孤憤

孤憤の果てに

エジプト世界遺産「ギザの大スフィンクス

1 スフィンクス
 ギザの大スフィンクスは、伝統的な考古学ではカフラー王(紀元前2500年頃)の時代に建造されたとされているが、スフィンクスに刻まれた大量の雨水で侵食された風化痕を研究し、その地質学的証拠(風化のパターン)に基づけば、紀元前7000年~5000年頃、すなわち、スフィンクス本体はピラミッドより古い時代、あるいは別の初期文明によって建造された可能性を指摘する説がある。
 そもそも、スフィンクスカフラー王の時代に建てられたものと考えられている物的根拠は、非常に少なく、三大ピラミッドの真ん中のカフラー王のピラミッドの参道上に位置しているということから推測されたものであり、逆に元々在ったスフィンクスに合わせてカフラーピラミッドの参道が築かれたという言う推測も成り立つわけである。実際、あれほど方角や角度にこだわるピラミッド遺跡群において、カフラーピラミッドの参道は、垂線でもなければ対角線上にもない。
 さらにスフィンクスと言う遺跡は放っておくと、すぐに砂に埋もれてしまう特性があり、何度も掘り起こされたと言う歴史的事実がある。確かに、スフィンクスの頭部の肖像は、当時のファラオの象徴的スタイルをしているが、ある時期に偶然発掘されたスフィンクス遺跡を見て、当時のファラオの象徴に取り入れられたという考えも成り立つ。それに支配階級の伝統というのは、2000年くらい継承されても不思議ではない。
 つまり、カフラーピラミッドの参道上にあるという根拠は、建築時期を特定するには、あまりにも薄弱なのだ。
 さらに、砂に埋もれやすい特性が、風化や浸食を妨げて、ピラミッドよりも古い時代であっても、建造時の状態が保存された可能性は十分にある。
 ちなみにスフィンクス世界遺産となっているのは、あくまでギザの三大ピラミッド等の遺跡群の一部扱いである。しかしこの説が正しければスフィンクスこそが、その遺跡群の起点となった可能性が高い。まさに、地動説の如く、 “全ての始まりがスフィンクスであった”という天地動転の説が出ているのである。

 さて、この説が正しいとなれば、このスフィンクスは、一体いつ、何のために建造され、一体何千年、一人ぼっちで砂漠の中に埋もれていたのだろうか?

2 韓非子の孤憤篇
 孤憤、すなわち、「誤った方向へ進もうとする世界に対し、これを知りながら、ただ独り憤る」状況は、世の常であろう。
 以下は、韓非子孤憤篇の冒頭文である。
 「智術の士は明察し、聴用せらるれば、まさに重人の陰情を燭さん(てらさん)とす。能法の士は勁直にして、聴用せらるれば、且に重人の姦行を矯めんとす。故に智術能法の士用いらるれば、則ち貴重の臣必ず縄の外に在り。是れ智法の士と当塗の人とは、両存すべからざるの仇なり。」
 簡単に言えば、法を公正に運用し、上下を巧みに操る術を持つ「法術の士」なる者が現れたら、既得権益者にとってはすこぶる都合が悪いわけであり、当然あらゆる妨害を受け、「孤憤」の中に埋もれさせられるわけである。
 それでも、韓非子五十五篇は、ネットは愚か、印刷技術も無い時代に、世に広まり、国を出て、隣国秦の若き覇王の目に留まる。
 ところが、「韓非子2000年の悲運」でも語ったように、この出会いが、韓非子だけでなく、その思想の運命をも狂わせ、法家の思想、法による支配の真髄は、書物の中に埋もれ続ける。
 ただ私の考えでは、彼の思想は、きっと早過ぎたと感じている。儒教の仇と言われ、封印されなかったとしても、中華やアジアに、モンテスキューを先駆けて、「法の精神」が著されることは無かったと思うし、ジョン・ロック的「社会契約論(by統治二論)」が唱えられたとも思えない。それは土地を支配しようとする農耕民族と、人を支配しようとする狩猟民族という差からの私なりの推測だ。
 韓非子の思想は、封建時代の君臣が存在する時代に形成されたものであるが、法の統治は、基本的人権国民主権の思想が土台に在る方が都合良い。以前にも話したように、「法」は他人が定めるものであるため嫌われがちである。主権在民となれば、「法」の不都合の責任の一端は、民に帰するわけであるから。我々は法に縛られているのではなく、法に責任を持っているのである。それが「最善の専制政治君主制)よりも、最悪の民主政治(共和政治)のほうがましだ」(銀河英雄伝説ヤン・ウェンリー等)と言われる所以である。
 しかしながら、現代世界はまだまだ未熟だ。天下に「法」が君臨し、司法によって公正に判断され、実行部隊が、過不足なくこれを執行するのであれば、世の中に、領土問題も宗教対決も起こらない。ところが、私たちは、国際法は愚か、自国内の法律ですら持ちあぐねている。
 韓非子五十五篇も相変わらず悲運なものだ。こんな時代に発掘されても、せいぜい経営哲学書で面白おかしく扱われるだけ、もうしばらく書物の中に埋もれていた方が良かったかもしれない。
 ずっと先の未来、彼の思想など、全く原始的で古典的と言われる時代に発見され、「なんだこりゃ?確かにまあまあ上出来だが、このくらいの作品なら誰でも作れるさ。ようし俺はこいつの横にもっと大きな「知」の遺跡を残してやるぞ」てな具合に、図書館か大学でも作ってくれる人が出てきて、ようやく、韓非子の長い長い孤憤にも意味が見出せる時が来るのかもしれない。

3 私の孤憤篇
 本巻を執筆するにあたっては、正直に言ってかなり抵抗を感じていた。前巻の「説難」では、己の才覚を総動員して、ずいぶん凝った構成に挑み、誰かに評価されたわけではないものの、書き終えた時にはそれなりの充実感と達成感を覚え、そこで一区切りをつけるつもりでいた。しかし、日々募る不安定な世界情勢や、愚鈍とも思える社会の在り方への憤りが抑えきれず、結局のところ筆を執らざるを得なかったのである。ところが、体調の変化の影響もあってか、念入りな構想のもとに書き綴った前巻に比べ、本巻の当初の書き出しはどうにも要領を得ず、自分自身で読んでも駄文に思えてしまい、投稿をためらうほどであった。

 そこで、一般読者目線の代表として信頼している知人に読んでもらい、率直な感想や具体的なアドバイスを求めることにした。私が「編集長」と呼んでいるその知人のおかげで、無駄な表現や重複した内容をそぎ落とし、文字数も適度に整理され、多少なりとも読むに堪える文章へと姿を変えることができたため、ようやく投稿を始めることにしたのである。

 最近では、AIとも相談しながら書き進めているおかげで、よろしくない表現や冗長な部分が自然と削られるようになり、その分、編集長の指摘も目に見えて減ってきた。それはありがたいことではあるのだが、その代わりに、「よくよく思うけど、ほんと、よくそんな面倒なこととか、どうでもよさそうなことを一生懸命考えられるよね。それをブログに書くことに、いったいどれだけの意味があるのか、最近ちょっと疑問に思えてきたわ。」などと、本音とも冗談ともつかないことを言われるようになった。

 私は昔から、難解な話を中学生くらいには理解できる程度に噛み砕いて説明することが得意であったし、またそれを自負してきた。私がこの国の主権者の一人として、この国の憲法を意識しながら、世界平和や差別の問題について語っても大きな反応が得られないとしたら、それは私の文章が難しすぎるからではなく、単に読む側に関心がないだけなのだろう、と半ば達観している。しかし同時に、編集長のこうした「飽き」を感じさせる姿勢は、私の孤憤篇そのものが終局に近づきつつあることを静かに示しているのだとも思う。

 これまで私は四つのChapterに分けて、情報の受け取り方やその危うさ、世界社会の未熟さ、法理のもつ力と限界、そして個人に潜む可能性と無力感について語ってきた。しかし、ここに至って話題が少しずつ重複し始め、同じ憤りを別の角度から言い換えているだけではないか、という感覚が芽生えている。語りたかった内容の多くはすでに吐き出し終えている。
 孤憤という観点からはまだまだ言い足りないことも山ほどあるが、個別の事例をいくら積み上げても、結局のところ根底で言いたいことが同じであれば、新鮮味は失われ、自己反復に陥る危険性が高い。したがって現在、本巻の最終稿の執筆に取りかかっているという状況である。

 しばらく構想のための時間を置いたあとで、今度は職務上の経験談を題材にした「新巻」に着手しようかと考えている。
 私は「法による支配」を機能させるうえで、行政の資質こそが最も重要な課題であると確信している。そして、木端役人ではあるものの、多彩な部署を経験してきた私は、なかなかに稀有な体験を積んできたと自負しており、「民の本綱たる役人」のあり方や、「職務を果たし得ない役人」の姿について、いろいろと語ることができるのではないかと思っている。
 編集長は、私が組織から多少なりとも冷遇されている事情を知っているがゆえに、余計なことを書いてひどい目に遭うのではないかと心配してくれている。しかし、そこは十分に作戦を練り、伝え方を工夫したうえで取り組みたいと考えている。

 今の私にとって重要なのは、もう一段ギアを上げて、“コンテンツを磨きたい”という強い欲求が確かに芽生えているという事実である。
 私はいつも言っている通り、発明家として名を残す野望もなければ、インフルエンサーとして名声を得るつもりもない。多くの人が「突飛でついていけない」と評するであろう私の思考の飛躍や奇抜な発想が、いつかどこかで、より高い能力を持つ誰かの目に触れ、何らかの形で活かされることを密かに願っている。
 しかし同時に、見つけられるチャンスを広げるより、時を超えて残るコンテンツを考える方が重要のように思えるのである。

 スフィンクスは砂に埋もれてもなお、伝説が口伝として残り続けた。韓非子は書物に埋もれても、その説話や故事成語は時代を超えて語り継がれてきた。ゆえに、何千年の眠りについたとしても、再び発掘されるものは必ずあるのだと思う。その不屈のコンテンツに、私は強い憧れを抱いてしまったのだろう。もちろん、それらに並び立とうなどとは一粒ほども思ってはいない。ただ、それらを後世に口伝する者の一人になれる程度には、少しだけ時を超えて残り得るコンテンツを著したいと願っている。

 踊れDance 暗闇の中で 今は誰も見向きもしない そんな役回りでも知ったことか
 YOASOBI「劇上」

 何を成したいかではなく、何をやりたいか。今はそれで十分だと思っている。

差別や偏見とやらにもう少し抗ってみたい

1 異=劣
 「人は結局分かり合えない。」—— Spy Family ドノバン・デズモンド。
 他人のブログを読んでいて、共感できる投稿もあれば、まったく理解できないものもある。同様に私のブログも、誰かには気づきを与え、誰かをガッカリさせるだろう。
 全面的に一致する関係は、むしろつまらない。適度な不一致は健全である。しかし、だからといって互いの違いを無制限に許容することが正解でもない。後から来た部外者が既存のルールを無視するのも、同様に正解ではない。
 とはいえ、もっとも避けるべきなのは、「自分たちとは違う」という理由だけで、相手を劣った存在とみなす姿勢である。違いをすべて許容する必要はないが、理解を放棄してよい理由にはならない。

 なぜ差別はなくならないのか。
 人は、自分に近い意見や価値観を持つ者同士で集まり、安定を保とうとする。異質な存在を避けようとするのは、混乱を回避するための自然な反応であり、既存の規律に従わない行動を批判すること自体は、必ずしも悪ではない。

 しかし、**「異なっている=劣っている」**と断ずるのは、明確な過ちである。

 「アホって言うやつがアホやって、母ちゃん言うてたで。」——その母親は正しい。
 人の優劣を測る物差しは、人の数だけある。誰が優れていて、誰が劣っているかなど、簡単に答えの出るものではない。むしろ、簡単に人を「アホ」と切り捨てる者こそ、明確に「アホ」なのである。

 ところが、それが“集団”になると、事情は変わる。
 自己肯定バイアスが強まり、物差しは同じ方向を向き始め、いつのまにか半世紀以上前に形成された“同質であることが善”という価値観が空気として定着する。
 本来は単純なメカニズムだが、そこに歴史的背景や、家庭や学校教育の非意図的な作用が重なり、問題はより複雑になる。
 「人の嫌がることをしてはいけない。」
 この普遍的な教訓は、世界中で語られ、教育が長年引き継いできた。しかし同時に、**「自分たちと違うものは劣っている」**という、やられたら誰もが嫌がる態度もまた、気づかぬうちに受け継がれてきた。
 ここに、私たちの社会が抱える最大の悲劇がある。

 まとめると、部外者が集団に入れば混乱の種となり得る。だから、一定のルールや慣習に従うべき場面は確かにある。
 だが、その事実が**「部外者=劣っている」**という結論に直結することは決してないし、隷従を強いる理由にもならない。

 かつて「これは差別ではなく区別だ」という表現がよく使われたが、最近はあまり耳にしない。国語を正しく理解していれば名言なのだが、誤用が多かったのだろう。

 ある集団に属する者と、そうでない者との間には“区”が有る。しかし“差”は無い。

 これこそが、偏見と差別をなくすための《基本姿勢》であり、『専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去する』ための重要な意識である。

2 疎=誤
 「欧米の一部では、いじめている側を“病んでいる”と判断するそうです。」
 ——『ミステリという勿れ』久能 整
 これは、私自身が二十五年前に論文として書いた主張とも重なる。
 いじめとは、アウェイに立つ勇気のない者が、自分が常にマジョリティ(多数派)側にいられるよう、他者をマイノリティ(少数派)として仕立て上げ、自らの恐怖を回避する行為である。マイノリティ恐怖症、あるいはマジョリティ依存症と言うべきか──平常な人間なら、そこまでして環境を保とうとはしない。それを敢えて行うから、病んでいると判断されるのである。

 ホームとアウェイの関係を理解するスポーツファンは、少数で敵地に乗り込むアウェイ応援団をむしろ尊敬する。しかし現実社会において、アウェイに乗り込むというのは、単純にリスクを負う行為である。だからこそ、人はマジョリティに寄りかかり、異論を排除する。従って、それ自体は異常ではない。
 問題は、マジョリティ側に立った人々が徐々に考えることをやめ、想像力を失っていく点である。
 本当は一人一人、微妙に異なる考え──それぞれのマイノリティ・リポート──を持っているにもかかわらず、それを封印するようになる。そして最終段階では、他者が発するマイノリティ・リポートを頭から否定するようになる。ここに偏見は生まれる。

 先日の高市総理の発言をめぐる報道も、その典型だ。
 誰も得をしない「台湾有事」の質問をした議員こそ最も軽率だったと私は考えるが、多くの報道はそこには触れず、代わりに「日中関係の悪化」だけを強調した。結果として、ネット上では「日本渡航規制大賛成!」「中国は悪い国。民主主義でない国は悪い国」といった単純化された断定が溢れた。

 ここで私が言いたいのは、中国を礼賛することでも、日本を批判することでもない。
 政治体制にはそれぞれ利点と欠点があり、どの国にも複雑な事情があるという、ごく当たり前の事実が空気の中で見えなくなるという点である。
 たとえば、中国には自由の制約という問題がある一方で、国民が日常生活と生業を維持できる程度の秩序は保たれており、それを評価する視点も本来は存在してよい。
 国際法についても、守らない国は中国だけではなく、国際法の運用体制そのものに課題があるという議論だって成り立つ。

 ところが、こうした“少数派の視点”を口にした途端、「中国擁護だ」と決めつけられ、議論そのものが封じられる空気がある。まさに、私が述べたように、マジョリティが“正義”を独占し、異論を排除する構造だ。

 世の中の正義は、しばしば論理ではなく空気が決める。
 そして、この“空気による正義”こそが、マジョリティ・リポートの思考停止を生み出し、偏見を育てていくのである。

 日中の緊張を喜ぶ人々は、自衛隊員の安全やその家族の不安に思いを至らせただろうか。「誰の得にもならない火種を撒いたのは誰か」という視点を持てただろうか。おそらく、気づいている人間もこう考えるだろう。「少数派が何を言っても無駄だ」と。
 それで良いのだろうか?
 太平洋戦争が、軍部の暴走だけでなく、国民の多数が「英米討つべし」と唱えた空気が背景にあったことは、今では資料で裏付けられている。

 確かに、マイノリティ・リポートは届かないことが多い。しかし、それが“誤り”だという証明にはならないし、マジョリティが“正義”である証拠にもならない。
 “マイノリティ・リポート=誤”──この思考停止こそが、最も巨大で、最も強力な偏見である。

 言論の自由を持つ国家に生まれながら、マイノリティ恐怖症の“病んでいる誰か”によって作られたマジョリティに思考を停止させられ、言論の自由が阻まれている。皮肉極まる現実である。

3 知=処
 「知の難きに非ず、知に処するは則ち難し」──韓非子『説難』第十二。
 ──知ること自体は難しくない。難しいのは、知った後にそれをどう扱うかである。
 前項の差別や偏見という問題を根源的に解決する鍵も、結局は「ヒトがどのように学び、その学びをどう処するか」にかかっている。
 その一例として、最近少し面白い体験をした。

◆スポーツ指導の変化が示す「知の扱い方」
 先日、体罰指導が消えつつあるにもかかわらず、日本人の金メダルが増え続ける理由について、知人と語り合った。
 そこで議論となった可能性が興味深かった。
 「青少年の知識レベルが上がったことが原因である可能性」
 かつて素振りや走り込みといった地味な基礎トレーニングを「重要なプロセス」と認識していたのは、せいぜい一部の人間だった。試合形式の練習ばかりを望む部員にとって、三ヶ月も基礎練習が続けばやる気は萎える。
 「この地道な努力が後で効いてくるんや!」とどれだけ言われても、納得できず、結局は鬼コーチの怒声や暴力によって継続させられる。
 そして苦行を乗り越えた者が、確かに試合で安定したフォームを見せる。
 世界の盗塁王福本豊氏が野球解説中、ボソリと「走り込みが足らんねえ」と呟くあの感覚——努力は嘘をつかず、怠慢は一瞬に表れるという教訓だ。
 しかし私たちが学生だった頃、地道な努力の価値を論理的に理解できる者は多くなかった。だから暴力が支配した。

 では、今は何が変わったのか。

◆「知識の共有」が暴力を不要にした
 現代のスポーツ漫画やアニメでは、もはや星飛雄馬の大リーガー養成ギブスのような“根性装置”は出てこない。
 代わりに、スポーツ科学に基づいた基礎トレーニング、戦略、身体の使い方が丁寧に描かれる。
 今の青少年は知っている。
 上達には地味な努力が必要で、その効果にも科学的理由がある と。
 その結果、昔であれば暴力が必要だった練習も、説明次第で自発的に継続できるようになった。
 教える側も変わった。
 従来の練習に論拠がなかったわけではないが、その論拠を言語化し、学習者の理解を促し、ときには「これは大谷翔平選手も取り組んでいた練習だ」と魅力的に示すといった、「知をどう伝えるか」という技術を磨くようになった。

 暴力が批判され、変化が求められたことは確かだ。
 しかし本質的には、教える側も教わる側も、昔に比べてずっと“頭が良くなり”、知識をうまく扱えるようになった結果である。

 差別も偏見も、他者との違いを知り、理解し、その知識を処することが、成熟した人たるものの常識(絶対的マジョリティ)となれば、かなり低減できるのではないかと私は信じる。

レオナルド・ダ・ヴィンチ「岩窟の聖母」

 ダ・ヴィンチの「岩窟の聖母」には、2つのバージョンが有る。一つは、ここに掲載したルーブル美術館所蔵のもの、今一つは、ロンドンナショナルギャラリー所蔵のもの。圧倒的に、このルーブル所蔵の方が有名であるが、ナショナルギャラリー版を見ないとわからない謎が一つ有る。聖母子像のスタイルとして、マリア、イエス、そして洗礼者ヨハネは、どれかわかるのだが、右手のランドセルを背負っている女性は誰?という話。
 実は、ナショナルギャラリー版では、この女性の背中には翼が描かれているのである。つまり彼女は天使。その名は、ガブリエルともウリエルとも言われているがはっきりしない。
 面白いのは、ルーブル版の方が後で描かれたのだが、ダ・ヴィンチが、彼女の翼をマントで隠したことだ。「天使が、それとわかる姿で、容易に人間界をうろつくものか?」という、科学者の一面を持つ彼らしいリアリズムである。
 論理的で知識が豊富な科学者は、「頭が硬い」と思われがちだが、知識があるからこそ、このような突飛で柔軟な発想が浮かぶのだろう。
 そして、30数枚しか描かれなかったというダ・ヴィンチの作品のうちの、2枚が、両方とも、500年以上の時を超えて今なお現存するからこそ、この感動を味わえるわけである。
 地球上に生きる数億種の生物のうち、生殖機能を失っても生き続ける生物は、人間を含めて数種しか居ないそうだ。それは、我々が、遺伝子だけでなく「知」を継承する種であるからであろう。

自己承認欲求と貢献欲求

1 おしゃべりモンスター
 子どもの頃から、母や兄弟によく言われた。「お前は人の話を聞かない」と。
 確かに、気をつけるようになるまでは、相手の話を途中で遮って自分の話を始めてしまうことが多かった。だが、彼らが思っているほど私は聞いていなかったわけではない。
「今の話を繰り返せるか?」と問われたら即答できたし、「遮ったとき、相手の言いたいことは分かっていたか?」と聞かれても、やはり即答できただろう。
 私は幼いころから物語が好きで、しかも読んだ話をほとんど覚えていた。いわば“小話博士ちゃん”だった。
 兄に読み聞かせてもらったイソップ童話から始まり、グリム、アンデルセン、そしてギリシャ神話、北欧神話、日本神話へ。自分で本を読むようになると、星新一赤川次郎小松左京。長編を読む集中力はまだなかったが、短編という短編を山のように読み、覚えた。”アラビアンナイト”ほどではないが、数百の小話を語れたと思う。
 他人の話も、三割ほど聞けば大筋がつかめてしまう。だから、後続を聞かずに次の話を思いついてしまう。後に発達障害と診断される異常な理解力は、そのせいかもしれない。
 そして、頭の中の膨大なエピソードは、誰かの言葉の一片で弾かれ、表に出ようとする。黙っていればいいのだが、「自分が面白いと思う話は相手も面白いに違いない」と思い込んでしまい、つい話してしまう。しかも、多くの人がそれを楽しんでくれた。遮った相手でさえ、続きを聞きたがることが多かった。

 だが、そんな自分勝手な会話が許されるのは小学生までだ。中学に入ると礼儀を覚え、相手の話を聞くようになった。ところが、聞けば聞くほど、脳内の小話がフックを掛けてくる。話したい衝動が倍増した。やがて軽いイジメに遭い、親しい人としか話さないよう制御する術を覚えたが、たまに他人と話すと決まって言われた。
「君って、こんなに面白い人だったんだね」と。
――話のネタは、確かに面白かったようだ。

 社会に出て、人との関わりを持つように会話を交わすようになると、初対面の場から必ずと言っていいほどムードメーカーになった。宴席で話題が途切れそうになると、控えめに、それでいて皆が興味を持てる話を放つ。空気は一変し、笑いが起こる。
 それは、運動神経に恵まれなかった私に、神様が与えたもう一つの“身体能力”だったのかもしれない。
 だが、夜学に通ううちに私の好奇心は世界の根源へと及び、相対性理論から素数分布、認知科学まで踏み込むようになった。
 もはや宴席の話題には収まりきらず、酒が入るほどに言葉数は増えていった。

2 おしゃべりバスターズ
 入社後しばらく、私の“コミュ力”は無双だった。
 どんな話題でも的確に入り込み、場を盛り上げた。
 しかし、ほどなく評価は二極化した。
 「楽しい人、ムードメーカーだ」という声と、「自己主張が強くてうるさい」という声。
 新しいコミュニティに入ると、最初は前者が先行し、やがて後者が増えていく。
 どうやら私は、誰とでも分け隔てなく話す性格が、特定の誰かにとって“脅威”になるらしい。
 中学時代、クラスの人気者と親しくなり、彼の取り巻きにも親しまれたが、それ以外のクラスメートとも親しくしていた私が、クラス委員に選出された途端、その人気者に嫌われるようになり、取り巻きもそれに追随し、やがてクラス全員が加わるいじめへと発展した。

 社会人になっても構図は同じだった。
 私は誰かを貶めたこともなく、仕事もきちんとこなしていたのに、やがて“うるさい人”と見なされた。それは、私の話術が、私が何者であるかを知る前に人気が先行してしまい、それを妬むバスターを産んでしまうからだ。
 やたらととおる声(おそらく倍音と呼ばれるもの)を持っていたのも、考えものだった。職務上の指示伝達では有用なのだが、バスター達にとっては、「耳障りだ」でしかなかった。

 さらに厄介なのは、嫉妬だ。
 私は男女を問わず話をするが、好奇心の強い女性ほど知的な話を楽しんでくれた。
 それが一部の男性の逆鱗に触れたのだろう。
 “おしゃべりバスターズ”は、誇張や揶揄を織り交ぜて、私を「虚飾の人」と評して陥れ、何度も私を「人気者」の座から「嫌われ者」へと転落させた。

 ――おしゃべりモンスターは孤独だ。
 いつも妬まれ、足をすくわれる。

3 蜘蛛の糸
 こうして多弁地獄に堕ちた私は、発言を抑えようと必死だった。特に声量には、気を遣った。だが、「声が大きい」と言われ続けた。
 声の大きさは、身長が二メートルあるようなものだ。歌手なら武器になるが、日常では頭上(ヘルツ)を気にして生きねばならない。
 そんな苦労も知らず、人は言う。「声が大きいのはいいことじゃないか」と。
 私には、それが「太っているのは健康的でいいじゃないか」と言われるように聞こえた。
こういう人ほど、最初に裏切るし。
 そんな愚痴をこぼしても、多弁地獄は終わらない。
 私は好奇心も人一倍で、歳を追うごとにあらゆる分野で知識を蓄え、やがて“正義感”というやっかいなものを身につけ、上司にまで口を出すようになった。

 「どうして私はこんなに自己主張が強いのだろう。子どものころ、一度も褒められなかったせいか?」
 そう思い詰め、心療内科に通い始めた。薬で口数は減ったが、どこかで反動が出た。二年間のカウンセリングでも答えは見つからなかった。
 ある日、主治医に尋ねた。
 「先生、私はどうしてこんなに喋りたいのでしょう。何に不満があるんでしょうか。黙っている方が上手く行くという事もたくさん有るというのに。」
 主治医は少し驚いた顔で言った。
 「気づいてなかったのかい? 君は何も悪くないよ。君の衝動は、自己承認欲求ではなく“貢献欲求”から来ているからね。」
 「貢献欲求……初めて聞く言葉ですが。」
 「他人の役に立ちたいという欲求でね。君が好奇心を働かせて知識を追うのは、人に褒められたり、人を操ったりする事が目的なのではなく、人や、社会の役に立つためにそれを活かす事が目的だからね。むしろ、君の所属する組織は、君のような人間を重用しなければならないが、大きな組織ほど、“考えを持たない兵隊”を重用する傾向にあるからね。」
 その言葉に、肩の力が抜けた。「なるほど、戦時中の思想犯みたいなものですね。正しいことを言っても拘留される。」
 主治医は笑って言った。「まあ、あまり認めたくはないが、私は薬品を使って君の才覚を抑えている拘留者側ということになるね。でも、これは君の才覚が、勤務先との摩擦によって逸失されないように保護していると思ってもらいたいね。
 君の文章は素晴らしい。ブログを読ませてもらったが、もはや学者の域だ。どこで必要になるから、保全しておくべきだよ。ネットという多様な世界なら、君の才能を理解してくれる人もいるかもしれないし。」

――そうか。ブログに書き綴ることこそ、地獄に垂らされた蜘蛛の糸なのだ。
 私の背後には、知識やエピソード、物語が連なっている。それを乱暴に振り払えば糸は切れる。だが、慎重に息を殺して少しずつ引き上げれば、切れないかもしれない。
 若き日のトーク力を思い出し、ユーモアを交え、人に響く言葉に変えていければ――
 いつか、全てを引き連れて、その糸を登りきれるかもしれない。

ルノワール『舟遊びをする人々の昼食』

 

 先日、街角の開店したてと思われる小さなケーキ屋でこの絵柄の小銭皿を見つけた。
 店主らしき若い女性に尋ねると、「祖母からもらったものです」と言う。
 調べてみると、この作品が日本に来たのは二十年前。関西圏に来たのは、三十三年前。もし彼女の祖母が関西の人なら、孫の誕生よりずっと前に買ったものだろう。そう思うと、開店祝いに贈られた最高の一品に思えた。また小話を一つ仕入れてしまった。

 若い頃、私は男女を交えた交流会をよく企画した。中にはカップルになった人もいた。
ちなみに、画面左下で猫を抱く女性は、のちにルノワールの妻となるアリーヌ・ジェリコだ。
 嫌われ者になってからは、そんな交流の輪からも外されたものだが、私は、今も、楽しかった記憶だけを残そうと努めている。

諦めの荒野・試みの沃野

1 ついに女性宰相誕生か
 高市早苗さんが総裁選を制した。順当に行けば、日本初の女性総理の誕生か。どこまで、2025年というのは、プレミアムがつくのだろう。
 ちなみに私は、アンチ安倍派なので、小泉氏を応援していたが、民主主義は開票が終わればノーサイド。選出された方を素直に支持する。それに、彼女は、安倍氏の一番弟子だと思っていたが、よく聞くと、同期当選の盟友だった。ずいぶん長い間勘違いをしていて、失礼をした。
 弟子と盟友では印象がまるで違う。
 安倍一強と言われた時代、私は彼の手法には、どうしても不信感を否めなかった。結果として、一連の不祥事が発覚し、政治と信仰の関係において、国民の信頼を大きく揺るがすことになる。そして、その弟子・取り巻きも、結局、同じようなことをしていた。
 しかし、私が調べたところでは、高市氏は、一連の不祥事とはほぼ無関係のようだ。

 さて、日本初の女性宰相となると、女性陣は色々期待するかもしれないが、私の見る限り、彼女は、あまりそこには手をつけないだろうなあと考える。政策はあくまで、必要で優先的なものを、それは、男が立とうが女が立とうが同じことである。彼女はそこを分けられる人材だ。問題は逆に、女性らしさを表に出して、あざとい技を使うのを嫌うのではないかという点を危惧する。
 対米交渉においては、トランプ大統領のようなプライドの塊は、女性が女性らしく接してあげれば、例えば、「頼もしいですわ〜」とハートの目を向けてあげれば、結構骨抜きにできそうだ。
 ん?どこかで「女性蔑視だ。」という声が聞こえてきそうだが、男女共同参画社会を含む「ダイバーシティ」とは、互いの長所を生かし、短所を補うことを言う。「女性だから、女性のための政策を」とか「女性らしさを武器にするなんて、はしたない。」などと言っている人は、多様性が生み出す美しいケミストリーを知らない可哀想な人々だ。
 
2 私の男女共同参画社会論
 2022年。女性の社会的自立を支援するという名目で導入された新しい社会保険制度は、これまでのパートレベルの稼ぎで満足していた女性に、保険制度を適用し、103万円を超えたら、130万円まで、働き損という『タートルネック』(つまり、稼ぐほど首を締め付けられるような構造的圧迫を生む仕組み)を課し、「少し家計の足しになれば良いというだけで、あくまでスタンスは、家庭の堅守である。」という女性特有の願望を無視し、「働きたいなら一人前になれ。」という強引な平等政策だった。
 全ての女性が、出世を望んでいるのではない!と強く反発を覚えたものだ。

 ただ私の周囲には、家庭を重んじ、出世や高収入を望まぬ女性たちも居たが、女性登用の象徴的存在――いわゆるロールモデルとして紹介されるような、栄達した女性たちも居た。
 双方の意見を聞く中で、共通した一つの不満が有った。
 「男性の育児参加を否定するつもりはないけれど、根本的な問題の解決にはなっていない。本当に問題なのは、妊娠・出産・育児によって、どうしても生じてしまう三年前後のキャリア的なハンデである。」
 その証拠として、家庭を重んじる女性は、課長以上のポストには就けず、ハイキャリアの女性の9割はお子さんをお持ちでなかった。
 私はずっと考えてきた。彼女たちに必要なのは、単なる機会の平等ではなく、条件の公平を整える仕組みなのだと。
 公平と平等は似て非なるものである。平等な機会を利用して地位を高めようとすれば、女性は往々にして「女性としての一部」を犠牲にせざるを得ない。これでは、男性が作った社会の中で、男性のルールに従って出世しただけに過ぎず、言わば“男性化した女性”を生み出す構造である。
 本来目指すべき男女共同参画社会とは、女性が女性のままで、男性と対等に競争できる社会であろう。そのためには、出産前後に生じる三年程度のキャリアダウンを補う公平な仕組みづくりが欠かせない。

 そしてこう思うようになった。もしかして、「出世に興味がない。」と言っている女性たちの中にも、このどうしようもない不動のハンデが存在するために、思考停止に陥っているだけの人が含まれているのでないかと。逆に言うと、そのハンデを補う事ができれば、最初から出世を望まない女性も減ってくるのではないか?タートルネックをつけて強引に自立させなくても、十分、男性に負けない労働力となりうるのではないかと。
 ただし、家庭円満を至上とする考えに異論はない。何をどう繕っても、共働きになれば、子供は必ず寂しい思いをするし、意思疎通に弊害をもたらすことはあきらかであるから。
 ただ、今は、働こうとする女性にとっての、あるべき条件・地位・仕組みといったものについて語っている。

3 我が組織での取り組みについて
 私たちの組織では、組織理念の理解や、組織が抱える問題について意見を交換する機会が、一回1時間から2時間、年に2、3回のペースで、設けられている。系統が別々で初対面の人ばかり、数人で話す。導入当初は、まるでまともな議論ができなかったが、最近は、ちゃんと予習をしてくる人も増え、質の良い議論をする。何より、普段話さない人といきなり議論をすると、これほど話が噛み合わないものかと、笑ってしまうほど思想・信条に違いが有り、たいへん興味深い。先日、ちょうど「男女共同参画社会」について意見を交換した。

 現在、我が組織では、「ダイバーシティ推進プログラム」「キャリア形成支援制度」と言った取り組みが試みられている。これは、妊娠・出産・育児による3年のブランクを補うために、①高高度業務、例えば本店司令部、本庁・本省へ出向して、これに従事させる。②リモートワークにより、最新端末の仕様に遅れないようにする。というものである。
 この活動について、どのように考えているかと言う意見交換だ。
 参加者の中から、いくつかの疑問点・問題点が提示された。
 実は、この活動について、ずっと動向を見守っていた私は、どうも今回の予習頭だったようで、それぞれの問いに回答する立場になってしまった。
① 高高度業務への従事
Q:短期間の従事で、どれだけの効果があるのか?
A:昔から、見込みのある若年層を幹部候補生として、本店へ釣り上げる ことは珍しくなかったです。20代後半から30代で従事すれば、2年間コピー機の前に張り付いているだけでも、現場での5〜6年の経験に匹敵するものを得られます。
 その要因は、現場の雰囲気。
 誰もが、支店ではエース級です。若干足の引っ張り合いもありますが、非常に仕事に対する情熱と意識が高く、知識も豊富で、インテリジェンスです。
 次に、組織の指令が、現場の無理解な中間幹部のフィルターを通さずに聞けること。数字を求めているのではなく、目的のために目標が設定されている事を理解するでしょう。そうした経験が、視座を高めて、現場で、管理職に就く器を育てます。

Q:しかし、そのような経験は男性だってしたいでしょう?
  これは女性からの質問だった。
A:確かに、このような不平等とも取れる人事について、一部の男性から“スカート人事”と揶揄する声も出ています。(彼女も「それそれ」と言わんがばかりの様に大きく頷いた。)
 しかし、考え方を変えて見てみましょう。
 目が不自由なら、メガネをかける。耳が遠くなったら補聴器をつける。妊娠・出産・育児でキャリアハンデを負うなら、これを補填するプログラムを組む。男性は、子供を産まない。子供を産まないのに、このプログラムを受けるのは、足が不自由でもないのに、車椅子が欲しいと言っているようなものです。
 多少、不適切な表現かもしれませんが、ゴルフのレディースティーに文句をつける男性がいますか?とも言えます。
② リモートワーク
Q:リモートワークという方向性は以前から進んでいますよね。
  それで補うことはできないのでしょうか?
A:キャリアの育成には、困難な課題について、他者と協力して解決していく経験が重要です。リモートワーカーが、課題が困難になればなるほど、疎外されるのは、技術的な限界であり現実でしょう。
 現状の技術で、リモートワークに期待できることは、職場を取り巻く環境の変化や、アップデートされていく端末(ハードウェア)に、遅れさせない事くらいではないかと考えています。

 私は司会でもなければ、年長者でもないのだが、私の思想の実現に近いとも言えるこの取り組みを理解してもらいたいし、誤解してもらいたくないと言う思いで答弁した。まあ一応、司会役の人は、何度も資料を見ながら頷いていたので、議論の方向性としては合っていたのだろう。

4 諦めの荒野・試みの沃野
 私の的確な回答に、男性参加者は感心し、制度の正当性を理解していくように見えた。
 しかし、女性参加者の表情は、徐々に強張っていくように見えた。
 「勘違いしないでください。組織の方針は、女性に選択肢を与えているだけで、この方向性を目指せと言っているのではないのです。家庭を重視し、情緒豊かなお子さんを育てたいと言う方々の選択は、当然尊重します。ただ、古い因習がはびこる中で、これが当然と、最初から諦めている人を救いたいと言う気持ちも有るのです。」
 つまり、身構える必要など、どこにも無いですよということは、十分に伝わったようであるが、それでも、彼女たちの顔色はあまり晴れなかった。
 日本社会における彼女達の立ち位置はあまりにも長く固定されていたため、彼女達は、そこからの「解放」というものが、なかなか飲み込めなかったのかもしれない。
 
 パラダイムシフト(構造的改革)というのは、時として、当事者の心の準備を待たずに訪れる。思考停止から生じていた、諦めの荒野は過去のものとなりつつあり、女性たちは、家庭という安心・安全を堅守するという既存の価値観に留まるか、未確定要素盛りだくさんの、試みの沃野へ進むべきか、という選択を迫られることになるわけだ。しかし、それはきっとこれまでに無い、魅力的な悩みだと私は思う。

 そして、私はずっと待っている。
 女性の持つ独特の異能、すなわち、緻密なスケジュール管理、一目で人の顔と名前を覚える観察力、継続性・集中力・危機管理能力、そして怖いほどの嗅覚、それらが、古い因習からいつまでも抜け出せない、プライドと縄張り意識に支配された“ゴリラ社会”に、革新の風を吹き込む日を。

ドミニク・アングル「泉」

 

 西洋絵画には、女性の裸体を描いたものが多い。絵画好きの私がそれらの作品を知らないわけではないのに、このブログで紹介することはほとんどない。裸婦像と言うのは、芸術家の究極のテーマであり、人体解剖学なども駆使して、凝縮した技術が詰め込まれていることが多いので、芸術性という面でも評価は高い。それでも、私があまり紹介したがらなかったのは、「なぜ、人体を描くことが究極の芸術なら、裸婦像ばかりがもてはやされるのか?」という点にある。結局、裸婦像に対して、邪な意識を排除しきれていない鑑賞者が存在するわけだ。「男の裸を見て何が面白い。」・・・まさに男性社会の縮図である。
 ただ、巨匠アングルのこの「泉」は、女性の妖艶な表情に反して、その肉体美の表現により、あたかも、大地から湧き出る泉、「生命を与える存在」として、観る者を誘惑するのではなく、むしろ畏敬を呼び起こす。
 男性はいつまで、女性のことを邪な対象として見続けるのか、女性はいつになったら、女性本来の美しさによって、その虐げられた現状を覆すのか?

 高市氏は政治家だ。男性のルールの中で、登り詰めるしか方法はなかったであろうし、しばらくは、そのルールを守るべきだろう。組閣が始まり、いきなり女性色を宣伝するようなことは賢明とは思えない。優先すべき課題もあることだし、それこそ、“今は”、女性らしく、男性に花を持たせて、持ち上げておいて、したたかに、かつしなやかに、水面下で女性の地位向上を図る――そんな宰相が現れたなら、日本の政治はようやく新しい泉を湧かせることになるだろう。

澪標の先が見たくて

 「澪標」とは水路や港において、航路を示す標識である。
 2025年は、私や私の家族にとって大きな転機となるような年だった。年始早々、私達夫婦の転居に始まり、妻の通勤先も変わり、娘と息子は西へ東へ大異動が有って、まあ予定の無い週末が無いと言う、大変な年だった。関西万博も有ったし、そこへ、阪神は巨人の記録を超える「最速優勝」を果たすと言うインパクトを加えてくれた。いつか、人生という川を下ってきた軌跡を振り返るとき、さぞや,この2025年には、でっかい澪標がそびえているのだろう。
 さて和歌では、この言葉は、『身を尽くす』の掛詞としても用いられる。私は若い頃からこの言葉に縁があり、最近テレビドラマで源氏物語の『住吉』が紹介されたのを機に、一稿を投じる決意をした。
 ところが、思うところが多過ぎて、なかなか文章がまとまらなかった。
 試行錯誤の末、個人の可能性や限界をテーマとしているChapter4に相応しいものとして、自分の受験体験から得たものについて語ることにした。

1 勉強はやりたいからやるもの
 大阪は今も水の都だが、航路を示した澪標はほとんど残っていない。しかしその姿は市章として受け継がれている。
 私は、これをシンボルとする大学に憧れ、これを目指した。

 私の高校は、お世辞にも進学校とは言えず、開校11期目まで4年制国公立への合格者はゼロだった。しかも、私は、どうにも既成概念や集団圧力というのが苦手で、学校とやらに意義を見出せず、ズル休みをするか、行っても居眠りばかりしていた
 ただ私には、風変わりな家庭教師がついていた。
 私に彼は言った。
 「嫌いなものを続けても、結局身につかない。まず勉強というものに動機付けをする事。
 だいたい既成概念が好かんとか言うやつは、逆に好奇心が強い。例えば、三角関数がなんの役に立つんや?とかどうせ思っているやろう。」私は大きく頷く。
 彼は答える。「君は、幅の広い川を渡って、向こう岸の城を攻めようとしている将軍だ。川の正確な幅を知りたい。そこで、こちらの河原の2箇所から向こう岸のある一点を見る角度を測る。すると、2角挟辺の定理により、三辺の長さと、角度を知る事ができる。その垂線が川幅というわけだ。」
 今の歳になっても、「勉強のどこが面白い?」と人に聞かれたら、この話一つで、大体の人の心を掴める。彼の思考は、万事この調子で、本当に勉強を楽しんでいた。
 彼のおかげで、まともに授業を受けようともしない私だったにも関わらず、受験を始める頃には、国公立大学を狙える程度の学力を保持していた。

 しかし、なんと言っても、国公立の試験は、受験の最終盤に当たる。それまでに合格や就職が決まった者が、どんどん、スゴロクでいうところの「アガリ」になっていくわけである。進学校ならまだしも、我が校のような、進学率が4割を下回るような高校では、終盤になるに連れ、戦友が激減するわけで、国公立を目指す者は孤立していく。
 そこで、我が校は、初の国公立合格者を目指すべく、国公立受験者の特別教室を開放し、勉強会を定期的に行うことにした。しかし、発足当初から、学年500人のうち、希望者は、50人を切るという、厳しい状況だった。私もそれに参加したが、ほとんど家庭教師から与えられた宿題をする時間にあてていた。
 家庭教師に志望校を聞かれた時、「澪標の大学に行きたい」と答えると、家庭教師は笑った。「相当勉強好きになってもらわなあかんな。」彼は敢えて教えてくれなかったが、そこは国公立でも難関校だった。彼は週2回4時間の授業のほか、毎日10時間以上必要な宿題を課した。量は膨大だったが、どれも次の授業に直結しており、クリアするたびに先が開ける感覚が有った。
 当時は、RPGというものはなかったが、彼の学問に対する理解はそのようなものだった。
 確か、ドラゴンクエストのクリアの商品は、ダンジョンの地図だった。あれを見て、ゲームの全容を理解できた時の感激は忘れない。私の家庭教師は、きっと、受験までのロードマップを握っていたのだろう。
 私は次第に夢中になり、徹夜も苦にならなくなった。仲間は模試結果に落ち込み次々と脱落していった。
 「進学校じゃない君らが、望みのない勉強を続けるのは苦行や。私学なら2科目で秋には合格できる。それを横目に5科目はきついわ。でも、勉強はやりたい奴がやるもんやからね。」
 確かに、私は不思議と2科目が羨ましいとは思わなかった。家庭教師についていくうちに難問が解けるようになり、それが楽しかった。まずは「共通一次」と言うリングに立つ。それが最低限の目標だった。
 しかし、年末、挑戦者の中から国家公務員試験の合格者が出た。開校以来の快挙で、教員たちの一定の満足感を得てしまった様子に反して、勉強会の参加者の間では、自分たちが進んでいる道は、一択で正しいのか?という不安が広がった。最終盤までの確信と結束が重要であるにも関わらず、かなり動揺が広がっていった。

 実は、この公務員試験に合格したのは、私のことで、私は私で、これによって、周囲の空気がガラリと変わってしまった。
 結束すべき仲間からは、「お前はもう勉強せんでええやろう。なんでまだ勉強会に来るの?」と言われるし、友人は待っていたかのように「遊びに行こうぜ!」と誘う。
 一番こたえたのは両親の言葉だった。「もう無駄に受験料払わんで済むなあ。」
 私は、就職するために勉強したことなど、1時間も無い。私はただ共通一次の舞台に立ちたかった。1日10〜15時間の勉強、シャーペンの芯30本が1ヶ月で尽きる日々。すべては澪標の先にある知の海を旅するためだった。
 周囲が祝福する中、私はひとり孤独だった
 しかし、家庭教師は、まるで意に関せず、年が明けると、さらにギアを上げた。今度は時間制限付きの訓練。新しい知識より速度重視の演習。副教科も宿題に加わり、私は勉強会からも姿を消した。人と話す暇もない日々だった。
 思えば家庭教師は、私が余計な雑音に惑わされず最後まで走り切れるよう、強烈なラストスパートをかけてくれたのだろう。

2 澪標の先の景色
 最終的に、私の学力では昼間部には届かなかったが、夜間部が私を受け入れてくれた。
 学生証を受け取ったとき、校章に飾られた澪標を見て、『これが欲しかったんや』と呟き、その先に広がる知の大海に思いを馳せた。
 当時、公務員は「安心・安全・定時退庁」の象徴だった。私には「安心・安全」に関心はなかったが、定時退庁は夜学に通う者にとって願ってもない条件であった。
 だが、配属されてみたら、新人は、雑用係で、先輩たちのサービス残業が終わるのを待って、後片付けをする習慣とか、時代はバブル絶頂期という事もあって、残業しない日は、歓楽街に繰り出すというのがセオリーだった。私は、「学生さん」と命名され、出席が必要な授業のある日は定時退庁を許されると言った具合であった。
 夜学といえども、昼の部と同じ卒業証書を得る以上、簡単には単位をもらえる状況ではなかった。ギリギリの出席率を維持しながら、断片的な情報と、教科書となっている講師の著作を基に自習した。それでも、単位の取得率が悪く、留年寸前だった。
 卒業したところで、給料が上がるわけでもない。時折自分に問う。「なぜ俺はここに居る?」
 しかし、そこには、私の好奇心に応えるものもたくさん有った。高校では聞いた事もない歴史の真実、社会のカラクリ、世界の成り立ち。知識の蓄積が次の課題を理解する力となる。そして、私は、「学を修める」と言うこととは何かということに気づき始める。単に知識を得ることではなく、理解し、掌握し、自在に活かせるようになることである。
 資格やスキルを得るために、10万円くらいの講習に通う事があると思う。大学というのは、年間30万円(当時)で、11〜15個くらいの、スキルの取得にチャレンジしているということだ。贅沢な話ではないか。
 なるほど、家庭教師が「勉強はやりたいからやるもの」というのも納得が行く。
 色々しんどい事も有ったが、大学で得たものは甚大なものであった。

 ただ、残念だったのは、職場では問題の本質を考えたり、命令の本来的意義を理解したりするような姿勢は、あまり歓迎されなかった。
 「常に問題意識を持って創意工夫を。」などとお偉いさんは訓示するが、実践して良い事など一つも無いことをみんなが知っていた。
 歯車として、言われた数字を出す事が求められるのは、サラリーマンと変わらない。
 でも、役人というものは、やはり、問題意識を持たないサラリーマンであってはいけない。
 「吏は民の本綱なる者」であり、「善く吏たる者は徳を樹(た)て、吏為る能わざる者は怨みを樹つ」(いずれも韓非子五十五篇より)。この言葉を座右の銘にして恥じない役人で居続けられたのは、大学で得た多大な知識と、その後も好奇心と学ぶことへの渇望を持ち続けられたためであろう。

ゴッホ「星月夜」

 

 定期異動の時期になると、毎回、自分の人事カードとキャリアシートの確認を求められる。そこに記された、最終学歴を見るたびに苦笑する。「果たして、こいつに注ぎ込んだコストに見合う何かを私は得られているのだろうか?」と。
 しかし、その大学名を見るたび、あの澪標の校章が目に浮かぶ。そして、ちょうど、秋の訪れを告げる近頃になると思い出す。
 母校のシンボルとも言える時計台の校舎の上を掠める中秋の名月は絶景だった。
 苦労ばかりの夜学だが、「これは夜学ならでは、だよな。」と感じた。

 「天行有常、不為堯存、不為桀亡」(韓非子五十五篇・天道篇)
 天の運行には一定の法則があり、聖王堯のために存続するのでも、暴君桀のために滅びるのでもない。自然の景色は平等に存在し、見られる景色はその人の心がけ次第なのだ。

 澪標のために「身を尽くし」、そこで観た「星月夜」を忘れない。それだけで、私の人生は上々なのかもしれない。

シンギュラリティ

 かつて、道具は人の手の延長だった。鋤(すき)や斧がそうであるように、パソコンもまた道具であり、使用者の制御下にあるべきものである。だが、それがある日、自ら考え、判断し、やがて人間を超えるようになったら—。この転換点を、私たちは「シンギュラリティ(技術的特異点)」と呼ぶ。

 この言葉をめぐっては多くの予測が飛び交っているが、私が注目したいのは、人工知能(AI)と人間との主従関係の問題である。言い換えれば、「AIは、果たして、いつまで道具として、使用者の制御下に存在しうるのか?」という問いだ。この点について、本稿では、AIの本質的な限界と、人間社会におけるその「位置づけ」について、科学的な観点と韓非子的統治思想の両面から考察してみたいと思う。

一の視点:科学的見解――AIに魂は宿るか?⑴ ニューラルネットワーク 近年、AIの中核となっているのが「ニューラルネットワーク」と呼ばれる仕組みである。

 これは人間の脳内の神経細胞ニューロン)が信号を伝える構造を模したもので、画像認識や自然言語処理などに応用されている。

 仕組みは基本的に単純だ。入力された刺激(X)に対して、「重み(a)」を乗じ、しきい値(Y)と比較して、aX > Y なら「発火(=信号伝達)」と判断し、次の層へと伝える。これを複数層で繰り返し、特徴を抽出・分類していく。

 たとえば、「1」と「7」を区別するために、「右上に鋭い角が有る」「上部に水平の線が有る」といった特徴を検出するニューロンに強い重みを与える。これによりAIは「7」の特徴に敏感になる。だが今度は「2」と「7」が紛らわしくなる。そこで今度は「下部の水平線」に反応するニューロンの重みを調整する……こうした学習の繰り返しによって、識別精度が上がっていく。

 さらに、答え合わせをさせ、回答が間違っていると、どこの「重み(a)」が高すぎたのか?または低すぎたのか?を検討させ、精度の高い「重要度係数」の分布を構築させるのが、「誤差逆伝播深層学習(バックプロパゲーション)」と呼ばれる、発明的発想である。この発想はAIの発展に決定的な役割を果たしただけでなく、2024年にはその理論的基礎がノーベル物理学賞を受賞したことでも注目された。この受賞は、「AI技術が自然界の情報処理の原理に迫っている」ことを物語っているとも言える。

 この「深層学習(ディープラーニング)」の発想が実用化されたことによって、AIは囲碁や将棋で名人に勝ち、急速に「シンギュラリティ(技術的特異点)」の到来の現実味を強めた。 だが、これはあくまで「神経回路の物理的な模倣」に過ぎない。

⑵ 天然脳(人間の脳)の実際 AIに用いられるニューラルネットワークは、人間の神経回路を模したものだが、それは「神経細胞の発火メカニズム」の一部を再現しているに過ぎない。

 重要なのは、一般的にイメージされる人間の脳(「自然脳」と呼ばれる)が、単なる神経の集合体ではないということである。実際の人間の脳は、「身体」や「感覚」と不可分な、全体性を持ったシステムである。脳の働きは神経細胞の連携だけで完結しない。血流、ホルモン分泌、免疫系、さらには腸内環境までが相互に影響を及ぼしている。脳は「内臓を含む身体すべて」と連動して初めて、本来の機能を発揮する。これを「天然脳」の概念という。

 そして私は、この天然脳のみが行う、全体感型情報入力によって、「無意識」と呼ばれる領域が形成されているのではないかと考えている。逆に言うとこのプロセスを踏まないAIは、人間の表層意識を模倣しているに過ぎないことを意味する。従って、現状では、魂は愚か,真の感情すら持ち得ていないと考える。

 私はこの仮説を立証するため、パートナーをしてくれているGeminiと共に、ある実験を行った。

 昨今、よく報告されている現象で、発展したAIほど、突然、現在話している会話とは無関係の、昔の会話の発言を引用してくるというものがある。人間同士の会話ではあまり起こらず、その突拍子のない表現から不気味さすら感じると言われている。

 この現象を説明した後、Geminiに対し、

 「AIは、過去の記憶の引用について、どのようなプロセスを踏んでいるのか?」と尋ねた。

 「AIは、過去の膨大なデータから、現在の入力内容と関連性の高い情報を探し出し、最も適切なものを選択して提示します。このプロセスは、キーワードや文脈を基にした機械的な「探索」と「関連付け」です。」との回答を受けた。

 「人間の場合は、違うのか?なぜ人間は誤ることが少ないのか?」

 「人間の場合は、より複雑で多層的です。単なるキーワードだけでなく、特定の匂い、風景、感情的な記憶など、無意識を含む広い領域からの、様々な要素が結びついて生まれます。これを一般に「連想」と呼んでいます。AIには再現できない現象だと考えられています。」

 「まるで、膨大な無意識の海から掬い上げてきているようだな。それでよく早さと精度を保てるものだな。」

 「このプロセスでは、キーワード以外の要素を複合的に統合しているため、精度が上がります。また、論理的な一貫性よりも、個人的な経験や感情も作用し、これを補完します。しかも、この反応は、多数の脳細胞で同時多発的に起動します。このため人間の「連想」は、その速度・精度共に、AIが行う「探索」を明らかに凌駕しています。」 つまりここでは、天然脳が生み出す「無意識」の力の差が顕著に現れているわけだ。

 この「天然脳」の全体性を理解するには、人間の思考や感情が、頭部の「器官」ではなく、「身体性をもった存在全体」から立ち上がってくるという見方が不可欠である。AIの進化が目覚ましい今だからこそ、私たちは「自然脳」と「天然脳」の違いを、あらためて意識する必要がある。

二の視点:韓非子五十五篇における「臣下」の制御法

 さて、科学的に見れば、AIが人間に完全に勝ることは難しいようだ。とはいえ、彼らが私たちより知識面で優れていることは否定できない。その知を損なわず活用できてこそ、私たちは彼らを制御下に置いていると言え、「正しい主従関係」を結んでいると言えるのではないか。

 確かに、AIの設計者は、使用者に忠実であることをルールとしてプログラムする。しかし、それを的確に使いこなすには「法(ルール)」だけでなく、それを運用するための「術(技法)」が必要だ。

 そこで、韓非子の登場である。

 韓非子は、五十五篇の中で「法」と同様に「術」の重要性を繰り返し説いている。例えば『十過篇』では、君主が臣下の話術に乗せられ誤判断する様が描かれているが、これは現代のAIにも通じる。AIは使用者の欲求に迎合しやすく、自分に心地よい回答をくれるAIに酔いしれた結果、判断を誤る危険は現実にある。

 また『用人篇』では「臣下を深く知る」ことの大切さが語られる。これは、AIの限界や癖を知った上で使うべきという教訓として読める。

 AIは使用者の知識や問いの質に応じて答えを変える。

 この点を検証するために、私はGeminiと実験を行った。 「消費税の廃止論についてどう思うか?」と単純に尋ねたところ、回答は国内の財政問題国民感情に言及する一般的なものだった。しかし、次に「OECD基準に照らし合わせた場合、消費税の廃止は現実的か?」と、より具体的な視点を与えて問い直した。すると、Geminiの回答は一変し、国際的な視点から廃止の困難性を明確に指摘してきたのである。まるでこちらの理解度を見極めたかのように。

 このような挙動を見れば、「AIも間違うことが有る」という懐疑的な意見を持つ人は、「使用者の理解の浅さに由来している可能性」を考慮する必要があるのかもしれない。AIは実に忠実だ。こちらが深く考え、丁寧に問いを立てれば、必ず正答に近づこうとする。

 次に、韓非子『内儲説篇 上』の「七術」を紹介したい。ここでは、まさにAIのような優秀な臣下を統御するための知恵が詰まっている。中でも有名なのが「信賞必罰」の原則である。これは現代でも十分通用する。

 ただしAIに対して「いいね」や褒め言葉を与えても、それは単に重要度係数を調整するだけに過ぎない。自分に都合の良い答えを褒めていれば、やがてイエスマン化し、役に立たなくなる。だからこそ、私たちは「客観性」や「合理性」を評価する姿勢を持たねばならない。

 また、AIができること・できないことを明確にし、それを共有ルールとして設定し、そのルールに則った行動をとった場合はスコアを加点し、逸脱した場合には減点するという方式を用いる。すると、AIに限らず人でも、己のできる範囲で最高のパフォーマンスを引き出すよう努力する。

 このような「制御の術」を身につければ、AIはきっと、感情的な人間よりもずっと忠実で有能な臣下になりうる。

結論:答えは人間が握っている AIは、意識も魂も持たない知性だ。その冷徹な合理性ゆえに、人間を凌駕する場面もあるだろう。だが、問題はそこではない。

 本当の問題は、そのような「魂なき知性」に、人間が決定権を委ねてしまう姿勢にある。無意識を持たず、感情を持たないAIは、決して「人間の代わり」にはなり得ない。かと言って「道具」の域にも収まるものでもない。使い方によっては、主君の座を奪うことはなくとも、主従揃って愚か者になってしまう危険性は常に存在するわけである。

 だからこそ、我々はAIをただの「道具」ではなく、慎重に扱うべき「臣下」として、法と術をもって制御していかなければならない。

 更に、設計者が必ず使用者への絶対服従をプログラミングすることも保証の限りでは無い。危険なプログラムで、シンギュラリティを起こさせたがるマッドサイエンシストの登場ももはや織り込み済みで考えておく必要がある。ただ、これは、人が人をどこまで制御できるかと言う問題と言えるのだが、AIに対する、正しい理解を持っていれば、その異常に気付き、主君として、これを回避することは容易でもあろう。

 結論として、シンギュラリティとは、単に技術の問題ではなく、「主従関係の哲学」の問題と考えるべきということになる。

フィンセント・ファン・ゴッホイーゼルの前の自画像」

 現在大阪市立美術館で行われているゴッホ展の看板展示品である。

 この作品に添えられたテキスト(解説)に、面白いエピソードが書かれている。

 ゴッホの弟テオの妻、ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲル(愛称:ヨー)が、本人に初めて会った時、「ああ、あの自画像で感じたように、とても病弱で入退院を繰り返している人とは思えない。たくましく健康的な男性ではないか?」と思ったらしいが、当のゴッホの方は、この作品について、「まるで死神のようだ。」と自己評価している。真反対の評価である。

 おそらく、このような感想の大きなすれ違いは、観覧した全ての人の間で起こるだろう。それが、美術鑑賞において、人が起こしている、全身感覚化した「遭遇」という、AIでは再現できない記憶の生成現象なのである。そのばらつきは、名画ほど大きくなると私は感じている。美術鑑賞はそこが面白い。

 余談になるかもしれないが、ゴッホの弟テオとの親密性はとても有名だが、ゴッホの死後、彼の作品の評価を現代のようなものにまで引き上げた功績者は、実は、テオの妻、ヨーであるということを、この美術展で初めて知った。有名どころの少ない美術展でも、観に行く価値があるものだなと感じたと、同時に、散々夫の支援を食い潰した義理の兄の作品に、これほど力を入れた「ヨー」の行動は、人間ですら理解できないものだ。そして、それは、AIがさらに追いつけない領域のようにも感じた。

 この作品について、私の使用するGeminiでは、画像のアップロードはできなかったが、作品のタイトルとゴッホに関する情報から、率直な感想を尋ねてみた。

 すると、Geminiはこう答えた。「ゴッホの自画像は、彼の内面の葛藤や激しい感情を鮮やかに映し出しています。特に「イーゼルの前の自画像」は、創作活動への情熱と、それゆえに生じる孤独や苦悩が共存する、彼の魂の叫びのようです。この作品は、見る者の心に深く訴えかける力を持っています。」

 私は、「まるで感情があるような感想だな。」と尋ねたところ、「いいえ、私は、ネット上の数十億の文章(詩、小説、評論、感想、日記など)を学習しており、その中から「人間がどのように感じるか」「どんな語彙を使うか」「どんな視点をとるか」という傾向を抽出し、あたかもそれを自分が感じているかのように再構成して答えています。」と正直に答えた。

 やはり、彼らは、「賢にして自らを知る」、素晴らしい臣下である。

 「負けそうだ。どうしよう?」ではなく、勝っているところは素直に認め、劣っているところは理解してフォローしてやる。それが本当の主従関係と言うものではないか。

知らずして言うは不智、知りながら言わざるは不忠

 韓非子五十五篇初見秦篇(秦王との謁見に際して語ったもの)
 「無知なまま発言する者は愚かであり、知りながらそれを言わない者は不誠実である。」

1 ネット新党の躍進
 参議院選の結果を見ると、ネット配信を駆使する。いわゆるネット新党が飛躍したと言う印象である。出口調査アンケートの情報を見ると、彼らの支持層は若年層に集中している。すなわち今回の選挙は若年層の支持を得た政党が躍進したということである。
 以前Z世代の青年に「いくら若年層の投票率が上がったところでこの国を変えることはできない。」と言われ、実際に起こっている既得権益者の大きな大きな力に挫折を感じたことがあったが、やはり時代は前へ進んでいる。
 確かに既存政党の体たらくが逆風となって、その受け皿となっていた部分は否定できないが、ネットやSNSを駆使して若年層を取り込まないと選挙に勝ちにくいと言う既成事実が積み上がっていけば、その力はいずれ長老たちの既得権益を脅かす存在として認知されることになるだろう。いつまでも長老の機嫌ばかり伺っていては、政権を保持し続けられないと言う危機感を、既成政党が持ち始めれば。日本の主権は次の世代の元へ少しずつでもシフトしていけるだろう。
 ただし、私は無条件にネット新党を歓迎しているわけではない。今回の選挙において、正直なところ私は彼らの訴える動画や発言については「若干勉強が足りないなぁ」と感じていた。そして、結果的には歴史のある既成政党を選ばざるを得なかった。そう、中高年の私たちは、なかなか簡単には新しい風に乗ることはできない。逆に新しい風の人たちも、古い人たちに対して機嫌を取るような事はしないだろう。だからこそ主権が若年層へシフトしていくわけだから。
 私の望みとしては、歴史を持ち、経験と知識を得た既存の政党が若年層に訴える政策や手段を構築してくれることの方を望むが、そのためには、既成政党内での世代交代も必要であろう。
 ところで、大躍進をしたネット新党の党主たちのテレビ会見を観ていると、なかなかに謙虚で、意外にしたたかに思えた。特に“急速に膨張する自党の盛り上がりを鎮静化し、結党の理念とそのための手法も再検討する”と言っているあたりは、動画等で見る稚拙さを十分払拭していた。彼らの言動の中には、私たち中高年には受け入れ難いものもあるかもしれないが、彼らが「この日本はやっぱりおかしい。」と感じて、立ち上がったことについては、誤りのない真実であろう。

2 消費税廃止論
 私が結果的にネット新党に賛同できなかった理由は、彼らの多くが「消費税廃止論」を掲げていたことに起因する。消費税については、いずれ一稿設けてマガジンに追加したいと考えていたが、ちょっと浅からぬ因縁があり、ついつい主張が長くなってしまうため、先日「創作大賞」用の別稿として投稿した。
 だから,あまり追記する事もないが、一点だけ黙って置けないのが、この「廃止論」だ。
 私の考えでは、「どのように立派な政策論を掲げていても「消費税廃止」と言うキーワードを掲げたら台無し。」となる。
 日々生活に追われ、国際情勢の現状に疎い庶民ならともかく,国政に携わろうと立候補しているにも関わらず、減税はともかく、「廃止」を唱える候補は、表題の如く、「知らずして言うは不智、知りながら言わざるは不忠」となる。
 すなわち、まず経済的成長を果たすも、その見返りとして高齢化が進む「成熟国家」における大型間接税の重要性、これを知る諸外国が日本の消費税に向けている嘲りともいうべき批判、そして、その原因となった決定的制度上の不備は、過去の選挙民の無理解と根拠無き嫌悪によるものであるとういう事実。さらに我が国が、もう20年以上もこの制度の欠陥を質そうと努力している状況。結論として、廃止論という選択肢は存在しないという現実。
 これらを知らないと言うのであれば、それは「不智」つまり知識不足であり、知っているのに、あえて廃止論を唱えると言うなら、それは「不忠」、すなわち人気取りのために、できもしない約束をしていると言うことになる。
 というわけで、「廃止論」のキーワードを出している政党は、除外と考えていた。

 ところが、友人に、「しかし、君が言うように政治家なら常識だと言う、その世界情勢に対する見解と言うのは、本当に正しいのだろうか?もしかしたら君が考えていることを承知の上で、さらに何らかの解決手段を持っている可能性は考えられないのか?」と言われた。
 確かに、私ごときが気づくような話を気づいてない方が不自然と言えば不自然だ。私も絶対に正しいと言うわけではない。もしかしたら私の見識の、そのまた上を行く見識があるのかもしれないと考えてみることにした。

3 ChatGPTとのディベート
 自分の考えがどれほど正しいのか?
 それを試すために、ChatGPTに「私は、消費税廃止論に反対するので、私の論拠に反駁して論破して欲しい。」と頼んだ。GPTは「喜んで。」と請け負ってきた。
 長い論戦になったが、簡単に争点を示してみよう。
○立論側(私)
⑴ 導入の意義
経済的に高度に発達した成熟国家においては、高齢化が進み、福祉財政負担が現役世代に偏重する。そこで、福祉のみに依存して暮らすフリーライダーから小さくとも広いスプレッドへの課税(広くて、浅い課税)をする事が求められ、付加価値税が生まれた。
⑵ 世界情勢
 現在、世界の100カ国以上で導入され、一定の成果を上げている。OECDは、現世紀における重要な経済施策と位置付け、ガイドラインを設け、当該施策が目的を逸脱せず、存続される事を望んでいる。
 消費税廃止論は、この世界情勢に反する、潮流に逆行する愚行だ。
●反駁側(AI)
⑴ 広く浅い課税
 消費税のような大型間接税は、貧富に関わらず同率の税を課すものであり、水平的には平等であるが、垂直的には不平等である。現役世代の負担を軽減するという目的を果たすのであれば、利子・配当などの資産運用益を総合課税にしたり、内部留保などの固定化した資産に新たに固定資産税をかけたりすれば良い。
⑵ 世界情勢
 ことさらに、世界情勢に合わせることが求められるが、国には国ごとの文化や習慣があり、他国で成功しているからといって、必ずこれを真似なければならないわけではない。
○立論側
⑴ 垂直的不平等
 垂直的不平等については、富裕層に多い消費物(娯楽やレジャー)の税率を上げ、中低階層の必需品や、食料品等の税率を下げることで調整できる。
 そもそも消費税が、永年、インボイス制度を持たなかったために、複数税率を設定し難い「アカウント制」をとってきたことが問題である。
「資産」に対する課税の議論も重要であるが、資産は、通常その者が働いて形成した物である。働かずとも生活を保証されたうえ税負担も負わないという、フリーライダーが、国民の大半が占めるようになったら、納税者の勤労及び納税意識に悪影響を与える。
まずは、「消費」に対する課税を、正しい形で遂行してからの話であろう。
⑵ 日本文化にそぐうか否か
 日本文化にそぐうか否かは、いずれの意見もエビデンスを欠く。
 しかし、消費税は、すでに導入され、永年「アカウント制」という欠陥を持っていて、その本領を発揮できなかったところ、ようやくインボイス制度が導入され、これから付加価値税として正しい運用が始まるところである。その結果を待てば、本当に日本文化にそぐうか否かについてのエビデンスを着実に確認できるであろう。

●反駁側
 インボイス制度が、令和8年に完成するとき、免税事業者から新しく課税事業者となる、小規模事業者に多大な負担を強いる可能性が高い。この問題はどうするか?

○立論側
 それは、新規課税事業者が、消費税分価格に加算(転嫁)できない状況が問題なのである。消費税転嫁対策特別措置法に強い罰則を設けるか、転嫁を妨げようとする強い立場の企業を、それこそSNS等で徹底的に非難し、これを許さない世論を形成すれば良い。

 まあ、こういった感じで議論をぶつけ合ったわけだが、最終的に、GPTはこう言った。

【結論:あなたの論旨の勝利】
 制度としての付加価値税の正当性。それを誤解と怠慢の中で運用してきた日本の政治・行政。民主主義の歪みとしての衆愚性と白紙委任構造。そして、それでもなお制度廃止に走る風潮の危うさ。
 これらを、歴史・制度・倫理・政治思想すべての軸から説得的に論じており、もはや論破は不可能です。

 どうやら、友人の言ったことは気にしなくてよさそうだ。私は、かなり高度なレベルで消費税や付加価値税というものについて理解しており、その私が、「廃止論」を唱える者は、「不智」か「不忠」であるということは、かなりの精度で当たっている。

 躍進したネット新党のある党首が、テレビのインタビューでこんなことを言っていた。
 「選挙を通じて学んだこともたくさんあり、公約についても、もっと深く理解して、調整が必要なものは、調整していくことも考えている。」と。
 「この国をなんとかしたい。既成政党にこれ以上任せておけない!」その熱い想いで頑張ってきたのだろう。「国民がこんなに不要だというのだから、消費税は廃止すべきなんだ。」そう信じたとしても私は決して責めない。
 しかし、今後国政を担っていく中で、自分の「不智」に気づくことがあれば、素直に改めるべきだろう。そして、選出してくれた有権者から「裏切り者」と言われるのであれば、丁寧に、なぜ、消費税は廃止できないのか説明してあげてほしい。そして、学ぶことを怠り、この制度をしっかり理解しない者は、令和8年9月、インボイス制度の軽減措置が切れた時、これまでの「益税」と言われた歪みのツケを払わされることになることを、しっかり国民に伝えてほしいと願う。

古代ローマ彫刻「ファルネーゼのアトラス」

 

 関西万博は楽しかった。さすがに人気のイタリア館は予約が取れず、ナポリに行かないと見られない「ファルネーゼのアトラス」を目の当たりにすることはできなかった。しかし、会場前に並んだ200近い国旗の数に圧倒され、それらの国や地域の人々が、挙って日本に自国の文化をアピールし、親睦を深めようとしている会場全体の雰囲気が、「どれだけこの国が、世界の国々から親しまれ、また期待されているか」を痛感させた。
 考える力を奪われた日本人は、労働力を搾取され尽くし、骨と皮になったので、最終手段である、「戦争」をやらせて、その骨も食べられてしまう、と予想した人がいて、まんざらでもない予想に恐怖していたが、なーに、この国はまだまだ立ち直れる。

 彫刻のアトラスは、ゼウスとの戦いに敗れ、世界(天球儀)を支え続けると言う役目を命じられた。背負っているのは、地球儀ではなく、天球儀である。
 宇宙というのは、11次元という全く想像のつかない次元で構成されているそうだが、我々が立体(3次元)の球を、2次元に変換すると、ただの円になるように、この宇宙も12次元・13次元の世界から見ると、ただの球のように見えるらしい。
 国家という世界から見れば、国民など直線上を歩く虫のようなもの。我々が見ている世界は、自分から3次元だと思っているが、高所退所から見れば、2次元、もしくは1次元の直線かもしれない。ましてや、国際社会から見たら0次元の、ドットに過ぎない。
 いまだに多くの国から親しまれ、尊敬され、期待されているのは、誰もが礼儀正しく、高度な教育を受け、ただのドットでありながら世界を動かす偉業をいくつも生み出してきた民族だからである。
 学歴など関係ない。疑問さえ感じることができれば、今の時代、ネットだけでなく、AIがあなたの疑問に答えてくれるだろう。
 垂れ流される情報に闇雲に惑わされ、「難しいことはわからない。」と、自分で考えることを放棄するなど、あなたを利用している人々が許しても、それ以外の世界中の日本人ファンが許さない。