富良野遠征 ― 南富良野町マンホールカード ―

目次

 

1.マンホールカード

落合駅から国道を西に戻って、幾寅の市街へ。

保健福祉センタみなくるで配布中。

 

 

カントリーサインにも使われている、金山湖でカヌーを漕ぐ様子が描かれている。

 

一緒に描かれているのは町のシンボルのヒナゲシ(雛罌粟)、クルミ

 

カナディアンカヌーカナダインディアンが湖沼の移動に使っていたオープンデッキカヌー。前後の二人がそれぞれパドルを漕いで前に進む。

水をとらえる部分(ブレード)は片側だけについている。

よく似ているカヤックは両側にパドルがついているのが相違点の一つ。

アイヌ民族の丸木舟(イタオマプチ)もカヌーの一つと言えるかもしれない。

静水用のカヌーは、直進性能が強く、安定性も良いのでゆったりと景観を楽しむのに向いており、クローズデッキのカヤックに比べて荷物も多く積むことが可能。

 

ヒナゲシはヨーロッパ原産のケシ科の一年草

虞美人草やコクリコとも呼ばれる。

漢帝国を築いた高祖劉邦と覇権を争った武将、項羽が敗れた際に運命を共にした愛人の虞を葬った墓にこの花が咲いたことからこの名がついたといわれる。

 

クルミ属の樹木は北半球の温帯に広く分布。

日本に自生しているのは大半がオニグルミ。

太い枝を分枝させる割に小枝が少なく、渓流沿いに多い。

リスなどの貯食対象で、分布拡大の一因にもなっている。

日本では縄文時代の遺跡からクルミの殻が出土しており、食用にされていたことがわかっている。

他の植物の生育を阻害するアレロパシーが強い。

 

2.幾寅市街

マンホールカードの配布場所は南富良野町の中心部である幾寅の市街。

アイヌ語のユクトラシュベツ川が語源とされる。

ちなみに和訳すると「鹿が越える」となり、隣の東鹿越駅の由来でもある。

1901年から開拓がはじまり、翌年には鉄道が開業し市街を形成。

町内で農適地が最も多かった。伊勢団体・岐阜団体・内藤農場などが開かれた。

伊勢団体の入植地は金山ダムによって湖底に沈む。内藤農場は内藤の沢川にその名残。

岐阜団体の入植地が現在の幾寅市街となった。地理院地図には岐阜の名が記載されている。岐阜という住所はないようなので、通称だろうか。

 

造材も盛んで、1921年には幾寅森林軌道が開業。

市街北東にある幾寅川上流から幾寅駅構内へ続く路線だったが、わずか7年で廃線となった。

 

1970年代の国土地理院地図の航空写真

 

駅裏、駅東は木材の貯蔵・積み出しを行う広い構内であった。

この時にはすでに遊休地に近い存在になっている。

富良野遠征 ― 落合駅 ―

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1.落合駅

山部駅から国道38号線を南下、さらに東へ進む。

小さな東山の市街を通り抜け、幾寅峠を越えると南富良野町に入る。

 

 

東山の市街は、国道沿いではあるが、ガソリンスタンド・駐在所・郵便局が主な施設。

 

 

勾配の緩やかな幾寅峠。

 

富良野の中心部を通り過ぎて、東へ進むと落合の集落に到着。

 

こちらも公共施設が中心の小さな市街。

 

左手に曲がると、少し進んだ先に落合駅がある。

 

 

赤い屋根の横長駅舎。ここはまだ落合駅と記された駅名標が健在だった。」

郵便ポストも入り口わきに佇んでいる。草が伸びてはいるが、季節的にある程度は仕方ないだろう。

 

向かって左に古い跨線橋が見える。中を歩いてみたかった。

 

線路とホームは草が生い茂って見えにくい。近い将来には完全に自然に還るだろう。

 

少し離れたところから。バス停が駅前ではなくちょっとだけ手前に設置されていた。

 

駅は小さな山の麓に建てられたように見える。

実は駅のすぐ裏は空知川が流れており、対岸には人家もある。

 

2.落合駅と近隣の歴史

落合の名の由来は、空知川本流(シーソラプチ川)とルウオマンソラプチ川が同地で合流することに由来。

アイヌの人々にとっても交通の要衝であった。

富良野方面から開拓が進むと、1899年駅逓が設置された。

串内、トマムへ続く道の分岐点であり、さらには十勝へ入地していく人々の狩勝峠前の休泊地でもあった。

昭和初期の1927年に廃止となった。

 

1901年旭川~落合間の鉄道が延伸し、終着駅の一般駅として落合駅が開業。

狩勝峠越え工事の拠点となり、市街地も形成される。

1907年当駅~帯広駅間開業。

1913年落合機関庫設置。

1922~1928年はトマム森林鉄道、1928年~1943年は落合森林鉄道と接続していた。

落合森林鉄道は当初清水沢、後年はより上流に架設され、落合駅の土場へ木材を運んだ。廃止後、路床は自動車道に転換される。

 

国土地理院地図の1970年代の航空写真

 

森林鉄道はなくなったが、駅前西側には木材が山と積まれているようだ。

さらに駅の東部には木工場らしき建物も。こちらにも木材が大量に積み上げられ、専用線もあったようだ。

しかし、すでにこの頃は木材需要の減少期。

1982年貨物取扱廃止。

1986年無人化と縮小が進む。

 

2016年、台風の影響で線路が不通となり、代替バスの運行が始まる。

東鹿越駅~新得駅間が代替区間となり、落合駅代替バスの待合室となった。

そして2024年富良野新得間の廃止が決定。

落合駅は廃駅となった。

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富良野遠征 ― 山部駅 ―

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1.山部駅

布部駅から道道544号線経由で南下しようとしたが、途中で狭く舗装のない道となり、取りやめて経路変更。確かに森の中をつっきる道で、生活道路ではなく林道っぽい。

 

 

国道237号線まで戻って、南へ進む。

農村地帯を抜けて、勇振川を越えると山部の市街地に到着する。

 

 

国道沿いは店舗も多い。

 

 

山部駅は市街地の中心部。国道からわずかに西へ進んだ場所に位置している。

 

 

駅舎は山小屋風のデザイン。白い壁にたくさんの窓があって明るい雰囲気。

郵便ポストに木製の電柱も健在である。

 

駅前通りは道道544号線。駅前旅館が見える。

この道路、麓郷から布部駅を経由して山部駅に達する結構長い道路。

 

布部駅方面。線路には草が生い茂っている。

右手に見切れているのはJAの施設。かつては鉄道運搬貨物の搬出入が多かったのだろう。

 

手前には石造りの農業倉庫。

鉄道とは切っても切れない関係だ。

国道から見ると山部産業組合農業倉庫と書かれている。

 

2.山部駅と近隣の歴史

山部地区の歴史は1897年札幌農学校(現在の北海道額)の地質・地形調査を経て、数年後北大農場を設立し小作人募集開始に始まる。

1899年には東大演習林も開業。現在も管理事務所が健在。

1900年には山部信号停車場が開業。翌年一般駅に昇格している。

当初の数年間は上富良野~落合しか開業していたなかったため、旭川経由の移住者が多かった。

1913年滝川~下富良野駅(現在の富良野駅)間が開業し、下富良野は一躍交通の要衝・物資の集散地になった。徐々に便の良くなっていた山部駅前も市街化が進んでおり、1915年に下富良野村から分村。山部村を設立した。

 

1937年、東部の山地で石綿採掘が始まる。

1974年の閉山まで布部・山部地区にとって大きな産業だった。

実は現在も布部石綿という住所が残っているのだ。

 

山部市街地から空知川の対岸にあった野沢鉱山採掘場からは、空中索道で市街地側にあった選鉱場へ鉱石を運搬していた。

一方で、1940年に西達布を中心とする東山村が分村。

 

国土地理院地図の1960年代の航空写真

 

空知川西岸に大きく広がっているのが、おそらく選鉱場・事務所・工場。

従業員を多く抱え、山部地区は石綿城下町とも呼ばれたそう。

今では健康被害のイメージしかないが、優れた耐熱性や耐久性から戦艦や飛行機の耐火・断熱材、さらには建築資材としても広く使用されていた。

一方、山部駅裏には南西方面へかけて、広く木材が積まれている。

1965年町制施行も、翌年富良野市と合併。

 

御多分に漏れず、山部駅の貨物搬出も需要減少の一途。

1981年に急行狩勝の停車駅となったものの、1984年に貨物取扱廃止。

1986年簡易委託化。

1988年芦別岳登山の玄関口とあってか、現在の山小屋風駅舎に改築。

1994年完全無人化。

2016年台風被害により、鉄道営業休止、バス代替開始。

2024年富良野駅新得駅廃線に伴い廃駅となった。

 

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富良野遠征 ― 布部駅 ―

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1.布部駅

富良野市街地を通り抜けて南へ進む。

空知川を横断する国道237号線と途中で分かれ、道道544号線を進むと布部の市街地。

分断状態になってしまった根室本線の布部駅があったところだ。

 

駅北部には住宅地、南には木材会社や神社がある。

道道からわずかに奥まったところに駅が位置している。

 

駅舎とその前に植えられたイチイの木は健在。

緑の屋根と白い壁。青空が広がる天気の良い朝にマッチした爽やかな印象の駅舎。

 

ドラマ北の国からで知っている人も多いかもしれない。

第一話。ここからストーリーが始まった大事な場所。

・・・らしいが全く見ていない自分には何のこっちゃ笑

どうもああいう湿っぽいのは苦手。

 

ホームはもちろん立入禁止。遠くに夕張山地を望みながら草生す線路を眺める。

島式ホーム1面2線のうち根室方に向かって右手(駅舎反対側)のみを使用しており、そのほか側線があった。

 

道道から。駅前通りは短く、商店街があったようには見えない。

 

 

2.布部駅と周辺の歴史

布部地区は1900年から開拓開始。

駅の南東にある東大演習林から搬出された木材の集積地となり、製材や麓郷地区との交通分岐点として発展。

昭和初期から戦後まもない頃までは石綿鉱山もあった。

上記の環境から駅が必要として、東京帝国大学が中心となって開駅運動を展開。

請願駅として1927年開業。麓郷方面につながる馬鉄の森林軌道や貯木場を併設する一般駅だった。

 

布部駅と同時に開業した森林軌道麓郷本線はガソリン機関車を導入するなど、戦前は盛況だったが、1947年トラックに切り替わり廃線

 

国土地理院地図の1960年代の航空写真。

 

駅から道道を越えてまっすぐ進むと、森を切り開いた跡がある。

木材を搬出していた名残だろうか。

駅の南には貯木場が広がっているようだ。

 

時代を下って1970年代の航空写真

 

Wikipediaによると、横の落合方面にある貨物積卸し場へ向かう貨物線があり、さらに駅表落合方面に土場と貨物線から分岐する2本の引込線が、駅裏の富良野方面にも土場と駅裏本線から分岐する2本の引込線が、構内中央を中心とした点対称の様に配置されている。

 

1982年無人化及び貨物取扱廃止となった。

2016年の台風による被害で東鹿越~新得間が長らく代替バスの運行となる。

そして2024年富良野新得間が正式に廃止となり、当駅も廃駅となった。

 

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富良野遠征 ― 小駅たち ―

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1.島ノ下信号場

某月某日、この日は富良野方面へドライブ。

桂沢湖から道道135号を通って富良野市内へ。

通常であれば国道38号線で右折して富良野市街へ進むところを直進して、かつての島ノ下駅、現信号場を見に行く。

 

 

残念ながら車止めがあって坂の下にある信号場までは行くことができなかった。

遠くから写真を一枚とって退散。

 

ストリートビューでは行くことができたみたい。

 

綺麗に塗装されたコンクリート造りの駅舎。

物置にでも使っているのか、隣にコンテナが置いてある。

 

2.島ノ下駅と近隣の歴史

島の下地区の開拓がはじまったのは明治後期の1902年。

数年後温泉が発見される。昭和中期には遊園地も整備されたが火災で焼失。

現在のハイランド富良野に姿を変えた。

 

島ノ下駅は大正初期の1913年、一般駅として開業。

空知川を流送下原木を馬で駅へ運び貨物の発送が多かった。

1961年貨物の取扱いが終了。

1982年無人化。駅舎が木造から現在のコンクリート造りに改築。

1991年滝里ダム建設により線路付け替え。空知川左岸に沿っていた線路は島ノ下トンネルと滝里トンネル(計8.4km)を通る新ルートに変更。芦別市の滝里駅が水没により廃止。

富問地区の農家は国鉄用地に移転したらしい。

1970年代の富問地区

 

 

現在は河川敷のゴルフ場になっている。

 

 

2017年利用者減少とダイヤ改正に伴い、旅客扱いを廃止。島ノ下信号場になった。

 

3.学田駅

富良野市街を通過しいったん北上。

学田駅に到着。

 

 

農村の中に佇む小さな駅。

車を停める場所が近くになかったのでストリートビューの画像を拝借。

 

近年廃駅が増えてだいぶ少なくなった板張りの簡易なホームとその上に載っている簡易な待合室。

 

単線の通る長閑な風景にふさわしい駅。

市の中心である富良野駅から一つ隣に来ただけでこの風景である。

 

 

4.学田駅と近隣の歴史

学田地区も明治後期から開拓開始。

それ以前に付近一帯が札幌農学校の演習田畑、第八農場となっていたことから地名が学田となった。

1区から5区まであり、2区は水田開発。3区には渡船場

4区、5区には富良炭鉱があり、大正から昭和初期にかけて島ノ下駅へ運搬を行っていた。

学田駅は富良野線において気動車列車が運転開始となることに伴い開設。

1958年鹿討駅と共に旅客のみ取扱いで営業開始。

富良野駅~中富良野駅間は大湿地帯で、鉄道敷設時に学田経由と鳥沼経由の2案があったそうだ。

 

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