日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正18年6月20日石田三成宛豊臣秀吉朱印状

 

 

 

其面*1之儀、相越絵図*2申越之通、被聞召届候、水責普請之事、無由断申付候由尤候、浅野弾正*3・真田*4両人重被遣候間、相談弥堅可申付候、普請大形*5出来*6候者、被遣御使者*7手前*8ニ可被及見候条、成其意、各可入精旨可申聞候也、

 

   六月廿日*9 (朱印)

 

        石田治部少輔との□(へ)*10

 

 

(四、3271号)
 
(書き下し文)
 
そのおもての儀、相越す絵図申し越しの通り、聞し召し届けられ候、水責め普請のこと、由断なく申し付け候由もっともに候、浅野弾正・真田両人かさねて遣わされ候あいだ、相談じいよいよ堅く申し付くべく候、普請大形出来そうらわば、御使者遣わされ手前に見及ばれ候条、その意をなし、おのおの精を入るべき旨申し聞くべく候也、
 
(大意)
 
忍城攻略の件について、そなたが送ってきた見積もり確認した。水攻めのための普請について油断のないよう命じたことはもっともなことである。浅野長吉・真田昌幸両名を今回も派遣したので、よく話し合って命じるように。普請が思ったより大規模になるのなら、こちらから使者を派遣して確かめさせるので、そのように心得、各人が精力的に働くよう命ずること。
 

 

 

石田三成が水攻めに必要な普請の見積もりを秀吉に伺うという形式を取っており、秀吉がその最終的決定をするということである。軍事の最終権限が秀吉に属したことを示す文書と言ってよいだろう。予想以上に大規模な普請になった場合は秀吉が使者を派遣して検分するという念の入れようである。浅野長吉や真田昌幸らとよく相談せよと指示している点からも、三成ひとりに指揮をまかせるというようなことはなかったことがみてとれる。

 

 

*1:武蔵国埼玉郡忍城

*2:計画、方針

*3:長吉

*4:昌幸

*5:オオギョウ。大規模な

*6:シュッタイ

*7:「御」があるので秀吉が派遣する使者

*8:目の前

*9:天正18年、グレゴリオ暦1590年7月21日、ユリウス暦同年同月11日

*10:三成

天正18年6月12日石田三成宛豊臣秀吉朱印状

 

 

 

忍之城*1儀、可被加御成敗旨、堅雖被仰付候、命迄儀被成御助候様、達色〻歎*2申由候、水責ニ被仰付候者、城内者共定一万計も可有之候歟、然者憐*3郷可成荒所候間相助、城内小田原ニ相籠者共足弱*4以下者端城*5へ片付、何請取候、岩付之城同前ニ鹿桓*6結廻入置、小田原一途之間者*7、扶持方*8可申付候、其方非可被成御疑候間、別奉行不及被遣之候、本城請取急可申上候、城内家財物共不散様、政道*9以下堅可申付候也

   

    六月十二日*10 (朱印)

 

           石田治部少輔とのへ*11

 

(四、3267号)
 
 
(書き下し文)
 
忍の城の儀、御成敗を加えらるべき旨、堅く仰せ付けられ候といえども、命までの儀お助けなされ候ようと、たって色〻歎き申す由に候、水責めに仰せ付けられそうらわば、城内の者どもさだめて一万ばかりもこれあるべく候か、しからば隣郷荒所になるべく候あいだ相助け、城内小田原に相籠る者ども足弱以下は端城へ片付け、いずれも請け取り候、岩付の城同前に鹿垣結い廻し入れ置き、小田原一途の間は、扶持方申し付くべく候、その方御疑なさるべきにあらず候あいだ、別奉行これを遣わせらるるに及ず候、本城請け取りきっと申し上ぐべく候、城内家財物ども散らざるよう、政道以下堅く申し付くべく候なり
 
 
(大意)
 
忍城の件、撫で切りにせよと申し付けたが、助命をするようたびたび訴えてくるとのこと。水攻めを命じたのだから、籠城している者は一万人程にもなるだろうか。そうすれば隣接する郷村は荒廃してしまうので助命し、また忍城や小田原城に籠城する者のうち女・子ども・老人などは出城へ移動させ、いずれの城も請け取ることとする。岩付城と同様に鹿垣を張り巡らせ閉じ込めておき、小田原に掛かりきりの今は、そなたが食事を与えなさい。そなたを疑っているわけではないので、別の奉行を派遣するには及ばない。忍城を請け取り必ず報告するように。城内の家財物などを散らかさないように、規律正しくせよ。
 
 
 

 

 

Fig1. 鹿垣

 

www.nikkei.com

 

                                      岐阜県 『春日村史 上巻』428頁

                                『広島県文化百選 1 (風物編)』119頁


忍城には城主成田氏長が小田原城へ赴いたため、成田泰季、長親父子、氏長の室女、侍69人、足軽420人のほか、百姓・町人・法師・神官・雑兵など2627人、15歳以下の童部1113人、非戦闘員男女合計3740余人が立て籠もった*12。総計で4232人で秀吉の予想1万人の半分にも満たないが、88%が非戦闘員であった*13。詳細は不明だがここで「足軽」と「雑兵」が異なるカテゴリと認識されていたように、これらの区別は前者が軍事的訓練の経験がある者で、後者はそうでない「とりあえず頭数を揃えた」程度の者と思われるので、非戦闘員の数に含めても大差はないだろう。

さて下線部①によれば、忍城の水攻めは「仰せ付けられ」とあるように秀吉の案だったようである。

 

Fig.2 忍城古図

                                             『行田市史 上巻』口絵より引用

 

水攻めは当然のことながら周辺郷村の田畠をも呑み込んでしまい、その荒地を元の通り耕地にするには莫大な財力と労力を必要とする。したがって水攻めも短期で終わらせることが望ましいというのが下線部②の趣旨である。当然のことだが敵の城を落城させれば「めでたしめでたし」というわけにはいかない。年貢などを徴収するための基盤である耕地の安定化を進める必要がある。このような領主の務めを「勧農」と呼ぶ。

 

 

下線部③は城内の家財を掠奪する兵士が出ないように規律正しくさせよという命令である。掠奪目的で戦争に参加する傭兵的な存在が、合戦の勝敗より「いかに敵地で多くをむしり取るか」を優先していたことは諸将の悩みの種であった。

 

*1:武蔵国埼玉郡

*2:哀願する、切に祈る

*3:

*4:老人、女性、子ども

*5:出城、付城

*6:垣、ししがき。田畠を荒らす獣除けのためのバリケード。木の枝や竹を結んで作るものから石垣と見紛うほどのものまで形は様々だった。それを軍事転用することは自然なことでもある。図1参照

*7:小田原城攻めに掛かりきりになっているあいだは

*8:食糧、食い扶持を掌る役職

*9:統制すること。ここでは軍紀の粛正を徹底すること。なお粛正=cleanupと粛清=purgeは異なる

*10:天正18年、グレゴリオ暦1590年7月13日、ユリウス暦同年同月3日

*11:三成

*12:「忍城戦記」501頁『埼玉叢書 第2 新訂増補』所収

*13:「雑兵」は除く

天正18年6月8日立花宗茂宛豊臣秀吉朱印状

 

5月27日、佐竹義宣、東義久、宇都宮国綱らが石田三成・増田長盛を通じて秀吉に拝謁し、三成の軍事指揮下に入る。前回採り上げたように、彼らは下表のように秀吉のみならず三成・長盛にも金品を献上していた。 

 

 

 

(包紙ウハ書)

「             羽柴柳川侍従とのへ*1  」

 

 

態染筆候、小田原表之儀、弥丈夫二仕寄等被仰付候、依之城中夜を日二継及難堪、欠落之輩雖有之、於其場被加御誅罰候、又ハ被追返躰ニ候間、上下被為干殺を相待迄候、昨夜上野国和田*2家来之者百余、家康*3へ相理*4、小屋〻*5ニ火を付、走出候、雖可被加御誅罰候、兼家康へ心合セニ候条、被助置候、次東八州*6之儀、城〻悉請取候、其内岩付*7・鉢形*8・忍*9・八王子*10・付井*11、何も命を被相助候様にと、北条安房守*12御侘言*13申上候へ共、不被入聞召、右之内武州岩付ハ北条十郎*14居城候、八州にてハ用害*15堅固之由被及聞召、可然処ゟ先可責干之旨被仰付、則去月廿日木村常陸介・浅野弾正*16・山崎*17・岡本*18、家康内本田*19・鳥井*20・平岩*21二万余を以、岩付へ押寄、外溝共ニ則時ニ乗破、千余討捕之、本城一之門*22ニ相付候、然者城中可然者大略討死候て、残居者町人・百姓、其外女子類迄候、十郎者小田原ニ在之間、命之儀被助候様にと申上之条、城請取儀被仰出候、十郎妻子初悉召籠*23候、八州之城〻小田原ニ籠城之者共、妻子何も右之分候、其段小田原城中へ相聞、弥令迷惑*24無正躰*25由候、安房守儀不打置*26、命を被成御助候様にと歎*27申、既鉢形へも越後宰相中将*28・加賀宰相*29・浅野・木村を初、五万余被差向候、忍城へハ石田治部少輔*30ニ佐竹*31・宇都宮*32・結城*33・多賀谷*34・水谷*35・佐野天徳寺*36被相添、二万余ニて可取巻旨雖被仰出候、眼ニ仕候岩付城被加御成敗上者、命計相助、城可請取旨被仰遣候、奥両国*37面〻不残致参陣候、其内伊達*38参上候、彼於手前*39之儀ハ、此比*40押領之知*41可仕返上旨、堅被仰出候、及御請候儀被相究、可被成御対面候、猶吉左右*42可被仰聞候也、

 

     六月八日*43 (朱印)

 

           羽柴柳川侍従とのへ

(四、3266号)
 
(書き下し文)
 
 

わざと染筆候、小田原表の儀、いよいよ丈夫に仕寄など仰せ付けられ候、これにより城中夜を日に継ぎ堪えがたきに及び、欠落の輩これあるといえども、その場において御誅罰を加えられ候、または追い返さる躰に候あいだ、上下干殺しさせらるるを相待つまでに候、昨夜上野国和田家来の者百余、家康へ相理り、小屋小屋に火を付け、走り出で候、御誅罰を加うらるべく候といえども、かねて家康へ心合せに候条、助け置かれ候、次いで東八州の儀、城々ことごとく請け取り候、そのうち岩付・鉢形・忍・八王子・津久井、いずれも命を相助けられ候ようにと、北条安房守御侘言申し上げそうらえども、聞し召しに入れられず、右のうち武州岩付は北条十郎居城に候、八州にては用害堅固の由聞し召しに及ばれ、しかるべきところゟまず責め干すべきの旨仰せ付けられ、すなわち去る月廿日木村常陸介・浅野弾正・山崎・岡本、家康内本田・鳥井・平岩二万余をもって、岩付へ押し寄せ、外溝ともに則時に乗り破り、千余これを討ち捕り、本城一之門に相付き候、しからば城中しかるべき者大略討死に候て、残り居る者町人・百姓、その外女子の類いまでに候、十郎は小田原にこれあるあいだ、命の儀助けられ候ようにと申し上ぐるの条、城請取りの儀仰せ出だされ候、十郎妻子はじめてことごとく召し籠め候、八州の城々小田原に籠城の者ども、妻子いずれも右の分に候、その段小田原城中へ相聞え、いよいよ迷惑せしめ正躰なき由に候、安房守儀打ち置ず、命を御助なされ候ようにと歎き申し、すでに鉢形へも越後宰相中将・加賀宰相・浅野・木村をはじめて、五万余差し向けられ候、忍城へは石田治部少輔に佐竹・宇都宮・結城・多賀谷・水谷・佐野天徳寺相添えられ、二万余ニて取り巻くべき旨仰せ出だされ候といえども、眼ニ仕り候岩付城御成敗を加えられうえは、命ばかり相助け、城請け取るべき旨仰せ遣わされ候、奥両国の面々残らず参陣致し候、そのうち伊達参上候、彼手前の儀においては、この頃押領の知返上仕るべき旨、堅く仰せ出だされ候、御請に及び候儀相究められ、御対面なさるべく候、なお吉左右重ねて仰せ聞けらるべく候なり、

 

 

(大意)
 
手紙にて申し伝える。小田原城前は、ますます頑丈に仕寄などを拵えるように命じた。これによって小田原城中は夜が明けて日中になることを耐えがたく思い、欠落する者たちが出ても、その場で殺害するか、または城内へ追い返されるさまで、身分の上下を問わず干殺しになるのを待つだけである。昨夜は上野国の和田信業の家来百余人が、家康へあらかじめ討ち合わせたとおり、小屋小屋に火を付け、城外に逃げてきたところを誅罰すべきではあるが、かねてより家康と内通していたので、助命することにした。次に関八州の件について、請け取った各城のうち岩付・鉢形・忍・八王子・津久井、いずれも助命して欲しいと、氏邦が申し出てきたが、容認することはしなかった。右の城のうち武州岩付城は氏房の居城で、関八州の城の内もっとも堅固で、然るべき(陥落させやすい)城から攻め落とすように命じ、5月20日木村常陸介・浅野長吉・山崎片家・岡本良勝、家康家臣の本多忠勝・鳥居元忠・平岩親吉ら二万余の軍勢で、岩付へ押し寄せ、すぐに外堀を乗り破り、1000人あまりを討ち捕り、本城一之門に迫ったところである。したがって城中の大方の者は討死に、城内に残る者は町人・百姓、その外女子の類いだけになった。氏房は小田原城中に立て籠もっているので、妻子の命ばかりはお助けを申すので、城の請け取りを命じ、氏房の妻子をはじめことごとく召し籠めた。関東の城々や小田原に籠城の者ども、妻子がいずれも右のように捕らえられたので、その旨小田原城中へも伝わり、いよいよ困窮極まり前後不覚になったとのことである。氏邦の件は放置せず、命をお助けくださいと哀願し、すでに鉢形へも上杉景勝・前田利家・長吉・常陸介をはじめ、軍勢五万余を差し向け、忍城へは三成に佐竹・宇都宮・結城・多賀谷・水谷・佐野天徳寺ら関東の者たちを従えさせ、二万余の軍勢で包囲するよう命じたところではあるが、岩付城を落城させたのちは、命ばかりは助け、城を請け取るべきと命じた。奥羽両国の者どもは残らず参陣したが、政宗も近日中に参上する。彼の領土の件については、最近「押領」した土地を返上するよう、堅く命じた。承諾した上で対面することになるだろう。なお吉報を待たれよ。
 
 
 

 

①は「誠意を見せる」ために自軍の軍事施設である「小屋」を焼くことが降伏の姿勢を見せる手段だったことをうかがせる。砲台などではなく単なる「小屋」に過ぎなくとも雨露が凌げれば兵士を収容することが出来るので、軍事力を削ぐ効果が期待できる、一種の焦土作戦と言える。

 

②はこんにち周知のことに属するが、多くの非戦闘員も籠城していたことである。郷村に留まれば乱取りの対象になりかねないからで、領民の保護は領主の務めでもある。

 

③は三成が佐竹氏をはじめとする関東の諸大名を軍事指揮下に置いていたことを物語る。「取次」や「指南」には軍事指揮権も含まれていたことになる。

 

図. 天正18年関八州の情勢

                             横浜市歴史博物館『秀吉襲来』54頁より作成

表. 佐竹氏らの秀吉・三成らへの贈答一覧

                                『秋田県史資料近世篇上』28~29頁

 

*1:立花宗茂

*2:信業、上野国群馬郡箕輪城主。下図参照、以下同じ

*3:徳川

*4:ことわり、あらかじめ了解を取り付けておく

*5:自軍の軍事施設。「日葡辞書」には「小屋を掛くる/小屋掛けをする」で「戦争の折に兵士がするように、野外に幕舎をつくる」とある

*6:関八州のこと

*7:武蔵国埼玉郡

*8:同国大里郡

*9:同国埼玉郡

*10:同国多摩郡

*11:相模国津久井領。なお中世末までは「愛甲郡」、近世では「津久井県」と呼ばれた

*12:氏邦。鉢形城主

*13:ここでの「御」は秀吉に対する敬意表現

*14:太田/北条氏房

*15:要害。砦のこと

*16:長吉

*17:片家。近江国犬上郡山崎城主

*18:良勝。伊勢国鈴鹿郡峯城主

*19:本多忠勝

*20:鳥居元忠

*21:親吉

*22:城の一番表にある門

*23:めしこめ。監禁すること

*24:「迷惑」は自分自身が困窮する、困るの意。今日のように「他人に迷惑を掛ける」ニュアンスは乏しい

*25:正常ではなくなること

*26:うちおく。放っておく

*27:懇願する、哀願する

*28:上杉景勝

*29:前田利家

*30:三成

*31:義重。常陸国久慈郡太田城主

*32:国綱。下野国河内郡宇都宮城主

*33:晴朝。下総国結城郡結城城主

*34:重経。常陸国真壁郡下妻城主

*35:勝俊。同国同郡下館城主

*36:房綱。下野国安蘇郡唐沢山城主

*37:「道の奥」で東山道の奥にある陸奥と出羽両国の意味

*38:政宗

*39:領地、領域

*40:「比」は「頃」と同じ文字で「このころ」と読む

*41:前年に蘆名義広から奪い取った会津領のこと。秀吉による「惣無事」に反した私戦と見做されたことによる

*42:キッソウ。吉報

*43:天正18年、グレゴリオ暦1590年7月9日、ユリウス暦同年6月29日

天正18年5月25日東義久宛石田三成書状写

 

 

前々回に採り上げた文書に登場した石田三成の同日付書状写があるので今回読んでいくこととする。なお中野等『石田三成伝』*1も本文書を採り上げ丁寧な解説を付しているのでご興味のある方はそちらも参照されたい。

 

 

japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com

 

 

(朱筆)

「石田治部少輔三成書」

 

態令啓候、義宣*2至平塚*3御著之由尤候、今日ハ其元有御休足、明日(闕字)殿下*4御本陣へ被成御越可然存候、就其前〻ハ貴殿為御一人佐竹中御仕置*5被仰付候処ニ、義宣御若気故歟、及近〻余多ニ御用被仰付候*6由候、左様ニ候とて、只今之儀諸事貴所御才覚を以不被仰付候ハ、何事も不可相澄事*7、義宣御進物等之事、見苦敷候てハ更〻御為不可然候、御進退此節相居儀候条、一廉御調法*8尤候、佐竹於御内輪*9(闕字)殿下御存知之方ハ貴殿御一人ニ候、然時諸篇*10御思慮候て者、義宣御為之儀ハ勿論、其方御手前*11迄御越度候様可被思食候間、相残御家中衆ニ無憚、如前〻被加御異見、御家*12無相違様ニ御分別此時相究候、猶使者嶋左近*13申含候条、不能懇筆*14候、恐々謹言、

 

  (朱筆)

  「天正十八」             石田治部少輔

 

     五月廿五日*15             三成(花押影)

 

        佐竹中務太輔殿*16

             御陣所

 

 

 

(『茨城県史料 中世編4』33号文書、167頁)
 

 

(書き下し文)

 

わざわざ啓せしめ候、義宣平塚に至り御著の由もっともに候、今日はそこ元御休足あり、明日殿下御本陣へ御越なされ然るべくと存じ候、それについて前々は貴殿御一人として佐竹中御仕置仰せ付けられ候ところに、義宣御若気ゆえか、近々に及び余多に御用仰せ付けられ候由に候、さように候とて、只今の儀諸事貴所御才覚をもって仰せ付けられずそうらわば、何事も相澄むべからざること、義宣御進物などのこと、見苦しく候てはさらさら御為然るべからず候、御進退この節相居り儀候条、ひとかど御調法もっともに候、佐竹御内輪において殿下御存知の方は貴殿御一人に候、しかるとき諸篇御思慮候ては、義宣御為の儀はもちろん、その方御手前まで御越度に候よう思し食さるべく候あいだ、相残る御家中衆に憚かりなく、前々のごとく御異見を加えられ、御家相違なきように御分別この時相究め候、なお使者嶋左近申し含め候条、懇筆にあたわず候、恐々謹言、

 

 

(大意)

 

書翰をもって申し上げます。義宣殿が平塚に到着されたとのこともっともなことです。今日はそこでご休息なさり、明日秀吉本陣ヘお越しになればよいと思います。そこで以前は貴殿(東義久)一人で佐竹氏一門を差配されてきたところ、義宣がまだ若いためか最近やたらとそなたに用を申し付けているとか。そうであれば、今回の秀吉本陣ヘの参陣について万事貴殿が差配しなければ何事も立ち行かなくなるでしょう。義宣の秀吉への進物が見苦しい物では佐竹家の為にもなりません。佐竹家の命運はこの時にかかっていますので、一層熟慮されますように。佐竹家一門において秀吉が見知っているのは義久殿御一人です。このようなときにあれこれとお考えになっては、義宣殿はもちろんそなたや佐竹家一門までの越度と殿下はお思いになるでしょうから、ご一門に憚ることなく、以前のように意見するなどして御家が傾くことがないように分別をお持ちください。なお使者嶋清興に申し含めましたので詳細は避けました。恐々謹言。

 

 

 

本文書の充所「佐竹中務太輔」とは東(佐竹)義久で、図1にみるように佐竹宗家の当主である義宣は18~20歳の若さで家督を継いだため、彼の補佐役を務めていた。なお父の義重は義宣への家督相続時43歳でなお実権を握っていた。

 

図1.佐竹三家系図

                                  『茨城県史 中世編』314頁より作成

さて石田三成は佐竹氏との「取次」役で、義宣・義久両名から秀吉へ贈答品が贈られた際に三成や増田長盛も金品を受け取っている(表1)。馬や金が多いのは佐竹領国内に金山が豊富にあり、また馬の産地であったことも関係しているだろう。

 

 

表. 佐竹義宣・宇都宮国綱らの秀吉への贈答品

なお佐竹氏を盟主とする国衆らは図2の通りである。

 

図2. 天正初年の佐竹氏および国衆勢力図

                                        『茨城県史中世編』305頁より作成


ところで小田原北条氏を除く東国戦国大名は血縁・地縁的結合関係によって領域集団を結んでおり、佐竹氏もその例外ではなかった。「洞」(うつろ)と呼ばれるものがそれに当たる。下図3で佐竹義宣と東義久との関係を「主従関係」のように位置づけたが、正確には家臣たちの独立性の高い盟約的、誓約的関係だった。そのため「洞中」内での紛争も絶えなかった*17

 

 

図3. 秀吉・三成・義宣・義久の主従関係

 


佐竹氏は伊達氏と南奥羽地方をめぐって争っており、秀吉の小田原参陣命令に遅れていた。そこで石田三成を介して秀吉と佐竹氏のあいだを取り持つ執り成しが行われたのであろう。中野等氏の見解にしたがえば「指南」という行為になるだろうか*18

 

三成は直接義宣に述べるのではなく、一族の東義久から助言するように述べている。ここにいまだ流動的な豊臣政権の構造をみることもできよう。

 

 

*1:106~107頁、吉川弘文館、2017年

*2:佐竹。常陸国久慈郡太田城主

*3:相模国大住郡

*4:秀吉

*5:義久がひとりで佐竹家中を切り盛りするよう義宣から命ぜられた

*6:義宣がまだお若いのでなんでもかんでも義久に用を申し付ける

*7:現実には義久殿のご才覚次第で片付かないことはありません

*8:熟慮すること、紛争を調停すること

*9:佐竹家一門

*10:あれこれ

*11:佐竹家一門

*12:佐竹家

*13:清興

*14:丁重な手紙

*15:グレゴリオ暦1590年6月26日、ユリウス暦同年同月16日

*16:東義久

*17:『茨城県史中世編』312~316頁

*18:中野等「豊臣期の文書にみえる『取次』『御取成』などの仲介文言について」、『古文書研究』89号、2020年

天正18年5月28日(充所欠)豊臣秀吉朱印状

 

 

 

        覚

 

、佐竹*1・宇都宮*2・結城*3・那須*4・天徳寺*5・其外同名*6家来、下野・常陸・上野三ヶ国得(闕字)上意*7候者共、今度治部少輔*8申次第、何へ成とも一手*9ニ相動*10可令在陣事*11

 

、上野麦所務*12事、在〻念を入*13可申付*14事、

 

、城〻兵粮事、船にても取安所ハ、此面*15へ可相着候、遠所ニ有之分ハ、扶持方*16ニ可相渡事、

 

、景勝*17・利家*18・真田*19扶持方儀ハ、上野城之内ニ有之兵粮可相渡事、

 

、城〻兵粮米・玉薬以下有之所、能〻可相改*20候事、

 

右之通成其意、堅可申付候也、

 

     五月廿八日*21 (朱印)

 

       (充所欠)

 

(四、3232号)
 

(書き下し文)

 

        覚

 

、佐竹・宇都宮・結城・那須・天徳寺・その外同名家来、下野・常陸・上野三ヶ国上意を得候者ども、このたび治部少輔申し次第、いずれへなるとも一手に相動き在陣せしむべきこと、

 

、上野麦所務のこと、在々念を入れ申し付くべきこと、

 

、城々兵粮のこと、船にても取り安きところへは、このおもてへ相着くべく候、遠所にこれある分は、扶持方に相渡すべきこと、

 

、景勝・利家・真田扶持方の儀は、上野の城のうちこれある兵粮相渡すべきこと、

 

、城々兵粮米・玉薬以下これあるところ、よくよく相改むべく候こと、

 

右の通りその意をなし、堅く申し付くべく候なり、

 

 

(大意)

 

       覚

 

、佐竹・宇都宮・結城・那須・天徳寺・その外親族郎党家臣、下野・常陸・上野三ヶ国のうち秀吉に臣従した者たちは、このたび三成が申し次第に、どこであろうと一個の軍団として行動し、在陣すること。

 

、上野の麦年貢納入の件は、郷村の実り具合を入念に調べ、徴収すること。

 

、城々に残された兵粮について、船で運びやすいところはこちらに運送するように。遠い所の場合は兵士たちの食い扶持として配分すること。

 

、景勝・利家・昌幸の兵士たちの食い扶持については、上野の城に残されている兵粮を配分すること。

 

、城々に兵粮米・玉薬以下が残されていたら、よくよく調べ上げ帳面に記載すること。

 

右の条々を理解し、きびしく下々へ命ずること。

 

 

 

 

図. 天正18年石田三成軍事指揮下に入った東国大名

 

                               横浜市歴史博物館『秀吉襲来』54頁、1999年より作成

 

本文書には「覚」という表題が付けられており、また充所が書かれていないという特徴がある。史料の伝存状況も「古書目録」の写真から採用したという事情もあり、つかみ所のない点もある。ここでは書翰に付された「別紙」ではないかと仮定した上で論点を述べてみたい。
 
 
は常陸や下野の諸大名が「一手」に軍事行動を起こせるように石田三成の軍事指揮下に入れと命じている。各大名の軍勢が個々に軍事行動を行っていたのを三成指揮下に置き統一的な軍事行動に移せるようにするということである。しかし彼らの主君はあくまで秀吉であって三成ではない。
 
は上野国の麦収納について、徴収せよと命じている。麦は水田の裏作として鎌倉中期から普及し、鎌倉幕府も地頭が麦に諸役を課すことを禁じてきた*22。その「聖域」とも呼べる裏作に介入し始めたといえる。それは百姓から見れば負担がより重くなることを意味する。豊臣政権はその後の朝鮮出兵時、全国に裏作の麦三分の一納入を命じた*23。しかし百姓の反発が大きくすぐに撤回せざるを得なかった*24
 
 
③~⑤は兵粮や玉薬の調達方法をうかがわせる記述である。数万規模の軍勢が移動することは都市が移動するのと同様、宿不足や食糧不足、弾薬不足を必然的に招く。兵站が整っているか、もしくは現地で購入するか掠奪に頼るか。しかしこの記述によると、落城させた城に残された兵粮米や弾薬を鹵獲することが日常的に行われていたようである。
 
 
2025/09/26 追記
 
①についてイエズス会宣教師のルイス・フロイスはこう書き記している*25
 
 
 
われわれの間には曹長、小隊長、十人組長、百人隊長などがある。日本人は一切このようなことを気にかけない。
 
 

 

日本の軍隊の指揮命令系統が一貫しておらず、統率の執れなかったことを物語っている。大名クラスの者も兵士が合戦の勝敗より掠奪に夢中になっていて「どうしたものか」と頭を悩ませていたようだ。
 
 

*1:義重、常陸国久慈郡太田城主。下図参照、以下同様

*2:国綱、下野国河内郡宇都宮城主

*3:晴朝、下総国結城郡結城城主

*4:資晴、下野国那須郡烏山城主

*5:佐野房綱、下野国安蘇郡唐沢山城主

*6:ドウミョウ、一族

*7:秀吉の意思

*8:石田三成

*9:まとまった軍勢として

*10:ハタラク、軍事行動に出る

*11:三成の軍事指揮下に入るという意味

*12:「所務」は年貢収納の権利義務を指す用語

*13:「在々念を入れ」とは郷村をしっかり検見して麦の実り具合を確かめよ、という意

*14:「申し付ける」内容は年貢徴収のこと

*15:秀吉本陣のある小田原

*16:兵粮を担当する部局、兵粮奉行

*17:上杉

*18:前田

*19:昌幸

*20:「改める」は「reform」のような意味ではなく、調べる、吟味するの意。→「宗門人別帳」

*21:天正18年。グレゴリオ暦1590年6月29日、ユリウス暦同年同月19日

*22:文永1年4月26日式目追加

*23:田麦徴収令

*24:三鬼清一郎「田麦年貢三分一徴収と荒田対策」『名古屋大学文学部研究論集(史学)』18号、1971年

*25:『ヨーロッパ文化と日本文化』115頁、岩波文庫