北陸代理作戦記 ―震災・禅・アニメ―
オタクに誘われて石川県に行くことになった。

1日目(2025年8月22日) 和倉温泉・西岸駅・七尾市街
人類知性の傑作たる鉄道ダイヤが早速乱調に陥っている。
東北新幹線の運行情報に注視する人々の傍らを通り抜けて北陸新幹線に乗る。朝の七時である。サラリーマンみたいな格好をして売店でレモンサワーを買う。予約していた座席に座る。この時点で旅程の八割は達成されている。酒を飲む。
気がつくと和倉温泉駅前にいる。空がでけえ。大将の作る寿司がうめえ。寿司屋で隣に座っていたタクシー運転手が転がすクラウンで西岸駅を目指す。アニメの聖地巡りだ。
タクシー運転手は地元の人間だ。最初は無口だったのに、先日の大雨によって道路が崩落して、迂回のために右折したところで話し始めた。海が近え。昨年二〇二四年元旦の地震が起きてから七尾湾の海岸が内陸側に寄ってるという。確かになんだか海と道路の距離が不自然に近い。道路が歪んで、あちこちで工事が行われている。タクシー運転手はテレビクルーを運んだ際に「運転が荒い」と怒鳴られたと愚痴をこぼしていたが道路が歪んでいることにも気づけねえ上に、被災地の人間に感情的配慮もできねえ馬鹿どもに一体何が見つけられて何が伝えられたのか甚だ疑問である。俺は東京の人口は多すぎるから65%くらい地方に移住させるなどして削減した方がいいと思っている。街の至るところで工事現場を養生するためのブルーシートが翻っている。
ありえんほど美しい無人駅を見る。地震を遠因とする崩落によって休止中の運行は、あと3日で元通りになるらしい。何かが回復していく姿は美しい。
鉄道休止中はバスが振替輸送を行うらしい。郵便局跡地にバスがやってくる。西岸駅から能登中島駅までそれで運ばれる。バスを待っている間、目の前を通過していく車の半分以上が土砂を積載したダンプだった。
能登中島駅からはアニメがラッピングされた車両に載せられて七尾駅に運ばれる。
駅前のロータリーを越えて二つ複合商業施設が並ぶ地方小都市の趣。川沿いを歩く。都市は川沿いに歩くのが良い。御祓川沿いに歩いて、能登食祭市場へ行く。晩酌用の酒を買う。海に行こうとすると、工事中で入れない。見ると、歩道のあちこちが隆起して、敷かれたレンガが割れまくっている。近くの水路も、歪んでしまったのか水が漏れていて、ポンプで別の水路に水を送っていた。木造住宅が半壊していた。
七尾駅へ戻る途中、ちょうど塾の送迎の時間だったのだろうか、子どもを迎えに公文の前にいくつも車が停まっては子どもが乗り込んでいった。
七尾駅からバス、タクシーを乗り継いで温泉宿に泊まる。一人二万円行かない値段なのに特別広い上に七尾湾と能登島を眺望できる部屋に通される。こんなに都合のいい話はないので、俺たちは実は死刑囚で、一時的に記憶を消されて死ぬ間際に美しい景色と美味い食事と酒を飲ませてもらっているのだと気づいた。帰りの電車には看守が同行するらしい。すべてを終わらせるために、バイキングで大量の海鮮丼と金沢カレーを食べて、温泉に入り、来たるべき日に備えて就寝した。




2日目(2025年8月23日) コスモアイル羽咋・石川県立図書館・湯涌温泉
朝風呂であと何回見られるかわからない朝焼けを見る。ミャンマーの紛争を取材していたジャーナリストが、ある武装集団に拘束されて処刑されそうになったとき、突然視界がキラキラ光って目に見えるすべてのものが美しく見えたという話をしていたのを思い出していた。すべてを終わらせるため、バイキングで大量の海鮮を食う。
完璧なホテルであった。惜しみながら我々は次の旅先へ向かうためチェックアウトをした。色々な勘違いの末に、何故かホテルの厚意により外国人のフロントマンが運転するミニバンで駅に送られる。死刑囚だから優しくしてくれているらしい。
だが、着いた先の和倉温泉駅に我々が予想していた電車は来なかった。先述した大雨による一部崩落で、臨時ダイヤになっていることに今更気づいた。
タクシーに乗ると「電車は来ないよ」と渋い恰幅のいい爺ちゃんドライバーは笑った。元々長距離観光バスを運転していたというベテランドライバーの自慢は本州・四国のあちこちを運転したことあるからナビなんて使わなくても道がわかることだった。完璧なドライビングテクニックによって我々は七尾駅に運ばれた。
七尾駅に着いてもまだ時間があるので、駅前の商業施設で営業している喫茶店に入る。喫煙可能なこの店では、地元の爺さんたちの憩いの場になっているらしく、紫煙をくゆらせながら甲子園の話題で談笑していた(その日は沖縄尚学と日大三高の決勝戦が予定されていた)。朝ドラ『あんぱん』を見あげながら二百二十円のコーヒーを飲む。
七尾駅から鉄道に乗って羽咋駅に向かう。車窓に映るのはひたすらの水田と疎らな街並み、あなたには青い山が見えた。日本とはこれである。東京二十三区は日本ではない別の何かである。俺は東京を何かしらの方法で解体した方が良いと思っている。
羽咋駅に向かった理由は、ある意味有名な観光地であるコスモアイル羽咋に行くためだった。猛暑の中、羽咋の道を歩いていく。めちゃくちゃ快晴で青い空が広がっている。昨日もそうだった。恐らくCIAかFSAの連中が俺たちを見張るため、あるいは嘲笑うために気象兵器を使って雲を消して、衛星から監視しているらしい。
コスモアイル羽咋には可能な限り行ったほうがいい。米ソ両国が熾烈な宇宙開発競争で鎬を削ったあの時代のロケットや衛星、その実物を観ることができるし、科学啓発的な展示の直後に突然「折口信夫も記録しているように日本には昔からUFOが飛来していた」「ナチスドイツはUFOを開発していた」など、胡乱な展示が飛び出してくる。虚実ないまぜの展示が来館者たちの常識を破壊していく。俺たちの旅も虚実ないまぜである。これは偶然なのだろうか?
駅前の洋食屋は一人の女将さんがワンオペで回している。千円のランチセットには何故かカレーとサラダ食べ放題というサービスがついてきていた。肉を食い、我々は羽咋駅から金沢へ向かった。
都市は人が多すぎて、目眩がする。金沢駅に到着して、人間が多すぎることに気づく。一度ホテルに荷物を預けて態勢を立て直す。
バスに乗って向かった先は石川県立図書館である。本を読むためではないが、全国でも類を見ない異様な建築をしたこの図書施設は見ておきたかった。市民に知の機会を提供しようとする圧倒的意思を感じる。民主主義社会を支えるのはこうした図書施設なのだ。
石川県立図書館から、同行者の希望によりアニメ聖地である湯涌温泉へ向かう。タクシー運転手に「温泉に入るの?」と言われて「はい」と返す。
アニメのポスターやスタンドが若干色褪せていると嬉しい。俺はアニメコンテンツが何かしらの形で記憶されている現場を見ると、知らないアニメであっても嬉しくなってしまう。十年後も二十年後も同じアニメの話をした方がいい。限られた時間であったが、湯涌温泉を散歩してから、バスで金沢に戻る。
我々は普通の日本人であるので、金沢で回転寿司屋を目指す。土曜の夜は大混雑である。同行者が、その回転寿司屋の隣に同じ系列の回らない寿司屋が営業していることに気づく。全然待機してる客もいない。数分待つと店内に案内される。寿司を頼む、酒を頼む。もはや我々は死を恐れることをやめ、受容するようになっていた。北陸の寿司はうまい。
ホテルに戻ると、よくわからないまま予約したことで、酒やツマミが食い放題の不思議なラウンジ(我々はこれを人気漫画『ちいかわ』にあやかって「湧きどころ」と呼んだ)が使えることが判明した。執行日は明日である。我々はビールを飲み、ピザを食い、ラーメンを食い、処刑前夜を楽しむことにした。




3日目(2025年8月24日) 金沢(アカペラタウン・鈴木大拙館)
ある種の偶然であったが、その週末の金沢は「アカペラ・タウン」というイベントを市内各所で開催していた。市内の至る所に用意されたステージで、アカペラサークルがライブをするという極めて文化的なイベントであった。同イベントにはアニメ『うたごえはミルフィーユ』もコラボしており、我々は非公式名称「うたミルさん」として市内各地に用意されたアニメキャラスタンドを探すスタンプラリーとして、街を練り歩くことになった。地域活性化とアニメのコラボは何度体験してもいい。俺はもう一度前橋に行こうと思った。古きものと新しきものが併存する金沢市内を歩き回る。
近江町市場ではビールを片手に岩牡蠣を食う。もう東京で牡蠣みたいな何かを食うことはないだろう。
『うたごえはミルフィーユ』のイベントとして声優らが登壇するトークショー&アカペラライブを見る。俺たちはアニメオタクであるから、そうしない理由がない。綾瀬未来さんと夏吉ゆうこさんのトークとアカペラを近距離で浴びて感動する。女性声優はマジで大変だと思うけど頑張ってほしい。昨年に前橋ウィッチーズのイベントに参加してから俺の中の価値観に大きな変動が起きてる気がする。物販でアクリルキーホルダーを買う。全六種だがランダムなのでとりあえず六個買ったら内四個が小牧嬉歌さんだった。主人公は何枚来てもいい。
予想以上にスタンプラリーが早く終わってしまったので、何処か博物館や美術館に行こうかという話になった。鈴木大拙館に行くことになった。
鈴木大拙館は絶対に行ったほうがいい。施設に近づくと、突然写真のような空間に出た。「ある」とか「ない」とかどうでもよくなった。
入場券を買おうとすると、貴婦人が我々の前に現れて突然チケットを譲ってくれた。スタッフにもよく知られている人物らしい。ニコニコ笑いながら我々の前から去っていった。ここは文化と慈愛の都市である。
それはそれとして、建築が決まりすぎている。ありとあらゆる空間が完全である。「ある」とか「ない」とか、「生」とか「死」とか、そういうことじゃねえんだよな。
天竜川ナコンの「でも結論、結論だけで突き詰めるんだとしたら、すべての結論は『人はいずれくたばる』なんだよなあ」というパンチラインを思い出していた。
鈴木大拙館で「死」を理解した、あるいは理解できねえことを悟った、俺たちは看守たちが待っているであろう金沢駅へ向かった。まだ駅前ではアカペラが響いていた。最後に生きた証を残すために、お土産を買い、最後の食事を済ませる。
十八時四十四分発の北陸新幹線に乗り、俺たちは東京へ戻った。
今、川崎のよくわからん部屋の中でこの文章を書いている。死んでいるのか、生きているのかよくわからねえが、そんなことはどうでもいい。俺たちは生まれながらにして死刑囚だからだ。いつ執行されるからは知らないが、死にがいのある刑期を送ろうと思った。それから、執行される前にもう一度、今度は回復した七尾市が見てえ。





終わりに
まさか僕ら生まれたばかりなのに
いつか死んじゃうんだってさ
もっと早く言ってよ
だけど幸せになりたい
死にがいがある人生が生きがいなんじゃないかって
「味噌汁とバター」 作詞・作曲:汐れいら より
(アニメ『日々は過ぎれど飯うまし』エンディングテーマ)
東京国立近代美術館「記録をひらく 記憶をつむぐ」に行ってきた
東京国立近代美術館で開催中の企画展「コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ」に8月2日土曜日、行ってきた。

主に日中戦争から太平洋戦にかけての日本におけるプロパガンダ芸術や戦争・平和に関する美術が展示されていると人類愚劣の象徴たるインターネットでその情報を得たので、人類が永遠に愚劣な生物であるところの証左たる戦争大好き人間である筆者は、人類の愚劣さによって生み出された過酷な猛暑の中、東京国立近代美術館へ赴いたのだった。
企画についていちいち解説はしないので、ここでは感想だけ述べておく。
前半部で戦争や帝国主義をドラマチックに、しかし軽薄に表現した美術が羅列されたあと、後半部に突然生々しく痛々しい敗戦に関する美術が展示されまくるので、ド迫力の人間の愚かさが痛感できて気持ち良(悪)すぎる。
満州の開拓や、大東亜共栄圏の建設といった帝国主義思想が西洋絵画のメソッドを用いて歴史画風に表現されており、あまりに空虚すぎて本当にそれぞれの思想が軽薄だったことが実感できる。良い。
特に印象に残っているのは和田三造の『興亜曼荼羅』だ。アジア各地の民族とその文化を縦横無尽に描きながら、中心にアジアの盟主たる日本を据え置いているが、その「日本」の表象はどこか西欧モチーフでもある。欧米からアジアを解放すると自称している国家の自画像が西欧の影響を免れてないのマジで軽佻浮薄でエモすぎッ。

『興亜曼荼羅』の手前にあった満州の開拓風景をミレーの画風で美しく表現した劉栄楓『満州の収穫』のあとに、満州現地で見た気怠げな風景をシニカルに描いた福沢一郎の『牛』が来るのも植民地主義の浅はかさが感じられて良いぜ。


太平洋戦争に突入した後の美術としてはコタ・バルやシンガポール、アッツ島などの太平洋各地での戦いを歴史物語風に表現した作品が展示されていく。西欧近代美術の模倣ばっかじゃねーか。それはそれとして藤田嗣治の『アッツ島玉砕』『サイパン島同胞臣節を全うす』が間近で見られたのは良かった。ミリオタが好きな『神兵パレンバンに降下す』も見られる。その他、特攻や戦時中の女性の戦争参加に関するプロパガンダなども多く展示されており、わが国の社会・美術が戦争のために総動員されたことがよく実感できる。




敗戦。後半の展示物は政府や軍部が推進した戦争賛美の芸術ではなく、画家たちが戦後に敗戦をどのように記憶し、表現したかがテーマとなる。
最初にどーんと展示されるのは福沢一郎の『敗戦群像』。四肢がどうなってるのかよくわからん裸の肉体が大地の上にピラミッドのように積み重なっている様は、個人的には途方もない虚脱感を感じさせられた。
【作品】 敗戦群像 / Group of figure defeated in battle 1948年 | 福沢一郎記念館_Fukuzawa Ichiro Memorial Museum
その背後にあるのは丸木位里・丸木俊の『原爆の図』(第2部「火」)。おどろおどろしい原爆の真っ赤な炎と、黒焦げになった人間たちが泣き叫ぶ様が描かれた巨大な絵画からは、死者たちの恐怖と苦痛を封じ込めたような激しい痛々しさを感じ取ることができる。

戦争の恐怖を絵画として表現したのは画家だけでない。昭和49年から50年にかけて、また平成14年にNHKは、広島市民から昭和20年8月6日の広島原爆投下時の様子を描いたイラストを募集した。その一部が展示されていたが、この企画展の中でいちばんに痛々しさを伴っていたのはこの作品群だった。人間のかたちを留めない老若男女の死者、全身の皮膚を溶かされたり裂かれたりして助けを求めて幽霊のごとく彷徨う負傷者たち、河川や防火水槽に積み重なる遺体、軒先で遺体を燃やす生存者たち。被爆者自身の素朴なタッチで描かれる当時の惨禍の様子は筆舌に尽くし難い。広島平和記念資料館のホームページで公開されているので国民はこれを閲覧するように。
後半部の様子は作品そのものも見ていてかなり辛いが、もっともやるせないのは前半部で見せられた軽薄な植民地主義や戦争賛美の行く末が、どんな画家も想像しえなかった、あるいは想像しえない原爆という地獄絵図だったということだ。数年前まで満州開拓だ、アジアを解放だ、鬼畜米英を一蹴だと宣っておきながら、結果的に起きたことは10万人の国民が放射能で人間としての尊厳ごと焼き払われる悲劇だった。その事実が、鑑賞者にはひどく重くのしかかる、そんな展示でした。
また、本企画については、大々的な広報もなく、図録もないという異常さが目を引く。何かしらの政治的な配慮なのかもしれないが、本来であれば戦後80年という象徴的なタイミングであり、日本国のアイデンティティを再確認、あるいは問い直す機会となるべきはずのこうした企画が、戦後80年経ってもこうして微妙なポリティクスの影響を受けざるをえないのは、わが国の政治的・社会的未熟さにもあるように感じられて、二重にしんどい気持ちになる。
とりあえず、どっかのタイミングで広島の平和記念資料館には行こうと思う。以上。
2025春アニメ、感謝の季節。
今更ながら2025年の春アニメの話です。
総括として、今季ははちゃめちゃにおもろい作品が多数あった、つまり、古き善きオタク(オタクが善かったことなど有史以来一度たりともないが)のボキャブラリーを借りれば、「豊作」という言葉が似合うシーズンだった。
個人的に気に入った作品を個別にピックアップしながら感想をつぶやいていきたい。特にランキングとかではないです。あと春アニメじゃなくて女児アニメ混じってます。
1. 前橋ウィッチーズ
まだ本作見てないという人はこんなゴミみてえなブログ読んでないで今すぐ前橋ウィッチーズを見てください。早くしろ。「アニメ見てるぞッ」という気合を入れ直してくれるから。
魔法少女・アイドルをキービジュアルにしながら前橋という地方都市を舞台に、少女たちの複雑な青春と社会問題を描くというかなりイカれたコンセプトなのに12話まで完璧に物語をやりきった稀有な作品だ。
語りたいことはたくさんあるけれど、本作を貫く一つの魅力は「真摯さ」だ。テーマからシリーズ構成、演出についてまでとにかく真摯で、キャラクターの多面的な見せ方、次回への引き方、前半の展開が後半に効いてくる全体構成取りこぼしのない物語の畳み方、等々、アニメの構成力の高さと同時にあまりに真面目すぎるそのアニメ制作に対する態度に送る言葉はリスペクトしかない。
そして何よりこの真摯さは劇中におけるキャラクターたちの態度にも通じる。劇中では、ルッキズムやSNSでの承認欲求、ヤングケアラーといった社会問題が取り扱われるが、それぞれについて根本的な解決策を実行するわけでなく、「問題は今すぐ解決することはできないし、それぞれ自己が置かれた苦境を理解してもらうことは簡単ではない。けれど問題をなかったことにしてはいけないから、みんなで対峙するしかないよね」という態度の提示に留まる。真面目過ぎるだろ。これを描けたアニメが今までにいくつあったかって話。現実に我々と社会が抱える問題のほとんどはアニメ1話の20分ちょっとで解決できるものではない。その中で、少しでも良い方向に世界を進めるものは、政府・政治家やコンサル企業が謳う特効薬的なソリューションではなく、俺たちがどれだけ真面目に他者と世界について考えられるかだ。本作は、そのスタートラインを12話という限られた時間の中でエンタメ性を維持しつつ提示した異常とも言えるパワーを持った作品だった。平日夕方のNHK教育でやれ。
地元群馬を舞台にここまで完成度の高く社会的アクチュアリティさえ持ったアニメに感謝ッ!
2. アポカリプスホテル
こういう作品が本来、星雲賞とか取るんじゃねえのかよ。
人類が放棄した地球に取り残されたホテルに勤務するアンドロイドやロボットたちと、宇宙から次々とやってくる宿泊客たちによるコメディSFアニメというのが簡単な紹介になる。
アンドロイドや宇宙人を主要キャラクターにしたことで生まれる「人間とは少しだけ違った思考」を非常に巧妙にアニメづくりに活かしてる作品だ。可愛い絵柄ながら、時に倫理に悖りそうなシニカル・ダークなギャグをやったかと思えば、崩壊した人類社会をニュートラルな視点から見ることで諸行無常の感をうまく演出したりもす。舞台が限定されてかつキャラクター数もそう多くない中で、ややもすれば単調になってしまうかもしれない設定で、エピソードごとに作品の温度感を変化させることで視聴者を飽きさせなかったり期待感を持たせているなあとしみじみ感動した。
人間中心でないからこその少し不思議な視点がアニメと映像に活きてる本作、めちゃくちゃSFしてるぞ。
アニメというメディアの面白さはやっぱこういうぶっ飛ばし方なんだと再確認させてくれるアニメに感謝ッ!
3. 日々は過ぎれど飯うまし
俺も一時期は「日常系」を馬鹿にしていた頃がありました。でもアニメの女の子たちが美味しそうにご飯を食べてるとおじさんは嬉しいんだよッ。
このアニメならではだなと思うのは、キャラクターの抱える寂しさを埋め合わせるためのコミュニティとして劇中の食文化研究部が描かれいる点だ。シリアスすぎない程度だがリアルでもある孤独を抱えた女の子たちが、食事・料理を通じて共通の思い出を積み上げていく姿がめちゃくちゃ美しい。
また、コミュニティの終わりを時折意識させることもアニメに力を持たせている。学生というモラトリアムにあるキャラクターたちはいつか卒業や就職してしまうのだから、コミュニティは永遠ではない。主人公は過去に既にコミュニティが永遠でないことを経験しているから、今回もコミュニティがいつか終わっていることを無意識の内に理解しているようだ。だからひとつひとつコミュニティを通じて思い出を積み上げようとする。
この作品の隠れた軸はオープニングとエンディング双方にも通じている。特にエンディングには楽しそうな映像が流れる一方でどこか刹那的な雰囲気も同居しており、この作品の二面的な性格を伝える上で、間違いなくマッチしたエンディングだった。
儚くも美しく楽しい思い出に満ちたアニメに感謝ッ!
4. mono
地方都市でアニメの女の子たちが生活を謳歌しているとおじさん嬉しいシリーズ。
初見で「眉毛太いキャラ多くない?」と思ったら『ゆるキャン△』の原作者なんだ。
キャラクター・作画・美術・演技など総合的にアニメとしてクオリティが高い一作だった。春から夏にかけての山梨・甲府が舞台だったが、特に夏の季節感の美術描写が素晴らしかった。じりじりと暑い甲府盆地の猛暑であったり、夕暮れと水田のノスタルジックな風景、中部地方の避暑地の澄んだ空気、夜の静かな街並み、それぞれの土地や風景の持つ空気感が巧みに描写されている。一方でキャラクターや画面の動きは時に可愛らしいデフォルメを交えたり、時に気合の入った動きの作画を画面全体で見せてくれたりと、映像の動と静が同居しているハイクオリティなアニメだった。
「カメラ」をキーアイテムにした本作も『日々は過ぎれど飯うまし』と同じように、いつか消えてしまう現在を残しておくための思い出作りの手段としてカメラが活用される。そのコンセプトは結構好きで、特にアクション面に重きを置いた8話と晩夏の旅情に雰囲気のある11話は個人的にかなりお気に入りだ。
ただ一方で上記のコンセプトを貫徹できていなかったなあというのが少々残念なポイント。作劇上、大人を出さないといけないこともわかるのだが、もう少し大人は周囲に置いて主人公ら3名にフォーカスしてドラマを進行させてほしかったな感がある。でもまあそれを置いても非常に満足度の高いアニメです。
美しい日本の情景とキャラ萌えを高クオリティ作画で見せてくれるアニメに感謝ッ!
5. ざつ旅 —that's journey―
『日々は過ぎれど飯うまし』『mono』と合わせて2025年チルアニメ三部作を構成し、その一翼を担った作品。結局アニメの女の子が旅行したりうまいメシ食ってると安心するんだよ。
正直アニメとしてのクオリティは上記2作の方が高い。明らかに背景美術を実写取り込みにしたせいで日本海側の旅先の天候が毎回どんよりした天気だったのは笑ってしまった(リアルといえばリアルなのかもしれんが)。ただし、この伝え方が正しいかどうかわからないが「休日の午後にテキトーにテレビをザッピングしてたらテレ東でやってた旅番組」くらいなんだか見やすい作品でもあった。
そこまで気を張らずに見れる旅番組としての形式に、何か悩みを抱えたキャラクターたちが旅先で新たな気づきを得るというコンセプトが一貫しており、失礼だがその形式を守っている限りにおいてずっと安心して見られるアニメだった。シンプルに劇中に出てきた旅先は個人的にも行ってみたいしな。
「こういうのでいいんだよ」を体現した優しい旅アニメに感謝ッ!
6. 忍者と殺し屋のふたりぐらし
こんなことアニメでやっていいんだ、という新鮮な驚きに満ちたアニメ。キャラクター消費とかそういうレベルじゃないじゃん。不条理文学の最先端は今ここらしいです。
可愛い絵柄の印象に反してとにかく暴力で展開を走らせていく異常な倫理観に基づいており、しっかりとデザインされたであろうキャラクターが登場後10秒足らずで主人公に殺戮され「枯葉に変えられる」展開も珍しくないというかそのスピード感のある殺戮が半分売りにもなっている。あまりに人の心がなさすぎて「面白い」とか「可愛い」とかの手前で「怖い」が勝つ。
そのくせ、キャラ萌え描写はしっかりやるし、時折しっとりと丁寧なドラマもやったりするので視聴者の脳がバグる。ちゃんとシャフトらしい小洒落た演出が入るのもマジでなに。これ本当に笑っていいヤツ?
アニメは常に制作側と視聴者側の想像力どちらかが強えかの勝負でもあるが、コイツの登場の仕方はいきなりパンチライン一発で相手を黙らせてそのままウィニングランを走る無敵すぎる戦い方だった。
もう何も言うことねえわ。強え。出会えたことに感謝ッ
7. キミとアイドルプリキュア
8. ひみつのアイプリ リング編
9. プリンセッションオーケストラ
まだ終わってないんで感想ではないんですが2025年ニチアサ女児向けアニメは見た方がいいですよ。
女児アニメってこんなにキャラクターの関係性と感情に”””本気”””なんだ、という驚きを毎週のように感じています。朝からこれ見せられて疲れない?
下は今のところの個人的ベスト回です。
プリキュア:第14話「お母さんへ~こころからのメッセージ~」→ガチで美しい物語。
アイプリ→第57話「雨上がりのふたり」→ニチアサでこんなジメジメした百合アニメやっていいんだ。
プリオケ→第5話「流星、闇を切り裂いて」→あーはいはい、好きです、一条ながせさん。
2025年春、本当に美しいアニメたちが揃った「感謝」の季節でした。
このあと本当はアニメとオタクに対する文句をだらだらと書こうとしていたが、なんだか途中で情けなくなったのでやめました。俺は常にアニメに感謝の態度を示していきたい。
とりあえず春アニメ完了記念に山梨・長野・群馬にツーリングに行ってきました。
6・21〜22、2025春アニメ総括ツーリング。バイクで撮影しながら山梨・長野へ行き(#mono)目当ての食事に失敗しつつ(#ざつ旅)途方もない規模の宇宙科学に触れ(#アポカリプスホテル)ソースカツ丼を食い(#ひびめし)前橋で街を散策したり人生について考えるなどしていた(#前橋ウィッチーズ)。 pic.twitter.com/YPHHkj170L
— マキノ (@ActioSurrealism) 2025年6月22日
以上
見ておいた方がいいですよ、前橋ウィッチーズは。
おもしれえことがわかってるアニメ見てもおもしれえことがわかってるからおもしろくねえ。おもしれえかどうかわかんねえアニメがおもしろかった瞬間がいちばんおもしれえ。
誰に向けられてんのか全然わかんねえショットガンみてえなアニメ、前橋ウィッチーズを見てください。
アニメとの対決ってのは見る側と見られる側どっちの想像力のキャパシティがでけえかの勝負なんだよ。己の想像力を越えてくる鬼強えアニメにどれだけ出会えるかのためにアニメ見てんだ、こっちは。
コイツは、このアニメはなんだ? この「行政の予算が投入された御当地アニメ」と「新人声優を売りにした美少女アイドルアニメ」と「ジェンダー/ルッキズム/承認欲求/教育虐待/格差…etcをテーマにした硬派な社会派アニメ」の三位一体みてえなアニメはなんだ? そんなアニメ存在するのか?
これは、誰に向けて作られたアニメなんだ? アイドル声優オタクのおっさんたちに地方都市に生きる少女たちの生々しい感情を見せて何がしてえんだ。新しい革命に向けた新しい啓蒙主義の実践なのか? なんでつんくがオープニング作詞してんだ。意味がわかんねえ。今度ラッピング電車が上毛電鉄を走るらしい。
マジでおもしれえ。誰に向けて作られたかわかんねえコンテンツがいちばんおもしれえ。
なぜ前橋なんだ?
全然意味がわかんねえ。前橋でやる意味はねえ。
前橋でやる意味が説明されたらお前は納得するのか? 納得したらアニメが面白くなるのかよ?
必然性と整合性でアニメ見るな! 必然性と整合性でしかアニメが見られなくなるぞ! 死ぬぞ!!!!!
(でもこのアニメの存在は必然なんだというよくわかんねえ強力な説得力がこのアニメにはあるんだよな)
こっちもよくわかってねえからうまく説明できねえ。
よくわかんねえからおもしれえ、だから説明できねえ、仕方がねえ。
前橋ウィッチーズを見てください。新しいアニメを見てください。

極めて個人的な映画関連メモ:『どうすればよかったか?』/手加減無しに踏み込む「家族」ドキュメンタリー~俺たちは本当の意味で他者とコミュニケーションできていない~
1月からすげえドキュメンタリー映画を見た。2025年ベストに必ず入ります。1月18日(土)、川崎市アートセンターで視聴。
※この記事はいわゆるネタバレや作品上の重要な展開に関する記述を含みます。そういう作品ではないけれど、一応念のため。
- 作品概要
- 何の映画か最初に宣言してくれるの嬉しすぎる
- 俺たちのコミュニケーションは実は
- time flies...
- 「良かったね」とは言えねえよ
- どうすればよかったか?
- 映像作品として
- 閉鎖性をぶちやぶるカメラ
- おわりに
作品概要
監督であり映像の撮影者である藤野知明氏には優秀で面倒見の良い姉がいた。医学研究者の両親の下に生まれた姉は両親と同じ道を進むため医学部に進学するが、ある日統合失調症と思われる発作を起こし、救急車で搬送される。両親はしかし、娘に入院や治療は必要ないと判断し、以降自宅に軟禁してしまう。
実家から離れて暮らしていた藤野知明氏は、実姉が何もケアを受けていない状況が長年続いていることを憂慮し、姉を医療機関に預けることを両親に進言するが聞き入れられない。映画学校に通っていた藤野氏は、ホームビデオという名目で姉と家庭の状況を記録するため、カメラを家族に向ける。
何の映画か最初に宣言してくれるの嬉しすぎる
作品冒頭に但し書きとして「この映画は統合失調症の原因を探るものではない」ことと、「この映画は統合失調症がどのような病気か説明するものではない」ことが説明されている。「どうすればよかったか?」という問いは「姉が統合失調症にならずにすむにはどうすればよかったか?」とか、「統合失調症とどのように向き合えばよかったか?」といった個別の問いをよりもさらに広い射程を持っている。
端的にまとめれば、その射程は家族の幸福や在り方に届く。だから、この映画は統合失調症に苦しむ家庭を見て何かを、憂鬱や悲痛(あるいは嘲笑)を覚えて、それで終わる作品ではなく、家族という組織に何かしらの形で所属する人々に対して普遍性を以て問いかけてくる。
次から具体的な映画の内容について見ていく。
俺たちのコミュニケーションは実は
冒頭のある録音を除けば、映画序盤にカメラが映すのは温厚そうな老夫婦とその子の家庭生活や小旅行の記録である。両親は二人ともインテリらしく理知的に会話するし、一戸建ての家はインテリアも外観も家庭の豊かさを表したように立派だ。しかし、どこか映像は観客に居心地の悪さを感じさせる。常にむすっとした無表情で口を閉じたままの姉に、両親は声を掛けたりするものの、コミュニケーションはうまく取れない。微妙な緊張感の原因は、このときコミュニケーションがうまくいかないことが最初から前提にあったように振る舞われることだ。異常がすぐ目の前で起きているのに、両親はそのことを全く問題視していない。だが一方で、両親は姉を諦めているのか? というとそういうわけではない。母親は「姉はやることをやっている」といって現状を擁護し、そしてより奇妙なことに父親はまだ姉に医学研究者としての活躍を期待しており、自身の研究に姉を共同研究者として名を連ねさせている。
藤野氏は母親に対して姉を医療機関に連れて行くことを提案するが、決して首を縦に振ることなく「(病院に連れて行くようなことがあれば)父親が死ぬことになる」と不思議な理論で提案を拒否する。
作品全編を通じて感じる一つの疑問として、日常的なコミュニケーションは実は我々自身が考えているほどうまく機能していないのでは? という問いがある。理知的に会話しているように聞こえる両親の会話は、カメラを通じて客観的に見てみると実は整合性がよく取れていない。実はその場の雰囲気だけで会話が進み、実際は何も意味のあるコミュニケーションが取られていないことは私たちにとっても身に覚えのある日常であるように思われる(特に家庭の空間においては。)
会話によって何かが進むことはない。両親の説明や会話は雰囲気だけで、本当に何を考え何を感じているのかはわからない。虚ろな両親の言葉たちは、姉が時折発する支離滅裂な言葉と重なり、豊かさに満ちた瀟洒なリビングにはただひたすら意味のない会話が繰り返されるだけである。藤野氏はあるとき姉の自室で面と面を向かって姉にカメラを向けいくつかの質問を行うが、姉は何かを伝えることなく、不明瞭な言葉とともにベッドに潜り込んでしまう。
time flies...
撮影は藤野氏の帰省のたびに行われたものなので、1年ごとに家族の様子が変化していく様がスクリーンに流れる。映画の序盤ではまだ活力に溢れていた両親が徐々に年老いていくのを見せられるのは、六十代の両親がいる自分としても現実を突きつけられているようで恐ろしく感じてしまった。
状況はエスカレートしていく。以前は家族で小旅行に出かけていたが、そのような気力体力がなくなっていき、外出の機会が減っていく。母親は玄関に偏執的とも言える南京錠を仕掛け、自身もろとも姉を自宅に軟禁するようになっていく。父親は何も言わない。家族の体力が徐々に衰えていくのに連れて、状況は悪化していく。
特にわかりやすいのは、以前は綺麗に整理されていた自宅内が徐々に雑然とした様子に変わっていくことだ。リビングの床に段ボールやゴミが積み上げられていくのを見て、両親の生活能力が徐々に失われていく様を見て取れる
ただそれ以上にこの映画で最も恐ろしい部分は、母親が認知症と思われる病気にかかり、家庭内でより正気と理性が失われていく様を見せつけられている場面である。母親は午前五時に謎の男が二回の窓から自宅に侵入し、物を盗ったり姉に麻薬を注射しているという妄想に固執する。深夜に姉の部屋に入り込む母親と激昂する姉を撮影した一場面は、目を背け耳を塞ぎたくなるほど苦しい場面だ。
深夜に放たれる姉の絶叫と母親のなんとも言えない諦念の表情、無言のままの父親、どこにも状況の出口はないまま破滅するしかない、そう思わされた。
「良かったね」とは言えねえよ
母親の認知症をきっかけに、限界を感じたのか父親は姉の入院を許可する。姉が統合失調症を発症してから25年が経っていた。姉は3ヶ月で退院し、処方された薬によって弟である藤野氏と会話できるようになる。会話だけでなく、料理など家事生活も行えるようになる。状況は好転しているように見えるが、しかしたった一度の入院と薬によって回復したはずなのに、25年間治療を受けられなかったという時間の残酷さだけが辛くのし掛かる。
姉の回復を最も象徴するのが、時折姉が見せるピースサインと不思議なダンスだ。笑顔はほとんど見せないが、姉は恐らくポジティブな感情を感じ取るとピースサインを掲げて喜びを表現する。会話や生活能力もそうだが、それ以上に「喜びを感じ他者に表現すること」という能力とその回復こそが人間性の回復と言えるものなのではないかと、そう思える(繰り返すが、それまでの25年間姉からその能力が奪われていたという現実があまりに辛辣すぎた。)
母親がその後亡くなり、姉にがんが見つかったことから、藤野氏は可能な限り姉の意志を尊重して、行きたい場所ややりたいことを実現できるよう、いわゆる終活を進める。近所の公園で花火を見たり、海を見に行ったり、カフェや物産展に行ったりする。その時折で姉はピースサインを掲げる。それはまるで25年間に失った、本来得るはずだった体験を取り戻すようもである。
それだけだったら「良かったね」と感動のままに終わってしまうドキュメンタリーとなったかもしれないが、穏やかな表情を浮かべる高齢の父親の存在が最後にまだ残っている。姉が亡くなった葬儀におけるスピーチと振る舞いには、父親が25年前から実はあまり考えが変わっていないことが読み取れる。そして、映画の最後には父親に対するインタビューがなされるが、そこで何か過去に対する核心的な事実であったり、あるいは親としての後悔が明らかになることはない。父親は藤野氏の「どうすればよかったか?」という問いに対して「失敗したと思っていない」と振り返る。結局のところ、母親の死と姉の回復、そして死を経ても、藤野氏と父親との認識の齟齬は決定的に修復されていなかった。
どうすればよかったか?
この問いに答えるのは簡単なことではない。
「統合失調症の症状が出た時点で精神科に入院させるべきだった」と単刀直入に答えても、「それができたら苦労はしなかった」と、そう思わされる質量と複雑さがこの映画にはある。家族のケアは医学単独の問題ではない(そうであれば医学研究者である両親はもう少し良い方向へアプローチできただろう)。この映画で痛感させられるのは、繰り返しになるが、現状の認識をコミュニケーションによって共有することの難しさだ。両親が何故姉を病院に連れて行かなかったのか、という根本的な問いは遂に最後まで明らかにならない。父親、母親それぞれの考えと感情があり、互いに主張したり否定したり、あるいは忖度したりして、互いの認識は遂に共有されない。その複雑さは、状況に対する認識の共有というのがそもそもとして無理筋なのかもしれないと、諦念さえ生じさせる。スクリーンに映される家庭の惨状以上に重く観客にのし掛かるのは、何処にも出口を見つけられないこの閉塞感だ。
閉塞感を生じさせるのは、藤野家の状況がまったく観客たちにも無関係ではないことにもよるだろう。統合失調症とは別に立ち現れる家族の老化という避けては通れぬ現実が、明瞭すぎるほどに観客らの前に提示される。雑誌やテレビでは老後を如何にスマートに、格好良く、美しく過ごすか、なんてテーマの特集が組まれて広告に並ぶが、実際には体力や認知能力の低下、認知症や脳梗塞などの病気リスク、生活範囲の縮小、老老介護といった様々な問題にぶち当たらなければならない。(筆者の世代としては)そしてそれはまず自身の両親から生じるし、将来的には自分自身にも起こる。この避けられない現実を映画は20年という時間を圧縮し、ダイジェストのように映像化することによって画然と表現している。
どうすればよかったか? この問いかけをフックに、本作は家族の抱える普遍的な問題にアプローチしている。
映像作品として
あまりにテーマが重すぎるために、本作を語ろうとすると自然と「家族とは」というアプローチの仕方しかできなくなってしまうように思う。なので、ここでは敢えて映像作品としていくつか気になった点を挙げてみたい。
まず挙げられるのは上述している人物たちの老化が映像の質とリンクしているところだ。冒頭は音質が悪く聞き取りにくい録音音声が流れ、映像としては2001年の記録当初のホームビデオからスタートする。これも筆者のような30代以上の世代だとなんとなく懐かしさを感じさせるような画質で、映像に収められた世界が、観客らにとって近くはないがそう遠くもない世界であることを実感させる。徐々に状況が悪化し、母親の認知症が進むと、ほぼ家の中だけのシーンになるため光量が小さく、特に夜の時間帯に映したものは、語弊を恐れずに言えばファウンド・フッテージやアナログホラーを彷彿とさせる画質になっており、家庭と映像がその荒み具合においてリンクしているように見える。
しかし、ある時点、個人的には姉が入院し回復したあたりから、映像の質が変わっているように見えた。カメラ技術の進歩のために映像がより鮮明になり、明るい画面も増えることで、ここでは姉の回復と映像がリンクしている。さらに、姉の肺がん発見を期に始まった終活の場面では、それまでと打って変わって外出の場面が増え、様々な色彩がはっきりとスクリーンに映される。ここで画質が向上することで、姉がまさしく我々が知る日常に生きていた隣人であることをはっきりと感じることができる。この実在性は、この記録における「姉が生きていたことを記録したい」という藤野氏の動機が達成されていることの証左にも繋がり、その家族の繋がりがまた映画のテーマをひとつ補強しているポイントにもなっている。個人的に印象に残っている場面としては、年老いた姉と父親がまったりと家の軒先で日向ぼっこをしながら草花を眺めているシーンがその鮮やかな色彩と相まってかなり感情に来た。逆に、姉が妄想を起こしてしまい自宅に警察が来たシーンでは、カメラ付きインターホンに記録されたやや不鮮明な映像が流されるため、この点ある種の演出的な意図もありうるのかなと単純ながらそう思った。
終盤、映像はすっかり鮮明なものに変わって、我々が普段テレビやパソコンで見るものと変わりがなくなることで、映画の世界がはっきりと我々と地続きであることを実感させられる。姉の最期と葬儀の場面、姉の仏壇に手を合わせる父親、老いた父への最後のインタビュー。それぞれの場面があまりに鮮明すぎる映像でスクリーンに投映されることで、観客たちはやはりこの家庭が実在すること、そして途方もない時間が流れたことを最後に実感させられる。他の感想でも言及されていたが、最後のインタビューでは藤野知明氏本人がカメラにはっきりと映るが、その年齢を重ねた姿は父親と同じく時間の経過を強く感じさせる。
画質の変化と彩度、あるいは鈍さが、テクニカルな話ではあるかもしれないが、観客たちにこの映画の普遍性を投げかける上で大きな役割を果たしていると言える。
閉鎖性をぶちやぶるカメラ
映像についてもう一つ言いたいのは「本当にこれって見ていいヤツ?」という後ろめたさを観客に強いる点だ。正直に言ってしまえば、統合失調症を抱えた家庭がどんなものなのか見てみたい、という露悪的な興味と動機がこの映画を見るにあたって自分の背後にあったものだった。けれど、実際にスクリーンの前に座り、上映冒頭から音声記録を聞かされるとそんなふざけた動機も甘ったれたしょうもない幼稚性だと喝破されて、苦しいほどに厳しい現実を見せつけられる(そういう体験を希望している節も勿論あるが。)
家庭内の日常生活を見せつけられるときの居心地の悪さ。カメラを向けられた父親と母親はニコニコ笑って息子の撮影に協力している。姉はぶすっとした表情を浮かべている。時に妄言が始まり、興奮した姉が暴れ始める。両親が姉の取り扱いについて口論を重ねている、あまりに生活感のあるリビングを背景に。このとき、映像を見ることで「本来立ち入ってはいけない空間に立ち入ってしまっているのではないか?」とタブーを犯している気分にさせられる。
映画のポスターにある「言いたくない 家族のこと」というコピーを思い出す。藤野氏本人からしても、病気で苦しむ家族を撮影した映像を不特定多数の人間に公開するというのは、並大抵の覚悟ではできない行動だ。
家族という組織の閉鎖性。他人の家庭のことを深く尋ねるのはタブーだと、普段我々は認識している。しかし、この映画は向こうから映画というメディアを通じて観客の眼前に現れた。同時に観客もわざわざ映画館に足を運んで、おおよその観客は事前にどのような映画か知っている上で視聴している。その点で、ある意味双方ともにタブーを犯している、という気分にさせられる。
しかも、ホームビデオ風の映像は、観客に対して藤野氏と同じ視点に立たせているようでもある。一人称視点で映される映像が全く知らない他人の家庭の中に観客を踏み込ませている。
この「踏み込んでいる」という感覚が本作の威力を支えている。
映画の紹介にある状況だけを聞くと、先述した通り、「どうすればよかったか?」に対して単純な回答を提示するだけになるが、家庭の中に張り込むことによってそこに張り巡らされた様々なしがらみを実感し、故に「どうすればよかったか?」に回答することが難しいことを実感させる。
そして、知らない他人の家庭に踏み込むことをタブーに感じることを、この映画は観客に確認させ、それはつまり家族という組織の閉鎖性や複雑性を確認することにも繋がる。
一人称視点のホームビデオ風カメラが、映画のテーマともなる家族とその奇妙な側面に対するアプローチ方法と、十分すぎるほどに機能しているといえるだろう。
おわりに
映画について「体験する」という動詞はあまり使いたくないが、本作においては「視る」を越えてその言葉を使った方が正しいように思えた。視覚と聴覚から流し込まれる情報は観客に圧倒的な居心地の悪さを与える。それだけ威力のある映画であり、個人的には2025年に見る映画野中で必ずベストに入る作品になると思っている。
「面白いから是非観てくれ」とオススメしにくい作品ではあるが、こんな質量のあるドキュメンタリーを見られる機会はそうそうない。あと勝手な推測として、恐らくブルーレイなどの形での販売はないんじゃないかと想定している。
このレビュー(?)を書いている間にも、上映館の拡大が決まったそうなので、もし興味があれば是非映画館に足を運んでいただきたい。
極めて個人的な映画関連メモ:『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』/冗談抜きの超がつくほどど直球駄作にうれしくなっちゃうぜ ~お前、俺のこと舐めてんだろ~
人に誘われて川崎チネチッタで『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』を見る。
久々に犯罪的にクソつまんねー映画を見て三〇歳男児は大興奮でした。賛否両論とか言って話を濁してんじゃねーぞ。トッド・フィリップスは5年間くらいハリウッドをROMった方がいい。
この話はネタバレと盛大な作品ディスが含まれます。
- あらすじ
- 次に繋がる経験にしましょう
- お前何がしたいねん
- なげえ
- 本当に脚本考えて書いたんですよね?
- 最後の最後で大逆転ホームランがあるのか? ねーのかよ。
- 作品の考察
- 見る側の技量が試される作品か?
- おわりに
あらすじ
前作(『ジョーカー』二〇一九年)において5人を殺害した殺人犯ジョーカーことアーサー・フレック(ホアキン・フェニックス)は精神病棟を兼ねた監獄に収監されていた。殺人事件の裁判が近づく中で、アーサーの担当弁護士はアーサーの精神障害と責任能力を争点にしようと準備を進めていた。そんな中、アーサーは精神病棟の中でリー・クインゼル(レディ・ガガ)という女性患者と出会う。
次に繋がる経験にしましょう
映画の感想に立場もクソもねーが、最初に結論だけ言っておくと、本作はここ数年で見た新作の中で最もつまんねー映画であり「失敗作とはこういうことさ」と言えるようなクオリティのものだった。もし本作を見て「面白かった」と思った人は恐らく決定的に価値観が違うので次の改行の前にブラウザバックするか今すぐに端末を物理的に破壊することを推奨する。
つまんねー映画はつまんねーので作品として完了している。だからそれ以上救いようがないのだが、つまんねー映画を摂取してしまった憐れな鑑賞者側は、なんとかしてつまんねー映画という体験をサッカー日本代表みたく次に繋がる経験に変える努力のチャンスが残っている。ここでは「なぜ『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』は犯罪的にクソつまらなかったのか?」を分析しながら、個人のまた別の趣味である創作への転化として役立てたいと思うし、それ以上に、俺はまたこういう「クソつまらない作品がなぜクソつまらないのか」を考えるのを趣味にしている節がある(類似する趣味としてプロ野球の配球に文句を言ったり競馬における馬の運び方に文句を言ったりする趣味が世の中には見られる。)個人の話はどうでもいい。繰り返す。なぜ『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』は犯罪的にクソつまらなかったのか?
お前何がしたいねん
同行者とも一致した感想はまず「前半一時間があまりに眠すぎる」だった。冒頭はレトロでユーモラスなアニメーションから始まるが、その後劇中世界に移ると、薄暗い単調な画面の中に面白くもないセリフがだらだらと続くことになる。アーサーが監獄に収監されていることや、前作の事件に向けて色々と準備を進めていることなどがわかる、わかるが情報量に対して映像があまりに単調で冗長すぎる。
冗長に感じるのは絵作りがすべての原因ではない。ここで一番重要なのは(せこい脚本術みたいなことを言うが)映画としての着地点がどこにも示されないまま映画がずっと続くことだ。主人公アーサー・フレックは何をしたいのか? それが不明瞭なまま映画が続くからストーリーをどう追えばいいのか観客は何もわからない。ストーリーの抑揚や衝撃性はある程度観客にストーリーを予想させて、その予想を踏んだりあるいは予想を裏切ったりするから生じるのであって、観客がストーリーに取り込まれていない場合は何やったって抑揚は現れない。同行者の「知人の案内で出かけたが、具体的な目的地や経路が明かされないままひたすら連れ回されるそんなイライラ感」という表現はあまりに正確すぎた。
物語の終盤で主人公アーサーの隠された欲望とも言うべき、本作のコアが初めて露出するシーンが現れるが、正直「今更それ言われても……」と困惑するだけだった。ある程度前半にそれ匂わしてくんね?
アーサー以外のキャラクターも「何がしたいのか?」という動機がわかりにくい。
ヒロイン枠のリーはファム・ファタルとしてアーサーと物語全体を攪乱していく。稀代の犯罪者ジョーカーに惹かれたリーはアーサーに接触し、肉体関係を結ぶ。一人の精神病患者アーサー・フレックとして裁判に臨むことを期待し、準備する弁護士に対しリーは強い言葉で糾弾し、自身こそがジョーカーの真の理解者であるかのように振る舞う。だが、後半にアーサーがある心情を吐露することでリーはアーサーを見限ってしまう。あれだけジョーカーに執着していたはずだったのに、最後はあっけないほど簡単にアーサーに別れを告げる。それはそれでアーサー・フレックの憐れな運命を表現しているのかもしれないが、邂逅から別離まで徹底して軽薄な描かれ方しかされてないから、見ててただストレスフルなキャラクターになってしまっている。ストレスフルでも何かしら魅力あるキャラクターにすることはできると思うのだが、ただ結局軽薄さだけしかないからキャラクターに入り込みようがない。
どうしてお前がファム・ファタルなのかよくわかんねえんだよな。誰だよお前。
なげえ
端的に、なげえ。言いたいことはある程度わかるが、それをやるのに138分も要らねえって。ワンカットワンカットもやったらめったらに長い。ストレス。常にだらだらとした画面が続いて、画面に対して集中できない、入り込めない。だらだらした画面の中でなんか重要そうなこと言われても、「あ、そう」と先帝ばりの淡泊な感想しか出てこない。60分のオリジナルビデオでやれ。
本当に脚本考えて書いたんですよね?
裁判所の爆破シーンを考えたヤツはハリウッドから追放した方がいい。今後一〇〇年のハリウッド、いや、映画界全般の健全性や発展性を考えたそうしない理由がない。企画や脚本の会議でこのアイデアを耳にしながら反対しなかったヤツらにも何かしらのペナルティを与えた方がいい。劇場で声を出していいのだったら間違いなくあの瞬間思いつく限りの罵詈雑言を叫んでいた。真面目に映画を見ている俺をバカにしてるんだと嘘偽りなくそう思った。このシーンを書いてドル札を貰えるシステムがあるとすれば人類史における労働と報酬の概念に対する極めて苛烈な侮辱と言わざるをえない。舐めてんじゃねーぞ。金返せー!
最後の最後で大逆転ホームランがあるのか? ねーのかよ。
だらだらとした画面に必死に耐えながらも俺はある一縷の望みを掛けていた。八回裏まで一本もヒットを打てず完全に打線は封じ込められているが、もしかしたら九回裏にドラマチックな大逆転サヨナラホームランがあるのでは? みんなその取り扱いに困って賛否両論になっているのでは? 前作は結構面白かったんだから、いきなり次作でこんなつまんなくなるはずがねーだろ? ほら、この裁判所の爆破シーンなんてプロが作るなら本来ありえないんだからアーサーの精神世界を映したものなんだよ。今までの映像の「つまらなかった」部分は全部アーサー・フレックという男のナンセンスさや憐れな男としての表現で、現実の表現ではなくって、それを使った大どんでん返しがあるはずなんや!!!!!
認知バイアスである。
九回裏はそのまま三者凡退で試合は終了、エンドロールという名の戦犯リストが延々とスクリーンに流れる前で、俺はクソつまらない映画を見た興奮と絶望で多幸感に溺れていた。
作品の考察
考察することは何もない。作品がそもそも面白くないのだからディティールにこだわりや深い意味があろうが、何も意味がない。作品を面白くしてからそういう工夫をしろ。
見る側の技量が試される作品か?
(ミニシアター系ならまだしも)エンタメ映画で観客の技量を試すバカがいるかよ。
おわりに
なんか負け試合観戦後の後の野球ファンみたいになっちゃった。映画は短ければ短いほどいいぞ。
口直しに暴力と狂気の映画のおすすめシリーズでも挙げておくか。
監督・脚本:リン・ラムジー、主演:ホアキン・フェニックス、公開年:2018年(日本)
『ジョーカー』同様にホアキン・フェニックスが精神を病んだ殺し屋中年男性を演じる。狂気と悲哀のこもったバイオレンスが90分という短時間によくまとめられて完成度がバカ高い。
『県警対組織暴力』
監督:深作欣二、脚本:笠原和夫、主演:菅原文太、公開年:1975年
『実録・私設銀座警察』と迷った。暴力刑事の役をつとめる菅原文太の鬼気迫る怪演がめちゃくちゃ脳に良い。ラストもひとつの暴力の終焉として美しすぎる。上映時間100分、映画史上における完璧な映画のひとつ。
『GONIN』
監督・脚本:石井隆、主演:佐藤浩市、公開年:1995年
バブル期の極まった狂気の都市・東京を背景にしてる点で既にキマっているが、佐藤浩市・本木雅弘・根津甚八・竹中直人・ビートたけしらの濃すぎる演技と、そのキャラクターたちの死に様の美学が良すぎる。上映時間109分。
『その男、凶暴につき』
極めて個人的な映画関連メモ:『べいびーわるきゅーれ ナイスデイズ』/とにかくアクションとキャラクターに全部振れ
先週見に行った『シビル・ウォー』がなんか物足りなかったのでチネチッタ川崎で鑑賞。前回行ったとき足が投げ出せる前方のC列にしたらスクリーンを見上げる角度の関係上、首が痛くなったので、今回はG列にしたら足が痛くなった。俺はこれを「首か足か問題」と呼んでいる。

作品感想の話。正直ハードルは下げていた。『べいびわるきゅーれ』『べいびーわるきゅーれ2べいびー』ともに傑作だと思っているが、2を見た際にややマンネリを感じた部分もあり、3作目となる本作ではどうなるかかなり不安があった。
結論としてはそれは杞憂であり、作品としてはシリーズ前2作と比較しても遜色のない満足感のあるエンタメ映画に仕上がっている。
あらすじ
東京で殺し屋稼業を営む杉本ちさと(高石あかり)と深川まひろ(伊澤彩織)は出張で宮崎での仕事が依頼される。現地の観光を満喫していた二人はしかし、仕事現場で凄腕の殺し屋・冬村かえで(池松壮亮)と遭遇、戦いになり冬村に撃退された上に依頼にも失敗してしまう。
フリーの殺し屋として暴れ回る冬村の排除を、ちさととまひとが所属する殺し屋協会は決定し、二人と現地宮崎の殺し屋である入鹿みなみ(前田敦子)と七瀬(大谷主水)と協力して冬村かえでへのリベンジに向かうことになる。
キャラとアクションに全部振れ!
とにかくアクション映画はキャラクターとアクションにリソースを振り分けた方がいい。小難しい設定やら世界観とか、捻った脚本とか衝撃のラスト5分とかマジでどうでもいい。いいから凝ったキャラクターと凝ったアクションを見せろ。個人的なアクション映画における構成要素の配合率はアクション4割のキャラクター4割のドラマ2割が理想像だと思う。ここでいう構成要素の配合率が一体何を定義しているのかは知らないが。
『べいびーわるきゅーれ』シリーズは魅力的なキャラクターをつくるのがうまいと毎回関心する。主人公二人は常にダラダラした無気力さを纏いながら、ここぞという殺しの瞬間は本気になり、また日常の場面でキビキビした社会に対する疎外感に悩まされたりと、こうしたギャップを用いたキャラクターの魅力作りが良い。『ナイスデイズ』に現れる強敵・冬村かえでというキャラクターも、強力な敵キャラクターでありながらも殺し屋として完璧超人な存在ではなく、様々な弱点を抱えた二面性に富んだキャラクターだ。主人公二人の仲間でありながら小言とヒステリーの耐えな嫌味な先輩役の入鹿みなみというキャラクターも、物語の後半で意外な二面性を見せることで、『べいびーわるきゅーれ』らしいエンタメ性をブーストさせている。
個人的に特に冬村かえでのキャラクター像が非常に刺さった。殺し屋稼業に対して常に反省と改善を忘れないストイックな姿勢を徹底し、努力によって圧倒的な技術を持つ彼は一方で(主人公のまひろと似たように)他人とのコミュニケーションの取り方が下手で、人との距離感をいつもわかりかねているが、孤独を感じて一緒に笑い合えるような「熱い仲間」(劇中の描写では漫画『ワンピース』を意識しているように見える)を求めている。その性格は「自己成長」や「協調性/チームワーク」といった現代社会で溢れるキャッチコピーに対するアイロニーを感じる。王道的だが、他人や社会とのコミュニケーションを苦手としながらもちさとというパートナーによって日々を生きているまひろと、同じくコミュニケーションに難がありかつ仲間に恵まれなかった冬村の戦いはバトル少年漫画的な面白さがある(逆だったかもしれねェ……)。
「強い」「かっこいい」イメージを持ちながら、一方で様々な「現代社会の生きづらさ」を隠し持ったキャラクターたち。個別のキャラクターがそうした多面性を持つことで魅力度も上がるし、「現代社会の生きづらさ」という背景が統一されていることが作品を見やすくかつ観客の共感を呼んでいるのかもしれないと今更ながらそれっぽい感想を述べておく。
アクションについて。正直「オオッ」と唸るような凝ったアクションはなかった。逆に言えれば「これでいい、これでいい」と言えるようなアクションが続いた。もう一度正直に言えば派手さはない。爆弾が大爆発してキャラクターがビルや橋の上からダイブするような金の掛かったアクションはない。これもひとつシリーズを通して統一されていることかもしれないが、おおよそほとんどのアクションシーンは小さくまとまっている。銃火器を使うにしても、数メートルの距離での戦闘がメインでアクションのおおよそは格闘戦闘の距離感だ。逆に、スケールの小ささが骨と骨をぶつけ合うような痛々しいアクションとバイオレンスをちょうどよく表現している。
それはそれとして
ここからは違和感の話。
これは作品の内容というより作品の性格の話。キャラクターについては先述したとおりそのギャップから来る魅力作りに巧さを感じるが、一方でキャラクターが創作的すぎる故の違和感も感じてしまう。青年漫画からそのまま現れたような突拍子もないクセのあるキャラクターが、現実空間で現実の俳優の演技によって表現されることについての違和感はどうしても感じてしまうことが時々起きてしまう(もちろん「こういうヤツいそう」というリアリティや共感可能性も併存しているのだが。)
個人的にはそこまで鑑賞時に邪魔にはならないが、二次元創作的なキャラクター造形が合わない人は恐らく見ていてかなり邪魔になってしまうかもしれない。
アクションについて。これもキャラクターと同じで長所と短所のバーターなのだが、小さくまとまっているためにアクションなのに地味さや退屈を感じてしまう場面ことが時々ある。極端に言ってしまえば「なんかジタバタしてんな」と見えてしまうアクションシーンがあり、別にスタイリッシュさを求めているわけではないけれど、どこかニンニクが入ってない二郎ラーメンみたいな物足りなさがあったので、アクションの中に味の途中変化やパンチのあるワンアクションがあったりしてほしかった。
おわりに
上述の通り細かい点についていえば違和感はあるものの、総じて見たかったアクション・コメディ・キャラクタードラマは見られたので満足度は高い。2のときは若干マンネリを感じたりもしたが、ある意味マンネリというよりは「これが見たかった」という「定番」に落ち着いたと見るべきかもしれない。
個人的な映画の評価尺度に「映画を見終わったときにその映画でマクガフィンとなったり重要なシーンで映される食事が食べたくなるか」という謎めいたものがあるのだが、本作を見終わったあとに近くの焼き肉ライクで肉を焼いてビールを飲んでいたのでこれが答えなんだと思います。
