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相模湾 海から見る風景

逗子、鎌倉の海を眺め散歩で感じたことや、神奈川の古代を作った人々に思いを馳せ綴ります。

脂ののったイサキ

脂ののったイサキ

散歩の途中、魚屋、八百屋を覘く楽しみがある。季節を感じることができるからだ。
大幅に遅れていた梅雨入りもはっきりしない陽気ながら、関東地方も梅雨に入ったようだ。
この時期おいしくなる魚にイサキがある。相模湾からイサキが消えたといわれてから久しいが、魚屋でイサキがたくさんそろっていた。それも地の物、佐島上がりだった。
最近のイサキは、長崎産が多いのだが、私の口に合うのは、相模湾ものだ。特にこの時期のイサキは、梅雨イサキと言って脂がのってとてもおいしい。
釣りのイサキは、しゃくり釣法の釣りがおもしろい。一しゃくり毎に当たりがくるのではという予感があって楽しい。当たるとまた独特な引き味があり、掛かった時のキューンという感覚は心地よいものであった。この季節の釣りの楽しみの一つであった。

さて件の魚屋で、一番大きいものを選んだ。40㎝1kg近いものであった。
これが素晴らしい味を出してくれた。
家人は、久しぶりのイサキを見て捌けないという。そうだったのか、まさかこんなイサキを見て焼いてしまう人はいないと思っていたが、それをもろに言われた気がした。
そういえば、もう何年も釣りはしていないし、当時は釣った魚は、私が捌いていた。
何年かぶりで、魚をさばくことにした。まず包丁を砥石で丁寧に研いだ。
何と久方ぶり、砥石を使っていると昔の感覚がよみがえった。イサキも持ってみるとしっとりとして、脂がのっているのが良く分かる。
梅雨イサキ
包丁も研ぎ甲斐があった、大ぶりのイサキの骨もこの包丁で截ち切ることができ、刺身もきれいにさばけた。イサキの骨は硬く鋭くイサキは、「鍛冶屋殺し」と呼ばれ、鯛と同じくらい固く頑丈な骨を持っている。好きな人にとっては鯛よりも美味と思っている。
それも脂があってうまいのだ。
家人も最初恐る恐る箸をつけたように見えたが、この後、次々と食べ、半身をすかっり食べきった。
私は、包丁を入れたときに、脂がのっていることは確認していたが、箸をつけたとたんに、甘みと脂があって次々ご飯とともに食べた。
梅雨イサキここにありであった。
釣りイサキが相模湾から姿を消して久しい、佐島のイサキがこんなに脂がのって、うまいとは驚きであった。
旬という言葉がよみがえったようだ。イサキの相模湾復活を期待したい。
漁師と顔を合わせると、魚が全然獲れない、海洋環境の変化の話になるが、こんな厳しい環境変化の中でも漁業に打ち込む漁師たちがいることも事実である。細かな工夫を続け、仕掛けを改良続ける姿には頭が下がる。


  1. 2024/06/29(土) 20:43:35|
  2. 江戸の味舌つづみ
  3. | コメント:1

東博「法然と極楽浄土」観賞

東博「法然と極楽浄土」観賞

中将姫絵巻(当麻曼荼羅縁起絵巻)は圧巻だった、鎌倉光明寺出展の国宝だった、やはりこれまでこの絵巻は何度も光明寺で見てきたもの、模写であった、寄託先の鎌倉国宝館での展示は、オリジナルだが、ごく一部であった。今回の東博の展示は、後半部分だったが、最高のものだった。
幸いそんなに混雑していなかったので、何度も戻ってゆっくり鑑賞した。しかし詳細が眼鏡で矯正してもよく見えないのが現実だった。しかしよかった。

中将姫伝説 当麻曼荼羅縁起絵巻
仏教的性差別観の変遷
「女性が往生するという考えは、平安時代ではあり得ないことであった。しかし、鎌倉時代になって鎌倉新仏教の興隆とともに、女性も成仏できると考えるようになった。」とする説が有力だったが、
現在は、
「古代の日本では仏教的性差別観は理解されず、受容されなかったが、平安時代になり、貴族社会で徐々に五障、三従、龍女成仏、転女成仏、女人結界などが言われるようになる。 (平雅行『日本中世の社会と仏教』塙書房

中将姫伝説 当麻曼荼羅縁起絵巻
絵巻の大筋】天平時代、横佩(ヨコハギ)大納言の娘は深く仏法に帰依し、生身の 阿弥陀仏を拝したいと強く願っておりました。そこに阿弥陀仏と観音菩薩 の化身として、尼僧と化女が現れ、集めさせた蓮の糸をたちまちに五色に染め上げ、一夜で浄土の瑞想を織り上げたといいます。曼陀羅の教義を聞 いて感涙した娘は、信仰を更に深め、所願の通り、臨終の折には、二十五菩薩を伴って来迎した阿弥陀仏に引接され極楽に往生いたしました。
中将姫

この光明寺の国宝は、鎌倉国宝館に寄託されているものだが、何度見ても鮮やかで、延宝年間に大々的な修復を行ったとはいえ、とても800年以上たっているとは思えない。
光明寺の特別展で、模本を全巻見たこともあるが、これも寛政五年に制作と聞いてあまりに鮮やかで驚いたことがある。
絵師たちの思いは、中将姫の熱意をも感じさせるものであった。
絵画や芸術作品が、生きとし生けるものの悩みのそばにあって、ともに歩み、励まし続けるものであったことを感じる。

熊谷次郎直実と法然
熊谷次郎直実について法然の弟子として展示、自筆の手紙、繊細でやさしい字だった。優しい人だったのだろう。

【関白・九条兼実邸での聴聞 
熊谷直実の聞法は、非常に熱心でした。
法然上人が行かれるところ、どこへでもついて行き、熱心に聴聞したのでした。
ある時、法然上人が、関白の九条兼実の屋敷に招待された時のことです。

そこで、「娑婆というのは何と情けないところだ。
身分の違いで聴聞できないとは。
やがて参る浄土には、こんな差別はないだろうに」
と叫びます。
それを耳にした九条兼実は、法然上人に尋ねました。
「あれは何者ですか」
「あれは武蔵国から来た熊谷蓮生房です。
無礼の段、お許しください」
「いや、阿弥陀如来の本願は、男も女も、僧侶も在家の人も、身分の上下も何の関係もないと教えて頂いております。
ここへ呼んでやってください」
こうして熊谷直実は、大臣と肩を並べて聴聞したといわれます。
阿弥陀如来に救われると、どんな人も差別なく、平等一味の世界に生かされるのです。】
https://xn--udsw7h21snjj.jp/history/kumagai/#section8
 熊谷直実(くまがいなおざね)

  1. 2024/06/12(水) 20:47:43|
  2. 歴史紀行
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苔寺妙法寺

苔寺妙法寺
鎌倉に向け歩く、興がのって違うルートを歩こうと、妙法寺を目指した。

苔寺とも呼ばれる、独特の雰囲気をもち、静寂さ、気品、日蓮の霊跡として、日蓮宗研究者の論文によると、安国論寺、長勝寺を含めた三か寺検討の結果、妙法寺をその有力地と推定しています。
山に埋もれるように存在する妙法寺は、孤高、ひとり自分の志を守る貴重なものになっている。訪れる人も少なく、写真も見学者の姿を意識せずに撮れる。
静なことこの上なく素晴らしいことを感じさせる。
静かと言えば、先般盛岡を訪れたときに、静かであることが町の特徴であると聞いたが、静寂さはそれほど貴重で大きな雰囲気、イメージを作り上げることができる。気候が冷涼なこともそうさせている。
静かとは、「自分のイメージとそこにある雰囲気が穏やかに総合的に調和のとれている状態をいうのだろう。」
                    
       苔の階段陰翳強調

苔の光と影

スマホ撮影では、上手に表現できないが、陰翳ができて美しい。
光と影の織りなす情景はそこから日本人の美的感性、心の襞を浮かび上がらせる効果がある。林の中のほの暗さも雰囲気を作り出し、冷涼感を感じさせる。
苔の石段は立入禁止ですが、右側に法華堂へと続く新しい石段がある。小庵跡は、その法華堂の裏にあります。

苔むした下り階段
小庵跡に続く石段は苔で滑りやすいのです。下りがこれまた恐怖、桁の狭い安定が悪い階段、古い石段がデコボコですぐに転びそう、何とも不安定、蟹よろしく横向きで降りると安定感が増す。ところが、安定させようと踏ん張るともろに筋肉を使うことになる。さらに一度ふらついて、手をついた。
      恐怖の苔下り階段
10年前にここの階段は登ったはずだが、転んだ記憶はない、足腰が弱ってきた証拠だろう。


【現在、大町四丁目の地域が松葉ヶ谷としますと、安国論寺か妙法寺が松葉ヶ谷の草庵跡と推測されます。また、現地を調査した結果、松葉ヶ谷草庵はすくなくとも、二箇所あったと推定する説があります。(『日蓮大聖人ゆかりの地を歩く』鎌倉遺跡研究会四六頁)。そして、日蓮聖人が鎌倉に入り最初に住まわれたのが安国論寺で、ここにて『立正安国論』を執筆し、文応元年八月二七日の松葉ヶ谷法難を受けたと推察します。この理由を『下山御消息』や『妙法比丘尼御返事』に、大勢の人数で日蓮聖人を殺害しよう
としたと記述があり、このような暴徒が大挙して行動できる場所は、道路から近く広い庭を持った安国論寺しかないと推定しました。】 「松葉ヶ谷について」 高橋俊隆
       アジサイ

  1. 2024/06/07(金) 11:45:40|
  2. 逗子鎌倉葉山散歩
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東北桜紀行 

東北桜紀行 

連休の始まる直前「東北桜紀行」と銘打って旅をしてきた。
盛岡、角館、秋田内陸縦貫鉄道沿線の桜を楽しむ。さらに弘前、岩木山と鶴の舞橋とめぐる三泊の旅だ。
                  
鶴の舞橋温泉

盛岡
最初の盛岡は、友人も私も何度も来ているお気に入りの地。桜の季節は初めての旅となる。
昼頃についた盛岡は、土地の人が静かなことが特徴という通り、冷涼な透き通るような土地柄。
盛岡の桜は、石割桜が有名だが、タクシーの運転手が気を利かして回ってくれたがやはり盛りを大分過ぎて、それでも惜しむ人たちが屯していた。
城址の桜は、盛りの時期の輝きを見せて楽しめた。それにも増して、ビルの谷間に見える岩手山は、雪が残っていてどっしりとした山体は、雄々しくて春がやってきたことを感じさせた。
周辺の神社の桜は、日が差し始め光に浮きたち輝いていた。
岩手山

神社の桜
次の日、角館に出るのだが、秋田新幹線の他に在来線はないのか、新幹線ができて在来線との関係がどうなっているのか、聞いてみると、立ち席券のようなものがあるという。秋田新幹線の実情が見えてきた。
山岳地帯に入ると斜度がきついのか、新幹線とも思えぬノロノロ走行、上下線待ち合わせの時間もある。在来線の線路を新幹線車両を走らせた簡易の新幹線と思われた。

角館
桜並木が美しい、幅員をたっぷりとった道の両側に黒塀に囲まれた茅葺の武家屋敷が残っている。
新潮社創業者所縁の記念館しだれ桜、向かいの武家屋敷黒い塀が美しい。
角館道路
【佐竹氏は、天下分け目の関ケ原の戦いにおいて、軍事行動を起こしていない。だが、当主の佐竹義宣が石田三成と深い繫がりがあり、西軍寄りの姿勢を示していた。
関ケ原の戦いに勝利した徳川家康は、慶長7年(1602)5月、佐竹義宣に常陸54万石の没収と、出羽国秋田への転封を通達した。義広も、江戸崎を取り上げられた。しかも、替わりの所領は与えられなかったため、義広は兄に従い、秋田へ移転するしかなかった。
翌慶長8年(1603)、義広は佐竹義宣より、秋田の自領20万石から角館(仙北市)の1万5千石を与えられた。独立した大名ではなく、佐竹氏の家臣という立場であった。
義広は南麓に居館を移し、新しい町づくりをはじめた。義広が築いた角館の町並みは、400年余の月日を経た現在も、ほとんど変わらずに残っている。】wiki

秋田内陸縦貫鉄道
全長94km、3時間強の列車の旅
沿線の風景駅の周りに5~6軒の家が固まっている、小川が集落を巡り、背の高い大きな木の根元に石造仏。
原風景ともいえる定型化した集落の形態が見える。
遠くに頂に雪が残る山々が控え、線路の周囲に乾いた田んぼが広がる
沿線の春

内陸線の標高の一番高い辺りは、林が迫って、残雪が目立つようになってきた。

熊でも出てくるかと思って目を凝らしてみるがまさかそんな偶然はありやしない。
駅名にマタギとあるから、職猟師がいたのだろう。
阿仁合は、沿線最大の駅、かつて秋田藩の財政を支えた銅山が発見され、この内陸線も銅を運ぶために敷設されたものと言われる。
夕方五時を回って、阿仁合で長い停車があった、トイレに外に出てみる。運転手は、この電車一両連結だが、トイレが併設されているという。長い運行時間のためだそうな。
折角だから、駅前に行ってみると、結構大きな広場があって、山の中腹を道路には、桜並木と民家が並ぶのが見えた。
さすがに銅山が発見された古い歴史のある地だ。
退勤時刻のせいかぞくぞくと乗客がやってくる。おそらく、この地の学校の教諭たちだろう。この先の駅で降車する数人を何台かの車が迎えていた。服装まで似通っていて、ほほえましかった。

弘前
戦災に遭わず、城下町もかなり寺町、武家屋敷の街区が残っていた。
タクシーで回ったが、寺町は、数百メートルにわたる寺の塀が連なっていた。京都にもないような寺町だと運転手は自慢していた。
黒門、赤門と呼ばれる、由緒のある寺があり、そのうち黒門と呼ばれる長勝寺に詣でた。

寺町の街路の最奥正面に、大きな山門が迎える。各寺を従えるように配列されている。藩主の菩提寺。
創建時を偲ばせる伽藍が残っているよう、保存状態も良い、質素だが、どっしりしたお堂が並んでいる。歴代の藩主たちの霊屋が一直線に五棟、端が見えないほど壮観である。
タイムカプセルをあけたような新鮮な創建時の香りがした。
それがそっくり残っているのはまさに戦災に遭わなかったおかげというべきだろう。
津軽の土地の安定した運営をしのばれる。同時に何故弘前の人はこんな素晴らしい地を紹介しようとしないのか。
長勝寺山門
一直線の配置を五棟も連ねている。そこには魂の強い意志を感じる。
例えば、古代大和纏向の直線に並ぶ宮殿配置。
また、家康の赤備え、井伊家の霊屋もわざわざ先祖の地井伊谷の龍潭寺に設け、初代共保の生れたという井戸は、本堂と山門を結ぶ延長線上にあたる。
こういう先祖崇拝の敬虔な姿勢がうかがえる建築様式は、見るものにも強く訴えるものがある。
弘前の遺構を見るとそういうことを強く感じる。運転手さん曰く檀家さんの負担が大変なようですと言う。
                                                                                                                                                  
武家屋敷                                                                                                                二軒連なる武家屋敷、下級武士の屋敷と思える。家格の違いがみられ、こちらは、天井が施されていない。
「旧梅田家住宅」は約170年前に建てられたと考えられている武士の武家住宅です。
武家屋敷裏手
天守閣は、近年石垣工事のために曳家されていた。曳家は、ニュースになっていた。最初桜に目を奪われて気づかなかったが、石垣の基礎がないと、のっぺりした感じになる。まるで天守閣は大きなお屋敷と勘違いする。                                                                                                                                                                                    
 石垣のない天守閣          
鶴の舞橋
岩木山の雄大な山影を湖面に美しく映す津軽富士見湖。湖面に美しい姿を映す鶴の舞橋。全長300mのこの橋は、三連太鼓橋では日本一長い木橋であり、そのぬくもりたっぷりの優しいアーチ
修正岩木山鶴舞

対岸橋全景


青森の茅葺



東北の食を振り返る
今回の旅は、瑞々しい美しい日本の春を感じることだった。自然や風景を通しそこに根づいてきた文化や風土、築いてきた歴史を、今も息づいていることを知りことができた。 
まずは盛岡で昼、冷麺で有名な店に入ることになった。
 実はこの店を選んだのは、以前家族旅行で東北を回った時、土産物を選ぶ家族を待つ間に冷麺を食べようと、アルバイト風の店員に評判の店を聞き出かけた。ところが地下街を歩けど店の場所がわからず、地上に出て通りかかった女性に尋ねて知った店だったのです。その方曰く、若い方に店を聞いたのだと思います、その店はこの先にありますが、私の好みでよければそちらを紹介しますと駅前の店まで案内してもらったことがあるのです。その話を職場で、「親切な盛岡の人」と話していると、激しく同意する同僚がいて、その人の兄は盛岡に住み、日ごろから盛岡人の親切さを身に染みていたそうだ。
そんなわけで、ずいぶん暫くぶりだが、この名店の冷麺をいただくことになった。評判通り、友人も初めての味を堪能した。
シジミラーメン  新青森、太宰治の思い出記事が数々張り出されている店で、今回は行けなかったが、五所川原の先の私鉄沿線金木の斜陽館を思い出させた、店員に太宰治が好きなのかと聞いた。若いころ太宰作品にかぶれ留年した先輩がいた、何冊か読んでいたが、小説が好きだからこんな趣向の店を始めたと思ってしまった。すると少し年配の女性店員は、「私たち全員が、金木町の出身なのです。斜陽館が近くにあります。」「よく知っています。」「ありがとうございます。」もっとゆっくり店内の掲示を見ておけばよかった。シジミラーメンは、今回の旅の昼食の中で秀逸の味であった。
盛岡は肉の旨いことで有名だが、ホテルの夕食が焼肉コースであった。カルビの旨さは格別で、量も十分なくらい食べたが、黒ひげによる提供。
盛岡駅前での冷麺も盛岡を代表するが、この肉も最もうまい肉と評判と紹介された。
  1. 2024/05/09(木) 10:56:51|
  2. 歴史紀行
  3. | コメント:0

海人族膳氏の王権東国平定に果たした役割 要旨

海人族膳氏の王権東国平定に果たした役割 要旨
景行天皇の安房巡幸の日本書記の記述に、「乘輿幸伊勢、轉入東海。冬十月、至上總國、從海路渡淡水門」。つまり、日本武尊の東征ルートと同じ陸路で上総入りした。
纏向の宮を出発した景行天皇、磐鹿六雁(いわかむつかり)の一行は、伊勢から尾張に向かい、ヤマトタケルの事績をなぞるように巡幸した。安房に借り宮を設営した。
『高橋氏文』逸文では、【天皇が上総国の安房浮島宮に至った時、磐鹿六雁命は皇后の命で「カクカクと鳴く鳥」を捕らえようとしたが果たせなかった。しかし堅魚と白蛤を得たので皇后に捧げると、天皇に献上するよう命じられた。そこで六雁命は无邪志国造上祖の大多毛比、知々夫国造上祖の天上腹と天下腹らを呼び寄せ、膾・煮物・焼物を作って献上した。天皇はこれを誉め、永く御食を供進するように命じ、また六雁命に大刀を授けるとともに膳大伴部を与えた。さらに諸氏族・東方諸国造12氏から枕子(赤子)各1人を進上させ磐鹿六雁命に付属せしめた。】
磐鹿六雁、膳氏の事績が太日川(後の江戸川)流域を遡って、下総国北限地にまで伸びている。葛飾野での景行天皇の狩りを楽しむ、天皇の行幸目的は、御子日本武尊の東国制覇の後を巡ることにあり、葛飾が東国の制覇の拠点であったことを認めるものであった。
          景行天皇伊勢辻
【六世紀後半の「房州石」を用いた諸古墳が膳氏の進出と関係するか否かは、石室の編年などの点で更に精緻な考古学的検討が必要に思われますが、文献史料の検討からは、六世紀末・七世紀初頭の時期に安房・葛飾・北武蔵の東京湾と旧利根川を介した水上交通ルートを掌握した膳氏の進出によって、膳氏管掌部(大伴部・宍人部など)と膳氏の仕奉する王族の御名入部(孔王部長谷部など)が東京低地に設定されたことが指摘できると思います。 
水上交通ルートのみならず、「高橋氏文」及び 部民分布から確認できる膳氏の勢力分布と「房州石」の分布範囲がほぼ合致している。】 (以上田中禎昭「中世以前の東京低地」)
磐鹿六雁の説話と埼玉古墳群稲荷山古墳の鉄剣銘文の主とされるオワケ臣とを結ぶキーワードは、八代200年の膳臣系譜、大彦、多加披次獲居 たかひ(は)しわけなどであった。
また古墳石室などの房州石の存在は、膳氏一族の東京湾水系舟運の掌握を表しているとみられ、ヤマト王権の制覇も成就したとみられる。

歴史的経過
長柄桜山古墳群の造営
 ヤマト王権は、4世紀後半東国に食指を伸ばそうとしていた時期、相模湾の奥深く、房総や武蔵国に睨みを利かせる戦略的場所逗子に前進基地を築き、大型古墳を造営した。畿内地域と東日本を結ぶ太平洋側の交通の要衝にあり、古墳時代における関東と畿内を結ぶ交通や、南関東の地域の情勢を考える上で重要である。東国の奥深くに前進するため、東京湾を渡り、東岸を北上した。太日川(後の江戸川)に到達するのです。
太日川(後の江戸川)ルート
この川を中心とした葛飾郡は、毛の国方向に向かって槍の形をした形状は、川を守る役割を葛飾郡に担わせている。戦略上、舟運などの意味がある。
更に、江戸川は、戦略上武蔵国や毛野国を攻略するとき、守りに強く、攻めるにも格好の位置にあること。
③ 多摩川・逗子ルート
多摩川ルートの 多氷・橘花・倉樔を確保することで、前進基地逗子に接続するルートを確保したのです。
そのため、まず5世紀太日川(後の江戸川)流域の葛飾郡を固めて、6世紀になって武蔵国造の乱に介入して多摩川ルートを抑えた。これで前進基地の逗子から一気につながることになる。毛野、武蔵が海につながるルートを押さるのは無論のこと、王権の進出ルートの確保だったのです。既に東側は、太日川(後の江戸川)を抑えています。東西の大河を抑えることで、毛野は身動きがつかないことになります。荒川が残りますが、言葉通り流れの荒い、舟運には適さなかった恐れがあります。いずれにして、多摩川、太日川(後の江戸川)の東西で挟み撃ちされます。

オワケ一族の動向
5世紀半ば、オワケ父世代は、太日川(後の江戸川)を遡上し、武蔵の地に入り、武蔵の地を収めていたとみることができる。
オワケ一族の8代200年の系譜が、埼玉古墳群の鉄剣銘文である。オワケ一族が、中央豪族の膳氏に連なり、中央から派遣され、埼玉古墳群に埋葬された。この系譜は、膳氏の西暦300年から500年くらいまでの時代展開を表している。孔王部氏の葛飾郡での活躍は、その後「膳氏の仕奉する王族の御名入部」としての時代600年頃の登場となる。

一方多摩川水系もヤマト王権の進出が着実に行われ、南武蔵の4世紀に前方後円墳が隆盛したのがその証拠であり、5世紀には、多摩川流域から逗子にかけて、屯倉が連なって構成された。
武蔵国造の乱が起こったと想定すると、膳臣による南関東の制覇が達成された時期をおいてほかに見当たらない。この地方の大きな争いは存在しない。このため、武蔵国造の乱の起きた時期を5世紀前半とした。
こういった確かな事実を抑えると、東国で起きた興亡は、膳臣を中心としたヤマト王権の仕掛けたことだとわかる。武蔵国造の乱もこういった背景があって起きたことと考えることができる。
このことは、ヤマト王権の存在によって、東国の勢力分布が大きく変わったことを象徴的に表すために挿話として入れたことが考えられる。
以上
  1. 2024/03/26(火) 16:33:35|
  2. ヤマト王権の東国支配
  3. | コメント:0
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