たいやき姫のひとり旅

アニメ感想など…

羅小黒戦記2 ぼくらが望む未来

ネタバレ全開につき閲覧ご注意ください。

はじめに

1作目から5年。満を持してな感じで公開された「羅小黒戦記2(字幕版)」を観てきました。

物語は少々複雑になり、テイストは重々しく戒厳令下の緊張を描く感じで驚きましたが、それも最近多く感じる反戦映画の一本として作られてきたなぁ、というのが色々と考えて思うところになります。

感想・考察をまとめていたのですが、鑑賞1回では理解が追いつかないところもあり、考察しきれないところは、分からないと書いています。できれば、今度は吹き替え版でどこかでもう1回観ておきたい作品です(ロングランすると良いけど……)。

では、いつもの感想・考察です。

感想・考察

作風

独自の作風を確立したストイックなアクションシーン

1作目同様に、ギリギリ視認できる最高の速さで繰り広げられるアクションは本作の見せ場になっている。

本作のアクションは途中でスローモーションになったり、3回リピートしたりはしない。あくまで、目の前で現場に立ち会っている感じで描かれる。そのスピード感、テンポ感の速さが肝である。

しかも、舞台の空間の広がりを使いきったアクションになっている。たとえば、街中で路地を逃走したり追跡や、廃工場の敷地内でさまざまな建物を移動しながら立体的に戦う。向こうの方から金属片が飛んできて、一撃を加えつつまた元に戻って行くような感じである。レイアウトの画角に納まる範囲内で動くが、ときには壮大なパン(カメラを左右に振る)も入る。繰り返しになるが、その現場に立ち会って見ている感覚が強く、没入感がある。シャオヘイの空間系の技は、瞬間移動も兼ねているので、ますますパズル的なアクションで敵だけでなく観客も騙されて目を疑う。この辺りの丁々発止な感じは、カンフー映画的でもある。

そして、これが肝心なのだが、そのアクションシーンの尺が長い。すべてのカットで動体視力を試されているようなストレスがかかる状態で、そのシーンが延々と続く。勿論、バトルの優劣の状況は逐次変化してゆき、その中にも心理的なドラマは組み込んでいるのだが、1カットも気を抜けない。期待を裏切らない情報量で眼福でしかないのだが、同時に観客の集中力も試されているような気分になる。

ぶっちゃけ、私も歳をとってきて動体視力が低下してきているので画面を追いかけるのがキツくて、鑑賞後は疲労感を感じた。

また、アクションに関して台詞による説明も極力無くしている。すべてはアクションの動きで見せると言う気概を感じさせるし、あれだけ激しいアクションをしていたら実際に喋る余裕はないだろう。

ちなみに、本作では劇伴はあまり記憶に残らない。とくにアクションシーンは劇伴で盛り上げるのではなく、戦闘で生じるSEの金属音などに集中できる作風になっている。この辺りも観客を現場に立ち会わせる感覚を重視しているのだろう。とにもかくにも、本作のアクションシーンはすべてがストイックなつくりである。

このアクションシーンのテイストは、羅小黒戦記独特の作風として確立されたと言ってもいいだろう。

たとえば、日本のアクションアニメの一例として「呪術廻戦」と比較しても、これまでに書いてきた作風とは割と違う事は理解してもらえるだろう。空間の広がりを生かしたアクションなどの共通点はあるが、多くの演出手法に違いがある。ともに、作画アニメとしてどこに出しても恥じない作品だが、ここまでディレクションの違いが出るのはおもしろい。

キャラクター

ルーイエとシャオヘイ

初対面の姉弟子と弟弟子。性格もクールなルーイエと、熱血気味なシャオヘイで温度感の違いもあった二人だが、途中で衝突しつつも最終的には互いに認め合い信頼のおける姉弟関係になったように感じた。

ルーイエとシャオヘイの違いで大きなものが2つある。1つは大人か子供か、もう1つは戦争経験の有無である。

ルーイエが持つクールで堅物の大人のイメージ。とくに今回の役どころとしては、ハードボイルドな探偵や刑事のような立ち回りなので余計にそう感じたのかもしれない。とにかく隙を見せたら殺されかねない任務であり隙は見せられない。

さらに、戦災孤児で一度メンタルが壊れてしまった過去が回想シーンで描かれる。他者に噛みつく狂暴な保護犬のような存在だったが、ムゲンの元で修行をしながらメンタルが回復して、社会に適合する大人に成長する経緯が描かれた。だから、他人を簡単に信用せず、基本的に疑って接する。

いささか極端な経緯ではあるが、常にロジカルでビジネスライクに行動する大人のルーイエと、好奇心旺盛な子供であるシャオヘイとの対比になっていたと思う。通常は、大人が子供に接するときは、いちいち迷いや泣き言は言わず、大人としての仮面を被って子供の面倒を見る。仮に二人を疑似的な親子に見立てるとおもしろい。子育ては子供を育てながら親も親として成長する。子供を通してはじめて見えてくるモノがある。

シャオヘイがムゲンに変装した妖精をコテンパンにやっつけるシーンで、ルーイエが民家の屋根上でスマホで撮影しながら大笑いしていたシーンが印象的である。子供の行動が予想外かつ、師匠として圧倒的なムゲンに対するシャオヘイの気持ちに共感できるからこその笑いである。

ムゲンが意図した事なのかどうかは分からないが、本作ではルーイエが改めて子供と接する事で、ルーイエの心が少しだけ柔らかくなるような変化が生じたのではないかと思う。シャオヘイの成長だけでなく、ルーイエの心のリンス効果をともなう成長にもなっていた、と思う。

ちなみに、ホテルでルームサービスで食事しながらビールを飲むシーンは個人的にお気に入りである。お札で結界を張って一時的な休息である。シャオヘイに聞かれたことで少しだけ自分語りをする。このシーンも個人的に好きなシーンである。ちなみに、シャオヘイは無邪気だが、ルーイエは任務のためにシャオヘイの命も預かっており、ここでも完全に庇護関係が描かれている。

もう1つの戦争経験の有無について。シャオヘイは戦争を知らない子供だから無邪気さが際立つ。だからこそ、飛行機乗客の命の優先度でルーイエとシャオヘイは衝突した。シャオヘイをビジネスライクな相棒としてみていたら単なる未熟者となるが、これが戦争を知らない子供の反応というところで、ルーイエの心にも何らかの引っ掛かりがあったのではないかと感じた。

映画のラストの方で、ムゲンに連れられるシャオヘイの姿に自分の子供時代を重ねるシーンがある。この時のルーイエの心情はハッキリとは描かずに観客に委ねられた形になっているが、戦災孤児を作らないと再び心に誓ったのか、もしくは戦争で無くしてしまった(=封印してしまった)自分の子供時代を思い出して少しだけセンチメンタルに浸ったのか、その辺りは何となくしか分からなかった。

だが、この任務を通してシャオヘイという新しい家族の様な繋がりを、ルーイエが受け入れていたように感じられたのが、良かったと思う。

ムゲンとナタ

本作では最強の執行人であるムゲンとナタが一緒にいるシーンが多かった。ナタは中国では昔から大人気のキャラクターなので、中国でのファンサービス的なところもあったのかと思う。

ムゲンを拘束、監禁する役目なわけだが、ナタがゲームを持ち出してムゲンと暇つぶしに興じるシーンで二人の大物感が出ていておもしろい。ナタはかなりの強者ではあるが、葛藤を抱えた成長中の子供という側面もあり、ヤンチャなキャラクターというイメージである。ゲームで接待の件もそうだが、執行人が集結する転送門の前で、ムゲンの茶番劇に付き合って転送門を壊さない程度に暴れ、戒厳令の重苦しい空気を吹き飛ばすように一暴れする。この豪快さがナタの魅力であろう。

一方、ムゲンの年齢は人間ながら400歳を超えており、仙人のような落ち着きをみせ、何があってもまったく動じない。ただ、シャオヘイとの修行のシーンでは、淡々と稽古をつけたり勉強を教えたりするものの、調理が苦手だったり意外な弱みもみせてクスっと笑わせるシーンもある。つまり、仙人すぎて常人の感覚では分からない、という感じだろう。

そんなムゲンだが、転送門の前に執行人が集結している情報を聞いた際には、すかさず駆けつけて茶番劇を売って皆をルオムー奪還の現場に活かせずに足止めした。この時、ナタがムゲンの茶番劇に乗って手助けするシーンが胸熱である。最終的に、2個目のルオムー奪還作戦はムゲン一人がチートを発揮して、ムゲン一人で某国軍事基地を沈黙させて、ルオムー回収してきた。この現行兵器がまったく通用しないチート過ぎるムゲンのシーンは、その迫力とは裏腹にまったく笑えないシーンだった。だから、チート過ぎるムゲンのTシャツを見て、某国軍の司令官が腰を抜かしながらナタと勘違いしたシーンは、大きな緊張からの緩和で大笑いしてしまった。

それはともかく、今までファンタジーだから想像していなかった、ムゲンvs人間の現行兵器群の対決でムゲンが楽勝してしまう事を証明してしまった。その事で、某国軍隊もより妖精に対して警戒を強める事になるだろう。ムゲンの「力」はもう個人のモノではなく、世界を巻き込む脅威として描かれた。

ちなみに、本作では、ムゲンの抑止力としてナタの存在が有効に描かれていたが、これは双方の抑止力と考えてもよいだろう。ただ、転送門の騒動を考えるとムゲンの方が一枚上手なのかなと思える。

普段は館の最強の執行人として、警察官的な振る舞いをしているのだが、ちょっと本気になれば世界をひっくり返すことができる強大な力の持ち主のメンタルやマインドはどのようなモノなのか。仙人のように悟りきっているから、私利私欲に力を使う事はないという事だろうか。今回はチートだったが、1作目のようにフーシーに窮地に追い込まれて命を落とすリスクもあるのが執行人の任務であろう。ムゲンはそういうリスクも背負って生きている。

私は、このムゲンの心情が分からず、でもそこは作劇上、敢えて描いていないのだろうなとは思う。ただ、現状安定しているムゲンのマインドもリンヤオのように謀反を企てる側に変化しないとも限らないのではないか。この状況に対して、今のムゲンのドラマも描いて欲しい、と私は思ってしまう。もしかしたら、それは次回作のネタになるのかもしれないが……。

物語・テーマ

民族紛争から戦争反対へ軸をシフト

まず、1作目のおさらい。

1作目は、妖精vs人間の対立構造(=民族紛争)を描いていたと思う。フーシーは作劇的には悪役の立ち回りだったが、メッセージ的には逆に、単純な正義と悪の二元論で考えてはいけない、個人個人でよく考える事が重要だと私は捉えた。

これは、本作が中国国内で上映される映画であり、中国共産党の検閲がパスしないといけないため、体制側(=人間)を悪く描けない。実際に、1作目の人間は妖精の操り人形になってシャオヘイを追い込む事はあっても、基本的に善良な人間しかいなかったし、あれだけの戦闘が行われても人間の死者は出ていない。徹底的に人間はクリーンかつストレスがかからないよう描かれている。また、作劇的には悪役のフーシーを前半あれだけ優しく魅力的に描いたのも、このメッセージを考えさせるためのフックだったと考えている。

このような、体制側からみたら体制を肯定しているように見えて、反体制側からみたらちゃんと皮肉や問題提起になっているという作品スタイルは、検閲の厳しい旧社会主義国家の芸術ではよくある手法であった。こうしたお国の事情や文法を考慮して鑑賞するというのも、エンタメを観る上で重要なことである。

さて、2作目では、妖精vs某国軍隊(人間)との戦争勃発の危機を描いた。つまり、民族紛争から、戦争の否定に軸が移動した。

まず、流石会館が某国軍隊に襲撃されルオムーが大量に強奪された。ルオムーは対妖精兵器の材料になる。しかも、強奪を手引きした裏切り者としてムゲンに容疑がかかっていた。ちなみに、強奪されたルオムーは空港から3方向に分岐して輸送されており、某国は1国とは限らない描写になっていた。妖精vs人間の構図で緊張が高まる。

1個目のルオムーは、人間嫌いで好戦的な長老チーネンが自ら赴きルオムーを奪還。この作戦で多くの人間を殺している。

2個目のルオムーは軍事基地にあり、このまま奪還作戦を敢行しても妖精側にもかなりの被害者が予想された。そのため館の執行人が多数集められて、戦争でも始めるのかという雰囲気に。これを知ったムゲンとナタの茶番劇があり、今回は大人しくムゲン一人が軍事基地に真正面から乗り込みルオムーを奪還する。

ムゲンのおかげで、妖精の犠牲者を一人も出さずにすんだ。ただ、描かれはしなかったが、某国兵士は死者が出ている可能性は高い。とにかく、双方の被害を最小限に食い止めたおかげで、戦争勃発を回避できた。そして、ムゲンの圧倒的な力が戦争の抑止力になる。

この戦争を回避しなければならない理由については、ルーイエの子供時代のエピソードで説明される。ルーイエは人間の戦争によって家族や師匠やすべてを失った戦災孤児である。狂暴な保護犬みたいに吠えていたルーイエをムゲンが拾って弟子にして育てた。当時のルーイエはPTSDであり、憎しみに支配されていた。ムゲンが文字通り長い時間をかけてルーイエの人間性を取り戻した。今のルーイエにとっては、正義も悪もあまり重要ではなく、大事なのは戦争を否定し回避する事である。ちなみに、シャオヘイは戦争を知らないから、その壮絶さを感覚的には理解できない。

話は長くなったが、戦争は絶対に回避したい。一度戦争が起こってしまえば多くの戦死者と憎しみを生み出す。殴られたから殴り返すでは、そのまま殴り合いの戦争になってしまう。それを回避するために、冷静さが必要である、というテーマに感じた。

ただ、今回はムゲンの圧倒的な力で強引にねじ伏せた形であるが、そもそも人間も妖精も双方ともに疑心暗鬼なところがあり、互いに脅威を感じて戦争になるような構図だったと思う。ご近所付き合いならともかく、国家間ともなると疑心暗鬼するなと言っても無理であろう。もちろん、抑止力としての軍事力は必要だと私も思うし、丸裸では外交はできない。本作ではこの国家間の深い溝は消せないモノとして描かれていたと思う。だからこそ、国民一人一人が感情的にならずに、正義だ悪だと言わずに、冷静に戦争を回避する事を考えなければいけない。

ちなみに、本作での中国共産党の立場だが、妖精と某国との間に立って、妖精側がルオムーを返却して欲しがっているという情報を流す。妖精を助ける善人側である。また、中国人の旅客機の乗客もあれだけの事件に巻き込まれながら、死者は出ていない。本作でもまた、中国人はクリーンでストレスがかからない描き方になっている。悪役である某国軍隊が英語圏なのは、まぁ、そういう事であろう。しかしながら、検閲的な問題もキッチリとクリアし、戦争回避というテーマを描き切った文芸は、今回も見事だったと思う。

正義と悪の二元論の否定

今回は、ルーイエとシャオヘイの対比が良かった。

ルーイエのクールさに距離を感じていたシャオヘイだが、共に行動しながら互いの距離が縮まってゆく。しかし、敵のボスを見つけるために自分自身を囮にしつつ、人間の巻き添え覚悟で行動したルーイエの非情さにシャオヘイが噛みつく。

シャオヘイの主張はシンプルで、罪なき民間人を危険にさらすのはシャオヘイの倫理観では許さなれない、である。

しかし、ルーイエはより多くの犠牲者を出さないために多少の犠牲はやむを得ないし、何なら人間の命の優先度は、妖精のそれよりも低い。これは、人間たちの戦争に巻き込まれ、妖精の家族や師匠を失い、人間を憎んでいた時期もあったという背景がある。ただ、どちらかと言えば、何よりも戦争を憎んでいる。戦争が起きれば、より甚大な被害と大勢の犠牲者が出るから。

果たして、間違っているのはシャオヘイか、ルーイエか。この二人は各々の立場と信念で「正義」を貫き通しており、正義や悪も立場で変わる。勧善懲悪なシンプルな「悪」は本作にはいない。正義と悪の二元論で割り切れない。これは正解のない永遠のテーゼであり、だからこそのエンターテインメントであろう。

さて、一時的に険悪になった姉弟子と弟弟子だが、ルーイエの身の上を乙に聞かされ、ルーイエのヘルプに駆けつけるシャオヘイという展開が熱い。

リンヤオたちを倒した後、妖精と人間との戦争がおきたら、ルーイエは妖精側に着く(=同族優先)とし、シャオヘイは正しい方に着く(=倫理優先)と言う。ただし、シャオヘイの「正しさ」とは立場により変わるから、今後の人生経験や状況でブレる可能性がある。クールなルーイエだが、同族優先というのは感情的にも真っ当な事ではある。ここでも、どちらが正しい、というのはない。

少し話は変わるが、アンチ人間派のチーネンも妖精を大事に思えばこその行動であり一概に悪いとも言えない。裏切り者のリンヤオは善人面して多くの妖精を殺し、ルーイエとシャオヘイも殺そうとした。本作では、見かけや第一印象では善悪を判断できない複雑なキャラクターが多い。もっとも、それは1作目から続く本作の特徴でもある。

恐怖の連鎖で増強される軍事力と、憎しみの連鎖で泥沼化する戦争

本作の緊張状態を今一度整理する。妖精と人間(某国軍隊)は互いに脅威を感じている、というのが大前提。

本作のアバンで某国軍隊が妖精の流石会館を襲撃しルオムーを強奪。ルオムー強奪=妖精への更なる攻撃を意味するので、緊張状態が一気に高まる。しかも、ムゲンが裏切り者として某国軍隊を手引きした疑惑がかけられている。本作では、この準戦時下の状況から、いかに開戦を防ぐかというテーマで物語が進む。

まず、流石会館襲撃事件は某国軍隊が「悪」として描かれる。対妖精兵器を作るためのムオルーを強奪する目的だが、妖精たちの持つ強大な「力」に脅威を感じて対抗するためなのだろう。作劇上は、終盤で人間のムゲンが無双して一人で軍事基地を壊滅させた。某国はこれでムゲンの圧倒的な「力」を直接見せつけられたことで、恐怖心を膨らませ、さらなる軍事力を強化する可能性が高いだろう。

この構図は、アンチ人間派のチーネンにも当てはまる。いきなり襲撃され、強奪されたものが対妖精兵器を作る材料なら、人間を許さない気持ちが爆発するだろう。これは他の種族に対する怒りの感情。軍事的行動で攻撃してきたのは某国軍隊だが、殴られたから殴り返したというのでは戦争になり泥沼化する。戦争は始めるのは簡単で終わらせるのが難しいと言うのが定説である。

総館長のユーディは、冷静さを持って事態を見守る。ルオムー奪還と裏切り者が誰なのかの事実確認を指示して、状況が明確になるまで静観する。こういう時にリーダーが取り乱したら、組織の統制がとれなくなり、破綻するのが世の常。

龍遊会館のキュウ爺やパンジンは人間との共存を実践してきており、信頼関係の継続を願っているのだろう。フーシーの事件でも描かれてきた「共生」は1作目のテーマであった。

しかし、いざ戦争が開始されてしまうと、妖精vs人間の憎しみ合いの構図ができ、それが雪だるま式に膨らんで取り返しがつかなくなる。信頼関係を築くのは長年だが、壊れるのは一瞬。その先にあるのは、ルーイエのようなメンタルが壊れた人たちに溢れ、不幸で染まる世界。戦争は簡単にはじめられるが、終わらせるのはとても難しい。

本作ではムゲンが無双する事で妖精たちの被害を最小限に抑えて2個目のルオムーを奪還し、裏切り者のリンヤオも捕獲して館で幽閉して一段落したところで終わる。準戦時下状態から、全面戦争への移行は踏みとどまっている状況である。しかし、ムゲン無双を直接、肌で感じた某国軍隊が、より妖精たちを恐れて何かしでかさないとも限らない。3個目のルオムーは未回収で某国が確保したまま。妖精側も人間にヘイトを集める者が増えている素地がある。開戦の緊張はいつまで続くのか。

今回のテーマは、このあたりの「戦争」の否定にあったと思う。それは、現在も戦争状態にある国があり、米中もある程度の緊張状態にあるという時勢を反映したモノなのだろう。

リンヤオの本当の目的の謎

さて、今回の黒幕であるリンヤオ。もともと妖精と人間の共存派だったと思うが、何かがあって考え方が変わった。その理由は、鑑賞回数1回の私には、まだ読み取れていない。

人間の科学力の進歩は著しい。このままいけば人間が妖精を圧倒する日も近いだろう。そうなったときに、現状の人間と妖精の「共生」は成立するのか? ここまではわかる。

しかし、人間を手引きして対妖精兵器の材料になるルオムーを強奪させ、一気に緊張状態を作った。どう考えても、戦争を引き起こそうとしている。何のために? この部分が私の中で繋がっていない。

いくつか考えてみたが、どれもしっくりこない。

1つ可能性として考えられるのは、今のうちに人間を妖精に服従させるために、戦争という形で人間を支配する世界を思い描いていたのかも。チーネンのようなアンチ人間の好戦的な妖精も多いので、着火剤に点火さえすれば、後は燃焼するのを見ているだけでいい。そのためにも、人間側を焚きつけて、妖精を脅威に仕立て上げてみせる。ムゲン無双で某国軍隊が完全に歯が立たなかったことで、さらに脅威が確信に変わる。今回の件で某国軍隊が大人しく引き下がる可能性はゼロではないが、逆に反撃してきても不思議ではない。こうして、人間と妖精の間で互いに恐怖の連鎖が加速する。

しかし、その先にあるのは人間の服従か、妖精の絶滅か、行く着く先がコントロールできるような気がしないし。何より、妖精を裏切り居場所がなくなるリンヤオに何の得もない。

もう1つの可能性は、素直にリンヤオが人間側に寝返るというパターン。進化論的に世界に適合するのが人間だから、そちらに着いてゆくというもの。しかし、同胞である妖精を陥れてまで自分が生き延びたいというような、そんな小さなタマとも思えない。

少なくとも、リンヤオには何らかの戦争をはじめても致し方ないという大義(=正義)があっての事だと思うのだが、その大義が良く分からなかった。

それにしても、虫も殺さないような顔をして、随分と恐ろしい事を考える策士である。革命家と言ってもいいかもしれない。切れ者である事には間違いない。

個人的にはリンヤオに対する理解が不足していると感じているので、もう少し映画を観て理解を深めたいところである。

2025年の反戦映画として

最近、反戦映画が何本か出てきているような気がしているが、ウクライナパレスチナの戦争という時代を反映しているのではないかと思う。

「窓ぎわのトットちゃん」は日本の富裕層が太平洋戦争で国民全体が疲弊してゆく社会を子供視点で描いていた。戦争により「お国のために」という同調圧力があり、子供視点でその社会の歪と恐怖を感じさせる。戦争反対を声高に叫ぶこともできないが、理性を持って同調圧力に屈しない人たちも描かれた。

映画ではないが「cocoon ~ある夏の少女たちより~」というNHKで放送された1時間枠のアニメがあった。この作品では、太平洋戦争の沖縄戦が舞台である。流されがちなひめゆり学徒隊のサンが、戦場での壮絶で悲惨な経験の中、思考停止せず自分の力で判断して生き延びる。最後は随分と凛々しくなっていたのだが、テーマとしては周囲の空気に流されずに自分の理性で考えて戦争を反対する、みたいなところだったと思う。同調圧力に屈しないで、という意味ではトットちゃんとも近いメッセージを感じる。

さて「羅小黒戦記」の1作目だが、個人的にはこんなメッセージが隠されていたと思う。それは、民族紛争について体制のいう事を鵜呑みにせず、正義と悪のような勧善懲悪に落とし込まず、何が起きているか自分の頭で判断してほしい、ということ。フーシーが悪者だったのかどうかは、シャオヘイの心の中に答えがある、とムゲンは言っていた。その意味では、他人に判断を委ねずに自分自身で考えるというメッセージは前述のcocoonに共通するメッセージかもしれない。

そして本作だが、開戦前の戒厳令下の緊迫した状況を描いており、それは戦争がわが身に降りかかって来てもおかしくない世界情勢を反映しているということかもしれない。総館長をはじめ妖精側のリーダーが感情的にならずに冷静に対処して戦争勃発を回避してゆく様が描かれた。頭に血が上って感情的になり、割と好戦的な態度だったチーネンが対照的に描かれたキャラクターであろう。戦争孤児であるルーイエが絶対に戦争を回避する信念と、その理由として彼女の悲惨な戦争体験の断面を描いていた。戦争は開始するのは勢いだが、終わらせるのは難しい。そして、様々なキャラクターが戦争回避のために、慎重かつ冷静に対処した。本作には、緊張状態だからこそ冷静さを持って慎重に戦争回避したい、というメッセージに感じた。その意味では、cocoonのメッセージにも近いのかもしれない。本作もまた間違いなく反戦映画だったと思う。

ところで、「羅小黒戦記」の1作目と2作目の関係は、「劇場版パトレイバー」の1作目と2作目の関係に似ていると思う。1作目はよりメジャーなエンタメ作品の作風だが、2作目は監督の趣味趣向が露出してマイナーな作風に変化してきた。「劇場版パトレイバー2」は、情報操作により戦争勃発の危機が迫る戒厳令下の重苦しい空気と緊迫感が印象的な作品だったが、本作にもまったく同じ空気を感じた。その意味では、本作は「劇場版パトレイバー2」と同じ匂いを持つ、戒厳令映画とも言えるかもしれない。

おわりに

重々しい部分の感想ばかりになってしまいました。1作目からあるユーモアや笑いも楽しめる作風は健在ですが、登場する大人たちの表情は険しく、実際に作品のテイストも随分と重厚で重い作風になっていたというのが、率直な感想です。

ただ、これも今の時勢を反映した映画だったと思います。

もし仮に、5年後くらい先に続編で3作目が登場したとき、もう少し明るい映画になっている(=世界も明るい話題にシフトしている)事を望みたい、という思いがよぎりました。