2025年12月16日(火・晴)
偕成社が各絵師にどれほど自由に挿絵を描かせたことは明確ではないが、本選集全巻においては収録されてゐる作品に関する独自な解釈が挿絵といふ形で示されてゐる。これまで論考してきたやうに、太宰治の戦時中の作品『津軽』の初版本には太宰自身の手によつて描かれた5枚の挿絵があるのだが、本選集の第19巻「太宰治名作集」には原作の「五 西海岸」が抜粋され、新たに「津軽(抄)」として再録されるやうになつた。この際、太宰の挿絵である「小泊 たけの顔」が省略され、西村保史郎といふ画家によつて描かれた新しい4枚の挿絵が追加された。この現象について、本研究で検討してゐるやうに、前回までは西村の口絵・カット絵・挿絵を1枚づつ取り上げたが、ここでその続きを見ていく。
『津軽』の物語展開は、そもそも作品それ自体の物語性と関係があることを以前に取り上げたことがあるとほりである。つまり、『津軽』を長編として扱ふ際に、重要なことは物語と風土記的資料との交替形式が作品全体における特徴になつてゐる。特に、この作品における一貫性を見出さうとすれば、それはやや欠如してゐることに気づくに違ひない。『津軽』の読解史を確認すると、専門家にしても一般読者にしても、「五 西海岸」の後半に起こる「私」と「たけ」との再会が作品全体のクライマックスとして位置付けられてゐるのである。しかし、さうならば、「たけ」に会ふことが作品にとつて非常に重要な出来事の一つであり、「五 西海岸」にはじめて出される話ではなく、より早く出るか、少なくとも言及されることがあつたのではないだらうか。「序編」において「私」はこの津軽旅行は「かなり重要な事件」であることを述べてをり、「本編」に書かれてゐる内容が「津軽の現在生きてゐる姿」になるはずである。「たけ」に関する言及どころか、小泊での出来事すら言及されてゐない。強いて言へば、この「かなり重要な事件」ことは「たけ」との再会として考へることもできるが、「五 西海岸」の最後を読むと、また別の「かなり重要な事件」が起きたのである。それは、「私の忘れ得ぬ人は、青森に於けるT君であり、五所川原に於ける中畑さんであり、金木に於けるアヤであり、さうして小泊に於けるたけである。」と語つてゐるやうに、多くの人が列挙されてゐるとほり、この人たちが「私」の友達である、といふことになつてゐる。しかも、各章を注意深く読めば、それぞれの地域には、「私」は何かしら発見してゐることが書かれてゐる。「たけ」との再会は重要でありながらも、『津軽』における「重要な事件」は他にも多く存在してゐるといふわけである。要するに、『津軽』を長編として読むことで、かうした内容は重要になるが、本選集に収録されてゐる「津軽(抄)」といふやうな形としてみると、むしろ短篇のやうな類として扱ふことができるのではないだらうか。さうすると、「たけ」との再会がまた別の意味を持つことになる。
この議論の是非はさておき、ここで「津軽(抄)」における西村の2枚目の挿絵の位置とその意味を考察する。この挿絵の内容をまづ見ると、『津軽』の愛読者でさへすぐに分かるやうなことが描かれてゐるだらう。駅のやうな建物に2人の人物が主体になつてゐる。左側の人物は女性のやうな姿で、袋を提げてをり、右側には帽子を被つてゐる男性が描かれてゐる。他に、山や電柱、線路、他の建物も描かれてゐる。この場面は作中にも出てくる内容であり、見事にその場面を挿絵にしてゐることも確認できる。しかし、先述したとほり、この場面は『津軽』の愛読者にもすぐに通じるものであらう。挿絵の上に、次の本文が引用されてゐる。
すぐに、中里に着く。人口、四千くらゐの小邑である。この辺から津軽平野も狭小になり、この北の内潟、相内、脇元などの部落に到ると水田もめつきり少くなるので、まあ、ここは津軽平野の北門と言つていいかも知れない。私は幼年時代に、ここの金丸といふ親戚の呉服屋さんへ遊びに来た事があるが、四つくらゐの時であらうか、村のはづれの滝の他には、何も記憶に残つてゐない。
「修つちやあ。」と呼ばれて、振り向くと、その金丸の娘さんが笑ひながら立つてゐる。私より一つ二つ年上だつた筈であるが、あまり老けてゐない。
「久し振りだなう。どこへ。」
「いや、小泊だ。」私はもう、早くたけに逢ひたくて、他の事はみな上の空である。「このバスで行くんだ。それぢやあ、失敬。」
「さう。帰りには、うちへも寄つて下さいよ。こんどあの山の上に、あたらしい家を建てましたから。」
指差された方角を見ると、駅から右手の緑の小山の上に新しい家が一軒立つてゐる。たけの事さへ無かつたら、私はこの幼馴染との奇遇をよろこび、あの新宅にもきつと立寄らせていただき、ゆつくり中里の話でも伺つたのに違ひないが、何せ一刻を争ふみたいに意味も無く気がせいてゐたので、
「ぢや、また。」などと、いい加減なわかれかたをして、さつさとバスに乗つてしまつた。

この場面が挿絵に描かれてゐると思つてしまふ読者もゐるだらう。すなはち、袋を提げてゐる女性が「金丸の娘さん」であり、帽子を被つてゐる男性が「私」である、と。しかし、さうではない。「私」とこの親戚との会話が挿絵の中に描かれてゐることではない。二人の会話が比較的短くなつてゐるものである。その理由は、引用にもあるやうに、「私」は小泊行きのバスに乗らなければならないから、時間がないのである。
ならば、この挿絵は何を表現してゐるのだらうか。挿絵は222ページの下部にあるし、先の引用がその上にある。挿絵の内容は前の221ページにある本文から読み取れる。それは、次のやうな内容である。
(前略)ぼんやり窓外の津軽平野を眺め、やがて金木を過ぎ、芦野公園といふ踏切番の小屋くらゐの小さい駅に着いて、金木の町長が東京からの帰りに上野で芦野公園の切符を求め、そんな駅は無いと言はれ憤然として、津軽鉄道の芦野公園を知らんかと言ひ、駅員に三十分も調べさせ、たうとう芦野公園の切符をせしめたといふ昔の逸事を思ひ出し、窓から首を出してその小さい駅を見ると、いましも久留米絣の着物に同じ布地のモンペをはいた若い娘さんが、大きい風呂敷包みを二つ両手にさげて切符を口に咥へたまま改札口に走つて来て、眼を軽くつぶつて改札の美少年の駅員に顔をそつと差し出し、美少年も心得て、その真白い歯列の間にはさまれてある赤い切符に、まるで熟練の歯科医が前歯を抜くやうな手つきで、器用にぱちんと鋏を入れた。少女も美少年も、ちつとも笑はぬ。当り前の事のやうに平然としてゐる。少女が汽車に乗つたとたんに、ごとんと発車だ。まるで、機関手がその娘さんの乗るのを待つてゐたやうに思はれた。こんなのどかな駅は、全国にもあまり類例が無いに違ひない。
やや長い引用になつてゐるが、この場面が2枚目の挿絵の内容になつてゐる。「私」が汽車の窓から見た風景である。原作・原文からすると、「私」はある逸話を思ひ出したので、それを挿話として示し、駅を見たことが西村の挿絵になつてゐる。このやうに考へると、この挿絵には「私」が登場しないものの、その風景は「私」の視点から描かれてある津軽地方のものである。換言すると、「私」が語つてゐる絵ででの出来事も、それを改めて挿絵になつてゐるのは、本作の「風土記」及び「旅行記」といふモチーフに合致してゐるものになる。初版本には「たけの顔」だけが挿絵になつてゐるが、本選集に挿入されてゐる西村の挿絵には元来の『津軽』の物語における「風土記」が改めて表現されてゐることが確認できる。原作にはこの挿絵における描かれてゐる場面はさほど印象深い出来事ではないかもしれないが、「私」の目から見えた津軽地方とその「現在生きてゐる姿」が見事に表現されるやうになつてゐる。位置付けについては、上にある本文と合はないもので、読者が少し混乱するだらうが、先ほど引用した逸話・挿話とその直後の駅での出来事を読んでゐると読者は自然に出会ふはずなので、特に違和感が催されないだらう。
これまでは、西村保史郎の2枚目の挿絵を中心に見てきた。「たけ」の話とほとんど関係がないものの、『津軽』の本来のジャンル等がこの挿絵に描かれてゐることが確認できた。特に、この場面が挿絵になつたことが非常に重要であると考へられるので、改めて考察したい内容ではある。