キース・アウト

マスメディアはこう語った

日本の子どもたちは、計算力は高いのに計算が好きでもなければ自信も持っていないという。それはそうだろう。この国では求められる計算力が違うし、どんなに計算ができてもそれで十分だと、誰も思えないのだから。

(写真:フォトAC)

 

記事


【子どもの学力6カ国調査】強みだった算数・数学分野で異変?「計算力は高いが、自信がない」日本
(2026.01.05まいどなニュース)

maidonanews.jp


 公益財団法人スプリックス教育財団(東京都渋谷区)は、基礎学力に対する意識の現状を把握することを目的に、「基礎学力と学習の意識に関する保護者・子ども国際調査2025」を実施しました。それによると、「計算への自信」および「計算が好きか」の国際比較において、日本の子どもは「好き・自信がある」の平均値が低い一方で、計算テストの結果では、日本の子どもが高い正答率を示したことがわかりました。

 調査は、アメリカ、イギリス、フランス、南アフリカ、中国の小学4年生および中学2年生相当の子ども(各学年150人)、日本の小4(300人程度)と中2(100人程度)を対象として、2025年4月~7月の期間に世界5カ国ではインターネットパネル調査で、日本では調査参加校の教室にて実施されました。

(以下略)

 

【学問に王道なし】

《日本の子どもたちは、学業成績は世界トップクラスだが勉強に自信もなければ楽しんでもいない、だから問題だ》
という「まいどなニュース」が扱う、学力の国際比較であるPISAやTIMSSでは「毎度」なニュースである。
 そりゃあ学業成績もよければ楽しんでもやる、自信もある、という子どもであればなおさらいい、大人の立場からすれば、ムリに学習させているかもしれないという罪悪感からも自由でいられる、しかしそんなことがあり得るのだろうか?

 楽しみながら成績があげられるものなら、同じやり方で世界中の子どもたちがあっという間にトップクラスの成績を取ることになるだろう。それなのに伸び切らない子どもたちがいるというのは、やはり学業というものが、ある程度の苦しみの先にしか成果を生みださないからかもしれない。
 「学問に王道なし」とはそういうことだ。

【なぜ日本の子どもたちは「計算力は高いが、自信がない」のか】

 日本の中学生が正答率75%という圧倒的な成績を収めながら、好きかどうか、自信があるかどうかという話になると急に数値を落とすのは、求める成績が高すぎるからではないかと私は思う。
 本来は100点を取らなくてはならないのに75点しか取れなければ「自信」はなくなるだろうし、どんなに頑張っても75点どまりだとすると楽しくもないだろう、そういうことではないか。

 日本の学校では算数や数学の苦手な子には「せめて計算問題だけはできるようにしよう」とか「計算問題だけは確実に得点しておこう」といった言い方をするが、それは算数・数学の中でも計算問題だけは楽で、誰でもできるようになるといった前提があるからだ。その「誰でもできる」はずの計算問題でも成績が低いとなると、自信も持てないし楽しくもないということになる。
 では諸外国はどうだろう。

【欧米人は暗算をしない】

 アメリカ映画「ペーパー・ムーン」(1973)では主人公の女の子が、買いものを通して詐欺を働く印象的な場面があった。雑貨屋に入った少女は買いたい品物を選ぶと、商店主の前のカウンターに商品と小額紙幣を少し離して置く。それを見た商店主は商品の横に釣銭を、1セント、2セントと数えながら置いていく。やがて(商品+小銭)が少女の出した小額紙幣と同じ額になったところで手を止め、両者((商品+小銭)と紙幣)が同額であることを確認してから、少女が商品と釣銭を、商店主が少額紙幣を受け取って取引が成立するのである。
 映画ではそのあと少女が「釣銭が少なすぎる、私の出した紙幣はもっと高額だった、紙幣に名前が書いてあるから確認しろ」と言い出して、実際に金庫の中身を調べると少女の名前の書いてある高額紙幣が出てくる。ただしそれは事前に詐欺師の父親が別の買い物をする際に使用した紙幣だったという話になるのだが、ここでは扱わない。とにかく1930年前後のお釣りの出し方が“等価”という考え方を基礎としていたことを確認したいだけである。
 この「紙幣・商品・おつりを一度カウンターに並べて“見える形で確認する”」というやり方は、相手が子どもだったからというわけではない。まだレジが簡易的で店員が手作業で計算していた1930年~1960年ごろ、顧客とのトラブルを避けたいという理由からアメリカ国内で広く行われていた手順である。
 けれど日本ではそうはならない。760円の買い物をするのに客が1000円支払ったら、客も商店主も、同時に240円を頭に思い浮かべている、それがこの国の現実である。

 もう一つ例を出そう。
 実川真由 /実川元子 著『受けてみたフィンランドの教育』(文藝春秋 2007)は2000年代初頭に当時、教育大国と言われたフィンランドで高校教育を受けた女性の興味深い記録であるが、そこにはこんな記述がある。
(留学先のホスト・ファミリーと買い物を終えたところ)合計が24ユーロ22セントだったので、私は54ユーロ72セントを払ったら、スーパーの人は、嫌な顔をした。そこにホストブラザーが慌てて来て、4ユーロ72セントを取ってしまった。50ユーロで支払ったので、おつりが大量にきて、私の財布が重くなった。(中略)それほどフィンランド人は暗算をしようとしない。レジではじめて自分の買った品物の合計金額を知るらしい。
 著者の高校生は別のところで、数学のテストにかっこの計算までできるコンピュータ並みの電卓が持ち込まれる話を紹介しているが、フィンランドではそもそも計算を暗算で行うという文化がないらしい。
 北欧と言えば現在はキャッシュレス大国として知られるが、確かにそうなる理由は分かる。

【暗算大国の子どもたち】

 日本は数百年にわたって庶民が、「そろばん」という簡易計算機を、実際に使ったり頭の中で弾いたりして取引を行ってきた国である。そろばんは位取りを視覚的に理解するのに優れた道具であり、23桁分もの玉の列があるので実際には数値の一時保管に使われることも多い。これがワーキングメモリの訓練にもなっている。
 現代の日本人はほとんどがそろばんを使わないが、そろばんによって培われてきた高度暗算社会は、子どもたちにも計算力を強いる。それが日本の子どもたちの異常な計算力と、暗算を前提とする社会への不適応、自信のなさ、楽しめなさに繋がっているのである。

 気にすることはない。計算問題を半分も解けない国の子どもたちが計算力に自信を持ち、計算を楽しんでいる状況を思えば、「楽しくなくてもできる子ども」を持っていることに、私たちもまた誇りを持つべきであろう。

問題は制度だ。学校と教師の自覚と努力で、労働環境を改善しようという試みはすべて失敗に終わる。

(写真:フォトAC)

記事


精神疾患による休職率が高い「小学校の先生」、改善の兆し見えず…先生たちを追い詰める"悪しき習慣"がメンタル不調を引き起こしている

松尾 英明 : 千葉県公立小学校教員 

2025.12.29 東洋経済ONLINE) 

toyokeizai.net

 
 近年、教員のメンタル不調や休職が増加し続けています。この状況は、単に「忙しい」「業務が多い」という表面的な問題では片づけられません。私は現場の教師として四半世紀、また講演や研修を通じて多くの先生方の声に向き合ってきました。

 そこで確信しているのは、教員のメンタル不調の根源には、「境界線の崩壊」と「過剰な親切の文化」があるということです。この構造は、教師の心をすり減らすだけでなく、実は子どもの主体性も奪っています。
(中略)
 もともと学校には、「子どもの領域」「家庭の領域」「教師の領域」という3つの線引きがありました。しかし近年、この境界線が溶け、次のような状態が常態化しています。

  • 子どもが困る前に、教師がすべて先回りして解決してしまう
  •  保護者から頼まれると、断るという選択肢をとれない
  • どんなトラブルも「学校が何とかすべき」とみなされる

(以下、略)

 記事を書いた松尾英明という人は千葉県公立小学校の現職教員、1979年生まれというから今年46歳の気鋭の論者である。私が教育関係のWebサイトを立ち上げたのもちょうど46歳の時だから、教員として20年を超える経験をしてきて、最もモノ言いたい時期なのかもしれない。

【現職教師は謙虚に過ぎる】

 ただし“現職”はモノ言う上で有利な側面があるのと同時に、現職だからこそ見えなくなることもある。例えば、「境界線が溶け、次のような状態が常態化しています」と列挙した三点のうち、最初のふたつは明らかに教師に責任があるという話だ。「先回りをして解決してしまう」のも「保護者の申し出を断れない」のも、誰かに強制されたわけではない、教師が自ら行ったことだ。
 さらに三つ目の『どんなトラブルも「学校が何とかすべき」とみなされる』状況ができてしまったのも、考えようによっては先輩教師たちが安易に「何とかしましょう」と答え、実際に何とかしてきた経緯があってのことだとも言える。
 
 つまり“境界線の曖昧化”は教師たち自らが招いた災厄だと松尾は論じるのだが、それはあまりにも謙虚に過ぎる話だろう。実際はそうではないのだから。
 境界線を崩壊させたのも、過剰な親切の文化をつくってきたのも、学校でも現場の教師たちでもなく、文科省都道府県および市町村の教育委員会なのだ。彼らが社会の圧力に屈して、“そうします”と譲歩し続けた結果、今の状況が生まれた。それなのに“現職”に聞けばすぐにへりくだって、自分たちが悪いという話にしてしまう。

【平成前期における学校の大敗北】

 ――学校と家庭と社会の境界線を崩壊させ、過剰な親切を行うという文化はいつ始まったのか。
 答えは簡単だ。平成不況が一過性のものでなく、かなり深刻で永続的なものになるだろうと皆が思うようになった平成5年~20年ごろにかけての時期。

 ――なぜ譲歩を重ねることになったのか。
 大変な就職難で非正規労働者が巷にあふれ苦労している状況を尻目に、教員たちは子ども相手の楽な仕事で高給をもらい、長期休業もたっぷり享受して、そのくせいじめ問題ひとつ解決できない(愛知県西尾市中学生いじめ自殺事件など)、解決しようとしない、その状態に厳しい批判が集まったため。不運なことに平成2年から完全学校5日制が始まっており、そこに授業時数を大幅に減らした「ゆとり教育」の開始が被さって、教員は楽をしているという印象はますます広がった。そのため政府は、「教員が怠けないようにしっかり管理します」という立場と、「子どもたちが苦労することなく、高い学力を獲得することを保証します」という姿勢をはっきり見せなくてはならなくなった。

 ――実際に、何をしたか。

  • 「総合的な学習の時間」という、これまでにない学習を創設して、担任教師に背負わせた。「生きる力」という世界の初等・中等教育史上、例をみない高い目標を掲げ、実施させた。教科書も具体的な内容も示すことなく「つける力」だけを明示したため、すべて教師たちが膨大な時間をかけて教材をつくらなくてはならなくなった(平成12年)。
  •  キャリア教育という名の就労教育を、小中高と連続的に行えるようにし、「小学校の担任でもその子の就労に責任を持ちます」という姿勢を明らかにした。中高の職場体験もこのとき始まり、協賛企業を開発し、良好な関係を維持するという厄介な仕事が加わった(平成12年)。
  • 東京では長年続いてきた東京方式(労働者としての休憩時間すべてを放課後に集めて、午後四時には退勤できる)を廃止した(平成12年)。
  • 「全国学力学習状況調査(全国学テ)」を行い、市町村どうし、あるいは学校どうしを競わせ、成績の低い学校に圧力をかける仕組みを構築した。それとともに「教員評価」「学校評価」を実施させ、保護者・地域・児童生徒・教員どうしの監視体制をつくった(平成18年)
  • 十分に内容を減らさないまま時数だけを減らした「ゆとり教育」を始めた(平成14年)。時数が減った分ゆとりがなくなり、授業内容が濃密になってかなり苦しくなった。
  • ゆとり教育」批判のもと、「ゆとり教育」で減った時数・日数を増やさないまま、学習内容をほぼ旧に復したため、完全に苦しくなった(平成20年)。
  • 教員の自腹で、教員の時間を使い、現場教師ならほぼ理解していることを学び直す「教員免許更新制」が始まる(平成21年→令和4年廃止)

など

――なぜこれほどの大改革が可能だったのか。
 ベテラン教師たちは慣れた仕事への上乗せだったので何とか耐えられた。若手・新卒などは平成大不況の30倍近い競争を勝ち抜いてきた超エリートだったため、過剰な仕事を軽々と担えた。
 今日の学校問題(早期退職や精神疾患続出など)の大部分は、「普通の人」が教員になるようになったために起こり始めたことである。

【ではどうしたらよいか】

 記事を書いた松尾は、

  1. 「学校の役割」の線引きを組織として共有する
  2. “子どもが自分でやる余白”を意図的に残す
  3. 管理職と同僚が「助けを求める文化」をつくる

の三点を解決策として提示しているが「学校(具体的には各校の校長)や教員で自覚をもって頑張りましょう」という提案は実現しない。子どもに向かって「自覚を持って勉強しなさい」と言えば勉強だろうと考えるのと同じくらい無意味なことである。

 そもそも「学校の役割」の線引きは、学校ごとで行える問題ではないだろう。すでに文科省平成31年(2019年)の中教審答申で学校の業務を次の3つに分類しているが、6年経っても実現しないのは、線引きなどできないからである。
 ではどうしたらよいのか――先にあげた平成5年~平成20年の大改革をすべて元に戻し、昭和の末期から考え直すことである。もちろん文科省官僚や地方教育委員会だけでできることではない。政治家が有権者におもねることなく、国家百年の大計として考えるべきことだ。それができる政治家だけを、私たちが選べばいい。

群馬県高崎市では、26年度からすべての小学校を午前7時に開門し、校務員(学校用務員)が問題の対応に当たるという。市長、それがどれほど危険なことかおわかりか? 小学生を舐めたらいかん!

(写真:フォトAC)

記事

 

小学校の早朝開門、トラブルは教員でなく校務員が対応 群馬・高崎市
 (2025.11.26 朝日新聞

www.asahi.com

 小学校の開門を来年度から午前7時に早めるという群馬県高崎市の方針をめぐり、富岡賢治市長は25日の記者会見で、早く登校した子どもたちにトラブルなどが起きた場合は、開門する校務員が対応にあたると説明し、「何かあったからといって教員に出勤を求めない」と強調した。

 早朝開門は、親が早朝に出勤する共働きや一人親世帯を支援する狙い。来年度から全58の市立小学校の開門時間を、いまの午前7時30~50分から繰り上げる。各校にいる校務員が早めに出勤して開門し、教員の負担は増やさないとしている。早朝に登校した児童を見守るための人員は配置しない。
(以下、略)

文科省も教育員会も政治家の言いなりだ】

 文教政策に問題があると人はすぐに「文科省の馬鹿が」とか「教育委員会のアホが」といった言い方をするが、すでに文科省にも教委にも主体性はない。

 国の省庁の官僚が主体性をもって行った過去の政治を「官僚政治」というが、いまこれを問題とする人はいないだろう。現在は文科省も官邸の言いなりである。官僚は完全に政治家の下請けとなった。もっともそれが法律上の本来の姿だから文句を言う筋合いではない。
 同様に教育委員会は各自治体の長の下請けでしかない。大昔(1948年~1956年)、首長と並んで教育委員長が公選制だった時代は、それでも両者は平等、教委も主体的でいられたが、いまや教育委員長は首長が選んで(議会の承認を得て)任命する時代だ。したがって都道府県教委は知事の、市町村教委はそれぞれの首長の、指示を無視して活動はできない。引用した記事で富岡賢治・高崎市長が教委や教職員の発言を軽々しくあつかうのには、それなりの理由があるわけだ。

【政治家には、やらなければならないときがある

 もちろん、良民に選ばれた首長だからと言って何でもできるわけではない。権限があるからと言って、ただ振り回していたのでは動くものも動かない。だから普通の長は周囲や下々意見をよく聞き、妥協点を探りながら自分の意思を通すよう、辛抱強い交渉を行うのだ。

 ただし志をもって政治を行う以上、個々の政治家にはどんなに反対にあっても絶対に押し通さなければならない重要案件のひとつふたつがある場合がある。
 国レベルで言えば、消費税導入した時の竹下総理、5%に引き上げたときの橋本内閣は、ともに必要なことを行って政権を去った。小泉総理は郵政民営化に政治生命をかけ、このときはうまくやっている。
 地方で言えば、大阪都構想住民投票が否決されたことで2015年には橋下徹大阪市長が、2020年には松井一郎大阪市長が辞任しているし、沖縄県では玉城デニー知事が諦めずに「辺野古新基地建設反対」を訴えている。政治家とはそういうものである。もしかしたら高崎市長にとって、「教職員の労働時間を増やさず、しかも市民の要望に応えて学校を早朝に開けること」は、政治生命をかけてもいいほどの重要案件なのかもしれない
 小学校早朝開門問題は、大阪都構想とは違って、一朝、大きな事故が起こったら、市長が責任をとって辞めれば済むということにはならない。それでも敢えてやろうというのだから、よほど深刻な理由があるのだろ。私みたいな小者ではとても決断できない話である。想像するだに恐ろしい。

【実際にどこまでできるのか】

 校務員というのは学校の環境整備・その他の用務に従事する教職員のことで、一般には学校教育法施行規則第六十五条で定められた「学校用務員」という言い方の方が、なじみがあるだろう。昭和の初期には「小番(こづかい)さん」と呼ばれた職で、普通は1校にひとり。朝の開錠・開門と夕方の閉門・施錠があって活動時間が長くなるため、午前と午後の中抜け勤務だったり、ふたりで午前・午後を分けたりということもあるが、同じ時間にふたり以上が勤務する学校にはお目にかかったことがない。私の初任校は生徒数1400人という大規模の中学校だったが、それでも用務員はひとりだった。そのたったひとりの用務員(校務員)が、朝7時から一般教職員の勤務が始まる8時20分ごろまでの1時間20分について、責任を持つわけだ。
 7時に開門すれば8時前にはほとんどの児童が登校してくるだろう。親は早く仕事に行きたいし、子どもも朝の時間にたっぷり遊びたい。500人規模の小学校だとするとその500人の大部分が校庭や体育館、教室で暴れまくっている。それをたったひとりの校務員が統括する
 喧嘩があってもいじめがあっても、ケガをしても重篤な病気の発症があっても、一義的に対応しなくてはならないのはたったひとりの校務員。できるか?

 いやそうではない。これまでも市内各校は午前7時30~50分ごろには開門していたのだ。それを午前7時までと、30分~50分早めるだけで、早くなった部分の管理を校務員が行い、従来の部分は今まで通り教職員が対応する――そんなふうに市長は考えているのかも知れないが、それでは筋は通らない。
 従来の開門時間は、学校ごと、渋々であっても教職員の理解を得て設定してきたもので、それを市が制度とし7時開門とするなら、以後の責任は市が、具体的には市長が取ることになるはずだ。それで大丈夫か?

【来年度、7時開門が実現したら、起こること】

 7時開門となったら高崎市内58小学校の15300人が一斉に登校時刻を早める。仮に7時の時点で登校してくる子が1割だとしても1530人。年間の登校日数が200日だとするとのべ30万6000人が朝の学校を走り回っている
 しかし校務員以外の教職員が7時開門に合わせて出勤を早めることはない。皆、ぎりぎりの生活をしているのだ。市長も「何かあったからといって教員に出勤を求めない」と公言しているし早朝出勤する義理もない。実質的に子どもたちを放置している時間が現在の2倍になるのだから、事故の可能性も2倍以上になる。そんな責任を取らされてもかなわないからと、むしろ遅く出勤する教職員も増えるかもしれない。

 私の頭の中には将来の高崎市教育委員会の朝の風景がありありと浮かぶ。午前9時の受付開始とともに苦情の電話が一斉に舞い込む。
「午前7時15分、市内A小学校で子どもが鉄棒から落ちてけがをしたがそのまま10分以上も放置されだれも駆けつけなかった」
「B小学校の体育館で7時5分ごろ、6年生の男子が殴り合いのけんかをして鼻血を出したというのに、校務員は校門に立っていて気づかなかった。もう少しで大けがになるところだった」
「C小学校の2階廊下の、窓のふちに座っている子がいた。しかし誰も指導しない。近くに大人がいない」
「D小の校舎の裏をクマが走ったというのに校務員は警察への電話に忙しく、子どもたちを誘導してくれなかった」

【市長! それでも大丈夫ですが?】

 報道の写真をみると市長はマスコミ相手にふんぞり返って対応しているように見えるし、発言も教職員の反対意見は「全く関係ない」と横柄だ。「勤務として教員に早く出てきなさい、ということは求めない。当たり前のこと」
 その「当たり前のこと」が日本の学校ではまったく守られてこなかった。

 勤務時間内を授業や会議、事務処理で埋め尽くしておいて、

  •  誰も、時間外や休日に部活をやれとは言っていない。
  • 家に帰ってまで教材研究をやれと言ったことは一度もない。
  •  保護者の勤務を考えて、時間外の対応もしろなどと、言ったことは一度もないだろう。
  •  全部、教員が勝手にやっていることだ、

 それで済んだ。

 今回の高崎市の問題でも、教育委員会は、
「これまでも緊急対応が必要な場合は、そのとき学校にいる教職員が対応している。来年度からも同様の考えだ」
と言い、市長もこの件については、
「学校にいる教職員が対応するでしょう、と言っているだけの話」
と呑気に構えているが、これまでと同様に教職員がやってくれると嵩をくくっているのだろうか?それとも小学生がどれほど危険か、まったく分かっていないということなのだろうか?
 いずれにしろ大変なことが起きそうな予感がする。

英会話・プログラミング・タイピング・・・なんで政府は廃れていく技術ばかりを子どもたちに教えたがるのだろう。

(写真:フォトAC)

 

記事

 

ローマ字学習に先立ち、小2の国語で「タイピング」体験を
中教審専門部会が導入案

(202511.10 読売新聞オンライン)

www.yomiuri.co.jp


 文部科学省は10日、学習指導要領の改定を議論する中央教育審議会の専門部会で、小学校2年生の国語でローマ字入力の「タイピング」を体験する学習を導入する案を示した。
 現行の指導要領の国語では、1年生でひらがなを学び、3年生でローマ字を学習する。今回の案では、2年生で「書くこと」の学習の一環としてタイピングを体験させる。
(以下、略)

 学校、特に小学校は子どもが必要最低限のことを学べばいいのであって、不要なものを新たに学ぶ必要はないと思っている――そう言うと我も我もと賛同者が増えて、やれソロバンはいらない、毛筆書道はいらない、古文・漢文はいらないという話になる。しかしそうではない。
 単に「大人になってから使わない」ということであれば、リコーダーもメロデオンも、水彩絵の具も彫刻刀もいらなくなる。化学式も方程式も短歌も俳句も学ぶことはないだろう。しかしそれも違うのだ。

【日本人としての素養は学ぶ必要がある】

 ソロバンや毛筆や古文漢文を学ぶのは、それが日本文化の基礎だからだ。短歌や俳句と七五調の標語の区別がつかない人間は、外国人と話しても馬鹿にされるだけだ。イギリス人やフランス人から日本の古典や文化を学ぶことは、やはり恥としなくてはならない。もちろん完璧にできる必要はない。ソロバンは玉をこう動かす、毛筆の「止め」「撥ね」はこうする、俳句には季語が必要だと、その程度でいい。しかし学ばないという選択肢はない。
 リコーダーも場合によっては尺八でも笙の笛でもいい。水彩絵の具の代わりに色鉛筆だけで学んでもいい。しかし楽器演奏を学ばない、描画を学ばないという選択肢はない。なぜならそれが教養だからだ。

 だが、小学生のうちから英語を学ぶ必要はないし、コンピュータのプログラミングも学ぶ必要はない。なぜならそれは日本文化の、少なくとも基盤ではないし、教養でもない。技能としてもやがて別のものにとって変わられ、廃っていくことが確実なものだからだ。もちろん個人としてやるのかまわない。しかし全国民に強制できるものでもないだろう。

スマホとAIアプリがすべてを解決する】

 10年も経てば普通の日本人は翻訳アプリと同時通訳アプリで数か国語を操っているだろうし、そうやって外国人慣れした私たちの子孫は、繰り返し聞いたコンピュータの音声の真似をして、少しずつ、アプリを介さずに読んだり話したりするようになる。
 インバウンドでにぎわう土産屋の兄ちゃんが、いつまでも日本語とアプリでやり取りしているはずがない。仕事で使う外国語はある程度の狭い範疇にあって、すぐに習得できてしまうからである。それをわざわざ小学校の教室でやろうとするから手間もかかるし身につかない。

 プログラミングについては、すでに生成AIが行ってくれているというのになぜ日本人全員が学ばなくてはならないのか? いったい日本人の何割が、生成AIを上回るプログラミングが書けるようになり、仕事に生かせるようになるというのか? 私には教室でプログラミングの一将も功成らず、万骨だけが枯れている様子が目に浮かぶようだ。だれも得をしない。 
 ましてやローマ字を習う前からのタイピングなど愚の骨頂だ。10年経ったら特殊な人しかキーボードを使っていないからだ。

【学ぶべきはフリップ入力。キーボードはなくなる】

 おそらく10年後の日本では、文字入力の主流が音声入力とスマホで扱うフリップ入力が中心になっているだろう。フリップ入力だったら平仮名の学習を終えている小学二年生にも容易に手が届くし、キーボードのローマ字入力より平均で1.2~1.5倍速いというからである。もしかしたらすでにスマホで文章を作成してコンピュータに送信し、そこで体裁を整えているといった――、回り道だがそれでも速い作業を始めている人もいるかもしれない。

 いずれにしろタイピングといった古い技術は長く続かない。若い人たちは毎日使っているフリップ入力に代えてキーボード入力なんて真っ平だと思っているし、できればキーボードなんてなくしたいと思っているに違いない。もしかしたら同じ「キーボード」でも、フリップ入力のできる画面とファンクションキーおよび10キーだけで構成されたものが出てくるかもしれない。いずれにしろ新たにタイピングを習得する手間は省かれなくてはならない。

【誰がタイピング学習は必要だと言っているのか】

 しかしそれにしても、そんなもうすぐ廃ってしまう古い技術をいまから学習しようと言い出しているのは誰なのか?
「いやねぇ、私自身がキーボードが打てなくて苦労したから、子どもたちは早くから慣れ親しんで、自由に使えるようになってほしいんだワ」
 そんなアホなことを得々と語る有力老政治家の顔が浮かぶようだ。
 だが、彼は知らないのだ――新しい学習を押し込めば、協力とか分担とか責任とかマナーとか、人と人の関係を円滑にするためにやってきた従来の学習が削られるのだ。昭和の間は毎週のようにあった児童生徒会活動はすでに月一回になり、子どもたちが力を合わせて(時には衝突しながらも)練り上げてきた運動会や文化祭、旅行行事といった特別活動が軒並み減らされている事実を。
 世界から羨望の的となっているTokkatsu(特別活動)を減らして用もない学習を増やす――愚かな亡国の輩はどこに巣くっているのだろう? 

“学校給食、米飯の日でも牛乳が出てくるのはいかにも変だ。正しい和食を取り戻そう”と繰り返し訴える者がいる。地方自治体の長たちだ。しかしそこには文化とはまったく異なった理由がある。

(写真:フォトAC)

記事

 

【教育会議】教員の働き方改革について意見交換 給食の改善策も議論 福岡市長「既成概念を壊す」
(2025.10.27 FBS福岡放送ニュース) 

news.ntv.co.jp

 福岡市で27日、定例の教育会議が開かれました。教員の働き方改革や給食の質向上について意見が交わされました。
 (中略)
 学校給食の質向上については、調理のバリエーションを増やすため、スチームコンベクションや真空冷却機を導入することが検討すべき課題として挙げられました。
 毎食提供されている牛乳については、ごはんとの組み合わせを考えて、お茶に変える日を設けるよう検討しているということです。
 ■福岡市・高島市
 「別の食材でカルシウムを摂取できる方法を模索してもらいたい。既成概念を壊していこうと。」
 (中略)
 教育委員会では、教員の働き方や給食について引き続き改善策の検討を進めていきたいとしています。

 
 「政治とは、仮装して行う利害得失の争いである」アンブローズ・ビアス悪魔の辞典

【何が争点か】

 学校給食について「米飯の日に牛乳が出てくるのはいかにも変だ。正しい和食を取り戻そう」という主張がある。言い出すのはたいていが地方自治体の長、しかも都道府県ではなく市町村の長だ。なぜなら給食・牛乳問題の本質が食文化問題ではなく、財政問題だからである。
 慢性的な財政難に苦しむ市町村は、少しでも支出を減らしたい――そこで目を付けた支出のひとつが学校給食の牛乳補助である。「給食補助」という形で全体の中に含める場合もあるが、はっきり「牛乳補助」と銘打って牛乳だけで補助を行っているところもある。牛乳だけの場合、その額1本について4円~10円と大したことはないように見えるが、市全体、年間を通してということになるとけっこうな額になる。
 人口20万人、小中学生1万5000人程度の地方都市を想定してみよう。この市の牛乳補助は1日あたり6万円~15万円である。年間200日の給食だとすると総額1200万円~3000万円。そう考えると十分に削減したくなる金額である。

 福岡市の場合はさらに特別な事情がある。というのは今年の8月から給食無償化が始まってしまったからだ。1食210円~250円ほどだった給食費が市費で賄われるわけである。そのうち牛乳代はおよそ65円(推定)。4円~10円の補助でさえ削減対象として“オイシイ話”なのに、65円が魅力ないわけがない。
 福岡市の小中学生の数はおよそ10万人あまり。牛乳代だけでも1日650万円。年間でおよそ13億円。米飯給食が週3回としてその分の牛乳代を浮かせるとすると5分の3=ざっと7億8000万円もの節約になるわけだ。既成概念を壊していこうと言いたくなる気持ちもよくわかる。

 別の食材でカルシウムを摂取できる方法を模索してもらいたい
 しかしその検討をすでに10年以上前に行った自治体があることを、高島市長はご存じないのだろうか? 新潟県三条市である。

新潟県三条市の冒険】

 新潟県三条市は全国有数のコメどころとして2015年から学校給食を週5日の米飯給食(月に二回ほどの麺またはパン)にしようと計画した。その際、米飯給食に牛乳は合わないからやめたらどうかという話が出て、特に牛乳をやめた場合に大幅に摂取量が減ると予想されるカルシウムの不足をほかの食材で補えるかどうかの実験を始めたのだ。期間は完全米飯給食に先立つ半年前の2014年12月から2015年7月まで。その間、学校給食における牛乳の提供を停止して、他の食材によるカルシウム補充の可能性を探った。その結果、不可能ではないがそうとうに問題のあることが分かってきたのだ。

 そもそも学校給食法(昭和29年法律第160号)第8条 に基づいて文部科学省が定めた「学校給食実施基準」によると、1回の学校給食で摂取すべきカルシウムは小学校1~2年生で約350mg。学年が上がるにしたがって増えて中学生で約550mgとなっている。もちろんこれだけの量を牛乳1本(カルシウム約220mg)で摂取できるはずはなく、他の食品と合わせて350mg~550mgを越えるように計算されてきたのである。すでに牛乳以外の食品に130mg~330mgのカルシウムが含まれるように献立がつくられている、そこに牛乳分の220mgをかぶせようというのだから容易ではない。

 220mgのカルシウムとなると、プロセスチーズならスライスチーズ1.5枚分、ヨーグルトなら1.5個分、しらす干し(半乾燥)大さじ4杯分、桜えび(素干し)大さじ1.5杯分、煮干し体長10㎝ほどの出汁用なら10匹(体長3cmほどの頭から食べるものなら30匹~35匹)、木綿豆腐約半丁、小松菜半束といったことになる*1

 三条市の場合は代替食材として煮干し粉やレバー、大豆、小松菜などが活用された。その結果カルシウムは充足したものの、献立のバラエティーは乏しくなり、おかずも洋風化してしまうという本末転倒の結果となったという。
 三条市は結局牛乳の完全な廃止はムリだという結論に達し、しかし「米飯に牛乳は合わない」という主張は曲げなかったため、給食時間以外に牛乳を飲む「ドリンクタイム」を設け、そこで牛乳を提供するという暴挙に出たのだ。

 2015年9月に始まったドリンクタイムは多くの学校で二時間目休みに設定されたが、盛夏こそ子どもに喜ばれたものの、遊ぶ時間が減る、職員は予定の仕事ができない、給食着を着る余裕がないので不衛生、特に冬はおなかを壊す子どもも増えて残食も大幅に増える、という問題を抱えながら7年間も続けられ、ようやく2022年に至って廃止、元の給食の時間に戻されたのである。

【福岡市はどうするか】

 「過去に学ばない者は、過ちを繰り返す」
 ジョージ・サンタヤーナ(誰だ?)はそう言ったというが、福岡市はこの先どうするつもりなのだろう。
 既成概念を壊していこうとばかりに、「子どもにはカルシウムが必要だ」といった既成概念も壊して進むのだろうか(ドナルド・トランプならそうする)。腹をくくって牛乳ナシにした場合、代替食材にかかる費用は牛乳65円に対して以下のようになる。
 
 食品名              1食分の価格   備   考
 牛乳(200ml)     約 65円   給食用牛乳の平均価格
 プロセスチーズ     約 91円      スライス約1.5枚分
 しらす干し(半乾燥)     約160円  大さじ約4杯分
 桜えび(素干し)          約330円  大さじ約1.5杯分
 煮干し                  約 80円   出汁用サイズ(大)
 木綿豆腐                 約 73円      約半丁強
 小松菜(生)         約 74円       1束の半分程度
 プレーンヨーグルト    約 60円    カップ約1.5個分

  さて、どうする? 牛乳より安いのはプレーンヨーグルトだけだぞ。しかも1.5個。

【ところで】

 無償化で給食内容が貧しくなるのは仕方ないことなのだろうか?

 (答え)
 仕方がない。

(理由)
 有償の時代、食材費が上がれば受益者(家庭)に被せればよかった。より良い給食、より子どもが喜ぶ給食をと願う栄養士は、献立を貧しくする前に、迷わず給食費の値上げを考えた。上げたところで世間の相場よりはかなり安く、弁当に比べれば保護者の負担も少ない。
 しかし給食無償の時代は納税者の負担とならないよう、給食費の上昇は限界まで抑えられる。できれば下げたい。むやみに給食予算を上げれば、学齢期の子や孫を持たない納税者が黙っていない。したがって給食費は低いまま、全体として内容は物価の上昇とともに貧しいものになっていく。
 そしてやがては刑務所と同じレベルの質素なものになるだろう。

 これを「学校給食のムショ化」という。

人は増やさない、時数は減らさない、仕事内容は増やす――それでもマスメディアは教師の負担にならないようにと釘を刺す、あんた、何を言ってるのかわかっているの?


(写真:フォトAC)

記事 

 

【社説】次期指導要領 教育課程の柔軟化に期待
 (2025/10/21 西日本新聞【社説】)

www.nishinippon.co.jp


 2030年度から導入される次期学習指導要領の基本方針が中教審の特別部会でまとまった。多様な子どもたちの包摂を柱の一つに据えたことは評価できる。

 
 学校では、さまざまな個性や背景のある児童生徒が増えている。文部科学省が示す小学校1クラス35人の平均的なイメージが分かりやすい。
 家に本が少なく学力が低い傾向の子12・5人、不登校やその傾向の子4・8人、学習や行動に著しく困難がある子3・6人、家で日本語をあまり話さない子1・0人、特異な才能がある子0・8人。
 この現実に対応するために打ち出したのが、学校の裁量で教科の授業時間数を一定範囲で増減できる新制度だ。
 年間の総時間数を維持した上で、児童生徒の特性に応じた学習支援などに充てることができる。
 不登校の子に対しては、個別の指導計画を作成できる制度も新設する。
 授業時間の見直しでつくり出した時間を、学校がどう生かすかが重要だ。
 (以下、略)

 新しい指導要領のもとで、これからは授業時間数を一定範囲でやりくり「できる」のだそうだ。その時間を使って、児童生徒の特性に応じた学習支援が「できる」のだという。個別の指導計画も作成「できる」らしい。
 あたかも教師たちが自由になって望んだ方向に進んでいるかのように見えるが、授業時数を犠牲にしてまで児童の特性に応じた学習支援をしたいと思っている教師は、おそらくひとりもいない。

【個別の学習、個別の支援】

 もちろん「家に本が少なく学力が低い傾向の子」不登校やその傾向の子」「学習や行動に著しく困難がある子」「日本語をあまり話さない子」「特異な才能がある子」の面倒は見てやりたい。しかしそれはひとりひとりの問題に対応するだけの教員が配置されてこそのことで、いくら時間をあてがわれても、ひとりでやれと言われてできることではない。考えてみればいい。週に2時間~3時間、個別の指導計画や個々の特性に応じたそれぞれプログラムを用意して、一人で対応するのだ。
 
 学力の低い傾向の12・5人のための、分からなさに応じた12・5種類の学習プリント、不登校やその傾向をもつ4・8人のための活動プログラム。学習や行動に著しく困難がある3・6人にはその子の問題性に応じた教材。家で日本語をあまり話さない1・0人のためには母国語で自習できる日本語習得のための教材、特異な才能がある0・8人のために特性を生かしたハイレベルな問題集。毎時間それを作成して、授業も一人で見るのだ。
 もちろんできるはずがない。しかし完璧にできないにしても、よりよくできるよう最大の努力をしなくてはならない。それが教師の宿命である。

 さらに言えば「個別の指導のために与えられた時間」は各教科の時数を減らして生み出す時間であり、「教科」は時数が減った分だけ濃密になる。そこに新たな工夫もしなくてはならない。手が回るだろうか?
 おまけに「学校の裁量で」行うことだから文科省も教委も責任を取ってはくれない。ただ「やれ」、と言い「何をやるのか報告せよ」と繰り返すだけだ。

【メディアは非難しない。ともに学校を追い詰めるだけ】

 記事の割愛した部分には現行の学習指導要領が、
「思考力、判断力、表現力を育むことを教育現場に求め」、
「『主体的・対話的で深い学び』につながる授業の改善を促した」
部分を取り上げて、
「それが教員の多忙さに拍車をかけた面は否めない」
と指摘している。その教員たちを多忙にしている「深い学び」が次期改定でも維持されることを確認した上で、【社説】は
 注意したいのは、教育課程の柔軟化で生まれた時間を活用した学習が、児童生徒と教員の新たな負担になる可能性もあることだ。取り組むときは双方への影響を考慮する必要がある。
という。考慮するのはもちろん学校、具体的には教員である。なぜならこれは「学校の裁量」で行うことであり、元を質せば学校が、(身に覚えはないが)そう「できる」ように望んだことだからだ。
 なんたる欺瞞!

 マスコミは中教審の特別部会の欺瞞を糾弾もしないで、自ら同じ欺瞞に乗っかってくる。これでいっそう学校が崩壊への道を突き進むようなら、それもまた面白い記事になりそうだと、――もしかしたら本気で考えているのかもしれない。