2025年12月30日(火・晴)
日本近代文学において、夏目漱石『吾輩は猫である』(以下『猫』と称す)ほど知られてゐる作品は少ない。特に、「吾輩は猫である。名前はまだ無い。」といふあまりにも有名な冒頭は、たとへ作品を読んだことがなくても、知らない人はほとんどゐないだらう。しかし、『猫』は広く読まれてをり、多くの読者を有してゐる、日本近代文学の文豪の代表作の一つでありながら、初版本には装幀デザインをはじめ口絵、カット、挿絵等々が多く含まれてゐる、いはばメディアミックスの書物であることは、さほど知られてゐないだらう。先行研究においても、挿絵に関する研究は少数である。手もとに匠秀夫『日本の近代美術と文学――挿絵史とその周辺』(2004)があり、『猫』に関する記述がある。更に、さまざまな参照資料もあげられてゐるものの、いづれも1980年代以前のものである。ここで、『猫』「上」の視覚的資料を整理しながら、その意味を考察する。
『猫』は連載ものであつた。初出は雑誌「ホトトギス」で、漱石は1回のみの発表にする予定であつたが、高評を得てゐたため、続きを書いてゆくと、次第に長篇になつてゐた。連載中に大倉・服部書店によつて初版本が刊行された。この「上」は、装幀デザインが橋口五葉によつたものである。そして、挿絵の6枚は中村不折に描かれた。また、口絵もあり、それも五葉によつたものである。他にカットも「第一」の冒頭に置かれてゐるものの、描いた人の名前が明記されてゐない。口絵と併せて見ると、同じやうな作風になつてゐるのではないかと考へられるため、これもまた五葉のものであらう。「序」において漱石は『猫』「上」の装幀デザインについて次のやうに記述してゐる。
此書を公けにするに就て中村不折氏は数葉の挿画をかいてくれた。橋口五葉氏は表紙其他の模様を意匠してくれた。両君の御陰に因つて文章以上に一種の趣味を添へ得るは余の深く徳とする所である、
これから読み取れるのは、漱石自身は出来上がつた『猫』「上」の装幀デザインと書物中に挿し込まれてゐる挿画などに満足してゐることである。注目すべき点の一つは、漱石はさうした視覚的資料に抵抗がなく、むしろ装幀デザインと挿絵があるからこそ、「文章以上に一種の趣味を添へ得たる」ことは自分にとつてよいことであると評価してゐる。
しかし、これは『猫』「上」にある全ての視覚的資料ではない。装幀デザインは、現在の用語で言ふと、ジャケット付きのものであり、五葉の絵がそれを飾るのである。ジャケットをとると、裸の本にも独特なデザインが見える。いづれも「猫」がモチーフになつてゐるもので、作品それ自体と深い関はりがあるといふよりは、明らかに『猫』の諷刺的な内容に合致してゐることがうかがへる。書物に入ると、五葉の口絵があり、そのすぐ次に扉がある。口絵にも扉にも作品名が書いてあり、口絵に「ワガハイハネコデアル」、扉に「吾輩ハ猫デアル」といふやうに表記されてゐる。更に、扉には「夏目漱石著」とあり、猫の顔が描かれてある。その次にあるのは序文で、ページをめくると中村不折の最初の挿絵がある。この挿絵は作品の主人公(?)たちを思はせるやうな内容から成り、ある男性が猫を尻尾から捕まへてゐるものである。そして、作品に入ると、「第一」の冒頭にカットが挿入され、「ワガハイハネコデアル」と書いてあり、三匹の仔猫が描かれてゐる。このやうに表紙から「第一」、作品が始まるまでの、さまざまな視覚的資料ができてゐる。
簡単に整理すると、次のやうな資料から『猫』が始まる。






最初の挿絵についてだが、本来の形としての挿絵とは少し違つたことが、その位置にある。「第一」のノンブルを見ると「1」になつてゐるのに対し、最初の挿絵がその前に挿入されてゐる。すなはち、これは口絵が挿入される位置であるといふわけであらうとも言へよう。特に、作品名や装幀デザインなどの他の事柄を経ての位置に、主要人物(?動物?)である語り手「吾輩」の紹介として捉へることもできよう。しかし、この最初に挿入されてゐる不折の絵は口絵でなく、挿絵といふ存在になつてゐることは間違ひない。
次の挿絵は94・95ページの間に挿入されてゐる。内容は、ある人物が橋の上に立つてゐるが、顔などのやうな特徴が描かれてゐない。更に、「猫」はこの挿絵に描かれてゐないことも堅調な点である。3枚目の挿絵は、106・107ページの間にあり、内容は本文に合致してゐるものである。4枚目は150・151ページの間にあり、内容については、更に別のところで詳細な点を取り上げるが、本文に合ふものである。6枚目は250・251ページの間にあり、内容は猫がある人物を見てゐるものである。このやうに、不折の6枚の挿絵が本文中に挿し込まれてゐる。先にも述べたやうに、これらの挿絵の内容と本文との関係については、改めて別稿で詳細を取り上げる予定である。

更に、290ページに孔雀と思はせるカット絵がある。版画風の描き方で、これも五葉のものであらう。そして、奥付の前に鶏のやうな絵があり、頭文字として「O」「H」が羽の中に書かれてある。これは、大倉・服部書店のものであると意味する。この絵もまた五葉によつたものであらう。それに、奥付の枠にも絵があり、下部に猫の姿が描かれてゐる。この枠に五葉のサインがあることで、明らかに五葉の手によつて描かれたものであると分かる。このやうに『猫』「上」の初版本に視覚的資料が成り立つてゐる。ここで指摘したいのは、『猫』「上」の初版本に多くの視覚的資料があり、漱石自身も記述してゐるやうに、本文以外に多くの事柄がその書物に含まれてゐる。この視覚的資料をパラテクスト要素として捉へると、これまでの『猫』研究史に新しい観点を加へることができるのではないかと考へられる。
