『出雲風土記』の特異性
風土記は元明天皇が713年に編纂を命じた各地の地誌ですが、現存するもので完本は『出雲風土記』のみで、『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態で残っています。
この中で『出雲風土記』が他の風土記と明らかに異なっている点は、歴代天皇に関わる記述があまりにも少ないということです。
例えば風土記には「○○天皇御代の○○年にこのようなことがあった・・・」とか「○○天皇が××とおっしゃったからここは××という地名になった・・・」という記述が他の4つの風土記には数多く記述されています。例えば『播磨国風土記』であれば景行天皇~天武天皇までの天皇の名前が出てきます。特に応神天皇に関してはその名が35回も出てきますし、『常陸国風土記』であれば、倭武天皇(ヤマトタケル 天皇とは認められていませんが)という記述がよく出てきます。『豊後国風土記』や『肥前国風土記』では景行天皇がよく出てきます。
しかし『出雲国風土記』には天武天皇の時代にあったことが1カ所、欽明天皇の時代の話が2カ所、景行天皇の話が1カ所記載されているだけです。後は『古事記』における神武天皇以前に出てくる出雲神話の神々や言い伝えなのです。
ここからわかるのは、神話が醸成される土壌が古くから出雲にあり、長い期間同一の神話を持つ共同体が存在し、祖先の神格化や神々の系譜がすでにできていたということです。
縄文時代に島だった島根半島は三瓶山の度重なる噴火で本州と島の間が堆積物で埋まり陸続きになり、縄文時代後期以降は湾だった宍道湖一帯は徐々に平野化していきました。その経緯を八束水臣津野命(やつかみつおみつぬのみこと)の国引き神話として風土記に載せているということは長い間、出雲の地の歴史を共有する人々がそこに生きてきたことの表れだと思います。
7世紀に記紀を編纂するにあたって当時から見てもかなり古い弥生時代やそれ以前の頃の神話を持っていたのは神郡であった出雲や宗像、そして海のネットワークを持っていた海人族だったのではないでしょうか。しかも出雲口伝では宗像は出雲の分家であると伝えていますので、記紀で神々の時代の話を創作するにあたって、こういった古くからの言い伝えや神話を持つ人々が必要不可欠であったと思われます。
猿田彦大神は元々は出雲発祥の神
出雲口伝ではインドのドラビダ族出身のクナ族が日本にやってきてイズモ族となったと伝えています。ドラビダ語ではゾウの鼻のように突き出た物を「サルタ」と呼び、インドのゾウ神がサルタ彦大神に変化して崇拝されたということです。サルタ彦大神は「鼻高彦(はなたかひこ)」とも呼ばれたそうです。
出雲王国で信仰されていたのはサイノカミ(幸の神)と呼ばれる子孫繁栄の神で「縁結びと子宝の神」とも言われ、3人の家族神であったそうです。父がクナト王のクナト(久那斗)ノ大神で母がサイヒメ(幸姫)ノ命、息子がサルタ彦大神でこの三柱がサイノカミ三神と呼ばれたそうです。
現代ではサイノカミは塞の神といわれ、村の境等に祀られる外部からの疫病や悪霊を防ぐ神で道祖神、境界の神となっています。クナトノ大神は「岐の神(くなとのかみ)」として民間信仰の中に残っていますがやはり道の分岐点、峠、あるいは村境などで、外からの外敵や悪霊の侵入をふせぐ道祖神となっています。
サイヒメは三瓶山(佐比売山)の神としてその名が残っていると思われますし、男女一対の道祖神(サイノカミ)の女神として伝わっていると思われます。
また、出雲口伝では大神神社そばの狭井神社(さいじんじゃ)はサイヒメが元々祀られていたため狭井はサイヒメからきているとしています。
7世紀にはサルタ彦大神やクナトノ大神は道祖神の性格を与えられていたようです。『日本書紀』の国譲りのシーンで別の言い伝えでは大己貴神(おおあなむちのかみ 大国主)が国譲りを迫る経津主神(ふつぬしのかみ)と武甕槌神(たけみかつちのかみ)に対して岐の神(猿田彦神)を二神に勧めて、「これが私に代わってお仕え申し上げるでしょう。私は今ここから退去します」と言ったということが書かれています。ここではサルタ彦大神は完全に導きの神とされていて、しかも大国主に使われる立場?になっています。ただこの記述からサルタ彦大神は国つ神であり、出雲の神だと認識されていたことがわかります。
猿田彦大神を祀る佐太神社(さだじんじゃ)
出雲国二ノ宮として出雲風土記にも書かれている、古くから存在する佐太神社(さだじんじゃ)に祀られている佐太御子大神(さたみこのおおかみ)は猿田彦大神と同一神とされています。この神社は正殿を中心とした大社造が三殿並立する特異な形の造りです。
正中殿、北殿、南殿それぞれに神が祀られていますが、正中殿には佐太御子大神の他四柱、北殿には天照大神(あまてらすおおかみ)と瓊々杵尊(ににぎのみこと)、南殿には素盞嗚尊(すさのおのみこと)と秘説四柱(ひせつよはしら)が祀られています。
話は逸れますが、正中殿、北殿、南殿はそれぞれ神紋が異なっていて、正中殿は「扇の地紙」、北殿は「輪違」、南殿は六角形の「二重亀甲」となっています。出雲口伝的に言えば、「亀甲紋」ではなく「竜鱗紋(りゅうりんもん)」と呼ぶのが正しいということです。確かに出雲の主要な神社、熊野大社、出雲大社、美保神社、佐太神社など「竜蛇神」を祀る神社の神紋はセグロウミヘビの鱗形であるので「竜鱗紋」と呼ぶのがふさわしいと思われます。
よってこの南殿には古い出雲の土地神が祀られていると思われ、秘説四柱がどのような神であるのか非常に興味深いところではあります。
また三殿並立の造りから元はサイノカミ三神が祀られていたのではないか?などと妄想は膨らみます。
話は戻りまして、この佐太御子大神の誕生について『出雲風土記』の「島根の郡」にこの神の誕生神話が載っていて、現在の「加賀の潜戸」と言われる所で生まれたことになっています。母親は「神魂(かみむすび)」の御子である枳佐加比売命(きさかひめのみこと)でこの神が子を産もうとするその時に弓矢が見つからなくなり「わたしの御子が、麻須羅神(ますらがみ (立派な男神の意味))の子でいらっしゃるならば、見えなくなった弓矢よ、出てこい」とお祈りされ、まず角の弓矢が水に乗って流れ出たのですが「これは、違う弓矢だ」と言って投げ捨てられ、次に流れてきた金の弓矢を取って「暗い岩屋だなあ」とおっしゃり矢で岸壁を射貫いたとあります。そしてその枳佐加比売命の社が鎮座している岩屋のあたりを通る時には、必ず大声を響かせて行かないと、ひっそり行ったりすると、神が出現して突風がおこり、航行する船は必ず転覆するという神話です。
www.kankou-shimane.com
sadajinjya.jp
サルタ彦大神+佐太御子大神 → 猿田彦大神の誕生
出雲神話からみると、出雲口伝のサルタ彦大神と佐太御子大神は元は同一の神ではなかったと思われます。ですが、長い時間の流れとともにサルタ彦大神と佐太御子大神は名前も似ていますし、「御子」とあるように神の「子ども」であるという同じ属性を持つため二神は融合していったのではないかと思われます。
佐太御子大神はその生まれから海に関わる神であること、母親が風の神的な要素を持っていること、母親が洞窟を射通して光り輝かせたことで太陽神的側面を持っていることがあげられます。そして佐太御子大神の鼻は長くはありません。一方、サルタ彦大神は鼻は長く、サイノカミですので道祖神的側面があり、サイノカミは元々は縁結びの神、子宝の神のため和合の神、生殖の神といった側面があります。その二神の特徴を兼ね備えているのが猿田彦大神であるといえるのではないでしょうか。
『古事記』での猿田彦大神は邇邇芸命(ににぎのみこと)が天降る時「天から降る道の辻にいて、上は高天原を照らし、下は葦原中国を照らしている神がいた。」と書かれ、
『日本書紀』では「一人の神が天の八街(道の分かれるところ)に居り、その鼻の長さ七握(ななつか)、背の高さ七尺あまり、正に七尋(ななひろ)というべきでしょう。また口の端が明るく光っています。目は八咫鏡のようで、光輝いていることは、赤酸漿(あかほおずき)に似ています。」とあります。そして、邇邇芸命にお供していた天宇受賣命(あめのうずめのみこと)は猿女君(さるめのきみ)となったこと。(猿田彦大神と夫婦になったような表現)からすると猿田彦大神は鼻は長く光輝く太陽神的存在でかつ導きの神、和合の神であると、記紀が書かれた時代にはそのような認識であったと思われます。
猿田彦大神を祀る伊勢の人々
度会(わたらい)氏は天日別命(あめのひわけのみこと)を祖とし、垂仁天皇のとき、大若子が越国の賊を討ってその地を神宮に寄せた功により、伊勢国造に任じられたそうです。初めは石部(磯部)氏と名乗っていたようですので古くは伊勢の海産物を捧げる海人集団の部民だったと思われます。
『伊勢国風土記 逸文』では天日別命は神武東征の時に伊勢に赴きその地にいた伊勢津彦(いせつひこ)を追い出したことになっています。
天日別命は兵を発して伊勢津彦を殺そうとするのですが、伊勢津彦は争わず立ち去ることに決めます。その時「立ち去る時に何か証拠を残せ」と天日別命に言われた時に伊勢津彦は「大風を吹かせて高潮を起こし、波に乗って東国に立ち去ります。」と言い、実際に波が太陽のように光り輝き、海も陸も明るくなり神は波に乗って東国に立ち去ったと書かれています。そして天皇はこの話を聞いて喜んで良い国つ神がいたからその神の名を残し、この地を伊勢と名付けよと命令されたとあります。
この国譲りのシーンは結局平和的に行われたという設定が出雲の国譲りと似ていること、元の神の名前をそのまま地名として残しているところから考えると、天日別命は元々伊勢の地にいた豪族であり、中央勢力に味方した側なのだというように考えられると思います。
また別の説として、「伊勢という地名の由来は、伊賀の安志(あなし)の社に鎮座する出雲の神の御子神にあたる、出雲建子命(いずもたけこのみこと)またの名を伊勢都彦命(いせつひこのみこと)またの名を天櫛玉命(あめのくしたまのみこと)というが・・・・」とも書かれていて出雲と伊勢都彦(伊勢津彦)の繋がりをみることができます。
この話やその特徴から伊勢津彦は猿田彦大神、またはその神を祀る人を指しているのではないかと思われます。
現在の出雲国造の祖神は天穂日命(あめのほひのみこと)であるように、度会氏の祖神は天押雲根命(あめのおしくもねのみこと)天牟羅雲命(あめのむらくものみこと)であるので、彼らは猿田彦大神を祀ってはいなかったかもしれません。ただ、伊勢では国つ神として広くこの伊勢津彦と呼ばれる神が祀られていたと思われます。
宇治土公氏→猿女君(さるめのきみ)→稗田阿礼(ひえだのあれ)
古くからお伊勢参りは夫婦岩が見える立石浜で体と心を清めてから外宮、内宮を回るという順番であったそうで、その場所には二見興玉神社(ふたみおきたまじんじゃ)があり、猿田彦大神が祀られています。
その猿田彦大神を伊勢神宮内宮がある伊勢市宇治の地で祀るのが宇治土公(うじとこ)家で代々猿田彦神社の宮司を務めていらっしゃいます。
宇治土公氏の祖神は太田命(おおたのみこと)という土地神ということで、古くから宇治の地に住む豪族であったと思われます。
『アマテラスの誕生』(筑紫申真 著)で筑紫氏は猿女君は宇治土公氏に繋がるとしています。天皇の鎮魂祭を行ったのが猿女君で祭祀を司るために伊勢から一部がヤマトに移り住んだという説です。この猿女君から奈良県大和郡山市稗田町に移り住んだ稗田氏が出て古事記の語り部である稗田阿礼に繋がるようです。
出雲口伝では奈良の鴨都波神社の西方の猿目(さるめ)にヤマトに進出した出雲東王家の登美家の分家が住み、その家系がサルタ彦を祭り、その家の娘がサルタ彦を祀る司祭となったので猿女家と呼ばれたとしています。(紀元前2世紀頃?)その後葛城の猿目から三輪山の南方へ猿女氏は移住し、そこで行われていた出雲系の太陽の女神祭祀で神楽を行ったとしています。
私は出雲口伝で言うところの、九州からの「第二次モノノベ東征」(垂仁天皇の頃)で出雲系の人々の一部がヤマトから伊勢・志摩に逃げ(3世紀前半)、その中に猿女氏がいて、宇治土公氏に繋がっていったのではないかと思っています。
垂仁天皇(すいにんてんのう)の皇女である倭姫(やまとひめ)が宮中から出された天照大神を祀る場所を探し求める話が『日本書紀』にはありますが、その箇所を記紀と出雲口伝で比較してみます。
【日本書紀】
- 倭姫は垂仁天皇の皇女
- 天照大神の祭祀場所を求めて宇陀から近江・美濃を経て伊勢に入る
- 神託により斎宮(いつきのみや)を五十鈴川のほとりに立てた。これを磯宮(いそのみや)という
【古事記】
- ヤマトヒメノ命は垂仁天皇の皇女
- ヤマトヒメノ命は斎王(いつきのみこ)として伊勢大神宮をお祭りになった
【出雲口伝】
- 垂仁天皇の時に「第二次モノノベ東征」が行われた
- ヤマト姫は垂仁天皇の皇女ではなく出雲系の三輪山で太陽の女神を祀っていた姫巫女
- 混乱の中、ヤマト姫は丹後国の真名井神社に避難(現在の元伊勢 籠神社奥宮)
- その後志摩国の答志(とうし)郡伊雑(いざわ)に移住
- 伊沢富ノ命が伊雑宮を建てて協力(現在の別宮 伊雑宮)
- 伊勢国に移ったヤマト姫は五十鈴宮を建てて、三輪山山麓で祀っていた太陽の女神を祀る(祠のようなものであったか?)
- ヤマト姫は出雲向王家の血筋であったため向津姫と呼ばれることもあった
- 伊雑宮で最初に祀っていたのは三輪山の太陽の女神であった(いつしか神をその地に移した姫(玉柱屋姫=瀬織津姫=向津姫?)が伊雑宮の神になった?)
『古事記』が完成した頃にはまだ天照大神の設定がはっきりせずヤマト姫の神話は伝わっていたのかもしれませんが、後から垂仁天皇の記述に付け加えたような感じがします。実に素っ気ない記述です。『日本書紀』の記述は天照大神が7世紀に持統天皇用に創られた神とすると明らかに出雲口伝の話を元にしてつくられたように思われます。
この出雲系の人々の神話を宮中に持ち込んだのは当時鎮魂祭などの祭祀を担当していた猿女君であったことは想像できます。
筑紫氏は『アマテラスの誕生』の中で志摩の伊雑宮のカミをその土地でまつっていた土豪は、はじめ国造である度会氏つきしたがっていたのに、天武・持統朝に新興の宇治土公氏にしたがうようになったとしています。
そして度会氏より宇治土公氏の勢力が強くなったため、宮川すじの度会氏の居住地ではなく、宇治土公氏の居住地である宇治に皇大神宮の誘致が決まったとしています。しかし中央政府は文武二年の皇大神宮設立時には、宇治に誘致した宇治土公氏ではなく、新興勢力の荒木田氏に最高の神主たる禰宜の地位を与えました。宇治土公氏は第二位の神主の地位である大内人(おおうちんど)という地位を与えられました。国造だった度会氏には外宮を設立し食事のカミたる豊受大神を祀らせて、その禰宜の地位を与えたということです。
これは中央集権化を目指す朝廷の政策で、伝統的な地方勢力を分断させ、弱体化させるためだったそうです。
まとめ
ここまで天照大神について考察してきましたが、私の考える天照大神の誕生について次のようにまとめてみました。
- 7世紀、東アジア情勢の変化から律令体制を整え、国史をまとめる必要があった
- 天武天皇の頃から各地方、豪族の伝承を集め参考にしながら皇室の神話が整備され始める
- そこで採用されたのは当時すでに古い歴史を持っていた出雲や宗像や海人族の神話であった
- 古代(垂仁天皇の頃?)、ヤマトの猿目から三輪山山麓に移住し太陽の女神を祀っていたであろう出雲族の猿女氏の末裔が伊勢に移住、志摩や度会の宇治の辺りにはその頃から出雲系の人々が住んでいた
- 伊勢の地では太陽の神として出雲系の伊勢大神(伊勢津彦=猿田彦大神?)や海部氏の天照国照彦火明命、志摩では垂仁天皇の頃、ヤマトの三輪山から逃れて来たとされる出雲系の太陽の女神が祀られていた
- 天皇家も6世紀頃には日祀部(ひまつりべ)をおき、太陽神を祀っていた
- 壬申の乱の時、伊勢で大海皇子(天武天皇)は天照大神に祈りを捧げたとされるが、このときはまだ天照大神は存在しておらず祈りを捧げたのは伊勢大神だと思われる
- 伊勢の国造、海部は大海皇子の勝利に尽力したと思われる
- 壬申の乱に勝った天武天皇は見返りに、娘の大来皇女(おおくのひめみこ)を初代斎王とし伊勢へ下向させる。しかしこの時点では天照大神の斎王ではなく伊勢大神を祀るためだったと思われる
- 天武天皇の死により皇后の鸕野讚良(うののさらら)皇女は自分の息子の草壁皇子を天皇にしようとするが草壁皇子が亡くなったことにより孫の軽皇子(後の文武天皇)を即位させるべく自分が持統天皇となる
- 持統天皇を正当化するための神話、女神が必要となるが、宮廷の祭りを担っていた猿女君の助言で志摩の伊雑宮で祀られていた太陽の女神(玉柱屋姫=瀬織津姫=向津姫?)の話を採用し天照大神を創出
- 天照大神は持統天皇をモデルにしてつくられたため、自分の孫を地上に降臨させる設定となる
- 鎌倉時代中期に編纂された「倭姫命世記」(やまとひめのみことせいき)には倭姫は「大河の瀧原の国」で新宮を建てたという記述が見えることから、瀧原にヤマト姫が訪れた伝承も当時あったと思われる
- よってプレ皇大神宮を瀧原に造る
- 志摩の豪族達は度会氏ではなく宇治土公氏に従うようになり、天武・持統朝では宮中祭祀を担っていた猿女君を出した宇治土公氏の勢力が強くなる
- 宇治土公氏の働きかけもあったのか?文武二年に瀧原から宇治土公氏の居住地である五十鈴川のほとりに皇大神宮が移される
- 天照大神は出雲系の神話を土台にしてつくられているので、天照大神は実は男であるとか蛇であるとか、三輪の神と同じであるなどと口伝や神話が混ざり合って色々な解釈が後に出てくることになった
以上、天照大神の考察について長々とお付き合いいただきありがとうございました。