アカデミー賞を席巻した『ANORA アノーラ』が描き出したアメリカン・ドリームの喪失と、描けなかった境界の向こう側
打ちのめされるアノーラに共感する私たちは、境界のどちら側にいるのだろう
2025年のアカデミー賞は、ショーン・ベイカー監督の『ANORA アノーラ』のためにあったと言っていいだろう。ショーン・ベイカーは作品賞、監督賞、脚本賞、編集賞と主要部門を総なめにし、主役のアノーラを演じたマイキー・マディソンは主演女優賞を受賞した。
『ANORA アノーラ』は、ニューヨークで暮らすセックスワーカーの女性アノーラの姿を描いたロマンティック・コメディだ。大富豪の青年と出会い、いわゆる玉の輿に乗りかけたアノーラは、自分の人生を切り開くために夜のニューヨークを駆け回る。
近年のショーン・ベイカー作品の大きな特徴として、「弱い立場に生きる人たちへのフラットな眼差し」、「当事者を描く際のリアルな筆致」が挙げられる。私がショーン・ベイカー作品に感じてきた魅力は、彼が過去作から大きな飛躍を遂げた『ANORA アノーラ』にも行き渡っている。しかし同時に、本作ではその魅力が反転して危うさとして浮かび上がっているようにも思える。新たなヒロイン像として絶賛されるアノーラの姿は魅力的だ。しかし、アノーラのキャラクターに魅力を感じ、作品を楽しめば楽しむほどに、そしてきらびやかなアカデミー賞の舞台を見るほどに、私の脳裏には疑問が浮かぶ。アノーラはいったい、今どこにいるのだろう、と。
※本記事には『ANORA アノーラ』の結末に関する記述が含まれる。
ショーン・ベイカーの作品は、社会に生きる弱い立場の人の姿を間近で撮ることが大きな特徴となっている。Instagramや量販店などで見出した俳優を起用するなど、キャリアを問わない配役を行いながらも、映し出される光景には圧倒的なリアリティが伴っている。フロリダのディズニー・ワールド近郊のモーテルを舞台にした『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』は子役が登場するシーンが多い。本作における、子供特有の芯の通っていない、ぐにゃぐにゃとした体の動きを見て、「映画やドラマでは子供も背筋をピンとしがちだけど、でも普通の子供ってぐにゃぐにゃしているものだよな、確かに」と大いに納得したのを覚えている。役者としての訓練を積んでいない人物を演出するのは易しいことではないが、ショーン・ベイカーのフィルムは当たり前のようにそれを実現し、映画の説得力を押し上げている。
もちろん、ほとんどの映画作品はリアリティに気を遣う。医療ドラマの手術シーンで演者の手元がおぼつかなければ、「やっぱり映画って嘘なんだな」と興ざめしてしまい、物語への興味まで失ってしまうことを皆知っているからだ。しかしショーン・ベイカーの映画を見ていると、「そもそも、映画というのは嘘だったのだな」と思わされる瞬間がある。
『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』のオープニングで、モーテルに暮らす子供たちは車のボンネットに唾を飛ばす競争をしている。フロリダの陽光を反射するフロントガラスに、泡立った唾液がまとわりつく。叱ったらもちろん子供からは「バーカ」と悪態をつかれる。私の脳裏には真っ先に、クソガキという言葉が浮かんだ。近くにいたら絶対に苛立つに違いない。しかし、我々が現実で遭遇するクソガキは、だいたいこんな感じだ。そこで気づくのは、映画やドラマに出てくる子供というのは多かれ少なかれ、リアルではなかったのかもしれないということだ。子供はかわいいものだ、助けたいものだ。そうでなければ観客に、視聴者に嫌われる。映画は作り物なので、登場人物を好きになってもらわなければいけない、応援してもらわなければならない。だからクソガキを出すにしても見どころのあるクソガキにするために、表現においても手心を加える。
しかしショーン・ベイカーの映画ではクソガキはクソガキのままだ。物語と観客が要請するステレオタイプを避け、この世界に確かに生きているだろう人の姿をそのまま描く。そのリアリティは、ショーン・ベイカーの近作に共通するテーマ――社会階層の固定化と断絶、そして越境不可能性を明らかにする。観客が「こんなにクソガキなら社会から無視されるのも仕方ない。もうちょっとお行儀がよかったら助けてもらえるかもしれないのにね」と思いたい心理を暴いていく。弱者が弱者のままでいてほしいという無意識の抑圧を暴いていく。つまり、ショーン・ベイカーの表現するリアリティは、社会階層の断絶において、その状況を正当化したい論理が感情レベルで社会に内在していることを観客に気づかせる効果があるのだ。
『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』には、社会階層の断絶の具体的な姿も描き込まれている。映画の舞台となるモーテルの近くには、世界中からディズニー・ワールドのためにやってきた観光客の姿が見え隠れする。しかし、彼らの人生はモーテルで暮らす母子とは交わらない。せいぜいが、母子が観光客に無理やりに偽物の香水を売りつけようとして、拒絶されるくらいだ。きらびやかな夢の国、ディズニー・ワールドが目の前にあるのに、決してそこにはたどり着けない断絶を、モーテル暮らしの人々の姿を通してショーン・ベイカーは描いた。
テキサスの工場地帯を舞台にした『レッド・ロケット』における境界の描写は、さらに露骨だ。落ちぶれて地元に戻り、薬物の売買を始めた元ポルノ俳優の主人公は、薬物の調達をしてくれるディーラーから「薬物を工場の労働者には売るな」と言い含められる。主人公が属する階層は、薬物の流通については法の秩序の埒外なのだ。しかし工場労働者の階層においてはそうではない。そこにもまた明確な境界線があり、ショーン・ベイカーの映画の登場人物はその境界線を決して跨がない。というよりも、跨げないのだ。階層を上昇する手段など存在しないし、そもそも中流以上の人々には彼らの姿は見えてもいない。それはアメリカにおける「アメリカン・ドリーム」が機能不全に陥っていることを示している。貧しい生まれでも学歴がなくても、立身出世への道はあるという希望がアメリカの幻想を支えていた。しかしショーン・ベイカーの映画は、もうそんなものがどこにもないのだと看破する。
『ANORA アノーラ』もまた、アメリカン・ドリームの映画である。ストリッパーのアノーラは、ロシア語が話せるという理由でロシア人富豪のイヴァンの接客をすることになり、距離を縮めていった2人はラスベガスで結婚する。セックスワーカーの女性が富豪と結婚して幸せになるという筋書きは『プリティ・ウーマン』と重ねられるが、まさしくアメリカン・ドリームの類型のひとつだろう。ここで注目したいのは、アノーラが一時的にでも、階級や社会階層といったものの境界線を越境しているという点だ。夢見ることすらできなかった前2作の主人公たちに比べると、アノーラの世界にはまだチャンスがある(ように見える)。しかし結論から言ってしまうと、この映画は、やはりアメリカン・ドリームの消失を証明して終わる。
アノーラの期待する越境は盤石なはずだった。婚姻という強固な関係性、法によって保障された財産共有にアノーラは一時的にでも成功した。離婚するにしても財産分与のチャンスはある、とアノーラは思ったことだろう。アノーラが果たしてイヴァンを愛していたかどうかはこの際どうでもよい。アメリカの法が保障したアメリカン・ドリームのラインにアノーラは乗ることができたのだ。ラスベガスのあの夜に、アノーラはアメリカン・ドリームを掴んで素敵な音楽とともにエンドロールを迎えた。アノーラは知らなかったのだ。境界線の向こうにいる上流階級の大富豪は、資本主義のルールでその結末を、アメリカン・ドリームの成就をもひっくり返せることを。そもそも越境ができない、断絶を越えられないというアメリカン・ドリームの不可能性を描いてきたショーン・ベイカーが描いた、もうひとつのアメリカン・ドリームの不可能性が『ANORA アノーラ』なのだ。
しかし、この越境という試みは、映画の構造や演出においてうまく機能していないように私には思えた。たとえば、アノーラと一緒にいる際にビデオゲームをプレイするイヴァンの姿にその違和感は表れる。イヴァンのコントローラーの使い方は一言で言ってひどいもので、ゲームをやったことがないのだろうなというのが一目でわかる。この姿は、映画やドラマなどではもはや定番となった「彼女の話を真面目に聞かずにビデオゲームに夢中な男」というステレオタイプそのものだ。私はこのシーンを見て、「この映画って嘘じゃん」と身も蓋もなくがっかりした。貧しい人々、社会の抑圧に抗する手段を持たない人々の姿をリアリティを持って描いていたショーン・ベイカーの筆致は、境界を越えて上流の世界で生きる者たちの姿を描くに至っては突然の鈍さを見せる。刹那的で愚昧なお金持ち、親に定められた人生の針路に沿うしかない哀れな一人息子。イヴァンの道楽や虚無感は、あくまでステレオタイプの域を出ない。
ここに、私はさらなる断絶を見る。境界を越える行為がリスキーなのは、今までいた場所以外のことも理解しなくてはいけないからで、そこにもまた人間がいるのだと気づかなくてはいけないからだ。中途半端な越境は、その先にいる人々を理解不可能な他者としてラベルを貼り、ステレオタイプに押し込める結果を招きかねない。お金持ちは残酷。貧乏人は愚か。ステレオタイプのラベリングはさらなる断絶を生む。少なくとも、『ANORA アノーラ』は越境した先を描くことには成功していない。しかしむしろこの「描けなさ」こそが、私には今、現実で生じている分断そのものに見えてしまう。つまり、境界を越えた先のことは、やっぱり私たちにはわからないのだ。もちろん、この無理解は物語の要請として解釈することもできる。アノーラというキャラクターの目からは、富豪の生活や欲望は理解不可能なものとして映るという演出意図だ。しかし、それもまた間違いなく、断絶のひとつの形ではないだろうか。
越境の不可能性と分断を従来作とは違ったアプローチで描いた『ANORA アノーラ』は、ラストシーンではじめてアノーラの内面らしきものを映し出す。それは、アノーラの置かれた立場、そしてショーン・ベイカーが描いてきたひとびとの置かれた立場についての、一歩進んだ批評だろう。そしてこの瞬間に、『ANORA アノーラ』が評価された理由も理解される。
『ANORA アノーラ』が評価されたのは、やはり彼女がセックスワーカーの女性だからであり、能動的に物事を動かすヒロインだからだろう。『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』のヘイリーには応援したいほどの能動性はなく、『レッド・ロケット』の主人公は能動的に物事を動かすセックスワーカーだが男性だ。気丈で能動的なセックスワーカー、しかしアノーラは女性で、弱い。そのことがたぶん、この映画を見る人にとっては重要だった。車に唾液を飛ばす子供よりも寄り添いやすく、ラベルを貼りやすい属性を持つキャラクターが、アノーラだ。
イヴァンとの結婚が失敗に終わり、すべてを失った――というよりも、自分には多くを望む権利はなかったと思い知らされたアノーラ。この場面で、観客ははじめてアノーラの内面に触れる。雪が降りしきる冷たいニューヨークの街で、古びた車体に守られて、隣には自分に温かな思いを寄せるイゴールがいる。アノーラは、イゴールの中に自身が失念していたルーツを見る。ロシア語を話す祖母と深い関係性を作ることができなかった、つまりは自らのルーツから切り離されたアノーラは、イゴールが祖母からもらったという車の中で、硬い結び目がほどけたように内側に隠していた悲しみを見せる。イヴァンを探す道のりで、彼女はロシア系コミュニティを彷徨し、そのコミュニティの中で育ったイゴールの穏やかなパーソナリティに触れた。それはあり得たかもしれないアノーラの可能性でもあり、同時にロシア人コミュニティにもまた明確な階層が存在することを思い知らせる体験でもあった。アノーラはイゴールみたいになりたかったわけじゃない。イヴァンのいる世界に行きたかったのだ。自分が持つ力を使って。
映画のラストシーン、アノーラはイゴールにまたがって性行為をし、しかしイゴールからキスをされそうになって拒絶する。複数の解釈ができるシーンであり「こういう意味」と断言できるものはないが、私はここでアノーラがイゴールにたびたび「レイプしようとしていただろう」と言っていたことを思い出す。アノーラの持っている資本は彼女の女性性にまつわるもので、人格や尊厳に直接つながりを持ちつつ、換金可能性が高いゆえに軽んじられもするその力を男性が暴力的に奪い取ることを彼女は常に警戒していた。セックスワーカーの彼女にとっては、それはきわめて身近なリスクだった。
イゴールがいかに誠実であるかを、この映画の後半は繰り返し描いていく。顧みられないはずの弱者を弱者のまま留めておく、ショーン・ベイカーが過去の映画で何度か描いてきた弱者と越境不可能性の力学に、イゴールは介入する。弱いままでも幸福になれるのだと、優しくささやく。あんな奴らのいる場所に行く必要はないと。
この思いを受けてアノーラがイゴールに試みたものは、合意のない性行為、つまりレイプだった。アノーラは自身が警戒していたレイプをイゴールに仕掛けるが、その試みは成功しない。イゴールが優しくキスをすれば、それは単なるセックスになってしまう。彼女が自負する唯一の力は奪われるばかりで、他者を圧して奪うことが決してできないことが、このシーンでは証明されてしまっている。イヴァンとの関係性でズタズタにされたアノーラの越境は、まったく別の卑近な境界線すら越えられずに、最後まで失敗する。
無軌道な追跡劇と夢の挫折を描いた物語は、ショーン・ベイカーらしい夢の不可能性の切なさに着地する。雪が降りしきる中、4カラットのダイヤモンドの指輪だけをポケットに入れてアノーラは車を出て行くだろう。この世界にアメリカン・ドリームなどはなく、自身の無力さを魂に刻み込まれた彼女の人生に、どんな注釈を加えることもできないままで。
弱い者が弱いままであり続ける悲しみ。富豪というのは理解不可能で社会的弱者を虐げる者である、という直裁的な他者化。私はやはり、アカデミー賞の舞台で祝福された光景込みでこの作品を見てしまう。きらびやかでアメリカン・ドリームそのものとすら言える授賞式では、4カラットのダイヤよりもずっと大きな宝石がスターの肌の上で輝いている。映画制作はお金にならない、映画文化を守ろうと叫ぶ傍らで、虐殺の阻止を呼びかけるスピーチには恐る恐る反応を選ぶセレブたち。ここにいる人たちは、この映像を見ている私は、『ANORA アノーラ』の世界のどこに属しているのだろう。『ANORA アノーラ』という作品にまつわる景色は、作品の中身と照らし合わせても分断の現実を表しているように私には見えてしまう。アノーラの人生を垣間見て、その挫折をひとつの映画体験として楽しんだからこそ、私は思うのだ。断絶と夢の喪失を描くために傷つくことを要請されたアノーラは今、いったいどこにいるのだろう、と。
映画『ANORA アノーラ』は全国で公開中。

