カイト・カフェ

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「何のための書初めなのか」~私の正月行事③

 書字技能を高めるための習字、
 教養・品格としての習字、
 精神修養としての習字、
 書初めには重大な意味がある。
――という話。写真:フォトAC)

【役に立つかどうかは学習する理由にならない】

 学校がオーバーカリキュラムで何かを減らさなくてはいけないという話になると、必ずあがってくるのが毛筆習字とそろばん、古典・漢文といったそのあたりです。理由は「今どき何の役に立つ?」です。
 
 しかし役に立つか立たないかだけを基準にカリキュラムを調整するとしたら、理科の化学式や摩擦係数、数学の関数や行列、楽器演奏、体育、描画など、どれもこれも「何の役に立つ?」的な内容で、全部なくなっても困る人はさほど多くなさそうです。私は英語が今もまるでできないのですが、困ったこともほとんどないのです。跳び箱もハードルも、私が教員になったからこそ役に立ったものの、普通の人は高校2年生あたりを最後に、一度も跳んだことがないというのがほとんどでしょう。
 逆に、「役に立つかどうか」が基準なら誰にとっても即戦力である技術家庭科がもっと重要視されていいはずですし、高校も「何の役に立つ?」だらけの普通科が敬遠され、専門学科ばかりがもてはやされなくてはなりません。しかしそうはなっていませんよね? 
 学校にとって、あるいは人生にとって、「役に立つかどうか」は、たいして重要な問題ではないのです。ではなぜ学校で毛筆習字やそろばんを学ばなくてはならないのでしょう。
 ここでは書初めに関わる話として、とりあえず毛筆習字について考えてみたいと思います。

【書字技能を高めるための習字】

 毛筆習字が今も学校のカリキュラムに入っていることに関しては、三つの側面から説明することができます。
 ひとつは書字技能を高めるための習字、二つ目は教養・品格を高めるための書写、そして最後に精神修養・文化的伝統としての書道、その三つです。

 まず、書字技能を高めるための習字についてですが、これは簡単で、日本の文字は毛筆で書かれることを前提として発達し、「トメ」や「ハネ」「ハライ」といったことがきちんとできている文字を「美しい」とする文化が存在するからです。
 印刷技術の進歩によって、現代では明朝だのゴシックだの、あるいはナールやポップといったさまざまな字体(フォント)があり、1980年前後にはのちに「変体少女文字」と呼ばれる丸文字が大流行しましたが、結局それは子どもっぽい幼い字体として、大人になると避けられるようになりました。
 ペンで書こうが鉛筆で書こうが、今でもトメやハライに気を配った文字が、「美しい文字」として定着しています。そうである以上、文字を習い始めた小学生の初期から、毛筆習字は学習されなくてはなりません。

【教養・品格としての習字】

 毛筆習字を学ばなくてはならない二つ目の理由は、「美しい文字」が教養や品格を表してしまう、ということです。

 右は高校時代の先輩からいただいた今年の年賀状ですが、一見にして教養の深さ、品格の高さを感じさせます。工業高校から大学法学部に進み、現在は弁護士という異色の経歴を持つ人で、もう30年以上も会っていませんが、年々腕を上げている様子がうかがえます。
 私の世代、昔の人たちは字が上手だったというのではありません。この人だけが特別なので、私自身は情けないほどの悪筆です。先ほども申し上げた通り、私は英語がまるでダメですがそれで困ったことはほとんどありません。しかし自分の名前ですらきちんと書けないことについては、ずっと恥ずかしい思いをしてきました。今でも、例えば施設の母に会うために入り口で書く入館票などには強い抵抗感があります。
 70歳を過ぎてもこの程度の文字しか書けない良い年をした大人、そんな息子しか育てられなかった情けない母親、そう思われるのが恥ずかしく、母に対しては申し訳ないのです。

【精神修養としての習字】

 毛筆習字を学ばなくてはならない三つ目の理由は、そこに精神修養として意味合いがあるからです。
 日本には武術を行うにしても花を活けても、それを生き方の問題としてとらえ精神修養の場とする“道”の伝統があり、書も同じような発展を遂げてきました。毛筆は姿勢や呼吸・集中力が文字に反映しやすい世界ですから、書はそのまま修行となっていきます。その精神世界を、日本人に育つべき子どもたちは幼いときから学んでおく必要があるのです。

 さらに大人になってからは、書道の素養が直接、「役に立つ」人も出てきます。剣道でも華道でも茶道でもいいのですが、日本文化に対する造詣の深さを武器にしなければならない人たち――外交官や国際交流員、企業の海外向け広報・マーケティング担当者、観光ガイドや旅行会社の企画担当者などにとっては、学校で学ぶ「書道」が格好の学習の場となります。
 また、外国人との異文化交流の場にも書道は持ち込みやすいもので、しばしば交流手段として持ち込まれます。その席が “初めてのお習字”では、日本人として情けなさ過ぎるでしょう。
 うまくできなくてもいいのです。外国の人と一緒に学ぶ姿勢で、“道”を一歩、極めればいいのです。

書初め

 正月二日の恒例行事「書初め」は、一年の抱負や目標を言葉にして書くことで可視化し、自分の一年を意識しやすくする大切な行事です。元は平安時代に始まる宮中行事「吉書の奏」ですが、江戸時代に寺子屋を通して広まり、庶民の学びの始まりを象徴する行事になりました。多くの寺子屋・藩校が1月を始業月としていたからです。

 現代の学校においても「書初め」は大切な学習機会ですが、なにしろ全体の授業時数が少ないのと年末年始休業中の行事であることから、家庭に任されることがほとんどとなっています。
 我が家でも孫1号のハーヴが書道道具を持参で帰省していて、二日の午後は母親の叱咤激励の中で10枚ほどを書き上げました。見ていると確かに集中力の必要な仕事です。一枚書くのも容易ではありません。それを母親のシーナが支えます。
「わッ! すごいじゃん!」
「あ、上手い、上手い、上手い!」
「そこのところ、お上手!」
 小学校4年生の集中力は、そこまで言わなければ持続できないのかと思うのですが、実際、もちそうにありません。
 怒鳴っていれば何とかなった昔と違い、現代の「わが子の押し活」もなかなか大変です。
*本人の名誉のために書きますが、画像はハーヴの1枚目で、10枚ほど書いた後はもっとうまくなっていました。ここでは名前が書いてないので使いました。
(この稿、続く)

「お年玉をいくらにするか」~私の正月行事②

 お年玉をいくらにするのか――、
 簡単そうでけっこう悩ましい話だ。
 しかし原則を定めて、
 忘れないようにすれば大したこともない。
――という話。(写真:フォトAC)

【お年玉をいくらにするか】

 お年玉は年神様(歳神様)に供えた鏡餅を、戸主が家族に分け与えるところから始まったのが起源だと言います。昭和に入って各戸で餅つきをしなくなってから、丸餅→丸いもの→貨幣という連想から現金が渡されるようになったともいいます。

 子どもに渡すお年玉を幾らにするかというのは、毎年親戚間で大問題となる案件です。
 やらないわけにもいきませんしやりすぎるのもよくない。金額を合わせないとあの家はケチだとか、〇〇叔母さんは冷たいとか言われかねませんし、子どもの年齢差もあれば親戚としての関係の濃淡もあります。そのためなかなか「これは」という額が決まってこないのです。

 さらに言えばお年玉というものは、いくらだったか、出した方はすぐに忘れてしまうのにもらう方はよく覚えていて、今年は総額〇〇円になるはずだと皮算用している場合もあります(それで買うものまで決めている)。
 ですから額は常識的な範囲でいくらでもいいのですが、去年より少ないというのはかわいそうです。できれば覚えていられる金額がいいのです。そこで私の場合はこんなふうにしています。

「小中学生は学年数×1000円(中1は7年生という計算で7,000円。以下同様)、高校生以上は1万円均一、それ以上にはならない。未就学児は100円×年齢、未満児は月齢×10円」

 30年以上も前に決めたルールで娘のシーナも息子のアキュラも、ほかの甥や姪に対してもそうしてきました。幸いこの30年間はデフレで物価がほとんど上がりませんでしたから感覚的に問題はありませんでした。今後貨幣価値が落ちても、たかがお年玉です、このままでいっこうにかまわないと思います。

――ということで、今年孫1号のハーヴが4,000円、保育園の年長組の孫2号イーツが600円、生後半年のドリは60円でした。ドリは何も分かりませんが、イーツは数が多い方を喜ぶ年頃ですから600円すべて100円玉でジャリジャリと渡しました。
 もっともそのまま母親に回収されてしまうお金なので、誰も思ったほどには喜んでくれませんでした。
(この稿、続く)

「二年参りをどうするか」~私の正月行事①

 初詣を深夜に行う「二年参り」、
 いつから、なぜ始まったのだろう。
 深夜零時の寺社参りなんて
 過去はもちろん、現代だって尋常じゃない。

――という話。(写真:ChatGPT)

【二年参り】

 赤穂浪士の討ち入りは旧暦元禄15年12月14日の未明と言われていますが、当時は日の出を日付の変わり目とする慣習があったため、現代の暦に換算すると実際に起こったのは12月15日未明ということになります。

 「2年参り」というのは12月31日午後12時(または翌1月1日午前0時)を跨いで足掛け2年お参りすることを言いますが、江戸時代の日付の変わり目が日の出だとすると「2年参り」もわざわざ夜中に行くことはなく、初日の出の日付変更を跨いで参詣すればいいだけのことになり、今よりずっと楽だったはずです。
 具体的に言えば、今でいう1月1日の午前6時30分ごろ、ゆっくりと家を出て午前6時51分の日の出時刻(東京の場合)に間に合わせ、 初日の出を拝んでから寺社にも参拝し、暖かい日差しの中を帰ってくればいいのです。
 それを新暦に当てはめて、日付の変わり目(深夜0時)に参拝しようとするから大変なのです。私の育った山国の大晦日の深夜12時の参詣など、寒すぎて狂気の沙汰。家庭の文化としても紅白歌合戦を途中で切り上げて外出するなど、あり得ないことでした。

 しかしそう思って振り返ると、私が子どものころは「2年参り」など、なかったような気がします。初詣の習慣はありましたが、友だちとの会話の中にも、深夜の参詣が出てきたためしがありません。ただしまったくなかったというわけでもなく、『紅白歌合戦』のあとの『ゆく年、くる年』などでは深夜の寺社を訪うたくさんの人々が映し出されたりします。とんでもない雪国からの映像が流されることもあります。

【年籠り(としこもり)】

 そこで調べてみると、「2年参り」という言葉自体はここ十数年(あるいは20~30年)の流行であるものの、深夜の参詣自体は平安時代からあって、「年籠り(としこもり)」と呼ばれていたようなのです。「初詣」の一形態というよりは、大晦日の夜から元旦までの行事で、人々が氏神(うじがみ:地域の守り神)の社に籠り、夜を徹して一年の感謝と新しい一年が無事過ごせることを祈願する日本の伝統的な風習です。“昔は日の出が日付の変わり目”という概念からすると、新年の行事というよりは大晦日の行事だったようです。除夜の鐘もその中で突かれたものでした。「除夜」は“旧年を除く夜”の意味ですから。
 それが新暦の使われるようになった明治時代から深夜の「除夜詣」と元旦の「初詣(元旦詣)」に分離し、さらに昭和時代の後期になって、今度は除夜詣に初詣の意味を重ねるようになって、「二年参り」という言葉が流行り始めたようなのです。
 
 私の家には代々「初詣」を行う習慣がありますから、「二年参り」をする必要はありません。もしどうしてもしたいということになったら、大晦日の日中、一度お参りに行って元旦に改めて初詣に行けばいいだけのことですし、昔はこうだったという意味で、日の出前に出かければいいのです。私は今後も「『紅白歌合戦』を最後まで見る」派でいます。
 ところで、この文章を書くうち、たびたび「初詣」が「発毛出」と誤変換されました。なにか馬鹿にされている感じです。
(この稿、続く)

 

「本年もありがとうございました」~私の2025年、そろそろ飽きてきた

 さまざまな形でたくさんの人を失った。
 病気が非常に身近なものになった。
 夫婦の形に変化があって、家族もひとり増えた。
 単純な年でもなかったのに、そろそろ飽きてきた。
 ――という話。(写真:フォトAC)

【ちょっと計算を間違えました】

 官公庁および多くの企業で26日(金)が御用納め(仕事納め)。すでに土曜日から年末年始休業に入っている人も少なくありません。私は日数を数え間違えて、今週はまだ4日あるつもりで、1年を四分割したまとめ記事を1日分書いたところでようやく3日しかないことに気づきました。このままでは使えないので書き直しです。
 もっとも第1四半期のまとめだけでも結構な分量になってしまい、先行きが思いやられる状況だったので、むしろほっとしている面も少なくありません。

【私の2025年】

 今年は1月早々に「年賀状仕舞」という形で多くの先輩・知人・友人を失い、ほぼ同時期に知人や別の知人の配偶者の訃報があり、秋には50年以上つきあいのあった高校時代からの友人のひとりが幽明の彼方に行ってしまうといったふうに、たくさんの人に去られた年でした。
 私自身も2月から4月にかけて「前立腺がん」の(濃い)疑いという診断で覚悟を決めたり、同窓会を開けば「肺がん」がいて「胃がん」がいて、三度目のがんという人もいて、本来は深刻な病気がなんとも身近に感じられた年でもありました(結局私は経過観察)。

 45年ものあいだ学校勤めをしてきた妻が民間の就労支援施設に乞われて移ったかと思ったらあっという間に退職し、結婚以来初めて「夫婦ともに家居」という状態になりました。私はなんとか自分を保てたものの、妻は温熱蕁麻疹を発症したり不眠に苦しんだり(秒で寝付いていたのが3分くらい眠れないことが何回かあった)、結局、半年でまた学校にもどったりと、高齢者にあるまじき変化の多い年でした。

 6月に予定外の孫3号が生まれ、その子の面倒を見ながら9月には大阪関西万博にも行ってきました。観光旅行は5年ぶりです。
 何もないような隠居生活ですが、こうして思い出すとけっこうあれこれあるものです。あれこれあるにもかかわらず、気持ちはずいぶんと澱んだ感じになっています。数えてみたら家居も10年経ちました。

【飽きた】

 若いころに立ち返ると、学生アルバイトも入れて家庭教師と塾講師が合わせて10年、中学校の教員が10年、小学校10年、管理職10年、児童館職員の3年間を挟んで家居10年。10年ごとに人生を変えてきました。動けるという意味では次が最後の10年になろうかと思います。
 さて何をするのか――。

 今年の更新はこれが最後の予定です。
 来年もよろしくお願いします。
 良いお年を

「さてと年賀状も書き終えて――」~今年は規模を縮小したという話

 年賀状の意匠を簡素にし、宛先も2割減らした。
 日本の伝統的文化に未練もあるが、
 時代は個人の社会的なつながりを必要としない。
 人々は最低の人間関係で生きていけると思い始めた。
――という話。
(写真:フォトAC)

【年賀状を書き終わる…直前】

 郵便局から「年賀状は25日までに投函すれば確実に元旦に届けます」という案内があったので何とか間に合わせたかったのですが、今年は別にやりたい仕事があってそちらにかまけていたのと、年賀状は何となく気合が入らなくてだらだらと過ごしていたので、今朝もまだ半分ほど残っています。
 手書きで1行加えればいいだけのことなのに、少し書くと指が疲れて字がきちんと書けないのです。加齢もありますが、文字を書くことがほとんどない生活を十数年続けてきたことの方に、より大きな原因がありそうです。文字を書くための筋肉が弱っています。

【賀状を変えた】

 私の令和8年の年賀状については、これまでと違った点がいくつかありました。
 ひとつは内容をずっと簡素なものにして、体裁もできるだけ平凡なものにした点です。例年はかなり凝ってあれこれ工夫をしたのですが、皆がやめていく中で頑張りすぎる年賀状は少し恥ずかしくなってきたのです。

 思えば1977年から十数年間ほど、プリントゴッコという「簡易シルクスクリーン製版・印刷機」(右図)で意匠を凝らした年賀状をつくっていたころが一番熱の入っていた時期で、やがてWindows95が発売されてからはネットで他人の意匠を借りて、文章に凝るというふうに変わってきました。

 印刷屋に依頼していた時代から作り方も中身も随分変わってきましたが、一年に一度、誰かを思い出し、一年に一回、誰かに思い出してもらう、
「またこの一年間もあなたにお会いすることはできませんでしたが、その間を私はこんなふうに生きてきました。そのことを敬愛するあなたにも知っていてもらいたいのです」
という態度に変わりはありませんでした。

【出す年賀状を2割減らした】

 今年変わった第二の点は、送る相手を2割程度減らしたということです。
 ひとつは年賀状仕舞いをいただいた人たちの分。
「あなたが年賀状をやめる(年賀状仕舞い)のは勝手だが、私がやめるかどうかについては干渉しないで欲しい」
が基本的な考え方ですので「意地でもやめるか!」という思いもあったのですが、年配者は別として、日ごろの付き合いのない同世代以下からもらう「年賀状仕舞い」は、いわば丁寧な絶縁状ですから、こちらからすがりつくように出すこともないと思い直したのです。
 ネット上で、年賀状仕舞いを出したのに今年ももらったという人が、
「どうせ横着をして住所録ソフトから消さないからこういうことになるのだ」
と毒づいているのを見て意欲を失った面もあります。人間の奥深い思慮や情緒の分からない人もいます。

 毎年1月4日を過ぎてから年賀状をいただいていた人たちにも、今回は様子見で出さないことにしました。
 年賀状は元旦に書くものであって前年の年末に書くのはおかしいと、真面目な信念を持って遅くなる人もいるでしょうが、元日に届いた私の年賀状を見て、仕方なく返事を書いている人の方がはるかに多そうです。こちらが出さなければ「勿怪の幸い」とばかりにやめてしまう人たち――。私の方には未練がありますが、仕方ありません。これで解き放ってあげましょう。

【広い人間関係はなくても生きていける】

 私は度し難い保守主義者で古風な頑固者、民族主義者で、かつ臆病者です。
 年賀状は直接訪問して年始の挨拶をすべき人が、あまりにも遠方のために仕方なく書面をもって行ってきた歴史ある習慣で、いかにも日本的な風習です。日ごろからこまめに挨拶をしていればいいのですが、そうともいかない相手に、一年に一度でもいいから感謝の気持ちを伝えておきたい、そういった願いに立って綿々と続けられてきた日本の伝統です。だから絶やしたくない。
 それと同時に、こんなふうに細くつないできた関係が、いつか私を、私の妻や子や孫を助けてくれるかもしれない、という気持ちもあります。
 私は臆病者ですので、常に「最悪の事態」が頭に浮かんでいます。妻や子や孫が危機のとき私が助けられなかったら、私が死んだ後でそうした事態が起こったら、誰かに助けてもらわなくてはいけない、セーフティーネットは広ければ広いほどいい、網が細すぎて使い物にならなければその時になって補修すればいいのであって、なくしてしまったのでは話にならない、そんなふうに考えるのです。
 しかし時代は変わりました。コロナ禍を経て、私たちは一人でも生きられると思うようになってきています。年賀状でつなぐような個人のネットワークなど、なくてもいいと思い始めているようなのです。