昭和40年代のレコード
3回続けてラジオの事を書いたので、
まず今回は昭和40年代、
まずは1969年の、
「夜明けのコーヒー、二人で飲もうと、あの人が言った、

続いて皆川おさむの「黒猫のタンゴ」。

そしてドリフターズ。まだ志村けんが加わる前です。「


さすがにこれは父親の趣味です。

そしてその後、こんなレコードも父親が買ってきました。ピンポンパン体操。作詞:阿久悠、作曲:小林亜星。
さらにこんなのもあります。
そしてこれも手元に残っていません。これは川の底に眠っているのか、でなければ海に流れ着いていると思います。小学校4年生の時だったと思います。このレコードを、麻ひもで自転車の荷台に括り付けて橋の上を走っていたら、ひもがほどけてひらひらと舞いながら落ちていき、川面にパシャ。そのままサヨーナラ~でした。


そしてタブーのジャケット、すごいです。ペレス・プラードさんも日本でこの曲が急に売れてビックリしたでしょうね
そしてこのころから私は、歌謡曲、特に女性アイドルに気持ちがググっと傾いていきます。ここから1985年頃までの私の女性アイドル遍歴は、次回以降に。
最後にちょっとオマケ。
小学校の高学年の頃、最も熱心に聴いたレコードはたぶんこれらだと思います。
中日ファンならだれもが知っている「燃えよドラゴンズ!」。もちろん最初の「一番高木が塁に出て~」から始まる昭和49年のバージョンです。歌っているのは「1970年代のラジオ番組②」でも紹介した、板東英二。

そしてこちらは昭和50年、優勝の翌年、V2を目指した時の応援歌「ガッツだ!!ドラゴンズ」です。「燃えよ!ドラゴンズ」はその後何度もリメイクされましたが、こちらはこの時限り。そしてB面の「ドラキチ音頭」を歌っているのは新間正次。彼も「1970年代のラジオ番組③」で紹介済みです。

1970年代のラジオ番組③
今日は1970年代半ばの深夜放送などについて。
といっても私は当時、深夜放送を毎日のように聴いていたわけではありません。育ち盛りの小中学生だった私が、毎晩夜更かしすることは不可能でした。
よく聞くようになったのは中三の頃からですから、1978年あたりですかね。でも曜日を決めて聴いていました。それも9時ごろ一度寝て、12時に起きて聴いて放送が終わる3時にはまた寝るという感じで。
で、毎週必ず聞いていたのは、地元の東海ラジオで放送されていた「ミッドナイト東海」の月曜日。宮地佑紀生(以後、彼のニックネームでもあった「宮さま」と呼びます。また当時は、「宮地由紀男」だったと思います。)がパーソナリティをしていた曜日です。中三の同じクラスの仲が良いメンバーは全員聴いていて、聴いていないと火曜日の朝のみんなとの会話についていけないという感じでした。地元のもう一つの民放放送局であるCBCびいきの私でしたが、なぜか深夜放送だけはCBCではなく東海ラジオだったんですよね。

「恐怖の早切り電話電話」「えぇねぇ、たーけコーナー」「たんかけコーナー」など、懐かしいです。早ぎり電話にはわたしも2~3度出た記憶があります。
ちなみにCBCラジオで同じ時間帯に放送されていたのは松山千春の「オールナイトニッポン」でした。全国的な知名度から行けば当時この二人には当然大きな差がありましたが、宮さまは松山千春を、ウケ狙いも含めてものすごくライバル視をしていました。私も松山千春のことはあまり好きではなかったので、番組最後に毎回流れる「勝ったぁ、勝ったぁ、あ、裏番組に、勝ってまったぎゃー」の宮さまの勝ち誇ったような一言がとても気持ち良かったです(実際に聴取率的には負けていたとは思いますが・・)。ちなみに後でネットで見て知ったのですが、宮さまと松山千春はその後、交友関係があったようですね。最近まで知りませんでした。

宮さまはその後もタレントとして名古屋を中心に活躍し、多くのラジオ番組を持ち、寿がきやのテレビCMに出演したりして、つボイノリオとともに名古屋ラジオ界の顔となっていました。ところが2016年にラジオ番組の生放送中にアシスタントの女性の足を蹴るなどの暴行をはたらき逮捕をされてしまいます。当然ラジオ番組はすべて降板、テレビのCMからも降ろされ謹慎処分に。まぁ若いころからちょっとやんちゃな(名古屋弁で言うと、おうちゃくい)ところがあったので、あー、宮さまやっちゃったな~というのがその時の私の印象でした。その後、謹慎も解け、現在ではCBCラジオで細々とラジオ出演をしているようです。東海ラジオには一生復帰はできないでしょう。
ところで名古屋のラジオ界で人気者だったにもかかわらず、やはり不祥事によって干されてしまった人が他にもいます。新間正次(新間ちゃん)です。彼はCBCラジオの朝の番組「ラジオ朝市」の人気パーソナリティでした。平日朝の主婦向け帯番組でしたが、夏休みや冬休みに欠かさず聴いてました。以前「ばつぐんジョッキー」について書いたことがありますが、こういった昼間の大人向けのラジオ番組が大好きな変な子供だったんですよね、私。

「ラジオ、あーさいちー、ほんなら、いーこみゃーか?」という木魚を叩きながらの掛け声で毎朝番組は始まるのですが、新間ちゃんも宮さま同様、名古屋弁丸出しの人でした。中日ドラゴンズの私設応援団団長もやってましたね。「1000万人ミセスのアイドル」なんてキャッチフレーズも自らつけてました。「電話クイズ、三つまとめて答えてちょー」っていうコーナーもありましたね。こちらも懐かしい。
その新間ちゃん、1991年にラジオ朝市を降板し、1992年に参院選に民社党公認で立候補。当選。ところがそのあと学歴詐称の疑いが浮上し、公職選挙法違反で在宅起訴をされ有罪に。当選無効となりました。しばらくしてタレント活動を再開したようですが、やはり鳴かず飛ばずだったような気がします。10年近く前、同じく名古屋出身の故・天野鎮雄(あまちんさん)が主催する劇団の一員として舞台に立っていたのをたまたま見ました。その時、あーしんまちゃん、まだ元気なんだなとちょっとほっとしました。
暴力事件に学歴詐称、決して褒められたことではありませんが、10代前半だった私に、タイプは違いますがちょっとだけ大人の味を教えてくれたお二人には、しっかり感謝せねばです。
1970年代のラジオ番組②
今回も1970年代なか頃のラジオ番組についてです。
前回は、お昼に放送していたCBCラジオ制作のローカル番組が中心だったので、今回は夜の番組を中心に。
ラジオを聴き始めたのは小学校5~6年生だったので、夜といっても深夜放送を聴くことはなく、せいぜい10時くらいまで。そこでよく聴いたのが9時台の、やっぱりCBCです。

この時間帯はすべて、月~金の帯番組でした
まず9時10分からの「柏ヤン・ノンノン 夜のジョッキー」。この番組、ものすごく印象に残っているので、さぞかし長い期間やっていたのだと思っていたら、まさにこの番組表の期間(半年間)しか放送していなかったようです。
柏ヤンは、のちに「お笑いマンガ道場」の司会などでテレビでも有名になった、中国放送出身のアナウンサー柏村武昭。そしてノンノンは、こちらも元日本テレビのアナウンサーだった江川範子。ふたりともアナウンサー出身ということもあって、とってもスマートな番組だった記憶があります。ちなみに柏ヤンは今でも中国放送などで番組を持っているようですね。今度、radikoで聴いてみようと思います。現在80歳だそうです。

そのほか、東京キー局を中心とした有名DJが勢ぞろいです
続いて、9時40分からの「欽ちゃんのドンといってみよう!」。私がラジオを面白がって聴き始めたのは、たぶんこの番組からだと思います。兄貴の影響ですね。「欽ドン」については詳しい解説はあまり要らないと思いますが、萩本欣一はこの番組から始まって、テレビの「欽ドン!」(こちらは「欽ちゃんのドンとやってみよう!」)、「欽どこ!」など、欽ちゃん帝国(世にいう欽ちゃんファミリー)築き上げたんですよね。
はがきの投稿を中心をとしたスタイルは、のちに多くの番組に引き継がれました。番組の内容もさることながら、私の印象に残っているのは提供の集英社が流していたCMですね。「少年ジャンプ」とか「マーガレット」とか。あと「ガッツ」という名前の雑誌?のコマーシャルもありました。一度も読んだことはありませんでしたが、もうちょっとお兄さん向けのものだったのではないかと思います。
初期のころは、先回写真を載せたラジカセで録音して何度も同じものを聴いてました。ある放送回で欽ちゃんが「埼玉県川口市の〜、ノナカ・マ〜サヒロ」とはがきが採用された視聴者の名前を呼んだ場面は、なぜかいまだにその声の感じまで覚えています。ノナカ・マサヒロさん、お元気でいらっしゃいますでしょうか(笑)
そして最後は、つボイノリオの「のりのりだぁー歌謡曲」。「夜のジョッキー」はTBSラジオ、「欽ドン」はニッポン放送制作の全国ネットの番組でしたが、こちらはCBCラジオのローカル番組です。
この番組については、とにかくいろんなことを覚えています。まず私が聞き始めたことはコーリン鉛筆が提供をしていました。「ジブヤングタイム!」とつボイノリオが叫び、そのあとラジオ体操第一の歌がかかって番組が始まっていました。ちなみにジブ(JIB)はコーリンのシャープペンシルの商標名です。
そのあと番組を提供したのは、アンネ。「敏感な一週間をできるだけ快適に。アンネ株式会社の提供でお送りします」とつボイノリオがちょっと神妙な声で語るところから番組が始まり、小学生の私には相当刺激的でした。(ちなみに「アンネ」が隠語として何を指すのかは、もちろん、あのねのねの「赤とんぼの唄」で知りました)
また、直前の「欽ドン」をライバル視しており、毎週金曜日にあった「人気DJベストファイブ」のコーナーでは常に自分がダントツ1位、一方で欽ちゃんの悪口をしょっちゅう言ってました。こういうちょっと田舎者の悪ノリ的なところが本当に面白かったですね~。
はがきを読まれた人への景品も「軽石」とか「ブルマ」とか「パンツのゴム10メートル」とかなんだか良くわからないものが多かったです。当時はまだ小学生で、投稿するほどの力量(笑)がなかったのですが、いつも欲しいな~と思ってました。

他もすごいメンバーですな~
ということで今回は、当時の私にとってのゴールデンタイムだったCBCラジオの午後9時台の番組を紹介しましたが、実はこのころの私は、地元で聴けるCBCラジオや東海ラジオのほか、北は北海道から南は沖縄まで、日本中の民放局の番組を聴いていました。そんなこともまた別の機会でお話ししたいと思います。
1970年代のラジオ番組①
今回からしばらく、ラジオのことを書いてみようと思います。
私がナイター中継以外ででラジオを聴き始めたのは、記憶と記録を紐解くと1975年頃から。小学校5年生でした。
二つ年上の兄の影響ですね。それと父親がこのころソニーのラジカセ、CF-1480を買ってきた事も大きかったと思います。
CF-1480、これです。

実は今回のブログを書くにおいて、写真であげられるものが少なかったので、ネットで探して、メルカリで買っちゃいました。
まさかこんなのがまだ手に入るとは思いませんでしたよ。メチャメチャ懐かしい!見ていただいて分かるように、チューニングダイヤルに特徴があるので、今でもそれなりに人気があるのかも。

まぁ私も、1975年に買ったラジオ、GOUGAR115、1977年に買った同じくPROCEED2800を後生大事に持ってるくらいですから、中古市場ではまだたくさん出回ってるんでしょうね。(この2モデルについては、また別の回に)
話を戻します。当時、地元の名古屋にあった民放ラジオはCBCラジオ、東海ラジオ、FM愛知の3局。このうち圧倒的によく聴いていたのはCBC。当時の印象深かった番組をいくつかご紹介します。
まず「土曜天国」。土曜日の午後にやっていた、いわゆる電リク番組です。

電リク、完全に死語ですね。一応言っておきますと、電話リクエストのことです。私が聴いていた頃のパーソナリティは、ご存知つボイノリオ。あ、東海地区以外の皆さんはそれほどご存知じゃないかも。1976年からは、あの兵藤ゆきがアシスタントパーソナリティを務めていました。彼女の方が全国的には知名度は高いですよね。ちなみに彼女は私の兄の高校の先輩です。
毎週土曜日、学校が終わって家に帰ると、電話リクエスト受付電話番号の291-0007につながるまで何度も何度も電話をかけました。もちろん黒電話の時代です。0が多い番号なので、ダイヤルを回したあと戻るまでに時間がかかってじれったかったことをよく覚えています。
この番組は、当時CBCにあったサテライト型のレインボースタジオというところから放送されていました。このスタジオ、ショーウィンドウのようになっていて、放送をしているところが、外から見えるんですよね。
CBCまでは、当時住んでいたところから自転車でも何とか行ける距離だったので、時々見に行ってました。兵藤ゆきにパーソナリティが変わった第一回目の放送(1976年4月)も「どんな人か見にいこうぜ」という事で、友達と自転車をこいで行ったことを覚えています。
続いて「オー!!サンデー」。こちらは日曜日の午後の番組です。

パーソナリティは当時、CBCの若手人気アナウンサーだった多田しげお。こちらはCBC内にある第一スタジオからの公開生放送でした。
こちらも何回か行きましたねー。4時間という長丁場の番組でしたが、レインボースタジオと違って屋内のスタジオで椅子に座ってゆっくり見られるので、早めに行って並んで、番組が終わる午後5時まで見てました。
まだ俳優として人気が出るずっと前で、CBCのナイター中継で解説をしていた頃の坂東英二が「バンちゃんの野球道場」というコーナーを持っていて、当時まだドラゴンズで現役だった高木守道氏の事を、愛を込めてよくおちょくってましたね。懐かしいです。
その後、広川太一郎がパーソナリティを務めた「オーサンデー 歌謡ジャンボ」をはさんで野口小太郎、板東英二、ハリケーン青木などがパーソナリティーを務めた第二期も、何度か行きました。
そしてその坂東英二がメインパーソナリティを務めていたのが、平日の午後に放送をしていた「ばつぐんジョッキー」。

これは聴いていた記録がちゃんと残っています。夏休みや冬休みに聴いてたんですよね。

そもそも平日の昼間にラジオを聴いているのはたいてい主婦の方、あるいは自営の方くらい。当然そういうリスナー向けの内容になんですが、それを小学生が聴いて喜んでいたわけです。変な小学生でした。
ちなみに坂東英二は月曜日を担当していて、木曜日を担当していたのは上岡龍太郎。元中日のピッチャーだった坂東英二と、大阪出身で大の阪神ファンだった上岡龍太郎は、中日と阪神の代理戦争よろしくしょっちゅう悪口を言い合ってましたが、実際のところ坂東英二は上岡龍太郎をとても尊敬しており、芸能界の先輩である上岡からいろいろアドバイスをもらっていたそうです。
ちなみに、つボイノリオは今でもCBCラジオで番組を持っていますし、多田しげおも、今年の3月まで朝の番組でメインパーソナリティーを務めていました。私が聞き始めたところから数えても約50年。すごいです。
おっと、CBCのローカル番組を3つ紹介しただけなのに、えらく長くなっちゃいました。次回は、東京のキー局ネットのラジオ番組、あるいは名古屋以外の放送局などについてお話します。
ところで、上の写真の番組表は、この雑誌から持ってきています。


ラン・ラジオ。全国のラジオ局のタイムテーブル(番組表)が載ってました。当時の私にとってはバイブルでした。小学生のころに買ったものは紛失してしまったのですが、今から5-6年前、アマゾンで新品で出ていたものを再購入しました。発行されて40年以上経過している雑誌の新品が存在してるって、どういうことなんでしょうね。
昭和40年代後半から50年代後半にかけての高校野球(その2)
前回は1973年から1977年にかけてのお話をさせていただきましたが、今日は1978年から1982年(私は中3から大学1年)まで。
まず1978年ですがPL学園が初優勝をした年でした。桑田・清原が入学したのは1983年ですので、まだその5年前です。
この年の大会で最もよく覚えているのは、準決勝第一試合、地元の中京高校が九回表まで4-0で勝っていたのも関わらず、PL学園にその裏に追いつかれ、延長十二回でサヨナラ負けをした試合です。

この試合、夏の暑い日にテレビで見てましたが、いやぁがっくりしました。その時の感覚は、46年経った今でもなぜか忘れられません。ちなみにこの年のPL学園には、のちに広島に行った西田や、阪神に行った木戸などがいた強いチームでしたから、しょうがなかったのかもしれませんが。
そして私はこのころ、高校野球の試合のスコアブックを良くつけていて、この試合のものも残っています。スコアラーでもマネージャーでもないんですが(笑)

そして翌1979年には、西武に行った石井毅を擁する箕島が優勝。ちなみにこの年の春の選抜大会は、ドカベン香川と牛島のバッテリーで、浪商が制しています。
この大会での名勝負は、なんといっても延長十八回までもつれた、箕島と星稜の試合ですね。先攻の星稜一点リードで迎えた十六回裏、箕島の攻撃二死走者なし、一塁横へのファールフライで試合終了かと思いきや、星稜一塁手が人工芝の端に足を取られて転倒。そのあとホームランが出て箕島に同点に追いつかれ、十八回に箕島がサヨナラ勝ち。これも見てました。ファールフライを取り損ねた瞬間も。午後4時過ぎに始まった試合が終わったのは、8時近くでした。

しかしこの試合、両チームのピッチャーは18回を一人で投げ切ってるんですよね。今ならあり得ないです。
そして1980年には早稲田実業の荒木大輔が一年生でさっそうとデビュー。決勝で愛甲の横浜高校に敗れたものの、準決勝までの5試合で無失点、一躍スターとなった年でもありました。


そして1981年は準決勝で工藤公康の名古屋電気(現・愛工大名電)と金村義明の報徳学園が対戦。私はこの時高3だったので、彼らは同学年なわけです。ちなみこの年の春の選抜は大府高校が愛知県から出場しており、その時のピッチャーは槙原寛己でした。ということで、彼も同じ愛知県で同学年。


この試合、工藤が打たれて報徳学園が勝ちました。ものすごく朧げな記憶なのですが、この日は、高校に行って大学受験のための模試を受けていて、その時、体育教官室のラジオから、この試合の中継がかすかに教室まで聞こえてきていたような、いないような・・・
報徳は決勝でも京都商業を破り、初優勝を遂げます。
そして1982年。この年はエースで4番の畠山の活躍で池田が初優勝。水野雄仁はまだ2年生でレフトを守っていましたがしたが、すでに大物の片りんを見せていました。そして3年生になった荒木大輔の早実は、準々決勝で池田に大敗。春夏合わせ5期連続で甲子園に出場した荒木ですが、結局1年の夏の準優勝が最高で、優勝には恵まれませんでした。
ということで、昭和40年代後半から50年代後半までの高校野球(夏の大会)の、記憶と記録に基づいた振り返り、以上です。そしてこの10年間を総括して出た結論は次の通り。
「イケメンは、たとえ実力があったとしても、優勝はできない。原辰徳しかり、バンビ坂本しかり、荒木大輔しかり。」(そこかいな!)
まだ春の選抜もあるのですが、それはまたの機会に。
最後になりましたが、以下がわが家にあるアサヒグラフの特別増大号(甲子園特集号)のすべてです。

昭和40年代後半から50年代後半にかけての高校野球(その1)
今日は、高校野球についてです。
高校野球に対しては「今年の夏の大会は、どこが優勝したんでしたっけ?京都国際?あーそういえばそうでしたね」というくらいの感じです、今は。
そんな私にとって高校野球が最も旬だったのは、1973年から1982年まで、小学校4年生から大学1年生までの10年間でした。今回はその前半の5年間の「夏の甲子園」について、いつものように手元に保管されている資料をベースにお話しします。

このころ夏の大会が終わると、必ず朝日グラフを買っていました
表紙は原辰徳です(この時は2年)
1973年、この年から高校野球をしっかり観るようになりました。作新学院の江川卓が3年生でしたが、作新は2回戦で翌年優勝する銚子商業に敗れてます。そして優勝は広島商業。決勝戦についてのこんな観戦記が、私の小学校4年の夏休みの日記から発掘されました。

そして翌1974年は、銚子商業が土屋正勝を擁して優勝。この年は、夏休みの自由研究として高校野球に関する新聞記事をスクラップしており、こんなものも残っていました。


優勝した名古屋電気工業(今の愛工大名電)はこの年が甲子園初出場
右は、銚子商業が甲子園で優勝した翌日の朝刊
エースの土屋はプロでは花を咲かせられませんでしたが、このチームの4番は巨人で大活躍をした篠塚でした
1975年は習志野が千葉県に2年連続の優勝をもたらし、当時、ものすごい人気だった原辰徳の東海大相模は準々決勝で敗退。1976年は桜美林が60年ぶりに東京に優勝をもたらし、やっぱり東海大相模は2回戦で敗退。甲子園の神様は、原には微笑まなかったんですね~。でもって私ったら、1975年にこんな日記を。

それにしても小学6年生の自分、自由すぎます
そして1977年は、バンビ坂本の東邦が準優勝。決勝戦、リアルタイムで見ていたことを今でもよく覚えていますが、地元の学校だったということもあって悔しかったですね。しかし当時、すでに東邦の監督だった坂口慶三さんが今年の3月まで大垣日大で監督をしていたというのは、本当に驚きですな~

私の住んでいた町に東邦の練習グランドがあったのですが、大会のあとはすごくたくさんの人が坂本を見に来ていたようです
ちなみにこの年は、後に中日のエースとなった小松辰雄を擁した星稜と、同じく近鉄で活躍した山口哲治の智弁学園が一回戦で当たっています。

というわけで、今回は10年間のうちの前半の5年を紹介しました。後半の5年間にも新しい甲子園のヒーローたちが誕生しますが、それはまた次回に。
番外編・ダブとファンクを観る②(ファンク)
番外編その②、今日は「ファンク」を観に行ったお話です。
ファンクといっても、ドリー、テリーではありません。
先日書いた「ダブ」と同じく音楽のジャンルですが、ダブよりは幾分メジャーですかね。
ファンクもジャズやブルース、R&Bと同じく、黒人起源のブラックミュージックのひとつですが、よりリズムに重点が置かれており、ソウルとディスコの懸け橋になったなどともいわれています。
文章で説明するのは難しいのですが、例えば「ゲロッパ」でおなじみのジェームス・ブラウンの名曲「Sex Machine」なんかがファンクだと言えばわかりやすいですかね。
そのほかにも、スライ&ザ・ファミリー・ストーンやクール&ザ・ギャング、そしてプリンスなんかもこのジャンルの人達です。
日本では、私が大好きなJAGATARAや、わかりやすいところでいうとバルブガム・ブラザーズの「Won't Be Long」なんかもファンクですね。

ただこの面々、主に活躍をしたのは1960年代後半から1980年代半ばまでで、すでに亡くなっているか、コンスタントな音楽活動をしていない人たちが大半です。
その中で、現在でも活躍している、おそらく現役最高齢のファンクミュージシャンが、ジョージ・クリントン。
ジョージ・クリントンはパーラメントとファンカデリックという二つのバンド(メンバーはほぼ同じなんですが)を率いて1960年代の後半から活動を開始していて、特に70年代に多くのヒットを生みました。
彼らの音楽は、この二つのバンドの名前からとって「Pファンク」と呼ばれていました。
その彼らが先月「パーラメント ファンカデリック Feat. ジョージ・クリントン」として来日して、名古屋でもライブを演ったわけです。
私が、ジョージ・クリントンの存在を知ったのは、1980年代前半。といってもパーラメントやファンカデリックは、当時ブラックミュージック初心者だった私にはちょっと敷居が高かったんですよね。
そこで手に入れたのは、ウィリアム・ブーツィ・コリンズが当時ニューアルバムとして出ていた「灼熱のP-ファンカー」(すごい邦題!)でした。
彼はパーラメント/ファンカデリックのベーシストであり、ジェームス・ブラウンのバックバンドメンバーでもあった人物です

このド派手なアルバムジャケットに惹かれ、ついつい買ってしまった記憶があるようなないような。1982年のことです。
このあと私は、キング・サニー・アデなどのアフリカものも含め、ブラックミュージックにどんどん傾倒していくのですが、このP-ファンク軍団はなぜかこれ以上深追いすることもなく(70年代後半の旬の時代を逃してしまっていたからかもしれません)、何となく気になる存在、くらいのままで月日は流れました。
そしてこの数年、Apple MusicからP-ファンクのアルバムをダウンロードしてちょっと聞いてみたり、トーキング・ヘッズのストップ・メイキング・センスに、パーラメント/ファンカデリックの中心メンバーでキーボーディストのバーニー・ウォレルが参加していたことをあらためて知り、おおっ、と思ったりしていたところに、ジョージ・クリントンの名古屋公演の情報が飛び込んできたわけです。
ジョージ・クリントン御大は、すでに83歳。前回の番外編でも書いた「生きているうちに観ておかないと後悔する」精神を発揮させて、すぐにチケットを取り、まだ暑さが残る先月の中旬に、ダイアモンドホールに足を運びました。
そもそも私の周りには「私、ブラックミュージックが大好きなんです!」なんて健気な人はまったくいないので、どんな人が集まってくるんだろうかと興味津々でした。
オープン前に着き、少し並んで会場に入りましたが、この前の週のDUBのライブに比べると年齢層はちょっと高め。若いころ「ソウルトレイン」にはまってました的な、私より少し年上かなと思われる方も結構来ていました。まぁソウルトレインとファンクはちょっと違いますが。
80年代前半までの、クラブ化する前のいわゆる「ディスコ」で踊りまくっていて、あこがれのダンサーはテディ・団です!みたいな人はやはりあまりいませんでしが、実は変わり果てていて、実際はそうだったという方々は、いらっしゃったのかもしれません。
ここからはライブについてですが、まぁそれはすごかったです。とにかく大人数で大音量!翌日もまだ耳がチーンとしてました。

で、83歳の御大、ジョージ・クリントンはどんな感じだったかというと、こちらもノリまくり。そして大御所感が半端なかったです!



ですがそこは83歳、三分の二くらいはほかのメンバーにヴォーカルを任せ、ドラムセットの前に置いた椅子に座って休憩を取ります。

バンドメンバーのほとんどは若い人たちに入れ替わっていますが、70年代の全盛期を彷彿とさせるファンクミュージックであることには変わりはありません。カッコよすぎます。





出ているアルバムが多いので、何を予習していったらよいのかもよくわからず、とりあえず有名な曲としてGive Up the FunkとMaggot Brainは覚えていきましたが、両方ともちゃんとやってくれました。Give Up the Funkはなんか途中で終わっちゃった気がしましたが。
てな感じで、あっというまの2時間15分でしたが、自分はつくづくこういうのが好きなんだなぁと再認識できました。
この日の出来事は、一生自慢できると思います。といっても自慢できる相手がまわりにほとんどいませんが・・・