○少し休みます。

 9月になって立て続けにアップしているのは、これまで書き残していたものを全部はき出しておこうと思ったからだ。

 この8月は私にとって最悪の月であった。暑い日が長く続き、9月になっても一向に涼しくならない。その上この体調不良である。
 CT、胃カメラ、エコー検査、血液検査をしても、胃の辺りにある痛みの根本的原因が結局わからなかった。ただ血液検査で肝機能障害がわかり、そうなったのは狭窄症で飲んでいた痛み止めの薬の副作用ではないか、というくらい。事実、狭窄症の薬を止めてからは、痛みは徐々に消え、今は、食欲不振だけとなった。
 痛み止めの薬は4ヶ月も飲み続けてきたから、そう簡単に元に戻らない。医者からそう言われている。体調不良と食欲不振で体重も4キロほど減った。そしてこの間、熱中症の心配ももあり、ほとんど家にいたものだから、体力もかなり落ちてしまった。もちろん本を読む気力など全く失せてしまった。

 色々考えた末、このブログを少し休むことにした。

 これまでがむしゃらに書いてきたわけではないが、いつの間にか力を入れすぎているところもあった。それ故、ただでさえ拙い文章が余計にひどくなっているところを感じてもいる。どこか無理をしていた。そんなこともあって、ここで一休みするのもちょうどいい機会ではないか、と思うようになった。

 体力、気力が回復してきたらまた再開しますので、よろしくお願いします。

# by office_kmoto | 2025-09-07 05:23 | Comments(1)

○安岡 章太郎 著『僕の昭和史』〈1〉

○安岡 章太郎 著『僕の昭和史』〈1〉_d0331556_05183502.jpg 第一巻は昭和の初めから終戦までの安岡さんの生活が描かれる。この間安岡さんは学生という、ある意味、この時代特別な身分であった。学生が特別なのは、学生の間は兵隊に取られることがないということだ。たとえどんなできが悪くて留年、落第しようとも学生である間は、戦争に行かずに済む。
 おそらく安岡さんが学生であることが、重要ではないかと思う。準戦時下、戦時下において、安岡さんが書く「戦争」がどこか他人事のように感じてしまうのも、安岡さんが学生であることで戦争に行かなくて済むということが大きいのではないか。国内において、本当に日本が戦争しているのか、と思わせるところがあるのだ。


 しかし、「十五年戦争」という言い方は、戦後になって出来たもので、当時は誰もこんな戦争がこれから十五年間もつづくだろうとは、夢にも思っていなかった。いや、僕自身の実感からいっても、シナ事変と大東亜戦争は一体のものと考えられるが、満州事変とシナ事変との間には、ほんの数年間にしろ平和なインターヴァルがあって、それを戦争とは呼べない気がするのだ。


 シナ事変と日中戦争の間が「平和なインターヴァル」であったというのは驚きであった。安岡さんはこの「平和なインターヴァル」の間に何が起こったかを列挙するが、我々が見る限り「平和なインターヴァル」には見えない。


 昭和6年9月18日 関東軍軍事行動開始(満州事変)
 昭和7年1月28日 第一次上海事変起こる
 同年3月1日 満州国建国宣言(満州事変終了)
 同年5月5日 上海日中停戦協定(上海事変終了)
 同年5月15日 海軍将校、並びに陸軍士官候補生、首相・内大臣官邸襲撃。犬養首相を暗殺(五・一五事件)
 昭和8年1月1日 山海関で日中両軍衝突
 同年2月24日 国際連盟、日本軍の満州撤退勧告案を四十二対一で可決。松岡代表退場(国際連盟脱退)
 昭和9年3月1日 満州国帝政実施
 昭和10年3月 ドイツ再軍備宣言
 同年10月 イタリアのエチオピア侵略はじまる
 昭和11年2月26日 皇道派青年将校、下士官兵、1400名を率い、クーデター。高橋蔵相、斎藤内相、渡辺教育総監らを暗殺(二・二六事件)
 同年9月 フランコ将軍、スペイン国家主席に就任(スペイン戦争はじまる)
 同年11月14日 内蒙軍、関東軍の支援で綏遠進撃(傳作義軍のため大敗、綏遠事件)
 昭和12年7月7日 北京郊外盧溝橋で日中両軍衝突(シナ事変=日中戦争はじまる)


 こうやってみると、満州事変からシナ事変までの間にも、いろいろのことが起こっており、“非常時”つまり準戦時下にあったことがわかる。しかし、満州事変そのものは僅か半年間でカタがついており、上海事変は小規模な局地戦で文字通り“事変”に過ぎなかったから、戦争の危害が僕ら銃後の国民生活におよんでくることは考えられもしなかった。というより、この二つの事変は日本にとって儲かる戦争であったというのが、国民全般の実感だったろう。勿論、あの戦争で、どれだけの費用がかかり、どれだけの利潤と経済的な効用があったかなど、僕らにはわかるはずがない。ただ、たった半年間の戦争で、あの広大な満州の土地が手に入ったというだけで、これはたいへんな大儲けだと、国民一般はおもったはずである。


 事実、あの頃から、日本の景気は、見せ掛けだけにしろ、上向いてきたに違いない。もう叔母も、口ぐせのようになっていた「クビ」だの「失業」だのという言葉をあんまり言わなくなっていたし、「ゲンポー」のことでグチをこぼすことをやめた。


 これは説明がいるかもしれない。つまり、満州事変が起こる前は、第一次世界大戦後、世界的に軍縮が大勢となって、海軍力の軍縮が主要国で協議された。陸軍でも極東における軍事的脅威が薄らいだことから、度重なる軍縮が行われた。これが安岡さんの父親や母親が言う「軍縮」であり、「減俸」である。


 軍人や役人は、景気不景気の影響はあまり受けないとはいうものの「ゲンポー」とか「グンシュク」とかいう言葉は、たびたび父や母の話から聞いた。


 一方、「ゲンポー」はもっと現実的な響きがあった。僕は、あまり物を欲しがる子供ではなかったが、母が何かにつけて「ゲンポーだから、倹約しなければいけない」というのは、しょっ中きかされた。つまり、軍人や官吏の俸給は一律に一割減俸になったので、それは子供の小遣いにまでひびいてきたというわけだ。

 
 安田武の『昭和東京私史』にも、「減俸」の話がある。


 この「モボ・モガ」全盛時代の昭和四年秋、官吏の「大減俸」が行われているのだった。
 「不意打ちの大減俸に、俸給生活者の大動揺、暗影に包まれた官吏社会、重大な社会問題へ」と新聞は報じた。「がう〱と巻き起こる、下級官吏の悲痛な叫び」とあり、内務官吏「安い家でも捜す外はない」、警察官吏「内閣諸公には苦労は分からぬ」、陸軍軍人「軍人だとて黙って居れぬ」といった談話がつづく。復興「祭」どころではなかった。



 だから満州事変が起こったことで、世の中が変わり、景気が良くなる。前述の安田武の『昭和東京私史』にも、満州事変を国民が支持する理由が書かれる。


 もし佐多稲子がいうように、この時、国民全体が「ふるえる胸を押さえていた」のならば、国民が熱狂し歓呼の声をあげ、「侵略」を支持したのだった。満蒙は日本の生命線、という合言葉が、折あるごとに繰り返され、昭和に入って以来の不況を、この「生命線」を突破口に、打開することができると信じていた。「つらい緊張」ではなく、意気軒昂たる緊張が漲ったのだった。


 いずれにせよ、大正末期から昭和にかけての不況は満州事変により回復し、日中戦争が始まるシナ事変までの間は安岡さんの言う「平和なインターヴァル」だったのだ。それでも国内は一種の内部抗争が起こっており、それが二・二六事件と爆発する。ただこの二・二六事件が「当時の日本人の欲求不満にこたえる要素がいろいろと含まれており」と安岡さんは書くが、それがよくわからない。でも何かがこの事件を待っていたらしい。しかし、


 いや、二・二六事件そのものが、僕らの密かに夢見て待望していた事態だったのではないか?しかし、それが現実に起った瞬間に、期待や夢は幻滅にかわってしまった、という結果をみて、初めて自分たちがこんなものを望んでいたのかと知らされ、あわてて眼をそらせてしまったのだ。


 ただこの事件は、日本国民に軍人は何をしでかすかわからない恐ろしさを意識に上に植え付けた。


 僕自身、戒厳令で行政権や裁判権が軍隊にゆだねられたからといって、とくに身のまわりにそれらしい恐ろしい事が起ったという覚えもない。しかし、僕らは、その頃から、街で通りがかりに軍人に何か言われたら、それは言われたとおりにしなくてはならないという習性を身につけるようになったらしい。


 それでも、まだ、


 シナ事変がはじまったといっても、それで世の中全体が戦争一色に塗りつぶされたというわけではない。いや、国が戦争をはじめたといっても、個々の人の日常の生活感情の上ではあくまでも平和を固執していたものだ。


 そしてやっと戦争をしているのだと自覚するようになる。それも身の回りのものがなくなり始めてである。


 いずれにしても、そんな風に日用の実用品が失くなりはじめたことから、ようやく僕らは戦争の実感を、いやおうなしに身のまわりで覚えさせられるようになってきた。しかし、この圧迫感は、僕らの両親や祖父母たちの日清、日露の両戦役の頃には覚えたこともない奇妙なものだったに違いない。何しろ、宣戦布告もなく、政府が不拡大方針をとなえているうちに戦線が拡がって、いつの間にか中国全土な厖大な数の軍団が派遣され、何処までひろがるかわからない泥沼の中に、銃後の国民までが、どっぷり浸されたようになっているのだ。


 ただ、いったん自由が禁止されてしまうと、人はあらゆる面で無制限に他人の干渉を受け入れなければならなくなる。仮に僕らの一人一人が、個人的には何も特別な干渉を受けることはなかったとしても、人の心の内側まで探り出そうという時代の風潮そのものが、何ともやり切れないほどイヤなものだった。


 「ずいぶん戦争は長いなア」


 -戦争は一体いつまでつづくだろう?



 確かに15年も戦争状態なのだ。国民は疲弊し、厭戦気分になったとしてもおかしくない。
 結局安岡さんは学徒動員で召集され、満州・孫呉に在った歩兵第一連隊に配属された。しかし1945年に肺結核により除隊処分となり内地送還される。


安岡 章太郎 著『僕の昭和史』〈1〉講談社(1984/07発売)

# by office_kmoto | 2025-09-06 05:22 | Comments(0)

○橋本 麻里/山本 貴光 著 『図書館を建てる、図書館で暮らす―本のための家づくり』

○橋本 麻里/山本 貴光 著 『図書館を建てる、図書館で暮らす―本のための家づくり』_d0331556_04223156.jpg 最初この本の書名を見て、図書館で暮らすとはどういうことなんだろう、と不思議に思い、手にした。
 結局我々が普段接している図書館とは関係ない。副題にあるように、本と暮らす家を作り、そこで暮らす意味を書いている。要は自分専用の本棚があり、そこに膨大な本を置くことで、個人専用の図書館を作るということだ。


 「図書館」と銘打ってはいるものの、貸し出しや閲覧を行う公の施設ではない。五万冊の書物とともに暮らすための、個人住宅である。


 とにかくこの家の主役は本なのである。まあ、写真にあるその本の物凄い量には圧倒される。まさに「汗牛充棟」とはこのことかと思ってしまった。
 ではなぜ著者たちは自分たちが所有する膨大な本を図書館のように可視化できる家を作ったのか。その意味は何なのか。それは本との関係を結ぶためだ。


 本との関係を結ぶには、読んだかどうかはあまり関係ない。大事なのは、そこに本があって、不意に目に入ることだ。


 そう、このために本が主役の家を建てたのだ。そしてそこで暮らす。そのことを著者は例を挙げて説明する。
 ふと棚にある本が目に入り、まるで脳細胞が増殖するように、自分が今興味のあることにつながる。そのように違う本へとつながり、知が連鎖することにこの家の存在価値がある。本を可視化することの意味がある。


 これは何度でも確認してよいと思うのだけれど、デジタル環境と物理環境は別のもので、それを使う私たちにもたらされる働きや効果も違ってくる。言ってしまえば、デジタル技術が全盛のこの時代に、コンピュータを使いこなす一方、相変わらず昔ながらの本を蓄えて書棚に並べている最大の理由である。


 著者たちはデジタル環境は否定していない。ただ、同じデータ、テキストであっても、本としてそこに存在するのと、コンピュータ上にファイルとして存在するのとでは、なかなか次につながらない。
 確かにコンピュータ上にデータなり、テキストを存在させれば、場所も取らないし、本を抱える必要がないかもしれない。けれど肝心の資料を探すのに、結構苦労する。確かここにあったはずだとあれこれ検索するもののヒットしないときもある。ところが手元に本があれば、「これこれ」と案外ストレートに見つかる。人間の記憶というものは意外と確かなもので、毎日本を目にすることが出来ると、それこそ訓練されているが如く、案外探している資料としての本が早く見つかる。そしてそれ以上に一つの興味が次へとつながる手助けをするものとして、可視化された本は役立つ。本を抱えるとは、そういう意味で重要だ。
 著者は本の電子化もやっているが、


 少しずつ「あれれ?」と感じる場面が増えてきた。まず、電子化した本は、あるのかないのかだんだん覚束なくなってくる。


 コンピュータやタブレットでは本はあるのかもしれないが、どこか不安なのだ。この不安はきっと、手で触れる実感がないことだ。毎日そこに本があると見ることが出来ること、そこに確かに存在することは重要だ。その本を手にし、指でページをめくることで、知の連鎖は、意外な広がりを見せてくれる。
 だから、


 他の人はいざ知らず、少なくとも私の場合、ある場所にモノとして本が並んでいて、それが目に入るのが肝心なのだと痛感した。


 私もまったくその通りだと思う。自分も抱えている本を可視化できる本棚を持って感じることは、何気なしに毎日その本棚を見ていると、あれ、これ?と思わぬことを、思い出させてくれたり、もしかしてこのことかもしれない、と意外な発見があることが度々だ。そういうことは電子書籍はさせてくれないだろうと思う。仮にそう思っても、電源を入れ、アプリを起動する手間の間に、もう忘れてしまったりする。本があれば、少なくとも本棚に並んでいる本は一見無造作に並んでいるように見えて、所有者には意味があるから、すぐそこにたどり着ける。そういうものだ。

 それにしてもこの二人が抱える本の量には圧倒される。まあ、そのためにわざわざ図書館と銘打って、家を建てるのだから。でも写真にある本を見て感じるのはそれだけだ。それ以上のことはない。たまたま二人に抱える本の量が多いということであって、本が多かろうと少なかろうと、個人が本棚に本を持つことの意味が大事だと思う。そのことにちゃんと意味があるということだ。


橋本 麻里/山本 貴光 著 『図書館を建てる、図書館で暮らす―本のための家づくり』新潮社(2024/12発売)

# by office_kmoto | 2025-09-05 04:24 | Comments(0)

○川田 順造 著 『江戸=東京の下町から - 生きられた記憶への旅』

○川田 順造 著 『江戸=東京の下町から - 生きられた記憶への旅』_d0331556_04482176.jpg この「江戸=東京」のイコールはイコールという意味ではなく、


 この本では一貫して「江戸」と「東京」を、ダブルハイフン=で結んだ。それはイコール、同じという意味ではなく、少なくとも下町に関しては、二つは強く連続しているという意味だ。この本の随所に記されている、下町に暮らすしとたちのお話から分かるように、住民としても、そして何よりも生き方や感性、つまり文化としても、下町は明治維新で断絶してはいない。


 ということで私は「江戸=東京」を「江戸から東京」と訳して読んでいった。少なくとも下町では明治維新は江戸時代から続く風土を分断させてはいないということだ。


 本書のこれまでの叙述では、明治維新という国民国家の形成とそれに伴う国家レベルでの変動と断絶に対して、江戸=東京下町の地域文化の連続性を私は強調してきた。


 とこの本の終わりで書いている。著者の生まれ育った深川高橋の生きた証言が面白く興味深く読んだ。(ということは逆に著者の専門とする文化人類学的考察は冗長に感じてしまった)また、小名木川に関してはいろいろ教えていただくところがあり、その部分はノートに書き出した。
 高橋は小名木川沿いにあり、行徳と深い関係がある。そしてかなり栄えた町だったらしい。
 私は江戸時代、行徳の塩を運ぶのに、江戸川(現在の旧江戸川)、新川、中川、小名木川、隅田川を通って、日本橋の河岸へ運ばれていたことに、興味を持ってきた。特にそれらの川が今でも地元の川として存在していることに、なおさらその川がかつて果たしてきた役割に、調べれば調べるほど興味が湧いた。
 だから著者が地元に住む古老に話を聞き、かつてそこがどうであったのか知ることが出来うれしかった。特に著者が生まれた深川高橋と行徳との関係が書かれると、なおさら面白かった。
 高橋の神輿の話があった。その神輿が行徳で作られたと聞き、旧江戸川沿いに立つ常夜灯を見に行き、帰りのバス停を探していたときに、店らしきところに立派な神輿が見えたことを思い出す。そこは「行徳神輿ミュージアム」だと後で知ったが、行徳は、今日に至るまで神輿製造に関わる人々が居住する、全国有数の神輿づくりのまちとして知られているらしい。
 高橋の神輿の話を読んで、あの時そこに入れば良かったなと思った。入口がちょっと何かのお店みたいだったので尻込みしてしまったのだ。
 とにかく高橋は小名木川を通して行徳と深い関係があったことを生きた証言が書かれる。


 「行徳は気が荒いところでね。みんな裸でしたね。あたしは高橋へ来て初めて、映画ってもの観たんです。その時分、行徳じゃ、蒸気に乗って高橋に行けば何でも揃うってね。嫁入り道具だって買いに来たんですよ。夕方五時になると、通りの両側にずっと夜店が出て、盆暮れには、押すな押すなでしたね」


 毎朝行徳から、徳さんの勇船という焼き玉エンジンの小型船が、八百屋のおかみさんたちを乗せて、わが家の前に着く。おかみさんたちは、わが家の倉庫に車輪をはずして預かっていた大八車に荷を積んで、それぞれ市中に商いに行く。勇船は、昼間は他の頼まれ仕事などをして、夕方戻ってきたおかみさんたちを乗せて、行徳へ戻るのである。

 著者は江戸自体、京都の「みやび」からかけ離れた「ひな」で、特に深川の「反みやび」の風土こそ深川の真髄だと思っていられる。特に小名木川、隅田川、そして深川に縦横に走る掘割が物流において東京の下町の基盤をなしていた。その上で当時の高橋が如何に栄えた町であったのかを知ることが出来て良かった。
 坂上正一の『発掘写真で訪ねる 墨田区、江東区古地図散歩―都電が走った下町の街角』(フォト・パブリッシング 2019/05発売)によると、高橋が川蒸気のターミナルであったことが書かれる。高橋は栃木、茨城へ向かう便がそれぞれ一日1往復、行徳、浦安には一日11往復の便があった。


 各地からの川蒸気が出入りする拠点となった高橋は、東京方面の玄関口の一つとして貨客が集まり、繁栄を極めた。


 またポンポン蒸気の時代には、概ね1時間で3往復し、上りは早朝午前4時40分から午後6時まで、下りは午前5時40分から午後7時まで運行していたという。

 最後に気になった文章を。


 堀というかつての水の道の上に、高速道路が重なりあっている。その方が用地買収の問題もなく済むのかもしれないが、交通手段の時代的な変遷が、空間的な上下に置きかえられて、古いものが機能を失い、汚濁しながら放置されている光景は、滑稽、醜悪、愚劣で高度成長と東京オリンピックにあわせて、都市というものへの感覚を欠いた行政の、取り返しのつかない間に合わせ工事の罪深さを、改めて思う。暗く、汚れて、いまは無用の厄介者にさせられた堀の水に、同情する。


 かつての東京の都市開発が今になって後悔の種になっているのは、今更ながらだが、かといっていつまで経っても再開発を止めない東京はその時はいいかもしれないが、後に悔やまれる都市になってしまわないのだろうかと、思うことがある。


 船橋屋のくず餅は、母の若い頃は、天秤で売りにも来たという。股引、腹掛けに法被の小綺麗ななりで、「なだいー、かめえどー、くず餅ー」、「エー、くず餅やでー、ございー」などと、のんびり長く伸ばして歩いた。


 船橋屋のくず餅が売りに歩いていたとは。そういえば大分長いこと船橋屋のくず餅を食べていないな。これを読んで食べたくなった。


川田 順造 著 『江戸=東京の下町から - 生きられた記憶への旅』岩波書店(2011/11発売)

# by office_kmoto | 2025-09-04 04:51 | Comments(0)

○滝田 誠一郎 著 『ごぞんじ―開高健と翻訳者との往復書簡177通 『夏の闇』から『珠玉』まで』

○滝田 誠一郎 著 『ごぞんじ―開高健と翻訳者との往復書簡177通 『夏の闇』から『珠玉』まで』_d0331556_04352281.jpg この本は開高健とその開高の作品を英訳した瀬川淑子との往復書簡177通を通して、開高の作品を英訳するのが如何に難しいか、またその開高の作品を外国で売ることが大変かを知ることが出来る。
 『これぞ、開高健。』(面白半分 1978/11発売)に瀬川の文章が次のようにある。


 『夏の闇』を読んでその隔世の進歩に非常な感銘を受けた。すぐさま、「この小説は売れない事請合だが、日本文学の為に翻訳すべきだ」とクノフのストラウス氏に書いた。そんなら言い出しっぺのお前がやれという事になったのか、間もなくその仕事が回って来た。


 瀬川が『夏の闇』の翻訳にかかったのは1972年春。以来翻訳作業を進める中、疑問点を開高に質すことから始まった手紙のやりとりは17年間に及んだ。
 開高健の書簡をこうしてまとめて読むのは初めてだ。こんなやりとりがあったんだと初めて知る。
 開高健の日本語の世界は極めて独特だ。我々が開高の文章を一回ですっきりと読めることは少ない。それを英訳するのだから、その苦労は並大抵ではないと思われる。
 開高健の文章の特質を司馬遼太郎は開高の弔辞の中で述べている。司馬の開高の弔辞は牧 羊子 編 『悠々として急げ―追悼開高健』(筑摩書房1991/10発売)にある。その中で司馬は次のように言う。


 『夏の闇』にいたって、特殊金属でできあがったようなその文体は、いよいよ妖怪のような力を見せました。ただし、「それほどの巨大な掘削機を必要とするほどの文学的主題が、日本のどこにあるのか」と、内心、私をうたがわせ、かつ驚かせました。

 (略)

 まことに『夏の闇』にあっては、たかだかとした掘削機のアームが、全編に動きまわっており、それはあきらかに開高健によって改造された日本語であり、この巨大すぎる掘削機が、掘るべき土壌-日本のことであります-が見あたらぬまま、架空に土壌をつくりあげて、掘削音を響かせ、土を舞いあげ、舞いおろしつづけていました。この信じがたい手間ひまのあげくにつくりあげられたのが『夏の闇』であり、名作という以上にあたらしい日本語世界であり、おそらく開高健はこの一作を頂点として大河になり、後世を流れつづけるでありましょう。


 この「開高健によって改造された日本語」、“開高語”を翻訳するのである。素人が見ても難しいだろうなと想像できる。それを苦労しながら瀬川は翻訳し、出版社に売り込む。しかし出版社の方からはいい返事がもらえない。当時アメリカではベトナムアレルギーに近い状態だった。『夏の闇』の舞台がベトナムの為、なかなか受け入れてもらえなかった。それでも、ならば開高の短編ならどうだ、と開高の短編の翻訳を瀬川は進める。
 瀬川の売り込みに対し、開高も日本で自分の作品を本にしてくれそうな出版社に当たる。それを読んで、開高健がこんな売り込みをしていたんだ、と意外であったことと、どこか商売臭さを感じてしまい、開高の人間性に「いやらしさ」を感じてしまった。
 私は昔から開高健のファンであり、その作品をほとんど読んできたし、その作品に惚れ、開高の本を集めてきた。それこそ今みたいにネットで古本が探せる時代ではまだなかった頃の話で、何度も神田や早稲田の古本屋で開高の本を探し歩いたくらいだ。開高の死後も開高健と名の付く本を買ってきたが、さすがに開高を大兄と言って「よいしょ」するばかりの本が目に付き、晩年の『オーパ』シリーズで大名行列の加わった人間が書く開高健にはうんざりしていた。なので彼らの本は古本屋に売り飛ばした。
 その点滝田さんの著作は、前作にしても、開高を持ち上げず、冷静な視点で開高健を見ていると思っている。むしろ滝田さんが示す開高健像は開高の「いやらしさ」を私に知ら示し、私の開高熱を冷まし、しばらくの間、開高健の本を読みたくなくさせたくらいだ。だから滝田さんが書く開高健の本は信頼でき、今回も手にしたわけだ。

 最後に『夏の闇』に登場する女性のモデルとされる佐々木千世子について。
 彼女については以前書いたような気がするが、滝田さんは佐々木と瀬川が似ていると書く。
 この本で知った佐々木千世子のことを追加したい。
 佐々木千世子は1933年生まれ。1958年早稲田大学露文科を卒業後、ロシア文学研究家を名乗り、佐々木千世子のペンネームでロシアの詩人の詩を訳したり、ロシアの文豪の愛人が書いた手記を訳したりして、彼女も海外旅行記を書いている。
 いくつもの国を渡り歩き、日本商社でタイピストをしたり、キャバレーのタバコ売り娘をしたり、奨学金をもらい、学生戻り、そのうち大学の客員待遇受け、論文を書いたりしていたそうだ。
 彼女の旅行記を読みたいと思ったが、区の図書館には蔵書していなかった。ならば古本で探せないかと思ったが、見つからなかった。その際ネットの画像を見ていたら、旅行記に載っている彼女の写真があった。


○滝田 誠一郎 著 『ごぞんじ―開高健と翻訳者との往復書簡177通 『夏の闇』から『珠玉』まで』_d0331556_04350692.jpg



 なるほど彼女が佐々木千世子で、『夏の闇』のヒロインのモデルかと眺めてしまった。


滝田 誠一郎 著 『ごぞんじ―開高健と翻訳者との往復書簡177通 『夏の闇』から『珠玉』まで』小学館(2025/03発売)

# by office_kmoto | 2025-09-03 04:38 | Comments(0)

言葉拾い、残夢整理、あれこれ


by office_kmoto