ガンスリンガーガール考察 トリエラとヒルシャーあるいは条件付けと「世の中捨てたもんじゃない」というセリフについて

はじめに

 『ガンスリンガーガール』は長らく解けない謎であった。明らかに優れた作品であるが、その中核的な部分を掴むことができなかった。先日、妻の本作における解釈を聞くことで、視界が開けた心地となった。今回書こうとしているのは、①トリエラとヒルシャーの関係の変遷であり、②それが物語の最重要装置であるところの条件付けとどのように結びつくのかであり、③その結びつきにはどのような含意があるのかである。「クローチェ兄弟の物語がメインストーリーになっている」と作者がインタビューで明言している*1にもかかわらず、物語の結びにはトリエラの娘であるスペランツァによる「世界には今も確かに希望がありますよ」というセリフが配置されている。そして、このセリフはトリエラを救うために命を落としたラシェル・ベローのセリフ「世の中捨てたもんじゃないわ‼」及び「私はあの子に希望を託したわ…」を受けたものである。この一連の「たった1つの想い」または「果たしたい約束」が、本作を貫くテーマとなる。

トリエラの特殊性――嫌悪・反発・困惑、そしてすれ違い

 本作の第三話『THE SNOW WHITE』は、トリエラが初めて主役となる回であるとともに、彼女の主題系を提示する重要なエピソードでもある。第一話ではヘンリエッタが、第二話ではリコが、それぞれ主役となって彼女たちに与えられた「大きな銃と小さな幸せ」が提示されるのに対し、トリエラの場合はやや込み入っている。ヘンリエッタやリコは、担当官に対して不信を抱くことはない。100%の好意あるいは忠誠があるだけである。一方でトリエラは、彼女の中にあるヒルシャーへの一抹の嫌悪を認めている。

トリエラ「私は別にヒルシャーが特別嫌いってわけじゃないんだからね 私が嫌いなのはあなたたちのような身勝手な大人全般なのさ」

 あるいはトリエラは、ヒルシャーの命令を一部無視して暴走するだけでなく、その指摘に対して口ごたえすらする。

ヒルシャー「トリエラっ!! 話を聞くだけだと言ったはずだ!」

トリエラ「………あなたが危険だと判断したからです」

ヒルシャー「君ならもっと穏便にできるだろう!? いいか 私の許可なく発砲するんじゃない!」

トリエラ「だったら…さっさと私を薬漬けにしたらどうですか?」

トリエラは、ヘンリエッタやリコたちが条件付けによる恍惚の中にいることを横に見ながら、その祝福を与えられることはなく、人間として扱われることもないまま、宙づりに置かれている現状を正しく理解し、深い絶望と困惑とを抱えて生きている。

トリエラ「ヘンリエッタはジョゼの妹そのものだし リコはジャンの仕事の道具 それじゃあ私には何を演じて欲しいのだろう 全て条件付けで決めてくれたら楽なのに…」

ヒルシャーのトリエラに対するこの曖昧な態度が解消されない限り、あるいはそこにある謎が解かれない限り、第三話ラストの描写が象徴する二人のすれ違いはいつまでも繰り返されることになる。

トリエラをトリエラたらしめるもの

 トリエラは彼女の置かれた特殊な状況から、そしてその優れた知性から、「私は何者であるのか」という問題に直面せざるをえない。

トリエラ「条件付けと愛情は似てるの 私にもどこまでが自分の感情だかわからない」

しかしながら、これだけは間違いなく「自分の感情」だと言えるものがある。それは、洗脳者にとって都合の悪い感情である。すなわち、ヒルシャー及び公社に対する嫌悪と反発と困惑であり、これらの感情こそがトリエラをトリエラたらしめるものとして彼女を支えている*2ヒルシャーはこれらの感情を幾度となくぶつけられながらも、決してトリエラからそれらを取り除くことはしなかった。トリエラもそのことをよくよく理解している。他の義体たちと比較して強い自意識を与えられた/奪われなかったトリエラは、さらにはその事実を強く意識するトリエラは、自らの意思をもって役割(さらに進んで生まれてきた意味)を見つけ、それを果たそうとする。あるいはそうせざるをえない。下記はピノッキオとの戦いに敗れた直後のトリエラのセリフである。

トリエラ「私は義体です!それが素手の男に倒されるなんて!!望むなら警官に化けますがそれでは何の為に命を削りリスクを背負っているのか…まるっきり無意味です…」

あるいは、ピノッキオとの再戦の場面でのセリフ。

ピノッキオ「どうしてそこまで頑張る!?」

トリエラ「お前なんかに分かるものか!私は戦わなくちゃいけないんだ!!」

人は意味のない生に耐えられない。上記のトリエラの叫びはほとんど血を吐くような絶叫である。そして、以下のケガを心配された場面での彼女の内言は、自らに対する定義を明らかにするものだ。

トリエラ「だって義体はそういうものでしょう? 戦うために存在するんだから」

解けない難問と謎

 残酷な運命の中でトリエラが自らの意思でもって選択したその道は、皮肉なことにヒルシャーの望むものではない。

ヒルシャー「悩みを聞いてもらっていいかな」

ロベルタ「ええ」

ヒルシャー「例えばロウソク いずれ尽きるならば激しく燃えることこそ本望と死に急ぐ彼に 周りは何を言うべきなんだろう」

ロベルタ「同僚にそんな人が?」

ヒルシャー「ああ 彼は戦いに身を投じる他に 自分の存在を確認できない 燃えるなといさめてもそれは存在を否定するだけで これまでかえって傷つけてきた」

これがヒルシャーにとっての解くことのできない数年来の難問であった。トリエラにとっての解くことのできない謎は、上述の通り、ヒルシャーのトリエラに対する曖昧な態度の理由である。アンジェリカの死を契機にその曖昧さは変質し、担当官には不相応なほどの義体への献身として露骨に現れてくるようになる。それはこれまでの関係が壊れて・更新されていく連鎖反応のはじまりでもあった。

トリエラ「……ヒルシャーさんはドイツに帰らないんですか?クリスマスは家族と過ごすものなのに」

ヒルシャー「そしたら トリエラが1人になるじゃないか」

トリエラ「分かりません どうしてそんなに真面目なんですか! どうして私を…」

ヒルシャー「生き方を縛られるのは義体だけじゃない みんな何かに追われて生きるんだ …僕は過去に縛られたんだよ」

この会話の直後のトリエラの独白は、謎を解くための決定的な足がかりを彼女が掴んだことを意味する。

トリエラ「過去に縛られるってどういうこと?昔 彼に何があったの?」

深まるすれ違い

 ヒルシャーは担当官としてあるまじき決定的な異常行動に出る。トリエラの消耗を恐れるあまりに、危険をともなう暗殺任務を自身のみで遂行したのである。ヒルシャーは腹部に傷を負い、その試みはほどなくトリエラに露見する。

トリエラ「どうして私を連れていかないんですか!?戦いは私の役目なのに!?」

ヒルシャー「違う!!お前の役目は生きる事…戦ってそしてできるだけ長生きする事だ!!」

トリエラの信じる存在意義を決定的に否定する発言を受けて、衝動的にトリエラはホテルを飛び出す。ミミの家に匿われ、偶然居合わせたマリオ・ボッシからトリエラは「ヒルシャーの過去」を聞くこととなる。すなわち、①自身はスナッフフィルムの犠牲者であったこと、②そこから助け出すためにヒルシャーは「人生を台無し」にしたこと、③ヒルシャーと行動をともにしたラシェルはその救出で命を落とし、死の間際にトリエラのことをヒルシャーに託したこと、である。

 トリエラが真実を知ってもなお、二人のすれ違いは解消しない。むしろ酷くなる。

トリエラ「私が存在する限り…あなたは過去に呪縛され続ける…そんなの…嫌です…」

何故すれ違いは解消されないのか。まだトリエラに伝わっていない事柄があるからだ。上述のようにヒルシャーは「僕は過去に縛られた」と言った。そして、先程のトリエラの発話に至るまでの会話では、その「過去」とはラシェルの願いであることを彼は明言している。

トリエラ「どうしてあなたがそこまでこだわるのか 理解できません」

ヒルシャー「それがラシェル・ベローの願いだからだ」

トリエラ「殺人機械になることがですか?」

ヒルシャー「君はラシェルの善意を体現している… それを少しでも永らえるのが僕の使命だ」

これでは「ラシェルからバトンを受け取ってしまい、それに呪縛されているためにトリエラを守っている」とトリエラに解釈されても仕方がない。しかし、ヒルシャーの意思は、ラシェルからの委託ベースによるものではなく、ヒルシャー自身の切実な動機に基づくものである。そして、先程の発話が示唆するように、ヒルシャー自身ですらそのことに気づいていない。

ヒルシャーの傷つき

 ヒルシャー自身の動機を理解するためには、彼の過去の出来事が手がかりとなる。ヒルシャーは前職時代に現場に出ることを志願し、「ならば現場を知ることだ」とスナッフフィルムを観るように指示を受け、激しいショックを受ける。

ヒルシャーの上司「このチームの人の出入りが何故激しいのか分かっただろ? あまりの凄惨さに耐えきれなくなるからだ ハルトマン(※ヒルシャーのこと)お前はこの現場には不向きだよ こんな物を見て喜ぶ人間を こんな事が何件も行われている事を想像できないだろ? お前は幸せに育ち過ぎている 世の中と人間を善いものと信じている だから現場にはやれんのだ」

ヒルシャーは「現実」を突き付けられて、逃げることも割り切ることもできない。割り切る者と割り切れない者の対比は、第三十五話でのアレッサンドロとヒルシャーの描写で示されている。

アレッサンドロ「法律家1人の命で要人暗殺が減れば良い取引だ それが政治ってもんでしょ」

ヒルシャー「なかなか割り切れないな」

アレッサンドロは「自身は手足であって頭ではない」として、最終的な結果やその善悪に思い悩むことはないが、ヒルシャーはまともにそれらと向きあってしまう。彼のそのあり方は、自らを「もともと器用に世の中を渡るタイプじゃなかった」と言う所以であるし、彼の何物にも代えがたい徳目でもあるのだが、ヒルシャーは「現実」を目の当たりにして、深く傷ついてしまう。この「傷つき」に注視せねばならない。

傷つくこととは何か?

 「傷つく」とは多義的な言葉である。本文脈での意味するところは、世界への信頼と自己への信頼を失ってしまうこと、自分と世界あるいは自分自身との関係が失調してしまうことを指す。たとえば、性犯罪において、その侵害が重大とされるのは、刑法上の通説である性的自由を侵害するから*3だけでは説明しきることができない。「減るもんじゃない」自由への侵害がもたらす被害が何故甚大であるのかは、その被害によって世界への信頼と自己への信頼が毀損されてしまうことにある。痴漢被害者は被害以前と同じ気持ちで・安心して電車に乗ることができなくなる。見知った他人から性被害を受けた者は、ともすると自分を責め、また自身を「汚れた」ものと観念して苦しむ。そして、この「傷つき」は直接の被害者だけに生じるものではない。

ヒルシャー「僕は世の中の事を何も分かっていませんでした 子供がどんなひどい目に遭っていたのか 人はどれほどの悪事を行うのか」

ラシェル「私も信じられないわ ここに来るまであんな惨たらしい遺体に出会った事なかった ……そしてそれにだんだん慣れてくる自分が恐い…」

ヒルシャーとラシェルは、「現実」を目の当たりにして、世界すなわち人間一般への信頼が揺らぐ。その人間の中にはもちろん、自分たちもまた含まれている。自身らの無力さに起因して自己への信頼(=自己効力感)が揺らぐだけでなく、このような現実を次第に受け入れていく自分に恐怖するのだ。

 だからこそ、ラシェルは自らの命を賭けてでも、トリエラを救おうとした。そうでなければ、自分が救われないから。

ラシェル「私も…信じたくなかったの 現実がこんなに醜いものだなんて 今までの大人達は大勢の子供を救えなかったけど… でもこの子だけでも救えたら… 世の中まだまだ捨てたものじゃないって 信じられる気がして―――」

公社での日々はヒルシャーをさらに傷つけていった。そこは憎悪と復讐が果てしなく連鎖する現場であり、人間性を蹂躙する人体実験の現場でもある。そして、そのような「苦界」にトリエラを落としてしまったこと、そんな組織にすがらなければ「たった1つの想い」も守り通すことができない自身の無力さ、そのすべてが彼をさいなむのである。

謎が解けるとき

マリオ「ヒルシャーから逃げるのはよせ あいつにはお前しかいないんだ」

 マリオ・ボッシがヒルシャーの過去を話した後にトリエラに言ったこのセリフは、先ほどのヒルシャーが置かれている状況、彼が傷ついてきたその過程を念頭に理解されるべきものだ。ヒルシャーはラシェルから託されたからトリエラと生きているのではない。トリエラなしにはもはや生きていく理由も気力も失うほどに、世界にも自分にも絶望しきっており、トリエラだけが生きる理由であり希望であるのだ。

 マリオの言葉があるにもかかわらず、ヒルシャーの切実な生きる動機はトリエラには伝わらない。

トリエラ「さようなら ヒルシャーさん もう私のせいで 危ない目にあわないでくださいね…」

上記シーンの次のカットでは、回想シーンが挟まれる。

トリエラ「条件付けと愛情は似てるの どこまで自分の感情かわからない」

ここでトリエラにあった選択肢は二つであった。①ヒルシャーを大事に思うからこそ関係を断つか、②ヒルシャーを大事に思うためにここにとどまるか、である。どちらもヒルシャーへの思いが理由となるために、一見すると「どちらが自分の感情によるものなのか」わからない。したがって、トリエラはこれまでも使ってきたであろう「公式」を用いることになる。すなわち、「ヒルシャーや公社の意に沿わない選択はどちらであるか」である。これにより①が選択される。しかし、その選択はすぐにくつがえされる。条件付けに屈したのか?あるいは自分自身の感情を析出する・自分を守るための絶え間ない営みを放棄して考えるのをやめたのか?違う。さきほどの「どこまで自分の感情かわからない」という言葉の宛先を自分ではなくヒルシャーにすることに思い至ったのだ。

 ヒルシャーもまた、トリエラを守るという決意が、ラシェルの願いであるのかヒルシャー自身の願いであるのか、わかっていない。さらに進んで、トリエラを守るという決意は、ラシェルの願いであるだけでなく、ヒルシャー自身の強い願いでもあることを、わかっていない。トリエラはその事実にこのときはじめて思い至る。それはヒルシャーよりもヒルシャーを理解した瞬間であり、「私があなたなしでは生きられないように、あなたもまた私なしでは生きられないこと」に思い至った瞬間でもある。

トリエラの傷つき

 トリエラとヒルシャーの間の難問は解かれた。しかし、読者には「なぜトリエラはヒルシャーよりも先に真実に至ったのか」という謎が残っている。傷ついた人はその傷が深ければ深いほど、「自身が傷ついていること」それ自体を認識することができない。その原因や傷あとを直視することに耐えられないからだ。自分がこれ以上破壊されないように無意識に守っているからだ。それゆえに、ヒルシャーは自身を突き動かす動機を正確に理解することができず、トリエラにそれを説明することができない。そして、トリエラもまた傷ついているために、土壇場になるまで、ヒルシャーもまた「どこまでが自分の感情かわからない」でいることに思い至ることができなかった。

 なぜトリエラはそれができなかったか?端的に言って、トリエラは自らを人間扱いしていなかったからである。自身を「殺人機械」と呼び、何度も殊更に自分は義体であると言及するのは自傷的な行為である。あるいは、「私にもどこまでが自分の感情だかわからない」という発話*4は、自傷行為であるとともに、そのこと自体がいかに自分を傷つけてきたかを示唆するものである。トリエラは人間と義体とを差別している。義体は人間よりも劣った・優先度の低いものだと思っている。だから、自分の「私にもどこまでが自分の感情だかわからない」という状況・苦しみが、人間であるヒルシャーにもあてはまると気づくことがなかなかできないでいた*5

 それができるようになったのは、ヒルシャーが一貫してトリエラを人間扱いしてきたことによる。ヒルシャーにとって、トリエラは替えがきく捨て駒ではないために、彼は彼女の代わりに戦った。そして、「お前の役目は生きる事…戦ってそしてできるだけ長生きする事だ!!」と明言してみせた。これらの積み重ねによってはじめて、トリエラは義体の論理を人間にあてはめることが可能になった。それだけではない。「私が存在する限り…あなたは過去に呪縛され続ける…そんなの…嫌です…」とトリエラが言って、ヒルシャーのもとから去ろうとしたときの彼女の内言に注目したい。

トリエラ「私なんか死ねばいいんだ」

トリエラは自分自身を大事に思うことができなくなっている。自らを差別するゆえに。深く傷ついてきたゆえに。ヒルシャーがトリエラを人間として扱ってきたことは、トリエラが「自身もまた一人の人間であること」に思い至る足がかりとなった。そして、そのことはトリエラが彼女自身を救い出すとともに、ヒルシャーをも救うことになったのだった。

まとめ

 トリエラとヒルシャーは最終決戦で命を落とす。しかし、同様に命を落としたヘンリエッタとジョゼの「心中」と同視・混同されるべきでない*6。ここでの四者全員はそれぞれ全く異なる理由によって死に向かっていった。また、トリエラとヒルシャーの結末について、「大切に想い合った者同士がすれ違いながらも最後には通じ合い結ばれ死んでいく物語」と捉えることは間違ってはいないが、質的な違いをもたらす重要な点を見落としている。すなわち、これは「傷ついて他に生きるすべを失った二人が、互いのために生きようとすること・互いを希望とすることで、自己信頼と世界への信頼を取り戻す物語」でもある。

 筆者はこれまで『最強伝説黒沢』に関する考察で、自己信頼を失った中年男性である主人公がどのようにしてそれを取り戻し、周囲と信頼関係を築いていくかを取り扱った。また、『ルックバック』の考察では、不幸な事件によって傷つけられた創作する人々の贈与の連鎖を修復する営みとして本作をみた。『まどマギ』及び『PSYCHO-PASS』の考察では、我々の生の条件ですらある・すべてを覆ったシステムがもたらす不条理やそれによる無力感に対して、人間の意思・希望・人間性をいかにして守り・回復させるか、をテーマとした。さらには『キッズリターン』の考察では、本作は日常的に自己信頼を傷つけられていた二人がそれを取り戻すためにもがき苦しみ、一瞬の・ちょっとした栄光を手にして、自己信頼のなさゆえに舞い上がり・自分を見失って失墜する哀しみ、それでも再び立ち上がることを諦めない人間の尊厳を描いた作品であるとした。あるいは『THE FIRST SLAM DUNK』に言及した評論では、本作は家族を失った痛みや悲しみ、または怖さを否認し続ける宮城が、それらと向き合うことができるようになるまでの物語と書いた。

 物語の力の少なくともその一つとは、世界解釈の再編成ができることにある。別の言い方をすると、自己及び世界との結びつきの編み直しができることにある。自分を見つめなおすだけでは、その編み直し(シニフィアンシニフィエとの結びつきの編み直し)は困難である。だから、我々は他人や物語を必要とする。優れた物語作品とは、その世界へ没入させ・感情移入させることによって、我々を新しく作り変えることができるものである。『ガンスリンガーガール』もまた、読者をそのように新しく作り変える物語であった。

*1:https://natalie.mu/comic/pp/gunslingergirl/page/2

*2:同様に、エルザ・デ・シーカ及びヘンリエッタの抱いている、洗脳者にとって不都合となるほどの愛情、その過剰な部分こそが、彼女たちを彼女たちたらしめている。

*3:山口厚『刑法』第3版 有斐閣 P.243

*4:義体たちは夢の中でのみ涙を流す。それは抑圧されてきた感情の表出である。トリエラは物語が進行する中で、目覚めながら涙を流すようになる。

*5:ヒルシャーの「生き方を縛られるのは義体だけじゃない みんな何かに追われて生きるんだ」という発話は、「人間もまた何かに縛られている」ということにくわえて、「この点において義体は人間と同様の人間性を持つ」ことを念頭に置いていたものであった。

*6:義体1期生の主要キャラクターであるヘンリエッタは愛情、リコは忠誠が、それぞれ条件付けとの関係でテーマとなる。その点、トリエラは信頼(の回復)がテーマとなる。

冨樫義博論➁――善悪の相対化の先にあるものあるいは部族主義の克服について

はじめに

 以前の記事で筆者は➀「人間と妖怪という二項対立が冨樫作品を貫くテーマである」と書いた。また、その中で➁「人間の持つ善悪の基準、より大きくは価値体系そのものが相対化され、揺さぶられていく点が冨樫作品の特徴である」とも書いた。これらは間違いではないが、今回はより精確にこの問題を捉えてみたい。すなわち、➀’「(人間と妖怪に限らない)身内と他者という二項対立」が冨樫作品を貫くテーマであり、➁’「身内の価値観を相対化し、身内と他者をまたいだ共通の価値によって線引きを乗り越えること」に物語は重点を置いており、そこに読者は心打たれる。

 上記のことを示すために、今回は冨樫作品を<部族主義の克服>という観点から見てみたい。ここでいう部族主義とは、簡単に言うと身内の利害を優先する態度であり、さらには身内が道徳的に優れているという確信を指す。善悪の曖昧さが特徴である冨樫作品において、かろうじて定立可能な善悪の基準とは、「どの集団(=部族)に属するか」ではなく「部族主義的思考様式に対抗するか否か」である。言い換えれば、冨樫作品における「悪」とは、部族主義的振る舞いに基づいて外部の者(=他者)を蔑ろにする者である。

部族主義の定義

 まずは本文でキー概念として扱う部族主義について、筆者なりの定義を行う。

1.内外に対する好意と偏見

自身の集団のメンバーに対しては、「信頼できる」「優れている」「正しい」と考え、外部の集団のメンバーに対しては、「信用できない」「劣っている」「間違っている」とみなす態度。

2.内部への忠誠と外部への敵意

自身の集団への自己犠牲も辞さない絶対的な忠誠と外部の集団に対する排他的かつ敵対的な思考・行動様式。

3.内外に対する差別的取り扱い

自身の集団の利益を最優先し、そのためには外部の集団の利害を顧みず、場合によっては彼らへの抑圧・彼らからの収奪すらも問題視しない態度。

4.内部の価値体系(と内外の線引き)を最上位の規範とするあり方

内部の価値体系を外部の価値体系よりも上位に置くだけでなく、内部・外部にまたがった共通の価値体系の存在を認めず、内部のそれを絶対視する態度。

以下では、それぞれの定義に沿って冨樫作品を検討していく。

内外に対する好意と偏見

 当該観点での冨樫作品のあり方を理解するには、『幽遊白書』19巻の170話「宴のあと」が適当である。ここでは、➀妖怪の悪事は霊界の都合で統計上水増しされていたこと、➁さらに霊界は妖怪を洗脳し悪事を起こさせていたらしいこと、➂妖怪が自発的に人に害を及ぼすことは極めて少ないこと、よって➃霊界が結界を張る正当性はないこと、以上の結果として➄結界が解かれたこと、が明らかになる。

 これらの事実は本作の意味内容を根本的に揺るがすものであり、幽助もまたその事実を知って「オレがつかまえたヤツの中にも・・・・・・いたのかなァ」とつぶやく。ここで提示されているのは、➀妖怪は人間に害なす存在であり、➁妖怪は本性として邪悪な存在であるという認識枠組みは偏見であったということである*1。そして、人間界の後見的立場として、自明の善と考えられた霊界の腐敗もまた示された。すなわち、物語当初の前提であった味方である霊界の善性と敵である妖怪の悪性の両方が、無根拠なものとして掘り崩されている。

 くわえて、同話の中で描かれた妖怪である雪菜が桑原宅にホームステイすることになったエピソードは、前述の思い込みが崩れた後の世界を占う試金石としての意味を持つ。

桑原父「どんなに麗らかに存在をアピールしても必ず摩擦は生じるだろう いわれのない差別を受けるかも知れねェ そんなとき誰かがタテになってやらなきゃな」

さらには、上記セリフの直前に言った桑原父のセリフは、冨樫の「無知こそが敵である」という問題意識を明らかにする。

桑原父「異文化コミュニケーションは底辺の理解と努力が肝心だからな」

 『レベルE』においても、「他者に対する正確な理解」というテーマは反復される。異星人であるバカ王子は繁殖の相手方を食して繁殖する異星人について、その生物学的背景、歴史的な経緯、知的生命体としての苦悩を、マンガ表現を通じて人間に伝えようとする。しかし、その試みは失敗する。

王子「どうですか?」

編集者「うーーーん・・・・・・うちは少年誌だしさ これじゃテーマ暗いよねェ」

(中略)

編集者「もっと明るくまとめてさ 設定はもっと単純でいいと思うよ 例えば悪い宇宙人と戦う地球人とか」

王子「でもそれじゃ地球人に本当の異星人の姿が伝わりませんよ いちがいに地球の善悪だけじゃくくれないっていう事実が」

編集者「うんうん(あ・・・・・・やべぇこいつ頭いってる)」

ここでも「自らに害なす他者に対する正確な理解」という試みが、「善良な身内と邪悪な他者という図式」と対置されていることに注意すべきだ。「善良な身内と邪悪な他者という図式」は、最も単純で、それであるが故に読者が飲み込みやすい安易な表現であることを皮肉ったような描写である。

 また、『Hunter×Hunter』における主人公ゴンとその父ジンを特徴づける善悪への頓着のなさもまた本文脈の中に位置づけられる。ゼパイルの有名なゴン評を引用する。

ゼパイル「なんでこいつに興味がでたかやっとわかったぜ こいつは善悪に頓着がない 俺が贋作をやっていたと告白した時も、商売人が難癖つけているときもこいつの顔には非難の色も悪事への憧れも浮かばなかった あるのはただ一つ 単純な好奇心 すごいと思ったものには善悪の区別なく賞賛し心を開く いうなればこいつは危ないんだ 言うなれば目利きが全く通用しない五分の品 」

この頓着のなさが暗殺一家で育ったキルアとの友情の前提となったのであり、その父であるジンもまた死刑囚であったレイザーを自分の作るゲームに引き込んでおり、この性格はジンから継いだものであることが明らかになる。無論、これらの事実は彼らの倫理観の欠如を指すというよりは、偏見のなさとして肯定的に、少なくともこれらの場面では描写される。レイザーはジンによって救われたといい、キルアもまたゴンと出会えて本当に良かったと心の中で言う。

レイザー「世界中にたった1人、1人だけでも、自分を信じてくれる人間がいれば救われる」

キルア「逆だよ、ゴン、オレなんだ ゴン、オレ、お前にあえて、本当によかった」

レイザーにせよキルアにせよ、ジン及びゴンは極悪人というレッテルを彼らに貼ることなく、その実力を正当に評価し、人間的にも信頼のおける対象として扱うことで、彼らを救った。偏見を持って見られる属性を持った者たちに対しても開かれていることが、ジン及びゴンの徳目である。

内部への忠誠と外部への敵意

 「内外に対する好意と偏見」は、さらに進んで「内部への忠誠と外部への敵意」に変化する傾向を持つ。ここでの内部への忠誠は、自身よりも所属集団を優先するものとして現れる。『幽遊白書』の暗黒武術会における魔性使いチームの画魔は、自らの命と引き換えに蔵馬に呪術を施す。

画魔「これが忍よ・・・・・・先の勝利の為に死を選ぶ」

画魔の最期に蔵馬は心を痛め、次の対戦相手の凍矢に戦う動機を問う。

蔵馬「ひとつ教えてくれなぜ最強の忍とよばれるキミ達がこの戦いに参加したんだ?」
凍矢「・・・・・・・・・光さ闇の世界のさらに影を生きるオレ達には一片の光もない(中略)オレ達ののぞみはだれの手にもそまっていないナワバリこの島さ」

(中略)

覆面戦士「忍の反乱か」

飛影「フン奴等魔忍は命をかけた戦いの前に一番弟子に自分の奥義をたくし部隊を維持するそれをくり返せばあんな奴らも出てくるさ」

ここで明らかになるのは、組織維持のために個が犠牲になる忍の構造から脱することそれ自体が彼らの戦う動機であったことだ。にもかかわらず、そのために忍の習いがこの戦いの中で反復されている皮肉がある。

さらに、流星街の人々*2や不可持民の私設兵たちもまた、自らの命を犠牲にして所属する集団の利益を優先する思考・行動様式を持っている。これらの者たちに共通するのは、彼らが所属する集団へのすさまじい抑圧であり、その抑圧からの解放のために彼らは自らの身をも犠牲にする。

 彼らは奪われているものを取り返すために我が身を投げ出すのだが、ゾルディック家における自己犠牲的忠誠は「イエの存続・繁栄」のために行われる点で、上記のものとは性質が異なる。その象徴的存在がイルミである。イルミはキルアを「熱をもたない闇人形」として扱うだけでなく、自らもまたゾルディック家の存続よりも価値が低いものとして扱う。

イルミ「オレが死んで遺る家族がセーフならそれでもいいさ」

ゾルディック家の利益にとって最良の判断が出来ることが、イルミの行動の正当性をキルアに対して担保する。ナニカの処遇でキルアに対抗するとき、イルミは以下のように言う。

イルミ「率直に言うよ ナニカの能力をゾルディック家のために 安全かつ効率よく使えるのはオレだ」

キルアにまつわるエピソードは常にゾルディック家による支配からの解放を目指すものであった。下記の洗脳じみたキルアに対するむごい「教育」は、所属集団への忠誠が自発的なものではなく、押し付けられるものとなりうること、そしてその強制がキルア個人を限りなく追い詰めていくことを示している。

イルミ「聞いたかい?キル オレと戦って勝たないとゴンを助けられない 友達のためにオレと戦えるかい?できないね なぜならお前は友達なんかより今この場でオレを倒せるか倒せないかの方が大事だから」

イルミ「そしてもうお前の中で答えは出ている“オレの力では兄貴を倒せない”“勝ち目のない敵とは戦うな”オレが口をすっぱくして教えたよね?」

(中略)

イルミ「お前がオレと戦わなければ大事なゴンが死ぬことになるよ」

(中略)

イルミ「ウソだよキル ゴンを殺すなんてウソさ お前をちょっと試してみたのだよ でもこれではっきりした」

イルミ「お前に友達をつくる資格はない 必要もない」

イルミ「今まで通り親父やオレの言うことを聞いてただ仕事をこなしていればそれでいい ハンター試験も必要な時期がくればオレが指示する 今は必要ない」

イルミの言葉はキルアの個人としての意志を奪うだけでなく、ゾルディック家の外へつながるゴンという回路をも奪う。忠誠の強制は内部の価値体系を乱しうる外部の排斥とセットなのである。

 また、ゾルディック家は個人を家に従属させるが故に、アルカをめぐってのインナーミッションにおいて、キルアは執事たちを信用することができない。

アマネ「ツボネ(祖母)も私もキルア様の敵ではございません」

キルア「今の時点ではな でもそんなのオヤジのサジ加減だろ?」

アマネ「シルバ様もゼノ様もキルア様の敵ではございません 私共の任務にはキルア様を無事にお連れする事も含まれております」

キルア「そこにアルカの名前がない限り お前等は敵なんだよ!」

キルアは執事たちが最終的に誰に従うかを見抜いている。人間的な心情よりも雇用主の命令が優先されることを知り尽くしている。ここで示される命令が生み出す敵/味方の線引きは、キメラアント編においても現れている。すなわち、キメラアントたちと通じ合うことを諦めないナックルたちに対してのノヴのセリフである。

ノヴ「王だよ・・!兵士がどうこうの話じゃない王が指揮棒(タクト)を振れば奴等は悪魔にでもなるさ・・・!!」

ここで表現されているのは、所属集団への忠誠が、一度生まれかけていた所属集団とは異なる他者との信頼関係を破壊し排斥することである。

 さらに、『幽遊白書』における氷河の国のエピソードは、閉鎖的・排他的な集団に対する作中での価値判断がはっきりと明示されている点で特筆に値する。飛影の母の氷菜は禁忌である異種族との交配を果たし、飛影と雪菜を産んで死ぬ。そして、忌み子飛影は産まれた直後に捨てられる。

長老「女児は同胞じゃ しかし男児は忌み子必ず禍をもたらし氷河を蝕む」

ナレーション「氷女が外界との交流をさけ厚い雲に覆われた流浪の城(氷河の国)で漂流の生活を強いられるのには理由がある氷女が異種族と交わった場合、その子供はすべて雄性側の性質のみを受けつぐ男児のみが生まれること しかも凶悪で残忍な性格を有する例が極めて多いこと そして男児を産んだ氷女は例外なくその直後死に至ること これら全てが氷女の種の保存を危ぶませるためである」

赤子の飛影を捨てる直前、氷菜の友人であった泪は涙を流しながら飛影にこうささやく。

泪「生きて戻ってきて・・・・・・最初に私を殺してちょうだいね それが氷菜へのせめてもの償いになる」

国を維持するために産まれたばかりの子を殺す、すなわち所属集団の維持のために人間的な感情を捨て去ることを強制し、イレギュラーな存在を切り捨てる。このあり方に激しい憤りを雪菜は見せる。

雪菜「心まで凍てつかせてなければ長らえない国ならいっそ滅んでしまえばいい そう思います」

内外に対する差別的取り扱い

 これまでに見てきた「内外に対する好意と偏見」は認知・感情レベルのものであり、「内部への忠誠と外部への敵意」は組織が存続するために半ば制度化されたものである。これらの結果として、ほとんど必然的に、「内外に対する差別的取り扱い」が現れてくる。転向前の仙水は「妖怪であるために」殺し、「人間であるために」救ってきた。そして、価値の反転を経た仙水は、人間のみを優先することを自明視する幽助の言動に激高する。

仙水「おや・・・こんなに力を抑えているのに・・・・もう大地に影響を与えてしまった オレの唯一の弱点だ・・・ふふ人間界では五分の力すら出せない ストレスだよこれは・・・ふふふふ」

浦飯「関係ねーんじゃねーのか?人間界ぶっつぶしたいんだろならぶっこわせばいいじゃねェか 全力で暴れてみろよ」

仙水「馬鹿者めがそれが傲慢だというのだ!!!失礼 オレは花も木も虫も動物も好きなんだよ 嫌いなのは人間だけだ」

 ここでは人間とそれ以外のあらゆる生物とが対置されているが、先述のように内外の線引きは人間の内部においても現れる。例えばゾルディック家の行動様式である。彼らは金で他人を殺すことを業としているだけでなく、イルミが代表するように、自らの利益のためには無関係の者を殺すことを厭わない(一方で家族内での殺しはご法度としている)。彼らにとって、執事含めてゾルディック家以外の者は基本的に無価値な存在なのである。あるいは、幻影旅団もまた自らの目的のためには殺しを厭わない集団である(一方で団員同士のマジ切れはご法度としている)。サラサへの復讐と流星街の保護のために、彼らはそれ以外の者への加害を自らの意志で選んだ。

クロロ「僕は残りの人生を悪党として生きる 世界中の人間が恐れ慄くほどの、小悪人どもが震え上がり決して流星街に近づかない様、この街と自分をデザインする」

また、クリードアイランド編におけるラスボスにあたるゲンスルーもまた、仲間の二人を除いた人間の命は虫けら程度にしか思っておらず、同盟関係にあった仲間たちを次々に裏切り殺戮を行った。一方で、「ヤバい橋を渡る時は三人一緒」といって身内ではリスクを分かち合い、土壇場ではこれまでの努力を無に帰してでも身内のバラを救うことを優先している。

 ここで筆者が言いたいのは、冨樫作品における「悪」とは、内部の論理や価値観、都合を外部に押し付ける者だということである。そして、内部の都合を優先するために、身内への忠誠や慈悲は当然のものとして描かれる。つまり、身内への忠誠や慈悲は善性を裏付けるものではない。「悪」は身内に優しく・身内を大事にするからこそ手強く、そしてタチが悪いのだ。したがって、この基準に沿うならば、対話を拒絶して・人間側の利害のみを押し付けてメルエムを滅殺したネテロは「悪」であり、主人公であるゴンもまた、ピトーのコムギに関する命乞いを無視していたならば、「悪」となりえたことになる。

 一方で、キメラアント編ではその当初から上記の基準でいうところの「善」なる振る舞いを目指した者がいる。ナックルである。彼は何故討伐隊に志願するのかについて、以下のように言う。

ナックル「簡単に言うと、討伐させないためだな ハグれ者を切るってやり方が気に入らねえ 師匠にゃ甘いって言われるがな 実際にそいつを見もしねえでわかる道理はねーだろ?まずはそいつと真剣にぶつからなきゃよ」

ナックルの師匠にあたるモラウもまた、キメラアントの女王が死の間際に産んだ最後の子を、コルトが必死になって取り上げて涙ながらに守ることを誓う様を見て、コルトの側に立つことを約束する。

モラウ「あんたとその子『人は食わない』って誓えるかい?もし・・・誓えないなら・・・どこかオレの目の届かない場所へ消えてくれ だがもし誓うなら何人たりともあんた達には指一本触れされねェ!!オレの目が黒いうちはな」

ナックルにせよモラウにせよ、彼らの徳目は頭から共存不可能と決めつけて他者なる存在を切り捨てることを良しとしないところにある。これは前述の忌み子飛影を捨て去った氷河の国に対して見せた雪菜の憤りと軌を一にする。

 また、ゾルディック家とキルアとの問題が一つの決着を見せる、アルカに関するインナーミッションの件もまた「切り捨てるか否か」を巡ったエピソードであった。イルミを中心としたゾルディック家は一族に対する重大なリスクとして、アルカを家族とは認めず、葬り去ろうとする。切り捨てようとする。それに対してキルアは、アルカを守るためただ一人戦うことになる。しかし、キルアもまたアルカを守るために、アルカのもう一つの人格であるナニカに対して、もう二度と出てこないように命令する。つまりはアルカのためにナニカを切り捨てようとする。それに対してアルカは激怒する。

アルカ「お兄ちゃんが泣かしたの?ナニカを!今もうずくまって泣いてるよ!ナニカに謝って!謝るの!アルカに優しいお兄ちゃんは!ナニカにも優しくなきゃダメ!アルカを守ってくれるなら!ナニカも守らなきゃダメ!ナニカをいじめるお兄ちゃんなんかっ大キライ!!!」

眼が醒めたかのように、自らの頬を強くたたくキルア。

キルア「アルカ、ありがとうな オレ…まだ、イル兄に縛られてたらしいや もう…これでホントに大丈夫…!!ナニカを… 呼んでもいいか?」

キルア「ナニカごめんな… オレが間違ってた ごめん!!オレずっとイル兄が怖くて、逆らえなくて言いなりになってて、それがすごい嫌で。オレだけじゃなく今度はナニカに、無理矢理嫌な事命令させられたらって考えたら、すごく怖くなって アルカのためって自分に嘘ついて、お前に非道いこと言っちゃった 本当に、ごめん!!」

キルア「ナニカお前はオレが守る ずっと一緒だ!!他のヤツの『お願い』なんか、もう聞くな!オレがいつでも、お前をいいコいいコしてやる!! だから… もう一度出て… きてくれるか…?」

ナニカ「あい」

キルア「ナニカ…こんな、ダメなお兄ちゃんでも、許してくれるか?」

ナニカ「あい キルア、スキ」

抑圧から解放されるために取る行動それ自体が、抑圧者のそれを反復するという皮肉は、魔性使いチームの画魔の件で見た通りである。今回はすんでのところでキルアはその過ちに気が付き、その過ちから脱することで真にイルミによる呪縛から脱することができた。このエピソードは、排斥の論理にさらされた者が我が身かわいさに気づかずして同様の排斥の論理を振りかざしうる過程を描写している。くわえてそれは内部/外部の構図は何層にも入り組んでいるということでもある。

内部の価値体系(と内外の線引き)を最上位の規範とするあり方

 これまで見てきた三つの要素は、結局のところ自身が依拠する価値体系を至上のものとし、外部の価値体系や内外にまたがる高次の価値体系を認めないために帰結したものであった。例えば、前述の通り『幽遊白書』のラスト近辺で、霊界の論理は魔界側の言い分を全く無視した一方的なものであったことが暴かれる。さらには正聖神党によるテロ事件によって、霊界の非主流派は一方的どころか独善的であること、霊界は人間界や魔界同様に一枚岩ではないことが明らかになる。

舜潤「今も一部に自分達を神の使いと信じている者達がいます 霊界は天国じゃありませんよ 単に肉体と霊魂が離れたときに行きつく場所の一つです 彼らにとって魔界の住民はただの異種族ではなく悪魔の使いなんです 彼らは人間界を浄化することが神から与えられた使命だと考えています」

かつて霊界を支配したエンマ大王は自らの非を知りながら霊界の利益のためにマッチポンプをしていたと思われるが、正聖神党にあっては自身を神の使い、魔界の住民を悪魔の使いと信じていることから、自身らの価値体系の外部と折り合う余地は極めて薄い。

 また、これまで見てきたように、ゲンスルー一味は一味の利益を、ゾルディック家は家の存続と繁栄を、幻影旅団は故郷の防衛と復讐の大義を、それぞれ「人を殺してはならない」という全人類共通の規範よりも優先した者たちであった。彼らすべてに対して当てはまる批判は、幻影旅団に対してゴンが言ったこのセリフである。

ゴン「仲間のために泣けるんだね 血も涙もない連中だと思ってた だったらなんでその気持ちを少し…ほんの少しでいいからお前らが殺した人たちに、何で分けてやれなかったんだ!!!」

言うまでもなく、ゴンが激怒しているのは仲間には適用される死を悲しむ感情がその外部には全く向けられない点である。そして、この批判は幻影旅団に対して特にクリティカルなものとして響くことになる。というのも、幻影旅団のそもそもの目的が復讐にあり、理不尽に殺される痛みを知りながら復讐に無関係な人間の殺しに手を染めているからである。この点が幻影旅団に対する復讐を目的としているクラピカとの決定的な違いとなる。クラピカは自身の復讐に無関係な人間を理不尽に殺すことはしない。言い換えれば、自身の復讐という大義と「人を殺してはならない」という普遍的規範とを両立させようと努力している。幻影旅団が実際にクルタ族に対して手を下したのであれ、手を下していなかったのであれ、自身らの規範より高次の普遍的規範を尊重しないという点において、彼らは「悪党」なのである。

 本章の最後に、メルエムとネテロの対比を扱いたい。というのも、最も本章の問題を表していると思われるからである。メルエムは再三にわたりネテロに対して、対話を促してきた。彼は力でねじ伏せて一方的に自らの価値体系に他者を従わせることをもはや良しとしない。

メルエム「其の方が余と交わすことが叶うのは言葉だけだ」

そして、メルエムはあるべき人類の未来像をネテロに対して提示する。

メルエム「理解できぬな・・・人類という種のためか?ならば余の行為はむしろ『協力』だと言っておく 例えばお前たちの社会には国境と言う縄張りに似た仕切りがあるだろう 右の境では子供が飢えて死に左では何もしないクズが全てを持っている 狂気の沙汰だ」

メルエム「余が壊してやる そして与えよう 平等とはいえぬまでも理不尽な差の無い世界を!!始めのうちは『力』と『恐怖』を利用することを否定しない だがあくまでそれは秩序維持のためと限定する」

メルエム「弱く・・・しかし生かすべきものを守るためだ 敗者を虐げるためでは決してない」

ここでメルエムはキメラアントだけでなく、人類を含めて全種族の頂点に立つものとしての責任を果たすべく、キメラアントにも人類にも妥当するより高次の価値体系に基づく未来を提示している。もちろんそれが「生まれたての餓鬼」による青臭いものであったとしても*3、キメラアントという種を超えて、本来は捕食対象でしかないはずの人類までをも考慮したそのあり方にこそ道義的な力が宿るのである。対してネテロは最初から最後に至るまで、メルエムに耳を傾けることも、メルエムのそれを凌駕するようなキメラアントや人類などの未来像を提示することもなかった。彼の関心事は終始如何にしてメルエムと戦うかであり、「虫」と蔑むキメラアントと共通の価値体系を模索するつもりなど毛頭もなかったのだ*4。人間及びネテロ側の都合はどうあれ、どこまで相手のことを慮っていたかというこの一点をもって、人間及びネテロの道義的な敗北が読者に印象付けられることとなる。

内外に共通する価値による線引きの乗り越え:『幽遊白書』の場合

 以上ここまで、冨樫作品における善悪のコードとしての部族主義がどのようにして現れるかを見てきた。部族主義は内外を分断し、内部の構成員に対して自己犠牲を強い、外部の者を排斥するだけでなく虐げるものであった。冨樫作品では部族主義が作動する場面が幾度も描かれる一方で、それがもたらす線引きを超える瞬間もまた幾度も描かれてきた。

 『幽遊白書』において、その越境の萌芽とも言える場面が、暗黒武術会での六遊怪チームの酎及び魔性使いチームの陣と幽助が通じ合う場面である。三者ともに戦いそのものに喜びを見出し、フェアプレイでもって戦いを楽しむ。酎との戦いにおいて幽助は酎もまた「バトルマニア」であることを認めると、霊丸という奥の手を戦う前に実演し、その性能と限界まで説明する。そのバカ正直さに酎は呵呵大笑する。

酎「ガハハハハハ 本当にバカだな 気に入ったぜこんちくしょーーー」

死闘の末に酎を倒した幽助は、気を失っている酎を前にした鈴駒に対して、親指を立てて微笑みながらこのように言う。

幽助「目ェ覚ましたら言っとけや またやろうぜってな」

また、陣との戦いの直前においての会話では、陣が幽助との戦いを楽しもうとしていることがわかる。

陣「ホレホレこれ見てけろ 耳がピーンととんがってるべ?オレなコーフンしたりワクワクすっとこうなるんだ」

陣「いや~~~~こんなビンビンになっての久々だわさ あ それがらオメが爆のヤロぶっとばした時スカッとしたんだオレ」

陣「正直言ってあいつの不実さにはほとほとあいそがつきてたからよ」

幽助「ぷっ―――ちっすっとんきょうな野郎だなオメー 怒りにまかせてぶっとばしてやろーと思ってたのに毒気ぬかれちまった」

陣「あいつはあいつオレはオレだ ギスギスした気持ちのまんまやりあっても楽しくねーべ?」

前述の通り、陣が属する魔性使いチームは、画魔が実践して見せたように個を犠牲にしてチームとしての勝利をつかもうとしていた。それに対して陣は、「オメが爆のヤロぶっとばした時スカッとした」と、同じチームの爆拳の敗北を喜んでみせ、「あいつはあいつオレはオレだギスギスした気持ちのまんまやりあっても楽しくねーべ?」と同じチームの同胞であることよりも、個人として戦いを楽しむことを大切にする。酎と陣のエピソードで、幽助は、妖怪とも党派心を捨てて勝ち負けよりも戦いそのものを楽しむことができること、妖怪もまた自分と同じように楽しむ心を持っていることを知る。暗黒武術会でのこの成功体験が、おそらくは魔界での黄泉に対する突拍子もない提案につながっている。

 幽助・飛影・蔵馬が魔界で三つの陣営に別れることになる魔界編では、魔界は三人の妖怪が支配する三つの国によって三分されており、500年にわたり三者がにらみ合い続けてきたことが明らかになる。その三つの国の内の一つの国王であり、幽助の遺伝上の父でもある雷禅が死ぬことでこの均衡は崩れる。雷禅の後を継いで幽助が国王になると、直ちに幽助は敵対国の国王である黄泉と会談を申し込む。先ほどの突拍子もない提案とは、その会談の場面での幽助の下記発言を指す。

幽助「ただのケンカしようぜ 国なんかぬきでよ 一度みんなただの一人に戻ってよくじで組み合わせ決めてトーナメントやろうぜ 最後に残った奴が大将だ 負けた奴は全員そいつに従う 何があろうとな」

幽助のこの提案は紆余曲折ありながらも最終的には魔界全体を飲み込んだ秩序の再編成へとつながっていく。もう一人の国王である軀は幽助の提案を直ちに飲み、国家の解散を宣言する。

軀「皆に伝えてくれ 今日から軀はただの妖怪だとな」

そして、(トーナメントの開催を飲みつつも)最後まで国家としてトーナメントを勝ち上がるための策略を捨てなかった黄泉もまた、雷禅の旧友たちが自身に匹敵する力を持ちながら野心も持たずに隠れていた事実に衝撃を受け、にもかかわらずその事実に高揚感を覚える自身に戸惑いを感じながら、ついには策略と国家を捨てる決断をする。

黄泉「計算外だ こんな奴らが野心も持たず隠れていたとは・・・・・・なのに何だこの高揚感は!?昔の血が騒ぐとでもいうのか黄泉よ」

黄泉「つまらぬ策略を捨て一個として力を試したいとでも言うのか!?」

(中略)

黄泉「妖駄お前も自由だ好きにしろ 誰が勝つかもうオレにもわからん」

妖駄「ま・・・・・・まさか本気で本気で国を捨てトーナメントを戦うと!?」

黄泉「やはりオレもバカのままだ」

そして、トーナメントの抽選会場で幽助と黄泉が言葉を交わすシーンで、黄泉は幽助に自身が心変わりしたことを伝える。

黄泉「信じてもらえなくても構わないが オレは何も望まずこの大会を全力で戦う」

以上のエピソードから、酎及び陣との通じ合いがここでも反復されていることがわかる。そして、この通じ合いを貫徹するために今度は、幽助は身内の党派性を解体しなくてはならない。トーナメントの抽選で黄泉とその子どもである修羅が同じブロックとなったシーンである。

雷禅の元部下「これでかなり有利になりましたね」

黄泉との会話で見せた穏やかな表情から一転、胸倉をつかみ激怒しながらこう言う。

幽助「二度とつまらねェこと言うんじゃねェ」

 以上のような経緯を経ての、本選開始前の主催者を代表しての幽助による開戦のあいさつは、幽助の思想を率直に表したものである。

幽助「できれば何年か毎にこうやってバカ集めて大統領選挙みてーに大将決められたらいいんじゃねーかと思ってる」

幽助「予感なんて信じるガラじゃねーけど誰が勝ってもスッキリできる気がするんだ」

メルエムが「暴力こそこの世で最も強い能力(チカラ)!!」と言ったように、魔界においては暴力が共通の言語であった。であるならば、徒党を組み・策略をめぐらすのではなく、衆人環視の中での個人対個人かつフェアな条件下での戦いによる結果ならば、「スッキリ」できること、わだかまりなく誰もがその勝者に従う気になること、これが幽助の提案であり確信であった。異なるポリシーを持った国王たち*5が支配する三国に分断された魔界において、「手前好みの秩序を押しつける」*6のではなく、すべての妖怪に通じる規範である「強いやつが正しい」*7を誰もが納得する形で貫徹させること、本文の文脈に即すならば、内外に共通する価値を基盤とした新たな枠組みを立ち上げること、これが幽助の部族主義を乗り越えるための知恵であった。

 このような幽助の立ち振る舞いについて、黄泉は「あえて仲間をつくらぬことで同志を増やすとはな」との感想を持った。ここで使われる「仲間」と「同志」という意味合いの違いには注意しなければならない。ここでいう「仲間」とは本文の定義でいうところの部族であることは明らかだろう。では、「同志」とは何か。幽助によるトーナメントの開催の提案について、蔵馬とその一味が乗り、軀一派もまたそれに乗ることで、黄泉は孤立に追い込まれた。蔵馬たちとはともかく、軀とは必ずしも幽助は利害を共有しない。にもかかわらず軀がそれに乗ったのは、同じ志を持ったから、幽助の掲げる理念に賛同したからに他ならない。「仲間」や組織に対する無条件の忠誠ではなく、掲げた理念に忠誠を誓うという、個々人の意思に基づいた水平的な連帯の構成員が「同志」なのである。

内外に共通する価値による線引きの乗り越え:『レベルE』、『Hunter×Hunter』の場合

 『幽遊白書』においては、「内外に共通する価値による線引きの乗り越え」は暴力という普遍的なコミュニケーションツールを基盤としたものであった。暴力を共通の言語・価値とした通じ合いは、『Hunter×Hunter』でも反復される。その一つが、ビスケの「極限をも超えた鍛錬の結晶」としての肉体に感動し、「武闘家として手合わせ願いたい」と言って戦いを挑んだ猟奇殺人犯のピノールトである。また、ネテロと対するメルエムもまた、ネテロの「演武」に対して深い感動を覚え、単なる滅すべき敵以上のものとして相手を扱おうとする。

ナレーション「王は、極限まで時が圧縮され意識のみがかろうじて捉えるネテロの残像を追いながら、ある感情に支配されていた 敵への惜しみ無き賞賛」

メルエムは自分の心が感動で打ち震えたことを、自らの言葉でしっかりとネテロに伝えようとする。

メルエム「其の方が己を高めんが為捧げ続けた永き時その成果しかと受け取った 一個が修練の末届き得る限界 それを卓越した稀有な事例といえよう 天晴だ 誉めて遣わす」

上記2つのエピソードは、『幽遊白書』における「戦うことの楽しさの共有」という切り口から、「武道における求道者の限りなく磨き抜かれた修練の先にある到達点に価値を見出す姿勢」という切り口に変化していることに注意したい。

 また、『レベルE』以降の冨樫作品では、「内外に共通する価値」が暴力・武道に限らない点も特筆に値する。具体的には、『レベルE』でのディスクン星人のエピソードである。ディスクン星人は地球に暮らす大変好戦的な宇宙人である。当該エピソードの序盤で、生態学者でもある別の宇宙人がディスクン星人を評してこう言う。

「(宇宙有数の戦闘種族である)彼らが地球に限っておとなしく暮らしているのは何故なのか?」

「彼らに攻撃されて絶滅してしまった種族は軽く3ケタを越えます なのに地球でのみ彼らは先住民のしきたりにならい他の星では考えられない程行儀良く静かに生活している」

「しかもこの星には彼らの仇敵であるエラル星人までが棲みついているんです この両種族が混在する星なんて宇宙広しといえど地球だけですよ」

この謎はエピソードの終わりに解明される。

「実はオレ達ディスクン星人種族そろって大の野球狂でして高校に大学ノンプロプロ野球かかさずチェック入れてるんスよ」

「オレら確かに切れたら星壊すまで暴れますけど地球ではやりません 野球見られなくなるっスもん」

「未来の大選手生むかもしれないって考えたら地球人殺すなんてとてもとてもとても」

「悔しいのは憎っくきエラル星人も野球好きで一足先に高校野球の激戦区やプロ野球球団の本拠地は全部縄張りでとられてしまいましてなんとかオレらの縄張りから大選手が出ないものかとずっと夢見てたんスよ」

「オレらこの星に来て戦い以外の楽しみ初めて知りました 感謝してるんス」

ギャグテイストで明かされるディスクン星人の真実は、それにもかかわらず「他者と通じ合う共通の価値」という冨樫作品の中核的なテーマを表すものである。そして、このエピソードは、メルエムとコムギとの交流の物語を予告するものでもある。

 メルエムとコムギとの交流は、以前に十分に書いたため、繰り返し詳細に書くことはしない。メルエムはネテロとコムギという人類の文武の代表者と対し、文武の精華としての成果物を味わい尽くして死んだ。そして、メルエムは彼らに対しての賛辞を惜しまなかった。本文の文脈に関係して重要なことは、すべての生命にとって共通のコミュニケーションツールである物理的な力の行使、つまりは暴力で人類とキメラアントが通じ合っただけでなく、人間による文化的産物である軍儀を通じて両者が通じ合ったことである。それはメルエムが軍儀を打つ者たちの文化共同体に組み込まれていく過程の中での出来事であった。当初メルエムは定石を相手に指させない力戦形を目指し、その無意味を悟るとコムギと感想戦を行って定石を学び、コムギの生んだ定石を生み直し、最後にはコムギとともに新たな定石を生みだした。軍儀はその性質から個人対個人で戦うことを余儀なくされる。その結果、コムギが総帥という肩書ではなく個人として、メルエムに関心を持つことになる。これがメルエムの個人としての目覚めのはじまりであった。そして最後には種の未来を背負った統治者としてではなく、メルエムという一個人として、あるいは一棋士として、コムギに相対し・対局し、死んでいった。これはピノールトが「武闘家として」ビスケに相対した先述のエピソードを反復するものである。どちらのエピソードも、本来は何の縁もゆかりもなく、まったく異なる背景を持った主体同士が、武闘という共通の価値を認める者として、あるいは軍儀という共通の価値を認める者として、それぞれの背景と属性を脱ぎ捨てて相対している。そしてメルエムとコムギのエピソードは、メルエムが元々所属していた集団から個人として精神的に自立し、新たな特定の価値を信奉する共同体に組み込まれていく過程を表したものであり、先述の『幽遊白書』における魔界統一トーナメントでのエピソードを反復したものである。

 キメラアント編における「元々所属していた集団」と「特定の価値を信奉する共同体」が性質的に異なることにも注意したい。前者への帰属は意思によらず自明の前提として観念される。一方で、後者への帰属は個人の意思に基づいたものである。個人の意思に基づいた共通の価値や目的を紐帯とする共同体*8は、ジンが設立した特定非営利活動法人やキメラアント討伐隊、ビヨンド=ネテロが総責任者をつとめる暗黒大陸探検隊等々と、『Hunter×Hunter』において繰り返し登場する。これらは、人は「仲間」でなくとも同じ志を持つことで連帯することが出来るという人間観・世界観の表現である。

 最後に、連帯の最小単位が個人であることにも言及しておく。冨樫作品の特徴は、「仲間」だからといって常に一緒に行動するわけではないという点だ*9。『幽遊白書』における主要キャラである幽助、飛影、蔵馬、桑原は魔界編では散り散りになるし、『Hunter×Hunter』における『幽遊白書』の主要キャラたちの後継にあたるゴン、キルア、クラピカ、レオリオもまた、ハンター試験の後は別々になって行動する。「ニコイチ」であったゴンとキルアでさえ、キメラアント編の後は行く先を違えて、個人が最小単位であるという原則を貫徹する。彼らは「仲間」の重大事には再度集まり行動するとともに、平常時は別のグループやチームに属してそこの人々と協力し合う。冨樫作品は同じメンバーでずっといることを好まない。それは集団に縛られていることになるからだ。幽助と分かり合えた酎や陣のように、所属集団から自由であることが連帯、あるいは新しい価値共同体の立ち上げの条件となる。そして、『レベルE』における(小学生五人組の中で一番頭の悪そうな)横田によるギャグテイストでのツッコミ「個人の自由が尊重されてこその平和だろーが」は、冨樫作品を貫徹する原理なのである。

終わりに

 少年マンガは、あるいはより広く物語一般は、主人公たちとは異なった存在である他者を物語の深みをもたらすために必要としてきた。特にバトル漫画は価値体系や利害を異にする他者との衝突・調整・交流が物語の駆動原理となる。そのようなジャンルとしての性質の中で、冨樫作品の特色は善悪だけでなく内外の境界が何度も再編成されていく点にある。対立する二者の間に新たな共通の価値を戴く共同体が立ち上がり、「あいつら」が「我々」になるときに深い感動、カタルシスが生じる。この感動の条件を最後に明示しておかなくてはならない。それは感情が揺らぐことであり、ぶれることである。

 最後の決戦において仙水は、魔界で幽助たちの人間・妖怪という種を超えた強い結びつきを目にして、かつての盟友であったコエンマを見つめながら「決心がにぶりそうだよ」と言った。ここでの決心とは、魔界で死ぬことであり、死後魂を霊界には委ねないことであろう。そこには人間を憎んで魔族にあこがれる気持ちやコエンマとの関係を修復させないという意思も含まれる。あるいは、ネテロはメルエムとの対話の中で、「お互い大変だな」とこぼしながらも「結論は変わらない」のだから「心がぶれる前に」闘おうとした。一方で、メルエムは「蟻と人とで揺れて」いたのであった。自らの信念や所属する集団への忠誠が揺らぐとき、その気持ちを押し殺すか否かの二値コードは、冨樫作品において何度も現れる。ナックルとシュートは任務の確実な遂行よりも自身らの誇りを優先し、パームは蟻の王のコムギへの純粋な想いを前にして、コムギを決してキメラアントたちに渡さないというキルアとの約束を破る。ユピーもまたモラウを確実に討つよりも敵との信義を優先した。先述の通り、黄泉もまた雷禅の旧友たちの妖気の放出に衝撃を受け、自身の手による魔界統一への意思を捨てた。雷禅も食脱薬師の女の生き様を前にして、その後の生き方を変え、同時に幽助が生まれる原因ともなった*10

 これらに一貫しているのは、揺らぎを受け入れる姿勢は人間的な美徳や相互理解につながるのに対し、それを受け入れない姿勢は悲劇や永遠の断絶をもたらす点である。仙水やネテロが揺らぎを覚えながらも、当初の結論を変えなかった姿勢は、コエンマや幻海による再三の説得にもかかわらず、極限の苦痛の後に無に帰る地獄へ行くことを選択した戸愚呂弟の頑なさと同一のものである。冨樫作品はこの頑なさを雄々しいものとしてではなく愚かしいものあるいは哀しいものとして描く。そして、揺らぐこと、その弱さこそが人間的な徳目であり、人間性の条件であること、自身の集団の外部にいる他者とつながるかけがえのない要素であることを描く。

*1:転向前の仙水のセリフ「こいつら妖怪は存在そのものが悪です全て無に還すべきですよ」が最も端的にその偏見を表わしている。

*2:下記は流星街の人々の行動・思考様式を表すエピソード。

「流星街出身の浮浪者が殺人の容疑で捕まったが、3年後に冤罪が証明された。警察官、陪審員などの冤罪にかかわった人間、合計31名はその直後に爆死。スイッチ式の爆弾を懐に入れて笑顔で対象者に握手したと同時に起爆。流星街から派遣された同胞31人は平気で命を投げ出し、31人の命を奪った。彼らの絆は他人より細く家族より強い。」

*3:メルエムは産まれてから間もない存在であり、これからも急速な成長を遂げるであろうことから、これ以降も思想的に成長し、上記発言とは全く異なる統治思想になるだろうことが予想される。したがって、このタイミングでの発言をもってメルエムの統治者としての力量を計ることは適切ではない。

*4:人類の未来を一身に負ったネテロは、ナックルとは異なり、もはや相手と直接向き合い、自らの頭で物事の是非を判断しようとしない。是非の判断をするのは後方にいて現場を知らない権力者たちであり、彼らにとってキメラアントは人間同様の理性と感情を持った存在ではなく、「危険生物」でしかない。

*5:雷禅「軀と黄泉とも最初は感情だけで争っていたが今は違うそれぞれなりに考え意見が対立してるんだ」

*6:言玉での軀による黄泉評である。

*7:魔界で蔵馬が仙水に追い詰められたときのセリフ「今はお前の力が上だったそれだけのことだそして魔界ではそれが全てだ」が参考になる。

*8:アソシエーション

*9:この点は「部族」であるゾルディック家や幻影旅団にすら当てはまる。

*10:幽遊白書』は魔族と人間との越境によって生まれた主人公が魔界・霊界・人間界を再編する物語である。

呪術廻戦考察➁――天上天下唯我独尊あるいは権利のための闘争

はじめに

 本記事は前回の補論に近い位置づけとなる。前回は『呪術廻戦』と他のバトルマンガとを比べたときの特異な点を摘示した。すなわち、➀善悪の相対化が極端に進んでいる点、にもかかわらず➁「応答責任」という形で「善」がはっきりと輪郭を持っている点、➂この「応答責任」を引き受けることが、青年が大人となる契機でもあった点、である。

 今回は、他のバトルマンガでは描写されることの稀であった要素の指摘をしたい。それはおそらくは作者のフェティッシュによるものであり、本作全体を貫く価値体系に根差したものでもある。その要素とは、「若者のありえないほどの傲慢さ・思い上がり」であり、くわえて、それをナイーブな*1または中二病的なものとして軽く扱うのではなく、「共感を持ってそれを肯定的に描く手つき」である。具体的には、五条と東堂が体現する傲岸不遜な態度のことである。前回に続いてこれもまた、本作を特徴づける特異な点である。

少年マンガのキャラクター類型とは区別されるべき「不遜さ」について

 「ありえないほどの傲慢さ・思い上がり」という言い回しによって筆者が伝えたいニュアンスを適切に表現する日本語の語彙は見当たらないので、以降では簡潔に「不遜さ」と呼称する。この「不遜さ」を、少年マンガの主人公によくある性格類型と混同してはならない。すなわち、「ややアウトロー寄りだが根はまっすぐで、少し生意気ではあるが元気で可愛げのある後輩」といったキャラクター造形とは区別する必要がある。姉妹校交流会における東堂を見てみよう。

 東京校と京都校との戦いがはじまる前、京都校の生徒と教員たちは虎杖を殺す謀議している。打合せの途中で東堂は下記のように言い放ち、襖を蹴破り退席する。

東堂「下らん 勝手にやってろ」

加茂「戻れ東堂 学長の話の途中だ」

東堂「11時から散歩番組に高田ちゃんがゲスト出演する これ以上説明いるか?」

加茂「録画すればいい 戻れ」

東堂「リアタイと録画 両方観んだよ ナメてんのか?」

(中略)

東堂「いいかオマエら 爺さんもよく聞け 女の趣味の悪いオマエらには 疾うの昔に失望している 謀略 策略 勝手にやれよ 但し次俺に指図してみろ 殺すぞ」

 ここにおける東堂はもはや「活きのいい若者」として回収するのが困難なほどに無軌道で破壊的であり、はるかに年上で目上の楽巌寺学長の権威も一切認めていない。

 あるいは、天内理子を守ることを決めたときの五条と夏油の会話を見てみよう。

五条「星漿体のガキが同化を拒んだ時!?」

五条「......」

五条「その時は同化はなし!!」

夏油「クックッ それでいいのかい?

五条「あぁ?」

夏油「天元様と戦うことになるかもしれないよ?」

五条「ビビってんの? 大丈夫 なんとかなるって」

 ここでの五条(と夏油)の言動は東堂に比して一層ラディカルであり、一層危うい。この世界の秩序そのものを支える存在を敵に回しかねないことを、誰に相談するわけでもなく、たった二人で決めてしまう。

 東堂にせよ五条らにせよ、彼らの振る舞いはもはや「生意気だけれどもかわいい後輩」のものとは到底言うことができない。自分よりも目上の対象の喉元に刃を突きつけ、いつ喉笛を掻っ切るかわからない存在である。また、当然のことながら無力な不良少年の粋がりとも異なる。彼らは十分に裏付けとなるだけの力を持っており、それを背景に、東堂は楽巖寺に「指図するな」と「命令」しているのであり、五条に至っては断りを入れることすらなく「決定」してしまう。

 ここまでで、本作の「不遜さ」は少年マンガにおける先行作品群と一線を画することを示すことができたと思う*2。以下では、「不遜さ」とはどのような意味内容を含むのかについて、本作及び別作品の引用を適宜交えつつ「不遜さ」に含まれる下位概念を見ていくことで明らかにする。

その1:強烈な自尊心

東堂「小3のときに俺にナマこいた高校生をボコッた 年上だろうと生意気は生意気

相手が俺をナメてて俺がナメられてると感じる その瞬間ゴングは鳴ってんのさ」

 東堂の尋常ならざる人間性を示す上記エピソードは、前掲の楽巖寺学長に聞いた口同様、価値の反転が見られる。すなわち、「評価するのも指図するのもオマエ(学長)ではなくオレ」であり、「ナマこいた態度を許すかを決めるのもオマエ(高校生)ではなくオレ」であるということだ。相手がはるかに年上だろうが怯むことはなく、「目上に対しては恭しく振舞うべきだ」といった通俗道徳を突き飛ばすような、尊大なまでの自尊心がある。

 また、京都校との交流会で、先輩にあたる西宮から顔を攻撃されたときに釘崎が怒り心頭で放った言葉「よくも私の御尊顔を…」も本作の特徴である強烈な自尊心をよく表している。

その2:自負心(と裏付けとしての実力)

 自負心は自尊心とはやや異なることに注意したい。自負心は自分の能力や業績に対する自信や誇りである。一方で、自尊心は能力や業績と必ずしも紐づかない。したがって、自尊心は条件付きでない点で自負心よりも純粋で強固なものであると言えるが、自分の意に沿わない外界と対峙するときには、裏付けを欠くものとして、自負心よりも脆いものになりかねない。

 フランスの詩人、アルチュール・ランボーの『地獄の季節』の最終章である『別れ』の一節を引きたい。彼は早熟の天才であるとともに、「反抗の詩人」として、あらゆる権威を否定し、新しい諸価値を構築しようと努めた。

俺はありとある祭を、勝利を、劇を創った。新しい花を、新しい星を、新しい肉を、新しい言葉を発明しようとも努めた。この世を絶した力も得たと信じた。さて今、俺の数々の想像と追憶とを葬らねばならない。芸術家の、話し手の、美しい栄光が消えて無くなるのだ。

この俺、かつてはみずから全道徳を免除された道士とも天使とも思った俺が、今、務めを捜そうと、この粗々しい現実を抱きしめようと、土に還る。百姓だ。

 ランボーのこの詩において、「この世を絶した力も得たと信じた」とまで言うすさまじい自負心は、「この俺、かつてはみずから全道徳を免除された道士とも天使とも思った俺」という異常な思い上がりという形で結実する。

 十二分な実力を持ち、それに見合った自負心を持つ五条と東堂もまた、ランボーのように自らを「全道徳を免除された」存在と自認していたからこそ、上述のような傍若無人な振る舞いができたのだと、筆者には思われる。彼らは責任や義務を自らの意志で引き受けることはあっても、道徳を押し付けられることはない。

その3:独立不羈の精神

 彼らの自尊心と自負心は、自らが誰かの風下に立つことを許さない。その精神に響き合うものとして、『スクールランブル』の主人公である播磨拳児の独白を引きたい。

播磨「ほんの少し前まで俺はクソ生意気な中学生で どうしようもないバカで そして神だった 誰にも俺を縛らせやしねえ 俺は俺だけのモンだ」

 上記はラブコメである『スクールランブル』の作品全体の雰囲気からは浮いた、要するにギャグとしての描写であるけれども、自らを神と比定し、誰からの介入も拒絶するあり方*3は、ある種の美学として、好ましいものとして、作中では描かれているように思われる。

 あるいは、『月の爆撃機』の歌いだしが指し示す領域であると例えると通りが良い人もいるかもしれない。以下は、その歌いだしの歌詞である。

ここから一歩も通さない

理屈も法律も通さない

誰の声も届かない

友達も恋人も入れない

 五条と東堂もまた、一切の他者からの介入を拒絶する領域を認めている。

東堂「羽化を始めた者に何人も触れることは許されない」

五条「若人から青春を取り上げるなんて許されていないんだよ、何人たりともね」

 注意しなければならないのは、ともすると強烈なエゴイストに見える五条と東堂が上記のセリフで守ろうとしているのは、他人の領域であるということだ。ここで東堂の言う「羽化」とは、虎杖の「羽化」であり、五条の言う「青春」とは、かつての自分たちの「青春」だけを指すのではなく、今このときを生きる少年少女、要するに教え子たちの「青春」なのである。

 したがって、自らの上に立ち自らに介入する者を決して彼らは許さないが、他者を必ずしも自らの下に位置づけ、介入・操作しようとするわけではない。むしろ積極的に、その独立を介入してくる者から守ろうとしている。ここに、独立不羈な者たちの連帯の契機がある。

その4:友情あるいは水平的な連帯意識

 十代前半から神童の誉れ高く、戦前の治安維持法下で反戦共産党運動にのめりこみ、26歳で拷問死したプロレタリア詩人である槇村浩の詩『青春 献じる詞(牢獄にて)』の一節を引く。

空疎な独白から眼をあげ

肩をそびやかして一切の倦怠を笑い飛ばした時

僕らはお互いの若い眼の中に

未来のコンミュニズムの輝きの発止と飛ぶ火花を

おぼろげに認めたのだ

僕らは十三だった!

さようなら! と僕は言った

それは不遜な少年たちが次々に放校される順番が

僕に廻って来た時だった

 ここで描かれている「不遜な少年たち」の甘美な友情は、東堂が希求した、あるいは五条が一生を捧げた、「あの友情」に他ならない。すなわち、➀他のすべてを敵に回しても壊れることのない結びつき*4であり、➁上下関係のない対等な*5、つまりは水平的な結びつきである。

その5:宿命的な挫折

 これまでに見てきた「若者の思い上がり」が折れずにいつまでも続くことは極端に少ない。その挫折がほとんど運命づけられていると言ってもいい。

 播磨は高校生活の中で、少しずつ「孤高のツッパリ」であることを辞めていく。ランボーは詩に失望し、若くして詩作を放棄し、二度と戻らなかった。槇村浩は上述の通り、戦後日本を見ることすらなく、1938年に26歳の若さで拷問死する。そして、五条と夏油の何者をも恐れぬ思い上がりもまた、天内の死とそれに続く友情の崩壊という最悪の結末を迎えることになる。

 それでは、若者が思い上がることは間違いだったのだろうか?本作はそう考えない。この物語をハッピーエンドに導いたのは誰だったか?他でもない大人になっても「クソガキ」であり続けた五条ではなかったか?五条は最初の決定的な反抗、すなわち「若人の青春を犠牲にして世界の秩序を守ることに何の痛みも感じないこの世界のあり方」をクソだと蹴とばして、世界のすべてを敵に回そうとした。そして、その最初の衝動、言い換えればたった一人の親友である夏油と共に目指した理想を守り続け、それに殉じ、その意思を貫徹した。

その6:反抗の思想あるいは美学

 本作には「権利のための闘争」とも言うべき、反抗の思想あるいは美学が埋め込まれている。本文序盤で言及した東堂の反抗及び五条らの反抗は何を目的としたものだったか?前者は高田ちゃんの出演する番組をリアタイするためであり、後者は天内の生きる意思を尊重するためである。一見すると彼らは自らのエゴを他人に押し付けているように見えるが、その方法を度外視して目的だけに着目するならば、自らの/他人の大切なものを守るために命令/抑圧をはねのけているに過ぎない。

 自らや誰かの、権利や自由の実現を阻む存在*6との戦いは止むことがない。そして、その存在とは往々にして自らよりはるかに強大なものである。本作での「若者の思い上がり」は、あらん限りの共感を持って抱きしめられるものであるとともに、人間存在の果てしない理想へ向かっていく勇気と活力として表象されている。

 たとえ挫折が必然であったとしても、挫折を織り込んだ思い上がりなど本物ではない。東堂のあの言葉を思い起こそう。

東堂「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 娑羅双樹の花の色 盛者必衰の理を表す ただし!! 俺達を除いてな」

 この信じがたいほどの思い上がりをどうか読者も噛みしめてほしい。

 すなわち、➀鐘の音が次第に消えていくようにすべては変化していくこと、➁咲き乱れる花々もいずれは衰え散っていくように盛者も必ず衰えゆくこと、➂短い春の夜の夢のようにその勢威を誇った人も長くは続かないこと、➃風が軽々とちりを吹き飛ばしてしまうように勢いの盛んな人も最後には滅びてしまうこと、と自然物、人工物、人間社会を観察した結果としての様々な例証をもって、あるいは『平家物語』という物語そのものでもって、世界における普遍・不変の法則としての諸行無常・盛者必衰の理が説かれている。それらに言及したうえで・それらすべてをわかったうえで、「ただし、俺達を除いてな」と啖呵を切っているのである。

 人間存在の奥底から湧き上がってくるマグマのようなエネルギーを持ったこのセリフは、へし折られた虎杖を鼓舞するものであり、思いあがった人間の愚かさを力強く肯定する。全知全能ではない自分をあるいは人間を、それでも信じることを肯定する。

補論:作中における「天上天下唯我独尊」の解釈について

 東堂が平家物語冒頭の引用をあえて捻ってみせたように、覚醒した五条が口にした「天上天下唯我独尊」もまた、すべての存在の尊さを語る本来的な意味ではなく、「宇宙の中でただ私が唯一尊い存在である」という、字義通りの意味であえて使用されている。これは言うまでもなく<宇宙的な思い上がり>であるのだが、さらにもう一捻りがある。五条がこの言葉を口にしたときの戦いの相手である甚爾が敗北したときにモノローグを見てみよう。

甚爾「自尊心(それ)は捨てたろ 自分も他人も尊ぶことのない そういう生き方を選んだんだろうが」

 ここにおいて、自身を尊ぶことと他人を尊ぶことはつながっている。このモノローグの背景で描かれているのは甚爾の妻と子、すなわち「他人」である。自身を尊ぶ者が他人を尊ぶ回路とは、つながりと共通点である。甚爾が自分を大切にしていれば、その延長線上にある家族である彼女らを大切にしただろう。対して、自分(と夏油)が世界の中心であった五条は、おそらくは境遇の類似性から、天内を救おうとしたのだった。

 したがって、自らを尊ぶことが他人をも尊ぶことにもなるという作中で示された筋道は、本来の「天上天下唯我独尊」の意味合いに帰ってくる。本来の意味合いについて、その理路をもう少し丁寧になぞってみよう。CoPilotに「天上天下唯我独尊」について解説してもらった内容の一部をそのまま下記に引用する*7

1.普遍的な尊さ: 釈迦が言った「唯我独尊」は、すべての生命が尊い存在であることを示しています。つまり、誰もが唯一無二の尊い存在であり、その価値を認識することが重要です。

2.自己の尊重: 自分自身を尊重し、他者も同様に尊重することの重要性を説いています。自己の価値を認識することで、他者の価値も理解し、尊重することができるという教えです。

3.悟りの象徴: 釈迦がこの言葉を発したのは、悟りを開くための第一歩として、自分自身の存在の尊さを認識することが必要であることを示しています。

 以上からわかるように、「天上天下唯我独尊」の本来的な意味とは、➀悟りを開く第一歩が自分の存在の尊さを認識することであり、➁自分の価値を認識することが他者の価値を理解することとなり、➂すべての生命が尊い存在であることに至るというものであった。よって、五条「悟」の「宇宙の中でただ私が唯一尊い存在である」という捻った「天上天下唯我独尊」の用法もまた、本来の枠組みの一部なのであった。

まとめ

 本作での「不遜さ」とは、➀自尊心と➁自負心に基づいた、➂独立不羈の精神によるものであり、その精神は上下関係ではなく➃水平的な連帯を希求する。そして、若者の「不遜さ」には➄挫折が運命づけられている。にもかかわらず、それは儚いゆえにこそ尊いものであると同時に、⑥「権利のための闘争」の源となる勇気と活力として表現される。さらには、⑦自尊心とはすべての存在を尊ぶ契機となるものであった。

 以上、本作における「不遜さ」とはそれ自体尊ぶべき「若者の」徳目であった。この徳目に付随する形で、大人たちが持つべきとされる徳目もまた本作においてあることを明らかにしなければならない。すなわち、とんでもない聞かん坊である若者たちをつぶすのではなく、彼らに振り回されながらも決して見捨てず、時には尻拭いをし、時には盛り立てていく大人の度量である。

 その典型は夜蛾学長であった。五条がまだ学生であった頃から数少ない理解者として支え続け、保守派にとって仇敵である五条側につき続けたことから、五条の封印時には無実の罪を着せられて殺されてしまった。

 本作は同時期に連載されたジャンプ三本柱とも評される『僕のヒーローアカデミア』や『鬼滅の刃』と異なり、作中における絶対的な価値観が存在しない。『ヒロアカ』ではオールマイトの体現する正義が目指すべき絶対であり、『鬼滅』では無惨を滅することが絶対の善である。いわば、『ヒロアカ』の世界観はオールマイトの善に寄りかかり、『鬼滅』の世界観は無惨の悪に寄りかかっている。

 寄りかかるべき価値観が存在しない世界で、「2人で1つだった」片割れの夏油が迷いと苦悩の果てに歩むべき道を違えたことを五条に報告したときの、頭を抱え込みながらの夜蛾のセリフは、本作品世界の混沌をまさに表している。

夜蛾「俺も…何が何だかわからんのだ」

 そのような世界の中で、正解の見つからない苦しみを五条ともに味わいながら歩んできた夜蛾のそのあり様が、自分なりの答えを押し付けることもなくただ五条に寄り添って支えてきたそのあり様が、本作におけるもう一つの、大人のあるべき姿なのであった。

*1:世間知らずで未熟な

*2:「不遜な」主人公類型として『DEATH NOTE』の夜神月が挙げられようが、彼は間違った・極端な・カルトとして、つまりはアンチヒーローとして描かれているため、「共感を持って肯定的に」描かれているとは言えない。

*3:主権概念を想起させる。

*4:東堂が存在しない記憶を思い出した直後につぶやいた修二と彰による『青春アミーゴ』の一節地元じゃ負け知らずの直前の歌詞は、「Si 俺達はいつでも2人で1つだった」であり、歌詞中の二人は故郷を捨て去りアウトロー組織に飛び込んでいたのだった。

*5:五条と夏油の友情は力関係の均衡が崩れたことで壊れ、東堂の虎杖との友情は互いがそれに値することを常に目指し・その水準を満たすことによってのみ成り立つ。

*6:作中における呪いとは人間界における矛盾の表現であるが、自然現象や野生生物など、権利や自由の実現を阻む存在が人間(及び人間たちの営みの集積としての社会構造)であるとは限らない。花御とはそのことを象徴する存在である。

*7:取り扱う内容が基本的ものであるから、大きく外したものではないと思われる。

呪術廻戦考察➀――「呪い」とは何か? 善悪の彼岸における応答責任としての呪いについて

はじめに

 「呪い」が『呪術廻戦』の重要なキー概念であることは、衆目の一致するところであろう。そして、作中における「呪い」という言葉の持つ多義的なニュアンスについても、多くの人は感づいているものと思われる。「呪い」とは誰かから誰かへ向けられた負の感情であるだけでなく、愛情や友情あるいは約束や願いもまた「呪い」となりえる。

 ここまでで語られた「呪い」は、誰かが誰かを「縛る」ものであった。しかし、本作における「呪い」は、自ら「引き受ける」ものでもある。この自発的な側面こそが、読者を深く感動させる、本作の中核的な要素をなすと筆者は考える。今回はこのことについて考えてみたい。

本作における悪とは何か?

 本作で登場する「敵」たちは必ずしも「悪」ではない。花御が戦うのは森や空や海を守るためであり、漏瑚は呪いこそが真の人間であるという信念から戦い、夏油は呪術師がすり減っていく現状への怒りと悲しみからこの世界を変えようとする。彼らが掲げる正義が、呪術師たちにとっての正義よりも劣っている根拠はどこにもない。虎杖が最後には「俺はお前だ」と真人に対して認めたように、人間と呪いとは徹底して相対化される。善悪は相対化される。

 にもかかわらず、本作において揺るがない「悪」は存在する。呪術界の負の部分を代表する、保守派グループがそれである。旧態依然とした価値観に固執し、自身らの利権にのみ腐心する醜悪な姿が強調される*1。本作で登場した多くの「味方」及び「敵」たちと異なり、彼らには守るべき信念がない。

 しかし、信念がないことが「悪」たる理由ではない。本作においては、「身近に起こった苦しみや悲しみに応答しないこと」が「悪」なのである。例えば、禪院家当主の禪院直毘人は、一般人が次々に殺戮される渋谷事変において、まともに働こうとする様子を見せない。一般人たちがどれほど死のうが、彼は痛みを感じない。リスクを負いながらその場に居合わせたすべての人を救おうとした五条の戦いっぷりと対照的である。あるいは、シン・陰流当主の老婆は、自らの利権を守るがために技術を独占し、助かったかもしれない命を見殺しにしてきた。そして最期にはその報いを受ける。

「善」と「悪」とを分かつもの

 上記の「応答する/しない」の二値コードが、「善」と「悪」とを分かつものとして本作では機能している。例えば、最強の一級術師として名前があがる宇佐美と日下部の対比が、このことを明らかにする。宇佐美は「上(総監部)の命令しか聞かないし、言われたことしかやらない」人物であり、五条や冥冥から忌み嫌われている。一方で、五条や冥冥らから「優しい」と慕われる日下部は、「応答せずにはいられない人」である。元々の彼は自らの保身を第一とする小心翼々とした人物であった。しかし、渋谷事変では向かっていくことなど考えもしなかった宿儺相手に、今度は単騎で向かっていく。

「ガキどもが命かけて戦った!! 大人の俺が必死こかなくてどうするよ!!」

 日下部の命をかけた応答は、「ガキども」だけに向けられたものではない。今は亡き恩人夜蛾学長にも向けたものである。

「らしくねぇ。なーんでこんな頑張ってるんだっけ。夜蛾さんのせいだよな、夜蛾さんには恩があるから。その夜蛾さんはもういないっちゅーの。でも、いないからこそってのもあんだよな。死人に口無しとはよく言ったもんで、こっちは死んだ人間が生きてたら言いそうなことを考えるしかない。別に俺が命をかけて戦わなくたって、夜蛾さんは責めやしないし、妹とタケルを会わせないなんてことはしないさ。でも、少し悲しそうな顔をするかもな。俺が命をかけないことにじゃない、一緒に戦えないことに対してだ。」

 夜蛾がいなければ、日下部が宿儺との戦いの現場にはいなかったかもしれない。そうであるならば、「ガキども」の戦いっぷりを見ることもなかった。そういう意味で、夜蛾は日下部を変えたキーマンであった。

 もう一人夜蛾によって変えられた人物がいる。保守派筆頭の楽巌寺学長である。当初の彼は五条から軽蔑される「マニュアル人間」であった。彼が変わったきっかけは、夜蛾による「呪い」である。我が身と引き換えに守り抜いた完全自立型呪骸の作り方を、夜蛾は死の間際に楽巌寺に伝えてこと切れる。

楽巌寺「何故… 今更話した 何故もっと早く 何故生き延びなんだ…!!」

夜蛾「呪い…ですよ 楽巌寺学長 私から アナタへの呪いです」

 後に楽巌寺が完全自立型呪骸の作り方を上層部に報告しなかったことが明らかになる。これは明らかな任務違反であり、五条が驚いた通り、「マニュアル人間」には決して起こしえない事態であった。楽巌寺は善悪を自身で判断し、自らリスクを負った判断をすることで、夜蛾の「呪い」に「応答」して、「マニュアル人間」をやめたのだった。

祖父から虎杖への「呪い」

 本作の主人公虎杖もまた、「呪い」を引き受けた者である。宿儺の器として呪いを我が身に受け入れ続けただけではなく、人生の指針もまた「呪い」によるものであった。その発端は祖父からの遺言であった。

祖父「オマエは強いから 人を助けろ 手の届く範囲でいい 救える奴は救っとけ 迷っても感謝されなくても とにかく助けてやれ オマエは大勢に囲まれて死ね 俺みたいにはなるなよ」

 上記の遺言を受け、虎杖はこのように言う。

虎杖「こっちはこっちでめんどくせえ呪いがかかってるんだわ」

 この時点において、虎杖は祖父の遺言は主体的に引き受けたものではない。はじめて夜蛾学長と面会した際、虎杖はそこを突かれる。

夜蛾「君は自分が呪いに殺された時も、そうやって祖父のせいにするのか?呪術師に悔いのない死などない。いまのままだと大好きな祖父を呪うことになるかもしれんぞ」

 ここではじめて虎杖は自らの意思でもって祖父からの「呪い」を引き受ける覚悟を持つことになる。

七海と釘崎から託された新しい「呪い」

 しかし、この覚悟は宿儺によって粉砕される。虎杖が生きていたことそれ自体によって、宿儺が虎杖の身体を借りることによって、数えきれないほどの人々が虐殺されてしまう。さらには七海と釘崎の最期を目の当たりにして、虎杖は完全に心を折られてしまう。このとき、虎杖を立ち直らせたのは、東堂の言葉だった。

東堂「虎杖…オマエ程の漢が小さくまとまるなよ。俺達は呪術師だ。俺とオマエと!!釘崎!!Mr.七海!!あらゆる仲間、俺達全員で呪術師なんだ!!俺達が生きている限り、死んでいった仲間達が真に敗北することはない!!罪と罰の話ではないんだ。呪術師という道を選んだ時点で、俺達の人生がその因果の内に収まりきることはない。散りばめられた死に、意味や理由を見出すことは時に死者への冒涜となる!!それでも!!オマエは何を託された?今すぐ答えを出す必要はない。だが…答えが出るまで決して足を止めるな。それが呪術師として生きる者達へのせめてもの罰だ。」

 虎杖は七海から何を託されたか。「後は頼みます」という言葉である。その言葉を発する直前、七海が躊躇したように、これは虎杖への呪いとなりうる言葉だった。虎杖へその言葉を発するよう七海に促した灰原の幻影は――七海は決して正面から認めることはなかったが――灰原から七海へ「呪い」がかけられていたことを暗示する。虎杖は七海からのその言葉を確かに受け取り、「俺 ナナミンの分までちゃんと苦しむよ」と誓う。

 果てしない苦悩と苦闘の果てに非業の死が待っていたとしても、その営みをまだ10代の若者に託すことが大人のあるべき姿からあるまじきものだとしても、虎杖の置かれたあの特殊状況において、「後は頼みます」という言葉は、灰原から受けた「呪い」を、つまりは自身(と灰原)の人生を肯定し、虎杖を生かす、唯一の応答であった。

 釘崎もまた虎杖に「皆に伝えて 『悪くなかった』!!」と言い残して倒れる。彼女は死の間際に自身の人生を「強い個人」として力強く肯定してみせた。この結末のすべては自分が納得ずくで引き受けたリスクであり、後悔はないこと、だから虎杖が気に病むことはないことを伝えたのだった。そして、虎杖が生きてこの言葉を持ち帰ることによってはじめて、釘崎の死は哀れむべきものではなくなる。そのような意味での「皆に伝えて」なのである*2

 呪いとなることを知りながら敢えて最期の言葉を口にした七海と、呪いとなることを避けるため言葉を選んだ釘崎は、全くの好対照でありながら、どちらも虎杖を生かす新しい「呪い」となった。

 ここにおいて、虎杖が生きる理由は功利的な計算によるものではない。すなわち、彼が生きることでもたらされた/もたらされる生と死を差引きして判断されるものではなくなった。七海が灰原からの「呪い」に応えて生きたように、虎杖もまた七海と釘崎からの「呪い」に応えて生きようとする。自身が生きるべきか死ぬべきかは、もはや自分で判断する事柄ではない。自分の一存で死ぬことすらも「許されない」。そのような意味で、虎杖は自身を「部品」と自認する。

世俗的な責任から遠く離れて

 虎杖の先達として彼を導いてきた七海や東堂は、呪術師と非呪術師との境目について自覚的な人々であった。

 七海は呪術師の世界が世俗に比して異常なまでに苛烈であることをよくわかっていた。

七海「呪術師はクソだ 他人のために命を投げ出す覚悟を 時に仲間に強要しなければならない だから辞めた というより逃げた」

 東堂は世俗の論理で呪術師を裁くことは不可能であることをよくわかっていた。

東堂「罪と罰の話ではないんだ。呪術師という道を選んだ時点で、俺達の人生がその因果の内に収まりきることはない。」

 虎杖はこの境目に自覚的ではない。世俗的な責任や道理を十分に理解することなくあまりに多くを背負い込んでしまった虎杖を、救う主体が現れなくてはならない。その存在こそが日車である。彼もまた見過ごすことがどうしてもできない人であった。

日車「私は弱者救済など掲げてはいません 昔から自分がおかしいと感じたことを放っておけない性分でした それが治ってないだけです」

日車「正義の女神は 法の下の平等のために目を塞ぎ 人々は保身のためならあらゆることに目を瞑る そんな中 縋りついてきた手を振り払わない様に 私だけは目を開けていたい」

 日車もまた「折れてしまった人」である。

日車「人の心に寄り添う それは人の弱さを理解するということだ 被害者の弱さ 加害者の弱さ 毎日毎日毎日毎日 ずっと食傷だった 醜い。他人に歩み寄る度そう思うようになってしまった」

日車「君もだ……虎杖!!人は皆!!弱く醜い!!オマエがどんなに高潔な魂を望もうとも!!その先には何もない!!目の前の闇は ただの闇だ!!灯を灯した所で!!また眩しい虚無が広がっている!!」

 日車が最後の一線を越えてしまったきっかけは、ある冤罪事件でのことだった。冤罪事件とは、法が機能しない極限状況である。その事件の判決直後に行われた日車による殺人もまた、法では裁くことのできない「呪術による向こう側での出来事」である。

 その日車が今度はジャッジマンをもって虎杖を裁こうとする。

「虎杖悠仁は2018年10月31日、渋谷にて大量殺人を犯した疑いがある」

 間髪入れず、まっすぐ目を見据えて、虎杖は言う。

虎杖「あぁ、俺が殺した。これは嘘でも否定でもない」

 言うまでもなく、宿儺による渋谷での大量殺人は法で裁ける領分ではない。しかし、ジャッジマンはそれを虎杖の罪として取り上げ、虎杖本人もまた自身の罪であると認める。今この瞬間の裁判もまた、法が正常に機能しない極限の状況なのである。

 かつて自身が弁護した被告人たちの、判決の瞬間の行き場のない感情を表した眼を日車が見過ごすことができなかったように、虎杖の哀しく澄んだ眼差しを日車は見過ごすことができない。言い換えれば、極限の状況下で責任を引き受けて見せた虎杖の振る舞いに、日車は応答せずにはいられなかった。

日車「刑法39条1項だ。渋谷での君は宿儺に肉体を乗っ取られていた。制御能力がなかった。つまり無罪だ、君に罪はない。」

 こうして、虎杖は世俗の道理によって救われ、日車は世俗を超えた極限状態での「一つの倫理的立場」を虎杖によって示され、それに応えることで「心神喪失」状態から自らを救い出すことができた。

日車「自分の意思で人を殺したことはあるか?……そうか 最悪の気分だったろう」

日車「俺は法を見限り また見限られた人間だ 最期に自分を罰するのは自分でありたい」

 法の判断が正義に反するときも、問題が呪術の領分であるときも、世俗の合意によって形成されてきた物差しに寄りかかることはもはやできない。半ば以上外部から押し付けられたこの極限状態にあって、自発的に責任を引き受けること、すなわち自分に向けられた呼びかけに応答する倫理を高らかに示すことは、人に過度に倫理的であることを強いることになりかねず危うい。このことはたとえこれがフィクションであっても、明確にしておかなくてはならないことだと筆者には思われる。

 しかしながら同時に、現実世界では「はっきり責任分担を切り出すことができない事柄」や「誰のせいでもない事柄」があまりに多い。そのような場面において、「応答せずにはいられない」虎杖や日車のあり方は、深く人の心に突き刺さる、何ものにも代えがたい徳目であると思う。

五条と夏油の蹉跌

 本作は五条が意思を貫徹し、その理想を達成する物語でもあった。したがって、虎杖にくわえて五条の変遷もまた重要な物語の軸となる。全てのはじまりは五条と夏油との青春であり、その無残な結末からであった*3

 二人は星漿体となる使命を帯びた少女、天内理子をその運命から救い出すことを決意する。二人は夜蛾から自らで判断するよう示唆を受け、おそらくは、五条は自らの境遇と重なるところから、夏油はあらゆる弱者を無視できないその性分から、彼女の強がりの中から微弱に発せられる「もっと生きたい」という意思を拾って応えようとした。彼女に課せられた理不尽に抗おうとした。

 しかし、若い二人の怖いものなしの自信は未熟さゆえに打ち砕かれる*4。この敗北が二人を分かつきっかけとなる。五条は一人で「最強」となり、もはや「二人は最強」ではなくなる。

 そして、盤星教の信者が少女の死体を前に満面の笑みで拍手するとき、五条が「コイツら殺すか?」と夏油に言ったとき、五条が善悪の判断を夏油に寄りかかり、まかせていることに夏油は気づいてしまった。だからこそ、夏油は自身の苦悩の最も暗い部分を五条に明かすことができなかった。そしてそのことがおそらくは夏油をより暗い方向へ導くこととなった。

 夏油が最後の一線を越えるとき、何一つ五条に相談することもなく、五条を誘うこともなかったのは、自分で善悪を判断しない五条を巻き込むことを避けたからだ。それは夏油が呼びかければ、五条は応える蓋然性が高かったということである。

 そしてそのことは、呪術師だけでなくあらゆる弱者の苦しみを受け取り、それに応えようとして潰れていった夏油に対し、五条はたった一人の親友である夏油の苦悩にすら応える以前に読み取ることもできなかったことを意味する。何も告げず変わっていった夏油を前に、五条もまた置いて行かれたと感じている。

青春の蹉跌がもたらした「呪い」

 「夏油の苦悩に応えられなかったこと」は五条を終生縛る「呪い」となった。夏油のとどめを五条自ら刺したことは、「現在の夏油」に対する五条なりの応答であった。このことについて、順を追って見ていこう。

 盤星教の信者を夏油は「意味がない」と言って殺さなかった。そのとき五条は意味の必要性を理解していない。また、夏油は両親を自らの手で殺害した。非術師である限り両親も例外でないこと、自らの手で殺さねばならなかったこと、これらは「意味のあること」である。だから自らの手で殺した。そして、街中で夏油と再会したとき、五条は彼を殺せなかった。その行為には「意味がある」と夏油が言ったとき、それに見合う意味を五条は見つけられていなかったからだ。しかし、夏油の最期のとき、五条は迷いなく自らの手で彼を殺した。夏油を殺すほどの意味ができたからだ。すなわち、自分たちのような青春(の無残な断絶)を二度と繰り返させないために、呪術界を変える志を持ったのだ。

五条「若人から青春を取り上げるなんて 許されていないんだよ 何人たりともね」

 五条が自ら夏油を殺したことは、夏油が両親を自ら殺したことに対応する。五条は親友が通った苦渋に満ちた通過儀礼追体験することで、善悪の判断を夏油に寄りかかる自分ではもはやないことを見せて、再び対等に関係に戻ったことを夏油に示したのだった。そしてそれは永遠の別れでもあった。

 夏油を殺害したことは、現在の夏油に応答するものである。そして、夏油を殺してでも実現したい目標は、過去の夏油(と五条自身)に応答しようとするものである。青春の中にいた五条はあまりに若すぎた。生育環境からしても応えられなかったことに罪はない。だからといって、当時の呪術界を形作ってきた保守派を皆殺しにしても「意味がない」。だから五条はこの問題をほかでもない自分の責任として引き受けるしかなかった。

 夏油は全ての呪術師たちの苦しみに対して応答しようとした。これに対し五条は過去の夏油(と自分自身)のみに対して応答しようとしている。すなわち、そのときにいてほしかった――しかしいなかった――大人の役割を引き受けることにした。それはあまりにも遅すぎた応答であった。無論、五条もそれをしたところで自分が一番望んでいるものがかえってこないことを知っている。それでも彼には、過去の自分たちに報いてやれる方法が他にないのだ。

 非呪術師のせいでもなく、保守派のせいでもなく、眼前の問題は自己に課せられた責任であると引き受けるときに、青年は大人のいない世界で「大人」となる。

 この五条の立場を言い表すにふさわしい三島由紀夫の言葉を引用したい。

「ここまで青年を荒廃させたのは、大人の罪、大人の責任だ、というのが、今通りのいい議論だが、私はそう考えない。青年の荒廃は青年自身の責任であって、それを自らの責任として引き受ける青年の態度だけが、道義性の源泉になるのである」

 いつ始まったかもわからない保守派の腐敗(=苦しみに応えないこと)があらゆる悪と悲劇の源泉であったように、五条が「大人」となったこの瞬間が、この物語のあらゆる道義性の源泉となっている。多くの心ある呪術師たちが、彼の献身に応えて共鳴していくことで、物語は駆動する。

 起源がわからないほど昔から続く腐敗の連鎖(=本来的な意味での呪いの連鎖)を、言い表せない悲劇と悲しみを負った英雄たる五条が――もはや自分が本当に望んでいるものは戻らないにもかかわらず――責任を負う主体となることで、「呪い」を引き受けることで、終わらせようとする物語が『呪術廻戦』なのである。

まとめ

 本作は優れて倫理を問題とした作品であった。上述の通り、本作は社会システムに対する関心が薄い。既存のシステムそのものの出来不出来を描写し、点検する意欲に乏しい。ここでの問題関心はシステムを運用する人間のあり方にあり、他者からの呼びかけに「応える/応えない」の二値コードが最も重要な善悪を弁別する基準となっている*5

 ただし、夏油の例のように応答することそれ自体は、必ずしもよい結果を招くとは限らない。しかし、応答しない者は本作において間違いなく「悪」であり、それと同時に悪い結果を招くのである。

 また、ここで求められている「応答すること」は、「特定の行動をする/しない」ことに照準が定まっていないことに注意すべきだ。もとより罪と罰との因果の外に「放逐」された呪術師たちは、固定された行動規範に寄りかかることはできない。

 くわえて、当初虎杖が基準としていた、功利的な計算に基づく結果主義も採用されない。それは呪術師と非呪術師を同じ物差しで測れないからであり、もはや世俗の枠組みで結果を予測することが不可能だからであり、そして何より命を張って戦場に立つ呪術師にとって、命を賭けるに値するものは一人一人違うものだからだ。

 徹底して善悪は相対化され、拠って立つ価値観は個人化されたうえで、ギリギリに削ぎ落として最後に残された倫理が「自身に対する呼びかけに自らの意思で応えること」である。このような意味で、呪術師は善悪の彼岸に立つとともに、人一倍の応答責任を負うことになる。

虎杖「『宿儺を喰う』 それは俺にしかできないんだって。死刑から逃げられたとして、この使命からも逃げたらさ、飯食って風呂入って漫画読んで、ふと気持ちが途切れた時、『ああ今宿儺のせいで人が死んでるかもな』って凹んで、『俺には関係ねえ』『俺のせいじゃねえ』って自分に言い聞かせるのか? そんなのゴメンだね。自分が死ぬ時のことは分からんけど、生き様で後悔はしたくない。」

 あるいは、七海が虎杖にかけたこの言葉。

七海「今日君がいなければ私が死んでいたように、君を必要とする人がこれから大勢現れる。虎杖君はもう、呪術師なんですから」

 作中では語られなかったが、この台詞が暗示しているのは、上記の虎杖同様の気持ちを抱えながら、それを押し殺して・見ないふりをして、一般企業に勤めていたころの七海である。彼は自分を必要とする人が大勢いることを知っていた。そして、それに応え続けた先に、高い確率で灰原のような最期が待っていることを知っていた。それでも彼は戻らずにはいられなかった。

 英雄的に、そして無惨に、戦いの果てに死んでいった七海や五条たちのために『世界の歴史<4> ギリシア(河出文庫)』の一節を引用して終わりたい。

 人間である英雄は、神意を十分に知ることはできない。しかしかれらは厭世的になることなく、自分の能力のかぎりをつくして、倒れ、あるいは敗れる。彼らの努力は、自己に課せられた義務をあくまでつくすことにむけられる。それは、自主的に決意し、自己に忠実になろうとする努力だ。それはまた、神意にかかわりなく、人間としての存在の主張である。だから、たとえ事は成らず敗者となっても、この努力、この自己主張によって、高貴な人間となる。愛情にしろ憎悪にしろ、その純粋なものは、もとより人間の美しさであるがそれにこの自主的な義務感がともなってこそ、人間の美しさはいっそう高められる。

 このような行為や感情を、知性が制御しているばあいは、いっそう尊い。どの勇士も武力や腕力だけの持ち主ではなく、知性がその行動を制約し感情さえも克己によって規制される。一種の知性主義の流れが認められるのだ。そのため、単なる勇士の物語や冒険談でなくて、深く人びとの心をとらえる。ホメロスの詩が、人間の、あるいはあるべき人間をあらわす人間性の賛歌にほかならないのはそのためだ。

 ホメロスの世界には怠惰なものや邪悪なものはいない。敵も味方もよき人間である。だから事件を起こす原因や、勝敗を決する要因に神意をもってきたのではあるまいか。苦闘し苦悩するなかに、死すべき人間の限界にたいして、その極限にまで迫っていく壮烈な人間の姿がこの詩の中に展開する。この点においてホメロスの詩は、ギリシア人ばかりではなく、すべての人間を人間性の尊厳へ導く書となることができたのだ。死すべきものとしての人間は、この努力――肉体的にも精神的にも――による救いを信じて、明るく楽天的に生きていく。このような人間観は、のちのギリシア文学や美術ばかりか、すべての基本である。

 

続編

killminstions.hatenablog.com

*1:筆者はこれらの保守派の描写はアンフェアだと思う。作中において保守派は何一つ責任を果たしたり呪術師の良心を代表したりすることなく、すべての負の因果の源流として位置づけられ、最終的には彼らの壊滅と新世代の台頭で終わる。あまりに図式的な善玉・悪玉の位置づけであった。渋谷事変による東京壊滅後の政治・行政・経済に関する描写の貧弱さも考慮すると、保守派の善なる部分やこれまで果たしてきた役割といったより詳細な書き込みは、作者の能力を超えるものであったのか、作者の書きたい内容ではなかったのであろう。

*2:虎杖-釘崎間のこの種のコミュニケーションははじめてではない。壊相・血塗戦で虎杖は自分が殺したときに相手の涙した瞬間が頭から離れない。

虎杖「俺は自分が、釘崎が助かって生きてて嬉しい、ホッとしてる それでも俺が殺した命の中に、涙はあったんだなって、それだけ」

釘崎「そっか、じゃあ共犯ね、私達」

 肯定も否定もせず虎杖の強い感受性に寄り添ってみせた釘崎の細やかな心遣いは、最期の瞬間にも確かに現れていた。

*3:以下では、「【呪術廻戦】五条悟から夏油傑への最後の言葉は「寂しいよ」」という記事をかなりの部分参考にした。

*4:彼らの希望を打ち砕いたのは、禪院家の忌み子甚爾であった。禪院家が甚爾に応えないことで、甚爾もまた天内から発せられた切実な想いに応えない・何も感じない大人となった。そして、禪院家はそのあり方によって真希を鬼人とし、皆殺しの憂き目に遭う。その前後での躯倶留隊の炳レビューは、禪院の人間も悪人ばかりでないことを印象付けるものであり、実の母親まで手にかけた真希に対して、彼らによる命乞いの言葉がなかったとは考えにくい。しかし彼女はそれに応えることはなく、真衣の「一つだけ約束して。全部壊して。全部だからね、お姉ちゃん」にのみ応えたのだった。

*5:したがって、呼びかけの宛先でない呪いたちは応えようがないため、善悪の外側にいることになる。

らんま1/2エンディング曲『ひなげし』の歌詞の解釈について

はじめに

 この曲を「連絡なく待ち合わせをブッチ*1して感傷にひたるヤバい女の歌」で終わらせることは簡単である。しかし、曲調や歌詞の端々から、それだけでは終わらせられない胸を締め付けるような「切なさ」が「なんとなく」感じられる。それが何かを明らかにしたい。

ものうさと甘さが胸から離れないこの見知らぬ感情に、悲しみという重々しくも美しい名前をつけるのを、わたしはためらう。 その感情はあまりに完全、あまりにエゴイスティックで、恥じたくなるほどだが、悲しみというのは、わたしには敬うべきものに思われるからだ。――フランソワーズ・サガン悲しみよこんにちは*2

第一節

 本曲の歌詞は5つの節に分けて読むのが便宜である。まずは第一節から見ていく。

今日 雨が降り出したのだから

約束破って家に居たの Mm...

ごめん 嫌いになったのじゃなくて

なんとなくそうしたかった

 歌いだしは明らかな「つかみ」であり、聴く側はその無軌道さに面食らう。一応謝って「嫌いになったわけではない」とは言うものの、そこで提示された「なんとなくそうしたかった」という説明は、「雨が降り出したから」同様に到底理解可能な理由にはなっていない。また、「なんとなく」という言葉から自分でも本当の理由はわからないようにも読める。 そして、大局的に見るならば、この第一節は「何故約束を破って家に居たのか?」、「そのような結論に至らせた心境とはどのようなものであるのか?」という問題提示として見ることもできる。

第二節

花を一輪 飾ってみたの

ポタリと滴 涙みたいに

ひなげしの花で なくて良かった

無邪気に咲く気には なれない

名も無いその花は 私みたいね

ひっそり一人 祈るの

 第二節では一見すると唐突に、語り手が花を一輪飾る場面へと飛ぶ。しかし、脈絡なく話題が転換されているわけではない。花を飾ったのはふさいだ気分を慰めるためであろうし、飾った花に仮託して語られる語り手の心情は、第一節で提示された「家に居た理由」である。すなわち、ここで語られたのは「わたしはひなげしの花のように無邪気に咲くことはできない」ということである。

 「無邪気に咲く」とはどういうことか。それを明らかにするためには、本曲で多く用いられている対比表現に注意しなければならない。たとえば、第二節の「無邪気に咲くこと」と「ポタリと涙みたいに滴がたれること」は対になっている。そして、第一節の「約束通り会いに行くべきだった」けれども「実際に雨が降ったため家に居た」こともまた対である。二つの対のうち、「涙のような滴」と「雨が降ったため家に居たこと」が結びつくことは明らかである。したがって、残された「無邪気に咲くこと」は「約束通り会いに行くこと」に結びつくものと考えられる。すなわち、約束を破って家に居たのは、笑顔であなたと会うことができないからである。

第三節

ねえ 両手合わせた時にだけ

神様思うのわがままよね Mm...

でも このせつなさの理由ぐらい

教えてくれてもいいでしょ

 第二節において、「家に居た理由」は明らかになった。ただし、より踏み込んだ「何故笑顔であなたと会うことができないのか?」は明らかになっていない。「笑顔になれない」その心情が、第三節では「せつなさ」という言葉で表現されている。しかし、「せつなさの理由」はわからない。わからないからこそ、語り手は両手を合わせて祈っている。

 ここにも重要な対比表現がある。語り手は「両手を合わせた時(=何か神様にお願いごとをする時)にだけ神様のことを思っている」のであるが、本来は「(もしお願いをするならば)お願いをする時でなくとも神様のことを思う」のがあるべき姿と考えている。つまり語り手は、「自分にはその資格がない」と自嘲しているのである。

第四節

生まれ変わって 花になるなら

カナリヤ色の 花びらがいい

ひなげしになって 丘の上から

風を眺め おしゃべりするの

その日のため息も 星にまかせて

子供の様に 咲きたい  

 第二節で自分を「名も無い花」になぞらえた語り手は、「生まれ変わって花になるならひなげしがいい」と言う。そして、「気鬱に飲み込まれる」のではなく、「その日のため息も星にまかせて子供の様に咲きたい」と語る。ここで「自分にはその資格がない」と自嘲した、神様に祈っていた本当の願いが明らかになる。「ひなげしのように子どものように、咲きたい」ということである*3

 ひなげしになりたいという結論に至るまでの間に、「生まれ変わって」という仮定があることを見落とさないようにしたい。ここでの含意は、「生まれ変わらなければ私はひなげし(のよう)になれない」ということであり、ひなげしのようになれるだけの、それに見合った資格(=資質)を持たないということである。

 第三節で語り手が願いに対して日ごろのその裏付けを求めたように、語り手にとって「ひなげしになること」は、「そのように見えること」では足りず、「本当にそうであること」が必要である。語り手はちょっとした憂鬱(=その日のため息)を「星にまかせる」ことができない。「星にまかせる」ことができず、「ひなげしのように」咲けないことそれ自体が、さらに自身を憂鬱にする。

第五節

ひなげしの花で なくて良かった

無邪気に咲く気には なれない

名も無いその花は 私みたいね

ひっそり一人 祈るの

 第五節は第二節の一部の繰り返しであるが、ここでの「ひなげしの花でなくて良かった」のニュアンスが第二節のときと変化していることに注意したい。第二節では「私はひなげしではない(=ひなげしのようには振舞えない)」ことに重点があるが、第五節では「私はひなげしになる資格がない」ことに重点がある。すでに明らかになっているように、私は「本当はひなげしのようになりたい」のであり、「その資格がない」ことを痛感しているからこそ憂鬱は深いのである。

まとめ

 本曲は、錯綜した感情と思考が、行きつ戻りつをしながら徐々に整理されていく過程を高い解像度でそのまま写し取ったものである。それにくわえて、作詞者は語り手の見落としている箇所についても自覚的であったように思われる。それは「子どもの無邪気さを失った語り手の幼さ」である。

 具体的には、➀語り手は自身を「ひなげしとなる資格がない」としているが、「本当にひなげしであること」とは別に、「誰かにとってひなげしであること」もまた大事なことである。それは役割を引き受けることである。語り手は本曲において終始自己完結的であった。

 そして、➁語り手は「名も無いその花」になぞらえて、自身と自身が抱える心情を、自分だけの・理解されることも共感されることもない・固有のものと気負っているようであるが、「名も無いその花」に名前があるように、それらは若者にとってありふれたものであり、だからこそ聴き手から理解・共感されるものである。

 最後に、➂本曲において語り手はひなげしを無邪気に咲く自分にはまぶしい存在として理想化したが、ひなげしの別名は「虞美人草」であり、悲運に見舞われ死んでいったヒロインの墓に咲いた由来を持つ花である。すなわち、ひなげしもまた「にもかかわらず」咲く花なのである。

*1:本曲がリリースされたのは、外出中に遠隔で連絡を取り合う手段が普及していない1991年であり、2024年現在に比してより「ギルティ」な振る舞いである。

*2:当該引用「悲しみ」と本曲の「切なさ」は精確には向いているところが違う。しかし重なり合うところも大きいため引用した。

*3:子どものように咲く無邪気さを失ってしまったことも示唆される。

ルックバック考察――じゃあ藤野ちゃんはなんで描いてるの?

表現者の危機

 言うまでもなく「藤野」と「京本」は「藤本」タツキの分身である。また、本作が京都アニメーション放火事件をきっかけに作られたことも論ずるまでもない。この二つの前提から導かれることは、現実に起きた上記事件について、藤本タツキは半身を失うような思いをしたということだろう。
 藤本個人の思いを一般化するならば、これは「表現者の危機」である。ある表現が意図しない形で意図しない相手に伝わってしまった。そして、最悪の結果を招いてしまった。黒子のバスケ脅迫事件を引くまでもなく、そのジャンルがポピュラーになればなるほど、「表現(したこと)がもたらす不幸な結果」は今後も起こりうる。
 この事実に対してどのように「気持ちとして」折り合いをつけるのか、これが本作のテーマの少なくとも一つだろう。

Don't look back in anger

 あまりに不条理な出来事は、人を実行犯に対する怒りへと向かわせる。しかし、ツイッター上で指摘のある通り、「Don't look back in anger」が藤本のメッセージ*1である。

 ただし、振り返ることそれ自体を藤本は否定するものでない。本作のタイトルは「ルックバック」だからだ。では何を振り返るのか。藤本の来歴であり、絵を描く人々のたどってきたであろう来歴である。

ルックバック

 作中では藤野が京本から与えられたもの、京本が藤野から与えられたものが描かれる。藤野-京本の関係は絵描き(あるいは表現者)共同体内部の人すべてに妥当するものとして理解しなくてはならない。
 あなたは誰かにとっての藤野、つまりは憧れの対象であり自分を新しい世界に連れ出してくれる存在である。また、あなたは誰かにとっての京本、つまりはどんなに多くの人からの賞賛よりも価値のある賞賛を与えて、あるいは描き続ける背中を見せて、自分を奮い立たせてくれる存在である。

事件によって傷ついたもの

 表現者たちが織り成すこの幾重にも重なる「藤野-京本の連環」が傷つけられたしまった。絵を描いたこと・表現したことそれ自体によって放火事件を意図せずして呼び込むことになってしまった。正の贈与の循環に強烈な負の贈与が入り込んだと言ってもいいかもしれない。怒りのほかに、不条理に対する人のもう一つの反応は「絵なんか描いてこなければよかった」という後悔を抱くことである。
 たしかに放火事件は描いた絵が意図せずして届いてしまったことによって起きた。本作はこの事実に対して二つの出来事を対置する。
 京本を外へ連れ出したのは何だったか?藤野の描いた四コマが意図せずして届いたからだ。藤野を再び立ち上がらせたのは何だったか?京本の描いた四コマが意図せずして届いたからだ。届けるつもりもなく、ただ自分の楽しみのために描いたに過ぎないものが、意図せずして届き、誰かの人生を変え、誰かを救っている。
 藤本はこう呼びかけている。「自分がそうだったように、あなたがたもまたそうだったはずではないか」。本作は傷つけられた連環の再生を願う物語である。

絵に人生をささげた人々の賛歌

 本作は起きてしまった出来事を呪うことも、絵を描いてきたことを後悔することもしない。絵を描く喜びを絵をもって示す。本作は絵に人生をささげた人々の賛歌である。
藤野「だいたい漫画ってさあ…私、描くのはまったく好きじゃないんだよね」「楽しくないし、メンドくさいだけだし、超地味だし」「一日中ず~っと絵描いてても全然完成しないんだよ?」「読むだけにしといたほうがいいよね 描くもんじゃないよ」
京本「じゃあ藤野ちゃんはなんで描いているの?」
 藤野の答えはない。人生のあらゆる楽しみを捨てて、人生を絵に捧げることに説得的な理由はない。答えはそれこそ絵だけによって示される。

ルックバックのもう一つの意味

 本作では藤野や京本が机に向かっている背中が、背景の変わりゆく季節とともに何度も描写される。京本が描き続ける背中を藤野に見せたように、本作そのものが藤本が示してみせた「背中」である。
 本作で藤本が伝えようとしたことは極めて穏当なことであるように感じる。すなわち、「絵を描くことが間違いだったなんて、そんなことはないよ」と語りかけているように思われる。そんな当たり前のところにまで立ち返って確認しなければならなかったことが痛ましい。
 「ルックバック」が意味するものは、自分を形作ってきたものやたどってきた道を振り返ることだけではない。藤本は自分を含めた先達たちの「背中(back)を見ろ」と言いたいのだろう。そして、藤野が自分に手を引かれる京本を振り返った(look back)ように、藤本は後進を振り返り、自分とともに再び立ち上がり進むことを呼び掛けている。

*1:有名な洋楽のタイトルでもあり、それを念頭に置いたものと思われる。

冨樫義博論①――「他者」としての「妖怪」概念

はじめに

 冨樫作品を理解するにあたって、「人外」の存在は極めて重要である。本文では、人間と同等またはそれ以上の知性と戦闘能力を持った人外の存在を「妖怪」と総称する。したがって、本文では『レベルE』での宇宙人たちや、『HUNTER×HUNTER』におけるキメラ=アントもまたは妖怪の範疇に入る。また、冨樫作品では、人間と妖怪との接触が物語の重要なテーマとなる。人間が「妖怪という他者」と出会うことで、物語は駆動する。

 本文では、冨樫作品における人間と妖怪との関係を追って、「妖怪という物語装置」がもたらす効果とその含意を明らかにし、冨樫義博の作家性を明らかにする。あらかじめ結論の一部を言っておくと、「妖怪という物語装置」は、人間の価値体系を相対化し、相対化の極致としての「食人鬼としての妖怪」の存在は、倫理的な自省を読者に強いる。しかし、近年の冨樫作品(具体的にはキメラアント編)にはその一歩先があることをこれから書く。また、その一歩先に言及することで、冨樫義博ヒューマニストであることが明らかになる。これは彼の特性であるとともに、限界でもある。それもこれから見ていく。

幽遊白書』の前期――霊界探偵編及び暗黒武術会編 妖怪との戦い

 『幽遊白書』における主人公浦飯幽助は、人間界を守るため妖怪と戦う霊界探偵である。本作前半において、妖怪は人間に害なす「悪」であって、妖怪に対抗する霊界の人々は「善」と位置付けられている。この文脈において、人間の妖怪化とは妖怪の残忍さを示す表現であった。 例えば、初登場時の飛影は切った人間を全て魔物に変えてしまう降魔の剣を手に入れて、「人間を喰う人面獣を千頭くらい作る」と言う。また、四聖獣のボス朱雀は幽助をさんざんにいたぶり、「雪村螢子の心臓を喰うと誓え!!そうすればお前の魂を魔界で浄化し妖怪にしてやってもいいぞ」というセリフを口にする。

 しかし、霊界探偵編の時点で同時に、妖怪の善性と人間の邪悪さが描かれていることに注意しておきたい。前者とは自分の命を捨てて母を救おうとした蔵馬のこと*1であり、後者とは妖怪を食い物にする垂金のことである。

 続く暗黒武術会編でも妖怪たちの残忍さは繰り返し強調される。印象的なのは浦飯チームに対して度々発せられる「殺せ」の怒号といったコールだろう。ここまでほぼ一貫して、主人公たちの戦う相手は、彼らに害意を持った妖怪たちであった。しかし、本編ラスボスにあたる戸愚呂弟は、元人間であったことが途中で明かされる。この事実は戦う相手が妖怪から人間へとシフトする中期への予兆であるとともに、人間から妖怪への越境というテーマの新機軸でもあった。すなわち、妖怪による人間存在に対する陵辱としての妖怪化ではなく、戸愚呂弟は自ら望んで妖怪となったのであった。

 ここで、冨樫作品を貫く3つのモチーフがそろったことになる。①妖怪すら食い物にする人間(の邪悪な側面)、➁人間を愛した妖怪(または愛された人間の善なる側面)、➂人間が妖怪になる越境、の3つである。この3つの類型はキメラアント編において合流し、一つの到達を見せることになる。

幽遊白書』の中期――魔界の扉編 人間同士の戦い

 前述の通り、魔界の扉編での主要な敵は(元人間である)戸愚呂兄を除いてすべて人間である。これは決定的な転換であった。何故なら、以降の冨樫作品において人間に害なす敵としての「妖怪」概念は、キメラアント編を除き一切なくなり、かつ、後述するように、キメラアント編は「キメラ=アントは本当に人間の敵なのだろうか?」が中心的な問題となっているからである。

 ここからしばらくは完全に筆者の解釈であるが、冨樫は「妖怪」を「敵」として書けなくなったのではないか。このことを理解するためのキー概念として、冨樫作品における「品性」という言葉を考えてみたい。筆者の認識している限り、この語は冨樫作品に三度出てくる。①「金さえあれば何でも手に入る」と言ったレオリオ*2にクラピカが言った「品性は金で買えないよ。レオリオ」というセリフ。➁幻海を侮辱し続けた戸愚呂兄に戸愚呂弟が言い放った「オレは品性まで売った覚えはない」というセリフ。そして、➂仙水が魔界の扉にむらがる妖怪たちを見て言った「あそこにむらがっているのはC級妖怪だな 食欲が先立って品性が感じられない B級を境に人間界でいうところの高い知性と理性を持つ妖怪に成長する A級妖怪になると人間界ではある宗教の『神』や『神話の怪物』として語り継がれている者さえいる」というセリフ、である。

 ①の「品性」は節度のニュアンスがあり、節度は➁のむやみに他者を蹂躙しないこと、侵すことのできない領域を認めることにつながる。そして、➂は①及び➁の意味合いを前提に、知性・理性・品性は強さと結びつけられている。ここまできて、「冨樫が妖怪を『敵』として表象できなくなった理由」が明らかになる。すなわち、「偉大な存在が他者を(みだりに)傷つけることなどあるのだろうか?」という疑問である。先走って書いてしまうが、この問いを受けた存在が、メルエム(及び彼の人間に対する態度の変遷)だと思われる。

 以前ブログで書いたように、キメラ=アントとは人間にとっての鏡であった。キメラ=アントは人間を食して人間の特性を取り込む。そのために、人間の素晴らしさも愚かさも彼らは受け継いだのだった。

 あるいはより一般化して、「他者とは私である」という筋で考えることもできる。どのような他者を表象(イメージ)するかが、その人の可能性と限界を示している。卑小な他者しか想像・創造しえない者はその者自身の知性・理性・品性が卑小なのである。あるいは、信仰の対象としての神が何故偉大である必要があるのかもまた、同一の理由による。冨樫が偉大な作家である限りにおいて、彼が満足する敵たる他者もまた偉大な者でなければならない。しかし、偉大な存在は他者をみだりに害しない。よって、バトルマンガでの敵を設定する際には、①偉大な他者たる「妖怪」を敵とすることは諦めて卑小な(=欠落を抱えた)人間同士の内ゲバを描くか、➁偉大な他者たる「妖怪」を自身の卑小さ故にうち滅ぼす人間を描くか、の二択となったのではないか。

 話を戻して、魔界の扉編のラスボスである仙水は「次こそ魔族に生まれますように・・・」と言い遺して死んでいく。「妖怪」ではなく「魔族」である点に注意したい。ここでの「妖怪」は人間から見た化け物の意であり、「魔族」はより客観的な種族の呼称である。この言い換えは意識的である。別の場面での仙水と幽助の会話を見よう。

仙水「おや・・・こんなに力を抑えているのに・・・・もう大地に影響を与えてしまった オレの唯一の弱点だ・・・ふふ 人間界(ここ)では五分の力すら出せない ストレスだよこれは・・・ふふふふ」

浦飯「関係ねーんじゃねーのか? 人間界(にんげんかい)ぶっつぶしたいんだろ ならぶっこわせばいいじゃねェか 全力で暴れてみろよ」

仙水「馬鹿者めが それが傲慢だというのだ!!! 失礼 オレは花も木も虫も動物も好きなんだよ 嫌いなのは人間だけだ」 

 仙水が上記会話で激高したのは、幽助の人間中心的な態度である。人間界の人間以外の存在への配慮を全く理解しない幽助に、仙水はキレたのだった。また、仙水のセリフ中の「人間界」のルビは「ここ」であり、幽助のそれのルビが「にんげんかい」であることにも意味を見出せなくもない。すなわち、仙水は「人間界」という呼称自体に異論があるのかもしれない。

 魔界の扉編に見られるのは、相対化の予兆である。「絶対悪」としての「妖怪」は後景に退き、敵は人間となった。そして、人間が妖怪を食い物にするおぞましい光景を見た仙水は人間中心的な世界観への疑義を提出して、魔族として今度は生まれたいと願いながら死んだ。戸愚呂弟は自ら望んで妖怪になったが、彼にとって妖怪になることは、仲間を守れなかった自分への罰あるいは強くなるためのやむを得ない手段であった。一方、仙水は魔族になることそれ自体を目的として、それを望みながら死んだ。人間の妖怪化のニュアンスはついに、①「人間存在への陵辱」や➁「自らへの罰あるいは強くなるための手段」といった、ないならそれに越したことはないものから、積極的に望まれる➂「憧れの対象」として表現されるようになった。

幽遊白書』の後期――魔界統一トーナメント編及びそれぞれの未来 魔界内部・霊界内部の戦い

 魔界統一トーナメント以降の『幽遊白書』は善悪と価値観が相対化された世界が描かれている。魔界の扉編は人間内部の争いであったが、魔界統一トーナメント編は魔界内部の戦いであり、後日談的な霊界のいざこざも霊界内部の出来事であった。魔界内部の戦いにおいては善悪の観念は消失している。「妖怪」とは善悪の彼岸を代表するものであるからだ。対立の原因は個人的好悪とポリシーの違いに過ぎない。

 人間と妖怪との対立という基本設定が完全に消失することに対応するかのように、魔界の扉編の最後で、幽助は魔族の末裔であり魔族大隔世により魔族になったことが告げられる。「必要悪として」あるいは「憧れの対象として」、戸愚呂と仙水が望んだ妖怪化という越境を、幽助は望まずして達成してしまう。ここにおいては、妖怪化は忌むべきものでも切望されるものでもなく、➃「ただ存在する事実」なのだった。また、幽助は人間を愛して人間を食うことをやめた遺伝上の父である雷禅に対して「人間しか食えねェってならオレが二・三人かっさらってきてやるよ このまま少しずつ弱ってくたばるそれで満足か⁉ オレならガマンできねェ」とまで言い放つ。ここにおいて幽助は、真田黒呼の言う通り「もう人間界の住民ではない」のかもしれない。

 人間を妖怪から守る霊界探偵として始まった幽助の物語は、自身が妖怪(魔族)となることで終わりを迎える。人間から見れば永遠にもうつる長い寿命を得た幽助は、期せずして/そして後には自ら望んで身を投じた果てしない闘争と殺戮の世界から、凪のように穏やかな人間の世界に還ってくる。「自身が人間であった頃」を知る身近な人々との日々を、いずれ失われる・かけがえのないものと感じて、その最後の日々を惜しみながら。

 ともすると蛇足にすら見える霊界内部のクーデターの一件は、物語世界での相対化の仕上げとして欠かせないものであった。霊界の狂信的な集団によるクーデターの描写によって、霊界も一枚岩でないこと、彼らの掲げる正当性もまた複数あり、それ故に完全に信頼のおけるものでないことが示される。さらに、コエンマによるエンマ大王への告発は全く決定的であった。この告発により、妖怪たちから人間界を守るためとされた結界は、霊界の権益を守るためのものでもあったこと、霊界の正当性を主張するために妖怪を洗脳して人間界で悪事をなさしめるマッチポンプにまで手を染めていたことが明らかになる。そして、あらゆる境界・線引きとしての象徴であった人間界と魔界を隔てる結界が解かれたことが明かされた直後の下記の会話。

蔵馬「現在では妖怪が人間との利害関係なしで人を殺めるケースは数年に一件 ほとんどの妖怪は昔のように人をおどかすイタズラさえしなくなりました 人が人を殺すケースの数千分の一の確率です」

(中略)

幽助「霊界につかまって洗脳された妖怪のことだけど どうなったんだ?」

蔵馬「再びつかまった時に始末されたみたいです」

幽助「そっか オレがつかまえたヤツの中にも・・・・・・・いたのかなァ」

蔵馬「深く考えない方がいいですよ」

 霊界が行っていた「存在しない悪をでっちあげて倒す」営みは、『幽遊白書』前半の、あるいはこの種のバトルマンガ一般に対する批評とも言える。「本当に戦わなければならないのか」という前提を問う態度であり、例えば具体的には、人間にとっての不都合を「悪」と呼ぶ、仙水の言うところの「傲慢」な価値基準への批判的姿勢である。あるいは、争いの根本原因たる軀・黄泉の心理的葛藤を解きほぐすことで三すくみの戦争状態を解消させてしまった物語構成の手つきである。

 おそらく冨樫は物語構造に上記のようなマッチポンプ的構造があるにもかかわらず、全知全能の神でもない*3霊界の存在が人の魂を裁くことに我慢ならなかったのではないだろうか。戸愚呂は霊界の裁きではなく、自ら望んで最も重い罰を望んだ。本人にそのつもりはなくとも、これは霊界の魂の処断に対する消極的抵抗である。そして、仙水は「死んでも霊界には行きたくない」と言って、霊界の魂の裁きをはっきりと拒絶したのだった。

『レベルE』――相対化が完成した後の世界

 『幽遊白書』の次回作である『レベルE』は、価値の相対化が完成した世界を描いている。物語の主眼は、人間と宇宙人との交流または宇宙人同士の異文化交流である。宇宙人という設定は「他者」を表現するのに極めて都合がいい。全く異なる生体と生活環境を背景に持つ異星人同士は、当然に各々が持つ価値体系も異なる。本作においては、宇宙人間でおいてすら、価値・文化体系が全く異なっている。

 本作においてもまた食人の問題が取り上げられる。本作の食人鬼は「男が女を食べて子供を産む」生物である。愛した対象をどうしようもなく食べたくなり、その本能のために滅亡が運命づけられており、最後に残った三人のうちの一人は、「最近 死ぬ事ばかり考えてる」。そして、主人公格の板倉の独白で話は終わる。

板倉「明日から寝るな と言われてもオレは眠くなる 食うなと言われても腹はへる 言える事など何もないのだ」

 当該エピソードの含意は作中で明らかにされている。実はこのエピソードは王子の創作であり、「いちがいに地球の善悪だけではくくれない」ことを伝えるためと作中で語られる。このセリフは何故冨樫が食人のテーマにこだわるのかを雄弁に物語っている。食人する知的生命体は人間にとって最も相容れない存在である。そのような意味においての「他者」である。相容れない他者とのっぴきならない関係に陥ったとき、自らの全存在が問いただされることになる。

 冨樫作品にとって他者(≒害なす者あるいは敵)との出会いとは、自分のあり方を内省するきっかけである。凡百の作家と異なり、冨樫にとって相対化とは目的ではなく手段である。何らかの絶対化によって見えなくなっていた何者かを明らかにするための手段が相対化である。『幽遊白書』では価値体系の相対化を推し進め、『レベルE』では相対化が完成した世界を描いた。そして、『HUNTER×HUNTER』のキメラアント編は、相対化の一歩先を描いた作品である。

HUNTER×HUNTER』のキメラアント編――「妖怪」が人になる物語

 『HUNTER×HUNTER』において、キメラアント編に至るまでの間、敵として現れる存在は基本的に人間であった。その理由は「『妖怪』を『敵』として書けなくなった」からではないか、と筆者は上記で書いた。そして、キメラアント編で敵に「妖怪」を置くことは、偉大な他者としての妖怪と卑小な人間という図式でのみ冨樫にとって可能であったと思われる、とも書いた。

 また、以前書いたように、キメラアント編は蟻たるメルエムが人となる物語である。ここで注意すべきは、『幽遊白書』で繰り返し用いられた人間が妖怪になる越境のモチーフが、今度は妖怪が人間になる物語として反転している点である。人間性の彼岸へ「行ってしまった」その次は、彼方から人間として還ってくるのだ。「人間から妖怪へ」の運動は、「人間的なもの」の弱さや愚かさから脱し、対象を相対化しようとする運動であった。対して、「妖怪から人間へ」の運動は、人間存在を積極的に肯定しようとする運動である。全人類の存立の危機をもたらす敵の討伐を目的とするバトルマンガにおいて、そのラスボスをして人間存在の賛歌*4を描いたアクロバットが本編の肝である。

 本編は『幽遊白書』から続く主題系の到達点である。①妖怪すら食い物にする人間の邪悪な垂金が代表する側面は、仙水がダークサイドに堕ちるきっかけを与え、貧者の薔薇(及びそれを可能にする人間の「悪意」)につながっていく。➁人間を愛した妖怪(及び妖怪が愛した人間の善なる徳目)という蔵馬のモチーフは、食人をやめて死に至る雷禅、コムギとの心中を果たすメルエムへとつながる。そして、➂人間が妖怪になる越境のモチーフは、妖怪による人間の妖怪化からはじまり、戸愚呂弟の自らの意思による必要悪としての妖怪化、仙水の魔族になりたいという願い、幽助の魔族大隔世遺伝を経て、メルエムの人間化に至る。

 ①は人間の最悪の部分を、➁は人間の最良の部分を、それぞれ描き出し、➂は人間存在の相対化の機能を結果として持つ*5。本編の特異性は、「人間の尺度でしかものを判断できないことがなんと料簡の狭いことだろうか」と突き放すと同時に、如何ともしがたい人間の利己主義や暴力性といった最悪の部分を暴き・告発しながら、自己や種を超えた生ける存在すべてへの慈愛と自身の全存在を賭けるに値する崇高なもの、あるいはその達成が確かにこの人間世界に存在することを示した点にある。メルエム・コムギ・ネテロは、それぞれ感謝の言葉を残しながらその生を肯定しながら死んでいったのだった。

 本編では、メルエムが人間化しただけでなく、コムギ・ネテロもまた越境し、人間をやめて向こう側に行ってしまったことに注意しなければならない。しかし、これまでの「人間から妖怪へ」といった人間存在の相対化の運動としてではなく、人間的な価値の完成へ向けて彼らは飛び立った。ここにおいて、「越境」と「完成」とは分かちがたく結びついている。

まとめ

 『幽遊白書』の前期において➀単なる物語上の敵役・やられ役に過ぎなかった「妖怪」概念は、ストーリーを通じて練り上げられていき、まずは➁相対化装置に、次に➂「食人する他者」として人間に対峙し内省を迫る存在となり、さらに進んで➃常識・良識・世俗的価値を吹き飛ばし、それでも残った「生きるに値する何ものか」を積極的に照らし出す、いわば善悪の彼岸を象徴する鏡となった。

 冨樫は「人間とは何か」について特に強い関心を持った作家である。彼にとって「妖怪」という他者は人間理解のための手段である。彼は「妖怪」という装置を用いて、上述の通り人間視点でのみの価値尺度を相対化し、人間存在の邪悪な部分を告発し、人間の素晴らしさを称えたのだった。この三点を同時にそれも高い水準で行った点が彼の特長と言える。

 また、冨樫は「妖怪」を劣ったものや邪悪なものとして差別しない。理解も共存も一見不可能に見える「妖怪」たちは、人間と同じ水準で思考し、喜怒哀楽を持ち、その生を全うする存在として「包摂」される。人外の存在は人間以下のものとして扱われることも、人間以上のものとして扱われることもなく、人間と本質的に変わらない存在として描かれる。人間同等の尊厳を与えてその生を肯定する。そのような意味において彼は人間中心主義者であり、ヒューマニストである。ここに彼の特質と限界がある。

 

↓続編

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*1:蔵馬が命を使って願い事をした暗黒鏡のセリフ「願いをとなえる者達が全てこんなヤツらばかりだったらワシも暗黒鏡と呼ばれることもなかったろうに・・・」は『HUNTER×HUNTER』のナニカについての、キルアのセリフ「呪われててるのは『お願い』する方だ!!」の前身であろう。邪悪とされた対象が邪悪とされている理由は、それを利用する者の心根が邪悪であるからに過ぎず、対象それ自身は文字通り「鏡」に過ぎない。

*2:垂金の「生命も金で買ってみせるわ」が連想される。

*3:雷禅は食脱医師の女の行方を追って知ったのだろうか、「霊界すら魂の最後の行方はわからない」と言っている。

*4:キメラ=アントと人間との接触を通じて、尋常ならざる人間性の陵辱だけでなく、プロウーダとレイナ、モラウとコルト、ユピーとナックルといった多様な人間的徳目が方々で咲いた。

*5:➂の要素は『寄生獣』、➁の要素は『ヒカルの碁』によるところが大きい。①の要素は、冨樫自身の作家性によるものだろう。