いわせんの仕事部屋

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子どもが大人を超えていく。

この1年、子どもたちがぼくら大人をどんどん超えていく感じがしている。

ぼくらがあたまでわかっていること、それは例えば、異年齢が大事とか、子どもこそがつくり手であるとか、探究することの価値とか、自分自身で「わたしらしいわたしになっていく」とか。

彼らは、たくさんの経験の中で実感を持ってその大切さを当たり前のように手元に持っている。頭で理解できていても、なかなか体現できずにもがいているぼくの横を軽やかに超えていくんだよな。

 

 

>風越ってどんな学校?

 

ユキ:

「出る杭を育てる学校」。やりたいことを「ピュッ」って出したら、それを刈り取るんじゃなくて、「よーし、育てよう!」って水と肥料をドサーッてかけてくれる感じ。もちろん、育ちすぎると他の花の栄養を奪うこともあるけど、そういうこともあっていい。花壇じゃないところに咲いている花も草も、ぜんぶちゃんと大切にする。

 

モミ:

すごいわかる!普通は、花壇の中に咲いた綺麗なバラとかチューリップばかり大切にする感じがするけど、風越はその周りで雑草も伸びていて、その雑草も大切にする、ということが当たり前にできる学校かな。あちこちでいろんなものが芽を出していて、そのどれにも肥料をドバーッとあげる感じ。伸びろーって。

 


ユキ:よくわからないけどすげえ、みたいな人がわんさかいるじゃん。こいつもすげーあいつもすげーって見る癖がついた5年間だったな。だから困っていたり、自分がダメだなーってなっている人のすごいところがわかるようになったの。「いや十分お前はすげえんだ」って(笑)。

 


モミ:

面白い人にたくさん出会ってきたし、面白いものをたくさんつくってきた5年間でもあるなって。風越ってゼロから自分たちでつくっていく、種から育てていくことがいっぱいあった。イチからじゃない、ゼロからなんなんだよ。その種から出たものは花でも雑草でもどんどん肥料をあげて育てていく。落ち葉だって掃かずにそのまま大切にする感じかな。荒れ放題に見えるかもだけど、生態系は豊か。綺麗で真っ白で整っていて、という学校じゃ面白くない

 

 

kazakoshi.ed.jp

子どもと悪

もう時効だと思うので書くが、我が子が小1のとき、クラスメイトの筆箱に「しね」と書いた紙切れを入れる、という出来事があり、親として大いに動揺した。「そんなことをする子じゃないのに」「なにか子育てが間違っていたのではないか」などなど頭の中がネガティブな感情で忙しくなる。

 

だがしかし。
自分が子ども時代のことを思い出すと、ほんと悪いことしてきたなあと思う。こちらも時効なので書くけれど、学校帰りにクラスメイトのランドセルにこっそりドロダンゴをぶつけながら帰って、先方の親にこっぴどく叱られたことや、近くのスーパーから笛ラムネをこっそり失敬したり、虫を殺したり、年下の子にいじわるしたり、学校で禁止されていたゲームセンターに通ったり、とまあ昭和の子どもたちがやりそうな悪いことは一通り経験してきた。

 

昭和の田舎にはまだ空き地や異年齢集団、たっぷり遊ぶ時間が残っていて、大人の目の届かないところ、時間がたくさんあり、大人の意図から離れたところで、まあ思いっきり好き勝手をしていたわけだ。マイプロな毎日。
その中ではもちろん、大人が見たら眉をひそめるようなこともあるわけ。

 

この「悪」をどう取り扱うか、は学校という場所で仕事をしていると、しばしば向き合うことになる。できれば「悪いことはしてほしくない」「悪いことは学校で起きないようにしたい、してほしい」と願うのは、ある意味オトナとして当たり前かと思う。

 

「現代日本の親が子供の教育に熱心なのはいいが、何とかして「良い子」をつくろうとし、そのためには「悪の排除」をすれば良いと単純に考える誤りを犯している人々が多すぎる。
そのような子育ての犠牲者とでも呼びたい子どもたちに、われわれ臨床心理士はよく出会っている。」

 

と心理学者の河合隼雄。

 

「大人が「悪」とみなしていることを、あえてするのは、大人に対する一種の宣戦布告のようなものである。「大人の言う通りに生きているのではないぞ」という表現である。大人になって、自分の子供時代を振り返ってみると、自立の契機として、何らかの意味での「悪」が関連していたことに気づく人は多いのではなかろうか。これはもちろん危険なことである。

下手をすると、まっすぐ悪の道への連絡につながるだろう。

しかし、危険のない意味あることなど、めったにないと言うべきだろう。」

 

なるほど。

オトナは自分のあり方を問われるね。

 

「〜教師や親が悪を排除することによって「良い子」を作ろうとすると、結局は大きい悪を招き寄せることになってしまう。」

と畳み掛けてくる。

 

私たち大人が子どもに対して「悪」を完全に排除しようとすることは、却って子どもの育ちを阻害してしまう。子ども時代の幸せとは、純粋無垢な時間だけではなく、「悪」を内包しているもの。

こういった根本的なことは、自分の子ども時代を棚に上げて無視されがち。
子どもたちは悪を経験し、それを乗り越えて初めて大きな成長を遂げるということもあると知っておきたい。

 

大人の目の届かない時間がどれだけ大切か、このことは何度も忘れないようにしたい(現代はそれが難しい)。

目が届きすぎて、悪を完全排除しようとすると、その「悪」はネットの中の「見えないところ」で発揮されやすくなるんじゃないか。あ、これはまた別のお話。

いや、もしかしたら目が届いていなかったのではなく、地域のオトナたち含め「まあ子ども時代ってそういうもんだよな」というおおらかな視線の中で自由にいられたんだと思う。

いきすぎたら、よそのおじさんによく怒られてたしな。

 

「子どもの悪」とオトナであるぼくらがどう向き合っていくか。

たとえば子どもが問題を抱えていると聞くと、オトナはすぐ解消したくなる。一方、子ども同士のトラブルも、子どもが自身を成長させる一環であることも視野に入れたい。子育てや教育は、私たちが「A」をすれば「B」になるという単純なものではない(そうなっているとしたら違う力が働いていると用心した方がいい)。
子ども時代には「悪」はときどき立ち現れてくる。とはいえ加減は難しい、とても難しい。

 

子ども時代に大切な経験はなにか。
河合さんの本を読みながらあらためて考え込んでいる。
悪いことがない、悪いことをしない「漂白された子どもたち」を育ててはね。
少なくとも学校という場は、この「悪」の取り扱いが苦手だし、難しい。

 

ちなみに、「しね」と手紙を書いた我が子も、すっかりすてきなオトナになってます。
社会の悪にまっすぐ向き合い、解決していくことをヨロコビにしている模様。

親の知らないところでいろんな大切な経験をしてきたんだね。

 

学校はもっとおもしろくなる。

小学校の教員を22年やった。いろんなことはあったけど、ぼくにとっては学校はいつも楽しかった。子どもとつくる日々はおもろい。「〜したい」という潜在的な好奇心にあふれた人々が集まり、いっしょにつくる場所がおもろくないわけがない。そうなっていないとしたら、それを阻害する特別な力が働いていると考えた方がよい。
もちろん学校には残念なことが山のようにある。問題だらけであることは重々承知。とはいえ「だから学校はダメなんだ」は飛躍していると思う。「学校教育はダメだ!悪だ!」とばかりに学校を悪の象徴にするのは結果的に子どもと教師を追い詰める。
公立の学校で可能性を奪われていく子のために、オルタナティブな場をつくる。放課後や休日の活動の場をつくる。それで救われてい人はたくさんいる。そこには素晴らしい人々がコミットしてくれていて素晴らしい活動が広がっている。だからこそぼくは違うアプローチをしたい。せっかくたくさんの子が来る学校時代を「おもろい場所に」。そう思うのだ。だってほとんどの子がくるのだから。
学校を「変わらないどうしようもない場所」と置くのではなく、「学校自体がおもろくなったらいいのじゃないか」、そう思って学校づくりに関わっている。
その可能性にかけられる根っこには、ぼくの教員経験がある。教員になって2校目のT小学校。破天荒な学校だった。学校のお祭りは地域の保護者が食べ物の出店をだしてくれ、駄菓子のお店もある。子どもも思い思いにお店を主店。特設の舞台では出演したい人が自由に演じる。そんなお祭りが日常の行事だった。
6年生は学校でお泊まり会。校庭で小グループごとの「食べ物屋」を出し、そのイベント限定の通貨でお買い物。保護者も当然お店を出す。わるい大人はその横で夜の会のために三浦直送の巨大マグロの釜焼きをじんわり焼く。夜はキャンプファイヤー。終わると全校を使った肝試し。放送室からはこわい音楽。
大人も子供もキャーキャー喜んだあとは、教室で就寝。「日本の夜明けを見るんじゃ」と徹夜しようとする人たちも頼もしい。「大人にあまり迷惑かけるなよ」と言葉をかけて放っておき、大人は音楽室でマグロの釜焼きを摘みながら飲み会。楽しかったなあ。「地域の子を育てよう」と熱く語りながら。おおらかな時代だった。おおらかは大事。おおらかでないとよいものは育っていかない。
運動会は地域と共催。ほとんど練習もなく出たい競技にでる。徒競走に出るだけで参加賞がもらえるので、出たくなかった人もうっかり参加する。お祭りだった。
教員も仲良かった。職員旅行でオーストラリアに行ってた。5、6年の先生で沖縄に行ったり。「いい職員室をつくれないやつにいいクラスは作れない」と言ったSさんが中心でつくった職員室。放課後の教育談義は日常茶飯事だった。
飛び跳ねていた若者であったぼくにも「岩瀬さん面白いことやってるねー!」なんて言ってくれる職場だった。ぼくは少しずつ、一緒につくること、シェアすることの喜びを知った。
学級通信を全ての先生に配り合う文化だった。「低い公平性」ではなく、よいものを学び合う「高い公平性」を目指していた。
Sさんは本気で「学校は変わる」と確信していた。ぼくはそのバトンを受け取った。
「学校は変わる」。強烈な原体験がぼくを支えている。学校を諦めたら子どもに失礼じゃないか。どんな環境にいる人も来る学校。そこをおもろくしたい。好奇心に満ち溢れたひとが集まる場所なんだから、なんとかなるはず。大人はそこに知恵を絞ろう。大人こそ面白がろう。学校を責めても何も変わらんよ。
昭和のノスタルジーかもしれない。ジジイになってきたからかもなとも思う。現場は撤退戦を余儀なくされている。でも妄言はジジイの特権と思うことにする.
学校以外のところで子どもを救う活動、子どもの可能性を広げる活動はたくさんある。その数はどんどん増え、その質はどんどん上がっている。次は学校の番だ。
22年のサンプル数1の実践だけれど、その可能性を実感できた。ぼくが「おれがなんとかしなくちゃ」を手放すたびに、子どもたちはその先に軽々と進んでいった。変わるべきは大人だ。そう思えば問題は手元に引き寄せられる。子どもはいつの時代も、思う存分力を発揮できる場を待っている。
繰り返しになるけれど、ほとんどの子が来る公立の学校。その可能性を諦めるアプローチではなく、その変化可能性を追求したい。ぼくはぼくでできるアプローチを。その道は簡単じゃないけれど、これまで出会ってきた子どもを思い浮かべるたびに「それってなんとでもなるじゃん」って思うのだ。一緒につくればいい。子どもを侮っていてはいけない。
「常識を疑えば学校はもっとおもろしろくなる」。これはぼくが14年前に『食農教育』で初めて連載したときのタイトル。今もそう思う。自分が経験したこと学校でそれは変わらない、という思い込みを手放そう。「幸せな子ども時代を過ごせる学校って?」から再設計しよう。
自分にできることをあと少しあれこれやってみます。そんな簡単じゃないこともよくよくわかってます。夢を見ているわけではない。日々現場で疲弊している方々がいるのは、現場にいたぼくはよくよくわかっているつもり(その感覚は鈍ってきている自覚もあるけれど)。
でも可能性を手放すのは子どもに失礼だと思う。
大人が「でもなんとかなるんじゃん?」をおもしろがる。本当に子ども時代が大事だとおもうのならば、共にあれこれ試行錯誤したい。
小さい,手元のことでいい。手元のことがいい。自分をいかしていきたい。
他人事にできないこと,大切なことを手元において、ていねいに生きていこうと思います。

たそがれ、自然、海、地平線、ビーチの画像のようです

 



教師の学びを学校の真ん中に置くという挑戦


教師の学びを学校の真ん中に置くという挑戦
 軽井沢風越学園の「スイゴゴ」から見えてきたこと

 

「学校がよりよくなっていく」ということは、「実践がよりよくなっていく」ということと、まっすぐにつながっている——そんな確信を、わたしは日々強めています。

そして、実践をよりよくしていくためには、教員自身が日常のなかで学び、学び合っていることが欠かせません。

しかし、そのためには時間仕組みが必要です。


 

スタッフの学びを学校運営の核に

 

軽井沢風越学園では、スタッフの学びを学校の運営の中心に据えています。

毎週水曜日、子どもたちは昼食後に下校し、13時半からはスタッフだけの時間がスタートします。この90分間の研修時間は、「スイゴゴ(水曜午後)」という愛称で呼ばれ、全スタッフが集う貴重な学びの場となっています。

また、月に1日は「研修日」として、子どもたちはお休み。スタッフだけが集まり、終日研修やミーティングを行います。毎週90分、月1回終日研修できるのはまことに大きい。立ち止まれます。

こうした仕組みの構築は、わたし自身の公立学校での葛藤から生まれたアイデアでした。

 


学びたいのに、学べない——公立時代の原体験

 

かつて私は、公立小学校で研究主任を務めていました。そこで痛感したのは、「学びたいのに、時間がない」という現実です。

教員は本来、強い成長欲求をもっていると信じています。学ぶことに喜びを感じ、仲間と対話を重ねながら、よりよい実践を探究したい。

けれど、日常業務の忙しさに追われ、その機会が極端に乏しいのです。とにかく時間的余白がない。研修したくても「次取れるのは半年後かな」みたいな現実。

 

だからこそ、風越をつくるとき、「物理的に学べる仕組み」を制度として組み込むことに強くこだわりました。


 

「みんなが研修担当」に

 

開校から6年。スイゴゴのあり方にも、大きな変化が起きています。

かつての校内研修は、研究主任が一手に担うのが一般的でした。私自身も、孤独な戦いを経験してきました。

今年度の風越では、「みんなが研修担当」という姿に変わりつつあります。

 

研修コーディネーターが年間計画を描き、実際の週ごとの研修は、各「ブランチ(いわゆる校務分掌)」が、企画から実践まで担当します。

たとえば:

  • テーマプロジェクトに関する研修は「テーマプロジェクトブランチ」

  • マイプロジェクトに関する研修は「マイプロブランチ」
  • 異年齢コミュニティ「ホーム」に関する研修は「ホームブランチ」

  • 保護者との関係づくりは「保護者コミュニティブランチ」  などなど

 

このように、研修の企画・設計・実践をリレーのように引き継ぎながら行っているのです。つまり、スタッフ全員が「学びをつくる側」になっているとも言えます。

現場のニーズにあった研修がタイムリーに打てるようになってきました。


 

失敗もあった。それでも育ってきた文化

当然、最初からうまくいっていたわけではありません。

開校から数年は、「忙しいんだから、それぞれの時間にしてほしい」といった声や、研修中に内職をしてしまうスタッフもいました。

けれどここ数年、とくに昨年度後半から今年にかけて、明らかな変化を感じています。

研修を「自分たちの学びと成長の場」と捉える雰囲気が、スタッフの間に根づいてきたようにみえています。


 

研修を“自分ごと”にするということ

 

今日のスイゴゴは、「記録・評価ブランチ」が担当する研修。

幼稚園から中学部までのスタッフが、それぞれの実践をエピソードとして記録し、共有し合う時間です。しかも、研修の冒頭のインストラクションでは、大学を卒業したばかりの新任スタッフが、今日の保育のエピソードを生き生きと語りました。胸熱。

 

 


そのあとは、幼稚園スタッフから中学のスタッフまで、みんなが「個のエピソード記録を書いてみる」チャレンジ。お互い書いたものは読み合いつつ、風越での12年間つながる記録と評価について考える時間です。

 

誰もが場に立ち、学び合う文化が育ちつつあること。自走し学び合う組織。

そのプロセスを、今、頼もしさと誇らしさをもって見つめています。


 

学び続ける学校であるために

もちろん、研修の質はまだまだブラッシュアップの余地があります。

けれどその改善に、「みんなが関わっている」ということが、何より未来への希望だと思うのです。

 

教師の学びを、学校の仕組みの真ん中に置く。

軽井沢風越学園では、そんなチャレンジをしてみています。


場所を選ぶ。

オフィス近くにある2階にいく階段をのぼっていくと、その踊り場で2年生の2人が今日も作品を書いている。国語の「作家の時間」。自分の集中できる仕事場を選んで書いていいらしい。オフィスではたらくスタッフを見ながらのこの席は2人のお気に入りのようだ。
自分の場を自分で選ぶ。学校では簡単なようで難しい。
教室にいるか・いられないかの2択を迫られがちだ。
その点、風越の校舎はまるで街のよう。やりたいこと、学んでいることに応じて、流動的に自分の居場所を変えていく。
理科室で実験をしていたと思ったら、ライブラリーに本を探しにいく。ちょっと理科室が狭いなと思ったら、「創造の広場」という共有スペースに移動することもできるし、図工室に材料を取りに行くこともある。
以前、見学に来たある研究者が「ここにいると、次どこ行こう、とまるで街を歩いているような気持ちになる。持ってきた上履きが壊れた時に、『ラボに行ってなおそう』と自然に考えていて、そんな自分の思考にびっくりした」とおおよそこんなことを話していた。
自分の「〜したい」から、行き先、居場所を選んでいく。
自分をつくっていくプロセスで、実はかなり大切なことなんじゃないか。
教育学の世界では、「自分で選ぶこと」が学びの自律性や内発的動機づけを高めるとされている。どこで学ぶかを自分で決めることは、小さなようでいて、大きな自己決定の経験でもある。子どもたちが「ここが落ち着く」「ここなら集中できる」と自ら場を選ぶことは、自分の感覚に耳をすませ、自分の学び方をつむいでいく過程でもある。環境を選ぶ自由は、学びへの責任と結びつき、学習者としての自己をかたちづくっていく、といったらおおげさだろうか。
この考え方は、レッジョ・エミリア・アプローチが強調する「環境は第3の教師である」という思想とも重なる(ちなみに第1の教師は子ども自身、第2の教師は保育者(教師)である)。教室や廊下、ライブラリーや階段の踊り場さえも、学びを支える場となりうる。子どもは空間との対話を通して、自分自身や世界へのまなざしを深めていく。教室という固定された枠を超え、空間の選択そのものが「教育」になっている、ともいえる。

 

2人のすがたを、よくここで見かける。2人にとっての仕事場だ。
「作品完成したら読ませてね」と声をかけて場を離れた。f:id:iwasen:20250508202322j:image

 

こりゃ革命やな。Deep Researchからポッドキャストへ〜

GoogleのNotebookLMがバージョンアップしました。

「音声概要」がすごい。

blog.google

アップロードしたソース(資料)を魅力的なポッドキャストのような会話形式に変えてくれる機能で、どんなソースからもとても自然な2人の会話にしてくれるんですよね。

これ、聞くとびっくりします。
5分少々でどんな話題も、気楽に聞けるポッドキャストになるわけです。

これを生かした情報インプットの方法を紹介します。

これはすごいです。

 

まずはDeep Researchで調べてもらう


たとえば

「エリオット・W・アイズナーのカリキュラム論について知りたい」(マニアック)と思ったとします。「〜について知りたい」はなんでもOK。


これをまずGoogleのDeep Researchにかけます。

「米国のカリキュラム研究者 E. W. アイズナーについて詳しく知りたい。特にカリキュラム論。」

こんな雑な感じでも、しっかりとしたリサーチ計画を立ててくれます。

この計画はもちろん修正できるので、自分のお好みで修正してね。

それでできたリサーチ計画はこちら。

E. W. アイズナー研究
ウェブサイトをリサーチ
米国のカリキュラム研究者 E. W. アイズナーについて詳しく知りたい。特にカリキュラム論。岡村亮佑氏の論文も参照する。
(1) エリオット・W・アイズナー(Elliot W. Eisner)の基本的な経歴(生没年、所属大学、専門分野)を調査する。
(2) アイズナーのカリキュラム論における中心的な概念(例:教育的コノサーシップと教育批評、表現目標、ヌル・カリキュラム、潜在的カリキュラムなど)を特定し、それぞれの意味を解説する。
(3) アイズナーのカリキュラム論に関する主要な著作(例:「教育的想像力」、「認識とカリキュラム」)を特定し、その概要や主張を把握する。
(4) アイズナーの理論が、米国内外(特に日本の教育界)のカリキュラム開発、教育実践、研究に与えた影響や評価を調査する。
(5) アイズナーのカリキュラム論に対する批判や、他の主要なカリキュラム研究者(例:タイラー、シュワブ、ピナー)の理論との比較を通じて、その独自性や位置づけを明らかにする。
(6) アイズナーの理論が現代の教育課題や実践において持つ意義や関連性を探る。
(7) 日本語で書かれたアイズナーに関する学術論文、書籍、解説記事などを検索し、日本における受容や解釈の状況を調査する。特に、岡村亮佑氏によるアイズナー研究に関する論文を参照する。
(8) 上記で得られた情報を統合し、E. W. アイズナーとそのカリキュラム論について、主要な概念、影響、現代的意義などを包括的にまとめる。
結果を分析
 
レポートを作成

 

7がぼくが追加で加筆した計画です。

あとはほおっておけば数分でドキュメントでアウトプットしてくれます。

なんと27000字。

おお。
これだけで十分、最初の情報収集としては「助かります!」なのですが、読むのも大変ーっていうのもある。最近老眼がひどいし。老眼って、読む意欲を減退させるんだよね。そして割と読みにくい。切り貼りの面もあるからね。
 

次はNotebooLMだ


んで。NotebooLMの「音声概要」の出番のわけです。
まず、このアウトプットを,LMにエイっと投げ込みます。無料です。無料なんです。

https://notebooklm.google.com/

ソースをアップロード、のところにPDFをエイっとドラッグ&ドロップ。Googleドキュメントならそのまま入れられます。
そうするとすぐに、こんなふうになります。


あとは「入力を開始します」のところにあれこれ質問すると、取り込んだソースをもとにAIが答えてくれます。
「アイズナーって結局何がすごいの?中学生にもわかるように教えて。」みたいな幼稚な質問にも、 

アイズナー先生(エリオット・W・アイズナー)は、20世紀後半から21世紀初めにかけて活躍した、アメリカの教育の専門家です。特に、学校で何を学ぶか(カリキュラム)や、学んだことをどう評価するかについて、すごく大切な考え方を示しました。彼はもともと美術の先生でもあったので、その芸術的な考え方を教育全体に応用したのが特徴です。
アイズナー先生の「すごさ」をいくつか挙げてみますね。
1.教育は芸術だ」と考えたこと
◦当時の教育は、工場で同じものを作るように、みんなに同じことを同じやり方で教えて、テストで測る、という考え方が強かったです。アイズナー先生は、これに反対しました。
◦先生は、教育はもっと人間らしく、複雑で、クリエイティブなものだと考えました。まるで芸術作品を作るように、あるいは芸術作品を鑑賞するように、先生も生徒も、教育の中で独自のものを生み出し、その質を深く感じ取ることが大切だと言いました。
2.「テストでは測れない大切なこと」に注目したこと
標準テストのような点数だけでは、生徒の学びの全ては分かりません。絵を描いたり、音楽を作ったり、深く考えたりする力は、簡単に点数にできないですよね。
◦アイズナー先生は、そういうテストでは見えにくい、学びの「質」をどう見るか(教育的コノサーシップ=鑑識眼)、そして、それをどう言葉で分かりやすく伝えるか(教育批評)という方法を提案しました。これは、まるで美術評論家が作品の良さを解説するようなものです。先生や教育に関わる人が、生徒の表現や学びをもっと深く理解するための方法を示したんです。
3.学校が教えているけど気づきにくいこと」と「学校が教えていないけど大切なこと」を明らかにしたこと
◦学校では、授業で習うこと(明示的カリキュラム)の他に、時間割のきまり、先生との関係、テストで順位がつくことなど、学校の仕組みを通して自然に学んでしまうことがあります。これを潜在的カリキュラム(隠れたカリキュラム)と言います。
◦さらに、学校が「あえて」教えていないこと、あるいは「うっかり」教えていないことも、生徒に影響を与えていると考えました。これをヌル・カリキュラムと言います。例えば、ある国の歴史だけを詳しく教えて、別の国の歴史は全く教えないとしたら、生徒は「こっちの国の方が重要なんだな」と感じるかもしれません。アイズナー先生は、学校が何を教えないかも、何を教えるかと同じくらい重要だと言ったんです。学校全体がどう生徒に影響しているか(学校教育の生態学)という視点を広げました。
4.「考える方法は一つじゃない」と主張したこと
◦学校では、言葉で説明したり、計算したりすることが得意な人が評価されがちですよね。アイズナー先生は、人間には言葉や数字だけでなく、目で見て感じたり、音を聞いて理解したり、体で表現したり、絵を描いたり、様々な方法で考え、世界を理解する力があると言いました(認知的多元主義)。
◦そして、それぞれの考え方や表現の仕方を大切にすること(多様な表象形式)が必要だと言いました。特に芸術は、言葉や数字だけでは表せない、別の方法で深く考える力を育ててくれると強く主張しました。
5.「テストのための勉強」ではなく「深い学び」を目指す目標を提案したこと
◦テストで測れるように、細かく「〇〇ができるようになる」という目標を決める(行動目標)だけでなく、もっと探求したり、実験したり、予期しない面白い発見をしたりするような、自由な学びを目指す目標(表現目標)も大切だと言いました。
◦表現目標は、結果が完全に決まっているわけではなく、活動そのものや、そこから生まれる多様でユニークな成果に価値を置きます。これは、みんなが同じ答えを出すことよりも、一人ひとりが自分なりの方法で考え、表現することを大切にする考え方です。
まとめると、アイズナー先生は、「教育は単なる知識の詰め込みや、テストで測れるような単純なものではない。それはもっと豊かで、人間的で、クリエイティブな営みであり、多様な考え方や表現を大切にすることで、一人ひとりの可能性を最大限に引き出すものだ」ということを、説得力のある理論と、芸術に基づいた分かりやすい考え方で示したことがすごいのです。
先生の考えは、今でも「テストばかりでいいの?」「創造性ってどう育てるの?」「芸術教育ってなんで必要なの?」といった教育の議論で、とても大切にされています。特に最近よく聞くSTEAM教育(科学、技術、工学、芸術、数学を組み合わせた学び)で、芸術(A)がなぜ必要なのかという理由付けとしても、先生の考え方が使われています。
だから、アイズナー先生は、教育を「もっと良くしたい」「もっと面白くしたい」と考える世界中の多くの人たちに、大きな影響を与え続けている偉大な教育思想家だと言えるでしょう。
ね、便利でしょ。
こんな感じで応えてくれます。それぞれの関心に応じて、壁打ち相手としてどんどん質問していくと応えてくれる。これで初期のインプットはOK。あとは必要に応じて著作を読んだり、論文を読んだり。

 

さて、ここで「音声概要」の出番だ

 

ここからがすごい。LMの一番右のタブ「studio」をクリックすると、こんな青いボタンが出る。それをエイっと押して待つこと5分。

 

できた!ポッドキャストができてる!


 聞いてみてください。驚きますよ。

https://notebooklm.google.com/notebook/173bd56e-649c-4678-8caa-6b71beb8c01a/audio

 

ところどころ日本語がおかしいところがあるけれど、大筋問題なし。

やりとりがスムーズ過ぎて怖い。
これを通勤中に聞けば、初期の情報収集としてはオッケー牧場。

リサーチからポッドキャストまで10分くらいでできちゃう。聞くのを入れて20分あれば最初の情報収集終了。毎朝の通勤が変わりますよ。


全く知らなかったことでも、これまでの5分の1ぐらいの時間で、最初の情報収集がでができてしまいます。びっくり。

いやあ恐ろしい時代です。1年後には、もうこのやり方は古くなっているんだろうなあ。ともあれおすすめ。

というわけで、アイズナーに俄然興味がでてきました。
論文をいくつか読んでみよう。

 

第2期ファシトレスタート。

 

2年前、軽井沢風越学園のマイプロジェクトで生まれた「ファシトレ(ファシリテーション・トレーニング)」という活動がある。きっかけは、9年生の「ホームをよりよくしたい!」というひとことだった。

 

みんなが安心していられるホームをつくりたい。そのためのお稽古をしたい。

 

そんな願いから、ファシリテーションを学ぶ時間がはじまった。

 

昨年度は、アウトプットデイなど特別な機会に限定して実施されていたが、その中でも子どもたちは県内の対話イベントを企画し、大人と共に“場づくり”の実践に踏み出していった。

 

▼昨年の活動

kazakoshi.ed.jp

▼その後の実践(信越放送ニュース)

newsdig.tbs.co.jp


「やってみたい!」の声から再始動へ

今年度、ある団体から「大人と子どもが一緒に話せる場をつくりたい」という相談が寄せられた。9年生のSたちにその話をすると、「やってみたい!」「またやろうよ!」と即答。そこから自然とファシトレが再び動き出した。

 

3人の中学生が全体に向けて「やりたい人、来てみてね!」と声をかけたところ、24人が集まった。中にはこの機会をずっと待っていた人もいたようだ。これまでの校内の「ファシリテーター」への憧れもあったようだ。

 

今年度のファシトレは、現在3回実施、週1回のペースで進行中。

伴走は、スタッフのテツとゴリの2人。

 


 

先日実施された第3回ファシトレでは、「きき手になること」をテーマに活動を行った。活動後の振り返りジャーナルには、印象深い言葉がいくつも並んでいた。

 

・たとえば、話し手がどんなにまともで、ちゃんと話していても、聞き手がだれも聞こうとしなかったら本当によい場にならないし、何も始まらないなと感じた。

 

・ファシトレで、みんなの前で何か言って投げ出されたりしたらこわいなって気持ちがいつもあって、リラックスは完全にはできない。

 

・最後の方、ゴリも言ってたけれど、ちょっと意識しない時間ができると、聞かなくなってるなって。ホームとか今振り返ると思う。いい聞き手になれるようにずっと意識しないとだよね。ホームとかから頑張る!

 

・個人的に、グループになってあかりが進めてくれたのがめっちゃ嬉しかった!まずAさん自ら「じゃあ私が」と言ってくれて、おおー!ってなって、やることが終わって「どうすればいい?」って聞いたのもすごっ!ってなって「もう上級者やん」って心の中でつっこんでた。

 

・自分がゴリさん目線になってみて。ていきょうするってもっと難しいことだな…って感じた。場のつくり手ってほんとうに大変なこと。ていきょうされる側だから全然感じてなかったけど。今日改めて実感した。

 

自分がいい聞き手になると、まわりの環境が変わったり、話し合いの場もファシリテーターが進めやすい環境になるかなと思う。いい聞き手ができることで、いいファシリが生まれて、いい場が生まれるなとって思う。

 

・ゴリさんが、「この後どうしようか迷っている」と問いかけしてて、ああいう問いかけがあることで参加意識が高まる。私もプロジェクトを進めていくときに活用したい。

 

 

どの言葉にも、自分の内側を見つめるまなざしと、他者との関係性に対する感受がにじんでいる。

子どもたちの言葉を丁寧に読み解いていくと、いくつかの視点で彼らの学びの深まりが見えてくる。「投げ出されたら怖い」という言葉は、参加者、きき手の存在の大切さへの気づきへとつながる。「ていきょうするってむずかしい」という“される側”から“する側”への視点の転換、プロセスをメタに見ることなどなど。

 

ファシトレは、スキルのトレーニングに見えて、実は「つくり手」のマインドを育んでいる、と思う。


今年度は、保護者や地域の大人たちとも一緒に「場」をつくる取り組みにも広がるといいなという願いもある。子どもが大人とフラットに対話を交わすことは、その関係性を問い直す営みにもなっていく。

 

リスナーシップ。

きき手が場をつくっていく。

その実感の積み重ねが、これからどんな学びの情景を描き出すのか。

というわけで第2期ファシトレスタートです。

✴︎校内コミュニケーションシステム「Typhoon 」に時々書いている「毎日うろうろ」より修正して転載。こんな感じのことを日々綴っています。