




<管理人>

郷土の風景

久しぶりに田舎の実家に行った。
お盆くらいは墓参に行かないと、亡き父母に叱られから...。

しかし、ここ数年で田舎の風景はガラッと変わってしまった。
大部分の水田は企業の蓮根栽培の地に様変わりした。







辛うじて弟が退職後に引き継いだ水田は残っているが、多くの家々では後継者がおらず企業に売却したり貸与している。
蓮田にしてしまうと、もう後には戻れない。

実に悲しい風景だ...。







子ども時代に遊んだ神社の入口が見えた。
その横にあるのは祭りの時に幟を立てる旗竿の保管場所だ。
ここでも電車ごっこやチャンバラをして遊んだものだ。


写真には写ってないが、水田の中央には小川が流れている。
ここを通って我が家の池までウナギが上ってきたなんて、もう誰も信じる者はいない。
神話のような話だ。


日本の農業問題の実に深刻な姿がここにも存在している。
こうなるまで放っておかれた農業従事者は今、何を思うだろうか?間違いなく自民党に1票を入れていた人々だ...。



-S.S-