創価再創記 ージョーカー録ー

壊すのでも従うのでもない。創価の信仰を再創するための記録。

組織・幹部に厳しい指導シリーズ㉕ 一人も犠牲者を出すな

以下に池田先生の指導を引用する。

池田大作全集』第68巻

(1987年7月21日<昭和62年>学生部夏季講習会・616 頁)

「私どもの運動は、無血革命であり、一人の犠牲者も出さない。また、出してはならないというのが、私の固き信条である。」

 

以下は、上記の指導を踏まえた、私自身の受け止めである。

 

大義のためなら多少の犠牲は仕方がない」

 

指導者が一番持ってはいけない一念だ。

とくに広宣流布を推進する創価学会においては猶更である。

 

なぜなら、広宣流布とは、一切衆生を幸福にする運動だからだ。

その過程で誰かが傷つき、心を病み、人生を失速させていくとしたら、それは「やむを得ない犠牲」ではなく、明確な矛盾である。

 

犠牲が出ることを前提にした前進は、すでに仏法ではない。
それは効率や成果を優先する思想であり、人間主義の名を借りた合理主義にすぎない。

 

池田先生が「一人の犠牲者も出さない」「出してはならない」と断言された意味は重い。
そこには、運動が拡大しても、組織が大きくなっても、決して越えてはならない一線が示されている。

 

もし、その一線が曖昧になり、「ついてこられない側」に問題を押し付ける空気が生まれたとしたら、それは指導の敗北であり、幹部の慢心である。

 

指導する側は常に問われている。
「誰のための前進なのか」
「この決断・行動で、本当に人は幸福になっているのか」

 

犠牲者が出ることを正当化していないか。

ついてこられない人に責任転嫁していないか。

 

指導とは、人の人生に影響を与える行為だ。
言葉一つ、判断一つで、誰かの生き方を左右する力を持つ。
その重みを引き受ける覚悟なくして、指導に立つ資格はない。

 

もしも犠牲が出たなら、まず問われるべきは指導の在り方である。
無理はなかったか。
声を聴いていたか。
立ち止まる判断はできなかったのか。

 

「誰人の血も流させない」

これが創価学会の指導者の一念なのだ。

 

 

 

 

 

 

組織・幹部に厳しい指導シリーズ㉔ 勝利は幹部自身の力ではない

以下に池田先生の指導を引用する。

池田大作全集』第68巻

(1987年7月21日<昭和62年>学生部夏季講習会・610 頁)

「広布の前進も今、勝利につぐ勝利の連続である。しかし幹部が、もしも、それを自分たちの力と思ったら、大きな錯覚である。一切は、純真にしてけなげなるすべての地涌の同志の懸命な祈りの力であり、活躍のたまものである。この尊き事実を永久に忘れてはならない。」

 

以下は、上記の指導を踏まえた、私自身の受け止めである。

 

広宣流布は幹部が進めるのではない。

創価学会を勝たせ、支えているのも幹部ではない。

 

 「名もなき現場の人間の血と汗と涙」

 

そこにしか広宣流布の実体はない。

 

名を呼ばれず、評価もされず、時に誤解され、踏みつけられながらも、それでも祈り、動き、耐えてきた人間がいる。
その積み重ねの上に、実績も勝利も組織も成り立っている。

 

名もなき民衆が、血と汗と涙で築いてきた土台の上に、我々は立っている。

整った舞台の上で、少し舞って、戦ったつもりになることは恐ろしい。

 

その舞台が崩れないのは、地下で支え続けている無数の手があるからだ。

だが舞台の上にいると、その手は見えなくなる。
見えなくなった瞬間、人は簡単に勘違いを始める。

 

その勘違いを戒め、正しい信仰の世界を示してきたのが「師」というありがたい存在だ。

 

「舞台に立たせてもらっているだけ」

 

広宣流布とは、上に立つことではない。
前に出ることでもない。

下に降り続けることだ。

 

地涌の菩薩は地から湧き出てきた。

地底は目には見えない。

だが、そこに本当の信心がある。

 

 

 

組織・幹部に厳しい指導シリーズ㉓ 力とは、下から上を動かすこと

以下に池田先生の指導を引用する。

池田大作全集』第68巻

(1987年7月21日<昭和62年>学生部夏季講習会・591頁)

「戸田先生は『学会でいえば支部長、地区部長、班長が人を動かすのは簡単である。一班員が自己の意見で、支部長を心から動かしていける人こそ偉いのだ。力がある、というものだ』と言われた。この言葉は千鈞の重みのある指導として、私の心の中に深く刻まれている。」

 

以下は、上記の指導を踏まえた、私自身の受け止めである。

 

役職によって人を動かすことは簡単だ。

打ち出し、空気、立場—それらは人を従わせるには十分である。

しかし、それは人を動かしているのではなく、構造が人を管理しているだけにすぎない。

 

守成の時代に入った今だからこそ一番必要なのは、「力ある人材」だ。

どれだけ真剣に考え抜いているか。
どれだけ自分の言葉で語っているか。
どれだけ他者の人生に対して、無責任でないか。

 

この三つが揃ってはじめて、戸田先生の言われた「力」に近づくのだと思う。

 

役職問わず、現創価学会は、力ある人材が育つ土壌になっているかどうか。

団結を強調するあまり、「間違えないこと」や「乱さないこと」が最優先されていないだろうか。

秩序第一になってしまえば、人はやがて自分の言葉を持たなくなる。

 

愚痴や文句も言わず、すべてを「はい喜んで」と引き受けることは尊いことではあるが、それと引き換えに、考えることをやめ、自分の言葉をもたなくなってしまったのならマイナスだ。

 

戸田先生の言われた「力」とは、組織を円滑に回すための力ではない。
一人の人間が、責任をもって考え抜き、その結果を自分の言葉で語る力のことだ。

 

私は、組織にとって扱いやすい人間になることより、仏法者として、思考を手放さない人間であり続けたい。

 

 

組織・幹部に厳しい指導シリーズ㉒ 広布推進は、組織がなければ現実には不可能

以下に池田先生の指導を引用する。

池田大作全集』第68巻

(1987年7月13日<昭和62年>船橋幹部大会・575頁)

「妙法はわが生命よりも大切であり、その妙法流布を推進していく組織はまた、どれほど重要なものであるかは、お分かりいただけると思う。つまり、この広布への組織がなければ、無上道の妙法を世界に流布することは、現実的には不可能だからだ。」

 

以下は、上記の指導を踏まえた、私自身の受け止めである。

 

組織は手段であることは言うまでもないことだが、仏眼で観たら、創価学会はただの組織とは違う。

広宣流布推進・達成に不可欠なものであり、世間一般の組織とは異なる。

 

個々の信心でも広布を進めていくことは可能ではあるが、そこには大きな広がりを生むことは難しい。

それは言わば「足し算」といえる。

 

一方組織は、相乗効果を生むので、「掛け算」となり、広布推進を加速させられる。

もちろん、組織悪が機能すれば、「割り算」になるリスクもある。

 

組織が人を生かし、信心を深め、勇気と希望を引き出しているならば、それは掛け算となり、個人では到達し得ない広布の地平を切り開く。

 

しかし、目的と手段が逆転し、人を管理し、評価し、沈黙させる方向に働くならば、
それは広布を進めるどころか、信心をすり減らす「割り算」となってしまう。

 

もっと平たく言えば、人間主義であれば「掛け算」で、組織主義だと「割り算」となる。

だからこそ、組織は常に点検されなければならない。
組織が広宣流布の推進力として「掛け算」になっているのか、
それとも、惰性・同調圧力・保身によって「割り算」に転じてはいないのか―である。

 

問題は、組織が「割り算」に転じたとき、その事実が直視されにくい点にある。
むしろ往々にして、「広布のため」「組織を守るため」という言葉によって、違和感や異論が封じ込められてきたのではないか。

 

掛け算が機能しているかどうかの判断は、会合の参加数でも、活動家の増加率でもない。
人が元気になっているか、信心が深まっているか、そして何より、発言しても排除されない空気が保たれているか否か。
その一点に尽きる。

 

だから私は、組織に違和感を覚えた自分の感覚を、決して裏切らない。
沈黙によって組織に順応するのではなく、言葉によって組織を健全にしようとする立場に立つ。

 

広宣流布にとって組織(創価学会)が不可欠であるからこそ、私は組織を盲信しない。
同時に、組織から逃げることもしない。

 

創価学会の組織は、妙法(一人一人の幸福)のためにある。
人は、組織のためにあるのではない。

組織を顛倒させないことが、広宣流布に携わる者に課せられた、最低限にして最大の責任である。

 

 

 

 

組織・幹部に厳しい指導シリーズ㉑ 姿のみで判断するな

以下に池田先生の指導を引用する。

池田大作全集』第68巻

(1987年7月6日<昭和62年>山形幹部大会・555頁)

「大切なのは”心”である。外見ではない。たとえば、事情があって、会合に来たくても、来れない場合がある。その法を求める心を察し、たたえることが大事なのである。反対に、会合に出ていないという姿のみを見て判断し、むやみに叱るような愚かな指導者であっては絶対にならない。」

 

以下は、上記の指導を踏まえた、私自身の受け止めである。

 

人の心は、わかっているようでわかっていない。

無二の親友や家族であっても、本当に相手が何で悩んでいるか、奥底にどのような考えを持っているかはわらないものだ。

相手のことをわかっているつもりが一番危ない。

 

創価学会の同志は、他人でもなければ友達という概念でもない。

共に信心を育む「縁」であり、互いの心の動きや信仰の真意を完全に理解することは不可能であると言ってよい。

それゆえ、目に見える行動や姿勢だけで判断してはいけない。

 

かくいう私も、相手をわかったつもりになり、姿だけで判断してきた一人である。

ある時期まで私は、「学会活動をしていない人は、本当の信心がわかっていない」と一括りに考えていた。

 

だが、あるメンバーと出会い、その考えを変えた。

そのメンバーは、心に障害を抱えて、不安が強く、会合に参加するのが厳しくなってしまっていた。

それでも、座談会の度に、原稿を用意し、代理の人に読んでもらっていた。

 

さらに唱題の目標を定め、御書の研鑽も欠かしていなかった。
誰に評価されるでもなく、静かに、淡々とである。

 

その姿を知ったとき、私は思い知らされた。
信心を測る物差しを、私は自分の都合で勝手に決めていたのだと。

心を見ず、姿だけを見ていた自分に気づけた。

 

創価学会には、誰も見ていなくても、陰で戦い続けている人が無数にいる。

それを知らない、見ようとしない、わかろうとしないだけ。

 

だから私は、同志を「行動」で裁くことをやめたい。
会合に来ているか、役割を果たしているかではなく、その人がどんな思いで信心と向き合っているのかを想像し続ける側に立ちたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

組織・幹部に厳しい指導シリーズ⑳ 中心者を守れ

以下に池田先生の指導を引用する。

池田大作全集』第68巻

(1987年6月6日<昭和62年>SGI欧州アフリカ諸国会議・476頁)

「中心者も凡夫であるがゆえに、さまざまな欠点もある。メンバーの方々が物足りなさを感じたり、誤った行き方だと思う場合もあるかもしれない。そのさいは、広く、大きな心で、中心者を支え、ときに率直に語りあいながら、足りない点を補いあっていただきたい。」

 

以下は、上記の指導を踏まえた、私自身の受け止めである。

 

「幹部と言っても人間革命の途上だから、こちらが変わっていくしかない」

 

組織や幹部の在り方について相談したとき、こうした言葉で切り返され、結局何も変わらなかった―
この「あるある」を経験してきた人は、決して少なくないはずだ。

 

この言葉は、一見すると仏法的で、聞く側の姿勢を正しているようにも見える。
しかし現実には、問題の所在をすり替え、対話を打ち切るための免罪符として使われてきた場面も多い。

 

「言っても無駄だ」という感覚が積み重なれば、人の心は確実に離れていく。
それは信心が足りないからでも、我慢が足りないからでもない。
凡夫である人間が、あまりにも自然に辿る帰結だ。

 

本来、「人間革命の途上」であることは、誤りを正さなくてよい理由にはならない。
むしろ、凡夫であるからこそ、語り合い、修正し続けなければならないはずだ。

 

変わるべきは、いつも「こちら」だけなのか。
語られなかった違和感と、聞かれなかった声の責任は、いったい誰が引き受けるのか。

 

その問いを棚上げしたまま、団結や信頼だけを求めることはできない。それが凡夫の世界の現実であり、同時に、向き合わなければならない課題なのだ。

 

また、同時に思うのは、中心者を守ることによって、かえって現場の人間が苦しみ、守られない状況がつくられるのであれば、マイナスではないかということ。

 

「自分さえ我慢すればいい」

言っても何も変わらない状況が続くと、この思考に陥る。

そして現場から歓喜は失われていく。

 

だが、凡夫であるからこそ、私たちは誤り、ぶつかり、修正し合える。
その過程を避けず、対話を諦めなかったとき、現場には再び温度が戻る。
「言っても無駄」ではなく、「言ってよかった」と思える瞬間は、必ずつくれる。

 

中心者を守ることと、人(現場)を守ることは本来、対立しない。
むしろ、率直な声が届く場にこそ、中心者もまた育ち、支えられていく。
その循環が生まれたとき、組織は初めて生きた共同体になる。

 

まずは、「自分さえ我慢すればいい」という思考を手放すところからはじめたい。

中心者を守り、自分を守り、現場も守る。

この三つが揃ってこそ、人間主義の組織なのだ。

 

 

 

 

組織・幹部に厳しい指導シリーズ⑲ 人として、学会への大恩を忘れるな

以下に池田先生の指導を引用する。

池田大作全集』第68巻

(1987年5月10日<昭和62年>「4・2」第十回芸術部総会・419頁)

「学会ありてこそ、私どもは御本尊を拝し、宇宙本源の大法である妙法を唱えることができた。大聖人の仏法の正しき信仰と、正しき成仏への道を教示してもらうことができた。ゆえに私どもは、学会に大恩があることを、人間として決して忘れてはならないだろう。」

 

以下は、上記の指導を踏まえた、私自身の受け止めである。

 

仏法を実践している人間が、常に問われていることは「人としてどうか」だ。

恩を忘れないことは、人の振る舞いとしての根幹をなしていると思う。

それは感謝の言葉を並べることでも、組織に従順であることでもない。

 

学会がなければ、私は御本尊と出会うことも、題目を唱えることもなかった。
その意味で、学会に大恩があるという言葉は、私にとって事実である。

しかし同時に思う。
「恩がある」という事実と、「すべてを肯定し続けなければならない」という姿勢は、まったく別のものだ。

 

恩を知るとは、思考を止めることではない。
感謝とは、問いを封じることでもない。

もし学会が、人間の幸福から外れた方向へ進むならば、もし現場で人が傷つき、声が押し殺されているならば、それを見て見ぬふりをすることこそが、本当の意味で「恩」を裏切る行為なのではないか。

 

人間主義を貫いてこそ学会の大恩に報いることであり、反対に、組織主義がはびこるのを黙っていること、見て見ないふりをすること、それこそが「不知恩」ではないだろうか。

 

だから私は、学会に感謝しつつ、迎合はしない。
恩を知りつつ、思考を手放さない。

人間の幸福という原点から外れたと感じるとき、沈黙ではなく、問いを選びたい。

 

それは、学会を否定することではない。
むしろ、学会を人間主義の場として守ろうとする、一つの責任だと私は考えている。