『平場の月』ネタバレ

 「性格悲劇」ということばがあって、それはシェークスピアの『オセロ』なんかを評するための言葉。『オセロ』を読んだり観たりしたあと誰もが「オセロ、お前よぅ」と思うあの感じをそういう言葉で言い表している。
 『平場の月』はまさしくそれで、つまり、この映画は主人公の須藤葉子という人を描く映画で、彼女を演じた井川遥がどのレベルまで彼女の魅力的な性格に命を吹き込めるかにすべての成否がかかっている。
 井川遥が初めて私たちの目の前に現れたとき彼女はアイドルだったのか俳優だったのかモデルだったのかちょっと思い出せないのだけれど、しかし、『トウキョウソナタ』のピアノの先生役のときにはもう「おやっ」と思うくらいに役者さんだった。
 『平場の月』の須藤葉子は50歳の設定だが、井川遥の実年齢も49歳。この役は運命的な出会いと言っていい。ふりかえれば、この役は井川遥の役者人生のひとつの道標になっていることだろうと思われる。
 堺雅人に呼びかける「青砥」という声のトーンとか、予告編にもある「夢みたいなことだよ。夢みたいなことをね、ちょっと」というセリフは、映画全体を通してみると、井川遥のこのセリフの言い方がいかに見事に映画全体を貫いているかがわかる。うかつに見逃すと井川遥がふつうにしゃべっているようだけれども全くそうじゃなく、まるで彫刻家が須藤葉子の姿を彫り出すようにあのセリフで須藤葉子の性格を表現している。
 「デ・ニーロ・アプローチ」と言っても言い過ぎではないと思う。この映画は井川遥が須藤葉子というキャラクターを演じるのをみんなで際立たせるって映画だ。そして現場全体をあげたそうした貢献に井川遥がみごとに答えている。
 東京近郊の小さな町を舞台にした老いらくの恋物語という地味な設定に、シェイクスピアの四大悲劇に引けを取らないスターシステムを当てはめたところにこの映画の独自性がある。古典的な器に、今このときも日本の地方都市のどこかにあるかもしれない、小さな出会いと別れを盛りつけたことで、リアリティーが際立っている。作品のリアリティーがもはやリアルを超えている。

 土井裕泰監督といえば『花束みたいな恋をした』を思い浮かべるだろうから、この映画がそのシニアバージョンだと思うのも無理はないが、『花束みたいな恋をした』は何といっても坂元裕二脚本の色が濃い。
 これに対して『平場の月』は朝倉かすみの第三十二回山本周五郎賞受賞作の小説を原作に、脚本は『聖の青春』で第71毎日映画コンクール脚本賞、『ある男』で第42回日本アカデミー賞最優秀脚本賞を受賞した向井康介
 こういうことをいうと時代に合わないのかもしれないけど、女性の小説を男性の脚本家が脚色したのもいいバランスになってる気がした。たとえば安藤玉恵が演じたうみちゃんは小説ではもうちょっとやな感じに描かれているけど、映画では、安藤玉恵のキャラクターもあるのかもしれないけど、愛すべき感じになってる。小説にかぎらず、これにかぎらず、女性の女性評って男性には不可解なところがある。
 そのほかにも細かい変更が小説からシナリオにメタモルフォーゼするさいに施されていて、これが実にファインチューニングというか、原作と登場人物はほぼ変わらないのだけど、その出し入れ、濃淡の変更が職人技だと思う。
 映画のオリジナルキャラクターは塩見三省の演じる焼き鳥屋の親父で、このキャラは最高。最初に『オセロ』を例に出したのでその勢いでたとえるなら、オセロが自決した後、「船に乗って国に帰り、事の顛末を知らせねばなるまい」というロドヴィーゴのように静かに、焼き鳥屋に流れる薬師丸ひろ子の「メインテーマ」で幕を閉じる。

 それからこれも細かい出し入れだけど、成田凌の演じる年下の彼も、出番は少ないけどいい味を出していた。でも、一応彼を出すのも脚本が男だからかなぁとも思う。映画で吉瀬美智子が演じている青砥の元妻のキャラも小説の描写はバッサリ切り捨てている。小説の方はかなりリアルでちょっとしんどい。
 小説は、各章ごとに印象的な須藤葉子のことばがタイトルになっている、小説の言葉遣いとして挑戦的なものだと思えた。150年前に現代日本語が発明されたときはたしかに言文一致していたと思うが、150年前の言文一致はいまではもう文語になっている。今、現に使われている口語をどうやって文章にしていくかは、もちろん小説家の重要なチャレンジだ。が、それ以上に、現代にリアタイしようとすれば現代の言文一致が必要になるのは当然かと。今、私たちが使ってる言葉でないと表現できないものがやっぱりある。
 繰り返しになるけど、そういう今の今の言葉をシェークスピアの器に入れて出したのがこの映画の美しさだと思う。異論はあるでしょうが。しかし、井川遥の素晴らしい演技にはだれも異論を唱えないでしょう。こういうの出されたらやっぱり嬉しいよ。『花束みたいな恋をした』を観た人はぜひ観比べてほしいな。

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