舟橋純の控え帖

まずノートだ、そこに見たもの、思ったことのすべてを書き入れる。そののちに分類して秩序づけ書き写せばいい。思考の簿記であって、そうすれば物事の関連性と、そこから生じる解明とが、きちんとした表現を見るだろう。(『リヒテンベルク先生の控え帖』より)。そういうブログです。

アフォリズム集(No.51~No.60)

 なにか一つでも、お気に入りを見つけてもらえれば幸いです。

 前回は以下からどうぞ。

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51. 地続きの意識。

 普段の日常生活やSNS上での言葉の伝え方、受け取られ方、選び方に無頓着な人が、文学や批評、哲学に興味を持つのは、いわんや自分で作品を書いてみようと思うならば、それは言わば、普通自動車の教習一段階でいい加減な走行しかできない人が、路上でプロドライバーのような走り方を目指すことに等しい。共通するのは、地続き意識のなさだ。

 SNS上でいい加減な言葉使いをしているように見受けられたら、別の場所で書かれた文章の言葉が、なぜ信頼できるはずがあろうか。

 堅苦しい文章で書かれているから信頼できる、自分の言葉で語っている、というわけでもない。SNS上では口語的な言葉使いのほうが伝わりやすい面があるから、それならそれでよい。冗談ばかり言っていてもいい。一線を越えていなければ、愉快な人なんだなで済む話だ。

 投稿を書いては消して、書いては消してと繰り返しているのはなぜか? 読まれても問題がないなら消す必要はないはず。後から自分で読んだ時に「消したほうがよい」と思ってしまうようなことを、書いて投稿してしまう、その人はそういう人だということ。であれば、その人が別の場所で書いた文章はというと……。

 「Twitterは考えを垂れ流す場所」だと思っている人は垂れ流すような言葉使いになるだろう。さて、その人が別の場所で書いた文章はどうか? 

 

52. 耐えられない。

 猫に声をかけても返事がない、喉が渇いているのに自販機がつり銭切れで販売中止、にわか雨に降られて干していた布団がびしょ濡れ。これらには一切意味がない。誰も責められない。わかっているのに、人はそのことに耐えられない。なんの意味も予兆もないことに耐えられない。世界に存在する無意味なことが、私たちを圧迫する。この無意味の圧迫から、いかに多くのものを作り、逃げようとしてきたことか。私たちは、無意味なことに耐えられない。

 

53. 助手席で感じる怖さ。

 ブレーキがカックンブレーキになってしまったことに対して謝ってくる教習生がいる。かわいいものだ、大したことはない。しかしブレーキを踏めない、踏むことをためらう教習生もいる。それがわかると、助手席での恐怖心は一気に跳ね上がる。運転できないことにほぼ等しいから。

 

54. 何ページ使ったか。

 誰かの本を題材に文章を書いたとしよう。さて、その本全体の何ページを使ったか? よほど詳しく論じるのではない限り、三割も使っていないのではなかろうか? もっと使うべきだ、と言いたいのではない。そんなものだ、というのが私の意見というか、実感なのだ。

 ワイルドは、『芸術家としての批評家』という対話篇形式の文章で、ある登場人物に「本一冊にかける時間はせいぜい10分だ」と発言させている。10分! 読んだ当初は、極端すぎやしないかと思ったが、今は、もしかしたらそれは一面正しいのかもと思い始めている。時間をかけすぎてはいけないのだ。

 その本全体に目を通して理解するなら2時間も3時間も、あるいはそれ以上にもなってしまうだろう。けれども、自分がその本について文章を書くのに必要な数ページを探り当てるだけなら、そんなに時間は必要ないだろう。10分で済むかはわからないが……。

 

55. 書き方と読み方。

 「どう書けば読者に言いたいことが伝わるか」と「どう読めば筆者の言いたいことを理解できるか」は緊密に連動する。基本的に、読者は自分の読解の仕方から、自分の文章の書き方を逆算する。だから、両者は表裏一体の関係にある。読み方に無関心ならば、書き方にも無関心だということ。

 逆に、書き方への無関心は、読み方への無関心に等しい。たとえば、言葉の引用元や出典を明示しない人は、普段からそれらを気にせずに文章を読んでいるのだろうと推測できる。あるいは、書くときに接続詞を使わない人は、文章の中に論理を読み取っていないのだろう、と。

 

56. アフォリズムへの理論の適用。

 アフォリズムをひとつの文学ジャンルと認めるならば、詩や小説と同じように、アフォリズムにだって批評理論を適用してはいけない理由はない。

 

57. アフォリズムの配列

 ひとつひとつの格言や断章がどう配列されているかに関して、配列の仕方にいくつかのパターンがある。あることを述べたアフォリズムをAとして、それとは別の内容を述べたものをBとしよう。増やす場合はC、Dとする。まずはA、Bと、ふたつ並べられている場合について。

 一つ目、〈並列〉。これはAとBが無関係の場合。おそらく一番多い並び方。この場合、A、Bは無関係なので、順番は入れかえてもよい。B、Aとしてもよい。あるいは連続させなくても、A、○、○、○、Bとしてしまってもよい。内容的に無関係なのでどこに置いてもよい。

 二つ目、〈進展〉。A→B。Aの内容を進展させてBの内容に繋げる。これもよくある。この場合、順番を入れ替えてはいけない。実質的に二つで一つのような扱いになる。離して配置することは内容的にできない。

 三つ目、〈同内容〉。A=B。内容的に同じ事を述べているパターン。順番の入れ替え可能で、離して配置することが可能。定義上、片方を削除してしまっても問題はないことになるが、作者がなんらかの意図を込めて残していると考えられる。A、Bが内容的に同内容であるときには、単に少し表現を変えただけの場合もあるが、より説明的に「具体例」→「命題」である場合と「命題」→「具体例」の場合が考えられる。離して配列してしまうとわかりづらくなってしまう。順番はA、Bどちらが先でもよいが、離して配列するのはよくないだろう。

 

58. アフォリズムの扱う世界。

 アフォリズムは架空の世界については扱わない。作者が見た「この」世界についての言葉がアフォリズムだ。その点詩や小説とは当然異なる。アフォリズムの語り手のほとんどが作者本人であるのはこのためだ。

 

59. ぶら下がってるキャラ。

 女性がカバンか何かにキャラもののキーホルダーをぶら下げていると、ついつい本人と似ているかどうか気にしてしまう。なぜか、本人とキャラがどことなく似ている場合が多い気がする。自分と似てるキャラを好きになりやすいのだろうか?

 

60. 5月28日。

 5月28日、家族と釣りへ。館山から新舞子海岸へ。釣果上々。海辺をひとり、下を向いて歩きながら、形の綺麗な石を拾う、眼鏡をかけた若い女性がいて、ゆっくりゆっくり、私の側を通りすぎていった。陽に照らされた海の強くなる波が彼女の足をさらおうとするのをトテトテと避ける様に、見入っていた。

 

アフォリズム集(No.41~No.50)

 なにか一つでも、お気に入りを見つけてもらえれば幸いです。

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41. タバコを吸う目的。

 深呼吸をするためにタバコを吸う人がいる。ため息をつくためにタバコを吸う人もいる。

 

42. 「偉そうに!」

 偉そうに! 私たちはたまりかねてこのように発することがある。裏を返せば、偉い人の言うことを信用する傾向があるということ。言い換えると、偉い人の言うことは真実なんだろう、と考えがちだということ。

 

43. 認められない。

 退屈に耐えられないからギャンブルをしている、と素直に認められない人たちがいる。お金を取り戻せなくなる恐怖からギャンブルから離れられないことを認められない人がいる。

 

44. 売られているものから。

 ある地域にあるスーパーで売られているものが、周辺の住民の人たちの食卓にならぶものを左右している。人々は世界中どこからでも、なんでも好きなものを買って、自由に食事内容を決めているわけではない。おおかたの人は自分のこだわりの食材ではなく、間に合わせのそれで済ませる。その間に合わせのものが、食文化を決めている。

 

45. 食の意味の剥ぎ取り。

 なんとたくさんの栄養補助食品が売られていることか。そして、それが食事の代替になるという「信仰」。あれが足りない、これが足りないとやっているうちに、最後はサプリメント漬けの人間が出来上がる。食の意味を剥ぎ取られた、哀れな人間が。

 私は以前、健康食品を販売する会社に事務員として勤務していた。その会社の創業者は、やがて自社の健康食品「しか」口にできなくなり、偏食になり、老いてなくなっていった。さてこの人に、人間的な「食」は残されていたと言えるだろうか? 

 

46. 人間の機械化の一端。

 エンジンオイルが古くなったから交換するように、栄養補助食品で足りない栄養を補助すればよいというわけだ。肌の潤いを補うにはビタミンCがあればよく、骨を太く強くするにはカルシウムがあればよい、と。そしてその他の栄養素は一切話題にされない。まるで栄養素は機械か何かの部品であるかのようだ。

 

47. 接客について。

 私自身の経験から言うが、接客業は接客業でも、電話注文やWeb注文に対応するような業務に従事しているときは、からっきし人間に対する興味が湧かないものだ。一方、高校生や大学生、社会人、主婦、外国人に運転を対面で教えている今は、だいぶ人間に対する興味が戻ってきている。顔が見えることの意味は大きい。

 以前の職場(化粧品・健康食品の会社)では、同僚に対する興味もあまりなかった。唯一、男性の先輩社員にだけは興味がすこしもてた。彼はいくつかのジャズのビッグバンドに掛け持ちで所属していて、トランぺッターをやっている人だった。

 

48. 食の論理。

 食には論理がある。日本人は緑茶に砂糖を入れない。緑茶と合わせるのがご飯(米食)であり、すでに塩醤油で味付けしてあるからだ。紅茶に砂糖を入れるのはなぜか? 紅茶を甘くするためではない。紅茶に合わせるのがパンやビスケットだからだ。イギリス人は紅茶にビスケットを浸して食べる。

 

49. 自分を観察する。

 この形式で書き始めて気付いた。アフォリズムの要(かなめ)はたしかに観察することにある。ただし、自分の周りの人々を観察することがネタ元になるばかりではなく、自分自身を観察することからも、アフォリズムは生まれる。自分自身が大事なネタ元なのだ。

 アフォリズム集をいくつか読むと、教訓や警句だけではなく、著者自身の経験からの反省、自戒、著者自身の弱さの告白なども読み取れる場合がある。そういった文言を見て、いらだつひともいるだろう。そんなものを読んでどうなるんだ、と。ただ、読者をいらだたせたくてアフォリズムを書くのは――書く立場に立ってみればわかるが――幼稚でしかない。決して読者を苛立たせたいわけではないのだ。

 

50. 古典は永遠ではない。

 幾世代にも読み継がれたきた、いわゆる古典作品は、多くの場合、多くの人にとって読むに値する本である可能性が高いだろう。わたしもそのことは否定しない。とはいえ、それら古典が今後も古典であり続ける保証はどこにもない。それがあなたにとって「古典」であるともかぎらない。

 どこか古本屋にでも行ってみて、自分の目でたしかめてみるといい。どれだけの「古典」といわれる本たちが、そこに投げ売りされているかを。手垢すらつかずに売られているものもある。最初に買ったその人にとっては、その本は「古典」ではなかったのだ。古典は万人向けのものではない。

 古典とは、いったい誰のためのものなのだろう。

アフォリズム集(No.31~No.40)

 

 なにか一つでも、お気に入りを見つけてもらえれば幸いです。

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31. 祈りの行方。

 神を信じることの白々しさが人々のあいだに行き渡った世界で、人は何に対して祈ればよいのだろう。苦境にある人は、神のいなくなったこの世界で、何に対して祈ればよいのだろう。神がいないこの世界で、それでも祈らずにいられない人々に、私はかける言葉がわからないのだ。

 なにかに祈りを捧げる人に対して、私がことばをかける必要などあるのだろうか?ないんじゃないか? 祈りを捧げる誰かを私が心配する必要はきっとない。なにかに祈らずにいられない人とは、まさにわたし自身のことではないか? とすれば、問いはこうだ。わたしはなにに対して祈ればよいのか?

 私はかつて、御朱印集めをしていた頃、二礼二拍手一拝を形式的にくりかえしながら神社を巡っていたけれど、そのときその神社に奉られている神さまに会えたとは、ついぞ思ったことはない。お寺に行ったときも、仏像を拝みながら手を合わせても、私の拝む先に仏はいなかった。

 

32. 私の興味。

 私は哲学において神を追い求めた人に惹かれる。自分自身、神を認識したいという気持ちがあるわけではない。神を認識したいという気持ちが、ある人のなかにどうして生まれるのかということに興味があるのだ。どうして人は神を追い求めるようになるのだろう? 何がその人にそうさせるのだろう? 

 

33. 趣味欄。

 もしある人のプロフィールの趣味欄に「読書/カフェめぐり/ジャズ」とあったら、それらは三つそれぞれ独立した趣味ではないのだ。カフェに行ってジャズを聴きながら読書するのが好き、ということ。趣味欄には、その人の好きな風景がある。私たちは風景を趣味にする。

 

34. 子猫は見る。

 子猫はこちらをじっと見る。私たちが子猫に対してなにかをしようとしているわけでもないのに。まるで私たちの行動が、すべて自分に関係あるかのように。わからないのだ。何が自分に関係があり危ないことなのか、何がそうでないのか。

 子猫と同じことが、私たちにも言える。見知らぬ世界に踏み入る私たちは子猫だ。そしてその世界に慣れることは、すなわち自分の周りに無関係を見出すことだ。

 

35. 働きながらでも。

 働きながらでも本を読むことはできる。ただし、本を読むことを、すなわち小説を読むこと、と考えているならそのかぎりではない。人が虚構に費やせる時間は限られている。

 

36. 態度を見ている。

 ことばをつくさなければ人にメッセージは伝わらない、というのは正しくない。人はあなたがメッセージを伝えるときの態度を見ている。

 

37. 文脈。

 文脈とは、態度の流れである。

 

38. どちらか?

 あなたは本が好きなのか、それとも、本を買ってストレスを解消することが好きなのか?

 

39. ギリシャはヨーロッパではない。

 もともとギリシャはヨーロッパではない。しかしギリシャの文化的な遺産をもっともよく継承したのはヨーロッパの人々である。

 日本人は中国人ではないが、中国文化をよく継承しているのに似ている。

 

40. 宝石探し。

 名前も知らない誰かの書いた本に、共感できる一節を探しに行くのは、砂浜に宝石を探しに行くようなものだ。ダウジングマシンがあれば都合よくあればいいが、現実にはそうもいかない。だから人は広大な本の砂浜で、さまよってしまう。
 
 だから私は、ある作家の人となりがわかる著作を探す。自伝、エッセイなどだ。そうすれば、その作家はまったく見知らぬ人ではなくなる。一億二千万人のうちの一人から、電車でたまたま隣に乗り合わせた人、くらいの距離感にはなる。そんな気がするのだ。

 作家と作品は、切り離して考えてもいいのだろうか? 私は、作家と作品を結び付けて考える。ごくごく素朴な立場だ。作者と作品は別物で、一度発表された作品は作者の手から離れると考える立場からは、私の立場は素朴に過ぎるだろう。
 
 ただ、私は作者と作品を切り離して考えることができない。もしそうしてしまうと、私の目の前に現れるのは、作者から切り離された、たくさんのモノ、モノ、モノの群れだ。山奥に打ち捨てられた廃屋、道路脇に転がる靴、火がついたままポイ捨てされたタバコ。それらに私はどう近づけばよいというのか………?

アフォリズム集(No.21~No.30)

 今回は教習指導をやりながら考えたことを中心に。

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21. 不要な拷問。

 今の時代、乗る予定(乗らせる予定)もないのに、子供にMT免許を取らせるのは拷問でしかない。

 

22. だいたい落第。

 教習指導員として、路上教習しながら一般車の合図タイミングを見ると、30メートル手前で合図が出ている車など皆無に等しい。運転試験を受けさせてみたい。だいたいの人は落第するだろう。では、なぜ運転できているのか?

 

23. 教習指導員だからといって。

 教習指導員だから車の運転が上手いはずだというのは誤りである。下手とまでは言わないが、上手いとは言えない人が指導員をやっていたりもする。それで仕事が成り立ってしまったりする。ただし、車の運転の仕方をどう教えるかは知っていないと、この仕事は絶対にできない。この仕事に必要なのは教育能力なのである。

 

24. 教えているからといって。

 自分は自動車の運転を教えている。〈だから〉自分の運転は上手いはずである、と考えるのは誤謬推理だ。

 

25. 説明間違い。

 人が他人に対して自身の行動を説明したとする。それが他人から見て「嘘の説明だ」と思われることがある。このとき、説明をした人は意識的に嘘をついたのだろうか? そうとも限らない。自分の行動を説明する「自分自身のことば」がまちがっていることに当人が気づけていないのだ。

 

26. 手段としての賞賛。

 ほめられると、人はそれが良いこと、正しいことなのだと思うものだ。だからもっとやろうとする。教育者はその単純で、卑近ですらある事実を利用する。ある行い、行動をほめる、そうすることによってその行い、行動を強化する、すなわち、くりかえしその行動が出るようにする。心理学的には、これを「学習が成立した」と言う。

 

27. あなたの運転の鏡。

 教習指導員の教習生に対する厳しさは、あなたの危険な運転に対する厳しさであって、あなた自身に対して厳しいのではない。言いかえれば、その厳しさは属人的ではない。

 人の性格を矯正するのは、教習指導員の職務の範囲外である。そうではなく、性格にあった安全な行動を取れるように指導するのが仕事である。道路交通、すなわちルールを教えるだけではなく、道徳的なことを教える側面も職務の範囲内にある。それは否定できない事実だ。しかし、人の性格は直せない。

 

28. 注意しなくなる。

 教習中、教習生の運転に対して注意をすることがある。何度か注意して、その行動が直ればもうそれ以上注意する必要はなくなる。改善できたということ。何度か注意して、それでも直らないと、それ以上注意するのをやめる。言っても無駄だからだ。指導員の変化はこのとき同じだ。

 完全に改善をあきらめるわけではなく(それだと職務を放棄することになりかねないので)、言い方を変えてみたり、言葉以外の方法で矯正を試みることはある。それでも、なかには指導員の手が尽きることはある。そうなると、もう何も言わない。自分で気づいてもらうよりほかないからだ。

 

29. 運転の分析。

 自分の運転を分析する技術が、そのまま他人の運転を分析する技術になる。逆もまたしかり。

 

30. なかなかうまくならない。

 クルマの運転が、一定レベルからはなかなかうまくならないように、クルマの運転を教えることも、ある地点からは、なかなかうまくならない。

 

アフォリズム集(No.11~No.20)

 前回に引き続き、自作アフォリズム集です。

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11. 来年の今頃は。

 来年の今頃は、自分はどんな本を読了して、どう考えが変わっているのだろう。楽しみだ。今年は哲学書をけっこう読むことができた。アウグスティヌス『告白』、プラトン『リュシス』、ニーチェ『喜ばしき知恵』、『人間的、あまりに人間的』第1巻、スピノザ『神学政治論』第1巻。

※挙がっている書名は2024年に読了した本。

 

12. 哲学なしで。

 哲学なしで物事をすませることができるなら、それに越したことはない。ニーチェは、哲学者というのは変わり種であって、少数の人間がそうなるのだという旨をどこかに書いていたと思うが、その通りだ。ふつうのひとはなしで済ませている。

 

13. 考えさせられる。

 好きで頭を悩ませる人間はいない。必要に迫られて、はじめて人はものを考えはじめる。必要がなければ考えず、頭を悩ませることはない。習慣、慣習通りに行動し、考えることができるなら、そのほうが手間がかからず労力が省ける。
 逆に言うと、考える必要があるということは、何かを変える必要があるということ。習慣、慣習、あるいは伝統を。すなわち、人が行動し、考えるのを楽にするために先人によって考えられたものたちを、変える必要があるということ。だから、そのとき考えるということには、なんらかの方向性が生まれる。変化させる方向性が。
 方向性、それは、基本的には人が考え、行動することを助ける方向性であるはずだ。
 ほんとうにその方向性に変わっていくことで、より人は楽になるのだろうか。そういう疑念が生まれるのは当然のことだろう。以前の習慣、慣習、伝統に則って生活できていたのなら、それらを変化させる必要を感じていない人たちだっているだろうから、そういった人たちは変化に対して消極的になる。
 あるいは逆にこういうことも起こりうるだろう。すなわち、知らぬまにどんどん変化していくあるものがある。それに対して、変化しないように抵抗する意味合いで、思考がはじまる、ということが。これは、変化に対して以前の習慣、慣習、伝統を保持するために、思考がはじまるということ。
 変化を促す方向での思考にしろ、保持する方向での思考にしろ、そのとき把握しておかなければいけないのは、以前の習慣、慣習、伝統である。それがわからなければ、どちらの方向に舵を切るべきなのか、そもそもわからない。思考は、そして哲学は、そこからはじまると言える。
 何が問題になっているのか、それをどう変えていきたいのか(あるいは変えずにおきたいのか)を把握すること。その把握からこそ、思考、哲学ははじまる。何も問題になっていないなら、そもそも考える必要はない。変化していってもその変化が歓迎すべきものであり、十分適応可能なら、その時もやはり同じ。

 

14. 勘違いに注意。

 進歩主義者は習慣、慣習、伝統を変化させることに積極的で、保守主義者はその逆というのはかならずしも正しくない。哲学者が反動的であることもありうるし、保守主義者が革新的であることもある。わたしがここまで書いてきたことは、進歩/保守の区分と重ならない。

 

15. 空白を設ける。

 結局何が言いたいのか、たしかに私が書ききるべきだろう、箴言という形式においても。それでも、読者がそこからさらに、箴言を噛みしめて先に進めるよう、空白を設けること。これはレトリックの問題だ。

 

16. ニーチェのレトリック。

 あまり注目されないが、ニーチェは非常に意識的なレトリシャンだ。彼の箴言の結論部分には、読者の考えを促すような空白が設けられている場合がよくあるが、これは黙説法というレトリックにあたる。あるいはツァラトゥストラにみられるような、概念的人物(ドゥルーズ)。

 

17. ニーチェの意識した著者たち。

 ニーチェの文章に感銘を受けるだけでもよいが、彼が誰を意識して自身の文章を書き綴っていたのかを知ることで、より文脈を理解して彼の文章を理解することができるだろう。『人間的、あまりに人間的Ⅱ』にあるアフォリズムでそれがわかる。

四〇八 「冥界の旅」。
――私もやはり、オデュッセウスと同じように、冥界へ行ってきた、そしてこれからも度(たび)しげく行くだろう。そして、幾たりかの死者たちと語り得るためには、私は牡羊を犠牲(いけにえ)にしただけではなく、私自身の血をも惜しまなかった。犠牲を捧げるこの私を受け入れてくれたのは四組の人たち、つまり、エピクロスモンテーニュゲーテスピノザプラトンとルソー、パスカルショーペンハウアーであった。私がこれまで長らく孤(ひと)りで旅をつづけてきたとき、私はいつもこの人たちと自分を対決させずにはいられなかった。私は、この人たちから私の考えの当、不当を教えてもらいたいのだ。私は、そのとき彼ら自身が互いに相手の当、不当を論じ合うさまを、耳をこらして聞きたいのだ。私がおよそ何を語り、何を決定し、何を自分のため、またひとのために考案するにせよ、いつも私は、あの八人のひとに眼をくぎづけにしているし、またあの人たちの眼が私にくぎづけになっているのを見る。――生きている人たちにこう言っては申しわけないことだが、この〔生きている〕人たちときては私には時折影〔亡霊〕のように見えるのだ、すっかり蒼ざめて不機嫌に、すっかりおちつきをなくして、しかもああ! 生をものほしげに眺めているように見えるのだ。ところがそういうとき、あの人たちは、まるでいまや、つまり死んで後は、決して生に倦むことなどあり得ないかのように生き生きと見えてくる。だがこういう永遠の生気こそが大切なのだ。いわゆる「永生」とか、またおよそ生活などに何の意味があろう!

フリードリヒ・ニーチェ、『人間的、あまりに人間的Ⅱ』、ちくま学芸文庫、p.255

 ここにあげられている8人の著書たちのものの考えと、ニーチェ自身の考えは必ずしも同調しない。引用にもあるように、ニーチェが取り入れ、かつ対決してきたひとたちなのだ。とくにパッと見ルソーなんかニーチェとは全然合わないだろう。名前があがってるだけでもけっこうわたしは意外だった。

 

18. ニーチェの褒めた著者たち。

 ニーチェが外国の著者ではなく、自国のどんな文筆家の書物を読んで、どれを良いものと認めていたのか。これもまた彼を知るのに参考になるだろう。同じく『人間的、あまりに人間的Ⅱ』より、

一〇九「ドイツ散文の宝」
――ゲーテの諸著、とくにおよそ存在するドイツ書のうち最良の書であるゲーテエッカーマンとの対話を除いたなら、いったいドイツの散文文学のうちで何が、繰り返し読まれる値打ちあるものとして残るだろう? リヒテンベルクの〈箴言集〉、ユング・シュティリングの〈自伝〉の第一巻、アダベルト・シュティフタ―の〈晩夏〉、それにゴットフリート・ケラーの〈ゼルトヴィーラの人々〉、――そしてこれで当分は種切れであろう。

フリードリヒ・ニーチェ、『人間的、あまりに人間的Ⅱ』、ちくま学芸文庫、p.352

 

19. ニーチェ主義者へ。

 ニーチェは、彼が書いたことばを一から十まですべて信用してくれ、などとは書いていない。ニーチェに忠実でありたければ、彼に従いすぎてはいけない。

※『ツァラトゥストラ』、第一部「贈り与える徳」3を参照

 

20. 神の死の日本での意味。

 ニーチェの言う神の死は、キリスト教の神を皆信じなくなってしまったということ。そのことをどう受け止めるかが彼の哲学の柱を成す。では日本では? 神は死んだのか? 八百万の神を誰も信じなくなったことが神の死か? 違う。神は死んではいない。神ではなくなっただけだ。

※『喜ばしき知恵』一二五「狂乱の男」参照

アフォリズム集(No.1~No.10)

 「アフォリズム」というジャンルをご存じでしょうか。エッセイよりも短い断章形式の文章や、格言、箴言と言われるものです。私はアフォリズムを読んだり書いたりするのが好きです。以下に掲載するのは、私がX(旧Twitter)で書いているアフォリズムに加筆訂正などを加えて、まとめたものです。自分で書いたアフォリズムは、半ば自分への戒めみたいなものですが、ご笑覧いただければ幸いです。

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01. アフォリズムのかなめ。

 アフォリズム箴言)という形式のかなめは観察である。だから、ニーチェアフォリズムの敵は友人たちであると言ったのだ。

※『人間的、あまりに人間的Ⅱ』、p.103、「格言の読者たち」参照

 

02. Twitterは手帳。

 一気呵成に文章を仕上げるよりも、ここ(=Twitter)で140文字ずつ書いたことをあとで箴言集にまとめればよいのではないかというアイディアを思いついた。ニーチェも各地を放浪しつつ手帳に書きためておいたことを、あとで箴言集にまとめたように。真似をしよう。字数的にも、作りたいもの的にもちょうどいいな。

 

03. アフォリズムは未開拓。

 アフォリズム箴言)というジャンルはまだまだ開拓する余地がある。元々は聖書に由来するジャンルなので、日本人にはあまりなじみのあるものではない。小説、エッセイ、評論、詩は表現の形式として定着した。アフォリズムはまだまだである。

 小説が一番娯楽として定着しているが、詩や短歌、俳句みたいなみじかい文学は、通勤通学時にポケットにしのばせるのにちょうどよいのだから、もっと流行っていいと思うのだけれど。わたしが販売部数にうといからよくわかっていないだけで、意外と読まれているのだろうか……。

 

04. 三人共感させてみよ。

 あなたの文章を読んで、何人が納得したり共感したりしてくれるだろうか? 一万人、十万人、はたまた後世の人たちが長く読みついで、数えきれないくらいの人がそうしてくれるだろうか? 大それたことを妄想しないように! 三人文章で共感させてみよ。それで十分ではないか。

 

05. 本好きにあるまじき問い。

 ほんとうは、ひとはそんなにたくさんの書物を必要としていないのではないか。飽き性の問題はあるものの、時間を置いて再読すれば、またその本のあたらしい読み方を見つけることもある。ただ、だとすると新しく本をどんどん書いて世に出したい人には、こういうことを言うと少し申し訳ない気もする。

 万物流転、世の中は変転し、ひとびとの必要としている書物は刻刻と変わってくるだろうから、新しい本が世に出る意味はもちろんある。それはそうだ。しかしながら、個人の実存にとってそんなに大量の本に、いったいなんの意味があるのか。

 

06. 想定読者。

 基本的に、いにしえの西洋の著者たちが書いたものは、日本人たる私たちにはなんの関係もない。私たちは彼らが想定していた読者ではない。

 彼らが想定していなかった者としての、日本人、それも明治時代ですらなく現代に生きる日本人であるわたし。わたしはどんな読者なんだろう? 世界中の文物がインターネットを介して容易に手に入れられるようになった世界に生きるわたし。民主主義が中途半端に根付いた国に生きるわたし。

 わたしはキリスト教信者ではない。もっと言うならキリスト教文化圏で生まれ育った人間ですらない。そうだったらよかったのに、とすら思わない。

 

07. 何を読んだかではなく。

 人は、他人が何を読んだのかなどあまり気にしないものだ。何を読んだかでその人の考えや思いはわからないからだ。どの程度読んだのかさえはっきりしない。他人はあくまで、その人の書いた文章でその人を知る。

 

08. 本の読み方の逆説。

 「この本はどこから読みはじめてもよい」と、読む順番の指示がある本は、一番始めから読み始めても問題ない。それがない本は……。

 

09. 問題の作りかたのまずさ。

 哲学を学ぶとき、一番丁寧に学ぶべきは、問題の作りかただ。たいていのひとは問題を作り損なう。抽象的で、大きすぎる、人生の実感から生まれえないような問題を作ってしまう。

 

10. はるか彼方の人。

 なんらかの哲学書に啓発されてものを書くのはかまわない。哲学の探求を行い始めるのは、みんなたいていある一冊の本からだろう。その著者が、あなたの属する伝統からはかけはなれた場所と時代の人だということを理解しておくこと。それでもなお、その人の遺産を継承すること。

 

 

ただ生きよ ――『シーシュポスの神話』読書録②

 さて、前回の記事の続きを書いていこう。

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 前回の記事の話を要約する。記事を書き始める前に見つけた三島由紀夫のインタビュー映像から、私は、『シーシュポスの神話』が書かれた背景には、戦争を背景にした身近な人の死と、のうのうと生きている自分の生の対比、不釣り合いがあったのではないかと考えた。三島が、戦後において英雄的な死は日本にはない、と言っていたが、おそらくそれはフランスでも同じだったのではないか。『シーシュポスの神話』を読み解くためのカギは、そこにあるのではないか。

 以上が、前回の記事で私が言いたかったことの要約だ。

 アルベール・カミュによる哲学的エッセイ『シーシュポスの神話』は、カミュが二十九歳の時の作品だ。同年に小説『異邦人』も発表している。『異邦人』、『シーシュポスの神話』、そして戯曲『カリギュラ』の三つで「不条理三部作」を成している。

 カミュはこのように、小説、哲学エッセイ、戯曲の三部作で「不条理」を表現し、後年は『ペスト』(小説)、『反抗的人間』(哲学エッセイ)、『正義の人々』(戯曲)の三つから成る「反抗三部作」を書いた。哲学と文学を、このように融合しようとした人だった。

 それにしても、『シーシュポスの神話』の書き出しは、他の哲学書を読んだことがある身からすると、ちょっとギョッとする書き出しだ。なにせ、「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ」から始まるのだから。この世界に神はいるのか、とか、愛とは何か、無意識とは何か、とかでもない。カミュのテーマは、自殺なのである。

 真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである。それ以外のこと、つまりこの世界は三次元よりなるかとか、精神には九つの範疇があるのか十二の範疇があるのかなどというのは、それ以後の問題だ。そんなものは遊戯であり、まずこの根本問題に答えなければならぬ。

『シーシュポスの神話』(新潮文庫アルベール・カミュ、p.12)

 なんて切迫した問いかけだろうか。哲学で一番大事な問題は「自殺」だというのだ。ただ、自殺の仕方がどうこうといったことではなく、「自殺」を問題にするとはどういうことかが、すぐ次の文章で言い換えられている。「人生が生きるに値するか否か」。これが、『シーシュポスの神話』で扱う根本問題なのだ。

 いやでも、話を進めるにつれて、人生が生きるに値しない、今すぐ死ぬべきだとなったら? 下手をすると自殺を哲学的に賛美しだすんじゃないかと、読んでて正直冷や冷やするが、読み進めていくと、彼の立場はむしろ強烈なアンチ自殺のほうにあるということがわかる。安心していただくために、それを示す部分を引用しておこう。

 自殺は不条理への同意を前提とするという点で、まさに反抗とは正反対である。自殺とは、飛躍がそうであるように、ぎりぎりの限界点で受け入れることだ。いっさいが消尽されつくしたとき、人間はその本質的歴史へと帰る。自己の未来、唯一の怖ろしい未来をかれは見わけ、そのなかへと身を投じていくのだ。自殺はそれなりに不条理を解決してしまう。自殺は不条理を同じひとつの死のなかに引きずりこむ。だがぼくは知っている、不条理が維持されるからといって、不条理が解決されるということはありえないのだということを。不条理は、死を意識しつつ同時に死を拒否することだというかぎりにおいて、自殺の手から逃れ出てしまうのだ。

『シーシュポスの神話』(新潮文庫アルベール・カミュ、pp.96-97)

 わかりやすく嚙み砕いて言えば、自殺は不条理を受け入れてしまうことであり、不条理を生きようとする人間は自殺などしようとしないということだ。「不条理が維持されるからといって、不条理が解決されるということはありえない」とカミュは言う。生きている限り人間は不条理な状況に置かれざるをえず、死ぬまでそれは解決されない。ひっくり返して言えば、死ねば「それなりに不条理を解決してしまう」。不条理を解決しようとするのではなく、不条理に「反抗」しろ、というのが、カミュの立場なのだ。不条理を維持し、かつ反抗する態度を維持することによって、自殺からは遠ざかるのだ、と言っている。

 この本で一番むずかしいのが、この「不条理」という言葉をどう解釈するか、ではないだろうか。というか、私にはこの一番のキーワードである「不条理」という言葉の解釈が一番むずかしかった。

 そこで、私は前回の記事で記した補助線を使いたいと思う。つまり、冒頭にも述べた「戦争を背景にした身近な人の死と、のうのうと生きている自分の生の対比、不釣り合い」である。戦争で戦い、死んでいくこと。それは、残された人々からすれば、国のために立派に戦って死んでいくことであり、とてもじゃないが、無駄死にだったなんて言うことはできないのだ。どこの誰とも知れない人が戦って死んだのならば、まだ一歩引いて考えることができるのかもしれない。しかし、身近な人が兵隊に取られて、戦場で戦死したとしたら? その人の死は強烈に、残された私たちに訴えかけてくるものがあるだろう。

 そして戦争が終ったら、残された人々はどう思うだろうか。前回の記事の最後で、私はこんな疑問を書いた。「この不釣り合いに直面したとき、人は自分の死を、自分の死のあるべき姿を、どのように考えてしまうのだろうか?」。おそらく、残された人々は、自分も、何かのために戦って死ぬべきなのではないか?と考えるのではないだろうか? 私には、そう思えてならないのだ。いわば、国のために戦って死んでいった人々の死と、自分自身の死の釣り合いを取ろうとするのではないか? そうしないと、戦死していった人々の死が、あまりにも報われないものになってしまうからだ。

 戦死していった人々はたまたま兵隊に取られて死んでいった、自分はそうならないで生き延びられた。そのように、戦死していった人々の死を、たまたまの、偶然の産物だと考えてしまうと、戦死していった人々が、あまりにも可哀そうではないか。その人だって、お国のためとはいえ、死にたくはなかっただろう。当たり前だ。たまたま選ばれたのがその人だったなんて、まるでロシアンルーレットで生きるか死ぬかが決まってしまったとでも言うかのようだ。そんな馬鹿げたことがあるだろうか。そのように考えてしまうと、その戦死していった人々の死に対して筋が通らなくなってしまう。それこそまさに「不条理」(absurde)と表現すべきことにほかならない。

 さて、もしここまでの考えがある程度当を得ているのならば、戦後生き延びた人々の考えていたことに、少し近づけたのではないだろうか。戦後生き延びた、残された人々は、「自分も何かのために戦って死ぬべきなのではないか」と思っていた。すなわち彼らの脳裡にあったのは、身近な人の死に照らされた自分自身の死だったのだ。なぜなら、そのように考えないと、生きている自分自身の状況が「不条理」なものとなってしまうからだ。

 ここまでを踏まえてカミュのメッセージを解釈してみると、彼の意図がもう少しわかりやすくなってくる。カミュはまさに戦後生き延びた人々に対して、この不条理な状況を、不条理としてそのまま認めて生きよ、と言っているのだ。「自分も何かのために死ぬべきなのではないか」と考えずに、ただ生きよ、と。だから、『シーシュポスの神話』の冒頭で、自殺こそが問題だと言ったあとに、カミュはこのように言うのである。

 地球と太陽と、どちらがどちらのまわりをまわるのか、これは本質的にはどっちでもいいことである。ひとことで言えばこれは取るにたらぬ疑問だ。これに反して、多くの人びとが人生は生きるに値しないと考えて死んでゆくのを、ぼくは知っている。他方また、生きるための理由をあたえてくれるからといって、さまざまな観念のために、というか幻想のために殺しあいをするという自己矛盾を犯している多くの人びとを、ぼくは知っている(生きるための理由と称するものが、同時に、死ぬためのみごとな理由でもあるわけだ)。だからぼくは、人生の意義こそもっとも差迫った問題だと判断する。

『シーシュポスの神話』(新潮文庫アルベール・カミュ、p.13)

 引用部分でカミュは、なんらかの観念や幻想のために殺し合い(=戦争)をしている人々を挙げている。その観念や幻想を実現しようとして生きること、それはつまりその観念や幻想に殉じて死ぬということなのだ。死ぬ理由と生きる理由が、ここではコインの裏表の関係になっている。これが分かれば、カミュのこれ以降の論述の運びが十分予測できるだろう。引用全体を裏返して言えば、カミュは、「人生はただ生きるに値する」「観念や幻想のために生きようとするな(=死のうとするな)」ということを言おうとしているのだな、とわかる。何かのために生きるのではなく、ただ生きるのである。

 何かのために生きるのではなく、ただ生きる。これは簡単なことでは到底ないだろう。ただひとまず、私はこのカミュのメッセージを受け止めておこうと思う。難しいとは、思うのだけれども……。