あいまに

生活と仮説のまにまに。晴れてゆるキャリになったアラサー。

凡日

チェックのジャケットを購入した。袖を通すのが楽しみで、早く寒さが落ち着いてほしいと思う。けれどその一方で、親の年齢を考えると、あまりに早く時間が過ぎ去ってほしくもないな、とも思う。季節の進みを待ちわびる気持ちと、引き止めたい気持ち。そんな矛盾が、最近の私の中に同居している。ふと、「若ければ最近流行りのミニスカとか短パンも履いてみたかったな」なんて考えがよぎるけれど、大学時代に一応履き倒しておいたので、そこは良しとしよう。

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三連休は、ゆっくりとしたスタート。気になっていた「パペットスンスン」の一番くじを求めて近所のコンビニを回ったけれど、どこも既に売り切れていた。スンスン、恐るべし。

​最近、街を歩いていると無意識にベビーカーを目で追っている自分に気づく。子どもの可愛さに素直に心が打たれるのだ。別に子煩悩でも何でもないはずなのに、ふとした瞬間に子育てに関心が向く。理屈じゃない「本能」の存在を突きつけられているようで、なんだか不思議な気分だ。もし仮に妊娠することがあったら、その時は髪をワンブリーチして赤に染めてやりたい。

​夜は『愛のあとにくるもの』を見直している。坂口健太郎演じるユノの、あの絶妙な「キモ男」ぶりに、思わず悲鳴を上げながら画面を眺めてしまう。あれはもう、令和の冬彦さんと言っても過言じゃない。けれど、そんな男が少しずつ変化し、成長していく姿に、結局は目が離せなくなってしまうのだ。

​欲しい服があって、会いたい人がいて、見届けたい物語がある。そうやって目の前の「好き」を拾い集めているうちに、過ぎ去る時間への恐怖も、いつの間にか未来への小さな期待に変わっていくのかもしれない。

赤く染まった髪で笑っているかもしれない数年後の自分を、どこか楽しみにしながら、残りの連休を穏やかに過ごそうと思う。

入籍前夜、燃え尽き。

入籍を1カ月後に控え、マリッジブルーが再来している。

​プロポーズさえまともにできず、自己保身に努め、まるで行き詰まったディベートのような結婚。そんな不器用な男と歩む未来に、光はあるのだろうか。ふとした拍子に、私の方が容易に浮気をして、あっけなく離婚のカードを切ってしまうのではないか。そんな薄氷を踏むような予感ばかりが、胸の内で増殖していく。

​彼は「積み上げてきた軌跡を見てよ」と甘いことを言う。けれど、その軌跡の途上で私は鬱を患っていた。そもそも出会った当初、20代の私たちが抱いていた感情なんて、結婚という重い現実を支えるにはあまりに薄っぺらく、安易で、軸に据えるには頼りなさすぎる。

​今感じているこの執着は、かつて一度彼に振られたことへの「リベンジマッチ」に過ぎないのではないか。

​そんな歪んだ情熱さえも、入籍というゴールを前にして、今はもう燃え尽きようとしている。

​「もし明日、彼と出会ったとしたら、私はまた彼を選ぶだろうか」

​自問自答の答えは、イエスだ。選ぶ。それは分かっている。

選ぶのだけれど、この腹落ち感のなさは一体何だろう。

​言うなれば、型落ちの商品を、定価で買わされているような感覚だ。

​でも、結婚の真実なんて案外そんなものかもしれない。

愛を育む過程で、関係という「型」はどうしても古びていく。その型に愛着はあっても、蓄積した汚れや傷からは目が逸らせない。

​新品の、キラキラした幻想を抱いたままゴールインするような「幸せな勘違い」は、私の結婚には存在しない。高揚感も、熱狂もない。

​結婚はゴールだとかスタートだとか世間は言うけれど、私にとってはもう、下り坂に差しかかっているような気がしてならない。納得感は低い。自分なりに無理やり折り合いをつけた、最善ではないかもしれないが「妥当」な契約。

​両家の顔合わせ、届出への署名、事務的な報告。

面倒な手続きを一つずつ塗り潰した後に残ったのは、身も蓋もない現実感だけだった。

けれど。

もし本当に好きじゃなかったら、きっと婚約という瀬戸際に立つ前に、私はとっくに逃げ出していただろう。

​最悪な気分で、最善だと思いたい選択を握りしめている。

あぁ、これこそが私の、マリッジブルー

七草アドベンチャー

今日は七草粥の日。

​一昨日からずっと鍋を食べているので、今さら胃をいたわる必要などあるだろうかと思いつつも、季節の行事には抗いがたい憧れがある。今日こそは七草粥を、と意気込んでいた。しかし、いざスーパーへ足を運ぶと、つい先日まで山積みだった七草セットがどこもかしこも完売ではないか。

​せり、なずな、ごぎょう……と、一から買い集めることも頭をよぎったが、それではドラゴンボール並みの冒険譚が始まってしまう。私は早々に白旗を上げ、結局今日も大人しく鍋を囲むことにした。

​このお正月、方々からいただいたお菓子を「せっかくなら」と律儀に口に運んでいたら、おかげさまで体重が過去最大を記録してしまった。そもそも三食欠かさず食べるくせに運動をしないのだから、増えるべくして増えたのだ。一人になったタイミングで、いっそ不摂生にふけって「ずる痩せ」してやろうと目論んでいたのだが、あいにく白米が美味すぎた。不摂生に戻れないほど、図太く健康になってしまっている。

​だから潔く諦めて、今日はスクワットと腹筋をした。明日も継続するかは定かではない。けれど、明日もまた、罪悪感なくごはんを美味しく食べられますように。

異質さを味わう食卓

明日の晩ごはんは鯖の味噌煮にしようかな、などと考えている。私も彼も、ひと通りの料理はこなせる人間だ。だからこそ、相手に作ってもらう料理には、自分一人の調理では決して出会えない新鮮さが宿る。

​たとえば、こないだの朝ごはん。食卓に並んだのは、ガーリックトーストに目玉焼き、それからウインナーだった。ウインナーの脇には、黄色いマスタードが丁寧に添えられている。彼が作ってくれた一皿だ。

自分一人の朝だったら、ガーリックトーストなんて思いつきもしなかっただろう。いつもの、食パンにチーズをのせて焼くだけの簡素なもの。それは私にとって「今日の食事」であると同時に、「昨日の繰り返し」でもあったはずだ。

​食卓に漂う、自分の中にはなかったガーリックの香り。この小さな「異質さ」に、私は他者や世界との繋がりを感じる。自分がコントロールできない彩りが、家の中にある。これこそが、誰かと暮らすことの本当の醍醐味なのだと思う。

​先日、彼のお母さんに結婚の報告をしたときのことだ。お母さんは涙を流して喜んでくれたあと、こう語った。

「もちろん、一人で生きていくことが悪いわけじゃない。でもね、二人だからこそ経験できることもあるから」

高校時代の恋愛を実らせ、ひとりの人と人生を共にしてきた彼女らしい、重みのある言葉だった。お母さんはさらに、微笑みながら言葉を添えた。

「うちの父母なんて、老いて二人とも同じ薬を飲んでいるのよ。生活習慣病って、よく言ったものだわ」

​病むことまで、おそろいになっていく。その、逃れようのないほど深く混ざり合った二人の生き方に、私はどうしようもなく憧れてしまった。

​今晩は、鍋。

鍋一つとっても、彼は「自分で作るんだったら、小松菜なんて入れようと考えなかっただろうな」と嬉しそうにしている。

同じものを食べ、同じ時間を過ごすうちに、いつしか私たちの「異質さ」も溶け合い、それが「いつもの味」になっていくのかもしれない。

​けれど、それまでは。

明日の鯖の味噌煮に、彼がどんな「異質さ」を添えてくれるのかを楽しみにしながら、お互いの違いをゆっくりと味わっていようと思う。

浮遊性のめまいは、眠気だった

たっぷり眠ったら、あんなに苦しんだ目眩も動悸も、どこかへ消えてしまった。

​冬休みに入る前、私の体は毎日風邪を引いているような重さで、夜になるとふわふわと地面が浮くような「浮遊性の目眩」に襲われていた。冷え性や水毒(水分過多)のせいかもしれないと、熱い湯船に浸かり、水分排出を促すマッシュルームやアボカドを意識して食べた。その努力も一理あっただろうけれど、私に一番必要だったのは、何よりも「睡眠」という至極単純な答えだった。

不眠症であることが日常になりすぎて、私は「眠気」という感覚を忘れていたのだ。あの不快な目眩の正体は、脳が発していた悲鳴に近い眠気だった。

​お正月、義務感も思考も手放して泥のように眠ってみた。眠ければ、朝になってもそのまま眠り続けた。すると、皮肉なことに、休ませたはずの思考はどんどんクリアになっていった。心が動かなくなっていた日常に「楽しい」と思える瞬間が増えた。鏡を見ると、くすんでいた肌に艶が戻り、そこには20代の頃の自分の面影が確かにあった。

​冷え、そして睡眠不足。これらはやはり、あらゆる不調を招く「万病の元」なのだと痛感する。

​回復の兆しは精神面にも現れた。仕事を楽しんでいた頃の自分のブログを読み返すと、脳に電気信号が走ったかのように、視界がパッと明るくなった。眠りで土壌が整っていたところに、過去の自分の情熱が触れ、ノルアドレナリンが分泌されたのだろう。いわゆる「鬱抜け」の瞬間だった。

​私は、自分の脳の直し方を知った。スイッチの場所もわかった。

今は、そのスイッチを「いつ、どの対象に、どれくらいの強さで」入れるべきかを慎重に検討している。

もう、前と同じ生き方で自分を削りたくはないから。

 

お正月、糊とハサミとファッション誌

久しぶりに『Vogue』を読みたくなって書店に足を運び、ページをパラパラと捲ってみて、そこに躍るアーティストたちの若さに言葉を失った。聞けば、現在の読者層の約半数はZ世代が占めているという。私が熱心に読み耽っていた10代、20代の頃と、ターゲットの年齢層自体は変わっていないはずだ。それなのに、ふと気づけば私の方が、その煌びやかな枠組みから静かに「漏れ出て」いた。

​私は代わりに『エル・ジャポン』と『ハーパーズ バザー』を買い求め、自宅へと連れ帰った。お正月の弛緩した空気の中で、かつての10代の頃と同じように、気に入ったコーディネートを切り抜き、スクラップブックに貼っていく。しかし、それは想像以上に途方もない作業だった。指先を動かしながら気づかされたのは、切り抜くブランドに明らかな偏りがあることだ。

​それも、正直これまでの自分なら「選外」にしていたブランドばかり。なぜ避けていたのか?─おそらくは周囲の評価を気にしたり、自分を実像以上に大きく見せようとしたりする、ちっぽけな見栄のせいだろう。けれど、無心で紙を裁ち、糊で貼るプロセスは、そうしたノイズを削ぎ落としてくれる。時間ははるかにかかるようになったけれど、一冊をただ消費するのではなく、自分の「好き」と泥臭く向き合い、内側に落とし込んでいくこの読み方は、やはりやめられそうにない。

​ところで、近所の書店の接客は驚くほど愛情に満ちている。レジに持っていった雑誌のカバーがわずかに反っているのに気づいた店員さんが、「新しいものがあればお持ちしましょうか」と、それなりの時間をかけて在庫を探してくれた。正直、私自身は全く気にならなかったのだが、その熱意に押されて「はい」と答えてしまった。

​もしあそこで「いいえ」と答えていれば、もう少しサステナブルな人間になれたのかもしれない、と少しだけ後悔する。だから今度からは、笑顔で「いいえ」と言おう。折れや反りが気になってしまう誰かのもとに完璧な一冊が行き渡り、それらが気にならない私の手元に、この少し癖のついた一冊があればいい。それもまた、本と読者の「適材適所」というものだろう。

カオナシ人生

都内某大手企業で中途社員として働いていたとき、私は自分のことを「バリバリ働ける人間」だと信じて疑わなかった。

​初配属の上司に恵まれ、数字という名の砂の城を高く積み上げ、とある賞を手にした。けれど、その絶頂のタイミングで、私はひどい燃え尽きを感じてしまった。次に何を積み上げればいいのか、さっぱりわからなくなったのだ。

​今ならわかる。その組織は、終わりのない賞レースを走るための場所だった。一つ獲れば、次はまた別の賞。あるいは、社内のキーマンを嗅ぎ分け、昇格の足がかりを固めるための根回し。実際に高い地位にいる人たちは、常に「誰を押さえればいいか」を冷徹に計算して動いている。その残酷なまでの世渡り術を知ったのは、会社を去ってからのことだった。

​他者の欲望を自分のものと勘違いして膨らませ、ボロボロになった自分。当時の私は同期と、「今の自分たちはカオナシのようだ」と話していた。

​昨日の金曜ロードショーで、久しぶりに『千と千尋の神隠し』を鑑賞した。社会人として酸いも甘いも噛み分けた今、この映画は年々その味わいを変えていく。

​かつての私の感想は、「カオナシは承認されたくて身を粉にしたのに、誰にも受け入れられなくて、最後には気が抜けちゃったんだな」という程度だった。けれど今回、私はカオナシの「その先」に目を奪われた。

千尋に「湯屋にいてはいけない」と宣告され、音のない海へと身を投じたカオナシ。彼のような「空っぽ」な存在は、欲望が渦巻く湯屋というシステムの中では、他人に振り回され、自己を犠牲にし、見返りを求めて暴走する機関車と化してしまう。千尋の分析は、あまりに鋭い。

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​そんなカオナシが最後に辿り着いたのは、銭婆という、厳しくも温かい老婆が営む静かな離れだった。彼はもう、喧騒の湯屋には帰らない。

​その姿を見て、思わず笑ってしまった。「ああ、これは私だ」と。

​資本社会の激流をドロップアウトし、今は無理のない仕事を選び、銭婆の家のような安全圏で、静かな居場所を得ている。お茶の湯気を眺め、手元の作業に集中する。私もまた、ある種の庇護下で、なんとか日々を暮らしている。そうか。私はやっぱり、カオナシだったのだ。

宮崎駿が伝えたかったことは、おそらく「社会を飛び出しても居場所はありますよ」といった安易な救いではない。本来は主人公・千尋のように、高度な契約社会に怯むことなく、忍耐力と適応力を持って、無欲に勤め上げなさいということなのだろう。きっと。

​そう思うと、私に決定的に足りなかったのは、その「忍耐」と「適応」だったのだと痛感する。

​とはいえ、私はカオナシと同じ、独りに耐えられず、でも人と付き合うことが上手くできない性質だ。居場所を求めてシャカリキに働いては、キャパシティを超えて暴走してしまう。そんな危うさを抱えた20代の私に、スマートな適応なんてできっこなかった。

​だからこそ、私は銭婆の家に流れ着き、編み物をするように淡々と働く今を、これでよかったのだと思いたい。

​私は湯屋で立ち回れるような器じゃない。静かな機織り職人がお似合いなのだ。物語の類型として、カオナシのようなキャラクターが静かに幸せになるパターンは珍しいけれど、これもまた一つの「適材適所」の形なのだろう。

あの頃、湯屋で出した偽物の金(スコア)はすべて消えてしまった。それでも自分が何なのか、今はその輪郭が見えているから、いいのだ。カオナシも最後は二本の足がしっかり見えていた。

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