
第一巻は昭和の初めから終戦までの安岡さんの生活が描かれる。この間安岡さんは学生という、ある意味、この時代特別な身分であった。学生が特別なのは、学生の間は兵隊に取られることがないということだ。たとえどんなできが悪くて留年、落第しようとも学生である間は、戦争に行かずに済む。
おそらく安岡さんが学生であることが、重要ではないかと思う。準戦時下、戦時下において、安岡さんが書く「戦争」がどこか他人事のように感じてしまうのも、安岡さんが学生であることで戦争に行かなくて済むということが大きいのではないか。国内において、本当に日本が戦争しているのか、と思わせるところがあるのだ。
しかし、「十五年戦争」という言い方は、戦後になって出来たもので、当時は誰もこんな戦争がこれから十五年間もつづくだろうとは、夢にも思っていなかった。いや、僕自身の実感からいっても、シナ事変と大東亜戦争は一体のものと考えられるが、満州事変とシナ事変との間には、ほんの数年間にしろ平和なインターヴァルがあって、それを戦争とは呼べない気がするのだ。 シナ事変と日中戦争の間が「平和なインターヴァル」であったというのは驚きであった。安岡さんはこの「平和なインターヴァル」の間に何が起こったかを列挙するが、我々が見る限り「平和なインターヴァル」には見えない。
昭和6年9月18日 関東軍軍事行動開始(満州事変)
昭和7年1月28日 第一次上海事変起こる
同年3月1日 満州国建国宣言(満州事変終了)
同年5月5日 上海日中停戦協定(上海事変終了)
同年5月15日 海軍将校、並びに陸軍士官候補生、首相・内大臣官邸襲撃。犬養首相を暗殺(五・一五事件)
昭和8年1月1日 山海関で日中両軍衝突
同年2月24日 国際連盟、日本軍の満州撤退勧告案を四十二対一で可決。松岡代表退場(国際連盟脱退)
昭和9年3月1日 満州国帝政実施
昭和10年3月 ドイツ再軍備宣言
同年10月 イタリアのエチオピア侵略はじまる
昭和11年2月26日 皇道派青年将校、下士官兵、1400名を率い、クーデター。高橋蔵相、斎藤内相、渡辺教育総監らを暗殺(二・二六事件)
同年9月 フランコ将軍、スペイン国家主席に就任(スペイン戦争はじまる)
同年11月14日 内蒙軍、関東軍の支援で綏遠進撃(傳作義軍のため大敗、綏遠事件)
昭和12年7月7日 北京郊外盧溝橋で日中両軍衝突(シナ事変=日中戦争はじまる)
こうやってみると、満州事変からシナ事変までの間にも、いろいろのことが起こっており、“非常時”つまり準戦時下にあったことがわかる。しかし、満州事変そのものは僅か半年間でカタがついており、上海事変は小規模な局地戦で文字通り“事変”に過ぎなかったから、戦争の危害が僕ら銃後の国民生活におよんでくることは考えられもしなかった。というより、この二つの事変は日本にとって儲かる戦争であったというのが、国民全般の実感だったろう。勿論、あの戦争で、どれだけの費用がかかり、どれだけの利潤と経済的な効用があったかなど、僕らにはわかるはずがない。ただ、たった半年間の戦争で、あの広大な満州の土地が手に入ったというだけで、これはたいへんな大儲けだと、国民一般はおもったはずである。 事実、あの頃から、日本の景気は、見せ掛けだけにしろ、上向いてきたに違いない。もう叔母も、口ぐせのようになっていた「クビ」だの「失業」だのという言葉をあんまり言わなくなっていたし、「ゲンポー」のことでグチをこぼすことをやめた。 これは説明がいるかもしれない。つまり、満州事変が起こる前は、第一次世界大戦後、世界的に軍縮が大勢となって、海軍力の軍縮が主要国で協議された。陸軍でも極東における軍事的脅威が薄らいだことから、度重なる軍縮が行われた。これが安岡さんの父親や母親が言う「軍縮」であり、「減俸」である。
軍人や役人は、景気不景気の影響はあまり受けないとはいうものの「ゲンポー」とか「グンシュク」とかいう言葉は、たびたび父や母の話から聞いた。 一方、「ゲンポー」はもっと現実的な響きがあった。僕は、あまり物を欲しがる子供ではなかったが、母が何かにつけて「ゲンポーだから、倹約しなければいけない」というのは、しょっ中きかされた。つまり、軍人や官吏の俸給は一律に一割減俸になったので、それは子供の小遣いにまでひびいてきたというわけだ。
安田武の『昭和東京私史』にも、「減俸」の話がある。
この「モボ・モガ」全盛時代の昭和四年秋、官吏の「大減俸」が行われているのだった。
「不意打ちの大減俸に、俸給生活者の大動揺、暗影に包まれた官吏社会、重大な社会問題へ」と新聞は報じた。「がう〱と巻き起こる、下級官吏の悲痛な叫び」とあり、内務官吏「安い家でも捜す外はない」、警察官吏「内閣諸公には苦労は分からぬ」、陸軍軍人「軍人だとて黙って居れぬ」といった談話がつづく。復興「祭」どころではなかった。 だから満州事変が起こったことで、世の中が変わり、景気が良くなる。前述の安田武の『昭和東京私史』にも、満州事変を国民が支持する理由が書かれる。
もし佐多稲子がいうように、この時、国民全体が「ふるえる胸を押さえていた」のならば、国民が熱狂し歓呼の声をあげ、「侵略」を支持したのだった。満蒙は日本の生命線、という合言葉が、折あるごとに繰り返され、昭和に入って以来の不況を、この「生命線」を突破口に、打開することができると信じていた。「つらい緊張」ではなく、意気軒昂たる緊張が漲ったのだった。 いずれにせよ、大正末期から昭和にかけての不況は満州事変により回復し、日中戦争が始まるシナ事変までの間は安岡さんの言う「平和なインターヴァル」だったのだ。それでも国内は一種の内部抗争が起こっており、それが二・二六事件と爆発する。ただこの二・二六事件が「当時の日本人の欲求不満にこたえる要素がいろいろと含まれており」と安岡さんは書くが、それがよくわからない。でも何かがこの事件を待っていたらしい。しかし、
いや、二・二六事件そのものが、僕らの密かに夢見て待望していた事態だったのではないか?しかし、それが現実に起った瞬間に、期待や夢は幻滅にかわってしまった、という結果をみて、初めて自分たちがこんなものを望んでいたのかと知らされ、あわてて眼をそらせてしまったのだ。 ただこの事件は、日本国民に軍人は何をしでかすかわからない恐ろしさを意識に上に植え付けた。
僕自身、戒厳令で行政権や裁判権が軍隊にゆだねられたからといって、とくに身のまわりにそれらしい恐ろしい事が起ったという覚えもない。しかし、僕らは、その頃から、街で通りがかりに軍人に何か言われたら、それは言われたとおりにしなくてはならないという習性を身につけるようになったらしい。 それでも、まだ、
シナ事変がはじまったといっても、それで世の中全体が戦争一色に塗りつぶされたというわけではない。いや、国が戦争をはじめたといっても、個々の人の日常の生活感情の上ではあくまでも平和を固執していたものだ。
そしてやっと戦争をしているのだと自覚するようになる。それも身の回りのものがなくなり始めてである。
いずれにしても、そんな風に日用の実用品が失くなりはじめたことから、ようやく僕らは戦争の実感を、いやおうなしに身のまわりで覚えさせられるようになってきた。しかし、この圧迫感は、僕らの両親や祖父母たちの日清、日露の両戦役の頃には覚えたこともない奇妙なものだったに違いない。何しろ、宣戦布告もなく、政府が不拡大方針をとなえているうちに戦線が拡がって、いつの間にか中国全土な厖大な数の軍団が派遣され、何処までひろがるかわからない泥沼の中に、銃後の国民までが、どっぷり浸されたようになっているのだ。
ただ、いったん自由が禁止されてしまうと、人はあらゆる面で無制限に他人の干渉を受け入れなければならなくなる。仮に僕らの一人一人が、個人的には何も特別な干渉を受けることはなかったとしても、人の心の内側まで探り出そうという時代の風潮そのものが、何ともやり切れないほどイヤなものだった。
「ずいぶん戦争は長いなア」
-戦争は一体いつまでつづくだろう? 確かに15年も戦争状態なのだ。国民は疲弊し、厭戦気分になったとしてもおかしくない。
結局安岡さんは学徒動員で召集され、満州・孫呉に在った歩兵第一連隊に配属された。しかし1945年に肺結核により除隊処分となり内地送還される。
安岡 章太郎 著『僕の昭和史』〈1〉講談社(1984/07発売)