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この画像を大きなサイズで見る2世紀に建設されたローマ時代の砦の土台がスコットランド西部で発見された。これは、英国全土に帝国の支配を拡大しようというローマの邪な試みのひとつだ。
この砦は、アントニヌスの長城に沿って建設された41の防御構造のひとつだという。
政府機関「Historic Environment Scotland(HES)」によると、アントニヌスの長城は、おもに土塁と木材でできていて、スコットランドの東西のもっとも狭いところ、およそ65kmを横断しているという。
ローマ皇帝アントニヌス・ピウスが前皇帝に対抗するために作った砦
西暦142年、ローマ皇帝「アントニヌス・ピウス」がこの壁の建設を命じた。
20年前におよそ160km南に長城を築いた前任者ハドリアヌス帝に対抗してのことだった。
しかし、先住民の敵意もあって、アントニヌスの長城は最終的には失敗に終わった。
20年間、北方の前線を保持しようとしたが、西暦162年、ローマ人はアントニヌスの長城を放棄して、ハドリアヌスの長城に撤退した。
この画像を大きなサイズで見る「アントニヌス・ピウスは、どちらかというと優秀な官僚だったのです」歴史家で考古学者のジョン・リード氏は語る。「彼は軍事経験がなく、異国のカレドニア人に対して、かなりの保証となる勝ちを求めたと考えています」
ローマの皇帝たちは、軍事的な勝利を主張しなければならなかったため、アントニヌス・ピウスはスコットランドの征服を利用して、それが続く間、自分の支配を正当化しようとしたのだとリード氏は説明する。
リード氏は、このたびの砦の発見には関わっていないが、『“The Eagle and the Bear: A New History of Roman Scotland』(2023年 バーリン刊)という本の著者で、スコットランド国境地域のローマ考古学を調査しているトリモンティウム・トラストの会長でもある。
現在は見ることができない失われた砦
Historic Environment Scotland(HES)の考古学者たちが、近代的なグラスゴーの町の北西郊外にある学校のそばで、地面に埋もれた小さな要塞跡を発見した。
この遺跡は、すでに1707年に研究家によって、その存在が指摘されていたが、1970年代と1980年代に場所を特定しようとしたにもかかわらず、発見されることはなかった。
砦は、アントニヌスの長城の南側に沿って建てられていて、高さ2メートルの石と芝で周囲をめぐらされたふたつの小さな木製構造物をで構成されている。
壁には、互いに相対した門の上にふたつの木製の塔があり、ひとつは北、もうひとつは南にあって、人、動物、荷馬車が通り抜けることができた。
しかし、今では砦がそこにあったことを示すものは、地上にはなにもない。
この画像を大きなサイズで見るそこで、地下にある構造物を検出するために、地球の磁場のわずかな変化も測定できる、非侵襲性の地球物理学手法グラジオメトリーを活用して、埋もれていた石の基礎を見つけた。
およそ12人の兵士たち──その多くはローマのために戦う契約をした地元の補助兵士──が、一度に一週間程度、砦に駐留して地域を監視、襲撃を防いでいた。
その後、東に1.6キロほど離れたダントッチャーの大きなローマ砦から、新たな救援分隊が派遣されてきたという。
この画像を大きなサイズで見る、ローマ人はスコットランドを征服しようとしていた
現在は、アントニヌスの長城が存在したことがわかる目に見える証拠はほとんどないため、新たに小要塞が見つかったことは、大変貴重なことだ。
ローマ人は最初、石造りの強固で背の高い要塞や、1マイルごとに小さな砦(マイルキャッスル)が設置された、ハドリアヌスの長城をそっくり再現しようとしていたという説を確認するのに役立ったとリード氏は言う。
しかしその後、彼らはよく考え、もっと適切な大きさの砦のほうが必要だと決めたのではないかという。
アントニヌスの長城の北、テーサイド地域にローマ砦があるのは、ローマ人がスコットランドを征服しようとしていたことの表れだが、アントニヌスの長城や北方の領地は、西暦162年以降は放棄されたと思われる。
その後、ハドリアヌスの長城は、5世紀初頭に英国におけるローマの支配が崩壊するまで、帝国の最北端の前線となった。
アントニヌスの長城を放棄した理由は不明
リード氏率いるトリモンティウム・トラストは、ローマ軍のキャンプがあった、バーンズワーク・ヒルで発掘調査を行った。
ここは、アントニヌス・ピウスが軍にハドリアヌスの長城の北のスコットランドを征服するよう命じた後、攻撃を仕掛けるために建設・要塞化した、カレドニアの丘陵要塞だ。
発掘品の中には、ローマ人が敵に対して”テロ武器”として使用したと思われる小型のスリング弾があった。
最終的に、ローマ人がアントニヌスの長城を放棄して、ハドリアヌスの長城へ撤退した理由は、よくわかっていない。
兵士たちが嫌気がさして、ローマ軍の士気がなくなった、ローマ人がどこかでトラブルを起こした、ふたつの前線を維持する費用がかかりすぎた、西暦161年にアントニヌス・ピウスが死んだ、などいろいろな説がありますが、本当のところは誰にもわかりません。私はこれらの説がすべて重なったからではないかと思っています(リード氏)
References:‘Lost’ 2nd-century Roman fort discovered in Scotland / written by konohazuku / edited by / parumo














そういう迷惑なものは地元に作りなさい
>>1
前線に作るから意味があるのでは?
>>6
前線かな?
テロ武器ってのがよく分からないけど、籠城戦で動物の死骸とかを投げ込むアレの事かな?
ローマの遺跡と聞くと息子スティックを期待してしまう
探せばあるはずだ…!
> 邪な試み
邪ってw
ローマは多民族国家で、わりと平等な帝国だったんだがなあ。
今の価値観で歴史に言及するのはどうかと…
最初の画像…
進撃の巨人の壁みたい。「心臓を捧げよ!!!」
ローマは知らんが、モンゴルはクリミアでキリスト教連合軍と戦った時、ペストで死んだ人を投石機で敵の城に投げ込んだ。
ペストに感染した人たちが祖国に帰還してさらに感染を広げた。ヨーロッパでペストが蔓延したのはそれが原因とされている。
>>8
ジェノバの植民市の攻防戦を経て、そこ由来の感染者がヨーロッパに帰って(当時の航行技術により多数の港に寄港し)ペストをばら撒いたので、モンゴル由来説はジェノバの責任逃れって話もある
疫病の死体を投げ込むのは他にも例があったし、実際投げ込んだ可能性も十分ある
>>9
確かに。ロンドンでも「ペストはジェノバの毛織物から」と認識されてましたね。
城塞攻撃で敵兵の屍体をカタパルトで叩き込むのは、十字軍にもあるごく普通の心理戦かと。
記事作成者の視点がスコットランド側視点なのがいいな。
現在進行形で大英帝国の傘下に組み込まれている状態だからな。
ローマの覇権が「邪」(笑)。原文にある”ill-fated” (失敗が宿命的な)が、なぜ「邪」になるのだろう?いささか粗雑な翻訳感覚でないかい?常識感覚としても。