【レジリエンス】「きまじめさ」以外に重要な「老獪さ」

「老獪」になったな、と実感した。自分が、だ。良くも悪くも。

別垢ブログで、組織内マネジメントの問題に苦闘していたが、どうにか道筋をつけたことを書いたが、そこで己を省みたのである。

どんなところに感じたのか?

自分に求められていたのは主に「調整」だったが、相手により、「手を変え品を変えた」。

無論、特に「ウソはない」わけだが、「多様な顔と口上」を用意したのは事実だ。

昔営業の仕事をしていた頃にはできなかった芸当。

 

「年輩で、クセのある人々」でもあったからこその、「老獪」さへの自信と言えると思う。

所詮、「きまじめ」なだけだと、この環境は乗り切れなかったのである。

自分も「図太い」かというとそうとも言い切れない部分があり、むしろ「図々しく甘えられる」ところに「強み」があると言えるだろう。

が、それもまさに「老獪さ」の一環とも言えるだろう。

 

昔、学生時代に「『腹芸』の大事さ」のようなものを説かれたことがあったが、その時は反発していたものだ。

「それが大事」と思うようになったわけではないし、「ハッタリ」めいたことは今も嫌いで、特にしたりはしない。

結局、「空手形を切る」ようなことはできない点では、自分も「きまじめ」でしかない。

が、「具体的な展望を示しつつリードを取る」のは、最も得意で向いたやり方でもある。

あとは「メリハリ・濃淡を利かせる」ということ。

「脅し透かし」みたいなことをしなくても、「冷静に」それをするだけで、十分に「威力」は相手に伝わる。

当然だが、「ファクトで相手を攻める」のが、最も効果的なのである。

 

「話せばわかる」とは思わないし、過度に「楽観的」というわけでもない。

むしろ、「厳しい現実」を示して、それを共有して乗り切ってもらうこと。

それしかないのだ。

あと、「冷酷さ」も要る。

「人を切り捨てる」というよりは、「出来ない人はできない」と「諦めをつけていく」ということ。同じことかもしれないが。

「厳しい環境」なればこそ、「皆が生き残れる」筈はない。

自分とて危うかったくらいで、「皆に手を差し伸べられる」訳ではなかった。

それとて、「気分が良い」わけもない。

が、そこも冷静に現実を吟味すれば、その「限界性」が浮かび上がることで、少し「救い」は出てくる、ということ。

 

どの程度人口に膾炙したかはわからないが、「レジリエンス」という言葉は、近年はたまに目にするようになった。(元は物理学の「弾性力」が原意のようだが)

訳し方は様々だが、「打たれ強さ」はその一例だろう。

 

自らの「老獪さ」の「正体」というのは、「人捌き・人あしらい」ではない、のだと思う。

「現実を、多様な角度から照らし返す」という芸当を、単に自分に対してだけでなく、「人に対しても」幾分かできるようになった、ということだと思う。

「きまじめさ」は、それは重要でもあるが、背景が「繊細さ」だけだと、身を崩しやすい面もあるだろう。

それを補える「何か」があるか。それは他の要素でも良いだろうが、自分ではそれが「老獪さ」に「なった」のだ。

 

 

伝言ゲームと日本人式「がんばったで賞」

(あまり具体的な内容となっていないため、読むのは推奨しません)

謎のタイトルとなってしまった。

昨日は、スタッフ採用面接を行ったところ、それはある筋の仲介・紹介を経ていたのだが、「(いい意味で?)聞いていた話と全然違う」となったのである。

 

あまり詳しく書けないので、ピンと来づらいかもしれないのだが…

いわゆる人材紹介会社とか、「人からの紹介」を経由しているものでは「ない」。

その「仲介」を経ることになったのは、(こちらからの要望を経たものではあるものの)「成り行き上やむなく」といった側面が強い。

すなわち、その「仲介」者は、元来そうした機能を期待されている主体では全くなかったのである。

 

「仲介」というより、正確には「声掛け」程度の役割だった(少なくともこちらはそれを想定した)のだ。

なぜその「声掛け」を利用したかというと、「負担の大きさ」、「時間のなさと時間稼ぎ」の要素が非常に大きかったからに他ならない。

 

その「声掛け」者は(その機関ではそれなりの「お偉いさん」ではあるのだが)、慣れないというより、全く馴染みのない業務に、一体どのように遂行すべきかノウハウも持ち合わせず、「戸惑いつつも、やらねばならないのでどうにかせねば」といった具合が顕著に伝わるような仕事ぶり(?)が垣間見られたのである。

具体的には、その「声掛け」の中間経過の共有内容がコロッと変わるとか、先述の面接対象者の、「聞いていた話と全然違う」といった中身なのだった。

 

といって、自分は不思議と、全くその「声掛け」者を責める気が起きないのも不思議だった。

もっとも、こちらが「声掛け」を要望したのは、筋上のことで「感謝」する内容でもないのだが。

 

なぜ責めようと思わなかったか?

「負担の大きさ」「時間のなさと時間稼ぎ」双方の目的は、立派に果たしてくれたからである。

元来、「声掛け」も「仲介」を期待したものというか、要は「大人(組織)の事情」から、という側面が大きい。

仮に「聞いていた話と全然違う」となっても、今ダイレクトに正確な情報が伝わっている以上は、あとはもうその「声掛け」者のせいにすらしてしまえるからである。

 

自分は従来、「頑張ったのだから、褒めたたえてあげよう」式の日本人の主観的情緒性を好まない。

特にその嫌悪感は、結果責任を求められるトップアスリートや、政治家に対する世間の「反批判」に対して向けられることが多いのだが。

今回は深い分析には踏み込まないが、そのマインドの根底においては、「批評性の欠如」と、「その大衆自身が、日頃『褒められる』ことから飢えている」ことが、そうした「がんばったで賞」式の情緒を支えているのだと捉えている。

 

しかし不思議なのが、自分は、その「声掛け」者にはむしろ、そうした「がんばったで賞」を上げたいくらいの気分になってしまったのだ。

立派にこちらの「下敷き」にはなってくれていたから、に他ならない。

こちらが「結果を求めない」ところに対して、「的外れながらも懸命にやってくれていた」軌跡は見え、結果として「時間稼ぎ」にはなってくれたからだ。

 

自分としては珍しい(?)「情緒的判断」にどうして流れてしまうのだろう?と考えると、「負担がキツすぎる」こと自体は客観的に正ではあったものの、しかし個人的に「ラクしたい」を埋めてくれるものでは間違いなくあったから、とも言えるだろう。

もっとも、先ほど述べた通り、筋的に要望して然るべきもので、別に不当に利得を貪ったものではない。

また、恐らく当人にそれを伝える機会や必要自体もないだろう。

 

自分はそれでも、「プロセスを果たしてくれた」ことへの一定の評価をしていて、それがこの「がんばったで賞」として表されたのだと感じる。

日本人式「がんばったで賞」は、「表立って行う」べきものでは「ない」が、「内々に語らう」分には、一種の慰安効果はあるかもしれない、と感じた出来事だった。

 

相手がYouTube だろうと、問答無用で「切る」

YouTubeの視聴環境が悪化したのを機に、思い切って「切る」という大胆な選択肢も浮かんだ。そもそも最近は、忙しくて視聴時間が全くなく、フォローしたい動画を追えないまま、どんどん蓄積されるに至った。

もうコロナ禍当時と比べて、参入者やチャンネルが増えすぎ、ハイレベルのチャンネルや企画も追える分量ではなくなったのだ。

そこにきて、政治情勢にもその環境が影響を与えるに至っている。

「その情報や環境は、追うべきか否か?」でいうと、自分の判断基準では「距離感を取って眺める」となる。敢えてそこに近づくことはせず、遠巻きに眺めてスタンスを「取らない」。

「関与」することを「周到に遠ざける」戦略である。

YouTube自体が、視聴環境から遠ざけようと言うのなら、もはや「願ったり叶ったり」かもしれない。

単に、「リアルタイムの動画ベース」の比重を大幅に引き下げ、代替のニュース源を確保すれば良いだけだからだ。

というより、「リアルタイムで動画を見る」という情報習慣そのものに、気づけば縛られ過ぎていた、のか。

「お前がそのつもりなら、もうこっちも用はないから」

そう言い捨てて去るだけのことだ。

 

年末にふさわしい「大掃除、断捨離」の機会を得た。

 

「虚々実々の駆け引き」?

「初めてのプチ政治」(?)に乗り出したと前回書いた。

終わりというよりまだ始まったばかりなのかもだが、最初の「結果」らしいものがわかった。

言えるのは、「正面からの駆け引きで、相手の本音を的確に引き出すことに成功した」ということ。

別段パーフェクトの試合ではなかったが、最低限のものは得られたし、スタート地点には立てたので満足している。恐らく「立ち位置の確保」が最大かつ最低限の目標であったことを顧みれば、「成功」だったと見ることもできる。

もう一つは、「組織(内部)に向けた駆け引き」という側面も非常に大きかった。

表向きに表明した「立場」はともかく、「内輪における見方」は全く一枚岩ではなかった。

(そして、見方が「正確」だったのは自分だったし、それに向けて、「正しい戦術(組織としての)」を取ると同時に、また「正しい戦略(個人としての)」を取り得た、とみている。

 

では「全体最適」だったか?と言われれば、「否」かもしれない。

「曖昧に済ませるべきこと」を「敢えて明示させた」ことは、本来なら毀誉褒貶あることかもしれない。

が、これは「個人としての哲学」の表面に過ぎないかもしれぬが、「適当なごまかし」には特に益はない。

自分はだから、敢えて「踏み絵を迫った」のかもしれぬ。

しかし、それは態度曖昧だった相手に問題があることだ。

「本音」を引き出さないことには、こちらのスタンスは明確にできない。

 

「正面からの駆け引き」と「虚々実々」というのは、「矛盾」しているというべきだろう。

が、自分が取った戦術は、そうとしか表現できない。

なぜそうなのか?

個人・組織・共同体(?)としての「未来」が全く見えない中での「飛び込み(=未来への企投)」を迫られたからだ。

 

ただ、出された「結果」からすると、やはり「極めて正しい戦術」だったと見るよりない。

「出せる仮説」は全部ぶつけると同時に、向こうが「本音を誤魔化せない」ところへと追い込んだからだ。

ただ、「共同体」にとって「最適」だったかは、誰かがもしかしたら後から問うてくるだろうか?

尤も、そうだとしても別段、恥じるところは特にない。

 

結果が「何点か?」は「よくわからない」としか言いようがない。

上述の通り、「どの視点から切るか?」でまるで異なってくるからだ。

ただ、時間やカードの限られた中で、「全力を尽くしての結果」という点での不満は一切ないということは間違いなく言える。

きちんと「自分の進む途を指せた」と。

それはあまりに小さくないか?という見方もあるかもしれないが、不透明な時代においては、何よりも価値のある部分でもある。

 

もう一つは、「主導権を取りやすくした」ということ。

これはまさに、「現実政治の要諦」を占めているだろう。

「結果」そのものの「客観的評価」というより、恐らく「正しく行動の一歩を踏んだ」ことに、大きな意味が(これから)出てくると捉えるべきなのだろう。

初めての「プチ政治」の歩み出し?

(具体的内容は含まれていません。筆者の抽象的経験談のみの記録として)

初めて「プチ政治」をやっているな、という実感を得ている。

「期せずして」という言葉がぴったり来る。

と言っても、どうも「まるで手応えがない」くらいの相手だが、だから「リハビリと肩慣らし」にはちょうどいいとは言える。

「先に進むのか、どう進むのか?」はまだ見えないからだ。

でも、一応「どう転んでも良い」ように想定は巡らしてある。

「万全」というよりは、元々複雑性を要する要素そのものが多くない、というだけだ。

 

とは言え、「相手がどう出てくるか?」はフタを開けないと分からないし、楽しみな部分もなくはない。

というか、選択肢を「こちらから示した」のである。

どれで来るのか、組み合わせなのか、それともこっちの「予想外の手」を持って来るのか?

相手が「無能」な分、こっちに「主導権」を圧倒的に握れた展開だからこその余裕。

 

結果云々よりは、「過程」を楽しめるし、楽しんで行きたい。

 

「毒喰らわば皿まで」-腹を括る

米大統領選のトランプ再選、兵庫県知事選の前知事再選という結果を受けて、自分の中でも「一本線がつながった」感覚を覚えた。

「トゥルーサー(真実創出者)」という独自用語を用いているのだが、生成AIやSNS隆盛下では今後、技術×政治力を巧みに組み合わせた実力者が、任意に「真実を創出し、社会的に認定」される社会が到来した、と見ていいだろう。

民主主義社会下においても。法(法の支配と法治主義)も既存メディアも、手続きを通じての「権力チェック」ではなく、今後は「既存権威・権力の追認」の役割へと一挙に後退せざるを得ず、いずれは欧州も米国同様、「権威主義国」に転じていくと見ていいだろう。

 

そうした見通しの中で、自分はどのようなバランシングをすべきか?ということを考えてきたのだ。

結論から言うと自分は、「法」と「トゥルーサー」の「中間・中庸」の位置を保っていくことにしている。

そこにしか、自分の「義」は見出し得ない。

 

やや大胆な踏込みかもしれないが、「米中新冷戦」(?トランプ再選によりどのような構図になるかは不明だが)は、超長期的には、(「戦国時代」を経て)「ロ中朝の勝利」に終わる、と見ている。

なぜか?

基本的に、「新興国は、権威主義を支持する」からだ。

部分的には民主化・民主主義運動が占める社会もあるかもしれないが、全体趨勢としては、権威主義が占めていく。

そして、米国は、トランプ再選を通じて、「権威主義」への旗幟を明らかにした、と見ていい。

もっとも、米国の場合は、一国主義・保護主義が軸となっており、単純な「権威主義的連帯」の構図とはならないわけだが。

 

もう「民主主義は敗けた」と見なしているのである。

敗北主義と見なされようが、そこに抵抗はしない。

「時間のムダ」だからだ。

やりたい人間は、メディアに入るなり、老人左翼運動に投じればよい。

 

自分はだから、恐らくは一種のマキャベリズムを採っていると見てもいい。

「法」と「トゥルーサー」、どちらにバランスされているかを常に眺めて態度を決める、という。

 

「法」と「民主主義」は、無論「信じたい」ものではあり続けた。

しかし、既に今は(日本も含めて)「権威主義」へと振れてしまった、ということなのだ。

その現実を率直に認めるところしか始まらない。

今はしかし、その「過渡期」でもあるということ。

だから、上述のバランシングの余地もまだある訳だ。

 

今まで当ブログでも述べてきた通り、現在進行中の「戦争×環境・資源危機」が急ピッチで加速化していく。

そこでは、既存の「法」だの「民主主義」だの馬鹿げた手続きを守ることは無意味化していく。

では、自分もそうした「権威主義者」に投じるのか?

否。

では彼らに「抵抗」するのか?

それも否。

 

「不関与のまま、自分単体のみが生き残る」途を、基本的には選びたい。

が、もし関与を迫られたら、上述の通り「中間・中庸」の地点を巧みに選び抜く、ということ。

「法」と「民主主義」を「カード(=力)」として使える分には活用していく、ということだ。

それは、いずれは「全体主義」に飲み込まれる、ということかもしれないが。

「毒喰らわば皿まで」というのはその見通しのことだ。

 

「ファクト」は、「フェイクトゥルース」にいずれ飲み込まれていくだろう。

「ファクトチェック」という営み自体が、恐らく間もなく無意味化していく。

 

「守りたいもの」があったとして、それが(自分一個人の生命や財産であっても)もはや簡単には守り得ない。

「何に賭ければ」それを守れるのか?

使えるうちは、「法」と「民主主義」への「義理は果たしたい」。

が、「権威主義」下では、それらを「信用」する意味や根拠がそもそもないのである。

 

そして実は、それらより重要なのは、「自分が自分に、ウソをついていないのか?」ということだと考えている。

「自分で自分を騙す」というのは、「自己というデータログ」を辿った時に、必ずエラーやバグが見つかり、全体の歪みをもたらすことになるのである。

そして、一度でも「自分で自分を騙す」ことを容認すると、もう引き返すことが出来ない。よく言うように「ウソをウソで塗り固める」ことの連続のみが待つことになる。

 

「自分で自分を騙す」というのは、「自分よりも大きく、強い、抵抗できない何か」に屈することで生じると思っている。

「義」というのは、まさに「自分で自分を騙さない」ことだと考えている。

「フェイク」か「トゥルース」か「ファクト」か、というのは、実は「人が決めること」ではないのである。

 

「法」と「民主主義」を「カード(=力)」として使える分には活用する、というのは、別に「義」として信じているというより、自分に言わせればプラグマティックに選んだ手段に過ぎない。

しかし、あとから自分というものを振り返った時に、「どこにもウソがないな」という「信頼できる自分のデータログ」を残せるな、という差当りの現実主義的判断に根差したものと言えるのである。

 

未だに「保革論争(?)」する連中の脳と狙い…?

(あまり具体的な議論をしていません。政治社会史整理の「心理的準備」という、「主観的作業」に終始しているのでご注意下さい)

 

選挙完了を好機に、これまで積み残してきた「近年日本政治史」の推移を追いかけることにした。

当面特にポイントにおいたのは、「維新」(大阪維新の会日本維新の会)史。

それだけを重視しているのではないが、「なぜ維新?」と問われても、あまり上手く返答できない。

同垢別ブログseijishakaishiで、故安倍首相について触れたが、その「双璧」的存在として、現代日本政治と社会を象徴する存在であると「直感」するから、としか言えない。

「安倍晋三回顧録」を読む - seijishakaishiのブログ

 

「選挙完了」を「好機」と見たのは偶然ではなく、いったん今回の結果も含め、(特に自民裏金問題を焦点に)「アベイズム」に一定程度、「区切り」がもたらされるのではないか、と見たからだ。

ようやく「アベ」から「距離感」を取った目線で眺め得る、ということ。

 

自分が今のところ読んでいるのは、読みやすい新書レベルしかなく、おまけにkindleでレコメンドされる本ばかりなので「偏っている」と称されても仕方ないかもしれない、という前提で…

既に、「維新」の「正体」とか、その政治像というのは少しずつ掴めつつある。

しかし自分は、「返す刀」というのも大切、と感じているのである。

 

「アベは保守ではない」「橋下徹は保守ではない」の類の言説は腐るほど見てきた。

その趣旨は何となくは分かるつもりなのだが、本当にそういうのを見かけるたび嘆息してしまう。

「一体この書いている連中は、どんだけ昔で頭脳が停止してるわけ?何のための『保革』論争を仕掛けようとしてるの?」

と感じてしまうのである。

 

自分の結論は、その手の言説の「正当性」はある程度認めているのだが、「今の日本の『保守』は、『ゾンビ左翼』以外に残存していない」という「逆説」的結論となる。

一応、「保革」の「筋論」が「全くの無意味」と見ているわけではない。

が、その「目的」や「存在意義」に対しては非常に「懐疑的」というわけだ。

 

「『保守じゃない』から、一体何なわけ?」

としか思えない。

論者の趣旨は、「(それら論者の観るところでは)『保守』ではない」連中が、「保守だ」と「自称」していることと、また「『保守』的伝統(?)」が「破壊」されていることを問題視しているのだ、と捉えてはいる。

が、それが分かったうえでも「だからどうした?」としか思えない。

 

自分は希少な部類と自認しているが、「ゾンビ左翼」や、古株評論家連中にも一定の「存在価値」は認めている。

「どこが?何を?」と言われるとまた難しいのだが。

「思想史的な筋」論の整理をしてくれるからだ。

問題は、その「思想史的な筋」そのものに、何の「存在価値」もなくなってしまった、ということなのである。

 

「ゾンビ左翼」や古株評論家連中というのは、本当に文字通り、完全に「思考が停止」しているのだ。

しかし、だからこそ、彼らの主張する「筋」を「歴史的にたどりやすい」。

つまり、本当に純粋に、「思想史的化石」としての価値ということなのだ。

(そこで言うならば、例えば今の日本共産党社会民主党は、一種の「無形文化財」として扱うべき、と言ったところかもしれない。笑)

 

しかし、「ゾンビ左翼」や古株評論家が、その手の「化石的主張」を「現実に通用する言説」と信じ込んで(?)主張するのは、「マジか!?ガチで未だにこんなこと考えてるわけ?」と驚愕しかない。

ただし、「ゾンビ左翼」や古株評論家の固有の「実定的」な社会的価値も一応はあり、それは「ファクトチェック」のみに限られる。

 

「ゾンビ左翼」や古株評論家の言説に付き合うのは、「本当にキツイ」。

内容自体の難しさはない。これまた、良くも悪くも有難い(?)ことだが。

その数十年前で「化石化」したスピーカーに未だに付き合わされるその「苦行」のキツさ、ということなのだ。

 

「そのくせ、貴様はそれを有難がって読んでいるではないか」と突っ込まれたら一言もないが。

自分は、良くも悪くも、その手の論者も一向に信用していないが、「不信度合いの付き合い方」というものは確立している。

それは、(彼らが「『保守』ではない」と主張する)「アベ」や「維新」よりは、まだ「付き合い方」「距離感」の見極めが付いているから、というに過ぎない。

一種の「目印」として活用している、というのが少しわかりやすいだろうか。

 

「思想史的な筋」論で言うなら、「安保法制」騒ぎをどう見るべきだったかというのが、一応は自分のスタンスとしては固まってはいる。

ただ、「安倍政権」総体の評価は無論、まだ見極めが付かない。

現自民や政権次第でもあり、「見極めが付く」段階とも言えないだろう。

 

自分が狙いにしているのは、「権威主義」と「法(法の支配、法治主義)」の行方ということだ。

それは、「戦争」「資源危機」とも密接に絡んでくる筈だ。

自分が、「ゾンビ左翼」や古株評論家の「保革」論争が無為かつ無意味だと思っているのは、それらがこの難局にも難問にも、「何の答えも与えない」し「何もしようとしない(というより出来ない、能力がない)」からである。

彼らのスタンスは一貫していて、「何の責任も取ろうとせず、批判だけをする」ということである。(その一貫性は、「悪くも信用できる」と唯一断言できるポイントではある)

 

彼らは既に、例えば戦中の清沢冽の「暗黒日記」よろしく、「無能かつ冷静な観察者」になろうとしているのかもしれない。

だとするなら、「本当にお前らはダセーな」としか思えない。

つまり、「戦後の反省」が結局何にもならず、結果から言うなら、「ゼロ回答=成長0」と言わざるを得ないからだ。

 

「何も生み出さなかった」連中を、人々が、大衆が評価する訳がない。

というより、終始一貫して「批判だけする、他力本願であり続ける」ことに、「ゾンビ左翼」や古株評論家のアイデンティティがあったのだろう。

 

といって、「じゃあ自分がこれから何か生み出せるか?」というのは、「そんな時間があるのか?」が甚だ疑問となる。

「戦争」は、既に目前に来ているからだ。

「事後でも間に合うように」、またそうしたものを生み出しに行くよりない。

 

結果、「何にも乗れない」かもしれないが、まあそれはそれで仕方ない。

「無力な学問」に歯痒さは覚えるが、こっちの都合で、「いきなり成熟」はしてくれない。

 

権威主義」と「法(法の支配、法治主義)」の行方については、引き続き当ブログでも(実践的に)フォローしていくだろう。