出雲口伝から語りたい

出雲口伝をベースに古代日本の神々の系譜を掘り下げていこうと思っています。

【イズモはいつヤマトに恭順したのか】

出雲口伝と正史を組み合わせた年表をまとめてみました。ここから出雲王国がヤマトに取り込まれていった時期を探っていきたいと思います。

 

2世紀中頃の第一次モノノベ東征(九州勢力のヤマト進出)は短い期間で終わったため、出雲王国に直接的な影響はなかったようですが、第一次モノノベ東征で圧迫され、ヤマトからキビへ移り住んだ孝霊天皇が出雲に攻め込んでくるということがあったということです。東出雲王国はキビ軍との一時休戦において銅剣を差し出すのですが、一部を他の豪族達と一緒に東西出雲王国の国境付近の神庭斎谷(かんばさいだに)(現在は神庭西谷)に埋めたということです。(荒神谷遺跡)

 

奥出雲に攻め込んだキビ軍に西出雲王家は降伏するのですが、そのころまだ銅鐸祭祀であった西出雲王家は神原の郷の岩倉に銅鐸を埋納し、銅剣を溶かして差し出したそうです。キビ勢による奥出雲の占領はなんとかまぬがれたそうです。

これが加茂岩倉遺跡なのですが、一カ所で39の銅鐸が出土するのは全国で最多です。その内、26は入れ子(大きな銅鐸の中に小さな銅鐸が入る)状態でした。その丁寧な埋納から後々掘り返して使おうとしていたのではないでしょうか。

 

8世紀につくられた『出雲風土記』の神原の郷について次のような話が載っています。

天下を造られた大神(大名持)が、御宝を積み置きになった場所である。だから、神宝の郷と言うべきなのに、今の人はまだ間違って「神原の郷」と呼んでいる。

 

この2世紀中頃の孝霊天皇の息子達(キビツ彦兄弟)が良質の砂鉄が産出される奥出雲に攻めてきたことが、『古事記』においてスサノオヤマタノオロチ退治の話として書かれていると出雲口伝では伝えています。奥出雲を流れる斐伊川には8本の支流があり、支流沿いのイズモ族は8本の首に例えられ、そこが砂鉄の大産地であったことから太刀がオロチの尾から出てくるといった話になったそうです。

 

イズモ族はヤマトからみると蛇を象徴しているとみなされていたため、オロチに例えられたのではないでしょうか。

 

その後キビ王国と出雲はしばらく平和を保っていたようで、出雲の王の墳墓から吉備の特殊器台などが出土しています。

 

キビ王国のシンボルは平形銅剣で、イズモから奪った銅でかなりの数を作り連合国に配ったということです。出土範囲は淡路島西部から国東半島におよぶ瀬戸内海岸沿岸のすべての地域であるため日本海側はイズモが、瀬戸内側はキビが支配権を持つというような住み分けができていたのかもしれません。

 

ヤマトに服従したのは3世紀か


山陰や北陸地方に見られる四隅突出型墳丘墓ですが、元々は中国山地広島県三次市)に小さなものが紀元前に生まれ日野川を下り、伯耆地方の妻木晩田遺跡の洞ノ原2号墓
を皮切りに伯耆地方に一気に伝わり1、2世紀頃から分布の中心が出雲に移り大型化されていった経緯があります。そして3世紀頃に出雲から四隅突出型墳丘墓は消え、そして前方後円墳が出現します。

 

出雲口伝では出雲王国滅亡後、四隅突出型墳丘墓は次第に造られなくなったということですので、4世紀の出雲の古墳にヤマトの鰭付円筒埴輪が見られることから、考古学的にみても3世紀に「国譲り」的な出来事(出雲口伝では第二次モノノベ東征)があり、ヤマトとつながりができたように思われます。

 

ちょうど卑弥呼の時代と重なっているところが興味深いです。

 

出雲振根(ふるね)の話

 

出雲口伝では出雲王国が滅亡したのは垂仁天皇の時であると伝えています。

 

ヤマト政権と出雲豪族との関係、およびヤマト側の支配強化の象徴的なエピソードとして、『古事記』にヤマトタケルのイズモタケル討伐話、『日本書紀』には崇神紀に出雲振根の話があります。

 

実は振根という人は出雲口伝によれば実在した人で、西出雲王家である神門臣家の人で第二次モノノベ東征時に奮戦するも戦死してしまった人のようです。

 

記紀の話を比べると元は同じ話を人物と展開を変えて造られていることがわかります。

 

古事記

  • 景行天皇紀 
  • 登場人物 ヤマトタケル イヅモタケル
  • 最初ヤマトタケルはイヅモタケルと友好を深めるが、密かに抜けない偽の刀を作る
  • 偽の刀を身に帯びてイヅモタケルと沐浴しイヅモタケルが置いていた刀と「取り換えよう」と交換
  • 交換後「刀合わせをしよう」と言って刀が抜けないイヅモタケルを打ち殺す
  • その時歌った歌
    やつめさす 出雲建(イヅモタケル)が佩ける刀 黒葛さは巻き さ身無しにあはれ(やつめさす いづもたけるが はけるたち つづらさはまき さみなしにあはれ)

 

日本書紀

  • 崇神天皇
  • 登場人物 出雲振根(ふるね)、弟の飯入根(いいいりね)、弟の甘美韓日狭(うましからひさ)、飯入根の子である鸕濡渟(うかづくぬ)
  • 振根は自分が留守の間に飯入根が勝手に神宝を朝廷に差し出したことを怒り弟を殺そうとする
  • 振根は偽の刀を作る
  • 振根は飯入根を水浴にさそう
  • 先に陸に上がった振根は飯入根の刀をさす
  • 飯入根は驚いて兄の刀を取るが抜くことはできず殺される
  • 甘美韓日狭、鸕濡渟は朝廷に詳しく報告
  • 朝廷は吉備津彦武渟川別を遣わして出雲振根を殺させる
  • 時の人がうたった歌
    ヤクモタツ イズモタケルガ ハケルタチ ツヅラサハマキ サミナシニ アハレ
  • その結果、出雲臣らは出雲大神を祭らぬ状態が続いた

 

日本書紀』は古事記の歌をそのままもってきたようで、振根の話ではないのにイズモタケルとなっています。(振根=出雲建ということか)そもそも吉備津彦は7代孝霊天皇の息子であるため10代崇神天皇に仕えるには無理があります。

 

元々出雲に刀をすり替え相手を討つ話があり、その話を元に出雲建や出雲振根の話が作られたのではないかとも言われているエピソードです。

 

この話は出雲のヤマトへの屈服を表していると思われますが、出雲がヤマトに組み込まれた時期について、記紀編纂時には崇神天皇のころか景行天皇の頃かはっきりしなかったのではないでしょうか。それくらい古い時代の話ということなのか、その辺りで王朝交替がおこっていて辻褄合わせがうまくいってないのか・・・

 

崇神天皇は「ハツクニシラススメラミコト」であるため、『日本書紀』は「イズモタケル」に関わる話を崇神紀にもってきたのではないかと思います。

 

出雲国造について

 

平安時代初期に書かれた『先代旧事本紀』の『国造本紀』では、崇神天皇の時にアメノホヒ11世の宇迦都久慈(うかづくぬ)が初代出雲国造となったとしています。この宇迦都久慈は出雲振根の話で出てきた鸕濡渟(うかづくぬ)ということになります。

 

現在の出雲国造出雲大社の祭祀を継承する家系)千家の伝承では『国造本紀』と異なり、允恭天皇元年(412年)ホヒ家17代の出雲宮向の時初めて出雲の姓を与えられ国造に任じられたとしています。

 

ホヒ家の系譜からみると11代が出雲振根で弟に飯入根と甘美韓日狭命がいて、飯入根の息子に11代ではなく、12代の宇迦都久怒(うかづくぬ)がいる家系図となっていますが、出雲振根を自分達の系図に取り込んだため12代となったのかどうなのか?(告げ口された人が殺され、告げ口した人がその地位に収まるという話は聞こえが悪かったのかもしれません)

 

ただエピソードからわかるのは、甘美韓日狭、鸕濡渟は朝廷側の人々であろうということです。

 

大化の改新律令制以前の国造は地方を支配する最有力豪族だったため、出雲王家の分家筋と思われるホヒ家がモノノベ政権樹立後(崇神景行天皇の頃)すぐに国造となることは考えにくいため、ホヒ家から国造が出たのは千家の伝承にあるように412年頃だったのではないでしょうか。

 

以上のことから考えて、崇神天皇景行天皇の頃の早い段階でイズモはヤマトに恭順したのではないかと考えます。

【崇神天皇が畏れた神の正体② 伊勢の神が天照大神になるまで まとめ】

出雲風土記』の特異性

 

風土記元明天皇が713年に編纂を命じた各地の地誌ですが、現存するもので完本は『出雲風土記』のみで、『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態で残っています。

 

この中で『出雲風土記』が他の風土記と明らかに異なっている点は、歴代天皇に関わる記述があまりにも少ないということです。

 

例えば風土記には「○○天皇御代の○○年にこのようなことがあった・・・」とか「○○天皇が××とおっしゃったからここは××という地名になった・・・」という記述が他の4つの風土記には数多く記述されています。例えば『播磨国風土記』であれば景行天皇天武天皇までの天皇の名前が出てきます。特に応神天皇に関してはその名が35回も出てきますし、『常陸国風土記』であれば、倭武天皇ヤマトタケル 天皇とは認められていませんが)という記述がよく出てきます。『豊後国風土記』や『肥前国風土記』では景行天皇がよく出てきます。

 

しかし『出雲国風土記』には天武天皇の時代にあったことが1カ所、欽明天皇の時代の話が2カ所、景行天皇の話が1カ所記載されているだけです。後は『古事記』における神武天皇以前に出てくる出雲神話の神々や言い伝えなのです。

 

ここからわかるのは、神話が醸成される土壌が古くから出雲にあり、長い期間同一の神話を持つ共同体が存在し、祖先の神格化や神々の系譜がすでにできていたということです。

 

縄文時代に島だった島根半島は三瓶山の度重なる噴火で本州と島の間が堆積物で埋まり陸続きになり、縄文時代後期以降は湾だった宍道湖一帯は徐々に平野化していきました。その経緯を八束水臣津野命(やつかみつおみつぬのみこと)の国引き神話として風土記に載せているということは長い間、出雲の地の歴史を共有する人々がそこに生きてきたことの表れだと思います。

 

7世紀に記紀を編纂するにあたって当時から見てもかなり古い弥生時代やそれ以前の頃の神話を持っていたのは神郡であった出雲や宗像、そして海のネットワークを持っていた海人族だったのではないでしょうか。しかも出雲口伝では宗像は出雲の分家であると伝えていますので、記紀で神々の時代の話を創作するにあたって、こういった古くからの言い伝えや神話を持つ人々が必要不可欠であったと思われます。

 

猿田彦大神は元々は出雲発祥の神

 

出雲口伝ではインドのドラビダ族出身のクナ族が日本にやってきてイズモ族となったと伝えています。ドラビダ語ではゾウの鼻のように突き出た物を「サルタ」と呼び、インドのゾウ神がサルタ彦大神に変化して崇拝されたということです。サルタ彦大神は「鼻高彦(はなたかひこ)」とも呼ばれたそうです。

 

出雲王国で信仰されていたのはサイノカミ(幸の神)と呼ばれる子孫繁栄の神で「縁結びと子宝の神」とも言われ、3人の家族神であったそうです。父がクナト王のクナト(久那斗)ノ大神で母がサイヒメ(幸姫)ノ命、息子がサルタ彦大神でこの三柱がサイノカミ三神と呼ばれたそうです。

 

現代ではサイノカミは塞の神といわれ、村の境等に祀られる外部からの疫病や悪霊を防ぐ神で道祖神、境界の神となっています。クナトノ大神は「岐の神(くなとのかみ)」として民間信仰の中に残っていますがやはり道の分岐点、峠、あるいは村境などで、外からの外敵や悪霊の侵入をふせぐ道祖神となっています。

 

サイヒメは三瓶山(佐比売山)の神としてその名が残っていると思われますし、男女一対の道祖神(サイノカミ)の女神として伝わっていると思われます。

また、出雲口伝では大神神社そばの狭井神社(さいじんじゃ)はサイヒメが元々祀られていたため狭井はサイヒメからきているとしています。

 

7世紀にはサルタ彦大神やクナトノ大神は道祖神の性格を与えられていたようです。『日本書紀』の国譲りのシーンで別の言い伝えでは大己貴神(おおあなむちのかみ 大国主)が国譲りを迫る経津主神(ふつぬしのかみ)と武甕槌神(たけみかつちのかみ)に対して岐の神(猿田彦神)を二神に勧めて、「これが私に代わってお仕え申し上げるでしょう。私は今ここから退去します」と言ったということが書かれています。ここではサルタ彦大神は完全に導きの神とされていて、しかも大国主に使われる立場?になっています。ただこの記述からサルタ彦大神は国つ神であり、出雲の神だと認識されていたことがわかります。

 

猿田彦大神を祀る佐太神社(さだじんじゃ)

 

出雲国二ノ宮として出雲風土記にも書かれている、古くから存在する佐太神社(さだじんじゃ)に祀られている佐太御子大神(さたみこのおおかみ)は猿田彦大神と同一神とされています。この神社は正殿を中心とした大社造が三殿並立する特異な形の造りです。

 

正中殿、北殿、南殿それぞれに神が祀られていますが、正中殿には佐太御子大神の他四柱、北殿には天照大神(あまてらすおおかみ)と瓊々杵尊(ににぎのみこと)、南殿には素盞嗚尊(すさのおのみこと)と秘説四柱(ひせつよはしら)が祀られています。

 

話は逸れますが、正中殿、北殿、南殿はそれぞれ神紋が異なっていて、正中殿は「扇の地紙」、北殿は「輪違」、南殿は六角形の「二重亀甲」となっています。出雲口伝的に言えば、「亀甲紋」ではなく「竜鱗紋(りゅうりんもん)」と呼ぶのが正しいということです。確かに出雲の主要な神社、熊野大社出雲大社美保神社佐太神社など「竜蛇神」を祀る神社の神紋はセグロウミヘビの鱗形であるので「竜鱗紋」と呼ぶのがふさわしいと思われます。

 

よってこの南殿には古い出雲の土地神が祀られていると思われ、秘説四柱がどのような神であるのか非常に興味深いところではあります。

 

また三殿並立の造りから元はサイノカミ三神が祀られていたのではないか?などと妄想は膨らみます。

 

話は戻りまして、この佐太御子大神の誕生について『出雲風土記』の「島根の郡」にこの神の誕生神話が載っていて、現在の「加賀の潜戸」と言われる所で生まれたことになっています。母親は「神魂(かみむすび)」の御子である枳佐加比売命(きさかひめのみこと)でこの神が子を産もうとするその時に弓矢が見つからなくなり「わたしの御子が、麻須羅神(ますらがみ (立派な男神の意味))の子でいらっしゃるならば、見えなくなった弓矢よ、出てこい」とお祈りされ、まず角の弓矢が水に乗って流れ出たのですが「これは、違う弓矢だ」と言って投げ捨てられ、次に流れてきた金の弓矢を取って「暗い岩屋だなあ」とおっしゃり矢で岸壁を射貫いたとあります。そしてその枳佐加比売命の社が鎮座している岩屋のあたりを通る時には、必ず大声を響かせて行かないと、ひっそり行ったりすると、神が出現して突風がおこり、航行する船は必ず転覆するという神話です。

 

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サルタ彦大神+佐太御子大神 → 猿田彦大神の誕生

 

出雲神話からみると、出雲口伝のサルタ彦大神と佐太御子大神は元は同一の神ではなかったと思われます。ですが、長い時間の流れとともにサルタ彦大神と佐太御子大神は名前も似ていますし、「御子」とあるように神の「子ども」であるという同じ属性を持つため二神は融合していったのではないかと思われます。

 

佐太御子大神はその生まれから海に関わる神であること、母親が風の神的な要素を持っていること、母親が洞窟を射通して光り輝かせたことで太陽神的側面を持っていることがあげられます。そして佐太御子大神の鼻は長くはありません。一方、サルタ彦大神は鼻は長く、サイノカミですので道祖神的側面があり、サイノカミは元々は縁結びの神、子宝の神のため和合の神、生殖の神といった側面があります。その二神の特徴を兼ね備えているのが猿田彦大神であるといえるのではないでしょうか。

 

古事記』での猿田彦大神邇邇芸命(ににぎのみこと)が天降る時「天から降る道の辻にいて、上は高天原を照らし、下は葦原中国を照らしている神がいた。」と書かれ、

日本書紀』では「一人の神が天の八街(道の分かれるところ)に居り、その鼻の長さ七握(ななつか)、背の高さ七尺あまり、正に七尋(ななひろ)というべきでしょう。また口の端が明るく光っています。目は八咫鏡のようで、光輝いていることは、赤酸漿(あかほおずき)に似ています。」とあります。そして、邇邇芸命にお供していた天宇受賣命(あめのうずめのみこと)は猿女君(さるめのきみ)となったこと。(猿田彦大神と夫婦になったような表現)からすると猿田彦大神は鼻は長く光輝く太陽神的存在でかつ導きの神、和合の神であると、記紀が書かれた時代にはそのような認識であったと思われます。

 

猿田彦大神を祀る伊勢の人々

 

度会(わたらい)氏は天日別命(あめのひわけのみこと)を祖とし、垂仁天皇のとき、大若子が越国の賊を討ってその地を神宮に寄せた功により、伊勢国造に任じられたそうです。初めは石部(磯部)氏と名乗っていたようですので古くは伊勢の海産物を捧げる海人集団の部民だったと思われます。

 

伊勢国風土記 逸文』では天日別命は神武東征の時に伊勢に赴きその地にいた伊勢津彦(いせつひこ)を追い出したことになっています。

 

天日別命は兵を発して伊勢津彦を殺そうとするのですが、伊勢津彦は争わず立ち去ることに決めます。その時「立ち去る時に何か証拠を残せ」と天日別命に言われた時に伊勢津彦は「大風を吹かせて高潮を起こし、波に乗って東国に立ち去ります。」と言い、実際に波が太陽のように光り輝き、海も陸も明るくなり神は波に乗って東国に立ち去ったと書かれています。そして天皇はこの話を聞いて喜んで良い国つ神がいたからその神の名を残し、この地を伊勢と名付けよと命令されたとあります。

 

この国譲りのシーンは結局平和的に行われたという設定が出雲の国譲りと似ていること、元の神の名前をそのまま地名として残しているところから考えると、天日別命は元々伊勢の地にいた豪族であり、中央勢力に味方した側なのだというように考えられると思います。

 

また別の説として、「伊勢という地名の由来は、伊賀の安志(あなし)の社に鎮座する出雲の神の御子神にあたる、出雲建子命(いずもたけこのみこと)またの名を伊勢都彦命(いせつひこのみこと)またの名を天櫛玉命(あめのくしたまのみこと)というが・・・・」とも書かれていて出雲と伊勢都彦(伊勢津彦)の繋がりをみることができます。

 

この話やその特徴から伊勢津彦猿田彦大神、またはその神を祀る人を指しているのではないかと思われます。

 

現在の出雲国造の祖神は天穂日命(あめのほひのみこと)であるように、度会氏の祖神は天押雲根命(あめのおしくもねのみこと)天牟羅雲命(あめのむらくものみこと)であるので、彼らは猿田彦大神を祀ってはいなかったかもしれません。ただ、伊勢では国つ神として広くこの伊勢津彦と呼ばれる神が祀られていたと思われます。

 

 

宇治土公氏→猿女君(さるめのきみ)→稗田阿礼(ひえだのあれ)

 

古くからお伊勢参り夫婦岩が見える立石浜で体と心を清めてから外宮、内宮を回るという順番であったそうで、その場所には二見興玉神社(ふたみおきたまじんじゃ)があり、猿田彦大神が祀られています。

 

その猿田彦大神伊勢神宮内宮がある伊勢市宇治の地で祀るのが宇治土公(うじとこ)家で代々猿田彦神社宮司を務めていらっしゃいます。

 

宇治土公氏の祖神は太田命(おおたのみこと)という土地神ということで、古くから宇治の地に住む豪族であったと思われます。

 

アマテラスの誕生』(筑紫申真 著)で筑紫氏は猿女君は宇治土公氏に繋がるとしています。天皇の鎮魂祭を行ったのが猿女君で祭祀を司るために伊勢から一部がヤマトに移り住んだという説です。この猿女君から奈良県大和郡山市稗田町に移り住んだ稗田氏が出て古事記語り部である稗田阿礼に繋がるようです。

 

出雲口伝では奈良の鴨都波神社の西方の猿目(さるめ)にヤマトに進出した出雲東王家の登美家の分家が住み、その家系がサルタ彦を祭り、その家の娘がサルタ彦を祀る司祭となったので猿女家と呼ばれたとしています。(紀元前2世紀頃?)その後葛城の猿目から三輪山の南方へ猿女氏は移住し、そこで行われていた出雲系の太陽の女神祭祀で神楽を行ったとしています。

 

私は出雲口伝で言うところの、九州からの「第二次モノノベ東征」(垂仁天皇の頃)で出雲系の人々の一部がヤマトから伊勢・志摩に逃げ(3世紀前半)、その中に猿女氏がいて、宇治土公氏に繋がっていったのではないかと思っています。

 

垂仁天皇(すいにんてんのう)の皇女である倭姫(やまとひめ)が宮中から出された天照大神を祀る場所を探し求める話が『日本書紀』にはありますが、その箇所を記紀と出雲口伝で比較してみます。

 

日本書紀

  • 倭姫は垂仁天皇の皇女
  • 天照大神の祭祀場所を求めて宇陀から近江・美濃を経て伊勢に入る
  • 神託により斎宮(いつきのみや)を五十鈴川のほとりに立てた。これを磯宮(いそのみや)という

古事記

  • ヤマトヒメノ命は垂仁天皇の皇女
  • ヤマトヒメノ命は斎王(いつきのみこ)として伊勢大神宮をお祭りになった

 

【出雲口伝】

  • 垂仁天皇の時に「第二次モノノベ東征」が行われた
  • ヤマト姫は垂仁天皇の皇女ではなく出雲系の三輪山で太陽の女神を祀っていた姫巫女
  • 混乱の中、ヤマト姫は丹後国真名井神社に避難(現在の元伊勢 籠神社奥宮)
  • その後志摩国の答志(とうし)郡伊雑(いざわ)に移住
  • 伊沢富ノ命が伊雑宮を建てて協力(現在の別宮 伊雑宮
  • 伊勢国に移ったヤマト姫は五十鈴宮を建てて、三輪山山麓で祀っていた太陽の女神を祀る(祠のようなものであったか?)
  • ヤマト姫は出雲向王家の血筋であったため向津姫と呼ばれることもあった
  • 伊雑宮で最初に祀っていたのは三輪山の太陽の女神であった(いつしか神をその地に移した姫(玉柱屋姫=瀬織津姫=向津姫?)が伊雑宮の神になった?)

 

古事記』が完成した頃にはまだ天照大神の設定がはっきりせずヤマト姫の神話は伝わっていたのかもしれませんが、後から垂仁天皇の記述に付け加えたような感じがします。実に素っ気ない記述です。『日本書紀』の記述は天照大神が7世紀に持統天皇用に創られた神とすると明らかに出雲口伝の話を元にしてつくられたように思われます。

 

この出雲系の人々の神話を宮中に持ち込んだのは当時鎮魂祭などの祭祀を担当していた猿女君であったことは想像できます。

 

筑紫氏は『アマテラスの誕生』の中で志摩の伊雑宮のカミをその土地でまつっていた土豪は、はじめ国造である度会氏つきしたがっていたのに、天武・持統朝に新興の宇治土公氏にしたがうようになったとしています。

 

そして度会氏より宇治土公氏の勢力が強くなったため、宮川すじの度会氏の居住地ではなく、宇治土公氏の居住地である宇治に皇大神宮の誘致が決まったとしています。しかし中央政府は文武二年の皇大神宮設立時には、宇治に誘致した宇治土公氏ではなく、新興勢力の荒木田氏に最高の神主たる禰宜の地位を与えました。宇治土公氏は第二位の神主の地位である大内人(おおうちんど)という地位を与えられました。国造だった度会氏には外宮を設立し食事のカミたる豊受大神を祀らせて、その禰宜の地位を与えたということです。

 

これは中央集権化を目指す朝廷の政策で、伝統的な地方勢力を分断させ、弱体化させるためだったそうです。

 

 

まとめ

 

ここまで天照大神について考察してきましたが、私の考える天照大神の誕生について次のようにまとめてみました。

 

  • 7世紀、東アジア情勢の変化から律令体制を整え、国史をまとめる必要があった
  • 天武天皇の頃から各地方、豪族の伝承を集め参考にしながら皇室の神話が整備され始める
  • そこで採用されたのは当時すでに古い歴史を持っていた出雲や宗像や海人族の神話であった
  • 古代(垂仁天皇の頃?)、ヤマトの猿目から三輪山山麓に移住し太陽の女神を祀っていたであろう出雲族の猿女氏の末裔が伊勢に移住、志摩や度会の宇治の辺りにはその頃から出雲系の人々が住んでいた
  • 伊勢の地では太陽の神として出雲系の伊勢大神伊勢津彦猿田彦大神?)や海部氏の天照国照彦火明命、志摩では垂仁天皇の頃、ヤマトの三輪山から逃れて来たとされる出雲系の太陽の女神が祀られていた
  • 天皇家も6世紀頃には日祀部(ひまつりべ)をおき、太陽神を祀っていた
  • 壬申の乱の時、伊勢で大海皇子(天武天皇)は天照大神に祈りを捧げたとされるが、このときはまだ天照大神は存在しておらず祈りを捧げたのは伊勢大神だと思われる
  • 伊勢の国造、海部は大海皇子の勝利に尽力したと思われる
  • 壬申の乱に勝った天武天皇は見返りに、娘の大来皇女(おおくのひめみこ)を初代斎王とし伊勢へ下向させる。しかしこの時点では天照大神の斎王ではなく伊勢大神を祀るためだったと思われる
  • 天武天皇の死により皇后の鸕野讚良(うののさらら)皇女は自分の息子の草壁皇子天皇にしようとするが草壁皇子が亡くなったことにより孫の軽皇子(後の文武天皇)を即位させるべく自分が持統天皇となる
  • 持統天皇を正当化するための神話、女神が必要となるが、宮廷の祭りを担っていた猿女君の助言で志摩の伊雑宮で祀られていた太陽の女神(玉柱屋姫=瀬織津姫=向津姫?)の話を採用し天照大神を創出
  • 天照大神持統天皇をモデルにしてつくられたため、自分の孫を地上に降臨させる設定となる
  • 鎌倉時代中期に編纂された「倭姫命世記」(やまとひめのみことせいき)には倭姫は「大河の瀧原の国」で新宮を建てたという記述が見えることから、瀧原にヤマト姫が訪れた伝承も当時あったと思われる
  • よってプレ皇大神宮を瀧原に造る
  • 志摩の豪族達は度会氏ではなく宇治土公氏に従うようになり、天武・持統朝では宮中祭祀を担っていた猿女君を出した宇治土公氏の勢力が強くなる
  • 宇治土公氏の働きかけもあったのか?文武二年に瀧原から宇治土公氏の居住地である五十鈴川のほとりに皇大神宮が移される
  • 天照大神は出雲系の神話を土台にしてつくられているので、天照大神は実は男であるとか蛇であるとか、三輪の神と同じであるなどと口伝や神話が混ざり合って色々な解釈が後に出てくることになった

以上、天照大神の考察について長々とお付き合いいただきありがとうございました。

 

 

【崇神天皇が畏れた神の正体② 伊勢の神が天照大神になるまで】

古事記』の成立まで

 

「日本」、「天皇」の称号が成立したのは天武、持統朝頃といわれていて、ここから国をまとめる律令体制が進んでいくのですが、同時に東アジア情勢の変化から国史をまとめる必要があり、673年天武天皇の号令により正しい歴史の編纂が始まりました。

 

ここで『古事記』の成立過程を『伊勢神宮出雲大社』(新谷尚紀 著)からまとめますと、

 

  1. 天武天皇は諸家の持っている「帝記」と「本辞」は虚偽が多いのでよく調べて改め明らかにするとし、稗田阿礼(ひえだのあれ)に勅語して「帝皇日継」と「先代旧辞」を誦習(しょうしゅう)させた。
  2. 天武天皇死後、1.はそのままになっていたが、太安万侶(おおのやすまろ)は元明天皇に命じられ『古事記』を編纂することになる。そこで基になったのは稗田阿礼が誦習していた「帝皇日継」と「先代旧辞」である。(つまり天武天皇稗田阿礼に覚えさせていたもの)
  3. よって712年、太安万侶はわずか4カ月と10日程度の短期間で撰録を終えた。
  4. 古事記』の記事は推古朝(593~628)までとなっているが、その記事には後の天武朝を中心とする、さらには元明、元正朝における最終的な加筆や修正が行われている可能性が大である。

 

 

 

この成立過程からわかるのは、後に『日本書紀』に合わせるため、加筆修正が行われたとしても、7世紀頃までに伝承されていた諸家が持つ古い歴史、モチーフが『古事記』にはちりばめられているということです。

 

前回のブログにも載せている神郡(しんぐん)や『古事記』の記述からみると、神郡の中で一番古い勢力は宗像郡と意宇郡であり、次が名草郡、そして度会郡多気郡になるのではないかと思われます。これらは当時、朝廷が無視することのできなかった同じ神を祀る勢力であったと考えられます。

神郡 - Wikipedia より

 

出雲口伝による紀元前3世紀~4世紀頃までの出雲系と海部(尾張)系の移動についてまとめてみました。

 



 

 

記紀がつくられたのが8世紀であるならば、大国主(八千矛)の時代B.C.3世紀はそこから900年以上前の話となりますので、記紀編纂時から見ても遠い昔の話です。

 

以降、出雲と他の神郡との関わりをみていきたいと思います。

 

宗像郡と出雲

 

先日、世界遺産にもなっている宗像大社 辺津宮を訪れました。境内には「神宝館」があります。ここは神職以外立ち入り禁止の沖ノ島の古代祭祀の遺跡から出土した8万点の国宝と重要文化財が収蔵展示されていてたいへん見ごたえのある宝物館です。

 

多くの国宝の銅鏡が展示されていましたが、4世紀の「三角縁三神三獣鏡」にしっかりと三人の女神が表現されていたのには感動しました。

 

4世紀には既に三女神信仰はしっかりとその地に根付いていたわけです。

 

拡大したもの

 

出雲口伝によれば、宗像家は元々は第6代出雲国王 八束水臣津野(やつかみずおみづぬ 西王家出身)の息子である吾田片隅(あたかたす)が北九州で興したことになっていて、実際、平安時代に作られた『新撰姓氏録』(しんせんしょうじろく)には宗形(宗像)君は、大国主命六世孫吾田片隅の子孫である」と書かれているそうです。

 

出雲口伝では7代目の王である天之冬衣(あめのふゆぎぬ 東王家出身)の后が宗像家の長女の田心姫(たごりひめ)であり、8代目の王でのちに大国主と呼ばれる八千矛(ヤチホコ 西王家出身)に嫁いだのが宗像家の次女である湍津姫(たぎつひめ)ということになっています。

 

古事記』には大国主多紀理毘売命日本書紀の田心姫(たごりひめ)と同じ)との間に産まれたのが阿遅鉏高日子根(あじすきたかひこね)、下光比売(したてるひめ)と書かれ、『先代旧事本紀』(せんだいくじほんぎ)では湍津姫は大己貴神に嫁ぎ、八重事代主神高照光姫命を生んだと記されているので出雲口伝と異なってはいますが、出雲国王と宗像三女神の長女と次女は出雲国王と結婚したことは一致しています。

 

一般に宗像氏は日本海朝鮮半島海上交通に活躍した海人族と思われていますが、元は出雲国から出た人々であると平安時代の書物にそのように書かれていることからすると当時は出雲と宗像は元は一つであるという認識だったことがわかります。

 

名草郡と出雲

 

名草といえば神武東征で戦って殺された、女首長の名草戸畔(なぐさとべ)が有名ですが、『先代旧辞本紀』によると名草戸畔(名草姫)は殺された訳ではなく、紀伊国造家出身の女性で、後に尾張家の建斗米(たけとめ)に輿入れしていることが書かれています。

 

その紀伊国造の祖は五十猛命(=天香語山命)と出雲の大屋姫との間に生まれた高倉下(たかくらじ)であると出雲口伝では伝えています。海部氏の『勘注系図』でも天香語山命の息子は天村雲命と弟の熊野高倉下であると書かれています。

 

実際に紀の川流域の神社を見ますと、出雲系と尾張系の色が強く出ていて、この地に彼らの子孫が住んでいたであろうことがよくわかります。

 

赤が大国主を祀る神社、緑が名草姫を祀る神社です。オレンジ色は猿田彦が祀られているところです。紀伊国一之宮は三社あり、伊太祁曽神社(いたきそじんじゃ)の祭神は五十猛命日前宮日前神宮國懸神宮)は日前大神(ひのくまのおおかみ)、竈山神社(かまやまじんじゃ)は「神武東征」で足に矢を受けて亡くなったとされる五瀬命(いつせのみこと)の墓がありますが、配祀神の中に「神武東征」を助けた高倉下命の名があります。(余談ですが、志摩神社の主祭神宗像三女神の三女市杵島姫命境内社猿田彦が祀られています。このあたりも出雲口伝を知っていると非常におもしろいところではあります。)

 

土着日神のすり替え

 

名草神郡の日前神宮で祀られていたのは日前大神(ひのくまおおかみ)とされていますが、この神は『日本書紀』に出てくる神です。天照大神が天の岩戸に隠れた後、石凝姥命(いしこりどめのみこと)が鏡を鋳造するのですが最初に鋳造したのがいまひとつであって2回目に鋳造した鏡が伊勢神宮の八咫の鏡になったという話です。最初に鋳造された鏡(日像鏡(ひがたのかがみ))が日前大神という設定なのです。それゆえ準皇祖神の扱いを受けていたようです。

 

この鏡の鋳造にあたっては天の香山(あまのかぐやま)の銅を用いたと書かれていて、尾張氏との関係を連想させます。

 

実は伊太祁曽神社の元々の位置は今の日前宮の場所であったということです。元々は日前宮の場所では尾張氏の祖神、太陽神的側面を持つ天火明命(あめのほあかりのみこと 別名:天照国照彦火明命)が祭られていたのではないかと私は思うのです。

 

天照大神のために鏡は鋳造された訳ではなく、元々ご神体としての尾張氏の鏡は存在していて、尾張氏氏神をここで祀っていたと考える方が自然ではないでしょうか。そうでなければこの地が神郡となるまでの力を持つとは考えにくいのです。

 

垂仁天皇の頃、伊太祁曽神社日前宮の場所から現在の場所に移されたとしていますが、私は記紀編纂後、律令体制の中で尾張氏氏神天火明命の息子の五十猛命と名前を変えて今の位置に祀られることになったのではないかと思っています。律令体制が進むにつれてこのように地方の豪族の力は削がれていったと思われます。

 

この地に伊勢と同じような日神のすり替えを私は感じるのです。

 

天武天皇が拝した神は皇祖神ではない

 

大海人皇子天武天皇)は壬申の乱で吉野から伊賀、伊勢の鈴鹿山道、桑名を経由し、美濃の野上に至るのですが、途中伊勢の朝明郡(あさけのこおり)の迹太川(とおかわ)のほとりで天照大神を望拝(遠くから伏し拝む)したと『日本書紀』にあります。

 

この望拝の前夜は激しい雷雨で皆が雨に打たれ大変な状況であったのですが、次の日に望拝したことはそっけなく書かれており、伊賀の横河で黒雲が天をよぎっていた時には大海人皇子が自ら筮竹(ぜいちく)で占いをし、その時に語った言葉まで書かれているのに、皇祖神であるはずの天照大神を拝んだ時の言葉や状況は全く書かれていないのです。

 

このことからみて、この時点では皇祖神としての天照大神は存在しておらず、土着の伊勢大神(太陽神)に対して大海人皇子は望拝したのだろうと推察されます。あるいは、この天照大神を望拝したという記述自体、後から付け足された部分かもしれません。

 

後に壬申の乱勝利後、天武天皇は娘の大来皇女(おおくのひめみこ)を674年、初代斎王として伊勢に送り込むのですが、これは自分に見方した伊勢大神(伊勢の豪族)への感謝、敬意を示すものだったのではないでしょうか。平安時代初期に平城上皇と対立していた嵯峨天皇薬子の変で賀茂大神に対し、我が方に利あらば皇女を捧げると祈願をかけ、勝利した後に娘の有智子内親王を斎王としたのが賀茂斎院の始まりであったことと同じ考え方です。クーデターを成功させた天武天皇の基盤はまだ盤石なものではなかったはずです。

 

翌675年、天武天皇は娘の十市皇女(といちのひめみこ)と阿閉皇女(あへのひめみこ)を伊勢に参拝させています。

 

686年、天武天皇病気平癒の祈願のため多紀皇女(たきのひめみこ)、山背姫王(やましろのおおきみ)、石川夫人(いしかわのおおとじ)を伊勢に参拝させています。

 

天武天皇崩御の後、謀反の疑いをかけられ686年10月に大津皇子(おおつのみこ)が自害し、持統天皇が即位します。大津皇子の姉であった斎宮大来皇女は11月に帰京し、その後皇女が斎宮として派遣されていません。

 

日本書紀』に692年、伊勢大神天皇伊勢国の今年のみつぎものを免除するようお願いし、願いを聞いてもらえれば度会・多気の二つの神郡で生産される赤引の糸を35斤納めることを奏上したとする記述があります。

 

この時点でもまだ伊勢には皇祖神としての天照大神はいなかったことがはっきりしています。

 

しかし持統天皇の時代から孫の文武天皇までの間に、天照大神を皇祖神とする神話が形作られていくとともに、伊勢神宮の整備は着々と進められていったと思われます。

 

天武天皇崩御から文武天皇即位までは血なまぐさい事件がありました。そこには何としても自分の孫を天皇にしたい持統天皇の執念とそこにくみした藤原不比等の思惑を感じざるを得ません。『日本書紀』において天照大神が女性であること、地上を統治するため、天照大神の息子である天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)ではなく孫にあたる瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が高千穂に降り立ったという設定は持統天皇の神格化のためまさにこの頃創り出された話であると思います。

 

 

志摩の神話の採用

 

前回の考察、崇神天皇が畏れた神の正体② 伊勢の地に出雲の神をみる】で述べましたが、私は伊勢、志摩の地では尾張系の祖神(天照国照彦火明命)、出雲系の三輪山麓で祀られていた日神(女神と思われる)、出雲のクナト三神の一神である猿田彦などが太陽神として祀られていたのではないかと思っています。

 

朝廷に海産物を届ける御食国(みけつくに)若狭、志摩、淡路の海人は古くから朝廷に出入りし、その人々の神話が天皇家に喜ばれたようです。淡路の土着神が採用されイザナギイザナミになった経緯もみてきました。(以前のブログ【イザナギイザナミ考】をご覧ください)

 

持統天皇を神格化するために、女神である太陽神が必要であり、そうなると志摩の海人の神である現在の伊雑宮で祀られていた女神(玉柱屋姫神天照大神瀬織津姫天照大神)が都合がよかったのだと思います。

 

そして瀬織津姫は水神でもあるため、まずは多気大神宮というプレ伊勢神宮の前身を元々土着の水神を祀っていたであろう現在の滝原宮の地に誕生させ、文武2年(698年)「多気大神宮を度会郡に遷す」という『続日本紀』(797年)の記述からこの年に皇祖神天照大神は現在の地で祀られるようになったのではないでしょうか。

 

次のブログでは内宮が宇治の地に建てられた理由について考察したいと思います。

 

【崇神天皇が畏れた神の正体② 伊勢の地に出雲の神をみる】

天照大神はどのように伊勢の地に結びついていったのでしょうか。そのことを考え得る上で元々伊勢ではどのような神が祀られていたのかをみていきたいと思います。

 

律令制以前には征服した土地に国造や県主を置き、大和朝廷は支配していたわけですが、大化の改新律令制度が取り入れられてからは、特に有名な神を祀る国は神郡(しんぐん)として郡司には特例でいままでの豪族の家すじの人を任命していました。これらのカミをまつる国造はその地の神の司祭者でした。

 

その地の有力豪族=司祭者で祭政一致の政治をしていた集団を存続させながら中央の政治は行われていました。一郡全体が特定の神社の所領・神域となっていたわけで、神社を中心とする独立国のようなものだったと言えます。

 

神郡 - Wikipedia より

 

(話はそれますが、現在の出雲大社がある地ではなく、出雲東王家につながる熊野大社があった意宇郡(おうぐん)が神郡として認められていたことは重要ポイントです)

 

伊勢の地には多気郡と度会郡という神郡がみえます。多気郡は明和町伊勢神宮天照大神に仕える斎王の住まう所があったので神郡とされたのでしょう。では皇大神宮が誕生した度会郡についてみていきたいと思います。

 

 

度会(わたらい)氏、宇治土公(うじとこ)氏について

 

度会氏は明治初期まで伊勢神宮外宮の神職にあった家系、宇治土公氏は猿田彦神社宮司家の家系です。

 

この二氏は律令制以前から伊勢(度会郡)に住む豪族であり、それぞれの神を祀る人々でありました。

 

律令制以前には宮川下流域は度会県(わたらいのあがた)と呼ばれ、度会氏はその名の通り県造(あがたのみやつこ)でした。そして国造でもありました。度会氏は南伊勢から志摩半島一帯に住んでいる漁民達(磯部いそべ、伊勢部、石部)を大和朝廷から命ぜられて管理していたということです。

 

度会氏の祖先である天日別命(あめのひわけのみこと)は神武東征に伴って紀伊国熊野村から菟田下県に至りその後ヤマトには入らず伊勢に進んだとされています。興味深いことに、度会氏の遠祖は天牟羅雲命(あめのむらくものみこと)としています。このことを出雲口伝からみると、天村雲命(出雲口伝では初代ヤマト王)、海部氏、尾張氏という流れがみえてきます。

 

律令制以前には志摩国(しまのくに)もありました。島津国造(しまづこくぞう)の国でした。島津国造は出雲国造の同祖である佐比邇足尼の孫の出雲笠夜命でした。

 

伊勢国は海部、尾張系が、志摩国は出雲系が住んでいたようです。

 

彼らが住み始めたのはいつ頃だったのかを考えると、記紀からみるに神武東征(出雲口伝でいうところのモノノベ東征)の頃(垂仁天皇の頃)だったのではないでしょうか。

 

ヤマトに入り込んだ九州勢に圧迫された尾張系、出雲系が三輪山の西から伊勢の地に移っていったとも考えられますし、度会氏に関しては、九州勢に味方した尾張氏であった可能性もあります。度会には水銀(朱)の採れる丹生鉱山(にうこうざん)があります。以前のブログ、【徐福はなぜ佐賀の地を目指したのか】でも述べましたが、人々がヤマトを目指した一因に朱を獲得する目的があったと私は思うからです。

 

それでは彼らの信奉する神はどのような神であったのでしょうか。

 

海部氏ということで現在も祀る豊受大神であったと思われますし、度会氏を尾張系とすると伊勢の大神はヤマトで尾張氏がヤマトで祀っていた日神と思われる天照国照彦火明命(あまてるくにてるほあかりのみこと)であったかもしれません。男神であり、「天照」が付くことから日神の要素を持っていたと思われます。

 

しかし、現在外宮で祀られているのは大土乃御祖神(おおつちのみおやのかみ)と風雨を司る級長津彦命(しなつひこのみこと)、級長戸辺命(しなとべのみこと)であるため、はっきりしません。

 

志摩国はどうだったのでしょうか。

 

志摩国一宮は伊雑宮(いざわのみや)です。

 

伊雑宮(いざわのみや 磯部の宮ともいわれた)で祀られていた神をみてみると、明治以降は天照大神ですがそれ以前は磯部氏の祖先とされる伊佐波登美命(いざわとみのみこと)と玉柱命(または玉柱屋姫命)でした。しかも伊雑宮御師である西岡家に伝わる文書では玉柱屋姫命は玉柱屋姫神天照大神瀬織津姫天照大神らしいのです。

 

出雲口伝では太陽の女神を三輪山で祭祀していた出雲系のヤマト姫(倭姫(やまとひめ)は垂仁天皇の皇女ではないとしている)が丹後の真名井神社(籠神社の奥宮 祭神 豊受大神)に避難し、その後彼女は志摩国の伊雑(いざわ)に移住。そして伊沢富ノ命(いざわとみのみこと)が伊雑宮を建てた後、ヤマト姫は伊勢国に移り五十鈴宮を建てたとしています。ヤマト姫は出雲の向王家の血筋であるため、向津姫とよばれることもあったと伝えています。

 

出雲口伝からみるとヤマト姫は玉柱屋姫命であり、彼女を助けたのが伊佐波登美命(出雲口伝では伊沢富ノ命)ということにならないでしょうか。しかも「登美」という東出雲王家の呼び名が入っています。

 

志摩国は後に伊勢国(度会氏)の隷属下にあったようです。

 

度会氏は県主でしたから服従のちかいに魚介を天皇に届け、彼らの神話を中央に捧げました。このことばや歌は天語(あまがたり)と呼ばれ、天語歌は伊勢の海人語部(あまがたりべ)が伝えたものとされます。

 

宇治土公氏は出雲系?

 

伊勢国の内部をみますと、度会氏の支配する国の中に五十鈴川すじの楠部村に住む宇治土公氏という集落の首長がいました。彼らも太陽神を祀っていました。宇治土公氏の始祖は猿田彦大神です。猿田彦大神は導きの神であると同時に『古事記』の記述からみても太陽神としての側面を持っていたと思われます。彼らの女性司祭を猿女君(さるめのきみ)と呼んでいたそうですび、猿女君は海人語部(あまかたりべ)が朝廷に出向く縁故によってヤマトの宮廷のカミまつりの役目を果たしていたようです。

 

サルタヒコは出雲口伝では出雲族が祀るサイノカミ三神の一神であり、「サルタ」は猿ではなく、ドラビダ語で「ゾウの鼻のように突き出た物」の意味です。サルタヒコは別名で「鼻高彦」とも言われ、「道の神」「岐の神」であり、サルタヒコの大きくおそろしい人形がワラで作られ峠道や橋に飾られたといいます。宇佐家伝承(『古伝が語る古代史』(宇佐公康 著))ではイズモ族を「シベリア方面より日本列島に移動漂着したサルタ族」と表現しているそうです。

 

出雲口伝では猿女氏(猿の字は当て字)は出雲王家の分家で、初期ヤマト王朝の頃、出雲から葛城の猿目(現在猿目橋のある所)に進出しその後三輪山の南に移住し三輪山の太陽女神の神楽をおこなったとしています。

 

出雲口伝からみると、宇治土公氏は出雲系の人々だったのではないかと思われます。近くの志摩国の国造は出雲系であったことからも可能性は高いように思います。そうすると、彼らにとっては志摩国に来たヤマト姫の話は身近な話であり、猿女君が宮中でヤマト姫が向津姫であり太陽の女神であったというような話を宮中でしていたのかもしれません。

 

瀧原宮(たきはらのみや)について

 

度会郡にはもう一つ天照大神の「別宮」とされる瀧原宮があります。ここは倭姫が五十鈴川に宮を建てる前に祀っていた場所であるとされていますが、天照大神が過去に祀られていた場所は「元伊勢」と呼ばれますがここだけ「別宮」となっている所です。

 

瀧原宮には対となる別宮の瀧原竝宮(たきはらならびのみや)があり、並立されています。現在どちらも天照大神瀧原竝宮天照大神の荒魂と言われています。

 

続日本紀』に文武天皇二年(698年)に「多気大神宮を度会郡に移す」という記述があります。この698年に皇大神宮五十鈴川の地に誕生したのですが、この多気大神宮がどこであったのかは諸説あるようです。

 

多気大神宮は瀧原宮である説を取ると、元々瀧原宮で祀られていた神はどのような神だったのでしょうか。(度会郡にある瀧原宮多気大神宮と考える説については『アマテラスの誕生』(筑紫申真 著)に書かれています)

 

鎌倉中期に編纂された『倭姫命世記』(やまとひめのみことせいき)には瀧原宮では速秋津日子神(はやあきつひこのかみ)を瀧原竝宮では速秋津比売神(はやあきつひめのかみ)を祀っていたとします。二神は記紀にも登場する神で水戸神(みなとのかみ)です。

 

この地は瀧、川の多い所ですので、元々は水に関わる神を祀っていたと思われます。

 

速秋津比売神といえば大祓詞(おおはらえのことば)で瀬織津姫のつぎに出てくる神です。「速󠄁川はやかはおり津比賣つひめかみ 大海原おほうなばらでなむ なば 荒󠄄潮󠄀あらしほ潮󠄀しほ八百道󠄁やほぢ潮󠄀道󠄁しほぢ潮󠄀しほ八百やほあひ速󠄁開はやあき都比賣つひめかみ 加加呑かかのみてむ 加加呑かかのみてば・・・」急流の川瀬にいる瀬織津姫が祓った罪は大海原に流し去られ、速秋津比売神がのみこんでくれるという内容です。

 

大祓詞からすると、瀧原宮にいるのは瀬織津姫がふさわしいと思われます。この宮にいたのは瀬織津姫ではなかったのでしょうか。瀬織津姫伊雑宮伝承では瀬織津姫=玉柱屋姫でありまた、一般的に瀬織津姫=向津姫とみなされる説もあるということからみると、ヤマト姫の伝承の流れをこの瀧原宮にみることができます。

 

瀬織津姫伊雑宮伝承では瀬織津姫天照大神としているため、祓い清めの神と同時に日神の要素を持っていた(あるいは天照大神と同一神)と考えられていたようです。そして伊勢の地では出雲族が持ち込んだであろう太陽神信仰があったことがわかります。瀬織津姫という名前も速秋津比売神という名前も記紀作成時に付けられた名前かもしれませんが、猿田彦大神を祀ったり、「天照」という字を瀬織津姫につけていることからこの地で日神を祀っていたことは間違いないと思われます。

 

次はこれら土着の神と天皇家天照大神がどのように結びついていったのかを考察したいと思います。

 

 

【崇神天皇が畏れた神の正体② なぜ皇祖神を太陽神としたのか】

前回のブログで天照大神が政治的に誕生したことについて見てきましたが、それではなぜ皇祖神を太陽神としたのかについて考えていこうと思います。

 

大王家(ヤマト王権)が自らの祖神を太陽神としたのはいつからだったのでしょうか。

 

『アマテラスの誕生』(筑紫申真 著)で今谷文雄氏の論文から、敏達天皇六年(577年)に日祀部(ひまつりべ)を置いたとあることから(『日本書紀』)、その頃には太陽そのものを礼拝していた、しかし必ずしも「皇祖神としての 天照大神」を祀ったことを意味しないという説を取り上げています。この日祀部は他田(おさだ)という三輪山大神神社(おおみわじんじゃ)の近くですので、三輪山の神が日神の要素を持っていたのかということになりますが、記紀を見る限り三輪山の神にそのような要素は感じられません。

 

しかし出雲口伝からみると、あきらかに三輪山の神は太陽神としての側面を持っているのです。

 

出雲口伝によれば、三輪山周辺は出雲勢力と海部勢力が協力してつくりあげた政治的共同体(初期ヤマト政権)が存在した場所です。三輪山の初代祭主はタタラ五十鈴姫(たたらいすずひめ)であり、彼女が住んだ三輪山の西麓の地で彼女は太陽の女神を拝む儀式をおこなったとしています。

 

元々イズモ族はインドから太陽信仰を持ち込んでおり、特に朝日を拝む習慣がありました。そしてなぜ女神と考えたかというと、彼らの神名備山(かむなびやま)信仰(祖霊はきれいな三角錐形の山に隠っている、妊娠した女性の腹を連想する山は女神山)からきています。ヤマト地方では、朝の太陽は三輪山から昇ってくる。その山は女神山であったので、太陽神も女神であると考えられ、三輪山の神は太陽の女神と考えられたそうです。その後イズモ族の祖先神(サイノカミ三神)と、竜蛇神も祀ったため、大神神社の三つ鳥居や三輪山の神が蛇体ということになったそうです。三輪山にはサイノカミの一神である幸姫命(さいひめのみこと)が祀られたので山から流れ出る小川は「狭井川」であり、タタラ五十鈴姫の住んだところに狭井神社(さいじんじゃ)がありタタラ五十鈴姫が祀られているとしています。(『出雲王国と天皇』斎木雲州 著)

 

このタタラ五十鈴姫は『日本書紀』では媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)であり、初代、神武天皇の皇后であるとされている人です。『先代旧事本紀』によれば、彼女の兄は鴨王(かものおおきみ)である天日方奇日方命(あまのひがたくしひがた の みこと 天の奇しき力を持つ日(太陽)を祀る人)で、「日」が二つも入る人物、そしてタタラは「火」につながるため、この兄妹が太陽信仰に関係があったことを感じさせます。

 

彼らは古代の共同体における「ヒメヒコ制(姫彦制)」、宗教的権威(女性)と政治的・軍事的権威(男性)という男女首長の共同で三輪山周辺を統治していたと思われます。

 

その後、ヤマト内では政権が不安定となり数百年が過ぎるのですが、崇神天皇の時に太田田根子(おおたたねこ)に大物主を祀らせたことにより、三輪山の祭主は大田家となります。出雲口伝では実際の司祭は大田家の娘であったとしています。

 

そしてこの天皇の時、豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)にまかせ、祀っていた天照大神天皇の御殿から笠縫邑(かさぬいのむら)に出したと『日本書紀』では伝えています。

 

この笠縫邑は現在の檜原神社(ひばらじんじゃ)の辺りと言われています。この神社は「元伊勢」と伝えられています。

 

この近くに他田坐天照御魂神社(おさだにますあまてるみたまじんじゃ)があり、この場所は敏達天皇が日祀部(ひまつりべ)を置いたところになるのですが、この神社の祭神は元々は海部氏祖神の天火明命(あめのほあかりのみこと)と言われています。そこからさほど遠くない場所に鏡作坐天照御魂神社(かがみつくりにますあまてるみたまじんじゃ)があり祭神は天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)ですので、外に出された太陽神の天照(アマテル)は天火明命であったのかもしれません。自分達の直接の祖先ではないわけですから外に出すのもわかります。

 

このように古代では、村ごと、氏ごとに様々なかたちで太陽の神(アマテル)が祀られていたのだろうと思います。

 

 

そうすると、イズモ族の太陽神は女神で海部氏の太陽神は男神です。よってヤマト内では太陽神に関する二つの考え方が存在していたのではないでしょうか。

 

謡曲「三輪」の一節「思えば伊勢と三輪の神、一体分身の御事」や、女装の三輪の神は実は伊勢の天照大神であるという能の『三輪』の話、祇園祭の山車に飾られる人形や、高野山曼荼羅天照大神の絵はひげのある男性の姿であること。

 

『アマテラスの誕生』の中に、鎌倉時代の通海(つうかい)とう高僧が伊勢神宮に参詣した時、「神宮の神様は蛇で、斎宮(いつきのみや)はその后である。アマテラスは毎晩斎宮のところにかよってくる。という人があるのだがそれはどう理解したらよいか」と神宮関係者から質問を受けた話や筑紫氏が伊雑宮天照大神の遙宮)でむかしからの神官の家筋にあたる人から「この宮のカミさんは蛇だったといっている。村の人 宮大工などはそういっていますよ」と聞かされびっくりした話が載っています。

 

このように天照大神の姿がバラバラなのは、元々太陽神について男女の二つの系統がありしかも出雲系(三輪山)と海部系(天火明命)が混ざったかたちで伝承されてきたからではないでしょうか。

 

筑紫氏は天照は元々男神であったとしていますが、私は古代から男女二つの系統があり、後の人達にははっきりしない時期があったのではないかと想像します。

 

男神か女神かはっきりしないということは、とりわけ女性である持統天皇を神格化するのに都合がよかったのではないでしょうか。

 

筑紫申真氏は天皇家の祖先神としての人格を与えられ天照大神がつくりあげられたのは天武即位後から持統天皇のころまで(673年~697年)頃としています。私もその頃ではないかと思っています。

 

なぜ皇祖神を太陽神としたのかの理由としては朝廷は日祀部を設置し太陽神の祭祀を国家的に行うようになっており、太陽神の性格は男でも女でもあった(はっきりしない)ため持統天皇を神格化するにあたって都合がよかったからだと私は思うのです。

 

次回はなぜ天照大神が伊勢で祀られることになったのかを考察したいと思います。

 

 

 

 

【崇神天皇が畏れた神の正体② 持統天皇と藤原不比等】

崇神天皇が宮殿から外に天照大神を出したことからも、天照大神崇神天皇が祀る神ではなかったことは明白です。

 

つまり、元々は天皇が祀っていた神ではないということです。

 

ではいつから天照大神は皇祖神となったのでしょうか。

 

持統天皇(645年ー703年)以降、明治天皇伊勢神宮を参拝するまで歴代天皇伊勢神宮を参拝することはありませんでした。

 

皇祖神であるにもかかわらず、天皇と距離を感じさせる扱いです。

 

天武天皇持統天皇の時代に、伊勢神宮の祭祀の諸制度や社殿が整備され、斎宮が制度化されたようです。内宮の式年遷宮持統天皇の時代に開始されました。伊勢神宮の現在の社殿の形式も、天武持統朝に整備されたと考えられています。

 

天武天皇の死後、鸕野讚良皇女(うのさららこうじょ 後の持統天皇)の息子である草壁皇子のライバルであった大津皇子(母は持統天皇の姉)が謀反の濡れ衣?を着せられて自害しています。この事件には鸕野讚良皇女と藤原不比等がからんでいたのではないかと考えられています。

 

ところが草壁皇子は若くして病気で亡くなってしまいます。鸕野讚良皇女は草壁皇子の子である幼い軽皇子皇位を継がせるため、自ら天皇持統天皇)に即位するのです。そして、高市皇子(たけちのみこ 天武天皇と胸形尼子娘の息子)を太政大臣とするのですが、この高市皇子は696年に急死します。

 

この高市皇子は実は皇太子であったのではないか、または天皇に即位していたのではないかと考えられています。柿本人麻呂は『万葉集』で高市皇子を「大君」と呼んでいます。また高市皇子の子の長屋王を「長屋親王」(親王天皇の子という意味)と書かれた木簡も出土しています。高市皇子の死も何か隠された事実がありそうです。

 

そして高市皇子の死の翌年697年に持統天皇の孫である軽皇子文武天皇として即位するのです。そして文武天皇の夫人となったのが藤原不比等の娘である藤原宮子です。ここから藤原氏の躍進が始まります。

 



 

この一連の流れは利害関係が一致した持統天皇藤原不比等によってつくりだされたのではないでしょうか。

 

古事記の完成が712年、日本書紀の完成が720年で、持統天皇の死後完成しています。

 

持統天皇の夫である、天武天皇(生年不詳ー 686年)の命令により、古事記日本書紀作成のプロジェクトは始まり、各地方、豪族の伝承を集め参考にしながら国の起源と天皇の正統性を表す神話がこの頃からつくられ始めました。神話はきわめて政治的要求によりつくられたのです。

 

女性である持統天皇の正統性を強調し、中臣鎌足藤原不比等の父)を英雄に仕立て上げ、藤原氏の正当化という目的も『日本書紀』にはあったと思われます。『日本書紀』完成の年に藤原不比等は亡くなっています。最近の研究では編纂の中心に不比等がいたことが指摘されています。

 

日本書紀』において天照大神が女性であること、地上を統治するため、天照大神の息子である天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)ではなく孫にあたる瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が高千穂に降り立ったという設定は孫を天皇にした持統天皇をモデルにしてつくられた神話ではないでしょうか。

 

伊勢神宮天武天皇の時代には既に整備されていたことを考えると、天照大神という神格は伊勢の地で天武朝以前に確立していたと思われますが、元は女神であったのかも疑わしく思えます。

 

天照大神は女神であるとしたのは、持統天皇をモデルとした『日本書紀』成立以降ではないだろうかと私は考えています。

 

 

【崇神天皇が畏れた神の正体①】

倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)

 

日本書紀』に崇神天皇の時代に疫病が流行り、百姓が流離したり反逆したりとかなり 国が危機的状況に陥ったことが書かれています。その頃、天皇の御殿の中には『天照大神』と『倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)』の二神が祀られていましたが、崇神天皇はその二神を畏れ御殿の外で祀ることにしました。

 

このことから、二神は崇神の祀る神ではなく、元々大和で祀られていた大きな力を持った古い神であることがわかります。外から来て大和を支配した崇神勢力(九州勢)は大和国安定の為に御殿の中に地元の神を入れ祀ろうとしたのでしょうか。

 

倭大国魂神崇神天皇の娘である渟名城入姫命(ぬなきいりびめのみこと)に預けられたのですが、姫は髪が抜け落ち体が痩せて祀ることができなかったとあります。

 

渟名城入姫命の母は尾張大海媛(おわりのおおあまひめ)で尾張氏の系統です。天照大神の方は母が紀伊国造の流れを汲む豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)にまかせていますので、崇神天皇としてはそれぞれの神が元々尾張系や紀伊系の人々が祀っていた神であると認識して、彼女たちにまかせたように書かれています。

 

豊鍬入姫命は問題なかったようですが、渟名城入姫命はそうではなかったということで、倭大国魂神尾張氏出身の渟名城入姫命に祀られたくなかったようです。

 

この後、崇神天皇の夢に大物主神が現れ大田田根子(おおたたねこ)に自分を祀らせれば平ぐと告げます。

 

その後、倭迹速神浅茅原目妙姫(やまととはやかんあさじはらまくわしひめ 倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)と同一人物といわれる)、穂積臣の先祖である大水口宿禰(おおみくちのすくね)、伊勢麻績君(いせのおみのきみ)の三人が同じ夢を見るのですが、「一人の貴人が大田田根子命大物主神を祀る祭主とし、市磯長尾市(いちしのながおち)を倭大国魂神を祀る祭主とすれば天下が平ぐ」といわれたとの記載があります。

 

日本書紀垂仁天皇記に、「一説」として倭姫命垂仁天皇皇女)は天照大神伊勢国渡遇宮(わたらいのみや)にお移しした時に倭大国魂神が、大水口宿禰にのりうつって「天照大神はすべての天原を治めよう。代々の天皇葦原中国の諸神を治め、私には自ら地主の神を治めるように」ということであったが、先皇(崇神天皇)は神祗をお祀りになったがその根源を知らず・・・」と神託したので、中臣探湯主の卜によって「渟名城稚姫命」(渟名城入姫命と同一人物とされる)に祀らせたという。天皇は渟名城稚姫命に命じ、神地を穴磯邑(あなしむら:奈良県桜井市穴師)として大市(奈良県桜井市芝付近)の長岡岬で祀らせたが、姫の体は痩せ細り祀ることが出来なかった。そこで倭直(倭氏)の遠祖の長尾市宿禰に祀らせることにしたという記述があります。

 

これらの記述から重要と思われるのは次の点です。

 

天照大神は大和から遠ざけられている

・最初、崇神天皇倭大国魂神尾張氏の血を引く渟名城入姫が祀ればよいと考えていた

倭大国魂神は渟名城入姫(渟名城稚姫命)によって祀られることをよしとしない。長尾市宿禰が祀るべきとしている

・結局大和を平らげたのは大物主神

 

ここから倭大国魂神の正体について考えてみたいと思います。

 

現在倭大国魂神が祀られているのは大和神社(おおやまとじんじゃ 奈良県天理市新泉町)で祭神は中央が日本大国魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)向かって右が、八千戈大神(やちほこのおおかみ)向かって左が御年大神(みとしのおおかみ)です。

 

そして、『日本書紀』の記述から元々は穴磯邑(あなしむら:奈良県桜井市穴師)の神であったと思われます。穴師といえば射楯兵主神社(いだてひょうずじんじゃ)です。

 

以前のブログに、火明命(徐福)と八千矛(大国主)の娘である高照姫(たかてるひめ)との間に産まれた五十猛(いそたけ)が丹波の地に移り、海部家の天香語山命(あめのかごやまのみこと)となり、息子の天村雲命(あめのむらくものみこと)は丹波の地から葛城地方の笛吹(ふえふき)に住み、その辺りは高尾張村とよばれたため、海部家は尾張家となったこと、天村雲命は穴師(あなし)に移住し(地名は金属精錬者が住んだことに由来)、その地に天村雲命は射楯兵主神社(いだてひょうずじんじゃ)を建て、父の天香語山命(五十猛(いそたけ))を祀った、五十猛は丹波に移る前は大年彦(おおとしひこ)と名のっていた(大年神社(島根県大田市大屋町鬼村))という出雲口伝を紹介しました。

(詳しくは以前のブログ【イソタケとホアカリと籠神社(このじんじゃ)】、【イソタケ(天香語山命)の息子天村雲命(あめのむらくものみこと)は初代天皇神武天皇)なのか】をご覧ください。)

 

出雲口伝からみると、大和神社の祭神である八千戈大神はまさに大国主であり、 御年大神は天香語山命五十猛命)であるため、日本大国魂大神は尾張氏祖神の火明命または、天村雲命ではないかと考えられます。出雲口伝では大和での最初の大王(神武的存在)は天村雲命ですので、天村雲命であれば尾張氏の神でもありますが、出雲の神の側面もあると思います。

 

この地には尾張氏が住んでいたため、尾張氏の神であるならば崇神天皇倭大国魂神尾張氏の血を引く渟名城入姫が祀ればよいと考えたのでしょう。しかし渟名城入姫ではだめで長尾市宿禰が祀ることになります。

 

私は長尾市宿禰は古くから大和にいる尾張氏の流れをくむ者であり、渟名城入姫は尾張氏の流れをくむ者ではあるが大和から出て行った尾張氏の子孫であったため倭大国魂大神は渟名城入姫を拒絶したのではないかと思います。

 

例えば、『勘注系図』によると天村雲命の異母弟に熊野高倉下(くまのたかくらじ)がいます。出雲口伝では高倉下の母は八千矛の息子アジスキタカヒコの娘の大屋姫。高倉下は大和から熊野に移ったようで、記紀では神武天皇の東征を助けています。

 

また、天村雲命の息子の天忍人命から始まるのが美濃、飛騨、尾張に移住した尾張氏で、尾張国造となりヤマトタケルの妃、宮簀媛(みやずひめ)は尾張氏です。尾張宿彌の後裔の宗族が熱田神宮宮司を代々務めることになります。東海の尾張氏はしばしば后妃を出し天皇家と濃いつながりを持っていくことになります。

 

もし、倭大国魂神尾張氏祖神の火明命であれば、渟名城入姫が祀っても問題はなかったと思われますが、そうでなかったということは倭大国魂神は大和の国を最初に造ったとされる天村雲命だったのではないでしょうか。崇神天皇が畏れるのも当然です。そして記紀ではあえてその名を隠し、倭大国魂神としていると思うのです。

 

大和から出て行った尾張氏天皇家の勢力側に付いた側であるため、元々大和にいた尾張氏崇神天皇に支配された、または反抗した側)とは異なることを『日本書紀』では強調したかったのではないでしょうか。

 

大物主神三輪山の信仰結びついた出雲系のさらに古い神であるため、最終的に大物主神のお告げ通りに事を進めることによって全ては解決したという流れなのでしょう。出雲口伝によれば大田田根子八咫烏ということですので、大物主神は大和での地位は強固なものとなったと思われます。(詳しくは以前のブログ【八咫烏(ヤタガラス)の正体とモノノベ勢のヤマト到着】をご覧ください。)

 

次はなぜ天照大神が伊勢に移されたのか、天照大神は元々どのような神だったのかについて考察したいと思います。