いつも丁寧にお読み頂きありがとうございます.
今回は,博論の「5.ヴィゴツキーに見る概念形成」の続きになりますが,ヴィゴツキーの内言論を受けて,学校教育における認知分野の問題点を考えてみました.
初めは外言の問題です.外言は言うまでもなく,音声言語を利用した他者とのコミュニケーション時に,口から発せられる空気振動です.これから書く内容は,授業中での外言と内言に関する実体験です.
このことに関する博論の記述は,ヴィゴツキーの外言と内言に関する考え方の後に次のように記述しています.
「これまでの学校教育では,児童・生徒の思考については,彼らが表出したものを概観することにより,例えば、児童の表情が生き生きとしており,発言の内容が素晴らしかったので良い授業であった等,観念的に評価を行う場合が多々見受けられた.」
これはかなり批判的な記述になりましたが,次のような実体験が基になっています.
ずいぶんと前になりますが,私が小学校に勤務していた時に国語科の校内研究会がありました.このような研究会は誰か一人の先生が代表となり提案授業を行い,他の教員は授業を参観して,その後,事後研究会と称される話し合いを行います.
今ではどこの学校であったかや,授業を行ったのは誰だったかなどは全て忘れてしまいましたが,今でもその時の光景を思い出すように衝撃を受けた事がありました.それは,一人の女子児童のある行動でした.
そのときの授業では,担任の先生が何かの学習行動を指示し,児童全員が一人で作業をしていたと記憶しています.たぶん先生が配布されたプリントに,児童一人一人が書き込みを行うというものであったと記憶しています.そのあと,先生が発問するたびに,多くの児童が挙手をして自分の考えを発表していました.
そして放課後は,授業研究会です.

授業研究会では,多くの児童たちが挙手をして自分の考えを発表していたことに話題が集中して,とても良い授業だったという感想が,参加した多くの教師から出てきました.

そして,発表した児童たちの発言を回想しながら,学習指導案で意図された指導の内容と,実際の授業での様子を比べながら実際の授業で良かった点などを吟味したと記憶しています.ですから,とりわけて修正する指導箇所は出てきませんでした.
つまり,「挙手をする児童が多い授業=良い授業」という結論めいた司会の教師のまとめで,参加した全員が納得したのです.
ところが私は研究会が行われているほぼ全ての時間を,ある児童の姿について考えていたので,発言もしなかったと記憶しています.そして最後には,「挙手をする児童・生徒が多い授業は,本当にそれで良い授業と言えるのだろうか」という事を考えずにはいられなくなりました.
それは,ある女子児童の次のような行動に引き付けられたからでした.

その児童は,教師が配付したプリントを眺めながら,鉛筆の先を何度もプリントに押し当てていました.彼女がそうしている間は誰とも話さずに,ほぼ無表情.しかし,特に困った表情をする訳でもなく,鉛筆の先を紙にタイミングよく何度も押し当て,時折,唇がかすかに動いていました.その姿はロダンの「考える人」と何か相通じるものを感じ,彼女が深く思考している事に気づきました.そして,事後研究会の話し合いの柱のひとつには,この児童の学習行動を充てるべきではなかったかという気持ちを持ったのでした.

この授業は多くの挙手と発表が見られ確かによい授業ではあったのですが,この女子児童のように熟考する児童がいたこともよい授業であったことの根拠であると考えました.
私たち教師は,これまでの授業の評価において,児童・生徒がほとんど熟考すること無しに即断で課題を解決する姿が最も価値あるものだと考えていたようです.つまり,小学校や中学校の授業でもスキーマにそれまでの学習のエピソード記憶や意味記憶があって,課題や問題の解決のために速やかにそれらを検索することが重要とされてきました.確かにそのような道具的・技術的思考は,児童・生徒が身につけなければならない能力であることに変わりありません.
一方で,様々な情報が飛び交う今の世の中を児童・生徒が生き抜いていくためには熟考する能力が絶対に必要です.私が研究授業のほとんどの時間で気になったこの女子児童は,内言による言語的思考を行っていました.これは正(まさ)に熟考です.この経験は,後々のこの児童の思考に非常に良い影響を与えたのではないでしょうか.
もしも,自己中心的言語や内言を利用した言語的思考を経験しなかったか,もしくはその経験が極端に少ない児童は熟考することができず,実際的知能である道具的・技術的思考でしか物事を考えることができないようになってしまったかも知れません.

これまで述べたように授業においては,外言による思考結果の表現をあたかも思考そのものであるかのように考え学習評価の対象としていました.
しかし,ヴィゴツキーが, 「思考と言語」の p135L16~p136L4 で「思考とことば(言語)が結びつくのは,言語的思考の領域のみである」と述べているように,それは真の意味での思考を映し出したものではないと考えます.
では,児童・生徒の発表は思考と関係がないのでしょうか.ヴィゴツキーは,このことに対しては次のような事を述べています.つまり,それら(児童・生徒の発表等)は言語的思考の遠くからの非直接的影響は受けるが,それ(言語的思考)と何らかの直接的因果関係にあるものではないということです.ですから,発表を評価しても構わないが,思考そのものの評価としては違うということです.
今回はこれで失礼します.次回は,書き言葉について考えてみたいと思います.
ところで,博論とは直接関係ないのですが,最近の政治の話題で熟考する資料です.
第70回国会 衆議院 本会議 第2号 昭和47年10月28日 大平正芳 外務大臣 答弁






























