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史記と酒池肉林|紂王と妲己の物語をやさしく解説

「酒池肉林って、結局どんな意味?」

「なぜ紂王と妲己の話として語られるの?」

「そもそも本当に史実なの?」

酒池肉林は、ぜいたくを極めた宴を表す有名な故事成語ですが、その背景には中国古代の王・紂王と妲己の物語、そして歴史書史記』の記述が関わっています。

しかし、今では「誇張された伝説では?」という見方もあり、知れば知るほど奥が深い言葉です。

この記事では、以下の内容をあつかっています。

5分でつかめるようにわかりやすく整理します。

酒池肉林とは?【意味を一文で説明】

酒池肉林とは、池のように酒が満ち、林のように肉が並ぶほど、酒やごちそうがあふれたぜいたくな宴会のたとえです。

酒池肉林の出典はどこ?

酒池肉林の出典は、中国の歴史書史記です。

史記』は、司馬遷(しばせん)という古代中国の歴史家が著した歴史書で、人物ごとに歴史を描く「紀伝体(きでんたい)」という形式で書かれています。

史記には、酒池肉林について次のような記述があります。

「酒を以て池とし、肉を懸けて林と為し、男女をしてはだか(にんべんに果)にして、其の間に相逐わしめ、長夜の飲を為す」

これを簡単に訳すと、

「酒で池を作り、木に肉をかけて林のようにし、男女を裸で追いかけさせ、それを見ながら夜通し酒を飲んだ」

という意味になります。

紂王とはどんな王だったのか?

紂王(ちゅうおう)は、中国の殷(いん)王朝の最後の王で、前11世紀ごろに即位し、30年以上にわたって国を治めました。

名は「受(じゅ)」、または「帝辛(ていしん)」とも呼ばれ、「紂」は死後につけられた呼び名(諡号)です。

史記』などによると、紂王は体力や知力にすぐれた有能な王だったとされています。

しかし、妲己(だっき)という女性を深く愛し、次第に酒池肉林のようなぜいたくな遊びに溺れるようになったと伝えられています。

その結果、家臣の忠告を聞かなくなり、民の心は離れていきました。

やがて周の武王に討たれ、王都・朝歌の鹿台(ろくだい)で自ら火に身を投じて命を落とします。

これにより殷王朝は滅び、いわゆる「殷周革命」が起こりました。

殷周革命で活躍した太公望について知りたい方は、こちらの記事もご覧ください。

kiboriguma.hatenadiary.jp

後の時代には、紂王は夏の桀王(けつおう)と並ぶ「暴君」の代表として語られるようになります。

ただし、王朝の最後の王が悪く描かれやすいのはよくあることで、必ずしもすべてが史実とは言い切れません。

実際、甲骨文字の記録を見ると、帝辛(紂王)は能力の高い君主だったことも伝えられており、酒池肉林のイメージだけで単純に評価できない人物だと考えられています。

紂王や妲己など殷周革命をテーマとした漫画に「封神演義」があります。


 

暴君・紂王に取り憑く妖艶な妲己――。

神と人の運命が交錯する**封神演義**は、歴史×バトル×哲学が融合した名作です。

善悪の境界が揺らぐ物語を、今こそ体感してみませんか?

妲己とはどんな人物?

妲己は、中国の殷の王・紂王が深く寵愛した寵姫(ちょうき)として知られる人物です。

伝説では、紂王は妲己を溺愛するあまり、彼女の言葉を何でも受け入れるようになり、その結果、政治は乱れ、圧政が強まったとされます。

酒池肉林のような贅沢にふけり、反対する者には酷刑を科すなど、残虐さが目立つようになったとも伝わります。

そして周の武王が紂王を討った際、妲己もまた殺されたといわれます。

後世では「亡国の悪女」の代表格として語られることが多く、王朝滅亡の象徴的存在として名高い人物です。

妲己についてはもう一つ、別の物語があります。

それが、妲己は人間ではなく、九尾の狐の妖怪が化けた姿だったという伝説です。

後世の物語、特に封神演義では、九尾の狐は殷王朝を終わらせる天命を受け、妲己の姿となって紂王に近づいたと描かれます。

妖しい美しさで王の心を支配し、暴政を加速させたのは、個人の欲望ではなく王朝交代を導くための役割だった――。

妲己は本当に悪女だったのか、それとも滅びの運命を背負わされた存在だったのか。

物語は、読む者に静かな問いを投げかけます。

酒池肉林が故事成語として残った理由

酒池肉林が故事成語として今も使われるのは、単なるぜいたくの描写にとどまらず、国が傾く過程や為政者への戒めを、短い言葉で強く伝えられるからです。

ここでは、残り続けた理由を整理します。

  • 情景が極端で、ひとことでもイメージが湧きやすい
  • 為政者の堕落と民の苦しみの対比が伝わりやすい
  • 国が滅びる教訓として語り継ぎやすかった

酒で満たした池と肉を林のようにつるすという誇張された光景は、聞いた瞬間に「度を越した浪費」を想像させます。

強い映像が頭に残るため、言葉として定着しやすかったのです。

この逸話は支配者の享楽と民の困窮を対比させる材料になります。

ぜいたくに溺れるほど政治がゆがみ、反対者への弾圧や重い負担が広がっていく流れを、短い言葉で説明できます。

さらに、酒池肉林は「奢りは身を滅ぼす」「統治者は節度を失うと支持を失う」といった教訓と結びつき、教育や説話の場で繰り返し用いられてきました。

その結果、豪華な宴会をあらわす語として、今も生き残っているのです。

レアアースは何に使う?中国依存の裏で、日本・南鳥島に眠る“切り札”とは

レアアースって何?」

「日本にはあるの?」

「どうしてニュースで“中国”がよく出てくるの?」

スマホやゲームにも関係あるって本当?」

そんな疑問を持っている人も多いはずです。

この記事では、レアアースの基本から、使いみち、中国との関係、日本の南鳥島に眠る“宝の正体”まで、ぜんぶわかりやすく解説します。

読み終えるころには、レアアースがあなたの身のまわりを支える“未来の金属”だと実感できるはずです。

それではまず、「レアアースとは何か」から見ていきましょう。

レアアースとは?

レアアースとは、レアメタル希少金属)の一部で、次のような特徴をもつ17種類の希少な元素の総称です。

  • 電気自動車(EV)のモーターに使われる
  • スマホやパソコンなどのハイテク製品に欠かせない
  • 磁石・液晶・蓄電池など、さまざまな最先端技術に利用される

ところが、レアアースには次のような問題があります。

  • とれる国が少ない(中国・オーストラリアなど一部に集中)
  • 需給が不安定になりやすい
  • 国際問題の場面で輸出制限が“圧力”として使われることがある

実際に中国は、アメリカへの対抗措置としてレアアースの輸出を制限したり、尖閣諸島の問題が起きた際に日本への輸出を止めたこともあります。

このように、レアアース現代の技術を支える重要な資源でありながら、国際政治にも大きな影響を与える存在なのです。

レアアースについてもっと深く知りたい方には、
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レアアースは何に使うの?

レアアースは「現代の便利な生活」を支える、とても重要な材料です。

身のまわりの多くの製品に使われており、私たちの日常にも深く関わっています。

主な用途は次のとおりです。

このようにレアアースは、エネルギー・医療・環境など、未来の技術に欠かせない“縁の下の力もち”なのです。

なぜ中国が注目されるの?

レアアースの話をすると、必ず名前が出てくる国があります。それが中国です。

出典:『通商白書2025』

なぜなら、レアアースは「掘るだけ」では使えず、複雑な工程で精錬・加工しないといけないのですが、その精錬・加工の約90%を中国が担っているからです。

そのため、中国がレアアースの輸出を止めてしまうと、次のようなことが起こりかねません。

  • スマホやパソコン、電気自動車(EV)などの生産が止まる
  • 世界中の工場が混乱し、製品の価格が上がる

実際に中国は、政治的な理由からレアアースの輸出を制限し、各国が大きな影響を受けたことがあります。

このことからわかる大事なポイントは、「大事な資源を1つの国に頼りすぎると危険」だということです。

そのため日本をふくむ世界の国々は、レアアースの輸入先を増やしたり、リサイクルや代わりの素材を研究したりして、中国への依存を減らそうとしています。

日本はどうしているの?レアアース確保の工夫

中国にレアアースの精錬・加工が集中しているため、日本も過去に輸出制限の影響を大きく受けました。

その経験から、日本は「いざという時に困らないようにレアアースを安定して確保する」ためのさまざまな対策を進めています。

  • 輸入先を多様化:オーストラリアやインド、ベトナムなど、複数の国からレアアースを輸入してリスクを分散。
  • 南鳥島の海底資源の開発:日本の排他的経済水域EEZ)内にある南鳥島周辺の海底には、世界有数のレアアース泥が眠っているとされ研究が進められている。
  • リサイクル技術の開発:使い終わった家電やEVからレアアースを取り出して再利用する技術を向上させている。
  • 備蓄量の拡大:輸出停止や価格高騰にそなえ、レアアースの国家備蓄を増やして安定供給を確保。

このように日本は、輸入先を増やし、資源を自国で生み出し、再利用し、さらに備蓄を行うことで、レアアース不足に備えています。

未来の産業を支えるための「安全策」を着実に進めていると言えるでしょう。

まとめ

レアアースは、スマホやEV、医療機器、再エネ技術など、私たちの生活を支える重要な素材です。

しかし、その精錬の多くを中国に頼っているため、供給が不安定になりやすいという課題があります。

日本は輸入先の多様化や南鳥島での開発調査、リサイクル技術の向上、備蓄の強化など、安定供給に向けてさまざまな対策を進めています。

レアアースをめぐる状況を知ることで、資源のあり方や国際情勢への理解がより深まります。

なぜ今も学ぶの? 啓蒙思想とロック・ルソー・モンテスキューが現代に残したもの

「なぜ国王の言うことが“絶対”ではなくなったのか?」

「自由や民主主義はどこから生まれたのか?」

その答えは、ロック・モンテスキュー・ルソーが活躍した“啓蒙思想”にあります。

彼らが迷信や圧政に立ち向かい、人々の自由を取り戻そうとした思想は、現代社会の土台にもつながっています。

啓蒙思想とは

啓蒙思想とは、「人間は理性を使えば社会をよりよくできる」という考えにもとづき、迷信や不合理な権力から人々を解放しようとした思想です。

当時のヨーロッパでは、国王が強い権力をにぎる絶対王政が続き、多くの人が自由を制限されていました。

だからこそ、ロック・モンテスキュー・ルソーなどの啓蒙思想家は、自由や権利を守る社会が必要だと主張したのです。

その結果生まれた考え方は、現代の人権や民主政治の基礎にもつながっています。

3人の啓蒙思想家の比較表

ロック・モンテスキュー・ルソーの3人は、啓蒙思想を理解するうえで欠かせない代表的な思想家です。

ここでは、それぞれの違いを表で整理してみましょう。

思想家名 国名 主な著書 思想の内容
ロック イギリス 『統治二論』 人は自然権を持つ
社会契約説を主張
人民は抵抗権があると主張
モンテスキュー フランス 法の精神 「立法・行政・司法」の三権分立を提唱
ルソー フランス 『社会契約論』 人民主権を主張
国民全体の共通の利益を表す「一般意志」にもとづいて政治を行うべきだとした
直接民主制を理想とした。

3人に共通しているのは、「権力は国民の自由や権利を守るためにあるべきだ」という考え方です。

一方で、ロックは自然権と政府への抵抗権、モンテスキューは権力の分立、ルソーは人民主権と一般意志といったように、強調するポイントはそれぞれ異なります。

これらの思想が組み合わさることで、現代の民主政治や人権尊重の考え方が形づくられていきました。

ロック:近代的な権利の出発点

ロックはイギリスの思想家で、今の「人権」という考え方の土台をつくった人物として有名です。

彼は、人は生まれたときから「生命・自由・財産」といった大切な権利(自然権)を持っており、それは誰にも奪われないものだと考えました。

しかし、こうした権利を一人ひとりが自力で守るのは難しいため、人々は話し合い、互いに契約を結んで政府をつくるべきだとロックは主張します。

これが社会契約説です。

政治の力(統治権)は、国民が政府に一時的に預けているもので、元々は国民のものだとロックは考えました。

さらに、もし政府が権利を奪ったり不正な支配をしたりした場合、国民は力を使って抵抗してもよい、という「抵抗権」も重要だと述べています。

ロックの考えは、アメリカ独立宣言など、後の国づくりにも大きな影響を与えました。

モンテスキュー:権力を分ければ自由が守られる

モンテスキューはフランス出身の思想家で、国王に権力が集中する絶対王政を強く批判した人物です。

彼は、「権力が一つの場所に集まると、必ず乱用され、国民の自由が失われてしまう」と考えました。

そこでモンテスキューが提案したのが「三権分立」という仕組みです。

これは、政治の力を3つに分けて、お互いに監視し合うことで権力の暴走を防ぐ仕組みです。

3つの権力を別々の機関に担当させてバランスをとることで、国民の自由と権利を守ろうとしたのがモンテスキューの考え方です。

現代の多くの国の政治制度に大きな影響を与えています。

ルソー:主役は国民自身

ルソーはフランス出身の思想家で、「政治の中心にいるのは国民である」という考えを強く主張しました。

彼は、国を動かす力は国王でも貴族でもなく、人々全員が持っていると考え、この考え方を「人民主権」と呼びました。

さらにルソーは、国民が直接政治に参加し、自分たちの意思で物事を決める「直接民主制」を理想としました。

つまり、政治の権利(統治権)は国民自身にあり、政府はその意志を実行する存在にすぎないという立場です。

ルソーの考え方は、のちのフランス革命や近代民主政治の成立に大きな影響を与え、「国民が主人公の政治」という現代の考え方の源流となりました。

練習問題

問1 モンテスキューの著書は?

⇒『法の精神』

問2 自然権を主張したのは誰?

⇒ロック

問3 ロックの考えが強く影響したのはどの国の憲法ですか?その際に憲法に盛り込まれた権利は?

アメリカ合衆国憲法、抵抗権

問4 モンテスキューの主張した三権をそれぞれ答えよ

⇒行政(権)、司法(権)、立法(権)

問5 政治の権利は国民自身にあり、政府はそれを代行する損時にすぎないと主張したのは誰ですか?

⇒ルソー

まとめ

啓蒙思想は、ロック・モンテスキュー・ルソーが、国王の勝手な政治をやめさせ、人々の自由を守ろうとして生まれた考え方です。

自然権三権分立人民主権など、それぞれ主張はちがいますが、「政治は国民のためにあるべきだ」という点で共通しています。

これらの考えは、今の民主主義の土台になりました。

 

 

「関税自主権」って何?小村寿太郎は何を成し遂げた?日本が取り戻すまでの長い戦いとは

海外から入るモノにかかる「関税」。

もしそのルールを自分の国で決められなかったら…?

日本の歴史に隠れた関税自主権の重要さを、分かりやすくお伝えします。

関税自主権とは何か

関税自主権とは、自分の国に入ってくる外国の商品にどれだけ関税をかけるかを、自国で決めることができる権利です。

これは主権国家として当然持つべき重要な権利ですが、明治時代の日本は日米修好通商条約によって関税を自由に決められない不平等条約を結ばされていました。

主権国家
領土・国民・政治を自国の判断で独立して運営できる国家

そのため、外国の影響を強く受け、独自の経済政策がとれない状況が続いていたのです。

関税自主権がないと困ること

海外との貿易で関税を自分の国で決められないと、実はさまざまな不利益が生まれます。明治時代の日本もこの問題に長く苦しみました。では、どのような点で困るのでしょうか。

  • 自国産業を守れない
  • 国の税収を増やせない

自国産業を守れないという点です。関税を自由に決められないと、外国の安い商品が大量に流れ込み、国内の会社や産業が大きな打撃を受けてしまいます。

関税は国の大切な収入源ですが、税率を自由に設定できないと、国が必要とする財源を十分に確保できません。

産業を守れず税収も増やせないため、外国の行動に左右されやすくなり、主権国家として対等な外交ができなくなるのです。

アメリカのトランプ大統領は、自国産業を守るため、また関税による税収増を狙う意図を持っている可能性があります。

イギリスが関税自主権の改正に応じなかった理由

明治時代、日本が関税自主権の回復を求めても、イギリスはなかなか応じませんでした。その背景には、当時の国際情勢と経済的利益が大きく関わっていました。

  • 日本市場での利益を維持したかった
  • 日本の法制度に不安を感じていた
  • 列強としての優位性を守りたかった

イギリスは急速に発展する日本市場で、自国の商品を有利に売り続けたいと考えていました。もし関税を日本が自由に決められるようになると、イギリス製品が高い関税をかけられ、販売が不利になる可能性があります。

日本の法制度や裁判制度がまだ十分に整っていないことへの不安もありました。さらに、当時の列強はアジアでの影響力を強く保つことを重視しており、日本に対しても自分たちの優位な立場を維持しようとしていたのです。

関税自主権を回復した外務大臣

関税自主権を回復したのは、明治時代の外務大臣小村寿太郎です。小村は「ネズミ公使」というあだ名がつけられた人物で、小柄な容姿でした。

しかし、高い外交能力を持つ外交官で、各国との交渉に粘り強く取り組み、日本の国際的な立場を向上させることに力を尽くしました。

1911年、小村は日英通商航海条約の改正に成功し、日本が自分で関税を決められる権利を取り戻します。この成果によって不平等条約の最後の問題が解決され、日本はようやく条約改正を完全に成し遂げ、主権国家として対等な立場に立てるようになったのです。

まとめ

関税自主権は、国が自分で関税を決める大切な権利です。これを失うと産業や税収で不利になり、外交面でも対等にふるまえませんでした。

日本はイギリスなどの反対に苦しみましたが、小村寿太郎の努力により関税自主権を回復し、不平等条約を解消して主権国家としての立場を取り戻したのです。

流れでわかる日中関係の歴史全まとめ|やさしく学び直し入門

日本と中国の外交史まとめ

日本と中国は、古代の学び合いから激しい戦い、そして国交回復へと、まるで波のように近づいたり離れたりしてきました。なぜ日本は中国へ使者を送り、なぜ交流が途絶え、どのように再び手を結んだのでしょうか。

歴史をたどると、文化、貿易、戦争、外交…そのすべてが今の日中関係を形づくっていることが見えてきます。

このまとめでは、各時代のポイントを図や解説とともにわかりやすく紹介します。続きを読んで、日中の長い歴史の「流れ」をつかんでみましょう。

① 古代:中国からたくさん学んだ時代

古代の日本は、中国から多くの文化や技術を学びました。特に古墳時代から奈良時代にかけて、さまざまな制度や宗教が日本へ取り入れられていきます。

ポイント:遣隋使・遣唐使で中国へ文化を学びに行った。
  • 渡来人による文化・技術の伝来
  • 遣隋使・遣唐使の派遣
  • 中国文化の受容と日本文化の発展(飛鳥文化・天平文化

古墳時代には、渡来人が日本へ渡ってきて、漢字や仏教、鉄器づくりなどの新しい技術を伝えました。こうした人々の働きにより、日本には中国や朝鮮半島の先進的な文化が広まっていきます。

さらに日本は、中国の進んだ制度や文化を学ぶために、遣隋使や遣唐使を派遣しました。これにより、仏教や律令制度、建築様式など多くの知識が日本にもたらされました。

当時の中国は東アジアの文明の中心であり、日本はその影響を強く受けながら社会を発展させていきました。

▶ 中国文化を積極的に受け入れ日本を発展させた


② 中世:交流がいったん減る時代

遣唐使の中止により国どうしの交流はいったん減りましたが、日本では独自の文化が育ち、中国との貿易も形を変えて続いていきます。

ポイント:遣唐使の中止で、国家どうしの交流はいったん減った。

894年に遣唐使が廃止されると、日本は中国からの文化をそのまま受け入れるのではなく、日本らしい特色をもつ国風文化が盛んになります。

国際交流は国家レベルでは減少しましたが、中国とのつながりが完全に途絶えたわけではありません。平安時代末には、武士である平清盛が中心となって日宋貿易を行い、宋の先進的な文化や物品が日本にもたらされました。

このように、中世の日本は外交が制限されながらも、独自の文化の発展と民間を通じた交流が続いていました。

▶ 国風文化の発展と民間中心の交流


室町時代日明貿易勘合貿易)がさかんに

鎌倉時代には元の侵攻を受け、室町時代には明と正式な貿易が始まりました。戦いと交流の両面が見られる時代です。

ポイント:戦争と貿易の2つが見られた

鎌倉時代には、東アジアを支配していた元が日本に服属を求め、日本がこれを断ったことから、1274年と1281年の二度にわたって元寇が起こりました。日本はこれを退けましたが、大きな被害を受ける戦いとなりました。

さらに、元寇後の混乱や国際情勢の変化の中で、海域では倭寇と呼ばれる武装した集団の活動が活発になり、中国や朝鮮との往来に影響を与えました。

その後、室町幕府が成立すると、日本は中国の明と正式な関係を結び、勘合符という札を使って正規の貿易船を確認する勘合貿易日明貿易を行います。この貿易では、日本から刀や硫黄が送られ、明からは銅銭や書物がもたらされました。

▶ 戦いと貿易の並存


④ 江戸時代:鎖国でも中国とはつながっていた

江戸時代は鎖国をしていましたが、中国との貿易は続き、学問や文化の発展に重要な役割を果たしました。


鎖国の中でも長崎では中国船が出入りしていた。
  • 日本は鎖国したが、長崎では中国(清)との貿易を続けた。
  • 中国からは、多くの漢籍(中国の書物)が入り、日本の学問に大きな影響。
  • 唐人屋敷を拠点とした交易活動。

江戸時代の日本は鎖国政策をとり、外国との交流を厳しく制限していました。しかし、完全に外国と関係を断ったわけではなく、中国(清)とのつながりは民間レベルで続いていました。

当時、日本は清との正式な国交を結んでいませんでしたが、清の商人を乗せた民間船が長崎に来航し、商品を売買していました。これらの交易活動は、出島ではなく唐人屋敷(とうじんやしき)と呼ばれる専用の居留地を拠点として行われていました。

こうした貿易を通じて中国の漢籍や学問が日本に広まり、儒教をはじめとした思想が政治や文化の形成に大きく影響しました。

鎖国中は正式な国交はなく、民間主導のつながり。


⑤ 近代:戦争と対立の時代

近代の日中関係は、戦争や勢力争いが続きました。日本は中国への影響力を強めようとし、多くの対立が生まれました。

19世紀末、朝鮮半島での影響力をめぐって日本と清が対立し、日清戦争が起こりました。日本は勝利して台湾などを得て、中国への進出を強めていきます。

さらに1915年には、日本が第一次世界大戦の混乱を利用して中国に対し二十一カ条の要求を突きつけました。これは中国に日本の権益を大きく認めさせる内容で、中国国内で強い反発を招き、日中関係をさらに悪化させました。

その後、1937年からは日中戦争が本格化し、両国に大きな犠牲をもたらしました。

▶ 近代の日中関係は、戦争と植民地支配で大きく悪化した時期。


⑥ 戦後〜1972年:国交がなかった時代

第二次世界大戦後、日本と中国の国交は断たれ、長いあいだ正式な外交がありませんでした。両国の距離は広がったままでした。

第二次世界大戦が終わると、日本と中国の正式な国交は断たれました。中国では内戦の結果、1949年に中華人民共和国が成立しますが、日本はこの新しい政府をすぐには承認しませんでした。

さらに、アメリカとソ連が対立する冷戦体制の中で、日本はアメリカ側、中国は社会主義側に立つことになり、両国の関係は遠いものとなりました。このように、戦後から1972年までのあいだは、国どうしの交流がほとんどない状態が続きました。 

▶ 戦争の結果、しばらくの間、国どうしの正式な付き合いは途絶えた。


⑦ 1972年:日中国交正常化

1972年、日本と中国は正式に国交を回復しました。さらに1978年には平和友好条約が結ばれ、両国の協力関係が強まりました。
  • 1972年、日本の田中角栄首相が中国を訪問。
  • 日本と中国は、正式に国どうしの関係を結ぶ日中共同声明を発表。
  • 1978年日中平和友好条約を締結。

1972年、日本の田中角栄首相が中国を訪問し、両国は「日中共同声明」を発表して国交を正常化しました。この声明では、互いの主権を尊重し、平和的な関係を築くことが確認され、戦後の日中関係が大きく前進しました。

その後、1978年には日本と中国が「日中平和友好条約」を結び、平和維持や互いの内政不干渉、平等互恵の精神に基づく協力関係をさらに強めました。

▶ 年代と首相の名前は、特にテストで出やすいポイント。


★ まとめ(テストに出やすいポイント)


📚 学び直しにおすすめの一冊

大人が読んでも面白く、歴史の流れが自然に頭へ入ってきます。
最新の動向もしっかり反映されているので、学生だけでなく
「もう一度日本史を学び直したい」という人にも最適です。


 

✏ 練習問題

日本から唐に送られた使いを何と言いますか?

遣唐使

室町時代日明貿易で使われた証明書を何と言いますか?

⇒勘合(勘合符)

日清戦争の結果、日本がえた地域はどこですか?

⇒台湾と澎湖諸島

日本と中国が国交を正常化したのは何年ですか?また、そのときの日本の首相は誰ですか?

⇒1972年、田中角栄

陰陽師・安倍晴明も登場!?意外とドラマチックな『花山院の出家』をわかりやすく紹介

出家

花山院の出家ってどんな話?」

花山院の出家の登場人物は誰?」

陰陽師安倍晴明式神の話が書かれているって本当?」

 

「花山院の出家」は歴史物語の大鏡』に収録されている物語の一つです。

時の右大臣である藤原兼家が息子の一人である「粟田殿(藤原道兼」を動かして、花山天皇をだまして出家させるお話です。

 

この当時、出家してしまえば政治的な力は失われ、「世俗」と切り離された存在になると考えられていました。

そのため、花山天皇も出家後は「花山院」とよばれるようになり、政治の表舞台から退場します。

 

そして、非常事態が発生した時、陰陽師安倍晴明式神から花山天皇が出家したと知らされます。

さりげなく、安倍晴明式神の話が語られるのも面白いお話です。

 

高校時代に習っていた時は、品詞分解やら敬語やらで非常に煩雑に感じましが、受験を離れて物語としてみてみると、なかなかに面白いエピソードだと思います。

 

今回は、「花山院の出家」について、元予備校講師がわかりやすく解説します。

 

なお、平安時代に興味がある方はこちらの記事もどうぞ

 

kiboriguma.hatenadiary.jp

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大鏡』とは

大鏡』とは、平安時代後期を描いた作者未詳の歴史物語。

文徳天皇から後一条天皇までの14代176年の歴史を扱います。

主人公は藤原道長ですが、道長以外のことについてもかなり書かれていますよ。

 

『今鏡』『水鏡』『増鏡』とあわせて四鏡とよばれましたが、『大鏡』は類まれな歴史観によって高く評価されている作品です。

 

大鏡』では、登場人物の人物像についても描かれており、「花山院の出家」でも出家に迷い揺れ動く花山天皇の胸の内や、なんとしても父の命令である出家を成功させるべく、弁舌の限りを尽くす粟田殿(藤原道兼の様子が生々しく描かれています。

他の『大鏡』のエピソードが知りたい方はこちらの記事もどうぞ!

kiboriguma.hatenadiary.jp

「花山院の出家」の登場人物

物語を読むうえで、一番大事なのは、「誰」が出ているかという登場人物の把握です。

特に、古典の文章では主語が省略されていることが珍しくないので、登場人物をしっかり把握しておかないと、頭がこんがらかってしまいます。

花山天皇(花山院)

冷泉天皇の第一皇子で三条天皇の異母兄。

円融天皇の即位と共に皇太子に建てられ、984年に天皇の位につきました。

この時、花山天皇は17歳。

義父である藤原伊尹は既に死去していたため、有力な外戚がいない状態での即位でした。

 

花山天皇は積極的に政治に取り組み、荘園整理令などの改革を行ったため、関白の藤原頼忠との確執を招きました。

 

985年、花山天皇が深く寵愛していた藤原忯子が17歳で死去。

忯子の死を深く悲しんだ花山天皇は出家をして菩提を弔いたいと言い出します。

関白や側近たちは花山天皇の出家を思いとどまらせようとしていました。

藤原兼家

藤原兼家は「粟田殿」の父親で当時、右大臣の地位にいました。

かねてから自分の娘である詮子の子である懐仁親王(のちの一条天皇)の即位を実現するため、花山天皇の早急な退位を画策します。

ちなみに、一条天皇の后となるのが彼の孫にあたる定子彰子で、定子の側近が清少納言、彰子の側近が紫式部です。

 

清少納言に関する記事はこちらです! 

kiboriguma.hatenadiary.jp

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この兼家こそ、「花山院の出家」の筋書きを描き、だましうちのようにして花山天皇を出家させた張本人でした。

粟田殿は父である兼家の意を受け、花山天皇の出家を一生懸命促します。 

藤原道兼(粟田殿) 

兼家の次男で、この時は天皇の秘書の一人である蔵人として側近に仕えていました。

父の兼家は花山天皇の情緒的な性格を利用して彼を退位させようと画策し、道兼に出家を説得させます。

 

出家することをためらう花山天皇を強引に説得し、寺まで連れて行ったうえで出家を見届けた道兼は、「出家前に父親に最後の姿を見せてくる」といって、寺から立ち去りました。

花山天皇は道兼に騙されていたと気づきますが後の祭りです。

ここから、道兼の狡猾な人物像を見て取ることができます。

最初は、天皇と共に出家するといっておきながら、最後の瞬間に見事な手のひら返しを見せたといってよいでしょう。

安倍晴明 

平安時代陰陽師

映画の主人公になったことでも知られていますね。

天皇が寺に行く際、清明の屋敷の前を通りました。

すると、清明式神を動かし、天皇出家に対応する指示を大声で出します。

清明の超人的な力を垣間見ることができるエピソードですね。 

花山院の出家のあらすじ

花山院、月夜に宮中を出る 

悲しみに暮れる花山院に対し、粟田殿は「自分も一緒に出家をするので、出家して愛する人の菩提を弔いましょう」と花山天皇を説得します。

情緒的な花山天皇は粟田殿の説得にのり、出家する決意を固めました。

 

粟田殿は皇位の証である三種の神器を皇太子に渡して、譲位を既成事実化しようとはかります。

 

明るい有明の月を見て、「(自分がひそかに宮中を出ようとしているのに)丸見えだな」と花山天皇が躊躇すると、粟田殿は「だからといって出家を取りやめるわけにもいきません。

三種の神器も皇太子に渡してしまったのですから」と花山天皇を急き立てます。

 

天皇は、弘徽殿の女御からもらった手紙のことを思い出し「少し待て」といって、部屋に戻ったりしたものだから、粟田殿は気が気でなかったことでしょう。

だから、「いまを逃した出家に触りが出る」などとウソ泣きして花山天皇をせかしました。

花山院の出家に安倍晴明が気づく

粟田殿は花山天皇を連れて清明の屋敷がある土御門大路に差し掛かりました。

すると、中から清明の声がして、「帝が退位されるという異変があった。すでに、ことは成ったようだ。宮中に参上して帝にお話し申し上げよう。車の用意をせよ」などと話しています。

 

清明式神を先に内裏に派遣しようとすると、式神が「ただいま、ここを通り過ぎて笈気になるようです」と清明に報告しました。

 

小説や映画などで清明の活躍を目にすることはあるかもしれませんが、古典の原文に登場すると、また違った趣がありますね。 

 

花山院は出家。しかし、粟田殿は出家せず 

花山寺に到着すると、花山天皇は剃髪して出家なさいました。

すると、寄り添ってきた粟田殿は「私は、いったん退出して父に今の姿をしっかりと見せ、報告したうえで戻ります」などといいだしました。

 

この瞬間、花山天皇(出家してしまったので、花山院になりますが)は粟田殿に謀られたことに気づきました

「さては私をだましたのだな」と花山院はお泣きになったといいます。

 

策謀を仕掛けた張本人である兼家は、花山天皇の出家に息子である粟田殿(道兼)が巻き込まれやしないかと警戒し、警固の武士までつけていたといいます。

つくづく用心深いことですね。

 

当時の常識では、いったん出家した人物が俗世に帰る(還俗)ことはとても難しいことでした。

出家=政界引退となるのが常識だったのです。

 

100年後であれば、白河上皇のように出家してからでも政治を行う人物が現れますが、この当時にはありえないことでした。

 

花山院の出家のような古典は、文脈の読み取りや主語判別が難しく、独学だとつまずきがちです。

読解の基礎をしっかり身につけたい人には、プロ講師が“講義形式”で解説してくれるこの1冊がとても役立ちます。

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さいごに 

一条天皇を即位させることに成功した藤原兼家は、権勢を極めました。

兼家の子が藤原道長です。

もし、花山院の出家がなければ、道長の政権掌握はもっと後になったかもしれませんね。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

【地理の定番テーマ】山梨県はなぜブドウ王国なのか 甲府盆地と扇状地が生む最適な果樹環境

山梨県は日本有数の果樹王国で、とくにブドウの生産量は全国一位を誇っています。

なぜ山梨県にこれほどブドウ畑が広がるのでしょうか。

その背景には、甲府盆地扇状地を中心とした独特の地形と、 昼夜の寒暖差、長い日照時間など、果樹栽培に理想的な自然条件がそろっていることがあります。

本記事では、その理由を地理の観点から整理して解説します。

1.山梨県のブドウ生産量は全国一位

2024年の統計でも、山梨県はブドウ生産量で日本一を維持しています。

とくに巨峰やシャインマスカットの生産が多く、国内市場を大きく支える存在となっています。

都道府県別ブドウ生産

順位 県名 特徴
1位 山梨県 甲府盆地扇状地と気候条件が最適です
2位 長野県 高冷地の気候が適しています
3位 岡山県 マスカット生産で有名

地理の入試では、このような生産量の順位や地域ごとの特徴が問われることが多いです。

2.扇状地がブドウ栽培に最適な理由

山梨県のブドウ畑が集中しているのは、甲府盆地周囲の扇状地です。

扇状地の特徴(入試に必須)

  • 水はけが非常によい土地
  • 粗粒の砂礫が厚く堆積
  • 地下水位が低く、根腐れしにくい
  • 河川が盆地に流れ出す地点で形成
  • 果樹園が多く立地する土地利用

ブドウは水はけがよい土壌を好むため、水はけが悪い土地よりも扇状地のように水が抜けやすい環境が非常に適しています。

3.甲府盆地の気候条件も最適

扇状地とあわせて、甲府盆地の気候もブドウ栽培に向いています。

甲府盆地の気候要因

  • 日照時間が全国トップクラス
  • 昼夜の寒暖差が大きく、糖度が上がりやすい
  • 夏の日射が強く、光合成が盛んになります

このような気候条件が、山梨県を果樹王国へ押し上げた理由になっています。

4.山梨を代表する品種 甲州ブドウ

甲州ブドウは日本固有の古い品種で、山梨県を象徴するブドウとして知られています。

甲州ブドウの特徴

  • 日本古来の品種
  • 皮が厚く、上品な甘みがある
  • 山梨の気候風土に非常に適応

甲州ブドウは、山梨の地理条件と栽培技術の積み重ねによって高品質を保ってきました。

5.地形図の読み取りで押さえるべき点

地理の入試では、甲府盆地周辺の地形図が出題されることがよくあります。

地形図で扇状地を見抜くポイント

  • 等高線が広がるようにゆるやか
  • 標高差は小さいものの緩やかに下る
  • 果樹園の記号が多く見られる

扇状地の判読は、入試で高得点につながる重要なポイントです。

6.山梨の恵みを味わえるぶどうジュースの紹介

地理学習において、地域の特産品に触れることは理解を深める良いきっかけになります。

山梨産のぶどうジュースは、果樹園の恵みをそのまま味わえる商品です。

アルコールを含まないため、誰でも安心して楽しめます。

山梨県のブドウが育つ環境を学んだ後に、その味を体験するのも学習の一つの方法です。

山梨産ぶどうジュースは、濃厚な味わいで人気があります。

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7.まとめ

山梨県がブドウ生産量全国一位を誇る理由は次の通りです。

  • 甲府盆地に広がる水はけの良い扇状地があること
  • 昼夜の寒暖差が大きく、糖度が高まりやすいこと
  • 日照時間が長く、降水量が少ないこと
  • 甲州ブドウを中心とした伝統的な栽培文化があること
  • 統計データでもブドウ生産量日本一が確認できること
  • 地形図でも扇状地と果樹園分布を読み取れること

これらの条件がそろう地域は日本でも珍しく、山梨県がブドウ王国と呼ばれる理由を地理的に理解することができます。

自然条件、地形、気候、栽培技術、統計を組み合わせて考えることで、入試対策にも大いに役立ちます。

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