ドラゴンボールを観ていて感じた、構造的な「いい加減さ」と、それでも面白いという矛盾
最近、ドラゴンボールにキャッチアップしている。
「ドラゴンボール無印」から「改(=Z)」を通して、現在は「GT」の中盤あたりまで視聴している。
GTの途中まで観て思ったこと
正直、GTに入ってからは少し視聴がしんどくなってきている。理由は明確で、敵キャラが雑、テンポが悪い、そして緊張感がない。
特に序盤は、悟空が子供になってしまったことに象徴されるように、世界全体が“リセット”されたような雰囲気がある。しかし、改(Z)の悟空の圧巻の活躍を観た後なので、「どうせ勝つだろう」という読後感が強く、シンプルに見応えが薄い。
そもそも、Zの続編でより強敵が出てくることを期待したが、蓋を開けるとどこかの星で野良ボスと小競り合いが延々続いて退屈になってしまっている。
構造的に感じた“キャラの脱落”と“入れ替え”の文化
ドラゴンボールという作品を長期で追っていて強く感じるのは、キャラがとにかく脱落していく構造 だ。
初期の仲間だったヤムチャ、天津飯、餃子、ランチ…彼らの多くはZ中盤には戦力外、GTではもはや存在すらカットされている。
だが、これは“雑な作劇”と断じるには惜しいものがある。
むしろ、「必要なキャラだけをサバッと残し、余剰なキャラを切り捨てる」ことで、物語のスピード感を保っているようにも見える。
NARUTOやONE PIECEのように、キャラの物語を長く引き伸ばし、因縁や歴史を積み重ねていく構造とは対照的に、ドラゴンボールは**「今必要なキャラが最高に活躍する場面を作る」ことにのみ集中している**。
逆に人造人間18号など、明らかな人気キャラはクリリンと結婚させることで生かしたりするのは、現実的には「そんなわけねえだろ」と思う展開で、ご都合主義に振り切ってる感がある。
つまり プロットの緻密さは皆無なのに、「まあ面白いのでいっか」という気持ちにさせられる。
死生観の崩壊とご都合主義の極地
悟空が死ぬ、ピッコロが死ぬ、ヤムチャが死ぬ…
ドラゴンボールではキャラの死がほとんど「イベント」でしかない。
死んでも魂が普通に会話してくるし、界王様のところで修行してたり、電話みたいに連絡が取れる。
「死=無」ではないどころか、もはや**「死=一時的な異動」**くらいの感覚で扱われている。
また、「精神と時の部屋」などは、敵に追いつけないときに修行ブーストをかけるための完全なチート装置だ。
普通の物語なら絶対に許されないような強化方法が、なぜかドラゴンボールでは許されてしまう。
これはご都合主義の極みだが、それでも**「なんか燃える」**のだから本当に不思議だ。
悟空という主人公の“空虚さ”と受動性
悟空は主人公ではあるが、自ら物語を動かすことはほとんどない。
敵が来たから戦う、誰かが死んだから怒る――常にリアクティブ(受動的)な存在として描かれている。
ルフィ(ONE PIECE)やナルトのように「夢」や「明確な意志」を持って物語を引っ張るタイプとは真逆で、悟空は“戦いたい”という感情しか持っていない。
ある意味で“中身の空っぽな主人公”だが、そのシンプルさが逆にドラマや葛藤を排除し、読者のストレスを減らしているのかもしれない。
キャラクターや声優のリソース再利用も味になっている
孫悟空、悟飯、悟天…彼らの声がすべて野沢雅子さんという時点で、もはや遺伝子レベルで統一されている。
界王様とナレーションが同じ声だったり、バビディの声の人が他の敵でも何度か登場するなど、明らかな“再利用”も多い。
背景も、無機質な星や草原がほとんどで、都市描写や文明の香りは極めて希薄。
これだけ見ると手抜きに見えるが、その分キャラの表情やアクション、セリフの密度で圧倒的な瞬発力を出してくる。
つまり、“足りないところを力技で押し通す”という作り方が、意図的に確立されているようにも思える。
実際には仏教的モチーフを使いながら、仏教的ではない死の軽さ
ドラゴンボールは「界王」「閻魔」「地獄」など、明らかに仏教〜中国道教的な世界観を取り入れている。
だが、仏教の死生観は決して“軽く”ない。
輪廻転生、因果応報、地獄の責苦など、むしろ“死”は最大級のイベントであり、浄化や解脱のために死後の過程を経るのが基本。
それに対し、ドラゴンボールでは**「死=次のステージ」になってしまっている**。
あの世で修行して帰ってくるとか、界王神界がほぼ遊園地化してるとか、死んだはずの人間がナチュラルに通信してくるとか、もはや「死」とはなんなのか?と一瞬考えさせられる。でも馬鹿らしくなってやめるけど。
でもそれがまた、“少年心”にはちょうどいいスケールで心地よいのだから、皮肉なものだ。
時代性を感じる暴力描写と下ネタ
改めて無印やZを観ていて思うのは、少年キャラに対する暴力や、ギリギリを超えた下ネタが平然と描かれている点に強い“時代”を感じるということだ。
少年悟空が大人に殴られたり、銃を向けられたり、パンツを脱がされたりする描写が日常的に出てくる。
また、亀仙人によるセクハラ描写――ブルマの下着を覗く、胸を揉もうとする、鼻血を噴く――といった場面も、今では完全に放送NGだろう。
特にアメリカなどの海外では、こうした描写が倫理的に問題視され、実際に放送時にはカットや音声差し替え、服の描き足しといった修正が多数施されていた。
それでも当時の日本では、「ギャグとして成立していた」「悪ノリの延長として受け入れられていた」空気が確かに存在していた。
現代ではアウトな描写が、当時は当たり前に楽しめた時代背景ごと、ドラゴンボールはパッケージしていたのだと思う。
最後に:破綻してる。でも面白い。だから許される
ドラゴンボールは、構造的には破綻している漫画だと思う。
プロットはご都合主義、死は軽い、修行はチート、キャラは消える、背景は手抜き、主人公は空っぽ。
倫理的にも今では厳しい描写が多々ある。
だけど、それでも毎話が「今が最高」になるように作られている。
論理の整合性ではなく、読者が“ワクワク”するように感情と展開がぶつけられている。
この「論理無視でもOK」という力技は、今のジャンプ作品ではなかなか見られない。
だからこそ、**「クソなのに憎めない。愛くるしい。」**という、稀有な魅力を持った作品として、今も語られ続けているのだと思う。
まだGTの途中までしか観ていないけれど、
すでに「なぜこれが伝説となったか」は、十分すぎるほど伝わってきている。
「ロジックなんて知らねぇ。面白ければ正義」
そんな漫画が一つくらい、あってもいいじゃないか。