海人族膳氏の王権東国平定に果たした役割 要旨景行天皇の安房巡幸の日本書記の記述に、「
乘輿幸伊勢、轉入東海。冬十月、至上總國、從海路渡淡水門」。つまり、日本武尊の東征ルートと同じ陸路で上総入りした。
纏向の宮を出発した景行天皇、磐鹿六雁(いわかむつかり)の一行は、伊勢から尾張に向かい、ヤマトタケルの事績をなぞるように巡幸した。安房に借り宮を設営した。
『高橋氏文』逸文では、【天皇が上総国の安房浮島宮に至った時、磐鹿六雁命は皇后の命で「カクカクと鳴く鳥」を捕らえようとしたが果たせなかった。しかし堅魚と白蛤を得たので皇后に捧げると、天皇に献上するよう命じられた。そこで六雁命は无邪志国造上祖の大多毛比、知々夫国造上祖の天上腹と天下腹らを呼び寄せ、膾・煮物・焼物を作って献上した。天皇はこれを誉め、永く御食を供進するように命じ、また六雁命に大刀を授けるとともに膳大伴部を与えた。さらに諸氏族・東方諸国造12氏から枕子(赤子)各1人を進上させ磐鹿六雁命に付属せしめた。】
磐鹿六雁、膳氏の事績が太日川(後の江戸川)流域を遡って、下総国北限地にまで伸びている。葛飾野での景行天皇の狩りを楽しむ、天皇の行幸目的は、御子日本武尊の東国制覇の後を巡ることにあり、葛飾が東国の制覇の拠点であったことを認めるものであった。

【六世紀後半の「房州石」を用いた諸古墳が膳氏の進出と関係するか否かは、石室の編年などの点で更に精緻な考古学的検討が必要に思われますが、文献史料の検討からは、
六世紀末・七世紀初頭の時期に安房・葛飾・北武蔵の東京湾と旧利根川を介した水上交通ルートを掌握した膳氏の進出によって、膳氏管掌部(大伴部・宍人部など)と膳氏の仕奉する王族の御名入部(孔王部長谷部など)が東京低地に設定されたことが指摘できると思います。 水上交通ルートのみならず、「高橋氏文」及び 部民分布から確認できる膳氏の勢力分布と「房州石」の分布範囲がほぼ合致している。】 (以上田中禎昭「中世以前の東京低地」)
磐鹿六雁の説話と埼玉古墳群稲荷山古墳の鉄剣銘文の主とされるオワケ臣とを結ぶキーワードは、八代200年の膳臣系譜、大彦、多加披次獲居 たかひ(は)しわけなどであった。
また古墳石室などの房州石の存在は、膳氏一族の東京湾水系舟運の掌握を表しているとみられ、ヤマト王権の制覇も成就したとみられる。
歴史的経過
① 長柄桜山古墳群の造営 ヤマト王権は、4世紀後半東国に食指を伸ばそうとしていた時期、相模湾の奥深く、房総や武蔵国に睨みを利かせる戦略的場所逗子に前進基地を築き、大型古墳を造営した。畿内地域と東日本を結ぶ太平洋側の交通の要衝にあり、古墳時代における関東と畿内を結ぶ交通や、南関東の地域の情勢を考える上で重要である。東国の奥深くに前進するため、東京湾を渡り、東岸を北上した。太日川(後の江戸川)に到達するのです。
② 太日川(後の江戸川)ルートこの川を中心とした葛飾郡は、毛の国方向に向かって槍の形をした形状は、川を守る役割を葛飾郡に担わせている。戦略上、舟運などの意味がある。
更に、江戸川は、戦略上武蔵国や毛野国を攻略するとき、守りに強く、攻めるにも格好の位置にあること。
③ 多摩川・逗子ルート多摩川ルートの 多氷・橘花・倉樔を確保することで、前進基地逗子に接続するルートを確保したのです。
そのため、まず5世紀太日川(後の江戸川)流域の葛飾郡を固めて、6世紀になって武蔵国造の乱に介入して多摩川ルートを抑えた。これで前進基地の逗子から一気につながることになる。毛野、武蔵が海につながるルートを押さるのは無論のこと、王権の進出ルートの確保だったのです。既に東側は、太日川(後の江戸川)を抑えています。東西の大河を抑えることで、毛野は身動きがつかないことになります。荒川が残りますが、言葉通り流れの荒い、舟運には適さなかった恐れがあります。いずれにして、多摩川、太日川(後の江戸川)の東西で挟み撃ちされます。
オワケ一族の動向5世紀半ば、オワケ父世代は、太日川(後の江戸川)を遡上し、武蔵の地に入り、武蔵の地を収めていたとみることができる。
オワケ一族の8代200年の系譜が、埼玉古墳群の鉄剣銘文である。オワケ一族が、中央豪族の膳氏に連なり、中央から派遣され、埼玉古墳群に埋葬された。この系譜は、膳氏の西暦300年から500年くらいまでの時代展開を表している。孔王部氏の葛飾郡での活躍は、その後「膳氏の仕奉する王族の御名入部」としての時代600年頃の登場となる。
一方多摩川水系もヤマト王権の進出が着実に行われ、南武蔵の4世紀に前方後円墳が隆盛したのがその証拠であり、5世紀には、多摩川流域から逗子にかけて、屯倉が連なって構成された。
武蔵国造の乱が起こったと想定すると、膳臣による南関東の制覇が達成された時期をおいてほかに見当たらない。この地方の大きな争いは存在しない。このため、武蔵国造の乱の起きた時期を5世紀前半とした。
こういった確かな事実を抑えると、東国で起きた興亡は、膳臣を中心としたヤマト王権の仕掛けたことだとわかる。武蔵国造の乱もこういった背景があって起きたことと考えることができる。
このことは、ヤマト王権の存在によって、東国の勢力分布が大きく変わったことを象徴的に表すために挿話として入れたことが考えられる。
以上
- 2024/03/26(火) 16:33:35|
- ヤマト王権の東国支配
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