直訳すると「純粋無垢な世界」となるが、Mr.Childrenの楽曲の流れから「自分の正義を信じ、貫きつつも他人に批判を受けない状況」、論語で言うところの、「七十にして心の欲する所に従えども、矩を超えず」の境地というところであろう。
1 8割の人にとって「正論」は無用?
「人が成功する七箇条」と聞いてどういうものが浮かぶだろうか?
① 目標を明確にする(Vision)
② 継続する(Consistency)
③ ポジティブ思考を持つ(Mindset)
④ 行動する(Action)
⑤ 学びを止めない(Learning)
⑥ 感謝を忘れない(Gratitude)
⑦ 人間関係を大切にする(Connection)
王道を並べれば、以上のようなものになるだろう。YouTubeなどには、他にもいろんな要素を挙げている人もいるが、概ね似たり寄ったりである。
例えば入社当時散々言われた、「問題意識と創意工夫」という提言は、⑤にあたるのかな。
「礼儀正しく、時間に厳格」というのは、⑦に該当する。「他人の悪口を言わない。他人と自分を比較しない。」というのは、一見⑦に含まれそうだが、実は③がしっかりしていれば起こさない行動である。
でも、改めて、なぞってみると、当たり前のことばかりに見える。そして、それほど難しい習慣とは思えない。
正直、私は、高校卒業の時点で、この7つについて、さほど遜色なく実践できていた。特に、⑥は最重要視してきたつもりだ。ちなみに、⑥は、礼儀に含まれるように解釈されそうだが、私の視点では違う。感謝は、礼儀でなく、責務だと考えている。偏屈な人間性がバレてしまうが、「ありがとう」というたびに、逆にこの人から「ありがとう」をもらうにはどうすれば良いかをいつも考えていた。
結構高レベルで、その重要性を理解し実践してきた。おかげで、仕事の成果は、量も質も十分に及第点を達成していると自負している。
しかしながら、結果として、歳の割には順当に出世していない。
ちなみに私はこのブログで、よく、この「順当に出世していない」ことを愚痴のように漏らすが、別に世を儚んだり、同僚を妬んだりしているわけではない。その理由はある程度理解しているし、その道を進んでしまったことについて、今ではかなり後悔も薄まっている。それでも、過ちがなかったわけではないので、自戒を込めて現状を直視しているわけだ。
しかし、自省する私に、以前紹介したZ世代の青年はこう言う。
「かわいそうに。組織に属する人間はこれだから悲劇的だ。あのねえおっちゃん、『8割の人にとって「正論」は無用』なのよ。『人が成功する七箇条』ていうのは、いずれも、度を過ぎると『人が失敗する七箇条』になるんよ。」
彼の話を整理すると
① 目標を明確にする(Vision)→組織人は、組織の目標と一致させなければならない。
② 継続する(Consistency)
→継続は力となるが、褒賞に繋がらなかった時、大きなサンクコストとなり、切り捨てが難しくなる。組織内では、チャレンジすら、させてもらえない。
③ ポジティブ思考を持つ(Mindset)→楽観主義者は暑苦しいだけ。
④ 行動する(Action)→軽挙妄動、益薄し。策を弄して行動すべし。
⑤ 学びを止めない(Learning)→頭でっかち理屈に倒れる。
⑥ 感謝を忘れない(Gratitude)→情に棹させば流される。
⑦ 人間関係を大切にする(Connection)→世人常備の悩みにして是非の余地無し。
手厳しい反論であるが、これはあくまで「度がすぎる」場合に考えるべき事で、七箇条を完全に否定するものではない。
ただし、組織人となると、ここに掲げた反論が顕在化する。
①②で示した通り、己の勝手な頑張りは評価されない。④策があまり上手だと警戒される。⑤学のある者は、まず妬まれるという理不尽が先行する。⑦人間関係では、能力が上下を決する指針でない時点で、更に問題放棄の動機付けとなる。結果として、「8割の者に取って正論は耳が痛いお説教」となる訳である。そして、日本人の就業者の88.8%は、サラリーマン、つまり組織人である。
——救われないなあ。
2 個人に世界は変えられないのか?
この救われない人間界を達観し、これを統制しようとした個人が居る。
韓非子である。
私が挙げた七箇条は、言ってみれば、人徳というもので、これが世間に広まれば、世の中万事丸く収まると説いたのが孔子であり、これを「徳治主義」という。これに対し、韓非子は言った。「すべての徳目は、行き過ぎれば害になる。したがって、人の善意や美徳に国家を委ねてはならない。法・術を以て、この徳の行き過ぎを制御する。」とした。
いやあ、全くすごい人だ。彼はいつも砂漠の先に緑を見つけようとする。
韓非子は、冷徹で、人を見下しているという人が多いが、私たちは実際見下されても仕方がない、「救われない」種族なのだ。
誰だって成功者になりたい。そこで、力量のある者が、徳を備えて、日々勤しむ。ところが、誰もが力量を備えているわけではない。しんどいことは嫌だし、やりたくないことはやりたくない。難しいことは考えたくない。そういう人たちが、正論を無用とし、「やり過ぎでない者」まで失脚させる。そこで、加減の良い徳目の程度を法で制定して、そこまでの努力に見合う対価を保証し、これを阻害する者を諌めれば良いわけである。そうすれば、人は安心して、徳を積むことに勤しめるわけだ。
憲法第25条は、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」というが、私は、最低限の知識の取得も要件に加えてほしいと願う。一応、教育を受けさせる義務は存在するが、今の義務教育では、「頑張りたい奴は頑張れば良い。やりたくないやつはサボって良い。」になってしまっている。親も学校も一緒になって、最低限の読み書きそろばんと、学びに対する姿勢、国民としての義務、そして必ず備えるべきとは言わないが、人として、尊ばれる人が持っている前述の七箇条のような徳を理解していて欲しい。
前にも言ったが、ゆとり教育を批判する人が多いようだが、私はあの頃の子供達の方がずっと逞しくて面白いと思っている。大谷翔平も羽生結弦も藤井聡太くんも芦田愛菜ちゃんもゆとり(1987年から2004年生まれ)でしょう?彼らには、想像力が有る。好奇心が有る。探究心が有る。だから、みんな、円周率は3でも、県庁所在地を覚えていなくても、私が求めている最低限、人が具備すべき知識を必ず会得している。
かの教育方針を頓挫させたのは、はっきり言って、私も含め当時の親世代の親だ。学校が委任した子供の興味・好奇心を引き延ばす裁量を使いこなせなかった。まあ、難しいことを考えてはいけない組織人ばっかりだからね。
でも家庭教育は、組織とは無関係なんですよ。それをわかっていた親に育てられた子供達は幸運だ。
青年Zもゆとり世代だ。彼もわかっている。正論は間違ってはいない。ただ、今の社会では通用しないだけ、いつかこれがスタンダードになる時代(ゆとり世代の子供達の時代)が来ればちゃんとそれに合わすだろう。
そうして、国民の多数が、正論に向き合えるようになったら、韓非子のいう「法」もまた、確かな形で整備されるだろう。さすれば、また、諸国民が「救われない」状況に陥った時、これを乗り切る知恵者を輩出する社会ともなり得るだろう。
3 適者生存と人間の好奇心
ダーウィンは、「種の起源」の中で、人間は猿から進化したとは一言も言っていない。環境に効率的に適合できたものが生き残る。これを「自然淘汰」と呼んだ。これなら、人間は神の創造物で、最初から優秀だったから今も生き残っている。という説明っぽくなり、はんなり、神を否定しなくて済む。しかし、あまり知られていないが、「種の起源」には、共著者がいて、彼がはっきり唱えたのだ。「適者生存」。ゾウリムシの中から優秀なものだけが生き残り、やがて進化し、進化したものの中で、優秀なものが生き残る。これが進化の歴史だと。ダーウィンの進化論は当時の社会に衝撃を与えたなどとよく教わるが、科学者達は、遺骨や化石の調査から、薄々気づいていたのだ。だから、「種の起源」には、全く書かれていないのに、人類の祖先は猿だ、と断定した。
そんな逸話はともかく、興味深いのは、どんな猿が生存すべき適者だったのだろう?
アフリカにも広大なジャングルが広がっていたのに、キリマンジャロで有名なアフリカ東部山脈の隆起により、ジャングルは草原となっていった。安全な樹上生活から追われた我が先祖は、遮蔽物の少ない草原の中で、より早く敵を見つけるため、遠くを見るために、ミーアキャットのように、二本足で立った。直立歩行の始まりだ。
ただミーアキャットと違っていた所が有る。それは、恐怖心からの背伸びというより、より遠くの情報を知りたいという「好奇心」が引き起こしたものだった。
というわけで、人類に限らず、多くの生物の進化には、少なからず「現状に安寧せず、より違う何かを。近辺の景色に満足せず、より遠い景色を」望んだものこそ、選ばれし適者となっていくわけである。
個人では世界は変えられない?とんでもない。天才的な個性が世界を変えるのではない。平均的な集団に潜む個性に対する共感者が、一定の数を超えた時(百一匹目の猿理論)人類は、少し進歩するのだ。
4 innocent world
うちの組織のお偉いさんは、WLB(ワークライフバランス)を辞書で引いた事が無いらしく、組織内で配付される資料は、育児休業の話ばかりである。正しくは、育児・介護の他、趣味・学習・休息・レジャーと幅広くプライベートを充実させることをいう。そして何より大事なことは、そのプライベートを充実させたことが、業務・職務においても何らかのイノベーション・生産性の向上につながると期待されることである。このフィードバック無くして、企業がWLBを推進する意義はない。子育て支援は別次元の話だ。この程度の理解だから、ゆとり教育も失敗したのだ。企業がこれを推進できていたら、変わっていただろう。
さて、成功の七箇条が法制化されて、正論が組織内で通る時代はきっとまだ先なんだろう。でも、組織外でやるのなら、何も間違ったことではないわけだ。「金にならないのなら窮屈なだけだ。」と思う人も居るだろうが、私は徳のある人間を目指すことは楽しいと思っている。
正論すら語らせてくれない荒んだ大地の真ん中から、必死に首を伸ばして、遠い遠い先にある、「私の好き」がまかり通る緑、innocent worldを探し続けたい。






