遊心逍遥記

遊び心で本の森を逍遥し、その時の思いを残しておこうと始めました。

『ビッグブラザーを撃て!』  笹本稜平  光文社文庫

 笹本稜平さんの作品を溯り、作家デビュー作を読んでみることにした。
 2000年9月にカッパ・ノベルス(光文社)から阿由葉稜という名義で出版された。その時のタイトルは『暗号 -Back・Door-』である。
 2003年9月、文庫本となるに際して標記のタイトルに改題された。初版の文庫本表紙には、「長編謀略小説」「『暗号』改題」と小さな文字で表記されている。そして、モニター画面の前で外国人青年がこちらに顔を向けた写真が使われている。
 これだけの情報にこの小説の大枠がかすかに垣間見える。IT技術を踏まえてこれだけの長編謀略小説をデビュー作として描ききっていたのはさすがである。

 

 ビッグブラザーとは国際的謀略組織をさす。端末画面の写真と暗号との組み合わせから、プログラミング・ソフトが絡んでいることがイメージできる。バックドアという言葉からは、まずハッカーを連想してしまう。この小説、実はこのバックドアという言葉がストーリー展開の中でキーワードになっていく。

 ストーリーの舞台は東京なのだが、プロローグはムハンマド・アリ・サッカルというパキスタンの大学生の話から始まる。
 飛び級を経て、15歳で大学の理工学部に在籍する学生。彼はハッカーを楽しんでいて、アメリカのある政府機関のサーバーに侵入し怪しげなファイルを盗み出した。その顛末をUSENETに匿名で投稿したことから、ある男のコンタクトを受けた。彼が侵入したローカルネットワークのドメイン名が<ビッグブラーザー>だった。
 USENETの投稿記事の噂ではビッグブラザーはサイバーネットワークを通じた世界帝国の建設を目論む危険な集団だと言う。コンタクトしてきた男にアメリカでの約1ヵ月の仕事をオファーされる。破格な報酬の仕事に、ムハンマドは乗ってしまう。それが彼の運命を決める。そんなプロローグから、舞台は東京・西新橋にあるソフト開発会社「ロジックソフトシステムズ」に一転する。
 主人公はシステム開発室長をしている石黒悠太。石黒に滝本吾郎から電話が入る。滝本からの奇妙な依頼を受けて、石黒は赤坂三丁目にある滝本のオフィスに出向く。そしてメモと1枚のMOディスクを預かって欲しいと託される。オフィスが盗聴されている可能性があるからとメモに記されている。その直後滝本が石黒の面前で苦悶して死ぬ。
 刑事の事情聴取を受けた後、会社に戻った石黒悠太はそのMOディスクの内容を確認しようとするが、暗号化された文書ファイルだった。オフィスで手渡されたメモには、「もし俺の身に何かあったら、三日以内に<クロノス>から君に連絡が行く」と書かれていた。

 悠太の人生がこの時点から、急変していく。まずは滝本の死により、オフィスに居て119番に通報した悠太は、事件の重要参考人として、赤坂署の島野刑事の継続的な事情聴取の対象者となる。島野は滝本が業界では毀誉褒貶の多い人物だった点を絡めて悠太にアプローチしてくる。一方、会社では、出身銀行の権威を背景に役員である総務部長が、悠太と滝本の関係をベースに悠太の仕事上でのあら探しを始め、悠太を辞職に追い込んでいく。悠太の自宅の居間が何者かに荒らされる羽目になる。MOディスクを狙った侵入である。そして、遂に<クロノス>からの電子メールが届く。

 クロノスとは滝本が開発していた世界最強と自負する暗号システムだった。滝本はビッグブラザーという組織を知っていた。滝本は、クロノスをビッグブラザーの野望に対して抵抗するために開発したという。インターネットが真に市民の自由と安全を保障する社会基盤としての安全な暗号通信技術になるという。滝本は、クロノスを悠太の手で完成させて欲しいと託したのだ。

 結果的にソフト開発会社を退職する窮地に立ち至った悠太は、滝本の開発した暗号ソフトのプロトタイプを作り、さらに商品化するという道を突き進んでいく。それに対して、ビッグブラザースが立ちはだかってくるという構図。悠太の家族にもビッグブラザースの魔の手が迫っていくことに・・・・・。


 このストーリー展開のおもしろいところとしていくつかの柱がある。
1.クロノスという世界最強の暗号通信技術のソフト開発という商品化のステップを描いていくこと。そのために、悠太は「フォールズソフトウェア」という会社を起業する。悠太と妻の真梨絵が役員という会社だ。
 滝本の自負するとおりの世界最強の暗号ソフトたりうるかの理論的確認がまず不可欠である。そのため、高校時代の友人であり、この領域の研究者で東大理学部数学科助教授となっている平木滋に相談を持ちかけることから始める。そして、プロトタイプ(試用版)の開発、ライセンス契約バージョン、市販バージョンへと広げていく。
 このプロセスが、どのように進展するかというところが興味深い。勿論、そこには障害・危機が発生してくる。だから、おもしろいとも言える。

2. クロノスを開発した滝本とはどういう人物だったのか? 少しずつその全貌が明らかになっていく。一種謎解きのおもしろさ。悠太は大学の先輩であり、ソフトのことで指導を受けたというだけで、ほとんど滝本のことを知らなかったのだ。
 滝本は一緒に住んでいた宮坂ユリに遺産を残す手続きをしていた。島野刑事はその宮坂ユリが行方不明となったと悠太に告げる。
 島野刑事がこのストーリーでは、脇役ながら重要な役割を果たしていく。最終ステージでは、元刑事という立場になっているのだが。

3.クロノスのことを外部には一切公表していない段階で、ジェイク佐伯と名乗る人物が悠太にコンタクトを取ってくる。ジェイク佐伯は何者か? 
 悠太は疑心暗鬼の気持ちを抱きつつ、ジェイク佐伯と接触していく。ジェイク佐伯はもちろん、己の背景にある組織のことは一切明かさないで取引を持ちかける。
 だが、悠太に持ちかける取引は、悠太のソフト開発者、プログラマーの信義に関わるものだった。なぜなら、それはクロノスのソフトウエアにバックドア(裏口)をつけるという取引である。裏口を知るのが唯一その組織だけであれば、そのソフトがデファクトになることによってIT世界を支配できるようになる。安全とは真逆の事態に手を貸すということになるのだから。
 ジェイク佐伯は取引を成立させるためには手段を選ばないことを暗示する。悠太が家族を巻き込む可能性が高い苦境にどう対応していくか。それが読ませどころとなっていく。

4.ある時点から、悠太に監視が付くようになる。悠太を威嚇しようとする連中が近づくことに対して悠太を助ける男が出現する。その男は警視庁公安部の笹崎と名乗る。
 笹崎は悠太に警告する。「あなたは特殊な任務を帯びてこの国に来ているある種の人間たちの間で、今や最重要人物なんです」と。そして、その狙いは<クロノス>にあると。
 滝本が悠太に託した<クロノス>の引き起こす波紋が広がっていく。悠太は笹崎と共同戦線をはる立場になっていく。だが、その笹崎にも裏の顔があった。

5.1のソフト開発と深く関連するが、特許申請手続きを経ての特許取得という局面が重要になってくる。勿論、悠太はこのステップを踏むが、そこでも障壁となる問題が発生してくる。グローバルな特許という視点とやり方が巧妙に組み込まれていて、興味深い。
 
 最終ステージは悠太のソフト開発者、プログラマーとしての発想と能力が遺憾無く発揮されるIT技術上のグローバルな戦いとなっていく。すべてが収斂していき、読み応えがある。おもしろい国際謀略小説である。


 ご一読いただきありがとうございます。    【覚書 2020.4.16(木) 記】

 

 

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【 読書録整理函 】

gooブログで2011年8月から「遊心逍遥記」を開設。10年余続けた時点でログインでミスをして、ブロックがかかってしまい、復旧はできませんでした。それで、「遊心逍遥記その2」を新たに開設して継続。こちらはデータ移設が完了。
旧ブログ記事はその後、問い合わせもしてみましたが、データの移設不可という結論に。
読書感想・印象記は原稿を書いた後にブログ記事を掲載していましたので、当時の原稿はファイルとして残っています。

そこで、愛読作家の諸作品と手軽に参照したいものについて、カテゴリー別に抽出してまとめて、再掲載してみたくなりました。
「読書録整理函」として、私自身の記憶の引き出しづくりをしていきたいと思います。

再掲にあたり、凡ミス等に気づいた箇所は訂正を加えています。

こちらもお読みいただければうれしいです。

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