たいやき姫のひとり旅

アニメ感想など…

さよならプリンセス / Kai

はじめに

私はウクレレ初心者で、U-FLETなどを見ながら昔のアニソンや歌謡曲などの弾き語りを練習しています。

今回はいつも弾き語りの練習の時に作成しているコード表を使いながら「さよならプリンセス」という曲について弾き語りメモをブログとして公開してみたいと思います。

簡単な自己紹介とメモの意図

こんな事を書いていますが、私はウクレレ初心者で、バリバリの奏者というわけでもありません。もともと音感ゼロ、リズム感ゼロの音楽のド素人と思ってください。

一応、私のウクレレスキルがどれくらいの初心者なのかを自分語りで書き留めておこうと思いますが、興味のない人はすぐ次の章へジャンプして構いません。

ウクレレは2年くらい前から、YouTube動画を見ながら独学で練習しています。たまたま、家に使っていないウクレレがあって、という感じでした。

最初は、「ガズレレ」というチャンネルを中心にいろいろと動画を漁って練習しながら知識も身に着けていったという感じですが、昔のマイナーなアニソンを弾こうとしたときに、U-FLETなるサイトで楽曲のコードが調べられるサイトがある事が分かり活用しはじめました。

YouTube音楽理論的な動画やアコギなどの他の楽器の情報もちょくちょく拝見しながら、いろんな情報がネットに溢れていて、この時代のありがたさを実感しました。もともと、Vtuberの歌枠配信なども好きで見ていたのですが、最近はギターやピアノの弾き語り配信の人もずいぶんと増えて、嬉しい限りです。バリバリの音大卒のプロの音楽家みたいな人から、趣味でやっている人から、いろんなレベルの弾き語りが聴けるというのが良いと思います。語弊があるといけないですが、上手すぎない弾き語りが聴けることで、身近に感じて自分もやってみようという気持ちになれます。手が届きそうな気がするとことがポイントです。

ちなみに、私はコード弾きの弾き語りを練習していて、ソロ弾きはまだまったくの未着手です。そのうちチャレンジしてみたいとは思っています。

U-FLETのコードもプロから見るといろいろクセがあるのかもしれません。もともとギター用のコードで作られていると思います。その意味で、ギターのクセみたいなのがありそうな感じはしています。しかしながら、、コードが比較的簡単な昔の曲であれば、U-FLETでコードを覚えて演奏する事も自力で弾けるようになってきました。ただ、毎回U-FLETを見ながら演奏するのも何ですし、曲全体がどうなっているかを把握して演奏したい気持ちが強いので、独自にコード表を作ってコード表で演奏できるようにしています。面倒ですが、繰り返し演奏できるように体に覚えさせるためには有効な作業だと思っています。

で、この「さよならプリンセス」という曲と出会いまして、あー、これシンコペーションを書いておかないと分からなくなるヤツという事でオフボーカルのカラオケ音源を聞き入りながらシンコペーションを調べました。U-FLETの動画プラスは非常に強力なツールではありますが、0.5拍ずらすという概念に対しては、表現は苦手なのも分かりました。

ちなみに、現状の私の演奏レベルですが、「さよならプリンセス」という曲は、転調前の部分は弾けますが、転調後のコード部分はゆっくりでしか弾けません。最後の部分までスムーズに弾けるようになるには、ずいぶん先になりそうな気がしています。しかし、1年前には弾けなくても最近弾けるようになっていたコードも増えており、継続してやり続けているとなんとかなるもんなのかと楽観視しています。まぁ、プロの奏者レベルというわけではないので。練習で手が届くと信じることが大切な気がします。

話は変わりますが、たまたま、はてなブログJASRAC著作権の包括提携をしており、歌詞や楽譜をブログ記事にしても著作権法的にOKであるという情報を知りました。その事で、私がいつもやっているコード表の事を、ウクレレ弾き語りノウハウとして記録を残し共有してもいいのではなか、と思いました(ちなみにnoteはJASRACとの契約はなく、歌詞の掲載は著作権NGになると思います)。

今回は、シンコペーションという大きなネタでもあり、共有する価値があるとも思いました。

はじめての試みであり、いろいろと理解しきれていないところもあるかもしれませんが、音楽ド素人のブログなのでお手柔らかにお願いします。

ちなみに、私のブログは「はじめに」「おわりに」だけ「ですます調」で書くというルールですが、この自己紹介は「ですます調」にしました。本文からはいつもの「である調」になります。

ウクレレ弾き語りメモ

コード表

「さよならプリンセス」のコード表とコードダイアグラムを下記に示す。

このコード表は私のメモであり、記載方法が独自なところもあるので、少し補足説明する。

歌詞の部分で、「↓」が記載されている箇所は、その箇所でその小説の1拍目が入る。「↓」より左側の歌詞は、前の小節で歌うべき歌詞になっているので注意して欲しい。

解説

見ればわかるとおり、使ってるコードの登場パターンはほぼ同じコード進行のループである。基本のコードは、Fmaj7、E7、Am7、G#m7、Gm7、C7の6個だけ。青色は転調して+2キー上がり、水色はさらに転調してまた+1キー上がる。重複もあるから、合計15種類のコードを使う。

この曲は異様にテンポが速く、BPM=195なので素早いコードチェンジが要求される。1拍ずつコードチェンジする箇所があるが、1拍=0.3秒である。

コードの前に「←」「→」の矢印の記載を入れているが、これはシンコペーションを表す。シンコペーションは拍をワザとずらして、リズムに抑揚を付ける技法である。

  • シンコペーション
    • 「←」:コードチェンジを半拍前に前にずらす。
      • 8ビートなら、直前のUPストロークでコードチェンジする。
    • 「→」:コードチェンジを半拍後ろにずらす。
      • 8ビートなら、本来のタイミングでは空振りし、直後のUPストロークでコードチェンジする

おおむね4小節で1セットになっており、末尾の4小節目のキメのコードパターンは2種類ある。

  • 4小節目のコードパターン

    • パターンA:「ジャーカ ジャカジャカジャカ」(例:4小節目)
      • コードチェンジが4回入る
    • パターンB:「ダッ ダッ ダダッ」(例:8小節目)

パターンAは、1拍目がシンコペーションになっているからこそ、先頭部分は「ジャーカ」と少し伸びた感じが出せる。シンコペーションのおかげで演奏していても気持ちいい。

シンコペーションがある事で、前のめり感が出る。クルマで言えば加速しているイメージと考えればいいだろう。逆に後ろにずらすシンコペーションでは緩い感じになる。良く見るとわかるが、シンコペーションの付け方が何パターンも存在し、シンコペーションが何小節も続くパターンもあり、脳トレみたいになっている。混乱しがちなので、注意深く弾く必要がある。

もし、シンコペーションがなければ、演奏自体も単調で抑揚の少ないモノになる。それでも歌唱を乗っける事は普通に可能だが、やはり弾き語りとしてはベッタリした感じになり寂しい。

これは個人的な見解だが、リズムを複雑にして乱すことで、ノリの良さを表現すると同時に主人公の精神的な不安定さを表現しているのかな、と想像している。

ちなみに、このコード表のシンコペーションを確認するために、ニコカラのオフボーカル版の動画を参考にした。

シンコペーションの練習曲として

ウクレレ奏者によく知られている「Crazy-G」というジャカソロ曲がある。小指を大きく動かす必要があったり、曲自体も短いのでトレーニング要素が強い練習曲として親しまれている。

私が「さよならプリンセス」でコード表を作成し、ゆっくりだが実際に弾いてみた感じ、直感的にシンコペーションの練習曲になると感じた。冒頭(サビ)部分だけでもこの曲の良さが凝縮されているので、ここだけ繰り返していても楽しい。

最初は限られたコードパターンで簡単なのだが、転調後はすべてコードが入れ替わるで、そこでもコードを覚える必要がありしかもコードが難しくなる。曲のラストの二度目の転調のコードはさらに難しい。転調前までは割と順調でも、転調後で壁にぶつかるパターンは多いと思う。

次に、練習のステップを下記の表に示す。

No. ステップ 小節 メモ
1 冒頭(サビ) 1~8小節 この8小節に良さが凝縮、楽しい
2 転調前まで 1~40小節 すべてのシンコペーションパターン
3 転調1 41~58小節 転調(+2キー)はちょっとムズい
4 転調2 91~102小節 二度目の転調(+3キー)はかなりムズい
5 通し 1~102小節
  1. 冒頭(サビ):1~8小節
    • この8小節にこの曲の楽しさが凝縮されていると言っても過言ではない。ここができれば7割弾けたも同然である。
    • 4小節目の「ジャーカ ジャカジャカジャカ」と8小節目の「ダッ ダッ ダダー」の2つのキメは、その後反復して使われるのでここで完全にしておく。
    • 「G#m7」コードが難コード(代替コードあり)
    • 1小節目の「Fmaj7 E7」と3小節目の「Fmaj7 ←E7」も何気に違うので注意
  2. 転調前まで:1~40小節
  3. 転調1:41~58小節
    • サビ部分だが、転調(+2キー)なのでコードが総入れ替えになり難しくなる。
    • 「ジャーカ ジャカジャカジャカ」がセーハのスライド!
    • 「G#maj7」コードが難コード
    • ここまでできれば、1番の完成!
    • 冒頭(サビ)とちょっとシンコペーションの入り方が違う点に注意
  4. 転調2:91~102小節
    • 曲のラストが最期の難関。
    • さらに半音上げの転調(+3キー)でコードは劇ムズに。
    • 「G#7」コードが難コード
    • 「ジャーカ ジャカジャカジャカ」も単なるスライドだった転調1よりも複雑な運指になる

代替コード

4小節目の「Am7 G#m7 Gm7 C7」のコード進行だが、「G#m7」が難コードなので、私は代替コードを使っている。

問題の「G#m7」は4弦から(1 3 2 2)フレットを押さえるが、私は(0 3 2 2)「E7」で代用してる。察しのよい人ならお気づきだろうが、次のコードの「Gm7(0 2 1 1)」の指の形をそのままスライドさせたものである。4弦は解放のままになるが、スライドするだけなので運指をイメージしやすくミスしにくくなる。

ただ、耳のいい人からすると、この代替コードはおススメではないらしい。マイナーコードをメジャーコードに代替するのはかなり違和感があるとか、ドミナントやらトニックやらが変わるのはダメとか、セオリーから外れているらしい。

もし、この辺りが気になる人は最終的には「G#m7」を目指すのが良いと思うが、曲のノリを体に覚えるだけであれば、とりあえず代替コードで練習しておくのはアリだと思う。

シンコペーションとUPストローク

「さよならプリンセス」は、基本的に8ビート(もしくは、8ビートのチャ!)の演奏に対して、シンコペーションを入れる部分でUPストロークさせれば、綺麗に半拍ずらした演奏ができる。UPストロークはDOWNストロークと音の出方が変わるので、UPストロークにするだけで少々メリハリがつくという利点がある。

ただ、人によっては、拍打ちのタイミングを計ってほとんどをDOWNストロークで演奏スタイルもあるだろう。これはこれでアリであろう。私はできないが、多分、リズム感がいい人でないとできないのではないかと思う。

カポ3

コード表は原曲-3キーになっているので、カポ3で演奏すれば原曲キーになる。

しかし、ソプラノウクレレでカポ3すると、かなり手元も狭くなり、カチカチの音になってしまうので、私はカポを使わず、-3キーのまま練習している。

U-FLETの動画プラスとシンコペーションの相性の悪さ

私はだいたいU-FLETの無料アカウントを活用している。U-FLETの中でもメジャーな曲は「動画プラス」というYouTubeのMV再生と連動して、コードチェンジのタイミングがわかる便利なサービスがあり、とても便利ではある。しかし、シンコペーションの曲と相性が悪いところもあり、その辺りについて説明する。

動画プラスの画面を下記に引用する。

  • (a) MV動画再生エリア
  • (b) 1拍単位のコードダイアグラム
  • (c) 歌詞+コードダイアグラム

(b)は、1拍単位にコードチェンジが行われるタイミングにコードダイアグラムが表示されており、右から左にスクロールしてゆく。画面の左端から2個目が今のタイミングなので、何拍後にどのコードがくるかリアルタイムにわかる。間奏などで大変活躍する。

(c)は、従来の歌詞+コードダイアグラムの表示だが、こちらも現在のコードダイアグラムが黄色にリアルタイムで表示される。

さて、ここまで説明して気になっている人もいると思うが、半拍ずらすシンコペーションはこの動画プラスでどう処理されているのか?

(b)は、前倒しシンコペーションは、シンコペーションがない時とまったく表示に違いがないため、シンコペーションか否かは識別できない。後ろ倒しシンコペーションの場合、1拍遅れで表示されるが、意地悪を言えば、-0.5拍のシンコペーションか、-1拍遅れなのかは識別できない。シンコペーションの曲に関しては、(b)は混乱の元になるのであまり見ない方がいいと思う。

(c)は、シンコペーションしているタイミングに完全に一致してダイアグラムの黄色表示が移動してゆくのでこちらは動きとしては正しい。変わった瞬間が識別できるので、よほど反射神経が良ければそれに反応する事もできるかもしれないが、実際のところ即座に反応するのは難しいだろう。

つまり、動画プラスであってもこの「さよならプリンセス」の曲のリズム、拍打ちのタイミングは完全に後出しなので、予測するのは難しい。

ではどうするか?

1つの方法は、真っ当に楽譜を見ることだろう。ただ、私は楽譜に疎く読めないし、買うことはない。

もう1つの方法は、曲のリズム(=拍打ちのタイミング)を完全に体に覚えさせる。曲に乗ってしまえばそのタイミングでコードチェンジできるという寸法だが、これは曲の聞き込みとリズム感が重要になるだろう。

そして、今回のブログ記事の方法である、曲のリズム(シンコペーション)をコード表などに書き出して、それを見ながら演奏する方法。もともと、楽譜もリズム感も絶望的な私には、この方法しかなかった。

作者のKaiさんXポスト引用

最後に、この曲の作者である、KaiさんのXポストを引用して紹介させていただきたい。

Kaiさんも弾き語りを想定して曲を作っている感じでよいのだろうか。

気軽な感じのコメントになっているが、コードを単調にした代わりに、リズムが複雑でサビの転調もあるので、それほど弾き語り入門曲ではないような気がしているのである種のトラップのような気がしなくもない。

ただ、決まれば弾き語りがカッコいいのは間違いないので、弾き語れるようになりたいな、という気持ちです。

おわりに

いつもコード表を作っていますが、今回のように聴きこまないと分からないこともあり、いつもいつも作るのに時間はかかっています。でも、全体を把握できる上に、ある程度聞きこむので、曲への理解が深まります。

私は基本一人で黙々とウクレレを弾いているので、こうしたノウハウのアウトプット先はなかったのですが、今回このような形にすることができて、良かったと思います。

羅小黒戦記2 ぼくらが望む未来

ネタバレ全開につき閲覧ご注意ください。

はじめに

1作目から5年。満を持してな感じで公開された「羅小黒戦記2(字幕版)」を観てきました。

物語は少々複雑になり、テイストは重々しく戒厳令下の緊張を描く感じで驚きましたが、それも最近多く感じる反戦映画の一本として作られてきたなぁ、というのが色々と考えて思うところになります。

感想・考察をまとめていたのですが、鑑賞1回では理解が追いつかないところもあり、考察しきれないところは、分からないと書いています。できれば、今度は吹き替え版でどこかでもう1回観ておきたい作品です(ロングランすると良いけど……)。

では、いつもの感想・考察です。

感想・考察

作風

独自の作風を確立したストイックなアクションシーン

1作目同様に、ギリギリ視認できる最高の速さで繰り広げられるアクションは本作の見せ場になっている。

本作のアクションは途中でスローモーションになったり、3回リピートしたりはしない。あくまで、目の前で現場に立ち会っている感じで描かれる。そのスピード感、テンポ感の速さが肝である。

しかも、舞台の空間の広がりを使いきったアクションになっている。たとえば、街中で路地を逃走したり追跡や、廃工場の敷地内でさまざまな建物を移動しながら立体的に戦う。向こうの方から金属片が飛んできて、一撃を加えつつまた元に戻って行くような感じである。レイアウトの画角に納まる範囲内で動くが、ときには壮大なパン(カメラを左右に振る)も入る。繰り返しになるが、その現場に立ち会って見ている感覚が強く、没入感がある。シャオヘイの空間系の技は、瞬間移動も兼ねているので、ますますパズル的なアクションで敵だけでなく観客も騙されて目を疑う。この辺りの丁々発止な感じは、カンフー映画的でもある。

そして、これが肝心なのだが、そのアクションシーンの尺が長い。すべてのカットで動体視力を試されているようなストレスがかかる状態で、そのシーンが延々と続く。勿論、バトルの優劣の状況は逐次変化してゆき、その中にも心理的なドラマは組み込んでいるのだが、1カットも気を抜けない。期待を裏切らない情報量で眼福でしかないのだが、同時に観客の集中力も試されているような気分になる。

ぶっちゃけ、私も歳をとってきて動体視力が低下してきているので画面を追いかけるのがキツくて、鑑賞後は疲労感を感じた。

また、アクションに関して台詞による説明も極力無くしている。すべてはアクションの動きで見せると言う気概を感じさせるし、あれだけ激しいアクションをしていたら実際に喋る余裕はないだろう。

ちなみに、本作では劇伴はあまり記憶に残らない。とくにアクションシーンは劇伴で盛り上げるのではなく、戦闘で生じるSEの金属音などに集中できる作風になっている。この辺りも観客を現場に立ち会わせる感覚を重視しているのだろう。とにもかくにも、本作のアクションシーンはすべてがストイックなつくりである。

このアクションシーンのテイストは、羅小黒戦記独特の作風として確立されたと言ってもいいだろう。

たとえば、日本のアクションアニメの一例として「呪術廻戦」と比較しても、これまでに書いてきた作風とは割と違う事は理解してもらえるだろう。空間の広がりを生かしたアクションなどの共通点はあるが、多くの演出手法に違いがある。ともに、作画アニメとしてどこに出しても恥じない作品だが、ここまでディレクションの違いが出るのはおもしろい。

キャラクター

ルーイエとシャオヘイ

初対面の姉弟子と弟弟子。性格もクールなルーイエと、熱血気味なシャオヘイで温度感の違いもあった二人だが、途中で衝突しつつも最終的には互いに認め合い信頼のおける姉弟関係になったように感じた。

ルーイエとシャオヘイの違いで大きなものが2つある。1つは大人か子供か、もう1つは戦争経験の有無である。

ルーイエが持つクールで堅物の大人のイメージ。とくに今回の役どころとしては、ハードボイルドな探偵や刑事のような立ち回りなので余計にそう感じたのかもしれない。とにかく隙を見せたら殺されかねない任務であり隙は見せられない。

さらに、戦災孤児で一度メンタルが壊れてしまった過去が回想シーンで描かれる。他者に噛みつく狂暴な保護犬のような存在だったが、ムゲンの元で修行をしながらメンタルが回復して、社会に適合する大人に成長する経緯が描かれた。だから、他人を簡単に信用せず、基本的に疑って接する。

いささか極端な経緯ではあるが、常にロジカルでビジネスライクに行動する大人のルーイエと、好奇心旺盛な子供であるシャオヘイとの対比になっていたと思う。通常は、大人が子供に接するときは、いちいち迷いや泣き言は言わず、大人としての仮面を被って子供の面倒を見る。仮に二人を疑似的な親子に見立てるとおもしろい。子育ては子供を育てながら親も親として成長する。子供を通してはじめて見えてくるモノがある。

シャオヘイがムゲンに変装した妖精をコテンパンにやっつけるシーンで、ルーイエが民家の屋根上でスマホで撮影しながら大笑いしていたシーンが印象的である。子供の行動が予想外かつ、師匠として圧倒的なムゲンに対するシャオヘイの気持ちに共感できるからこその笑いである。

ムゲンが意図した事なのかどうかは分からないが、本作ではルーイエが改めて子供と接する事で、ルーイエの心が少しだけ柔らかくなるような変化が生じたのではないかと思う。シャオヘイの成長だけでなく、ルーイエの心のリンス効果をともなう成長にもなっていた、と思う。

ちなみに、ホテルでルームサービスで食事しながらビールを飲むシーンは個人的にお気に入りである。お札で結界を張って一時的な休息である。シャオヘイに聞かれたことで少しだけ自分語りをする。このシーンも個人的に好きなシーンである。ちなみに、シャオヘイは無邪気だが、ルーイエは任務のためにシャオヘイの命も預かっており、ここでも完全に庇護関係が描かれている。

もう1つの戦争経験の有無について。シャオヘイは戦争を知らない子供だから無邪気さが際立つ。だからこそ、飛行機乗客の命の優先度でルーイエとシャオヘイは衝突した。シャオヘイをビジネスライクな相棒としてみていたら単なる未熟者となるが、これが戦争を知らない子供の反応というところで、ルーイエの心にも何らかの引っ掛かりがあったのではないかと感じた。

映画のラストの方で、ムゲンに連れられるシャオヘイの姿に自分の子供時代を重ねるシーンがある。この時のルーイエの心情はハッキリとは描かずに観客に委ねられた形になっているが、戦災孤児を作らないと再び心に誓ったのか、もしくは戦争で無くしてしまった(=封印してしまった)自分の子供時代を思い出して少しだけセンチメンタルに浸ったのか、その辺りは何となくしか分からなかった。

だが、この任務を通してシャオヘイという新しい家族の様な繋がりを、ルーイエが受け入れていたように感じられたのが、良かったと思う。

ムゲンとナタ

本作では最強の執行人であるムゲンとナタが一緒にいるシーンが多かった。ナタは中国では昔から大人気のキャラクターなので、中国でのファンサービス的なところもあったのかと思う。

ムゲンを拘束、監禁する役目なわけだが、ナタがゲームを持ち出してムゲンと暇つぶしに興じるシーンで二人の大物感が出ていておもしろい。ナタはかなりの強者ではあるが、葛藤を抱えた成長中の子供という側面もあり、ヤンチャなキャラクターというイメージである。ゲームで接待の件もそうだが、執行人が集結する転送門の前で、ムゲンの茶番劇に付き合って転送門を壊さない程度に暴れ、戒厳令の重苦しい空気を吹き飛ばすように一暴れする。この豪快さがナタの魅力であろう。

一方、ムゲンの年齢は人間ながら400歳を超えており、仙人のような落ち着きをみせ、何があってもまったく動じない。ただ、シャオヘイとの修行のシーンでは、淡々と稽古をつけたり勉強を教えたりするものの、調理が苦手だったり意外な弱みもみせてクスっと笑わせるシーンもある。つまり、仙人すぎて常人の感覚では分からない、という感じだろう。

そんなムゲンだが、転送門の前に執行人が集結している情報を聞いた際には、すかさず駆けつけて茶番劇を売って皆をルオムー奪還の現場に活かせずに足止めした。この時、ナタがムゲンの茶番劇に乗って手助けするシーンが胸熱である。最終的に、2個目のルオムー奪還作戦はムゲン一人がチートを発揮して、ムゲン一人で某国軍事基地を沈黙させて、ルオムー回収してきた。この現行兵器がまったく通用しないチート過ぎるムゲンのシーンは、その迫力とは裏腹にまったく笑えないシーンだった。だから、チート過ぎるムゲンのTシャツを見て、某国軍の司令官が腰を抜かしながらナタと勘違いしたシーンは、大きな緊張からの緩和で大笑いしてしまった。

それはともかく、今までファンタジーだから想像していなかった、ムゲンvs人間の現行兵器群の対決でムゲンが楽勝してしまう事を証明してしまった。その事で、某国軍隊もより妖精に対して警戒を強める事になるだろう。ムゲンの「力」はもう個人のモノではなく、世界を巻き込む脅威として描かれた。

ちなみに、本作では、ムゲンの抑止力としてナタの存在が有効に描かれていたが、これは双方の抑止力と考えてもよいだろう。ただ、転送門の騒動を考えるとムゲンの方が一枚上手なのかなと思える。

普段は館の最強の執行人として、警察官的な振る舞いをしているのだが、ちょっと本気になれば世界をひっくり返すことができる強大な力の持ち主のメンタルやマインドはどのようなモノなのか。仙人のように悟りきっているから、私利私欲に力を使う事はないという事だろうか。今回はチートだったが、1作目のようにフーシーに窮地に追い込まれて命を落とすリスクもあるのが執行人の任務であろう。ムゲンはそういうリスクも背負って生きている。

私は、このムゲンの心情が分からず、でもそこは作劇上、敢えて描いていないのだろうなとは思う。ただ、現状安定しているムゲンのマインドもリンヤオのように謀反を企てる側に変化しないとも限らないのではないか。この状況に対して、今のムゲンのドラマも描いて欲しい、と私は思ってしまう。もしかしたら、それは次回作のネタになるのかもしれないが……。

物語・テーマ

民族紛争から戦争反対へ軸をシフト

まず、1作目のおさらい。

1作目は、妖精vs人間の対立構造(=民族紛争)を描いていたと思う。フーシーは作劇的には悪役の立ち回りだったが、メッセージ的には逆に、単純な正義と悪の二元論で考えてはいけない、個人個人でよく考える事が重要だと私は捉えた。

これは、本作が中国国内で上映される映画であり、中国共産党の検閲がパスしないといけないため、体制側(=人間)を悪く描けない。実際に、1作目の人間は妖精の操り人形になってシャオヘイを追い込む事はあっても、基本的に善良な人間しかいなかったし、あれだけの戦闘が行われても人間の死者は出ていない。徹底的に人間はクリーンかつストレスがかからないよう描かれている。また、作劇的には悪役のフーシーを前半あれだけ優しく魅力的に描いたのも、このメッセージを考えさせるためのフックだったと考えている。

このような、体制側からみたら体制を肯定しているように見えて、反体制側からみたらちゃんと皮肉や問題提起になっているという作品スタイルは、検閲の厳しい旧社会主義国家の芸術ではよくある手法であった。こうしたお国の事情や文法を考慮して鑑賞するというのも、エンタメを観る上で重要なことである。

さて、2作目では、妖精vs某国軍隊(人間)との戦争勃発の危機を描いた。つまり、民族紛争から、戦争の否定に軸が移動した。

まず、流石会館が某国軍隊に襲撃されルオムーが大量に強奪された。ルオムーは対妖精兵器の材料になる。しかも、強奪を手引きした裏切り者としてムゲンに容疑がかかっていた。ちなみに、強奪されたルオムーは空港から3方向に分岐して輸送されており、某国は1国とは限らない描写になっていた。妖精vs人間の構図で緊張が高まる。

1個目のルオムーは、人間嫌いで好戦的な長老チーネンが自ら赴きルオムーを奪還。この作戦で多くの人間を殺している。

2個目のルオムーは軍事基地にあり、このまま奪還作戦を敢行しても妖精側にもかなりの被害者が予想された。そのため館の執行人が多数集められて、戦争でも始めるのかという雰囲気に。これを知ったムゲンとナタの茶番劇があり、今回は大人しくムゲン一人が軍事基地に真正面から乗り込みルオムーを奪還する。

ムゲンのおかげで、妖精の犠牲者を一人も出さずにすんだ。ただ、描かれはしなかったが、某国兵士は死者が出ている可能性は高い。とにかく、双方の被害を最小限に食い止めたおかげで、戦争勃発を回避できた。そして、ムゲンの圧倒的な力が戦争の抑止力になる。

この戦争を回避しなければならない理由については、ルーイエの子供時代のエピソードで説明される。ルーイエは人間の戦争によって家族や師匠やすべてを失った戦災孤児である。狂暴な保護犬みたいに吠えていたルーイエをムゲンが拾って弟子にして育てた。当時のルーイエはPTSDであり、憎しみに支配されていた。ムゲンが文字通り長い時間をかけてルーイエの人間性を取り戻した。今のルーイエにとっては、正義も悪もあまり重要ではなく、大事なのは戦争を否定し回避する事である。ちなみに、シャオヘイは戦争を知らないから、その壮絶さを感覚的には理解できない。

話は長くなったが、戦争は絶対に回避したい。一度戦争が起こってしまえば多くの戦死者と憎しみを生み出す。殴られたから殴り返すでは、そのまま殴り合いの戦争になってしまう。それを回避するために、冷静さが必要である、というテーマに感じた。

ただ、今回はムゲンの圧倒的な力で強引にねじ伏せた形であるが、そもそも人間も妖精も双方ともに疑心暗鬼なところがあり、互いに脅威を感じて戦争になるような構図だったと思う。ご近所付き合いならともかく、国家間ともなると疑心暗鬼するなと言っても無理であろう。もちろん、抑止力としての軍事力は必要だと私も思うし、丸裸では外交はできない。本作ではこの国家間の深い溝は消せないモノとして描かれていたと思う。だからこそ、国民一人一人が感情的にならずに、正義だ悪だと言わずに、冷静に戦争を回避する事を考えなければいけない。

ちなみに、本作での中国共産党の立場だが、妖精と某国との間に立って、妖精側がルオムーを返却して欲しがっているという情報を流す。妖精を助ける善人側である。また、中国人の旅客機の乗客もあれだけの事件に巻き込まれながら、死者は出ていない。本作でもまた、中国人はクリーンでストレスがかからない描き方になっている。悪役である某国軍隊が英語圏なのは、まぁ、そういう事であろう。しかしながら、検閲的な問題もキッチリとクリアし、戦争回避というテーマを描き切った文芸は、今回も見事だったと思う。

正義と悪の二元論の否定

今回は、ルーイエとシャオヘイの対比が良かった。

ルーイエのクールさに距離を感じていたシャオヘイだが、共に行動しながら互いの距離が縮まってゆく。しかし、敵のボスを見つけるために自分自身を囮にしつつ、人間の巻き添え覚悟で行動したルーイエの非情さにシャオヘイが噛みつく。

シャオヘイの主張はシンプルで、罪なき民間人を危険にさらすのはシャオヘイの倫理観では許さなれない、である。

しかし、ルーイエはより多くの犠牲者を出さないために多少の犠牲はやむを得ないし、何なら人間の命の優先度は、妖精のそれよりも低い。これは、人間たちの戦争に巻き込まれ、妖精の家族や師匠を失い、人間を憎んでいた時期もあったという背景がある。ただ、どちらかと言えば、何よりも戦争を憎んでいる。戦争が起きれば、より甚大な被害と大勢の犠牲者が出るから。

果たして、間違っているのはシャオヘイか、ルーイエか。この二人は各々の立場と信念で「正義」を貫き通しており、正義や悪も立場で変わる。勧善懲悪なシンプルな「悪」は本作にはいない。正義と悪の二元論で割り切れない。これは正解のない永遠のテーゼであり、だからこそのエンターテインメントであろう。

さて、一時的に険悪になった姉弟子と弟弟子だが、ルーイエの身の上を乙に聞かされ、ルーイエのヘルプに駆けつけるシャオヘイという展開が熱い。

リンヤオたちを倒した後、妖精と人間との戦争がおきたら、ルーイエは妖精側に着く(=同族優先)とし、シャオヘイは正しい方に着く(=倫理優先)と言う。ただし、シャオヘイの「正しさ」とは立場により変わるから、今後の人生経験や状況でブレる可能性がある。クールなルーイエだが、同族優先というのは感情的にも真っ当な事ではある。ここでも、どちらが正しい、というのはない。

少し話は変わるが、アンチ人間派のチーネンも妖精を大事に思えばこその行動であり一概に悪いとも言えない。裏切り者のリンヤオは善人面して多くの妖精を殺し、ルーイエとシャオヘイも殺そうとした。本作では、見かけや第一印象では善悪を判断できない複雑なキャラクターが多い。もっとも、それは1作目から続く本作の特徴でもある。

恐怖の連鎖で増強される軍事力と、憎しみの連鎖で泥沼化する戦争

本作の緊張状態を今一度整理する。妖精と人間(某国軍隊)は互いに脅威を感じている、というのが大前提。

本作のアバンで某国軍隊が妖精の流石会館を襲撃しルオムーを強奪。ルオムー強奪=妖精への更なる攻撃を意味するので、緊張状態が一気に高まる。しかも、ムゲンが裏切り者として某国軍隊を手引きした疑惑がかけられている。本作では、この準戦時下の状況から、いかに開戦を防ぐかというテーマで物語が進む。

まず、流石会館襲撃事件は某国軍隊が「悪」として描かれる。対妖精兵器を作るためのムオルーを強奪する目的だが、妖精たちの持つ強大な「力」に脅威を感じて対抗するためなのだろう。作劇上は、終盤で人間のムゲンが無双して一人で軍事基地を壊滅させた。某国はこれでムゲンの圧倒的な「力」を直接見せつけられたことで、恐怖心を膨らませ、さらなる軍事力を強化する可能性が高いだろう。

この構図は、アンチ人間派のチーネンにも当てはまる。いきなり襲撃され、強奪されたものが対妖精兵器を作る材料なら、人間を許さない気持ちが爆発するだろう。これは他の種族に対する怒りの感情。軍事的行動で攻撃してきたのは某国軍隊だが、殴られたから殴り返したというのでは戦争になり泥沼化する。戦争は始めるのは簡単で終わらせるのが難しいと言うのが定説である。

総館長のユーディは、冷静さを持って事態を見守る。ルオムー奪還と裏切り者が誰なのかの事実確認を指示して、状況が明確になるまで静観する。こういう時にリーダーが取り乱したら、組織の統制がとれなくなり、破綻するのが世の常。

龍遊会館のキュウ爺やパンジンは人間との共存を実践してきており、信頼関係の継続を願っているのだろう。フーシーの事件でも描かれてきた「共生」は1作目のテーマであった。

しかし、いざ戦争が開始されてしまうと、妖精vs人間の憎しみ合いの構図ができ、それが雪だるま式に膨らんで取り返しがつかなくなる。信頼関係を築くのは長年だが、壊れるのは一瞬。その先にあるのは、ルーイエのようなメンタルが壊れた人たちに溢れ、不幸で染まる世界。戦争は簡単にはじめられるが、終わらせるのはとても難しい。

本作ではムゲンが無双する事で妖精たちの被害を最小限に抑えて2個目のルオムーを奪還し、裏切り者のリンヤオも捕獲して館で幽閉して一段落したところで終わる。準戦時下状態から、全面戦争への移行は踏みとどまっている状況である。しかし、ムゲン無双を直接、肌で感じた某国軍隊が、より妖精たちを恐れて何かしでかさないとも限らない。3個目のルオムーは未回収で某国が確保したまま。妖精側も人間にヘイトを集める者が増えている素地がある。開戦の緊張はいつまで続くのか。

今回のテーマは、このあたりの「戦争」の否定にあったと思う。それは、現在も戦争状態にある国があり、米中もある程度の緊張状態にあるという時勢を反映したモノなのだろう。

リンヤオの本当の目的の謎

さて、今回の黒幕であるリンヤオ。もともと妖精と人間の共存派だったと思うが、何かがあって考え方が変わった。その理由は、鑑賞回数1回の私には、まだ読み取れていない。

人間の科学力の進歩は著しい。このままいけば人間が妖精を圧倒する日も近いだろう。そうなったときに、現状の人間と妖精の「共生」は成立するのか? ここまではわかる。

しかし、人間を手引きして対妖精兵器の材料になるルオムーを強奪させ、一気に緊張状態を作った。どう考えても、戦争を引き起こそうとしている。何のために? この部分が私の中で繋がっていない。

いくつか考えてみたが、どれもしっくりこない。

1つ可能性として考えられるのは、今のうちに人間を妖精に服従させるために、戦争という形で人間を支配する世界を思い描いていたのかも。チーネンのようなアンチ人間の好戦的な妖精も多いので、着火剤に点火さえすれば、後は燃焼するのを見ているだけでいい。そのためにも、人間側を焚きつけて、妖精を脅威に仕立て上げてみせる。ムゲン無双で某国軍隊が完全に歯が立たなかったことで、さらに脅威が確信に変わる。今回の件で某国軍隊が大人しく引き下がる可能性はゼロではないが、逆に反撃してきても不思議ではない。こうして、人間と妖精の間で互いに恐怖の連鎖が加速する。

しかし、その先にあるのは人間の服従か、妖精の絶滅か、行く着く先がコントロールできるような気がしないし。何より、妖精を裏切り居場所がなくなるリンヤオに何の得もない。

もう1つの可能性は、素直にリンヤオが人間側に寝返るというパターン。進化論的に世界に適合するのが人間だから、そちらに着いてゆくというもの。しかし、同胞である妖精を陥れてまで自分が生き延びたいというような、そんな小さなタマとも思えない。

少なくとも、リンヤオには何らかの戦争をはじめても致し方ないという大義(=正義)があっての事だと思うのだが、その大義が良く分からなかった。

それにしても、虫も殺さないような顔をして、随分と恐ろしい事を考える策士である。革命家と言ってもいいかもしれない。切れ者である事には間違いない。

個人的にはリンヤオに対する理解が不足していると感じているので、もう少し映画を観て理解を深めたいところである。

2025年の反戦映画として

最近、反戦映画が何本か出てきているような気がしているが、ウクライナパレスチナの戦争という時代を反映しているのではないかと思う。

「窓ぎわのトットちゃん」は日本の富裕層が太平洋戦争で国民全体が疲弊してゆく社会を子供視点で描いていた。戦争により「お国のために」という同調圧力があり、子供視点でその社会の歪と恐怖を感じさせる。戦争反対を声高に叫ぶこともできないが、理性を持って同調圧力に屈しない人たちも描かれた。

映画ではないが「cocoon ~ある夏の少女たちより~」というNHKで放送された1時間枠のアニメがあった。この作品では、太平洋戦争の沖縄戦が舞台である。流されがちなひめゆり学徒隊のサンが、戦場での壮絶で悲惨な経験の中、思考停止せず自分の力で判断して生き延びる。最後は随分と凛々しくなっていたのだが、テーマとしては周囲の空気に流されずに自分の理性で考えて戦争を反対する、みたいなところだったと思う。同調圧力に屈しないで、という意味ではトットちゃんとも近いメッセージを感じる。

さて「羅小黒戦記」の1作目だが、個人的にはこんなメッセージが隠されていたと思う。それは、民族紛争について体制のいう事を鵜呑みにせず、正義と悪のような勧善懲悪に落とし込まず、何が起きているか自分の頭で判断してほしい、ということ。フーシーが悪者だったのかどうかは、シャオヘイの心の中に答えがある、とムゲンは言っていた。その意味では、他人に判断を委ねずに自分自身で考えるというメッセージは前述のcocoonに共通するメッセージかもしれない。

そして本作だが、開戦前の戒厳令下の緊迫した状況を描いており、それは戦争がわが身に降りかかって来てもおかしくない世界情勢を反映しているということかもしれない。総館長をはじめ妖精側のリーダーが感情的にならずに冷静に対処して戦争勃発を回避してゆく様が描かれた。頭に血が上って感情的になり、割と好戦的な態度だったチーネンが対照的に描かれたキャラクターであろう。戦争孤児であるルーイエが絶対に戦争を回避する信念と、その理由として彼女の悲惨な戦争体験の断面を描いていた。戦争は開始するのは勢いだが、終わらせるのは難しい。そして、様々なキャラクターが戦争回避のために、慎重かつ冷静に対処した。本作には、緊張状態だからこそ冷静さを持って慎重に戦争回避したい、というメッセージに感じた。その意味では、cocoonのメッセージにも近いのかもしれない。本作もまた間違いなく反戦映画だったと思う。

ところで、「羅小黒戦記」の1作目と2作目の関係は、「劇場版パトレイバー」の1作目と2作目の関係に似ていると思う。1作目はよりメジャーなエンタメ作品の作風だが、2作目は監督の趣味趣向が露出してマイナーな作風に変化してきた。「劇場版パトレイバー2」は、情報操作により戦争勃発の危機が迫る戒厳令下の重苦しい空気と緊迫感が印象的な作品だったが、本作にもまったく同じ空気を感じた。その意味では、本作は「劇場版パトレイバー2」と同じ匂いを持つ、戒厳令映画とも言えるかもしれない。

おわりに

重々しい部分の感想ばかりになってしまいました。1作目からあるユーモアや笑いも楽しめる作風は健在ですが、登場する大人たちの表情は険しく、実際に作品のテイストも随分と重厚で重い作風になっていたというのが、率直な感想です。

ただ、これも今の時勢を反映した映画だったと思います。

もし仮に、5年後くらい先に続編で3作目が登場したとき、もう少し明るい映画になっている(=世界も明るい話題にシフトしている)事を望みたい、という思いがよぎりました。

劇場版 ゾンビランドサガ ゆめぎんがパラダイス

ネタバレ全開につき、閲覧ご注意ください。

はじめに

腐れ縁的な感じで鑑賞した、「劇場版 ゾンビランドサガ ゆめぎんがパラダイス」でしたが、大半がスペクタクルな宇宙人侵略映画で驚きました。 ただ、悪くなかったというか、映画として良かった。それでいて、確かに「ゾンビランドサガ」だったなという感触も得られる作風で、感心しました。

また、今回は山田たえが主役で、そのカッコいいところが満載で、本作の魅力になっていると思いました。

では、さっそくいつもの感想・考察です。

感想・考察

スタッフ

1期は2018年秋、2期は2021年春、そして今回の映画は4年半のブランクがあり2025年10月に公開された。

1期2期の監督は境宗久だが、映画では総監督が宇田鋼之介、監督が佐藤威、石田貴史で監督が交代している。3人とも1期2期で演出・絵コンテを担当しており、映像のテイストはTVシリーズで馴染んだモノである。

製作のMAAPA、シリーズ構成の村越繁は1期からの続投である。

作風

大部分はスペクタクルな宇宙人侵略映画

ぶっちゃけ、今回の映画は、「インデペンデンスデイ」のような宇宙人侵略映画が大半で、その宇宙人に山田たえとフランシュシュと佐賀県民が戦いってゆくというのがベースである。

1期のさくらたちがゾンビとしての殻を破ってゆくドラマ、2期の佐賀の復興と重ねたリベンジのドラマだったと思う。それに比べて今回の映画の物語やドラマは薄味である。どちらかと言えば、地球侵略してきたエイリアンを、科学力で劣る地球人がどうやって撃退するのか、というスペクタクルな部分がエンタメの大半を占めている。もちろん、エイリアンから佐賀(=地球)を取り戻すリベンジのドラマと言えなくもないが、スケールが大きすぎてアイドルアニメの枠組みを大きく超えてしまっている。

まず、スペクタクルな宇宙人侵略映画としての出来がいい。敵のエイリアンの気持ち悪さや母船、小型船、武器などのSF設定は、ガチで作り込んでいる。映画として音響も映像も大迫力。今回は、主役が山田たえ(CV三石琴乃)の声の芝居も迫力があり、映画として成立している。

ただ、本作はゾンビランドサガなのでフランシュシュが出てきて歌うだけで和むし、物語のド根性なご都合展開があってもフランシュシュだからと許せてしまう部分もあり、その意味は少々ズルい作風である。

通常、TVシリーズの映画化というと、映像の緻密さや音響の迫力で、より臨場感を出したいところ。ただ、TVシリーズの人間ドラマの延長線上だと、せっかくの映画でも迫力を出しにくい。ライブシーンだけ凝っても作品としての驚きは薄い。そこで本作は、ジャンルごと大きく切り替えて意外性もあり、娯楽映画としてスカッと楽しめるという、大胆なディレクションになっている。その中で、ゾンビならではの特徴を生かした作戦行動だとか、フランシュシュの連帯感を強くアピールするドラマ作りを行う。

もともと、ゾンビランドサガは、予想の斜め上をゆくのが作風というところもあり、こうした大胆なディレクションが受け入れられる素地はできていたのかもしれない。

山田たえがカッコいい!

今まで謎だらけだった、「伝説の」山田たえが主人公である。

エイリアン母船のエネルギー源の石を飲み込んで自我を取り戻す、という展開だがゾンビランドサガだから許せてしまう。今回のたえは、沈着冷静、頭脳明晰で行動力があり、決断も早い。流石に「持ってる」キャラである。三石琴乃さんの役でも過去イチ頼りがいがあるクールで熱いキャラである。

たえの謎も少しだけ明かされた。29歳で30年前に死んだ。幸太郎の先輩で面識がある。と言うが、時系列の整合性は私の中でとれていない。ぶっちゃけ職業も不明で、分かったような分からないような感じである。だが、これくらい謎が残ってても、ミステリアスのままでいいか、と思えるのもゾンビランドサガだからである。

実は1期のときに三石琴乃の無駄遣いとか思っていた。スタッフのインタビュー記事で「ふがー」とかしか言わないからこそ、実力ある演者が必要で依頼したと記憶している。なるほど、と思ったものだが、今回こそはその演技力を全力解放という感じである。

たえが先走って、フランシュシュが着いてきちゃう展開が何回かあったような気がするのが、最後の「着いてこないで」っていう台詞は、みんなとの記憶が戻った上で、巻き込みたくないからという感情が乗ってた芝居だったと思う。本作は振り切った芝居が多いので、こうしたグラデーションを付けてビシッと決まる芝居は流石だな、と感心して観ていた。

テーマ

佐賀を守る使命

今回の映画は、1期の「さくらを仲間として受け入れる」を、たえに置き換えた形と言っていいだろう。また、2期の「佐賀を守る」はそのまま使われているが、スケールが大きくなって地球の命運までも引き受けてしまっている。

佐賀が蹂躙され瀕死の状態から、再度立ち上がる構造になっており、それをまるまる2時間の映画で描き切る構成である。

今回もまた、佐賀と佐賀以外(世界規模)が断絶し、佐賀の人間でこの逆境に対処する必要がある。己の生命力だけでゴキブリのようにしぶとく戦う。

エイリアンの地球侵略が、そのシチュエーションにそのまま使えると考えた(=発見した)人は天才ではないかと思う。映画としてのまとまりも良いし、ストーリーがゾンビランドサガ以外の何物でもない。

個人的には、エイリアンのゴーグルを調査していて視力が低く、熱源と音響を頼りにしている事が判明するシーンで痺れた。これは、目の前を通るエイリアンを息を潜めてやり過ごすという良くあるシチュエーションが出来るヤツ!、と興奮した。同時にサーモグラフでゾンビは体温がなく認識されず、逆にたえは飲み込んだ石の熱がかなり高音で認識されているので、フランシュシュが作戦のカギになる。この辺りの映画の盛り上げ方は、その文法に乗っ取っているからこそ盛り上がる。

こうしてエイリアンの特徴を掴み、母船に乗り込むための陽動作戦は佐賀の人たちとの連携で行い、たえとフランシュシュが母船に乗り込み破壊するという筋書き。この文法も鉄板である。

かけがえのないフランシュシュの仲間

今回は、山田たえを活躍させる代わりに、たえがフランシュシュのグループから外れて対立するという構図であった。

たえ自身は、エイリアンの石でゾンビではなく、生き返った的な演出だったのかと思う。だからこそ、たえ自身は生きている側という自覚だったと思われるし、ゾンビよりも生存者の人命を優先した。

逆に残りのフランシュシュのメンバーが、自我を取り戻して変わってしまったたえを観て、それでもフランシュシュのたえであるというスタンスを崩さずに接していたのが対象的である。例え、自我を取り戻しても仲間である事は、1期のさくらの事件で経験済みで前例があるからこそ、かもしれない。

当初は、フランシュシュを戦闘の足手まといとみなし、さらにゾンビだからと軽視した。しかし、あるタイミングでフランシュシュだった記憶が蘇るが、自己犠牲で佐賀(=地球)を救おうとする。

しかし、フランシュシュの残りのメンバーとしては、佐賀(=地球)を救う事と等しく、フランシュシュの仲間を救いたい。7人で助け合って行動するのが当たり前。誰一人も欠けさせない運命共同体みたいに思ってるから、地獄の底まで付き合う。

今回のたえは、何でも自分で背負ってしまうので、最後は自分一人だけの自己犠牲で佐賀を救おうとする。しかし、フランシュシュはそれを許さず、全員揃って帰還するべく奮闘する。とくに、さくらがそれを許さない。巻き添えを望まないたえと、仲間を見捨てないさくら。

最後のウィニングライブで、たえの歌唱と踊りをはじめて披露するフランシュシュの演出が粋である。硬派でクールで熱いたえが、フランシュシュを仲間として認めた証明である。ただ、曲の途中でたえの元々の自我が再び消滅してゆく。自我のたえとの別れ、そしてゾンビのたえとの再会。さくらの頭をかじるたえの目ににじむ涙。それが、自我のたえのフランシュシュへの感謝と別れの気持ちを表現しているように感じた。

母船乗り込み時にさくらの肢体がバラバラになる不謹慎なコメディも織り交ぜながら、ゾンビゆえに雑に扱っても死なないというゾンビランドサガが培ってきた無茶をそのまま飲み込ませる世界観でゴリ押しする側面が多い。その意味でズルいとも思う。

しかし、コメディの中で、こうした肝となる部分をサラッと描くセンスの良さが光る作風は健在で、確かにゾンビランドサガだったなぁ、と鑑賞後に思える作品だったと思う。

おわりに

本作は、その映画の構成が、TVシリーズアニメの劇場版作品としては異例だったように思いますが、逆に言えば、1本の映画としてのまとまりの中に、フランシュシュというキャラクターを当て込んだという逆の発想の作りになっていたと思います。

多くのTVシリーズのアニメ映画で、TVシリーズの世界観の延長線上で音響だけ少し良くしようとかなりがちかと思います。しかし、本作は映画という事で土台の部分を変えて来た、みたいな大胆さが肝です。それでいて、フランシュシュの映画と納得できる。その意味で、ちょっとした革新的なやり方だったのかなとも思いますし、ゾンビランドサガだからこそ許される作風だったのかもしれません。

KPOPガールズ! デーモン・ハンターズ

はじめに

本作はNETFLIXオリジナル映画で、最多視聴回数(3億2,500万回再生)を誇る大ヒット作品です。2位の「レッド・ノーティス」が2億3,000万回再生なので断トツと言っていいでしょう。一般的な映画とのヒットの規模の比較はできませんが、大ヒットなのは間違いないです。

この前評判で興味が湧いて、やっと私も視聴しましたが、映画らしい映画という印象で、後味も良かったです。セーラームーン的な美少女が悪と戦うヒーロー物としてのシンプルな軸がありつつ、主人公の葛藤やドラマが多めに描かれ、見応えも十分でした。

個人的には、本作の成功は活劇としてもオペラとしてもシンプルな事と、音楽のパンチ力と映像とのシンクロの気持ち良さにあると思いました。楽曲に合わせて戦うシーンなどが多いですが、MV的に繰り返しの鑑賞に堪えられる映像の作り込みというのもポイントだと思います。後は、アニメ特有のコミカルさ、魅力的なキャラクターといったところでしょうか。

ちなみに、原題は「KPop Demon Hunters」というシンプルな3ワードなのですが、邦題はちょっと残念な感じです。ちなみに、略称としては、「ケデハン」らしいです。

では、前置きはこれくらいにして、いつもの感想・考察に入ります。

  • 「韓国的な「恨(ハン)」と「情(チョン)」について」を追記しました。(2025.11.3追記)

作風

韓国舞台の米国製3DCG映画

アニメーション制作は、ソニー・ピクチャーズ・アニメーション。代表作では、スパイダーバースなどを制作している。今、大手の3DCGアニメーション制作会社は、「ピクサー」「ディズニー」のディズニー系列、「ドリームワークス」「イルミネーション」のユニバーサル系列があり、第三の勢力としてのソニーピクチャーズ系列となる。

実は、ソニー・ピクチャーズ・アニメーション(SPA)は、映像制作会社であるソニー・ピクチャーズ・イメージワークス(SPI)に映像を発注する。前者のSPAが企画、脚本、キャラデザ、背景美術、ストーリーボードなどを担当し、後者のSPIがレイアウトからアニメーション、ライティング、レンダリングの映像の作り込みを行う。完全に上流と下流に分けて分業している。これは、SPIが他の実写のVFXなども仕事にする事で、閑散期を作らないことや、コスト意識を持って映像制作できるなどのメリットがある。しかし、大手のディズニー系は、上流から下流まで一貫して自社で行うことで、試行錯誤により映像の細部までコントロールできることを優先している。どちらが良いかは一概には言えないところではある。

監督は韓国系カナダ人女性のマギー・カンとアメリカ人男性のクリス・アッペルハンスの2名体制。本作ではソウル生まれのマギー・カン監督の功績が大きいと思われる。ちなみに、本作が初監督作品とのこと。

これまで、韓国文化を深掘りしたアニメーション作品はなかったように思う。私も韓国の見識が深い訳ではないが、日本で言う所の「ゲイシャ・フジヤマ・ハラキリ」みたいなステレオタイプな韓国感はなく、地に足が着いた感覚があった。

アニメーションのルックとしては、よくある米国製3DCGアニメーションの域に留まるが、例にもれず表情は良く動く。極端な崩しのギャグなどもあるが、笑い25%、シリアス75%な感じである。

比較的、肌は卵のようにツルっとした質感で、全体的にザラツキ感は押さえられたルックになっている。

圧巻なのは、街頭ライブやステージのモブシーンで、結構な作り込みがされている。同じ顔や表情を単調に並べるのではなく、それぞれが個性的な感じになっており大変な労力ではないかと想像する。この、モブシーンの迫力と言うのは、ライブでファンの魂の力を借りてゆくという設定もあり、本作のテーマにも直結する肝であるから、これほど注力して仕上げてくるのも納得である。

ちなみに、ソニー・ピクチャーズ・アニメーション公式のYouTubeの再生リストがあるので、アニメーションのルックや楽曲の雰囲気は、こちらを見れば一発で分かると思う。

K-POPを全面的に押し出した作風

個人的に、K-POPは避けてきたというか、あまり見ないようにしていたと思う。K-POPが世代に合ってなかったという感じだったと思う。普通に日本のJ-POPやボカロやアニソンを中心に聞いていたと思うので、私の棚には入り込む余地は無かった。

今回、作中で改めてK-POPに触れてみたが、とにかくビートを効かしており、古くはマイケル・ジャクソンの「スリラー」のような力強さがある楽曲が多い。また、ラップなどもふんだんに含まれるので、カッコいい系の音楽である。こうした、ビート感のある音楽は、映画のアクションシーンにハメ込むとバッチリと決まるのは良く理解できる。多分、「J-POP DEMON HUNTERS」があったとしても、本作のようにはならない。

シンプル目な歌詞だが、キャラクターの心情にカチッとハマる歌詞。だから、アクションシーンにその心情がシンクロしてハマる。

とは言え、こうした3DCGアニメーションは米国にもかなり存在しているわけで、目新しさがあるわけではない。たとえば、「アナ雪」もフル曲そのままキャラが歌唱しながら芝居をしてしまう、ミュージカル調なシーンが有名である。しかし、本作はミュージカルのように意味なく歌って踊り出すシーンは少ない(一応、ルミとジヌが単独で合うシーンはミュージカル調だった)。歌声とパフォーマンスでファン(=観客)の魂を震わせて力を借りてゆくというのがベースであるから、そのパワーの大きさを楽曲や歌唱でも表現している、というシンプルさが効いている。

今でこそ、映画を鬼リピートして鑑賞する人の話も聞くが、もともと映画というのは何度も見れるような体験ではなかったと思う。それが、今や配信のインフラでお茶の間なり、自分の部屋で見れるようになってきた。YouTube動画などでMVを繰り返し見る感覚で、映画もリピートしようと思えばできる時代。そこにきて、本作のMV的な小気味がいい映像が上手くハマったのではないかとも想像している。群像劇的な物語の複雑さを排除し、どこから見直しても引き込まれる映像。それは、映画の価値観がMV側にシフトしたというニュアンスなのかもしれない。

バトルヒロインたちのデーモン退治アクション

まず、地底からデーモンが現れて人間の魂を奪うという敵の設定がある。そして、主人公たちのアイドルグループ「ハントリックス」はデーモンハンターであり、地上に現れたデーモンたちを打ち倒す。彼女たちの最終的な使命は、歌を通してファンから魂の力を授かり、ホンムーンというバリアを作ってデーモンたちを地下に封じ込める。アイドルのライブでのファンの声援という音楽要素が密接に関係してくる設定である。

ちなみに、デーモンに魂を奪われた人間は、行方不明の失踪者となる。その魂があちらの世界で敵の大将であるグウィマの餌になっているのか、デーモンとして生まれ変わっているのか、そのあたりは良く分からない。少なくとも、ジヌは元人間がデーモンになったものである。

また、ホンムーンは「魂」と「門」の二語の造語らしく、多くの人々(=ファン)の魂の力で閉ざした門という意図があるっぽい。「門」であるから、その扉が開くとあちらの世界のデーモンがなだれ込んできて、人間の魂が食い荒らされるという感じ。

デーモンハンターは時代を超えて代々受け継がれてきており、女性3人が音楽を奏でて歌唱しながら武器を持って敵と戦う、という決められたスタイルがある模様。この辺りのアクションは、ルミの剣、ミラの薙刀、ゾーイの短剣といった属性の違う刃物が武器になっており、互いを補完しあう。アクションもそれぞれの特徴を持たせたアクションで、良くできている。

本作はステージ上で熱唱しながら、大量のデーモンを倒してゆくようなシーンがあり、そこは良くできたチャンバラの世界である。「呪術廻戦」みたいな見てる方が痛くてかなわない、という感じではないので、見ていて爽快感がある。とは言え、本作はキャラの表情芝居の細かさは美点であるので、冒頭のイケイケのアクションや、ラストの悲痛だが覚悟を決めて戦うシーンの力強さなど、アクションに芝居と歌のパワーが乗ってくる感じで飽きさせない。

ところで、女性が主役のアクションモノと言えば、古くはセーラームーンなどがあるが、ノリとしてはまったく同じテイストである。この文法は非常にビジュアル的にも分かりやすく馴染みがあるものだが、意外と米国製3DCGアニメーションでは無かったかもしれない。このド直球な感じが、本作のパワーの土台になっていると思う。

敵との恋心と仲間との友情のドラマ

ハントリックスのルミ、敵対するサジャ・ボーイズのジヌ。この二人は、最初は最悪の出会いから始まり、戦闘中に相手を少し気を遣ったりしながら、惹かれ合う恋人関係っぽく描かれてゆく。二人が持つバックボーンを、お互いが意識して、相手の苦痛を共感するような、少し特別な関係になる。

ルミはデーモンの大将であるグウィマを倒せば、ジヌも悩みから救われるから共闘しようとジヌを誘ったり、結局ジヌに裏切られたり、この辺りも韓流ドラマっぽい物語の濃さである。

また、主人公のルミには秘密があり、メンバーのミラやゾーイにも内緒にしている。その事でルミ自体が、デーモンハンターとして自信を失ったり、隠し事をしたことで一度は仲間割れする。しかし、最後は互いの信頼関係を取り戻し、3人で力を合わせて敵を追い返す、という熱い展開である。

この辺りは、王道中の王道。分かりやすく途中でかかったストレスをラストで吹っ飛ばす爽快感が味わえる娯楽作品となっている。

キャラクター

ハントリックス

ルミ

ハントリックスのリーダーで主人公。紫色の長い髪を芋虫みたいに編み込んでいて、それでも長い。3人の中で一番美人顔。武器は剣で格闘技(テコンドー)も取り入れた戦闘スタイル。しかし、一番の武器はその歌声で、ファンを魅了しファンの魂を力にしてホンムーンの結界を強化してゆく。

ルミは、人間とデーモンの混血であり、忌み子であった。デーモンの血を他人には隠しながら成長し、デーモンハンターになり、ミラやゾーイにも秘密にしている。ゴールデン・ホンムーンの完成も間近に思えたが、デーモンの紋様が全身に現れて来て、歌声が出にくくなり、アイドルやハンターの仕事に支障が出て来た。

ミラ

ハントリックスのダンサー。長身でロングの赤毛、面長でツリ目、ヤンキーっぽいが情に厚い。表裏がなくストレートな性格だが、相手の事をよく観察している。武器は薙刀

ミラは家族との関係が悪く自分の居場所がないという過去を持っていた。初見は怖そうな印象だが、仲間に対する思いやりを感じさせる気遣いがいい。個人的にも、結構気に入っているキャラである。

ゾーイ

ハントリックスのラッパー。黒髪を後ろで束ねてアップにしている。そばかす顔で愛嬌のある顔。武器は投げナイフで、近接格闘では柔術レスリングのような技で押さえ込む。

オタクでミーハー。リリックをノートに書き留めるような、世間からはちょっと変わり者という視線で見られていた過去があり、ルミとミラの仲間となり肯定されて自信を持てたという経緯がある。

日本人から見ても普通のアニメ的な女子キャラに見えることと、オタク気質というところで、個人的にはゾーイが一番可愛くて好みである。

サジャ・ボーイズ

ジヌ

黒髪で体格も良くてイケメン。もともと400年前の人間だが、グウィマによってデーモンにさせられた過去を持つ。自分が母親と妹を見殺しにした「罪」をかかえ、その過去を思い出させる声に悩まされていた。地上では5人組K-POPアイドルのサジャ・ボーイズのリーダーとして、ファンの魂を地下のデーモンたちの元に送り込む。

サジャ・ボーイズの他の4人も筋肉とか、目隠れヘアとか、チビとか個性的なメンバーなのだが、今回はリーダーのジヌだけ深掘りされている形である。みな、整形手術で整えられたようなサイボーグ的なイケメンなのは、韓流という感じである。

ジヌはダークサイドに落ちたキャラクターではあるが、「罪」を咎める良心を持ち合わせて苦悩するという意味では、ルミに似ている。しかし、ルミは人間とデーモンのハーフという忌み子という立場の葛藤以外は、大きな罪はおかしていない。そこがルミの強さでもあるが、ジヌは悪魔にそそのかされて「罪」を重ねてしまう弱さがある。

物語・テーマ

敵対勢力の混血とアイデンティティ(ルミ)

ルミは人間とデーモンのハーフである。そして、デーモンを退治するデーモンハンターでもあるから、人間vsデーモンの敵側のアイデンティティも持ち合わせている。この設定こそが、人間の正しさと背中合わせに潜む弱さを象徴する。ヒーローが正論パンチ一辺倒だと魅力がなく、弱点を持つからこそ共感できるというエンタメの文法に沿ったものとなっている。

このハーフという設定はいろんな解釈ができる。デーモンは排除すべき「悪」として描かれるが、ここではいったん善悪の枠組みを外して、2つの対立する集団に属する存在として考える。これは現実世界の国籍などにも単純に置き換えてみてもいいだろう。所属グループだけで他者を否定し排除したりする事はよくある。その意味で、ルミは敵対するデーモンの血が流れているだけで排除されるリスクがあり、師匠であり継母のセリーヌによりその事を秘密にして育てられた。その隠ぺいがルミの中で自己否定を起こし、ルミを不自由にして、メンタルを病んでゆく。

終盤にジヌにハメられて、ミラとゾーイにデーモンのハーフであることが暴露され、その悲鳴でさらにデーモンの紋様が顔までに広がり、絶望で動けなくなる。

絶望のさなかセリーヌの元にゆくが、デーモンの紋様を怖がられ、ルミは途方に暮れる。このセリーヌの愛が仮初という描きが鋭い。そして本当に孤独になったルミの心を的確な表すシーンだったと思う。

その絶望から反転して、ルミは一人で紋様も隠さず、デーモンたちに立ち向かう。望む望まないに関係なく、ハーフであることがルミのアイデンティティであり、それは「恥」という自己否定を捨てて、ありのままの自分を受け入れて自己肯定する事である。その苦悩もすべてルミである事を自ら発露して、ミラとゾーイの心を取り戻す。痛みを伴う自由の獲得である。

この時点で、ルミがもつバックボーンではなく、ルミという個人にフォーカスされ相互理解してゆく、というのが本作のテーマの1つになっている。

敵対関係にある相手を否定するというのは、ハントリックスがサジャ・ボーイズにぶつけるために用意した楽曲の「Takedown」にも込められているが、ルミは途中で「Takedown」ではファンの心を掴めない、「Golden」という自己肯定の歌で勝負したいというニュアンスの台詞がある。

この辺りは個人的にも思う所があり、昔は趣味でも何でもマウントを取って格下を馬鹿にするような風潮が強かった。それは、許せないという否定の気持ちの表れで、それにより自分の威厳を保ち自分を守る側面もあったように思う。しかし、最近はその風潮は弱くなり、他人の畑を荒らさずに、自分の好きなモノだけを肯定すれば良いという風潮に変わってきていると感じている。例を出すと、紅白歌合戦にB'zが出て高齢層は歓喜したが、B'zは売れ線に走った歌謡曲路線だったとして、サブカル的にエッジが立った人やコアなロックファンからは「ダサい」と否定する人種もいたと記憶する。音楽というのは、とくに差別化のためか、目立てばかならず一部からは攻撃されるような印象を持っていた。しかし、最近はどの音楽もそれぞれ良い、的な温和なムードで埋め尽くされていて毒舌はあまり聞かない。「Takedown」という楽曲自体は悪くはないと思うが、他者を否定し引きずり下ろすという思想が今風ではなくなっている。この温和なムードが今の時代が求める空気なのではないか、と感じている。

この空気はSNSフェミニズム的な論争でも言える事で、好きなものを肯定するとか、好き嫌いだけを語るだけにしておけばよいものを、嫌いな対象を否定し攻撃すると炎上して泥沼化する。個人的にもこの空気に辟易しているので、そういった気持ちともオーバーラップすると感じている。さらに、この空気を拡大解釈するなら、戦争の否定というところまで行き着くだろう。

とは言え、今回のルミはデーモンの血が流れている事で善と悪の感情の対立や葛藤があったわけでもなく、悪事を働いてもおらず、マインドは正義の側にありクリーンな存在である。生まれながらの血は先天的なものであり、ルミに責任はない。こちらのドラマは後述のジヌが担当している。

罪と恥と赦し(ジヌ)

一方、ジヌは人間がデーモンに変化したものだが、その過程で我が身可愛さに、母親と妹を見殺しにしたという「罪」を背負う。この「罪」は後悔であり「恥」となる。一度、悪に手を染めると、そこから悪を断ち切れない(=ダークサイドから這い上がれない)という描き方になっていた。それは、「罪」を償っていないことからくる自己否定であり、そんな資格はないという諦めの気持ちである。それがクセになり常習性となる。

この負の循環を断ち切るためには、周囲からも赦され、自分自身も自己を赦す必要がある。

今回は、ジヌはルミに持ち掛けられて、正義に力を貸そうとするが、その本質は自己を肯定する事で、背負った罪から解放されると信じたからだろう。たった一度のミスでその人を全否定してその人のチャンスをすべて奪うのか、というニュアンスのルミの台詞があったような気がする。この辺りは、キリスト教の「赦し」の概念に近い。

しかし、ジヌはグウィマにそそのかされて、ルミを裏切る。その方がジヌにとっては目先の苦しさが小さいからだが、そうして蓄積した罪と自己否定という負の連鎖がある。この辺りは、韓流ドラマ的なエンタメ文法に沿ったものであろう。

最後は、ルミを庇って死んでしまうが、「罪」を重ねて来たジヌのルミへの罪滅ぼしである。魂はそのままルミのホンムーンのために捧げてられた事は救いであろう。ジヌはデーモンとして生きていればグウィマのマインドコントロールにより苦しめ続けられる。もともとさまよえる魂であり、成仏が呪いからの解放だったのかもしれない。

韓国的な「恨(ハン)」と「情(チョン)」について(2025.11.3追記)

たった一度の失敗を許さない韓国の文化構造

本作は米国製映画ではあるが、舞台である韓国について深掘りして描いていると感じる部分があり、その事について考察を記す。

韓国では大統領の不正が発覚した場合、弾劾訴追→弾劾審判で有罪→罷免という流れで政治生命が完全に断たれる。国民感情としては、未来永劫、彼の罪を責め続ける。これまで、大統領の弾劾訴追で罷免されたのは、2016年の朴槿恵(パク・クネ)大統領と2025年の尹錫悦(ユン・ソニョル)大統領の二人である。また、引退後に弾劾訴追された元大統領の例もある。

これは、韓国文化に根付いた感情で「恨(ハン)」と「情(チョン)」によるものと言われている。「恨」は不公平や抑圧からくる悲哀に満ちた悲しみと怒りの感情。「情」は深い愛情、絆、連帯感を差す感情とのこと。この「情」で信頼していたものに裏切られると「恨」という感情に変化する。反転アンチみたいなものと考えればいいだろう。ちなみに、「恨」が行き過ぎると激しい怒りの「怨恨(ウォンハン)」となる。

また、韓国ではリーダーや師は大衆の規範となる存在であり、不正などの誤ちは絶対にしてはいけない、という意識がある。これは儒教をベースにエスカレートした慣習ではないかと思う。大衆はリーダーを信じて期待を込めて「情」を注ぐが、リーダーの不祥事などにより裏切られると一転して「恨」の感情となる。「情」が大きければ大きいほど「恨」も大きくなる。一国の大統領の不祥事ともなるとその「恨」のエネルギーも半端ないものとなるだろう。こうした「恨」の国民感情を晴らすためにも、徹底的に罪を追求し刑事罰を持って責任を負わせられるように法的にも整備されている。訴追罷免となった大統領は、国民の「情」を裏切った罪人という扱いである。

一方、日本ではこれほどリーダーに対して徹底的な責任追及はない。辞任や引退で公的な責任を果たしたら、そこでいったん水に流す感じである。失敗は個人の資質や能力的な問題であり、裏切りという感情まで至る人は少ないのであろう。

ちなみに、米国は「リベンジ」「セカンドチャンス」を許すので、一度失脚したとしても再就任することは可能らしい。

実は、弾劾訴追を受けるも、弾劾訴追が棄却され、職務に復帰して、後に歴代大統領で好感度No1を獲得した大統領がいる。2003年に大統領に就任した盧武鉉ノ・ムヒョン)大統領である。しかし、大統領退任後、側近や親族の不正献金疑惑があり、最終的に彼らは有罪となる。そして、本人も贈賄疑惑をかけられたが、途中で投身自殺した。この事件で韓国国内に衝撃が走り、流石に盧武鉉元大統領に同情が集まった。結果的に、当時の検察総長が辞任をする形となった。

自殺により刑事責任は帳消しとなるが、政治構造の腐敗に対する追及もうやむやになった。後に、こうした不正を防ぐために贈賄を厳しく制限する金英蘭(キム・ヨンラン)法が整備された。具体的には、それまで常套化していた配偶者を通じた裏金を制限するように、本人だけでなく、家族も財産上の利益を得る事を規制するものである。この事件の「恨」は法的整備による再発防止という形で「解(ほぐす)」という結末である。こうした流れで、政治家の不正に対するルールが厳しくなってゆく。

ここまで書いたら、お分かりであろうが、トップアイドルも大統領同様に、スキャンダルが発覚したらアーティスト生命は断たれる。こうした韓国の国民感情がベースになっているからこそ、ルミの育ての親のセリーヌが「一度の失敗」も公にできず、嘘を突き通すというスタンスには説得力がある。

これまでの社会体制の象徴=セリーヌ

セリーヌ=これまでの韓国の気質の象徴である。彼女は、先代のデーモンハンターであり、師となる存在である。だからこそ、「力強きハンターは過ちや涙を見せないものよ」という信念で動く。

ただ、今回のルミの件に関しては、それを取り繕いきれず、セリーヌ自身もどうすればよいか分からなくなり破綻する。セリーヌは、ルミの事は愛していたのだろうが、師として弱みを見せられなかった。デーモンとのハーフである事を許容できなかったのは、セリーヌ自身が持つデーモンの拒絶から来るものであろうが、そのせいでルミの心に寄り添うことができなかった。そして、ルミの母親から託され守ると約束したルミを守り切れない事は裏切りとなる。つまり「恨」と「情」のコンフリクトに身動きが取れなくなった。

この瞬間にルミは、頼れる師も居なくなり、完全に孤立し、自暴自棄になる。私がデーモンのハーフで危険なら、私を殺してと懇願するが、セリーヌにそれが出来る訳がない。ルミを守るという約束を破る不誠実になる。結局、ルミはヤケクソになって、ホンムーンをぶっ壊すと南山タワーに向かう。

ルミがハーフである事を受け入れて、その苦痛も隠さず、古い慣習をぶち壊して、仲間の信頼を取り戻し、デーモンたちを退治した。ルミがぶっ壊したのは、これまで長年積み上げて来た旧体制の息苦しい価値観である。

韓国でも「リーダーも人間、一度の失敗も許さない寛容さのない社会は息苦しい」という空気はあるようだが、「恨」を晴らすためにもリーダーに対する厳しいルールは必要という意見もある。私自身は、このことをどうこう言える立場ではない。こうした白黒で断言できない葛藤こそがエンタメなのであろう。しかしながら、今回は、米国製映画で韓国ソウル生まれのカナダ人監督が、韓国外部からこのテーマを選んだというところが肝ではないかと思う。

もちろん、「一度の失敗も許さない」から「嘘」で逃げるという息苦しさは、現代の世界中の人が共通に感じているからこそのヒットではあると思う。ひるがえって日本でも若者が行儀がよくなり過ぎて、最善手を打たなければならない、失敗できないというプレッシャーを感じているという話もちょくちょく耳にする。

本作は自己受容がテーマとよく言われるが、前述の通り、ハーフである事はルミ自身の責任ではないし、ルミ自身は嘘をついていたこと以外はクリーンである。周囲が個人を攻撃し否定していては、自己受容しようにもできない。今回のミラやゾーイやファンはルミを受け入れた。その環境があってこその自己受容であり、だからこそ、作品として力強く輝いたのではないかと思う。

初見ではセリーヌの扱いが不遇に感じたが、セリーヌが象徴していたモノを考えると、このような描き方になった事には納得できる気はする。

おわりに

最初にも書きましたが、本作は活劇としてもオペラとしても比較的シンプルなモノを丁寧にアニメーションに起こしたこと、つまり奇をてらっていない感じが好印象でした。

もちろん、韓国にまつわる設定的な部分やキャラクターの魅力については考え抜かれたアウトプットなのでしょうが、繰り返し見てそこを深掘りしてゆく楽しみもあると思います。

YouTube動画で2027年公開予定の続編のトレイラーも観たので、今色々と練っているのでしょう。デーモンの大将であるグウィマがルミの父親という事で、いよいよスターウォーズ感が増してきました。個人的には、ゾーイとミラはもっと深掘りして良いキャラなのでそっちの方のドラマを期待しますが、それは今のところ分かりません。が、続編を楽しみに待ちたいと思います。

2025年夏期アニメ感想総括

はじめに

いつもの、2025年夏期のアニメ感想総括です。

今期視聴中の作品リストを下記に示します。

  • 瑠璃の宝石
  • 薫る花は凛と咲く
  • フードコートで、また明日。
  • Turkey!
  • サイレント・ウィッチ 沈黙の魔女の隠しごと
  • その着せ替え人形は恋をする(2期)
  • ダンダダン(2期)
  • カラオケ行こ!
  • 銀河特急 ミルキー☆サブウェイ
  • 青春ブタ野郎はサンタクロースの夢をみない (2025.10.18追記)
  • 夢中さ、きみに。 (2025.10.18追記)

今期はあまりアニメを集中して観る事ができておらず、感想も遅れ気味です。一部の作品は現在視聴中のため、後日感想を追加します。

今期は、出来の良い作品のレベルの高さが印象的なクールだったかなと思います。

感想・考察

瑠璃の宝石

  • rating
    • ★★★★★
  • pros
    • 鉱物研究というロマンあふれる学術を、美しく分かりやすく魅せきるリッチなアニメーション
    • 文芸的にも美しく、レイアウトや絵コンテを含めた演出的にも見る所が多い。
  • cons
    • 特になし

「おにまい」のスタッフが贈る、鉱物をテーマにしたアカデミックなサイエンス・アニメ。ただし、登場人物はJKとJDと大学院生で、とんでもない巨乳キャラも居るのだが、萌えっぽさと学術っぽさが共存して、いい意味でバグってる。

アニメーション映像の気持ち良さは言わずもがな、難しい理系の説明も綺麗な映像で分かりやすく解説しており、目の前の鉱物の謎に食い下がって行く主人公瑠璃の探求者マインドの成長の文芸性も申し分ない。まさに太鼓判が押せる傑作である。

本作の入り口は、JKの瑠璃がふとしたキッカケで水晶に関心を持ち、鉱物を研究する大学院生の凪と出会って、鉱物についての魅力にハマってゆく。

私の心の目には、瑠璃は小学生低学年男子のような騒がしい元気キッズ、凪は落ち着いたインディージョーンズを連想させるいぶし銀のオジサンに見えていた。これならEテレでも放送可能な教養番組になったであろう。ただし、本作の瑠璃はキンキン声のロリキャラ、凪はシャツのボタンが飛んで行きそうな巨乳キャラである。これは、シンプルにマンガやアニメファンを萌えで釣ろうというフックであると理解した。

主人公のJKの瑠璃が素直で良い子なのだが、序盤にあまりにも駄々っ子的に描かれ、個人的に若干ウザく感じていた。しかし、凪の導きにより、しだいに鉱石集めや採掘に強く関心を抱いてゆく。その過程でミニスカートから調査向きの服装に変化してゆく。こうしたキャラの変化を小道具や芝居で魅せてゆくところは実に丁寧。当初の瑠璃のウザさは、この反転を描くためにあえて強烈に描いていたのだと感じた。

また、先生役の凪の瑠璃への接し方が非常に良い。好奇心を刺激し、結論を急がず、時には遠回りになるがロジカルに可能性を潰して答えを導き出す。学術の何たるかを体験を持って教える事で、学術=楽しいというマインドを育てる。

凪の後輩である伊万里曜子は、現場よりも書物による知識に没頭する本好きタイプであった。しかし、凪たちと現場の体験を通して、今ある事象を想像力を膨らませて、能動的に調査分析してゆくスタイルに変化してゆく。別の言い方をするなら、曜子の目線が過去から未来に向いてゆくような変化が描かれる。

瑠璃の同級生の瀬戸硝子は、幼少期に鉱物に強い関心を持っていたが、両親からは役に立たないと否定され、本心とは裏腹に鉱物研究者への道を諦めていた。しかし、瑠璃を通して曜子や凪と出会い、シーグラスをキッカケに再び鉱物への関心を高めてゆく。シーグラスは明らかに鉱物ではないという意味でまがい物である。シーグラス≒硝子という比喩になっていた。つまり、硝子自身がシーグラスから分析できる土地や歴史の情報に触れてゆく事で、シーグラス≒鉱物であると理解する。すなわち、硝子≒シーグラス≒鉱物であり、硝子自身も鉱物の仲間であり、鉱物が再び身近な存在として研究してゆきたいというマインドに変化してゆく。この7話は、こうした文芸面もレイアウトや絵コンテ的な密度的にも、非常に力の入った満足度の高い回であった。

物語は終盤になると、凪や曜子は研究に忙しく、瑠璃と硝子の二人での行動も増えてゆく。瑠璃が能動的に仮説を立てて情報収集に努めてゆく姿は序盤の駄々っ子からすると随分と頼もしい。硝子にも自分が味わった鉱物への興奮を分かち合いたい気持ちなどの優しさも汲み取れる。硝子は次第に大学の進路を鉱物研究に決めてゆく。

最終話となる13話。ときおり差し込まれる瑠璃の進路が空欄になっている描写。そして、凪と曜子と硝子が研究者たちと、少し離れたところに立つ瑠璃のイメージ映像。瑠璃自身は鉱物研究者の道は選択できないという心境である。この別れのイメージが最終回の視聴者と重なる演出である。

そして、4人で田舎の温泉旅行にゆき、流れ星を観測する。それだけであれば、願い(=鉱物研究者の道)が叶うという比喩でしかないが、小さくて目に見えていない隕石の粒を、雨どいにたまった土の中から学術的なアプローチで探し出しゆくという流れ。この自らの手で流れ星を手に入れるという体験が、瑠璃の願いを叶えるキッカケになって描かれていたと思われる。

ラストシーンで紫色の鉱物の巨大な結晶の前に立つ後ろ姿の瑠璃のシーンで〆られる。実は1年前のティザーPVではこのシーンにJKの瑠璃と凪が立っているのだが、本編では大人の瑠璃が一人だけで立っているシーンに変わっている。その事で、より瑠璃が願いを叶えて鉱物研究者として一人前に成長したイメージで締めくくる。瑠璃は硝子と違って、研究者志望ではない普通の子である。大人になれば生活に追われて学術から遠のいてゆく。しかし、一般の人も広く学術研究の楽しさを知り、身近に感じて欲しい。そうした作者の願望に感じた。

余談ながら、アニメスタッフは「おにまい」でもアニメとしての最終回の意味付けを丁寧に解釈して作り上げてきており、その意味で信頼できると感じた。

全編を通してアニメーションはリッチで肝となる鉱物の美しさは見事という他ない。背景美術となる山中の鉱物の壁や、素足で入る川の流れも、夕焼けに映える海も、みな美しい。キャラクターたちの動きや、アクティブな動きも申し分ない。

テーマに恋愛や家族愛はなく、ロマンあふれる学術に特化していた事が本作の最大の特徴だと思う。その意味では珍しいタイプの作品であり、難しさはあったと思う。しかしながら、見事なアニメーションでストイックにそのテーマを描き切った。個人的には大好きな作品であり、太鼓判を押したい。

薫る花は凛と咲く

  • rating
    • ★★★★★
  • pros
    • アニメとしては珍しいくらいのド直球の恋愛ドラマ。しかもド丁寧な演出でパティシエの高級なお菓子のような感触。食わず嫌いで見ないのは勿体ない。
  • cons
    • 良くも悪くも、王道の恋愛ドラマゆえに、そこで好みは別れそう。

「明日ちゃんのセーラー服」の座組で贈る正統派青春ラブストーリー。ここまでベタな恋愛ドラマをアニメでやるのも逆に珍しいと思う。

ヒロインの薫子は小っちゃくて元気で朗らかで凛としたところもある、絵に描いたようなヒロイン。対する主人公男子の凛太郎は、見た目は長身金髪ピアスの強面だが、なぜか自己肯定感が超低くて繊細な印象的である。この凸凹カップルが知り合って惹かれ合ってゆく物語である。

こう書いてしまうと、ありがちな恋愛ドラマと思って敬遠してしまうかもしれないが、本作の強みは、ヒロイン薫子の可愛らしさや、凛太郎の誠実さを緻密な台詞や演出で丁寧に積み上げてゆくドラマの良さにある。薫子が単純にニコっと笑うだけのシーンも全力投球で可愛さを描き、見ていてキュンとくる。言うのは簡単だが、レイアウトやポーズも吟味し尽くしてのアウトプットであろう。例えるなら、パティシエの作る高級なお菓子の様な丁寧なドラマ作りを堪能できるような作風である。

もう一つは、凛太郎をはじめとして登場人物の葛藤のドラマを丁寧に描き、彼らの対応の真摯さを信じさせてくれる。凛太郎は薫子の朗らかさに次第に心が開かれ、惹きつけられてゆく。常に周囲に気を使って遠慮がちなところはあるが、友人との交流を経て本心に蓋をしたりせず、真摯に相手に言葉を重ねてゆく。

実際には、ここにお嬢様学校と偏差値の低い底辺高校という身分の違いというスパイスが加わり、気さくな凛太郎の親友や薫子の親友との関りも描いてゆく青春群像劇でもある。最初はとげとげしい敵対関係から、凛太郎と薫子の二人の関係を軸に、最終的には友達も含めてみんなで一緒に遊びにゆくほど距離感を詰めてゆく。

個人的に1番良かったのは、12話の江ノ島海岸の線香花火のシーン。たまたま二人だけになり、線香花火を楽しんでいた二人だが、その線香花火が終わる淋しさから、凛太郎が思わず「好きです」と口にしてしまう。直前まで、薫子の親友の昴のドラマをやっていたから、その急な主役の展開に不意打ちを食らってしまった。悔しいが、こういうのが非常に上手い。

最終回の13話は少し面白い趣向になっていた。これまで凛太郎主観で描かれてきたストーリーではあり凛太郎が惚れている事は手を取るように明確である。薫子も好意を抱いている事は明確ではあったが、凛太郎が薫子を意識するずっとまえから凛太郎に片想いしていた事が視聴者にだけ分かる仕掛けになっていた。そして、薫子は凛太郎の告白を受け入れて〆る。つまりこれは、単なるカップル成立ではなく、これまでの両片想いの巨大な蓄積を経ての恋愛成就、という多幸感満載のエンドである。1クールでかなりキレの良いところで〆てくれた構成も良かった。

恋愛ドラマか……、と本作を食わず嫌いで敬遠するのは勿体ないクオリティと言える。良質なアニメーションが見たい層には、響くところがある作品として太鼓判は押せる。ただし、本作はあくまで恋愛ドラマであり、それ以上でも以下でもない。根本的に恋愛ドラマが苦手で嫌いという人には向かないだろう。

もともと、黒木美幸監督は、「空の青さを知る人よ」などの映画の演出にも携わっており、実写寄りの芝居が得意に思う。CloverWorksのリッチなアニメーションの仕上がりが加わり、王道のエンタメと言っていい仕上がりだったと思う。

フードコートで、また明日。

  • rating
    • ★★★★★
  • pros
    • 二人JKの会話劇のライトコメディというミニマルな作りながら、マンネリ化も感じさせず全6話最後までダレることなく楽しめる脚本と演出のコント的な良さ。
  • cons
    • 特になし。

殆どのシーンは、フードコートの座席での山本と和田の二人のJKの無駄話という、アニメとしては一風変わった作風。テレビドラマでは、古くは「やっぱり猫が好き」のようなワンルームのコメディは存在していたが、それに類する作風と考えて良いだろう。

和田は黒髪ロングの小柄で清楚な見た目だが、中身はちょっと残念な庶民的で小市民感が溢れる内弁慶キャラクター。山本は見た目は金髪褐色巨乳ギャルだが、中身は情に厚いクールなしっかり者。中3で和田が親友と喧嘩した事をきっかけに、二人は急速に仲良くなって意気投合するが、別々の高校に進学することに。高校が離れ離れになってからは、毎日のように地元のフードコートで待ち合わせて、ゆるく雑談をする習慣ができた。

二人ともJK的な表層の馴れ合いや同調圧力は苦手だから、高校でも無理に友達を作らない。友人として互いに強制のない、バカげた他愛のない会話ができるWin-Winの友人関係。和田が沢山喋って、山本が適当な相槌やツッコミを入れる。それが、二人の人生の潤滑油になっている。

少々脱線するが、自分の高校時代を振り返ってみても、この頃の友人とは好きなアニメの話をしたり、客観的に見たら実が無い話ばかりしていたような気がする。大きな野望もない。社会人のようにノルマや生産性向上の義務もない。高校生というモラトリアムな時期を、のんびり自由に平穏に生きていた。その意味でも、個人的には本作にノスタルジーも少し感じていた。

物語についてだが、舞台限定の会話劇の日常系だとマンネリ化しそうだが、飽きる事無く最後まで楽しめた。情報が少しづつ開示されて、その小ネタが少しづつ伏線回収されて二人の関係性が理解できる仕組みになっていた。また、全6話とミニマルな作りになっていた事も、飽きずにすんだ要因の一つであろう。この辺りはシリーズ構成の妙と言えるだろう。

小学時代に和田に対して片想いしていた男子の登場や、和田と山本の喧嘩と仲直りのエピソードを終盤に入れるなど、全6話を通して物語的にもうねりを入れている点は見事。ソシャゲなどの今風なネタや、ワードセンスを含めて、花田十輝の脚本の安定感を堪能できる。

ベースはコントだが、ときおり山本から和田に真剣に助言したり、和田が行き過ぎた我儘を山本に謝罪したりと、いい感じのドラマが差し込まれる。これにより、二人が相互に尊重し合っている事が伝わってくるし、キャラクターを好きになれる。

舞台が限られているという意味で、演出的に絵コンテを切るのは大変そうであるが、本作ではセンス良く飽きさせない工夫がされていたと思う。フードコート内の広告や映画プログラムなど諸々の店舗のカットや、窓からのぞく青空のカットが意味深に挿入されたりしていた。このあたりが、生の漫才や演劇とは異なる映像の強みではあろう。また会話劇と言うこともあり、二人の会話の間などの絵コンテ的なタイミングも丁寧に作られていた印象である。こうしたセンスの良さは古賀一臣監督の持ち味かと思う。

肝心の芝居は、ほとんどが和田と山本の掛け合い漫才になるため、絵の芝居やキャストの芝居が非常に重要になる。新人の宮崎ヒヨリが主人公の和田役に大抜擢されたが、全編喋りっぱなしのハイテンションな会話劇に体当たりの芝居が好印象であった。また相手の山本役の青山吉能は、器用な芝居が持ち味の印象である。山本の持つ落ち着いた雰囲気を掛け合わせることで、芝居に緩急を付けていた。この二人は野球で例えるなら名バッテリーとでも言うか、地味に二人のコンビの芝居の出来の良さが印象的であった。

ここまで書いてきて、最初に触れた「やっぱり猫が好き」との違いについて触れておこうと思う。ワンルームのコメディというのは、脚本自体は緩めで演者のセンスやアドリブや演者同士のセッションを楽しむニュアンスがある。この舞台演劇的なライブ感が魅力だったりする。これに比べると、本作はアニメであるがゆえに、脚本と絵コンテでガチガチに作られていてライブ感が薄くなる、という印象ではある。だから、実際に演者に委ねられる部分はより小さいという意味で「やっぱり猫が好き」の作りとは多少手触りが違うものなのかもしれない。ライブよりも、より映像作品寄りな感じのエンタメである。

少し脱線するが、「化け猫あんずちゃん」というロトスコープという手法を用いたアニメーション映画があった。まず、実写で演者の映像を記録して、それを模倣するようにアニメーションを作画する。絵コンテは無く、カメラマンがいい感じのアングルで演者を切り取りフィルムを作る。個人的には、この映画が究極のライブ感を持ったアニメーションだと思う。とはいえ、私もライブ感=正義と言いたいわけでもない。本作ではこの笑いを、脚本、演出の段階で作り込んでいると思うので、その意味で挑戦的な作風だったと思う。

最後に全6話とミニマルだった構成に触れておく。通常なら、1クールで12、13話が当たり前のところ、本作は半分の全6話。TV放送では、1クールで2周回分放送していた。今期は他にも配信専用だった「タコピーの原罪」も全6話。1クールに同じスタッフで全5話が2作品バーターの「カラオケ行こ!」「夢中さ、きみに。」という例もあった。

アニメ制作自体は膨大な手作業の集積なので、乱暴に考えれば尺が半分になればコストや作業時間も半分になり、クオリティーも担保しやすくなる。物語も冗長を避けてダイナミックに振れる。それでいて、アニメが持つ原作の宣伝効果も変わらない。もちろん、単純に半分の予算でできるわけではないだろうが、製作が破綻する現場も散見される業界なので、こうしたやり方の作品も今後増えてゆくのかもしれない。

色々と書いてきたが、総じて、ミニマルなのに中身は充実。人間関係のドラマも大袈裟すぎない程度にあり、そこに変なストレスはなく気軽に見て楽しめる。絵柄も甘すぎずライトな感じで嫌味がない。それでいて、割と緻密な演出で飽きさせない。個人的にはかなり好みの作風で、他に類を見ない良作だったと思う。

Turkey!

  • rateing
    • ★★★★☆
  • pros
    • 意表を突く、JK青春部活モノ(ボーリング部)×シリアス戦国時代モノの組み合わせ
    • 真面目な作りの脚本、ドラマ
  • cons
    • 少々まじめ過ぎるきらいと、逆にシリアスとコメディがお互いに足を引っ張り合うような喰い合わせの悪さを感じたところ

長野県千曲市を舞台にしたJKボーリング部の爽やか青春アニメと思わせて、戦国タイムスリプのサプライズで視聴者を困惑させる芸風である。現代のJK5人と戦国時代の戸倉家の5人姉妹がペアになってドラマを紡ぐ。

戦国時代で生首が飛んだりのハードな描写もあれば、いつもは喧嘩してるくせに何かあれば放っておけないハートフルな友情を描いたドラマもあり、バラエティに富んだ構成になっている。ちなみに、ボーリングのシーンは真面目に作ってるだけに、そのギャップが妙な可笑しさになっていたりした。

演出は割と強めで劇伴や芝居で情感を盛り上げるのが上手い。戦国時代モノという事で刀などの金属的な効果音などでも迫力を演出していた。作画はカロリー控えめでコストを抑えつつ、という感じで突出しているわけでもなく、破綻もない。この辺りは、BAKKEN RECORDの手堅いアニメ作りを感じさせる。

中盤に描かれる各キャラクターが持つ物語だが、この辺り割と好みのタイプである。個人的には7話の七瀬と夏夢のやりとりが良かった。七瀬が持つ「空気」のように周囲に関わらない性格の根っこを夏夢が見抜いてゆく。蒸発した父親の自分勝手さを憎み、自らを縛りつける呪いを自分にかけていると七瀬を諭す。他者への貢献に自分の価値を見出し、束縛のロジックから解放されて自由を掴む。言葉にしにくい心情を丁寧にドラマに落とし込んでいたと思う。

また、度肝を抜かれたという意味では、6話のさゆりと傑里の回であろう。集落を襲う野武士の息の根を止める回が他に類を見ない感じであった。殺されそうになった傑里を護るために野武士に殺意を持って致命傷を与えるさゆり。現代の倫理観を越えた、タイムスリップ物ならではの作劇であったし、ここでも現代の少女の心情を、真面目に描いた。

他のペアもそうだが、戸倉家5人姉妹のキャストは大ベテランを起用して芝居に重厚さを加えつつ、JK5人の若手のキャストもそれに負けない芝居で応えている。

終盤は、戸倉家の5人姉妹を護るためにJK5人組が奮闘しボーリングでその土地の大名と勝負するという展開だが、麻衣のトラウマを乗り越えるドラマに展開してゆく。物語の冒頭の、麻衣の落涙の手紙のシーンに戻ってくるところなど、展開は予想できていたにもかかわらず、感動してしまった。

個人の主観でしかないのだが、この辺りは、脚本の蛭田直美が、演劇、実写畑の脚本家であることと無関係ではないと思う。基本、自分の内面を追い込むような劇が多く、その前後の成長を描く作風に感じた。

この辺りで、ネガ意見を書いておこうと思う。

本作がまじめに作られている事は非常に伝わってくるのだが、JKスポーツ青春モノと時代劇との喰い合わせが悪かったように感じた。本作は、JKのライトなコメディ会話なども織り交ぜつつ、シリアスなドラマの展開がある。これらの相乗効果で良さを感じられれば作品としては成功なのだが、どうしてもこのJKコメディ部分が空振りしているように感じてしまった。具体的には「ボーリングには2投目がある」という擦られていた台詞があるが、シリアスなシーンでこの台詞が出てくると、なぜかギャグになってしまう。本来なら、この台詞はシリアスで立っていなければいけないが、この台詞が作品自身を茶化す方向に働いてしまう。また、僧侶の悪だくみもいかにも物語優先のテンプレ的で、どこか醒めて見ていた部分があった。これは、一例だが、時代劇シリアスとJKコメディが足を引っ張り合っていたような感覚で見ていた。

もちろん、素直に感動できる視聴者も居るであろうが、SNSの観測では微妙という感想をちょくちょく観測していたので、似たような感想を持つ視聴者も一定数は居そうに感じた。ちょうど今期の「ダンダダン」がリッチな作画の勢いもあって、シリアスとギャグの両極端に振り切った作風でも、相乗効果で盛り上げて両立が出来ていた好例である。

だからと言って、ドラマ自体は良く出来ていたし、どうチューニングやディレクションすれば良かったみたいな話は私には到底できない……。が、このことは率直な感想として記しておこうと思う。

総じて、感情を揺さぶるドラマや、巧みなストーリーもあり、素直に見れば感動できるポイントも多い作品であろう。重箱の隅をつつくような事を書いてしまったが、作品自体は良く出来ていたと思う。

サイレント・ウィッチ 沈黙の魔女の隠しごと

  • rating
    • ★★★★☆
  • pros
    • チート級魔法使いでありながらコミュ症な主人公モニカを「ちいかわ」的に愛でる作風
    • 学園生徒会のイケメンたちや悪役令嬢的な要素で女性ウケが良さそう
  • cons
    • コミュ症コメディ、ロマンス、サスペンス、チート魔法などごった煮感溢れる作風で、ごちゃごちゃに感じてしまった文芸

チート級の魔法使いでありながら極度のコミュ症のモニカ。そのモニカが成り行きでセレンディア学園に潜入し生徒会長を務める第二王子フェリクス殿下の護衛の極秘任務に就く。生徒会のイケメン男子や級友女子たちとの交流を通して、ドタバタ喜劇や、第二王子暗殺のサスペンスや、ちょっとしたラブロマンスなど描かれる。こうして書いてみると、劇の風味も含めて女性向け要素が多い作品である。

とにかく、モニカの弱くて強いヒロインとしての魅力が肝である。唯一の無詠唱魔法使いというチート設定がありながら他者との会話が苦手ゆえに、相手にハッキリと意見を言えず幼児のような振る舞いになってしまうところが可愛い。つまりモニカは精神的にはまだ未熟。だからこそヒロインたりえる。

ただし、数字や数学は得意で記憶力も優れている。第二王子の体形を数値的に暗記するなどの変人ぶりも発揮する。結果的にその強みを生かして生徒会会計の役職に就く。モニカに降りかかる同級生からのいじめや、殿下暗殺に忍び寄る影との戦いなどのイベントがありつつ、他者を理解し恩返ししてゆくなどの変化があり、そこに彼女のドラマがある。

また、第二王子暗殺についても状況証拠から冷静に可能性を絞り込み犯人を特定してゆく探偵モノのような楽しさもあり、モニカの聡さもポイントである。モニカの魔法については、なろう系由来のチートな爽快感がある。

アニメーションとしては、「このすば」や「プリコネ」の金崎貴臣が総監督・シリーズ構成を任されており、コミカルなアクションを期待していた。しかし、個人的な感想だが、本作の映像はそこまでのキレはなく、作画は中の上という印象。背景美術に関しては、申し分ない美しさであった。

演出面だが、ヒロインが突然、デフォルメされた可愛いキャラに変化してコミカルに描かれるというのは「薬屋のひとりごと」にも少し似ているかもしれない。ただ、本作ではシリアスはそこまで重く描かれないので、よりライトに感じた。

文芸面だが、劇は勧善懲悪で悪役を憎く描いて制裁を加えて爽快感を得る部分や、モニカの周囲の人間のドラマや、モニカ自身のトラウマ克服など、テイストのごった煮感があり、話の行先の分かりにくさがあった。本作は群像劇でもあったが、魅力的なサブキャラを配置してゆこうとしているのは理解するが、個々のキャラのエピソードにブツ切り感があり、キャラが繋がって世界が広がる感覚は薄い。

もう一つ文芸面でひとつ感じたのは正義と悪の紙一重感。モニカの親友が実は第二王子暗殺の刺客だったり、昔の親友の男子が妬みからモニカをイジメたりなどの、身近な人に宿る正義と悪の複雑さが描かれていたように思う。この構造は、裏切りなどが頻発するミステリーのどんでん返しには重要な要素であろう。ここに文芸の複雑さがあるように感じた。

とは言え、モニカに感情移入のさせる演出が上手いのだと思うが、私は割と多くのシーンでジーンときて涙ぐんでいた。この辺りの泣かせの演出は冴えていたと思う。ただ、演出の上手さでドラマを見せられてはいるが、全体の物語や個々のエピソード自体は若干薄味で散漫気味というのが率直な感想であった。

しかし、ラスト2話は文芸的にもちょっと良かった。死者を街に迎え入れるお盆のような冬のお祭りを舞台に、第二王子と仮初のロマンチックなデートや、迫害された亡き父の書き残した禁書を古本屋で入手したり、第二王子が実は沈黙の魔女の隠れファンだった事が判明したりと、随分とモニカを喜ばせるネタで幸福感に包まれて〆られた。この2話は、それまでの活劇感溢れるエピソードとは違い、じっくり温かめの話な点が好みである。これまで学園で触れ合ってきた人たちに助けられ感謝し、恩返しをしてゆきたいと心に誓うモニカを見て、朝ドラのヒロインを感じてしまった。

さて、演技についてはモニカ役のCV会沢紗弥の演技が実にハマっていた。もともと、コミュ症的なキャラが得意な印象だが、テンパってフリーズ気味な芝居、おどおどしながらも力を振り絞って会話する芝居など、やや大げさでコミカルな演技が作品にマッチしていた。

色々と厳しく書いてきたが、総じてモニカを「ちいかわ」的に愛でつつ、学園生徒会イケメンや悪役令嬢的な要素も加えて、チート級魔法使いでギャフンと言わせて爽快感を得る、というごった煮感溢れる作風で、総じて楽しく観れる良作だと思う。

その着せ替え人形は恋をする(2期)

  • rating
    • ★★★★★
  • pros
    • 恋愛とコスプレ愛の全肯定で、見ていてハッピーになれる作風
    • 1期からの期待を裏切らない眼福なアニメーションクオリティ
  • cons
    • 特になし

1期の感想も以前書いているので、よければ下記も参照してほしい。

上出来だった1期から3年半。コスプレの「好き」の肯定と、海夢と新菜の眩しすぎる両片想いの恋愛ドラマが肝の本作。それは2期でも正しくキープ。前半は文化祭を通してのクラスメイトとの関係と立ち位置の確立。後半は大学生のコス仲間ができ、世代を広げて「好き」を共有する仲間を増やした。

アニメーションとしては非の打ちどころがないくらい良い。シャープで動きが気持ち良い作画。レイアウトのカッコ良さや演出の感情の乗せ方。作中のアニメ作品やゲーム作品への世界観の拘り。どの話も期待の上をゆく安定した作り込みである。3年半のブランクを全く感じさせないという事は、結果的に2期のクオリティが1期よりもかなり高いところにあるのだと思う。少なくとも、1期よりも描かれたキャラはかなり増え、クラスメイトや大人も含めた群像劇になってきて、それぞれのキャラが個性を持って描かれているだけでも相当にカロリーは高くなっていたハズである。

本作はコスプレがテーマなので、海夢もテープなどで目の形を変えていたりするのだが、キャラによってタレ目にしたり、さらしを撒いて胸を薄くしたりなどのフィジカルな修正も行い、そのキャラになりきる。1期から通底するこの辺りのコスプレうんちくは、本作の美点の一つである。2期では姫野が男性だから顔の輪郭を隠すために再度の髪を頬に張り付けたり、胸を付けたりで変化を付ける。さらに、カメラアングルなどで慎重をごまかすなどのテクを紹介していて、リアルであり得る範囲でノウハウを描く。さらに、芝居要素として仕草やポーズを女性にしてくる事で可愛く見せる。コスしたキャラは、コスプレイヤーのベースの上にデザインしている。そこに嘘をつかないようにしつつ、キャラクターにらしく変身させるというキャラデザインの加減には、毎回頭が下がる。

今回、海夢はイケメンホストのコスプレをするが、男らしい仕草が足りておらずクラスメイトの男子を参考に立ち方などを変えてゆく。この辺りも、アニメーションの芝居でキッチリ描いているからこその説得力である。余談ながら2期ではジェンダーを越えたコスプレがいくつも登場していた事も興味深い。1期でも心寿が男性キャラにコスプレしていたが、その意味で、多様性を重視した内容に感じた。

最後に物語、テーマについて。

まず、柱の1つである恋愛ドラマについて。23話(2期11話)では恋心で息苦しくなった海夢が新菜への告白を決心。しかし、24話で自分が「最推し」だと生まれてはじめて聞かされ、嬉しさのあまり大興奮。その場では新菜への告白がどーでも良くなってしまってチャラになった。ラストはマンションの玄関まで新菜に送ってもらい、たまらずスマホでツーショット写真を撮るところで〆る。

新菜→海夢は好きだけど高嶺の花で恋愛相手としてはフィルターしている状態。海夢→新菜は1期では恋愛に気付いてしまい、2期では恋愛感情が爆発寸前。2期では恋愛のブレイクスルーはなく、二人の現在の状況が一番おいしい状態のままである。すでに完結した原作漫画のストックもあり、このあたりは原作準拠の展開になっているのだろう。

言ってしまえば、ラスト前に盛り上げて期待させておいて、結局キャンセルして何も起きなかったことにするという手段は、こういう続きが残っている作品ではよくある事。そう、理解していれば、これはこれで楽しい。

そして、もう1つの柱である「好き」の肯定のドラマについて。1期に続き、「好き」で堪らない趣味を、嬉々とした表情で生き生きと描ききる。このポジティブさで、見ているだけでハッピーな気分になれるのが本作の最大の特徴であろう。過去に一部の人間に虐げられた姫野や旭が、仲間と「好き」を共有して共感できて救われてゆく。その意味では、1期にも、13話アバンにも登場した「男子のくせにひな人形」という新菜のトラウマからの解放も、「好き」の肯定である。

文化祭では新菜のコスチューム制作をクラスの全員が期待しており、その期待に応えて魂を込めてコス作りに集中してゆくシーンがあったりする。クラスの全員がコス作りを馬鹿にすることなく真剣に受け止めてくれ、あまつさえ新菜のコスチュームのファンという男子生徒さえ登場する。クラスメイトに理解してもらえないと思い込んでいた新菜が思いがけず、認められ肯定された形である。これもまた「好き」の肯定の1つの形であろう。

2期終盤では、ちょっとした仕込みというか、旭が海夢を明確に避けており、嫌っていると思わせる描写がフックになっていた。本作では「嫌い」を描かないと思っていたので、不穏要素として展開を気にしていた。最終的には海夢が最推しで限界オタクになってキモがられないように欲望を押し殺していた、という120%ハッピーで〆てしまった荒業もお見事。こんな展開が許されるのも本作ならでは、だろう。

色々と書いてきたが、総じて恋愛の恥じらい、「好き」の肯定により、とてもハッピーな気分になれる作風で、アニメーションのクオリティも非常に高い。1期の期待を裏切らない傑作である。3期の話は全くの未確定だが、できるなら、本作はラストまでアニメで観たいと思わせる作品である。

ダンダダン(2期)

  • rating
    • ★★★★☆
  • pros
    • 相変わらずのジェットコースター感ある、ごった煮バトルアクションだが、良いモノ感のあるまとまりの良さ。
  • cons
    • もともとのテイストだが、2期ともなるとドタバタ感疲れな感じも少し…。

細かなテイストは1期から全く変わらないので、手短に。以前書いた、1期の感想も参考にしていただければ幸いである。

本作は、オカルト(宇宙人、幽霊)+バトルアクション+学園ラブコメのノンストップアクションという感じだが、ホラーの気持ち悪さやラブコメの楽しさ、人情味あふれるちょっといい話などが奇跡のバランスで盛り合わせられる。

2期ではジジにまつわる、呪われた家+モンゴリアデスワーム+邪視(じゃし)が中心に描かれる。

これまでの幽霊と同様にジジに取り憑いた邪視の暴れっぷりが狂暴で容赦ない。絶対に勝てそうにない圧倒的な強さを描きつつ、それでも戦ってなんとかしてゆくモモとオカルンたち。こうしたバトルでの優劣や、説得力を持ってバトルを描くのはエンタメとしては非常に高度でな事だと思う。毎回ドキドキしながら視聴していた。

とにかく、次から次にアクションバトルが休む暇なく押し寄せてくるので、ジェットコースターに乗っているような感覚になる。

2期終盤は、新キャラでアニメオタクの金太が登場し、巨大怪獣vs巨大ロボの展開になってゆく。これまた、ハチャメチャながら展開の読めないバトルアクションの応酬だが、2期もブツ切りで3期に続くとの事。

安定したクオリティと、勢いのある作風で3期もゆるく楽しみにしている。

カラオケ行こ!

  • rating
    • ★★★☆☆
  • pros
    • 動画工房が得意とする実写寄りのテイストで見せる、反社組員の狂児と中3男子の聡実の一風変わった人間ドラマ(コメディ風味もあります)。
  • cons
    • 少し地味に感じる部分もあり、好みは別れるかも。

ヤクザの狂児と、中3合唱部の聡実のカラオケを通じた奇妙な友情を描く、風変わりな人間ドラマだが、ちょっとシュールなコメディの雰囲気もある。

原作は同人誌発の和山やま先生のマンガ。実際にはKADOKAWAから単行本出版されているが、個人的には講談社の「アフタヌーン」連載作品っぽさを感じた。

監督は中谷亜沙美、助監督は塚原佑希子、シリーズ構成は成田良美動画工房制作としては新世代感のある座組である。塚原は直近だと「幻日のヨハネ」の監督をしていた。キャラクターデザインの松浦麻衣はフリーだが動画工房の仕事は作画監督で参加していた事が多いようだ。最近、キーマンを女性で固めるアニメ作品は多いが、本作もその一つであろう。作画やキャラクターデザインに谷口淳一郎が参加しているが、「イエスタデイをうたって」や「【推しの子】」のリアリティあるキャラデザや芝居に通じるところがあると感じた。

キャラクターデザインは劇画寄り。いわゆる服のしわが沢山あったりして動かすのは面倒そうなデザインである。狂児は着こなしもキッチリしており、一見礼儀正しそうに見えるが、暴走したら表情一つ変えずに相手を殴り殺しそうなヤバさを持つヤクザである。聡実は合唱部部長でソプラノを担当しているが、変声期が来ており上手く合唱できない問題を抱えている。

反社の組長主催のカラオケ大会で負けられないため、カタギの聡実を拉致し、聡実はカラオケボックスで狂児のカラオケを指導する事になる。こんな二人に奇妙な友情が生まれるが、聡実の合唱コンクールと狂児のカラオケ大会の前日、ふとした事で聡実が怒り出して喧嘩別れに。翌朝、交通事故を起こした狂児のクルマを見てしまい、動揺する聡実が取った行動は……。という感じの物語である。

映像は実写でもイケそうなリアル寄りの演出で、突拍子もないカットというのはない。魔法も超能力もない地道な映像だが、だからこそ表現できるところもある。カラオケを音痴に歌うシーンや、聡実がラストに歌唱するシーンがあるのだが、上手すぎない歌唱の演技も真面目に芝居しているところが面白い。「紅」のカラオケのオケの映像に合わせて「前奏xx秒」などとテロップが入るビデオ映像など、リアル寄りのコダワリ部分であろう。作画的にも非常に安定感があった。

ただ、真面目一辺倒という訳でもなく、下っ端のチンピラたちの歌唱シーンなどの抜けてる雰囲気や、聡実の皮肉発言のコメディ的な笑いもあり、ちょっとシュールな感じもある。

文芸的にも、本来同じ世界に居ない狂人⇔少年の関わり合いよる心の波紋が肝になっているので、漫画原作でありながら、文芸小説的な味わいも感じる作品である。ドラマは意外と丁寧に描かれていた。もうちょっとBL世界に足を踏み入れるのかと思いきや、そういったドギツイ方に行く作品ではないので、比較的安心して見れた。

最終話である5話は、アニメオリジナル回との事。聡実が大学合格して東京に出てゆくまでの間、姿を見せなかった狂児が何をしていたか、などが分かるエピソードになっている。狂ってしまった狂児の人生だが、聡実の存在で少しだけカタギに寄り添う感覚も取り戻したような、そうでもないような。という感じの、言語化しにくい心の揺らぎなどの丁寧に心情を描いてゆく作風である。

総じて、実写ドラマ的なテイストが強めだが、動画工房のリアル寄りの地味ながら渋めの映像が堪能できる。面白くはあるのだが、突き抜けたパンチ力の様な面白さではなく、実写的なじわじわ来る感じである。なので、視聴者によって好みは別れるかもしれない。

銀河特急 ミルキー☆サブウェイ

  • rating
    • ★★★★☆
  • pros
    • 連続ショートアニメというパッケージで魅せる、高密度な自主製作3DCG映画
    • 意外とドラマがしっかりしていて見応えがある文芸
  • cons
    • 特になし

3分31秒のショートアニメで全12話のドタバタSF喜劇。

監督、脚本、キャラクターデザイン、アニメーション制作は亀山陽平。

ルックはリアル寄りの3DCG。キャラはソフビっぽいマテリアルの強化人間や、メカっぽいサイボーグに分れる。宇宙SFだが、婦警は普通に日本人っぽいし、看板などに普通に日本語書いてあり、この辺りは宇宙植民地という事らしい。

主人公のチハル(強化人間)とマキナ(サイボーグ)は23歳の幼馴染のギャル。6人の交通違反者の若者が更生プログラムとして列車の車両清掃の罰が与えられるが、なぜか列車が突然走り出す。若者たちは宇宙空間を暴走する列車を食い止めようとするが……。という感じのヤンキーが活躍する物語となっている。

とにかく、キャラクターの性格の作り込みがマンガ的で丁寧。服装や振る舞いも芸が細かい。チハルは白ニットの肩だしワンピースにニーソ。マキナはスカジャンにデニムの短パンだが、顔がディスプレイになっていて目鼻が絵として表示され、表情に合わせて絵がアニメ的変化するのが面白い。他にも暴走族総長で特攻服のアカネと子分のカナタ。常にダルそうなアメリカンな若者二人組のカートとマックス、の3組6名のペア。

舞台背景もディティールが細かくデザインや質感も凝っていて、その上に遊びを感じる。食堂車両の食品自動販売機のゼリーに天丼味があるとか。女性添乗員型AIのオータムが子供の作った紙粘土細工の人形みたいで、表面にラッカーっぽいテカリ感が出ているとか。セキュリティロボのスーパーファミコン感だとか。妙なこだわりのポイントがイチイチ可笑しい。

作劇はショートアニメならではの独特さがある。登場人物はギャルやヤンキーなのだが、会話がやたら早口で圧縮されている。普通のシーンでも台詞が被るくらいにツメツメだし、5,6人の台詞が被っているシーンもあるが、不思議とそれがクセになってくる。

意外とドラマはしっかりしていて各キャラに見せ場があるのも美点である。過保護なアカネと役立ちたいカナタ。捨て駒のように扱われて現金しか信用しなくなっていたカートとマックス。今回の事件を通して、しだいに信頼関係を築いていく6人。この辺りは、ちょっと映画っぽい手触りであるが、これをショート枠×12話に狙ったようにキッチリ構成している。ただ、物語としてはドタバタ喜劇の範疇であり、やっぱりアクションと楽しさと勢いで気軽に見える作風と言える。

本作はアクションのカッコ良さもある。食堂車でマキナとアカネが取っ組み合いの喧嘩になるシーンとか、カートがセキュリティロボの弾丸を跳ね返しながら前進してゆくところとか、音響も合わせて映画的な気持ち良さがある。

第12話は、作中アイドル曲の「ときめき★メテオストライク」のBGMに乗せてのアクションシーンがあるのだが、アクションを楽曲の音にはめ込んでいたりしていて芸が細かい。この辺りは、三年前の前作「ミルキー☆ハイウェイ」から続く芸風である。

なお、本作はプレスコでキャストの芝居が先との事。キャストの芸の深みを自由に乗せてもって絵が追従することで、映像の芝居の方も広がりを得る、という事らしい。

色々と書いてきたが、キャラクターの作り込み精度の高さ、設定の芸の細かさ、映像の密度の高さが印象に残る。文芸面も申し分なく、個人的にも満足度が高い作品である。文芸と映像を一人で創作したというのが驚きだが、なんと言うか、漫画家的なカバー範囲の仕事なのかもしれないと感じた。

才能あるクリエイターが作り込んだ世界観を発表するのにとりあえずショートアニメという事例はよくある。その次のステップとして、40分の短編映画とせず、3分30秒×12話の連続ショートアニメという選択肢は、出来の良いキャラクターを好きになってもらうにはベストチョイスだったかもしれない。

連続ショートアニメ自体はこれまでも存在していたが、ほぼ個人の自主製作レベルでこのスタイルは珍しい。とは言え、過去に「PUI PUIモルカー」の例もあるので業界初というわけではない。よくよく調べたら両作品ともシンエイ動画が嚙んでおり、個人アーティストを伸ばす風土があるとの事。

11言語で全世界配信を実質タダで利用できるYouTubeというプラットフォームで配信している。第1話のYouTubeでの再生回数は625万再生、チャンネル登録数は83万人(2025年11月時点)。作品を作る事自体は大変だが、作品提供の敷居はずいぶん低い。TVアニメをタダでTV局に渡していた頃に比べれば、YouTubeだけでもある程度収益が取れる状況であり、むしろ好ましい。とりあえず本作の総集編的な映画を作成中とのことだが、後は確実に本作のIPを育ててゆくのだろう。今後の亀山陽平監督の作品も要注目である。

青春ブタ野郎はサンタクロースの夢をみない(2025.10.18追記)

  • rating
    • ★★★★★
  • pros
    • 1期同様に、トリッキーなプロットと、ドラマを丁寧に見せる作風と、迫真の芝居。
  • cons
    • 特になし

咲太が大学1年生になり、麻衣と同じ大学に通いはじめるが、そこでも思春期症候群の新しいヒロインたちが次々に登場する。そして、咲太が持ち前の優しさで、ヒロインに関わって思春期症候群を治してゆく流れは1期と変わらない。また、「霧島透子」というキーワードで麻衣に危険が迫る展開があり、咲太は麻衣を守るためにも前のめりに奔走してゆく。

ぶっちゃけ、アニメーションのテイストは7年前の1期から変わらないが、このディレクション自体は間違っていないと思う。本作はSF要素を用いたトリッキーな物語と人間ドラマが肝である。複雑な物語ゆえに、個々のシーンは物語に必要な情報を吟味して丁寧かつ分かりやすく描いてゆく。余計なノイズになりそうな遊びは少ない。芝居や音響も非常に情報が整理された感じで、それは画面も音響も芝居にも言える。いつもは落ち着いた口調の咲太が、いざという時に感情を爆発させて大声で叫ぶというような、ピアニッシモからフォルテシモまで使った芝居もキッチリコントロールされている。特に赤城郁実のケースでは、パラレルワールドで違う体験をしてきた二人の郁実がいて、後悔やストレスの原因が異なるため、台詞を使い分けて二人の違いも出してゆかねばならない。また、岩見沢寧々もネチネチした芝居から、ラストの爆発までの感情のグラデーションが凄かった。そのグラデーションを味わうためにこそ、映像や芝居には余計な情報は載せないストイックな作風である。

今回のヒロインは下記の4名。

No. 名前 悩み 霧島透子 挿入曲
1 広川卯月 がらにもなく周りの空気を読んで行き詰まる Social World
2 赤城郁実 他人を救えなかった自分(≒いい子になり切れなかった自分)を責め続ける Hilbert Space
3 姫路紗良 愛するを知らず、自分にだけ向けられる愛を欲する
そのために、相手に自分を好きにさせる(=罪)
I need you
Silent night
4 岩見沢寧々 麻衣のときみたいに認知されない自分
何者でもない自分を捨てて「霧島透子」になりきる
Spcoal World
Someone

広川卯月は、誤解を恐れずに言えば、知的障害を思わせる幼児のような感性が彼女の輝きになっていた。その牽引力で、駆け出しのアイドルグループ「スイートバレット」でも中心的人物でもある。

卯月はピンの仕事のオファーを一度は断るが、アイドルグループ内で他のメンバーに気を使ってよそよそしくしたり、目標の武道館コンサートに対して不安になったり。その事で逆にメンバーが卯月を心配してぎくしゃくする。この手の問題は、バンドの引き抜き同様に、キャリアアップが第一目標なら他のメンバーも脱退を止めにくいというのがある。で、最終的には、何のためにという活動理由やポリシーに行きつく。卯月はその迷いの中、二日連続のコンサートの1日目に声が出なくなり病院へ。翌日のコンサートは残り4人のメンバーでこなすことに。最終的な決断は、咲太に即される形で、観客席に来ていた卯月に託される。

卯月が持っていた不安は大人になる事の不安でもあり、キャラクターが卯月だからこそ表現しやすいテーマだったと思う。結局、卯月は自分でステージに上がって4人と一緒に活動する事を決めた。つまり、今まで通りのキャラで良いという結論である。成長や変化を促すドラマもあるが、敢えての現状維持。しかし、ポリシーに乗っ取った現状維持なので、不安定さはない。どちらの道を採っていても、責任をもって選択する事に意味がある。今回の場合、スイートバレットの人間の繋がりを大事にするポリシーだから、自らその列車を途中下車しないという卯月らしい決断である。

赤城郁美は真面目な優等生キャラ。細目の眼鏡にボブカットに青いナース服(コスプレ)。自らボランティアを立ち上げての慈善活動を行う。

郁実は二人いるので便宜上、こちらの世界の郁実を郁実A、あちらの世界の郁実を郁実Bと定義する。ややこしいが、本作に登場するのは4月の入学時にあちらの世界からやってきた郁実Bが先である。

郁美Bは、あちらの世界で中3の時に咲太が思春期症候群を自己解決してしまったため、良い子を自負しながら何も解決できなかった自分の無力感に打ちひしがれ、その後は学業もおろそかになり大学受験に失敗して浪人になる。こちらの世界に来て、郁実Bは中3の時に咲太が救われずクラスメイトから変人扱いされて終わる世界線である事を後に知る。郁美Bは「#夢見る」で起こる不幸に対して自己犠牲してまでも人助けしようと奔走する。それは、人助けできていない自分を責める自己否定が原動力になっていた。しかし、その人助けを続けていて自身の体が傷ついてゆく。個人的に郁実Bが意地悪だと思うのは、(a)咲太の事を忘れられたら、(b)咲太が中3のアルバムになんて書いたか思い出せたら、(a)(b)のどちらかで思春期症候群が治ると咲太に言った事。(a)は自己完結はするが非現実的。(b)は咲太に救いを求めているという意味なので、やはり咲太なら助けてくれるかもしれない賭けであり、この難解な問題を咲太に救って欲しいという無言の心の叫びでもあったのだろう。理想の人助けができる強い人≠現実の人助けも何もできない弱い人、このギャップが郁実Bの思春期症候群である。果たして郁実Bは、11月27日同窓会の日に「#夢見る」の投稿を見て来た夕方の高校の教室で、待ち合わせていた咲太と合って会話する。当初、郁美Bはあちらの世界での中3で人生転落しなかったこちらの世界に居続けてもいいと思った。しかし、郁実Bは郁実Aに成りすましても、周囲の人も分からない。成功した郁実Aも、失敗した郁実Bも同じなら、郁実が理想とした郁実の価値はどこにあるのか。そもそも、成功した郁実Aの居場所に図々しく居座っていいのか、という自問自答。こうした迷いの思考で動けなくなっていた。その気持ちを咲太が受け止め共有して、郁実Bは気持ちを整理して、郁実Bの思春期症候群は解決した。郁美Bは咲太に惚れていたが、その気持ちにもケリがついて向こうの世界に帰って行く。

郁実Aは、咲太を呼びつけて、11月27日同窓会に現れた。中3のときに、思春期症候群の咲太を変人扱いしていたクラスメイト全員を糾弾するために。この場は、咲太の機転で芝居じみた自慢話で笑い飛ばしながら退場し、話題を切り替えさせる。夜の歩道橋で咲太と郁実Aは会話する。郁美Aは中3の時に咲太を救えなかった事で自分を引きずるほど責めていた。大学入学の時に咲太は完全に吹っ切っていたのに、自分は今も過去の失敗を引きずり生きている。咲太に合わせる顔が無い。自分がみじめだと思ったら郁実Bと入替っていた。あちらの世界では咲太が中3の時に問題を解決していたので、その罪を背負わない世界である事が幸いだった。で、郁実Bと入替るタイミングでこちらの世界に戻って来たという経緯。郁実Aは、立ち直った咲太にどうしたら自己否定せずにカッコ悪い自分を受け入れ許せるか質問する。ただ毎日生活を繰り返せばいつか忘れられる、いつになるかは分からないけど。今日その事が分かったから良かったじゃないか。咲太の優しさに救われる郁実A。

という感じで郁実Aも郁実Bも中3の咲太の事件がきっかけで自己肯定感ゼロになり、自分を責め続ける人生を送っていた。ただ、その二人が入れ替わり、事件の結末が違うifの世界に行っても、本人の苦しみが変わらなかったというのが皮肉というか、宗教っぽいというか。未来はなかなか変えられない「シュタインズゲート」的な重みを感じさせるという意味では、曲げられない自然の摂理というか、SFっぽいと言ってもいいのかもしれない。郁美というキャラクターは、真面目で自分で背負い込み過ぎで大人しい性格である。自己肯定感ゼロの薄幸さも、か弱くて可憐な雰囲気を醸し出していた。それでいて強がりな一面はあるのだが、だからこそ迷いを独白したり思わず泣きだしてしまうシーンのギャップで、守ってあげたい可愛さを非常に感じさせる。双葉とはまた別な意味で大人しめの美少女キャラである。

なんとなく、郁実は、映画の「ディアフレンド」でも大活躍しそうな予感である。あちらの世界の郁実Bとこちらの世界の郁実Aはテキストでやりとりできる貴重な通信手段であるから。郁美自身もその事で咲太の力になりたいと思っているフシがある。きっと、咲太を助ける事で今の自己否定の呪いが解除される展開になると予想している。

姫路紗良は咲太の学習塾に通う女子高生。異常に男性にモテるが、咲太に近づき咲太を誘惑する。

もともと幼馴染の高身長男子が学習塾の先生の双葉を好きになった事で発症した「千里眼」という思春期症候群。強く接触した人の意識を遠隔で共有し、相手の見聞きした情報や思考を覗き見る事ができる。これで、相手の男性をその気にさせて自分に惚れさせていた。少なくとも咲太の前に二人の塾の先生が紗良に本気になり塾をクビになっている。小悪魔的とも言えなくもない。その行動の本意は私には良く分からないところも多いが、紗良自身が人の愛し方を知らず、自分だけが愛される事を欲していたのかな、という気がした。大人の男性をターゲットにしたのは、愛される延長線上に愛し方を知る手掛かりがあると思ったからかもしれないが、これは妄想でしかない。客観的に見れば、男を弄ぶ悪女でしかない。実際に、いくつかの家庭は壊れているのだろう。それに、相手の男性が本気になったら、たいして好きでもない相手からの貞操の危機になるかもしれないし、捨てたら捨てたで反転アンチになって報復されるかもしれない。いろいろリスクもあったのではないか。だから、紗良の心理は読めないのだけど、シンプルに小悪魔的でかく乱させる可愛い美少女としてキャラクターを立てたかっただけ、という作劇場の意図なのかもしれない。

紗良がクリスマスイブの日に「千里眼」で霧島透子の心を覗くことと引き換えに、咲太と紗良は鎌倉デートをする事になった。紗良は咲太を鎌倉デートで落とそうとするが、予定外に一緒に来た麻衣から語られる咲太への愛情の太さに圧倒され、咲太を断念する。結果的に麻衣が正妻の威厳を持って愛する咲太を守った形である。その場を逃げ出した紗良は「千里眼」の能力を失っていた。心配して追いかけてきて優しくする咲太。咲太先生の役にも立てず酷い事もしてきたのに、優しくされたら余計に惨めになる。咲太先生の事をもっとちゃんと好きになれば良かった、という台詞は咲太を受け入れ完全に信用した、という事だろう。一方、咲太の方は相変わらず、麻衣ファーストにブレはない。結局、霧島透子の心を覗き見する作戦は徒労に終わった。

個人的には紗良が「千里眼」で犯した罪を考えると、紗良というキャラを好きにはなれない。ただ、それは劇中でも女子に嫌われるヒロインという描かれ方をしていたところもあり、作者の狙いでもあるのだろう。立ち位置としては、朋絵に近くて、年上の咲太に惚れた妹分なのだが、今後咲太にどう関わりどう恩返し(=貢献)してゆくのかは興味深い。

岩見沢寧々は、ミスコンもグランプリに輝いた美人だったが、4月から周囲から認識されなくなった。以来、ときどきミニスカサンタの衣装で大学構内を出歩いていた。寧々を認識した咲太には、自分を霧島透子だと名乗り、思春期症候群をばらまいていると言った。

寧々が認識されなくなったのは、麻衣のケースに似ている。認識されなくなった理由は不明。美東美織の推察では、より美人の麻衣が大学に復帰したことで、今までチヤホヤされた存在から反転、蔑み嘲笑されて惨めになり何者でもない自分を世間から隔離してしまいたくて認識されなくなったのではないか、と語られていた。恋人の福山にも認識されなくなり、途方に暮れる。透明人間になった寧々は、多分麻衣と同じ理由でミニスカサンタ姿で認識してくれる人を探していた。と、当初は想像していたのだが、麻衣の警察署長イベントに押しかけた認知されないサンタクロース姿の人たちを考えると、霧島透子≒サンタクロース姿という事だったのかもしれない。寧々の交通手段はクルマを利用していたが、公共交通機関などではICカードで認知されなくても行けそうだが、人間の密集度を考えると電車はやはり困難なのだろう。

1話の時点で、卯月の思春期症候群を疑う咲太とのどかの後ろにミニスカサンタ姿で居て、3話で咲太にはじめて認識される。実際には寧々に思春期症候群をプレゼントする能力はなく、当てずっぽうで言っていた可能性が高い。卯月や郁実のケースとは異なり、紗良の思春期症候群については学外ゆえに知らない、と語った。霧島透子を名乗りながら、動画配信サイトにMVを公開したり、ライブ配信をしていたりする。寧々だと認知されないが、実態のない「霧島透子」という存在になることで、ギリギリ認知される。寧々が自分を見失い、自分がという存在が何もなく、「霧島透子」というブランドにすがるという構図である。1月30日に咲太の提案で、福山の誕生日プレゼントのマフラーを羽田空港で手渡そうとするが、福山に認知されずショックを受けてその場から消える。後日、寧々の自宅に呼び出された時には、完全に自分を霧島透子と思い込み、寧々は自分と過去を捨てていた。入れ違うように、寧々のミスコングランプリの盾を見て記憶を取り戻す福山。一日警察署長イベントに出かけようとする寧々のクルマの前に飛び出し、寧々と話し合いを試みる福山。「負け犬」として完全に自己否定していた寧々の存在を、福山の愛の力で取り戻すというロジックだが、咲太の「福山に愛されているのだから、負け犬は思い上がり」という台詞が刺さる。

当初は誰が演技しているかは意識せず見ていたが、後で上田麗奈さんが演じていた事を知り、改めて上手い芝居だと思った。普段は高飛車で意地悪な態度だが、福山のイイところの会話の優しさや、羽田空港で福山にプレゼントを渡そうとしたときの不安で弱々しい芝居、福山が説得する際の「霧島透子」になりきって拒絶し、その後感情が爆発するところ。これだけ、感情の起伏が大きく繊細なキャラクターを見事に演じ切っていた。個人的には、寧々の何者かになりたいけどなれない自分を自己否定する、というところまで自分を嫌いになった事はないので、この感情は分からない。ただ、姫路紗良よりも、キャラクターの心情はロジカルなので、寧々の方が共感できた。

原作未読ゆえ、先の展開を知らないので、映画の『ディアフレンド」に続く謎や伏線も少し整理してく。「霧島透子」という実態が無い、誰でもない「型」みたいなものがあり、寧々が自己否定してそこにハメ込んでゆくという構図。今回の卯月や郁実も、自己否定だから共通するところがあるような気がしている。紗良は、愛し方を知らないから、愛を欲するとするとこの構図からはやや外れる例外である。4人のヒロインとも4月に思春期症候群を発症し、1年後に麻衣の野外ライブに繋がって行くとなると、全ては麻衣を通して繋がっている可能性がある。ただ、美織の見解だと、霧島透子の曲をカバーして認識されなくなった人の時期は様々という事で、透明人間化と4月は直結していない。クリスマスイブの「#夢見る」で麻衣が野外ライブで「私が霧島透子」発言をするのは、未来ではなくパラレルワールドの可能性というのは双葉の意見だが、『ランドセルガール』から始まり、郁実も行き来したあっちの世界が絡んでる可能性も高い。1話アバンで、ループの全ての記憶がある牧之原翔子が、今回初めて「霧島透子」が登場したという発言。多分、咲太と麻衣は沖縄の翔子を訪ねる事になるのだろうな、とか。それから、思春期症候群が治るタイミングでちょくちょく登場するランドセル姿の小学生麻衣。美織と咲太はどうして寧々を含めた透明人間を認識できていたのか、咲太と美織の繋がり(=接点)は何か。いろいろな謎、伏線を全て巻き取るであろう映画の『ディアフレンド』に繋がって行くのだろうが、今回のように備忘録を作っておかないと、いろいろ置いてけぼりになるような気がしてならない。公開時には、また配信などで予習が必要そうだが、個人的に青ブタシリーズの中で一番好きな『夢見る』を越えられるか、今から楽しみではある。

夢中さ、きみに。(2025.10.18追記)

  • rating
    • ★★★★☆
  • pros
    • シュールなギャグに徹しつつ、クスっと笑えて視聴後にちょっとだけ気分が軽くなる、絶妙の作風
  • cons
    • 特になし

「カラオケ行こ!」とセットで制作された、和山やま先生の原作漫画のアニメ。絵柄のタッチは「カラオケ行こ!」と同じだが、こちらは連作短編小説のような構成である。

真面目な顔をして風変わりな行動ばかりする男子校の生徒の林。近づくだけで不幸になると信じられている高校生の二階堂。そして、彼らに関わる人間たちのドラマが紡がれてゆくが、それぞれにクスっと笑えるエピソードがあり、視聴後になんだか少しだけ楽しい気分になれる。1話から3話が林編、4話から5話が二階堂編である。

男子高に通う林は、真面目な顔をしてクラスメイトの江間にだけ「僕ってかわいい?」と事あるごとに聞いてくる。この掴みで本作の笑いのテイストは伝わると思うが、これは林特有のジョークのようなもので、林の掴みどころの無さにまず戸惑う。そして、実は体育祭の借り物競争で江間が「かわいい人」として障害物競走の網に絡まっていた林を借り物として選んだ事をネタにし続けていたとか、林の思考パターンが次第に分かってくる。色々とエスカレートして、最終的には林がパンダの着ぐるみを着て江間宅に押しかけ実家の中華料理店の割引券を渡し、しばらくして江間が「かわいい」と思わず呟いてしまうオチである。

林は他にも、他校の文学女子高生に惚れられたり、中等部の生徒から絵画のモデルを頼まれたり、中等部のイジメの現場に遭遇したりする。林と関わった人間は、真面目に片想いや絵画展の落選やイジメ被害に、悩んだり落ち込んだりしているが、林の突拍子もない行動に自分の悩みが馬鹿馬鹿しくなって、少し気持ちが軽くなる。そうした効能が視聴者にもあるから、楽しく観れるのだと思う。

目高は2年生のクラス替えで、不幸の権化である二階堂の前の席になる。意を決して会話してみるが、やはり人間を避けている。後に幼馴染の女子高生から二階堂が中学時代にアイドル並み人気者だったという話聞き、卒アルの写真を入手してからは、俄然二階堂に興味を持つ。女子を嫌い人間を嫌ってワザと人を近づけないために、近づきがたいオーラをまとう二階堂の昔の笑顔を見てみたい目高。一方、二階堂は人を近づけさせないオーラを参考にしたのが、入学当時の粗暴な目高だった事に気付き、目高への距離が少し近くなる。少しだけ惹かれ合う男子生徒二人だけの秘密でありBL風味も感じさせる。

人間を拒絶した二階堂の笑顔を取り戻したい、という文芸的にも綺麗なベースがあるから、シュールな笑いに徹していても、作品が下品になり過ぎずバランスを保てるのだと思う。

原作漫画は未読だが、アニメを見ていてもマンガ的表現が連想できてしまいそうな感じで、アニメーションとしての押し出しの強さは感じさせない作りである。これはこれで正しいディレクションだったと思う。

総じて、男子高校生のおもしろ実態をベースにちょっとだけBL風味も感じさせるシュールなギャグ作品ではあるが、文芸的に光る部分があるので軽すぎず重すぎず、ちょっとだけイイものを観たような気分にさせてくれる作品だったと思う。個人的には「カラオケ行こ!」よりも本作のテイストの方が好みである。

おわりに

個人的には、瑠璃の宝石が今期の中では一番お気に入りだった気がします。萌えと学術の見事な融合。アニメーション的にも見どころだらけで、今期の太鼓判を押せます。

着せ恋2期は、2期だから相対的に評価が下げてしまっている部分はあるが、1期よりも手が込んでいて群像劇やら情報が増えたにもかかわらず、とにかく丁寧な作りでで勢いがあったと思います。同じく、CloverWorks制作の薫る花もリッチで、最終話で告白と受け入れを描いて、交際が開始するという滅茶苦茶1クールを上手く使うシリーズ構成に唸りました。

フドあすは、今までにないワンルームのコメディに類するコメディ寄り作品だったと思いますが、コントを脚本と演出でセンス良く作り込むこと自体、アニメとしては新感覚でした。

ミルキーサブウェイもショート枠ながら新感覚な部分がありました。個人的には文芸がカチカチにショート枠×12話にハメ込まれていて、構成力の高さとプレスコの自由な芝居に唸りました。

王道的な作品はよりハイクオリティになりつつありますが、フドあすのような変化球も多く、広く作風を楽しめたクールだったと思います。

化け猫あんずちゃん

ネタバレ全開につき、閲覧ご注意ください。

はじめに

本作は2024年の映画作品ですが、私は2025年にNetflixで鑑賞しました。非常に良い映画、というか好きなタイプの映画だったので、いつもの感想・考察を書き残します。

ザックリ言うと、二足歩行の日本語を喋る化け猫というファンタジーの緩さと、シュールで演劇的な笑いが特徴で、最後はちょっと泣けるという、映画っぽい映画です。SNSを観測した感じだと、概ね観た人には好評な作品に感じました。

感想・考察

マンガ的なファンタジー設定

本作は、いましろたかし先生による原作漫画のアニメ映画化である。連載が2006年の「コミックボンボン」ということで結構古いキッズ向けの作品なのかと想像する。ただ、映画は大人も子供も楽しめてしんみりできる良作になっていたと思う。ちなみに、映画封切りとほぼ同時期に「コミックDAYS」にて連載を再開したとのこと。

まず、主人公のあんずが37歳の化け猫で、二足歩行で日本語を喋るということでかなりファンタジーな設定である。着ぐるみみたいな大きで、スーパーカブに乗り訪問マッサージをしており、シュールさが漂う。他にもカエルちゃんや精霊など、同様にファンタジーな生き物がそこそこ登場する。

南伊豆は、近くに山も海もあり自然豊かな田舎でノスタルジーを感じさせる映画にマッチしたロケーションである。あんずの家である草成寺は、鎌倉大仏のように境内に大仏様が鎮座しているのが特徴であるが、舞台としてはリアル寄りと言ってもいいだろう。ただ、、色彩設計としてはマイルドに鮮やかな色合いも溶け込んでおり、絶妙に浮世離れしたファンタジー感はある。

もう1つの舞台である地獄は完璧なファンタジーのはずだが、建物やホテルの清掃員の仕事などが、これまた微妙にリアル寄りで可笑しい。実写ベースの部分でロケやセットでの芝居空間を感じさせる。キャラの閻魔大王や鬼たちが完全なファンタジーである。

物語の軸は2つある。1つは化け猫と女の子のドラマ。もう1つは女の子と死別した母親との再会を経た成長。ガッツリとファンタジーな要素が大前提となっている。こうしたファンタジー要素は、アニメやラノベでは必ずいくつか仕組まれていて馴染んでしまってはいるが、イチイチ細かく説明しないところが良い。猫が喋って原付に乗っていても、そういう設定をシュールに楽しめる。かりんが最初に遭遇したときに驚いた表情で唖然としているが、それが最初で最後のツッコミで、あとはソレ前提にシュールさを楽しむ作風である。

個人的に好きなシーンは、あんずが原付で走行中にパトカーにつかまり無免許で赤切符切られていたシーン。職質の警官の口調がまさにそれで芝居がリアルで笑ってしまった。その上、「37歳」とか「免許取ってから乗ろうよ。16歳から取れるんだからさぁ」などとシュールなコントみたいになっていた。

原作がマンガという事もあるだろうが、こうしたシュールなファンタジーを描くには実写では質感が出過ぎて難しい。後述のロトスコープという手法とはいえ、ルックとしてアニメーションである事は必然だったと思う。

ロトスコープによる生っぽい芝居

本作は、実写による撮影からアニメーションを描き起こす「ロトスコープ」という手法を取っている。これにより、キャラクターの芝居は、役者による動きや表情の演技がベースとなり、それをアニメの絵として仕上げる。

もちろん、あんずの体形と役者の体形には大きな違いがあるが、その空間で演者が芝居をする事でできる「空気感」のようなものも感じさせる。実写映像をアニメーションに翻訳するような作業であるから、単に直訳するだけでは映画は仕上がらない。

ロトスコープであるがゆえに他のアニメに比べて美点に感じるのは、空間に対して嘘がほとんどない。たとえば、お寺に続く曲がりくねった坂道を駆けのぼってるかりんのシーンなどで、キャラの歩幅や向きと背景美術が完全に空間的にマッチしていてハッとする。この辺りは、実空間を使って撮影しているので当然と言えば当然なのだが、ここまで空間的に自然だとアニメとしては特別な感じがする。

それから、やっぱり生身の演技由来の芝居がいい。とくに、11歳の女の子かりんの仕草や芝居が本作ではずば抜けている。他の演者は大人だから余計に落ち着きを感じるのだが、かりんの動きの落ち着きのない子供っぽい動きになっている。終盤で父親がかりんを連れ帰るシーンで、駅のベンチに座っているときのかりんの手だが、太ももの上に掌を上にして組んでいるのだが、普通のアニメならこんな演出的な意味のない仕草は入らない。だが、こうした仕草がいちいち「らしい」。一事が万事、こうした生身感に溢れた映像になっている。

もちろん、他の演者たちもその芝居の動きと間をコントロールしており、それが最終的にアニメーションになっても活きて伝わってくる。閻魔大王のヤクザの親分感、鬼たちのチンピラ感など、見慣れた芝居のテイストがあるから、喜劇寄りではあるが迫力を感じさせる。あんずはちゃらんぽらんな化け猫だが、その芝居の間がいい。たとえば、東京に出て来てかりんにウザがられて時のシーン。「えー。いや、いや、いやー、そんなー、ねえ。行きたいところとかもないし」「了解まんにゃー」とかの台詞の間が独特で絶妙。あんずは複雑な表情で描かれないから、余計に声や間の芝居が重要になる。

東京のシーンは、通行人のモブキャラもロトスコープで描いていた思われる。南伊豆の片田舎であれば通行人もほぼ居ないが、東京では場面によってはモブは必須。メインのキャラクターがずっとロトスコープの生身感を持っているので、モブもそのテイストに合わせるディレクションだったのであろう。実際にどこまで実写で撮影したのかは分からないが、かなり異例な作り方だったのではないかと思う。

ここまで書いてきて、本作は絵コンテにあたるところは実写チーム担当だったのか、アニメチーム担当だったのか、という疑問が出てくる。個人的には、従来のアニメ同様に画面レイアウトも無駄なく機能的に配置されていた感じを受けたが、実際には実写チームが絵コンテを作っていたのかもしれないし、詳しい事は分からない。いずれにせよ、実写チームはかなりの重要シーンのベース作りをしているのは間違いない。個人的に邦画っぽさを感じるテイストに感じていたので、この辺りは実写チームの面目躍如といったところである。

そして、アニメーションとして仕上げられてゆくが、絵で描く事のメリットはすべてのコマを意図をもって細かく描ける点。たとえば、かりんの表情はアップの時も引きの時も丁寧に描きこまれていたと思う。顔が小さくなっても、怒ったり拗ねたりの表情としてすべてのコマの絵を作れるから、演出意図をハッキリと画面に出せる。逆に、住職や井上と林などは、絵や表情もシンプルでマンガ的である。そうすることで、サブキャラは劇中でもやや薄味の存在となり、メインキャラとは区別される。

逆に純然たるアニメだなと思ったのは、鬼たちとのカーチェイスのシーン。こうしたド派手でデフォルメ強めの動きはアニメっぽさで描くのが適切であろう。

個人的に好きなシーンで、あんずと貧乏神の「短い方を引いたら負け」の勝負シーン。あんずの一生懸命なハッタリの演技が素晴らしい。イカサマのやり方を含めて誤魔化しきるまでの、テンパっている感じが凄く表現できていて、観ていてかなり笑ってしまった。あんずは、基本的に表情パターンは少な目で、絵の演技がしにくいキャラだと思うが、このシーンは仕草や間と大袈裟な絵の表情が非常にマッチしていた。本作の中でかなりの名シーンだったと思う。

監督は、久野遥子、山下敦弘の2名体制。久野がアニメチーム、山下が実写チームの監督である。

山下監督作品で言うと「カラオケ行こ!」は観ていた。ヤクザと男子中学生のカラオケを通じたコメディ映画であるが、邦画コメディと芝居のテイストは、本作にも共通していると感じた。

久野監督は、アニメーターだけでなく、イラストレータや漫画家としても活躍する多彩な作家である。岩井俊二監督の「花とアリス」のロトスコープアニメーションディレクターも経験しているとの事。ネット検索で作品を眺めた感じ、思春期の繊細な少女を描くことに長けていそうな作風に感じた。であれば、原作漫画に存在しないかりんの存在も久野監督による部分が大きかったのだと頷ける。私はリアリティを感じさせる美少女モノが好きなので、今後も注目すべきクリエイターだと認識した。

物語・テーマ

あんずとかりんの友情

本作のポイントの1つは、化け猫のあんずと、東京から来た女の子のかりんの関りの中で生まれた「友情」にあると思う。

当初、二人はまったく相容れない。

あんずは37歳の化け猫だが、田舎者特有のルーズさから、基本的にのんびり屋でいい加減な性格である。かりんの面倒を任されたことで、かりんを小遣い稼ぎの手伝いさせておきながら、そのお金をパチンコで擦ったりしている。しかし、面倒見はよく、身内や友達に対して情が厚い。

一方、かりんは都会育ちで聡く、要領がいい。放屁や寒いギャグを連発するあんずの事は田舎の不愉快なオッサンという感じだったであろう。

かりんは、父親に見捨てられたかもしれない状況で、それでも父親が来るのをどこかで待ってしまう。かりんはカエルちゃんに「父親に捨てられた」と同情を誘う話をしたが、あんずは、そうと決まったわけではないからと否定した。あんずの事が気に食わないかりんは林を使ってあんずに対して陰湿な嫌がらせもしている。あんずの方はあんずで、自転車ドロに対してあまりの悔しさのあまり、家の障子を槍で突いて怒っていた(余談ながら、私はこのシーンのあんずがかなり気に入り)。かりんはこれを見てほくそ笑み、あんずは後に黒幕がかりんと知り、完全に二人の心は反発し合っていた。

とは言え、あんずも大人であり、相手はまだ子供である。和尚さんの指示で、いったん東京に戻ろうとするかりんの付き添いをしたり、かりんに取りついた貧乏神を追っ払おうとしたり、あんずはかりんに対して情が厚さを見せてゆく。

地獄ではあんずは普通の猫になっていたが、地獄から戻ってからは、原付による逃走劇でかりんと母親を追跡する鬼たちから振り切ったり、盆踊り会場での乱闘では体を張ってかりんたちを守ろうとして逆にコテンパンにやられていた。

そうこうあって、これらの体験を通して、二人の友情は深まって行く。

かりんにしてみれば、親身になってくれる人、一緒に頑張ってくれる人がおらず、そうしたふれあいに飢えていたのだと思う。母親は死別、父親は不甲斐なく娘を置き去り、東京のボーイフレンドは中学受験最優先でかりんのために時間を割く事もない。付け加えて、井上と林は子分であり自分を引っ張ってくれる存在ではない。この状況で、自分をサポートしてくれた存在が、あんずだったのであろう。

あんずの良いところは、かりんの事を不幸な身の上だからと同情したりせず、また大人目線の見下しもなく、対等な存在としてかりんと対峙していた事にあると思う。ある意味、親目線というか。それは、かりんが否定しがちな自分の身の上を、無意識にバイアス解除させてゆく意味があったのだと思う。普通に接して、普通に遊び、一緒に過ごす。

ラストは、父親に連れられて東京に戻る直前のかりんが、あんずの居る南伊豆に残るというところで終わる。かりんは、東京と父親よりも、あんずとの友情を優先した。この辺りは、別れが必然という予定調和を敢えて崩した意外性と、自分で楽しさを選んだかりんの心情の変化に驚くとともに素直に嬉しくなった作劇であった。

とまぁ、ここまであんずとかりんの関係は「友情」として書いてきたが、ここは37歳男性(あんず)と11歳女子の関係とも言えるため、大人と子供という疑似家族愛的に解釈する事もできるだろう。あんずは母親と別れた後のかりんは「俺がいるよ。化け猫なんで俺死なないから。ずっとそばにいるニャー」「バカじゃね」と会話している。このシーンはラストシーンに繋がるいいシーンなのだが、あんずの良さが溢れている。

ただ、あんずが人間の37歳男性と仮定してリアル寄りに考えてしまうと、ロリコン的な微妙な雰囲気が漂ってしまうと思うので、その意味でも絶妙な設定だったと思う。つまり、37歳男性を「化け猫」というフィクションに設定していることで「友情」でも「疑似家族愛」でもどっちともとれる。臭みのない上手いチューニングだなと思う。

かりんが前向きになるまでの物語

本作のもう1つのポイントは、不幸な身の上の子のかりんが、この世の地に足を着けて、前向きに生きるというところにあると思う。もう少し言えば、ツマラナイと思っていたこの世も存外楽しいところだな、とかりんが信じられるようになるまでの変化の物語である。

客観的に見ればかりんは不幸である。かりんは11歳。母親は幼少期に死別。父親は借金まみれで東京の家から南伊豆の親戚のお寺に逃げて来て、借金返済に集中するためにかりんを預けて姿を消した。父親なりの愛情もあっただろうが、客観的に見れば薄情でしかない。つまり、かりんは愛情に乏しい環境にあった。

この環境のせいか、かりん自体は大人びて擦れている。大人に「良い子」を演じてみせたり、「可哀そうな子」を演じて同情を誘って恵んでもらおうとする。こうした処世術もかりんの聡さ、器用さの表れである。素のかりんは口も態度も悪く、可愛げがない。ただ、普通に親に庇護される子供であれば、このように大人に媚びる必要などない。

さらに、かりんは悪ガキでもある。南伊豆の地元の子供の井上と林を子分につけて、林に指図してあんずの自転車に嫌がらせをした。自分の手を汚さずに悪事を働く裏のガキ大将的なダークサイドもみせる。

もっとも、この複雑さがキャラクターとしてのかりんを魅力的にしている。ただ、注がれる愛情の薄さと、このひねくれた性格は直結するものがありそうである。

かりんは母親が一緒に写る幼少期の運動会の家族写真をスマホの待ち受け画面にしていた。父親と一緒に墓参りする約束も反故され、自ら墓参りに向かうも未払いのため納骨場でも墓参りできず。一層母親への思いが募る。かりんは愛を欲していたのだろう。

ひょんなことから地獄で清掃員として働く死別した母親に面会して、勢いでこの世に連れ帰る。それを連れ戻そうと追跡してくる閻魔大王と鬼たち。逃走するあんずとかりんと母親。ドタバタの逃走劇があり、観念して母娘は再び別れを決め、母親は地獄に帰る。

逃走劇自体は映画の劇としての盛り上げ要素ではあるが、母親と一緒に無我夢中で逃げる(≒遊ぶ)という体験自体が、子供のかりんにとって望んでいたものであろう。

母親は地獄に帰るために別れを告げようとするが、かりんも地獄についてゆくと駄々をこねる。かりんはこの世に未練はないと言い切るが、母親に生きていればイイこともある、と諭され納得してこの世で生きるを選択する。

別れのシーンが印象的である。かりんは逆立ちし、母親も逆立ちして迎えのマイクロバスに乗る。悲しい場面で笑顔で別れるが、内心はは辛い。それを逆立ちでひっくり返すという演出のトンチだと感じた。全体的に言える事だが、本作は結構辛い現実を描いているにもかかわらず、映像としては陰湿さを極力なくしてドライな感じで演出されている。

ラストは、父親が迎えに来て東京の家に戻る話になった。この時点で生きていてイイ事が起きた。まさに「貧乏神」の憑き物が落ちたような好転である。ただ、それはあんずとの別れを意味する。その切なさで幕を閉じるのではなく、かりんは自分の意思で南伊豆に残り、父親よりもあんずとの友情を優先した。

ここは、2つの相反するニュアンスを感じた。1つは、押し付けられた運命を覆してゆける自立した大人としてのかりん。もう1つは、まだまだ無邪気に遊びたい子供としてのかりん。どのようなひどい状況であっても、幸せ(≒楽しさ)は自らの力で掴めるし、感じられるというメッセージに思えた。

本作の物語は二重構造似なっている。外側に「南伊豆のあんず」というファンタジーがあり、その中に「地獄の母親」というファンタジーがある。内側の地獄ファンタージは「ゆきて帰りし物語」の形をとりつつも、外側の南伊豆ファンタジーは「ゆきて帰りし」とはならず、そこに居座った形で終わる。このちょっとした意外性を新鮮に感じたし、かりんが本当に欲していたものは東京には存在しない、あんずの様な存在だったのだ、という気がした。おそらく、これが作劇場のミソだったのではないかと思う。

おわりに

やっぱり、本作は映画としての品の良さが圧倒的に好きなところです。個人的に満足度が高い。

そして、かりんちゃんが可愛い。クソガキでもあるけど、繊細さを持ち合わせた美少女という難しいキャラクターを見事に映像化していたと思います。ロトスコープによる芝居の生っぽさで、最初から最後まで眼福な映画でした。

また、久野遥子監督の作品は、今後もチェックしたいと思いました。

Turkey! 6話「飛び越えて、リバースフック」

はじめに

JKボーリング部の青春部活モノの体裁で始まり、1話のラストで戦国時代にタイムスリップしてどうすんのこれ、的な話題を作った「Tueky!」の6話を見た感想・考察になります。

2話で生首が登場するなどありましたが、その後は概ね和気あいあいとしたJKモノとして進んで来たので、やっぱりジュブナイル的な青春ドラマよね、と思っていました。しかし、6話で他者を殺めるというハードなテーマに、部員の中でも一番おっとりしたさゆりを担当させるという衝撃的な話を差し込んできました。残りのいくつかの話も、これくらいハードなんでしょうという覚悟は、これで出来ました。

とりあえず、1話から6話を通してのアニメーションとしての感触と、6話の物語・ドラマの考察について衝動的に書きました。

感想・考察

アニメーションとして

アニメーション制作の BAKKEN RECORD は、タツノコプロ内部の1レーベルである。2019年から存在し、前作はJK柔道部モノの「もういっぽん!」である。

京アニや CloverWorks などの映画並みのリッチなアニメーションが注目されがちな中、グリグリ、ヌルヌル動かすような事はせず、カット割りで作画カロリーを抑えつつ効果的な演出でドラマを見せる手堅い作風が持ち味だと思う。どちらかと言うと、映像自体は中堅で、演出強めでドラマを見せる事に長けている、というのが私の印象である。

本作「Turkey!」もこの印象通り、アニメーション映像として強烈なインパクトはないものの、強めの演出で手堅くドラマを見せる作風だと思われたが、ギスギスしたボーリング部の5人がタイムスリップで戦国時代に飛ばされる、というところで1話が終わった。この設定は、前情報では隠されており、O.A.後に「何事?!」となるサプライズ演出で、強烈なインパクトを残した。つまり、映像的には突出したリッチではなく一般的なレベルの仕上がり(=コスト)であるがゆえに、舞台設定のサプライズで強烈なインパクトを残すという超変化球な戦略である。

2話冒頭では、眼下で合戦が行われ、自分たちの目の前に生首が落ちていたりと、青春部活モノを想定していた視聴者の顔をひきつらせたり、ドン引きさせたりという面はあったであろうが、挑戦的なテーマに目新しさを感じていた視聴者も少なからず存在したであろう。

主題歌・挿入歌

本作は、ポニーキャニオンも当初から制作に関わっており、楽曲も制作してゆく。普通に考えると、ここはアイドル歌手だったりダンスするMVだったりと行きがちだが、これらを得意とするサンライズブシロードなどの制作会社のクオリティは突出しており、同じような事をしていても勝機は薄いため、そこから離れてOP曲と多数の挿入歌は作るがMVは作成しない、という戦略のようである。

少々脱線するが、ラブライブやバンドリのキャストがリアルのコンサートも務める作品群は、個人的にはキャストへの負担や拘束が大きいため、リアルのコンサートまではやらずに、声優として集中してもらった方が良いのではないか?という気持ちはある。しかし、現実には、リアルも含めたビジネス戦略設計があり、それに準じた形でビジネスが推進されてゆき、成功しているので外野がどうこう言うような話ではない。ただ、本作ではリアルなしの前提で挿入歌を作ってゆくビジネスに留まっている。挿入歌は物語に寄り添うが、物語を越えて楽曲が出しゃばる事はない。その辺りの割り切りはハッキリしている。

それから、OP曲の映像だが、現代と戦国時代のキャラのペアや、ドラマのイメージ映像がめくるめく流れてゆく部分は鉄板のOP演出だが、それ以外にボーリング部の5人がバンド演奏しているシーンも挿入し、キャスト5人が歌唱する事と重ねた演出になっている。通常、楽器演奏はリップシンク同様に音と映像を合わせるのが大変なカロリーになってしまうが、その辺りはイイ感じで手抜きできるようなカット割りになっている。本編でも作画カロリーを抑え気味にする事に長けている感じなので、そのノウハウがOP曲にも活かされているように感じた。

キャラクター

一刻館高校ボーリング部の5人は、戦国時代に同じテーマカラーを持った対になるキャラが設定されている。以下に示す。

現代 戦国時代
■ピンク 音無 麻衣(CV 菱川花菜) 寿桃(すもも)(CV 日髙のり子)
■青 五代 利奈(CV 市ノ瀬加那 朱火(あけび)(CV 皆口裕子
■緑 一ノ瀬 さゆり(CV岩田陽葵 傑里(すぐり)(CV 井上喜久子
■黄 三鷹 希(CV 天麻ゆうき) 庵珠(あんず)(CV 伊藤美紀
■紫 二階堂 七瀬(CV 伊藤彩沙 夏夢(なつめ)(CV 佐久間レイ

似たところがらるこれらのペアを絡めた各キャラのドラマを展開してゆくものと思われる。現時点で5話で希と庵珠、6話でさゆりと傑里のペアでドラマが描かれた。

キャストで注目なのが、戦国時代側のCVが大ベテランが担当しているという点。これは、6話の傑里のエピソードでも感じたが、戦国時代という倫理観の違う壮絶な時代のキャラクターの芝居が浮かないように、重厚な芝居となるようにするためのキャスティングであろう。5話の庵珠はまだ幼女だったのでまだ可愛い感じの芝居で済んでいたが、6話の傑里はかなりハードボイルドである。傑里は、領土の民を護るために男装する女性であり、フィジカル面のハンデキャップを持ちながら、粗暴な野武士たちを殺して排除しなければならにという重責を担っている。流石に野武士にトドメを差すシーンで軽々しい芝居はできないが、CV井上喜久子の演技により凛とした芝居に仕上がっている。

他の寿桃、朱火、夏夢もハードな芝居が予想される。朱火はOPに自らの喉元に小刀を突きつけるシーンがあり、何らかの責任を取って自害するシーンとかありそうである。

物語・テーマについて

戦国時代の役目と現代の自由意思

舞台が戦国時代=時代劇であり倫理観も現代とは異なる。そこに現代のJKがタイムスリップしてなんやかんやする令和のエンタメ作品なので、適度なジュブナイル感を出しつつ、そこそこ収まるのかなと思っていたら、6話で強烈な右ストレートが来て驚く。

現代人の麻衣は、寿桃の政略結婚について、好きでもない相手と結婚が嫌じゃないのか?と寿桃を問い詰める。しかし、寿桃はそれで隣国と同盟を結び、領土の安全に貢献できるので、本当に嬉しいと返す。少なくとも、政略結婚が当然の時代で、それに疑問を抱く人は居ない。少なくとも、昭和になるまでは自由恋愛で結婚するなどほとんど無かっただろう。本作は時代劇でもあるので、当時の倫理観はけしからん!と怒るための作劇ではなく、そのような倫理観の中でキャラクターの葛藤が紡がれてゆく。

また、傑里は男装して当主としてふるまう、戦う女性である。それも亡き父親の言いつけであり、領土の民を護るため覚悟を決めての行動である。そこに個人の好き嫌いはない。女性であるためフィジカル面のハンデキャップがあり、その弱点に苦しめられながらも、それを言い訳にする事はない。やるしかないのである。

本作では、「役目」と表現していたが、本人の気持ちは二の次であり、誰かの役に立つ事で凛として生きられるという事である。ちなみに、傑里は、自分の本当の気持ちなど考えた事もない、と言っていた。

これが令和では、本人の意思やモチベーションが優先され、ストレスの軽減やメンタル面の安定が重視され、「役目」は二の次になる。

戦国時代 現代
「役目」を重視
(役目=他人、組織のため)
個人の気持ち(=自由)を
尊重したい

戦国時代と現代の人を殺める事の倫理観のギャップ

戦国時代の傑里のロジックは、こうである。自分や身内を護るために野武士を殺す。襲ってきてからでは遅いので襲われる前に殺す。

一方、現代のさゆりのロジックは、人命は尊く野武士の命も粗末にできないのが未来(=現代)。しかし、いざ戦国時代で野武士により傑里の命が危険にさらされたら、野武士に対して殺意を抱かずにいられず投石した。これにより、さゆりのメンタルは極限のストレスにさらされ、冷静さを保てなくなった。

戦国時代(傑里) 現代(さゆり)
野武士を殺す事について 自分や身内を護るために先手必勝で殺す 野武士も人間であり命を尊重すべき
(=未来では人命は重い)
野武士を相手にして… 戦うが形勢不利
(さゆり投石の致命傷後、)トドメを差す
(傑里が殺されそうになったのを見て…)
投石1投目は威嚇
投石2投目は殺す気で

ちなみに、今回のさゆりの投石による野武士の致命傷は、現代の法律でも正当防衛は成立すると思われるから、現代で起きても不起訴処分になる可能性が高い。なので、そこまで気に病む必要は本当はない。

ただ問題はそこではなく、JKが殺意を持って野武士を殺そうとした事について、強烈なショックを受けてさゆりのメンタルが壊れそうになったというのがポイントである。狂気の戦国時代だからとはいえ、殺人未遂の罪を背負ってしまったという気持ちであろう。

傑里とさゆり

傑里が迷ったときに一人で行く泉。今回の話で傑里はそこにさゆりを招き入れ、二人だけの秘密を共有した。それは、二人の間で特別に心を開いたと解釈する事もできるだろう。

傑里は、臆病者の自覚があるから、10年前に父親が男子になりきって当主になる事を任命したときに、当初困惑した事を告げる。しかし、臆病者だからこそ、慎重に行動できる事を買われたのだと理解し、そうし続けて来た。今回のケースで言えば、取り逃がした野武士を捜索して殺しておく必要があると。しかし、この泉でその事をさゆりに語るときに、刀を持つ手は震えていた。それは、武者震いではなく恐怖心のように見え、普段から虚勢を張っているように感じた。前述の通り、本当の本心を封じ込めて役目に準じて生きるのが戦国時代。だから、メンタルにも相当なストレスをかけているハズだが、それが当然なので皆そこに疑問は抱かない。さゆりのフィジカル面の強さに憧れはあるが、この時代の人間のメンタル面は遥に強い。

一方、さゆりは戦国時代の人命の軽さや、自身や身内の命を脅かす相手を殺すのは当たり前の倫理観に打ちのめされる。これはさゆりが優しいというより、現代日本人の倫理観では当然であろう。また、さゆりはメンタルが弱く、困ったときに麻衣に依存しており、優柔不断な弱さも描かれていた。

この状況で、傑里が野武士に襲われ殺されそうになる現場に居合わせるさゆり。投石の1投目は威嚇だったが、2投目は殺意を持って野武士に投げた。誰でもない自らの判断で傑里を護った事がポイントである。傑里はトドメを見せない配慮したが、さゆりは自らの意思でその現場に留まった。自分の殺意に対する特大の罪悪感に自らを責め、自分は狂ってしまったので現代に戻れないと大泣きする。

これはフィクションだからと思えば気楽に見れるが、実際に私が当事者のさゆりであったら他人を殺める事ができるのだろうか。新兵のブートキャンプなどで殺意に対する訓練していても相当キツイだろうが、平和しか知らない一般人が他人を殺す恐怖は想像できない。

泉の白いデイジー(ノースポール?)の花が効果的に演出に使われていた(私は花は詳しくないので特定には自信がないが、多分ノースポールという品種だと思う)。傑里が女を捨てて断髪したときは、その白い花びらは散っていった。傑里とさゆりが泉のほとりで秘密を共有した夜、さゆりがこの花に愛しそうに手をかざしていた。そして、野武士を殺した後は、泣き叫ぶさゆりの手を取る傑里から滴る血が、白い花びらに落ちて一部の花びらを赤に染める。白と赤の入り混じった花は、さゆりのメンタルの不安定さを表しているようでもあり、それが真っ赤に染まらず白い凛々しさも残しているところが傑里のようでもあり。そんな痛みを感じるラストカットであった。

ちなみに、傑里はさゆりの事を「優しくて強い」「今まで通りのあなたのままです」と言うのは、1つは自分を重ねた部分と、もう1つは自分がとっくに捨ててしまった部分をさゆりが持ち合わせていたからだろうと想像する。

そして「この戦乱の世は、あなたが帰る未来の優しい世界に繋がっていると知る事ができた」「だから大丈夫」の台詞は、平和な未来に社会が変わって行く事実と、そこにさゆりが帰れるハズだから大丈夫、という優しさ(=気休め)が含まれていたと思う。こちらは、どちらかと言うと視聴者向けのメッセージだったような気もする。社会をここまで改善してくれた先人達に感謝するが、現代でも戦争が休まることなく行われていると思うし、戦争と隣り合わせの平和を生きているに過ぎないとも思う。丁度、今年は戦後80年という節目の年で、そうした戦争を考えるエンタメ作品も目立つが、作為的か否か本作もその一旦を担っていたように思う。

7話以降、今回の事件をさゆりはボーリング部の他の4人には内緒にするのか否かは分からない。基本的に泉の事は傑里との秘密事だし、殺人未遂をしたと告白するのは勇気がいる。一応、さゆりのメンタルは傑里がある程度支えているとはいえ、このまま内緒にしていたら、とても一緒にやって行けない気もする。その辺りの流れは、次回以降の様子見である。

おわりに

2010年代以降、作劇的にお花畑になり過ぎてしまう傾向がエンタメ作品にあるな、と感じていました。しかし、少年漫画などでは、鬼や呪霊や殺し屋を正当防衛的に殺してゆくシーンは絶える事無く描かれていたのかも、と最近思うようになってきました。自分が見る傾向のアニメは女子が主人公のモノが多いというのもあります。しかしながら、全体的にはやはりマイルド・ハッピー結構にエンタメが振れていたようには思います。

その中で、女子がキャッキャウフフするタイプのアニメ作品で、正当防衛でありながら他人を殺す半時代劇エンタメが出て来た事のインパクトは大きかった。これが純粋な時代劇だったら、雑魚を斬り捨てるのはチャンバラとして消化してしまえるのですが、現代の倫理観と戦国時代の倫理観のギャップが本作の肝になっているように気がします。本作が、私が観たかった作品なのか否かは何とも言えないところはありますが、少なくとも正当防衛で殺し合いが発生する事に対してまじめに直球で描いている点が凄いと思いました。

シリーズ構成、脚本の蛭田直美さんは、もともと実写、演劇のベテラン脚本家でありアニメは初作品です。台詞による説明が的確で誠実なのも、事件による激しい心理描写も納得の出来でした。

今後、未来に行った夏夢と色々知り過ぎている感がある七瀬の繋がりや、その時の同行者が誰なのか。麻衣の幼少期の住宅火災と両親の不在。伏線はばらまかれていますが、一体どんな回収がされるのか。

また、本作、ターキー後のスプリットを出す麻衣のトラウマや、戦国時代の覚悟の対比として、「真剣勝負」というキーワードがありそうな気がしていますが、それがドラマや物語にどう絡んでくるのか。この辺りは、1クールのオリジナル作品として練られていると思うので、ラストまでのこの先が楽しみな作品です。