四聖諦の発見――「日日是好日」の人が知る真理の世界 誓教寺オンライン仏道実践会④|スマナサーラ長老の初期仏教法話(20 Mar 2021 ゴータミー精舎からライブ配信)
ブッダの真理のことば(中村元訳)より引用させていただきます。強調処理は私です。
汝らは(みずから)つとめよ。
もろもろの如来
(修行を完成した人)は(ただ)教えを説くだけである。
「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆苦)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。
これこそ人が清らかになる道である。
(引用終)
〔感想〕
ブッダの「四聖諦」は、世界に類を見ない真に革命的で、しかも端的判明な教えだが、初手の苦の聖諦からして体得する人がほとんどいない。
内容が難解だからではなく、獣本能でスルーしてるからだ。(顛倒衆生、衆生自秘)
おれも体得できてないが
聴くたびに新たな感銘を受ける。
より引用させていただきます。
苦しみを知らず、また苦しみの生起するもとをも知らず、また苦しみのすべて残りなく滅びるところをも、また苦しみの止滅に達するかの道をも知らない人々、──
かれらは心の解脱を欠き、また智慧の解脱を欠く。
かれらは(輪廻を)終滅せしめることができない。かれは実に生と老いとを受ける。
しかるに、苦しみを知り、また苦しみの生起を知り、また苦しみのすべて残りなく滅びるところを知り、また苦しみの止滅に達するかの道を知った人々、──
かれらは、心の解脱を具現し、また智慧の解脱を具現する。
かれらは(輪廻を)終滅せしめることができる。かれらは生と老いとを受けることがない。
(引用終)
後世、「四つの尊い(聖なる)真理」〔四聖諦〕
として定型化されたブッダの
ブッダはこの世で比べるもののない四聖諦の価値を例えて、
百歳まで寿命がある人に百歳まで寿命がある人が、「あなたが百歳になるまで、毎日三百の槍で刺された後でなら四聖諦を教えよう」と言われたら、当然受け入れるべきだ
と説いている。(相応部マハーヴァーラヴァッガ)
ブッダに過言はない。ブッダの発言は常に精妙無比だ。
四聖諦には凡夫の想像が及びもつかない値打ちがあるとわかる。
四聖諦
苦の原因(集諦)によって苦は生じている(苦諦)。
苦を滅する原因(道諦=八正道)によって苦は滅することができる(滅諦)。
一切皆苦はブッダの教えの出発点だ。
ここにまず立たない者には、そもそも仏教が始まらないという意味で、ブッダの教えの事実上の核心でもある。
「苦諦」は仏教の入口というだけではありません。
「苦諦」さえ得れば、「集諦」「滅諦」「道諦」も必ず得ます。
ブッダが「苦が見える人は、当然苦が生じる原因が見え、当然苦の消滅が見え、当然苦の消滅に至る道が見える」と明言してるからです。
ブッダが一番に苦諦を説いたのにも深い意味があります。
次に集諦、その次に滅諦、最後に道諦という「順序を正しく記憶しなさい」と、ブッダはわざわざ注意してるからです。
世界のどんなよい法もすべて四聖諦のなかにふくまれてしまいます。
(象の足跡のたとえ)
ということは、
苦聖諦さえ得れば、世界のよい法をすべて得るということです。
おれは苦聖諦が仏教の正門であり、世界に比類のない尊い宝物だとおもってるので、今まで繰り返し繰り返し記事にした。いささかクドイかなと心配しつつも。
理解が広まった気配は……一向にない。明々白々の眼前の事実を、衆生自秘の分厚いベールが覆い隠してるからだ。大多数の人間は、苦を苦と知らず、苦を夢中でむさぼってる。
苦に夢中なら苦から解脱できるわけがない。
まあ、これ最初からわかってはいた。当のおれ自身が眼高手低で、欲にもてあそばれ、もがいてんだから…
自他を苦しめる渇愛の人生は、限りない喜悦と欲望を伴い、その苦しみ自体にヒリヒリするような幸せを感じる。
渇愛の人は、地獄に生まれても「地獄に生まれて良かったあ!」と歓喜する。
こんな人間、誰が救える?
ブッダだってキリストだってお手上げさ。
もし
無明=単なる無知
なら、事実を教えられたら是正もできる。
しかし
無明=渇愛(強く強く望むという心の働き)
なんだ。意識以前善悪以前のことで、事実を聞いて知ったくらいで、ほとんど誰もどうにもできん。
(ショーペンハウアーは適切にも、これを
ひたすらに生きんとする盲目の意志
と名付けた)
(ショーペンハウアー「幸福について」 橋本文夫訳)より引用させていただきます。
人間の幸福に対する二大敵手が苦痛と退屈である…
この二大敵手のどちらか一方から遠ざかることができればできるほど、それだけまた他方の敵手に近づいている…
困苦欠乏が苦痛を生じ、これに反して安全と余裕とが退屈を生ずる。
われわれの実際の現実生活は、煩悩に動かされるのでなければ、退屈で味気ないものである。さりとて煩悩に動かされれば、忽ち苦痛なものになる。
(引用終)
おれは、煩悩が苦痛をもたらすことを学んでからも、煩悩を愛することを止めることができない。
煩悩に動かされないでいると、すぐに苦痛より耐え難い退屈に苛まれるからだ。
苦痛と退屈の間を往復する人生。
(ショーペンハウアー「みずから考えること」心理学的覚え書 石井 正訳)より引用させていただきます。
強弱多少のちがいはあっても、わたしたちは、ひとしく、自分たちの営む業のすべてにおいて、終わりの近づくことをこいねがい、早くすませようとあせり、できあがるのを喜びます。
(引用終)
これは、落ちついてよくよく考えてみると、非常に奇妙な事実だ、とショーは指摘する。なぜなら人間は一方で
(同)
全般的な終局・いいかえるといっさいの終わりの終わりのみは、できるだけ、遠い未来に延ばすことを望みます。
(引用終)
ということがあるからだ。
生まれてからずっと、苦痛と退屈の二大敵手に小突き回されながら、いっさいの終わりの終わりである死に、なすすべもなく追いやられる人生の根本矛盾を、ショーは指し示してる。
苦痛と退屈の間を厭くことなく往復するのがけっこう楽しいのだ。
おれのような平凡な多くの人間は、苦である五蘊に夢中になってるのだ。つまり、四聖諦前半の曖昧な理解に始終してる体たらくなのだが、そのことに対する
明晰な自覚(サティ、マインドフルネス)
がない為に、苦諦が聖にならず、たんなる苦でしかない。集諦も聖にならず、たんなる苦の原因でしかない。苦しみと苦しみの原因の無限サイクルの中に留まってて、当然何も解決せず、……(ここで破れかぶれで居直る)解決しない状況に元気百倍、夢中で楽しむ「地獄最高!」次第に悪化し、確実に追い詰められてく。
実に恐るべき、無明のなせる業だ。
こんな人間は解脱できるわけがないと、ブッダは明言してる。
(相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻39頁64項)HP「ターン・プッタタート」ブッダの言葉による四聖諦・完全版『五蘊は知り尽さなければならないもの』より引用させていただきます。
比丘のみなさん。形に夢中になっている人は、その人は苦であるものに夢中になっているのと同じです。私は「苦であるものに夢中になっている人は、当然苦から解脱できない」と言います。
比丘のみなさん。受に夢中になっている人は、苦であるものに夢中になっているのと同じです。私は「苦であるものに夢中になっている人は、当然苦から解脱できない」と言います。
比丘のみなさん。想に夢中になっている人は、苦であるものに夢中になっているのと同じです。私は「苦であるものに夢中になっている人は、当然苦から解脱できない」と言います。
比丘のみなさん。すべての行に夢中になっている人は、苦であるものに夢中になっているのと同じです。私は「苦であるものに夢中になっている人は、当然苦から解脱できない」と言います。
比丘のみなさん。識に夢中になっている人は、苦であるものに夢中になっているのと同じです。私は「苦であるものに夢中になっている人は、その人は当然苦から解脱できない」と言います。
[引用終]
動物は苦を楽と錯感覚して、夢中で苦を欲しがる。
賢いつもりの人間もその点さしたる違いはない。苦に夢中の人が苦から解脱できるわけがないと。
全くもってごもっとも。だから世界中いつもどこもおぞましいことになってる。
形(色)・受・想・行・識を死ぬまで堂々巡りする、人間のこの愚行を根本的に解決するブッダの
色は無常なり。
無常なるは即ち苦なり。
苦なるは即ち我に非ず、
我に非ざるは亦我所に非ず。
是の如く観ずるを真実の正観と名づく。
是の如く受・想・行・識は無常なり。
無常なるは即ち苦なり。
苦なるは即ち我に非ず、我に非ざるは亦我所に非ず。
是の如く観ずるを真実の正観と名づく。
聖弟子、是の如く観ずれば色を厭ひ受・想・行・識を厭ふ。
厭うが故に
解脱すれば真実の智生じ、我が生
(雑阿含経1)
仏教の目的は滅苦。
滅苦のためには、四聖諦を完璧に知る必要がある。
四聖諦を完璧に知るためには、深い禅定を得る必要がある。
深い禅定を得るためには、ブッダお勧めのアーナーパーナサティ(入息出息気づき)瞑想がもっとも良いとおもう。
「出入息念経」(アーナーパーナッサティスッタ,中部118経)は、呼吸の観察だけで自動的に悟りまで達する可能性を持つゆえに、ブッダ一押しの教えだ。この真理中の真理、真理の王を自力で完璧に発見したのは古今東西ブッダ唯一人。ブッダ以前の教えは不完全だ。他のすべての者はブッダの教えを伝え知ることで、この偉大な真理の『存在に』初めて気づく。
100億円の宝くじに当選して100歳まで長生きするよりも、この教えを1回聴くほうが得だ、とおれはおもう。
1回でも聴いておけば、その人はいつかは実践し、いつかは成就する可能性をもつから。
昔、おれの近所に不倫してると周りから暗に非難されてる奥さんがいた。……そのうち一家は引っ越していった。
不倫が褒められたことじゃないのはわかりきってるが、他人の不倫にタガが外れた攻撃をする世間というものは子供のようだ。子供ならまだしも……自分達のことは棚に上げて……この世界は、古今東西隅々まで嘘とデタラメで満ち満ちてる。
唯ひとつ、四聖諦だけが真実だ。
リクライニングチェアに横たわり、タイマー30分にセット、
なぜ今を意識する必要があるのか。
実際にあるのは「今この瞬間」だけだからだ。
過去は今の記憶に過ぎず、未来は今の予想に過ぎない。
イ・マといってもマのときにイはない。
瞬間だけだ。
人は誰でも、この真実を理屈でわかるだけではだめで、実際に前後の妄想を裁断するためのトレーニングが必要だ。
30分のタイマーが鳴る。
そのまま続けてもう30分、あっという間に過ぎる。さらに30分。
ああ、今日は上手くいっている。
不倫を攻撃する世間への悲しみから、苦聖諦に入れたからだ。
※明晰な自覚(サティ、マインドフルネス)について
現存最古の仏典「八つの詩句」(スッタニパータ4章)「彼岸に至る道」(同5章)に繰り返し出てくるキーワードは「気をつけて」
これはサティのことだとおもう。
釈尊はここで
世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは、気をつけることである。
と教えてる。
これはヴィパッサナー実践だとおもう。
※サティ
「瞬間の現在(今・ここ)」に気づくこと。
※ヴィパッサナー実践
「瞬間の現在」に気づき続けること。
(My Favorite Songs)
「愛して愛して愛しちゃったのよ」
(過去記事統合編集再録)