はじめに
以前の記事で筆者は➀「人間と妖怪という二項対立が冨樫作品を貫くテーマである」と書いた。また、その中で➁「人間の持つ善悪の基準、より大きくは価値体系そのものが相対化され、揺さぶられていく点が冨樫作品の特徴である」とも書いた。これらは間違いではないが、今回はより精確にこの問題を捉えてみたい。すなわち、➀’「(人間と妖怪に限らない)身内と他者という二項対立」が冨樫作品を貫くテーマであり、➁’「身内の価値観を相対化し、身内と他者をまたいだ共通の価値によって線引きを乗り越えること」に物語は重点を置いており、そこに読者は心打たれる。
上記のことを示すために、今回は冨樫作品を<部族主義の克服>という観点から見てみたい。ここでいう部族主義とは、簡単に言うと身内の利害を優先する態度であり、さらには身内が道徳的に優れているという確信を指す。善悪の曖昧さが特徴である冨樫作品において、かろうじて定立可能な善悪の基準とは、「どの集団(=部族)に属するか」ではなく「部族主義的思考様式に対抗するか否か」である。言い換えれば、冨樫作品における「悪」とは、部族主義的振る舞いに基づいて外部の者(=他者)を蔑ろにする者である。
部族主義の定義
まずは本文でキー概念として扱う部族主義について、筆者なりの定義を行う。
1.内外に対する好意と偏見
自身の集団のメンバーに対しては、「信頼できる」「優れている」「正しい」と考え、外部の集団のメンバーに対しては、「信用できない」「劣っている」「間違っている」とみなす態度。
2.内部への忠誠と外部への敵意
自身の集団への自己犠牲も辞さない絶対的な忠誠と外部の集団に対する排他的かつ敵対的な思考・行動様式。
3.内外に対する差別的取り扱い
自身の集団の利益を最優先し、そのためには外部の集団の利害を顧みず、場合によっては彼らへの抑圧・彼らからの収奪すらも問題視しない態度。
4.内部の価値体系(と内外の線引き)を最上位の規範とするあり方
内部の価値体系を外部の価値体系よりも上位に置くだけでなく、内部・外部にまたがった共通の価値体系の存在を認めず、内部のそれを絶対視する態度。
以下では、それぞれの定義に沿って冨樫作品を検討していく。
内外に対する好意と偏見
当該観点での冨樫作品のあり方を理解するには、『幽遊白書』19巻の170話「宴のあと」が適当である。ここでは、➀妖怪の悪事は霊界の都合で統計上水増しされていたこと、➁さらに霊界は妖怪を洗脳し悪事を起こさせていたらしいこと、➂妖怪が自発的に人に害を及ぼすことは極めて少ないこと、よって➃霊界が結界を張る正当性はないこと、以上の結果として➄結界が解かれたこと、が明らかになる。
これらの事実は本作の意味内容を根本的に揺るがすものであり、幽助もまたその事実を知って「オレがつかまえたヤツの中にも・・・・・・いたのかなァ」とつぶやく。ここで提示されているのは、➀妖怪は人間に害なす存在であり、➁妖怪は本性として邪悪な存在であるという認識枠組みは偏見であったということである*1。そして、人間界の後見的立場として、自明の善と考えられた霊界の腐敗もまた示された。すなわち、物語当初の前提であった味方である霊界の善性と敵である妖怪の悪性の両方が、無根拠なものとして掘り崩されている。
くわえて、同話の中で描かれた妖怪である雪菜が桑原宅にホームステイすることになったエピソードは、前述の思い込みが崩れた後の世界を占う試金石としての意味を持つ。
桑原父「どんなに麗らかに存在をアピールしても必ず摩擦は生じるだろう いわれのない差別を受けるかも知れねェ そんなとき誰かがタテになってやらなきゃな」
さらには、上記セリフの直前に言った桑原父のセリフは、冨樫の「無知こそが敵である」という問題意識を明らかにする。
桑原父「異文化コミュニケーションは底辺の理解と努力が肝心だからな」
『レベルE』においても、「他者に対する正確な理解」というテーマは反復される。異星人であるバカ王子は繁殖の相手方を食して繁殖する異星人について、その生物学的背景、歴史的な経緯、知的生命体としての苦悩を、マンガ表現を通じて人間に伝えようとする。しかし、その試みは失敗する。
王子「どうですか?」
編集者「うーーーん・・・・・・うちは少年誌だしさ これじゃテーマ暗いよねェ」
(中略)
編集者「もっと明るくまとめてさ 設定はもっと単純でいいと思うよ 例えば悪い宇宙人と戦う地球人とか」
王子「でもそれじゃ地球人に本当の異星人の姿が伝わりませんよ いちがいに地球の善悪だけじゃくくれないっていう事実が」
編集者「うんうん(あ・・・・・・やべぇこいつ頭いってる)」
ここでも「自らに害なす他者に対する正確な理解」という試みが、「善良な身内と邪悪な他者という図式」と対置されていることに注意すべきだ。「善良な身内と邪悪な他者という図式」は、最も単純で、それであるが故に読者が飲み込みやすい安易な表現であることを皮肉ったような描写である。
また、『Hunter×Hunter』における主人公ゴンとその父ジンを特徴づける善悪への頓着のなさもまた本文脈の中に位置づけられる。ゼパイルの有名なゴン評を引用する。
ゼパイル「なんでこいつに興味がでたかやっとわかったぜ こいつは善悪に頓着がない 俺が贋作をやっていたと告白した時も、商売人が難癖つけているときもこいつの顔には非難の色も悪事への憧れも浮かばなかった あるのはただ一つ 単純な好奇心 すごいと思ったものには善悪の区別なく賞賛し心を開く いうなればこいつは危ないんだ 言うなれば目利きが全く通用しない五分の品 」
この頓着のなさが暗殺一家で育ったキルアとの友情の前提となったのであり、その父であるジンもまた死刑囚であったレイザーを自分の作るゲームに引き込んでおり、この性格はジンから継いだものであることが明らかになる。無論、これらの事実は彼らの倫理観の欠如を指すというよりは、偏見のなさとして肯定的に、少なくともこれらの場面では描写される。レイザーはジンによって救われたといい、キルアもまたゴンと出会えて本当に良かったと心の中で言う。
レイザー「世界中にたった1人、1人だけでも、自分を信じてくれる人間がいれば救われる」
キルア「逆だよ、ゴン、オレなんだ ゴン、オレ、お前にあえて、本当によかった」
レイザーにせよキルアにせよ、ジン及びゴンは極悪人というレッテルを彼らに貼ることなく、その実力を正当に評価し、人間的にも信頼のおける対象として扱うことで、彼らを救った。偏見を持って見られる属性を持った者たちに対しても開かれていることが、ジン及びゴンの徳目である。
内部への忠誠と外部への敵意
「内外に対する好意と偏見」は、さらに進んで「内部への忠誠と外部への敵意」に変化する傾向を持つ。ここでの内部への忠誠は、自身よりも所属集団を優先するものとして現れる。『幽遊白書』の暗黒武術会における魔性使いチームの画魔は、自らの命と引き換えに蔵馬に呪術を施す。
画魔「これが忍よ・・・・・・先の勝利の為に死を選ぶ」
画魔の最期に蔵馬は心を痛め、次の対戦相手の凍矢に戦う動機を問う。
蔵馬「ひとつ教えてくれなぜ最強の忍とよばれるキミ達がこの戦いに参加したんだ?」
凍矢「・・・・・・・・・光さ闇の世界のさらに影を生きるオレ達には一片の光もない(中略)オレ達ののぞみはだれの手にもそまっていないナワバリこの島さ」
(中略)
覆面戦士「忍の反乱か」
飛影「フン奴等魔忍は命をかけた戦いの前に一番弟子に自分の奥義をたくし部隊を維持するそれをくり返せばあんな奴らも出てくるさ」
ここで明らかになるのは、組織維持のために個が犠牲になる忍の構造から脱することそれ自体が彼らの戦う動機であったことだ。にもかかわらず、そのために忍の習いがこの戦いの中で反復されている皮肉がある。
さらに、流星街の人々*2や不可持民の私設兵たちもまた、自らの命を犠牲にして所属する集団の利益を優先する思考・行動様式を持っている。これらの者たちに共通するのは、彼らが所属する集団へのすさまじい抑圧であり、その抑圧からの解放のために彼らは自らの身をも犠牲にする。
彼らは奪われているものを取り返すために我が身を投げ出すのだが、ゾルディック家における自己犠牲的忠誠は「イエの存続・繁栄」のために行われる点で、上記のものとは性質が異なる。その象徴的存在がイルミである。イルミはキルアを「熱をもたない闇人形」として扱うだけでなく、自らもまたゾルディック家の存続よりも価値が低いものとして扱う。
イルミ「オレが死んで遺る家族がセーフならそれでもいいさ」
ゾルディック家の利益にとって最良の判断が出来ることが、イルミの行動の正当性をキルアに対して担保する。ナニカの処遇でキルアに対抗するとき、イルミは以下のように言う。
イルミ「率直に言うよ ナニカの能力をゾルディック家のために 安全かつ効率よく使えるのはオレだ」
キルアにまつわるエピソードは常にゾルディック家による支配からの解放を目指すものであった。下記の洗脳じみたキルアに対するむごい「教育」は、所属集団への忠誠が自発的なものではなく、押し付けられるものとなりうること、そしてその強制がキルア個人を限りなく追い詰めていくことを示している。
イルミ「聞いたかい?キル オレと戦って勝たないとゴンを助けられない 友達のためにオレと戦えるかい?できないね なぜならお前は友達なんかより今この場でオレを倒せるか倒せないかの方が大事だから」
イルミ「そしてもうお前の中で答えは出ている“オレの力では兄貴を倒せない”“勝ち目のない敵とは戦うな”オレが口をすっぱくして教えたよね?」
(中略)
イルミ「お前がオレと戦わなければ大事なゴンが死ぬことになるよ」
(中略)
イルミ「ウソだよキル ゴンを殺すなんてウソさ お前をちょっと試してみたのだよ でもこれではっきりした」
イルミ「お前に友達をつくる資格はない 必要もない」
イルミ「今まで通り親父やオレの言うことを聞いてただ仕事をこなしていればそれでいい ハンター試験も必要な時期がくればオレが指示する 今は必要ない」
イルミの言葉はキルアの個人としての意志を奪うだけでなく、ゾルディック家の外へつながるゴンという回路をも奪う。忠誠の強制は内部の価値体系を乱しうる外部の排斥とセットなのである。
また、ゾルディック家は個人を家に従属させるが故に、アルカをめぐってのインナーミッションにおいて、キルアは執事たちを信用することができない。
アマネ「ツボネ(祖母)も私もキルア様の敵ではございません」
キルア「今の時点ではな でもそんなのオヤジのサジ加減だろ?」
アマネ「シルバ様もゼノ様もキルア様の敵ではございません 私共の任務にはキルア様を無事にお連れする事も含まれております」
キルア「そこにアルカの名前がない限り お前等は敵なんだよ!」
キルアは執事たちが最終的に誰に従うかを見抜いている。人間的な心情よりも雇用主の命令が優先されることを知り尽くしている。ここで示される命令が生み出す敵/味方の線引きは、キメラアント編においても現れている。すなわち、キメラアントたちと通じ合うことを諦めないナックルたちに対してのノヴのセリフである。
ノヴ「王だよ・・!兵士がどうこうの話じゃない王が指揮棒(タクト)を振れば奴等は悪魔にでもなるさ・・・!!」
ここで表現されているのは、所属集団への忠誠が、一度生まれかけていた所属集団とは異なる他者との信頼関係を破壊し排斥することである。
さらに、『幽遊白書』における氷河の国のエピソードは、閉鎖的・排他的な集団に対する作中での価値判断がはっきりと明示されている点で特筆に値する。飛影の母の氷菜は禁忌である異種族との交配を果たし、飛影と雪菜を産んで死ぬ。そして、忌み子飛影は産まれた直後に捨てられる。
長老「女児は同胞じゃ しかし男児は忌み子必ず禍をもたらし氷河を蝕む」
ナレーション「氷女が外界との交流をさけ厚い雲に覆われた流浪の城(氷河の国)で漂流の生活を強いられるのには理由がある氷女が異種族と交わった場合、その子供はすべて雄性側の性質のみを受けつぐ男児のみが生まれること しかも凶悪で残忍な性格を有する例が極めて多いこと そして男児を産んだ氷女は例外なくその直後死に至ること これら全てが氷女の種の保存を危ぶませるためである」
赤子の飛影を捨てる直前、氷菜の友人であった泪は涙を流しながら飛影にこうささやく。
泪「生きて戻ってきて・・・・・・最初に私を殺してちょうだいね それが氷菜へのせめてもの償いになる」
国を維持するために産まれたばかりの子を殺す、すなわち所属集団の維持のために人間的な感情を捨て去ることを強制し、イレギュラーな存在を切り捨てる。このあり方に激しい憤りを雪菜は見せる。
雪菜「心まで凍てつかせてなければ長らえない国ならいっそ滅んでしまえばいい そう思います」
内外に対する差別的取り扱い
これまでに見てきた「内外に対する好意と偏見」は認知・感情レベルのものであり、「内部への忠誠と外部への敵意」は組織が存続するために半ば制度化されたものである。これらの結果として、ほとんど必然的に、「内外に対する差別的取り扱い」が現れてくる。転向前の仙水は「妖怪であるために」殺し、「人間であるために」救ってきた。そして、価値の反転を経た仙水は、人間のみを優先することを自明視する幽助の言動に激高する。
仙水「おや・・・こんなに力を抑えているのに・・・・もう大地に影響を与えてしまった オレの唯一の弱点だ・・・ふふ人間界では五分の力すら出せない ストレスだよこれは・・・ふふふふ」
浦飯「関係ねーんじゃねーのか?人間界ぶっつぶしたいんだろならぶっこわせばいいじゃねェか 全力で暴れてみろよ」
仙水「馬鹿者めがそれが傲慢だというのだ!!!失礼 オレは花も木も虫も動物も好きなんだよ 嫌いなのは人間だけだ」
ここでは人間とそれ以外のあらゆる生物とが対置されているが、先述のように内外の線引きは人間の内部においても現れる。例えばゾルディック家の行動様式である。彼らは金で他人を殺すことを業としているだけでなく、イルミが代表するように、自らの利益のためには無関係の者を殺すことを厭わない(一方で家族内での殺しはご法度としている)。彼らにとって、執事含めてゾルディック家以外の者は基本的に無価値な存在なのである。あるいは、幻影旅団もまた自らの目的のためには殺しを厭わない集団である(一方で団員同士のマジ切れはご法度としている)。サラサへの復讐と流星街の保護のために、彼らはそれ以外の者への加害を自らの意志で選んだ。
クロロ「僕は残りの人生を悪党として生きる 世界中の人間が恐れ慄くほどの、小悪人どもが震え上がり決して流星街に近づかない様、この街と自分をデザインする」
また、クリードアイランド編におけるラスボスにあたるゲンスルーもまた、仲間の二人を除いた人間の命は虫けら程度にしか思っておらず、同盟関係にあった仲間たちを次々に裏切り殺戮を行った。一方で、「ヤバい橋を渡る時は三人一緒」といって身内ではリスクを分かち合い、土壇場ではこれまでの努力を無に帰してでも身内のバラを救うことを優先している。
ここで筆者が言いたいのは、冨樫作品における「悪」とは、内部の論理や価値観、都合を外部に押し付ける者だということである。そして、内部の都合を優先するために、身内への忠誠や慈悲は当然のものとして描かれる。つまり、身内への忠誠や慈悲は善性を裏付けるものではない。「悪」は身内に優しく・身内を大事にするからこそ手強く、そしてタチが悪いのだ。したがって、この基準に沿うならば、対話を拒絶して・人間側の利害のみを押し付けてメルエムを滅殺したネテロは「悪」であり、主人公であるゴンもまた、ピトーのコムギに関する命乞いを無視していたならば、「悪」となりえたことになる。
一方で、キメラアント編ではその当初から上記の基準でいうところの「善」なる振る舞いを目指した者がいる。ナックルである。彼は何故討伐隊に志願するのかについて、以下のように言う。
ナックル「簡単に言うと、討伐させないためだな ハグれ者を切るってやり方が気に入らねえ 師匠にゃ甘いって言われるがな 実際にそいつを見もしねえでわかる道理はねーだろ?まずはそいつと真剣にぶつからなきゃよ」
ナックルの師匠にあたるモラウもまた、キメラアントの女王が死の間際に産んだ最後の子を、コルトが必死になって取り上げて涙ながらに守ることを誓う様を見て、コルトの側に立つことを約束する。
モラウ「あんたとその子『人は食わない』って誓えるかい?もし・・・誓えないなら・・・どこかオレの目の届かない場所へ消えてくれ だがもし誓うなら何人たりともあんた達には指一本触れされねェ!!オレの目が黒いうちはな」
ナックルにせよモラウにせよ、彼らの徳目は頭から共存不可能と決めつけて他者なる存在を切り捨てることを良しとしないところにある。これは前述の忌み子飛影を捨て去った氷河の国に対して見せた雪菜の憤りと軌を一にする。
また、ゾルディック家とキルアとの問題が一つの決着を見せる、アルカに関するインナーミッションの件もまた「切り捨てるか否か」を巡ったエピソードであった。イルミを中心としたゾルディック家は一族に対する重大なリスクとして、アルカを家族とは認めず、葬り去ろうとする。切り捨てようとする。それに対してキルアは、アルカを守るためただ一人戦うことになる。しかし、キルアもまたアルカを守るために、アルカのもう一つの人格であるナニカに対して、もう二度と出てこないように命令する。つまりはアルカのためにナニカを切り捨てようとする。それに対してアルカは激怒する。
アルカ「お兄ちゃんが泣かしたの?ナニカを!今もうずくまって泣いてるよ!ナニカに謝って!謝るの!アルカに優しいお兄ちゃんは!ナニカにも優しくなきゃダメ!アルカを守ってくれるなら!ナニカも守らなきゃダメ!ナニカをいじめるお兄ちゃんなんかっ大キライ!!!」
眼が醒めたかのように、自らの頬を強くたたくキルア。
キルア「アルカ、ありがとうな オレ…まだ、イル兄に縛られてたらしいや もう…これでホントに大丈夫…!!ナニカを… 呼んでもいいか?」
キルア「ナニカごめんな… オレが間違ってた ごめん!!オレずっとイル兄が怖くて、逆らえなくて言いなりになってて、それがすごい嫌で。オレだけじゃなく今度はナニカに、無理矢理嫌な事命令させられたらって考えたら、すごく怖くなって アルカのためって自分に嘘ついて、お前に非道いこと言っちゃった 本当に、ごめん!!」
キルア「ナニカお前はオレが守る ずっと一緒だ!!他のヤツの『お願い』なんか、もう聞くな!オレがいつでも、お前をいいコいいコしてやる!! だから… もう一度出て… きてくれるか…?」
ナニカ「あい」
キルア「ナニカ…こんな、ダメなお兄ちゃんでも、許してくれるか?」
ナニカ「あい キルア、スキ」
抑圧から解放されるために取る行動それ自体が、抑圧者のそれを反復するという皮肉は、魔性使いチームの画魔の件で見た通りである。今回はすんでのところでキルアはその過ちに気が付き、その過ちから脱することで真にイルミによる呪縛から脱することができた。このエピソードは、排斥の論理にさらされた者が我が身かわいさに気づかずして同様の排斥の論理を振りかざしうる過程を描写している。くわえてそれは内部/外部の構図は何層にも入り組んでいるということでもある。
内部の価値体系(と内外の線引き)を最上位の規範とするあり方
これまで見てきた三つの要素は、結局のところ自身が依拠する価値体系を至上のものとし、外部の価値体系や内外にまたがる高次の価値体系を認めないために帰結したものであった。例えば、前述の通り『幽遊白書』のラスト近辺で、霊界の論理は魔界側の言い分を全く無視した一方的なものであったことが暴かれる。さらには正聖神党によるテロ事件によって、霊界の非主流派は一方的どころか独善的であること、霊界は人間界や魔界同様に一枚岩ではないことが明らかになる。
舜潤「今も一部に自分達を神の使いと信じている者達がいます 霊界は天国じゃありませんよ 単に肉体と霊魂が離れたときに行きつく場所の一つです 彼らにとって魔界の住民はただの異種族ではなく悪魔の使いなんです 彼らは人間界を浄化することが神から与えられた使命だと考えています」
かつて霊界を支配したエンマ大王は自らの非を知りながら霊界の利益のためにマッチポンプをしていたと思われるが、正聖神党にあっては自身を神の使い、魔界の住民を悪魔の使いと信じていることから、自身らの価値体系の外部と折り合う余地は極めて薄い。
また、これまで見てきたように、ゲンスルー一味は一味の利益を、ゾルディック家は家の存続と繁栄を、幻影旅団は故郷の防衛と復讐の大義を、それぞれ「人を殺してはならない」という全人類共通の規範よりも優先した者たちであった。彼らすべてに対して当てはまる批判は、幻影旅団に対してゴンが言ったこのセリフである。
ゴン「仲間のために泣けるんだね 血も涙もない連中だと思ってた だったらなんでその気持ちを少し…ほんの少しでいいからお前らが殺した人たちに、何で分けてやれなかったんだ!!!」
言うまでもなく、ゴンが激怒しているのは仲間には適用される死を悲しむ感情がその外部には全く向けられない点である。そして、この批判は幻影旅団に対して特にクリティカルなものとして響くことになる。というのも、幻影旅団のそもそもの目的が復讐にあり、理不尽に殺される痛みを知りながら復讐に無関係な人間の殺しに手を染めているからである。この点が幻影旅団に対する復讐を目的としているクラピカとの決定的な違いとなる。クラピカは自身の復讐に無関係な人間を理不尽に殺すことはしない。言い換えれば、自身の復讐という大義と「人を殺してはならない」という普遍的規範とを両立させようと努力している。幻影旅団が実際にクルタ族に対して手を下したのであれ、手を下していなかったのであれ、自身らの規範より高次の普遍的規範を尊重しないという点において、彼らは「悪党」なのである。
本章の最後に、メルエムとネテロの対比を扱いたい。というのも、最も本章の問題を表していると思われるからである。メルエムは再三にわたりネテロに対して、対話を促してきた。彼は力でねじ伏せて一方的に自らの価値体系に他者を従わせることをもはや良しとしない。
メルエム「其の方が余と交わすことが叶うのは言葉だけだ」
そして、メルエムはあるべき人類の未来像をネテロに対して提示する。
メルエム「理解できぬな・・・人類という種のためか?ならば余の行為はむしろ『協力』だと言っておく 例えばお前たちの社会には国境と言う縄張りに似た仕切りがあるだろう 右の境では子供が飢えて死に左では何もしないクズが全てを持っている 狂気の沙汰だ」
メルエム「余が壊してやる そして与えよう 平等とはいえぬまでも理不尽な差の無い世界を!!始めのうちは『力』と『恐怖』を利用することを否定しない だがあくまでそれは秩序維持のためと限定する」
メルエム「弱く・・・しかし生かすべきものを守るためだ 敗者を虐げるためでは決してない」
ここでメルエムはキメラアントだけでなく、人類を含めて全種族の頂点に立つものとしての責任を果たすべく、キメラアントにも人類にも妥当するより高次の価値体系に基づく未来を提示している。もちろんそれが「生まれたての餓鬼」による青臭いものであったとしても*3、キメラアントという種を超えて、本来は捕食対象でしかないはずの人類までをも考慮したそのあり方にこそ道義的な力が宿るのである。対してネテロは最初から最後に至るまで、メルエムに耳を傾けることも、メルエムのそれを凌駕するようなキメラアントや人類などの未来像を提示することもなかった。彼の関心事は終始如何にしてメルエムと戦うかであり、「虫」と蔑むキメラアントと共通の価値体系を模索するつもりなど毛頭もなかったのだ*4。人間及びネテロ側の都合はどうあれ、どこまで相手のことを慮っていたかというこの一点をもって、人間及びネテロの道義的な敗北が読者に印象付けられることとなる。
内外に共通する価値による線引きの乗り越え:『幽遊白書』の場合
以上ここまで、冨樫作品における善悪のコードとしての部族主義がどのようにして現れるかを見てきた。部族主義は内外を分断し、内部の構成員に対して自己犠牲を強い、外部の者を排斥するだけでなく虐げるものであった。冨樫作品では部族主義が作動する場面が幾度も描かれる一方で、それがもたらす線引きを超える瞬間もまた幾度も描かれてきた。
『幽遊白書』において、その越境の萌芽とも言える場面が、暗黒武術会での六遊怪チームの酎及び魔性使いチームの陣と幽助が通じ合う場面である。三者ともに戦いそのものに喜びを見出し、フェアプレイでもって戦いを楽しむ。酎との戦いにおいて幽助は酎もまた「バトルマニア」であることを認めると、霊丸という奥の手を戦う前に実演し、その性能と限界まで説明する。そのバカ正直さに酎は呵呵大笑する。
酎「ガハハハハハ 本当にバカだな 気に入ったぜこんちくしょーーー」
死闘の末に酎を倒した幽助は、気を失っている酎を前にした鈴駒に対して、親指を立てて微笑みながらこのように言う。
幽助「目ェ覚ましたら言っとけや またやろうぜってな」
また、陣との戦いの直前においての会話では、陣が幽助との戦いを楽しもうとしていることがわかる。
陣「ホレホレこれ見てけろ 耳がピーンととんがってるべ?オレなコーフンしたりワクワクすっとこうなるんだ」
陣「いや~~~~こんなビンビンになっての久々だわさ あ それがらオメが爆のヤロぶっとばした時スカッとしたんだオレ」
陣「正直言ってあいつの不実さにはほとほとあいそがつきてたからよ」
幽助「ぷっ―――ちっすっとんきょうな野郎だなオメー 怒りにまかせてぶっとばしてやろーと思ってたのに毒気ぬかれちまった」
陣「あいつはあいつオレはオレだ ギスギスした気持ちのまんまやりあっても楽しくねーべ?」
前述の通り、陣が属する魔性使いチームは、画魔が実践して見せたように個を犠牲にしてチームとしての勝利をつかもうとしていた。それに対して陣は、「オメが爆のヤロぶっとばした時スカッとした」と、同じチームの爆拳の敗北を喜んでみせ、「あいつはあいつオレはオレだギスギスした気持ちのまんまやりあっても楽しくねーべ?」と同じチームの同胞であることよりも、個人として戦いを楽しむことを大切にする。酎と陣のエピソードで、幽助は、妖怪とも党派心を捨てて勝ち負けよりも戦いそのものを楽しむことができること、妖怪もまた自分と同じように楽しむ心を持っていることを知る。暗黒武術会でのこの成功体験が、おそらくは魔界での黄泉に対する突拍子もない提案につながっている。
幽助・飛影・蔵馬が魔界で三つの陣営に別れることになる魔界編では、魔界は三人の妖怪が支配する三つの国によって三分されており、500年にわたり三者がにらみ合い続けてきたことが明らかになる。その三つの国の内の一つの国王であり、幽助の遺伝上の父でもある雷禅が死ぬことでこの均衡は崩れる。雷禅の後を継いで幽助が国王になると、直ちに幽助は敵対国の国王である黄泉と会談を申し込む。先ほどの突拍子もない提案とは、その会談の場面での幽助の下記発言を指す。
幽助「ただのケンカしようぜ 国なんかぬきでよ 一度みんなただの一人に戻ってよくじで組み合わせ決めてトーナメントやろうぜ 最後に残った奴が大将だ 負けた奴は全員そいつに従う 何があろうとな」
幽助のこの提案は紆余曲折ありながらも最終的には魔界全体を飲み込んだ秩序の再編成へとつながっていく。もう一人の国王である軀は幽助の提案を直ちに飲み、国家の解散を宣言する。
軀「皆に伝えてくれ 今日から軀はただの妖怪だとな」
そして、(トーナメントの開催を飲みつつも)最後まで国家としてトーナメントを勝ち上がるための策略を捨てなかった黄泉もまた、雷禅の旧友たちが自身に匹敵する力を持ちながら野心も持たずに隠れていた事実に衝撃を受け、にもかかわらずその事実に高揚感を覚える自身に戸惑いを感じながら、ついには策略と国家を捨てる決断をする。
黄泉「計算外だ こんな奴らが野心も持たず隠れていたとは・・・・・・なのに何だこの高揚感は!?昔の血が騒ぐとでもいうのか黄泉よ」
黄泉「つまらぬ策略を捨て一個として力を試したいとでも言うのか!?」
(中略)
黄泉「妖駄お前も自由だ好きにしろ 誰が勝つかもうオレにもわからん」
妖駄「ま・・・・・・まさか本気で本気で国を捨てトーナメントを戦うと!?」
黄泉「やはりオレもバカのままだ」
そして、トーナメントの抽選会場で幽助と黄泉が言葉を交わすシーンで、黄泉は幽助に自身が心変わりしたことを伝える。
黄泉「信じてもらえなくても構わないが オレは何も望まずこの大会を全力で戦う」
以上のエピソードから、酎及び陣との通じ合いがここでも反復されていることがわかる。そして、この通じ合いを貫徹するために今度は、幽助は身内の党派性を解体しなくてはならない。トーナメントの抽選で黄泉とその子どもである修羅が同じブロックとなったシーンである。
雷禅の元部下「これでかなり有利になりましたね」
黄泉との会話で見せた穏やかな表情から一転、胸倉をつかみ激怒しながらこう言う。
幽助「二度とつまらねェこと言うんじゃねェ」
以上のような経緯を経ての、本選開始前の主催者を代表しての幽助による開戦のあいさつは、幽助の思想を率直に表したものである。
幽助「できれば何年か毎にこうやってバカ集めて大統領選挙みてーに大将決められたらいいんじゃねーかと思ってる」
幽助「予感なんて信じるガラじゃねーけど誰が勝ってもスッキリできる気がするんだ」
メルエムが「暴力こそこの世で最も強い能力(チカラ)!!」と言ったように、魔界においては暴力が共通の言語であった。であるならば、徒党を組み・策略をめぐらすのではなく、衆人環視の中での個人対個人かつフェアな条件下での戦いによる結果ならば、「スッキリ」できること、わだかまりなく誰もがその勝者に従う気になること、これが幽助の提案であり確信であった。異なるポリシーを持った国王たち*5が支配する三国に分断された魔界において、「手前好みの秩序を押しつける」*6のではなく、すべての妖怪に通じる規範である「強いやつが正しい」*7を誰もが納得する形で貫徹させること、本文の文脈に即すならば、内外に共通する価値を基盤とした新たな枠組みを立ち上げること、これが幽助の部族主義を乗り越えるための知恵であった。
このような幽助の立ち振る舞いについて、黄泉は「あえて仲間をつくらぬことで同志を増やすとはな」との感想を持った。ここで使われる「仲間」と「同志」という意味合いの違いには注意しなければならない。ここでいう「仲間」とは本文の定義でいうところの部族であることは明らかだろう。では、「同志」とは何か。幽助によるトーナメントの開催の提案について、蔵馬とその一味が乗り、軀一派もまたそれに乗ることで、黄泉は孤立に追い込まれた。蔵馬たちとはともかく、軀とは必ずしも幽助は利害を共有しない。にもかかわらず軀がそれに乗ったのは、同じ志を持ったから、幽助の掲げる理念に賛同したからに他ならない。「仲間」や組織に対する無条件の忠誠ではなく、掲げた理念に忠誠を誓うという、個々人の意思に基づいた水平的な連帯の構成員が「同志」なのである。
内外に共通する価値による線引きの乗り越え:『レベルE』、『Hunter×Hunter』の場合
『幽遊白書』においては、「内外に共通する価値による線引きの乗り越え」は暴力という普遍的なコミュニケーションツールを基盤としたものであった。暴力を共通の言語・価値とした通じ合いは、『Hunter×Hunter』でも反復される。その一つが、ビスケの「極限をも超えた鍛錬の結晶」としての肉体に感動し、「武闘家として手合わせ願いたい」と言って戦いを挑んだ猟奇殺人犯のピノールトである。また、ネテロと対するメルエムもまた、ネテロの「演武」に対して深い感動を覚え、単なる滅すべき敵以上のものとして相手を扱おうとする。
ナレーション「王は、極限まで時が圧縮され意識のみがかろうじて捉えるネテロの残像を追いながら、ある感情に支配されていた 敵への惜しみ無き賞賛」
メルエムは自分の心が感動で打ち震えたことを、自らの言葉でしっかりとネテロに伝えようとする。
メルエム「其の方が己を高めんが為捧げ続けた永き時その成果しかと受け取った 一個が修練の末届き得る限界 それを卓越した稀有な事例といえよう 天晴だ 誉めて遣わす」
上記2つのエピソードは、『幽遊白書』における「戦うことの楽しさの共有」という切り口から、「武道における求道者の限りなく磨き抜かれた修練の先にある到達点に価値を見出す姿勢」という切り口に変化していることに注意したい。
また、『レベルE』以降の冨樫作品では、「内外に共通する価値」が暴力・武道に限らない点も特筆に値する。具体的には、『レベルE』でのディスクン星人のエピソードである。ディスクン星人は地球に暮らす大変好戦的な宇宙人である。当該エピソードの序盤で、生態学者でもある別の宇宙人がディスクン星人を評してこう言う。
「(宇宙有数の戦闘種族である)彼らが地球に限っておとなしく暮らしているのは何故なのか?」
「彼らに攻撃されて絶滅してしまった種族は軽く3ケタを越えます なのに地球でのみ彼らは先住民のしきたりにならい他の星では考えられない程行儀良く静かに生活している」
「しかもこの星には彼らの仇敵であるエラル星人までが棲みついているんです この両種族が混在する星なんて宇宙広しといえど地球だけですよ」
この謎はエピソードの終わりに解明される。
「実はオレ達ディスクン星人種族そろって大の野球狂でして高校に大学ノンプロプロ野球かかさずチェック入れてるんスよ」
「オレら確かに切れたら星壊すまで暴れますけど地球ではやりません 野球見られなくなるっスもん」
「未来の大選手生むかもしれないって考えたら地球人殺すなんてとてもとてもとても」
「悔しいのは憎っくきエラル星人も野球好きで一足先に高校野球の激戦区やプロ野球球団の本拠地は全部縄張りでとられてしまいましてなんとかオレらの縄張りから大選手が出ないものかとずっと夢見てたんスよ」
「オレらこの星に来て戦い以外の楽しみ初めて知りました 感謝してるんス」
ギャグテイストで明かされるディスクン星人の真実は、それにもかかわらず「他者と通じ合う共通の価値」という冨樫作品の中核的なテーマを表すものである。そして、このエピソードは、メルエムとコムギとの交流の物語を予告するものでもある。
メルエムとコムギとの交流は、以前に十分に書いたため、繰り返し詳細に書くことはしない。メルエムはネテロとコムギという人類の文武の代表者と対し、文武の精華としての成果物を味わい尽くして死んだ。そして、メルエムは彼らに対しての賛辞を惜しまなかった。本文の文脈に関係して重要なことは、すべての生命にとって共通のコミュニケーションツールである物理的な力の行使、つまりは暴力で人類とキメラアントが通じ合っただけでなく、人間による文化的産物である軍儀を通じて両者が通じ合ったことである。それはメルエムが軍儀を打つ者たちの文化共同体に組み込まれていく過程の中での出来事であった。当初メルエムは定石を相手に指させない力戦形を目指し、その無意味を悟るとコムギと感想戦を行って定石を学び、コムギの生んだ定石を生み直し、最後にはコムギとともに新たな定石を生みだした。軍儀はその性質から個人対個人で戦うことを余儀なくされる。その結果、コムギが総帥という肩書ではなく個人として、メルエムに関心を持つことになる。これがメルエムの個人としての目覚めのはじまりであった。そして最後には種の未来を背負った統治者としてではなく、メルエムという一個人として、あるいは一棋士として、コムギに相対し・対局し、死んでいった。これはピノールトが「武闘家として」ビスケに相対した先述のエピソードを反復するものである。どちらのエピソードも、本来は何の縁もゆかりもなく、まったく異なる背景を持った主体同士が、武闘という共通の価値を認める者として、あるいは軍儀という共通の価値を認める者として、それぞれの背景と属性を脱ぎ捨てて相対している。そしてメルエムとコムギのエピソードは、メルエムが元々所属していた集団から個人として精神的に自立し、新たな特定の価値を信奉する共同体に組み込まれていく過程を表したものであり、先述の『幽遊白書』における魔界統一トーナメントでのエピソードを反復したものである。
キメラアント編における「元々所属していた集団」と「特定の価値を信奉する共同体」が性質的に異なることにも注意したい。前者への帰属は意思によらず自明の前提として観念される。一方で、後者への帰属は個人の意思に基づいたものである。個人の意思に基づいた共通の価値や目的を紐帯とする共同体*8は、ジンが設立した特定非営利活動法人やキメラアント討伐隊、ビヨンド=ネテロが総責任者をつとめる暗黒大陸探検隊等々と、『Hunter×Hunter』において繰り返し登場する。これらは、人は「仲間」でなくとも同じ志を持つことで連帯することが出来るという人間観・世界観の表現である。
最後に、連帯の最小単位が個人であることにも言及しておく。冨樫作品の特徴は、「仲間」だからといって常に一緒に行動するわけではないという点だ*9。『幽遊白書』における主要キャラである幽助、飛影、蔵馬、桑原は魔界編では散り散りになるし、『Hunter×Hunter』における『幽遊白書』の主要キャラたちの後継にあたるゴン、キルア、クラピカ、レオリオもまた、ハンター試験の後は別々になって行動する。「ニコイチ」であったゴンとキルアでさえ、キメラアント編の後は行く先を違えて、個人が最小単位であるという原則を貫徹する。彼らは「仲間」の重大事には再度集まり行動するとともに、平常時は別のグループやチームに属してそこの人々と協力し合う。冨樫作品は同じメンバーでずっといることを好まない。それは集団に縛られていることになるからだ。幽助と分かり合えた酎や陣のように、所属集団から自由であることが連帯、あるいは新しい価値共同体の立ち上げの条件となる。そして、『レベルE』における(小学生五人組の中で一番頭の悪そうな)横田によるギャグテイストでのツッコミ「個人の自由が尊重されてこその平和だろーが」は、冨樫作品を貫徹する原理なのである。
終わりに
少年マンガは、あるいはより広く物語一般は、主人公たちとは異なった存在である他者を物語の深みをもたらすために必要としてきた。特にバトル漫画は価値体系や利害を異にする他者との衝突・調整・交流が物語の駆動原理となる。そのようなジャンルとしての性質の中で、冨樫作品の特色は善悪だけでなく内外の境界が何度も再編成されていく点にある。対立する二者の間に新たな共通の価値を戴く共同体が立ち上がり、「あいつら」が「我々」になるときに深い感動、カタルシスが生じる。この感動の条件を最後に明示しておかなくてはならない。それは感情が揺らぐことであり、ぶれることである。
最後の決戦において仙水は、魔界で幽助たちの人間・妖怪という種を超えた強い結びつきを目にして、かつての盟友であったコエンマを見つめながら「決心がにぶりそうだよ」と言った。ここでの決心とは、魔界で死ぬことであり、死後魂を霊界には委ねないことであろう。そこには人間を憎んで魔族にあこがれる気持ちやコエンマとの関係を修復させないという意思も含まれる。あるいは、ネテロはメルエムとの対話の中で、「お互い大変だな」とこぼしながらも「結論は変わらない」のだから「心がぶれる前に」闘おうとした。一方で、メルエムは「蟻と人とで揺れて」いたのであった。自らの信念や所属する集団への忠誠が揺らぐとき、その気持ちを押し殺すか否かの二値コードは、冨樫作品において何度も現れる。ナックルとシュートは任務の確実な遂行よりも自身らの誇りを優先し、パームは蟻の王のコムギへの純粋な想いを前にして、コムギを決してキメラアントたちに渡さないというキルアとの約束を破る。ユピーもまたモラウを確実に討つよりも敵との信義を優先した。先述の通り、黄泉もまた雷禅の旧友たちの妖気の放出に衝撃を受け、自身の手による魔界統一への意思を捨てた。雷禅も食脱薬師の女の生き様を前にして、その後の生き方を変え、同時に幽助が生まれる原因ともなった*10。
これらに一貫しているのは、揺らぎを受け入れる姿勢は人間的な美徳や相互理解につながるのに対し、それを受け入れない姿勢は悲劇や永遠の断絶をもたらす点である。仙水やネテロが揺らぎを覚えながらも、当初の結論を変えなかった姿勢は、コエンマや幻海による再三の説得にもかかわらず、極限の苦痛の後に無に帰る地獄へ行くことを選択した戸愚呂弟の頑なさと同一のものである。冨樫作品はこの頑なさを雄々しいものとしてではなく愚かしいものあるいは哀しいものとして描く。そして、揺らぐこと、その弱さこそが人間的な徳目であり、人間性の条件であること、自身の集団の外部にいる他者とつながるかけがえのない要素であることを描く。