万葉集 額田&大海人 あかねさす~ むらさきの~
あかねさす むらさきのゆき しめのゆき のもりはみずや きみがそでふる
「茜指す 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る」
(巻1・20・額田王)
茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流
【返歌(へんか)】
むらさきの におえるいもを にくからば ひとづまゆえに われこいめやも
「紫草の にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに 我れ恋ひめやも」
(巻1・21・大海人皇子)
紫草能 尓保敝類妹乎 尓苦久有者 人嬬故尓 吾恋目八方
時は飛鳥時代 ぬかたのおおきみ(♀)が若き日の元夫のおおあまのおうじ大海人皇子(のちの天武天皇)に宴席で送った歌と、大海人皇子からの返し歌とされています。
元夫への秘密の文ではなく、残っている、ということで場を盛り上げるため今の夫(大海人のお兄さん:天智天皇)から詠むように言われた説が有効です。
現代だと三角関係のようなので有名ですが、当時は近親婚などが多くて今ほどは微妙ではないと想像します(内心はわかりませんが)。この頃は2人も熟年にさしかかり、3年後のお兄さんの没後は、大海人皇子は国を思い(当時は男兄弟の方が優先されたし、現妻にも焚きつけられ)壬申の乱をおこす事実もあり、公の場なので冗談っぽくしつつも秘めたる男女の機微や思惑を想像させる魅力と情景の美しさが、現代にまで輝きを放ち続けています。
袖※も実際に額田王へ振ったのではなく、舞を舞ったという説や、額田王が「私に振ってみせてよ」という冗談メッセージかも?とも思えます。※袖振り=手を振る様な感じ
「あかねさす」は「紫」や「日」、「光」などに続く枕詞
「むらさきの」は紫草:薬草をとる場所、高貴な庭園
「しめの」は特別区域、禁区とかけて、しめの行き=牢屋行き・捕まっちゃうよ
「みずや」 見ない/見てない かな?かしら?、という疑問形
「こひ」=動詞 こふ、の未然形/連用形 + 「め」=推量 む、 の已然形
=「こひめ」こいむ、の已然形
「や」は反語をあらわす。 「~めや」で、~しないだろうか(いや、する)
「も」は詠嘆/強調。
やだわ、あなた私に袖なんて振ったら、見られて咎められるわ(私が憎い?私は満更でもないからね)
憎かったら、美しいあなたに人妻なのに恋するかな(憎くないし、困らせるつもりもないよ)
というような意。( )内はさらに私の意訳です。
歌人である額田王の歌がスキルとしては上なのかもしれませんが、大海人皇子の歌もなかなか疑り(深読み)したくなる不思議な魅力があります。
★さて、文字でやりとりしたであろうお二人、見てください、茜草で来て紫草と返す、逝と行、野と能、二人のセンスが素敵ですね。
…おまけ…
~~ ところがどっこい ~~
この歌を深読みする研究者は、やはり壬申の乱との関係を示唆し、
お兄さんである天智天皇が、額田を通じて弟に探りを入れたのでは、という見方でみています。
そうなってくると、この歌は恋のイメージでカモフラージュした、物騒な歌となります。
やだわ、あなた、今さら咎められるようなことしないよわよね?(私と私たちの娘♥が困るような怖いこと、企てていないわよね?)
あなたを困らせるようなことは、しませんよ(もちろん二人は守るし、困らせないよ(あなたの夫がいるうちはね))
この複雑さが、色々な小説や漫画家たちにインスピレーションを与え続ける点でしょう。
♥大海人皇子と額田王の間に十代の頃にできた一人娘:十市皇女(とおちのひめみこ)は、この歌が詠まれた宴の時点で19歳前後、4歳くらいの息子までいます。
この十市皇女…子孫は一条天皇(つまり藤原道長の甥っ子)にまで行きつく、額田王の大事な一人娘ですが、なんと壬申の乱で大海人皇子と争うことになってしまう大友皇子(お兄さんである天智天皇の長男:この時点で28歳くらい)の正妻なんですね。
というわけで、十市皇女は天智天皇にとっては人質という見方も多く(弟の大海人は自分の娘婿に酷いことはしないだろう、という、オマエの娘、オレの長男の妃ではなく正妻にしてやったんだぞ、という恩着せプレッシャー)、壬申の乱は天智天皇が死んだ後とはいえ、相当な親族内争いであります。
大海人にとっても、壬申の乱は現妻(のちの持統天皇:これまた天智天皇の娘、大友皇子の異母妹。大海人より15歳くらい年下なので、十市皇女が4歳くらい上)にも焚きつけられ、周囲にも担ぎ上げられはしたものの、
大友皇子が死ぬことまでは望んでいなかったと思います。(自害してしまいましたが)
大事な娘:十市皇女の夫が負けたとなれば、十市皇女の立場が苦しくなるのはわかっていたことです。壬申の乱後には引き取ったという説等がありますが、気にかけていたことは間違いないと思います。十市皇女が30前後で亡くなった時、声をあげて泣いた、と記録されています。
ところで持統天皇は父(天智天皇)を、夫(であり叔父:大海人皇子)を、歳の近いその娘(十市皇女)をどういう目でみていたのでしょうか。同母姉の息子(夫は同じ大海人:人望があった長男)すら手にかけたと言われています。おっと話がそれました。
額田王と大海人皇子は2歳差くらいで、大海人皇子の方が少し年上ですが、亡くなったのも同じ60歳くらいと言われています。
額田王は歌が詠まれた当時4歳くらいだった孫(十市皇女と大友皇子の長男)を守ることに、その後の生涯をかけたような気がします。
大海人は壬申の乱の後は天武天皇として大忙しだったと思いますが、野心家の妻:持統天皇の目論見は玄孫くらいまでで続くものの、結局、その後は天智系に戻ると思うと、なんだか複雑です。もうとっくに亡くなっているので知るよしもないですが。
額田王と大海人皇子は、この歌が詠まれた後、あるいは壬申の乱の後、連絡はし合ったのでしょうか。二人の間の娘に関して業務連絡のようなものはあったかもしれません。
二人の遠い若い日々を忍ばせるような、それでいて冗談を言い合える最後の機会であったのでは、と思わせるような、美しく、強く、それでいてどこか儚い歌です。