マルクスが『資本論』で明らかにした、社会形態の解明という意味での形態論と商品論の内部における本質論と形態論

マルクスが『資本論』で明らかにした、社会形態の解明という意味での形態論と商品論の内部における本質論と形態論

 

 マルクスは『経済学批判』において「形態規定」という概念を多用している。しかし、この用語は『資本論』では基本的には出てこない。では、マルクスは両著書のあいだで、「形態規定」という概念にもられていた内容をどのように深化したのか。これは、マルクスがいかにして「形態論」を確立したのか、ということにかかわる。

 マルクスは『経済学批判』で次のように書いている。

 「使用価値であるということは、商品にとっては不可欠な前提だと思われるが、商品であるということは、使用価値にとってはどうでもよい規定であるように思われる。経済的形態規定にたいしてこのように無関係なばあいの使用価値、つまり使用価値としての使用価値は、経済学の考察範囲外にある。この範囲内に使用価値がはいってくるのは、使用価値そのものが形態規定であるばあいだけである。直接には、使用価値は、一定の経済的関係である交換価値が、それでみずからを表示する素材的土台なのである。」(岩波文庫版、22~23頁。——下線は原文では傍点、以下同じ)

 この「経済的形態規定」「形態規定」とは何であろうか。この引用文の直前に次の事例が書いてある。

 「ダイヤモンドをみたところで、それが商品であるということは認識できない。それが美的にであろうと機械的にであろうと、娼婦の胸においてであろうと、あるいはガラス切り工の手においてであろうと、使用価値として役立っているばあいには、それはダイヤモンドであって商品ではない。」(22頁)

 その前の引用文での「経済的形態規定にたいしてこのように無関係なばあいの使用価値、つまり使用価値としての使用価値」というのは、「このように」とうけていることにしめされるように、このダイヤモンドをさしているわけである。娼婦の胸にあるダイヤモンドはこのようなかたちでその使用価値が消費されているのであり、ガラス切り工の手にあるダイヤモンドは、その使用価値が生産的に消費されているのである。両者ともにダイヤモンドはすでに流通から引きあげられている。これらのダイヤモンドは交換されるものではない。だから商品ではない。マルクスは、このように交換されるものではなく商品ではないものをさして「経済的形態規定にたいして無関係なばあい」といっているのである。ここからして、マルクスは、交換されるものであり商品であるということをさして「経済的形態規定」といっているのだ、ということがわかる。このように流通から引きあげられているものを、経済的形態規定にたいして無関係なばあいの第一としよう。

 そうすると、これと関連して、空気というようなものを考えることができる。空気は人間にとって不可欠なものであり使用価値であるが、交換されず商品ではない。このことは、空気は労働生産物ではない、ということにもとづく。このような空気などを、経済的形態規定に無関係なばあいの第二とすることができる。

 さらに、資本主義社会ではなく、人間社会一般を考えよう。そのような社会では、労働生産物は直接に全社会のものであり、交換されることはなく商品ではない。このような使用価値を、経済的形態規定に無関係なばあいの第三としよう。

 しかし、人間社会一般にかんすることがらについては、マルクスは『経済学批判』では論じていない。このようなことについては、マルクスが「経済的形態規定に無関係なばあい」と書いていることがらを、これのまえの頁、すなわち『経済学批判』そのものの冒頭の展開との関係において読むことをとおして、われわれはつかみとることができるのである。そこには次のように書いてあるからである。

 「一見するところブルジョア的富は、一つの巨大な商品集積としてあらわれ、個々の商品はこの富の原基的定在としてあらわれる。しかもおのおのの商品は、使用価値交換価値という二重の視点のもとに自己をあらわしている。」(21頁)

 このことからして、「形態規定」とは、ブルジョア的富の支配する経済においては、という意味、すなわちブルジョア的商品経済のもとでは、という意味である、ということがわかるのである。使用価値にかんしていえば、「形態規定」とは、商品の一契機としての使用価値、すなわち交換価値の素材的土台である使用価値というように、特定の規定をうけた形態の使用価値を問題にする、ということである。端的には、ブルジョア的形態という規定をうけとる、ということだ、といえる。

 このことから、われわれは、ブルジョア的形態という規定をうけとっていない人間社会一般ということを考えることができるのであるが、これは、われわれがマルクスの展開からつかみとることができる、ということであって、マルクス自身は、ここでは人間社会一般のことがらについては論じていないのである。われわれは、マルクスがここで「使用価値としての使用価値」と書いているのを読んで、これは人間社会一般のことだ、と考えがちなのであるが、マルクスはそのようには展開してはいないのである。

 われわれは、マルクスが人間社会一般における使用価値を論じたのは『資本論』においてだ、というようにつかみとらなければならない。マルクスは、人間社会一般における使用価値を論じることをとおして同時に「形態規定」という概念そのものを止揚したのだ、といわなければならない。

 私がこのように言うのは、マルクスは『資本論』では次のように展開しているからである。

 「諸使用価値は、富の——その社会的形態がどうあろうとも——質料的内容をなす。われわれによって考察されるべき社会形態においては、それは同時に、交換価値の質料的担い手をなす。」(青木書店版、115頁)

 これと同様の論述を、彼は、労働過程にかんする解明でもおこなっている。

 「使用価値または財の生産は、それが資本家のために資本家の統制のもとで行われることによっては、その一般的本性を変じはしない。だから労働過程は、さしあたり、どの規定された社会的形態にも係わりなく考察されるべきである。」(329頁)

 これを見るならば、マルクスは、「形態規定」という表現を、『資本論』では「規定された社会的形態」という表現におきかえている、ということがわかる。そして、「規定された社会的形態」にかんして論じるときには、いちいち「形態規定」というようにことわらずに、「われわれによって考察されるべき社会形態においては」というように、その社会的形態を明らかにするという論理的レベルにおいて論述しているのである。これとは逆に、「規定された社会的形態」にかんしてではなく、そのものの「一般的本性」にかんして論じることにかんしては、「その社会的形態がどうあろうとも」とか「どの規定された社会的形態にも係わりなく考察されるべきである」とかとしているのである。

 このことは何を意味するか。

 それは、そのものの特定の・規定された社会的形態を明らかにするばかりではなく、そのものの一般的本性を解明しなければならないのであり、後者を明らかにするときには、前者からそれの特定の・規定された社会的形態を捨象しなければならない、というように、マルクスは認識論的に明らかにしたのだ、ということである。すなわち、そのものの一般的本性をつかみとるためには、そのものに刻印されている階級的な歴史的規定を捨象し、人間社会にかんして一般的に論じる論理的レベルにまで抽象しなければならない、ということを明らかにしたのだ、ということなのである。

 また、逆からいえば、以上のことは、そのものの資本制的形態を、そのものの一般的本性の歴史的に規定された社会的形態として明らかにする、というように認識論的に深めたのだ、ということができる。

 このように、マルクスは、資本制生産にかんする解明を、人間社会にかんする一般論の・歴史的に規定された社会的形態論として明らかにするという論理を確立したのだ、といえる。

 マルクスは、このようにして同時に、『資本論』として叙述する論理的レベルを、資本制生産にかんする普遍的抽象のレベルとして定めたのである。この普遍的抽象のレベルとは、個々の商品は、資本制的生産様式が支配的におこなわれる諸社会のすべての富の原基形態をなすというレベルということであり、労働者個々人の労働は社会の総労働の諸環たると同時にその総労働として意義をもつ、というレベルということである。

 さらにマルクスは、このような論理的レベルにおいてつかみとられ叙述される資本制生産の普遍的本質論、その冒頭に位置づけられる商品論において、商品価値とこの価値のとる形態とをどのような論理的関係において把握するのかということを、明らかにしたのである。

 次のように、である。

 「研究の進行は吾々を、価値の必然的な表現様式または現象形態としての交換価値につれ戻すであろうが、しかしさしあたり、価値はこうした形態に係わりなく考察されねばならない。」(『資本論119頁)

 「吾々は実際、諸商品の交換価値または交換関係から出発して、そこに隠されている諸商品の価値の足跡を発見した。いまや吾々は、価値のこの現象形態にたち戻らねばならぬ。」(135頁)と。

 これは、資本制生産の普遍的本質論の冒頭に位置づけられる商品論の内部における、価値の本質論とそれの現実形態論(価値形態論)との関係を論理的に明らかにしたものである、といえる。

 商品の価値とはいったい何であるのかということについては、価値の実体(抽象的人間労働)をつかみとることをとおして明らかにすることができるのであり、価値の実体の把握を基礎とする商品価値の解明が価値の本質論をなすのである。

 ある商品が他の商品をみずからに等置することを出発点とする諸商品の運動を明らかにすることが価値の現実形態論=価値形態論をなすのである。

 われわれは、マルクスの論理的把握の追求にかんして、このようなことがらをつかみとる必要があるであろう。