種田山頭火「分け入つても分け入つても青い山」 放浪者は存在者 金子兜太・鈴木大拙



 山頭火の『私を語る』という文章のはじめに、次のような言葉があります。
 「私もいつのまにやら五十歳になった。五十歳は孔子の所謂、知命の年齢である。私にはまだ天の命は解らないけれど、・・・・・」

 このように五十歳の山頭火は言いますけれど、古稀を過ぎたわたし(いろは)でさえ、「天の命など分からない」です。

 この「知命」を「Chrome」で検索すると、「AIによる概要」として、次のような説明が出て来ます。(どこかの文献から文字データを引っ張ってきて生成された説明なのでしょう)

 『この「知命」は、孔子の『論語』に出てくる「五十にして天命を知る」を略した言葉で、50歳になって天が自分に与えた使命を悟ることを意味します。これは、人生の折り返し地点で自身の使命を自覚し、天命を理解する境地に至った孔子の人生観を表しています。』

 これは、わたし(いろは)の文章の中で使っている「天命」という言葉とは、かなり言葉の使い方が違う「天命」だなと思いました。わたしは、「天が自分に与えた使命」を知ってもいませんし、悟ってもいません。(そのような限定を自分に加えられたら困るだろうな、とわたしはつい思ってしまいました。)

 わたし的には、天の命は知るものではなくして、天の命は生きるものである。天の命を知ってどうする、どうなる? 天の命は知の対象としてあるものではなくして、まさしく生きるものとしてある。つまり、創造するものとして。

 「天命」という言葉の元の意味や歴史的変遷はともかく、わたしはそのようなものとして「天命」という言葉を使っています。

 ですから、わたしの中では「天命を知る」ということは問題になりません。天命として対象的に捉える(知る)ことはしないということです。この分別する「知」は、人間の相対世界の中の事柄ですから。天はこの知を遙かに越えていると思っていますから。まさしく「分け入っても分け入っても青い山」です。

 分け入つても分け入つても青い山  種田山頭火 

 金子兜太は山頭火の上掲の句を引いて、次のように述べています。

 「放浪者は存在者ですからね。なにか哲学を求めて考え考え生きているというよりも、とにかく自分の置かれている地上を歩いて行く。そして、感覚で射止めたものをいたわりながら、それを俳句にして歩いている。それが意外に真意に近いもの、真実に近いものを提示していたということだと思います。」(金子兜太『感覚で射止めた山頭火の句には、従来の俳句にはない新鮮な感銘がある』より)

 だからこそ、山頭火の句の、その「真実」に惹き付けられるのではないでしょうか。わたし(いろは)は、山頭火の句を読み始めて、その句の中に今まで読んできた俳句とは違う何か別のものをずっと感じてきていました。

 それは、「有季定型」とかの形式的なことなどではなく、今まで読んできた俳句と、何か次元の異なるものを感じました。それが何なのかはっきりしませんでした。それが、この金子兜太の言葉で少し解りかけてきたような気がします。

われを殺さずして詩を作らしむ
われ生きて詩を作らむ
われみづからのまことなる詩を  山頭火

 最近わたしは、このブログでしきりに「天命」という言葉を用いてきました。山頭火の句には、わたしの思い描いている「天命」と相通じるものがあるような気がしてなりません。山頭火の句は、ありありと「天命しているなあ」と思えてきます。

 山頭火は、各地を歩き回って句をつくっています。
 この日、この時に、この身体がこの空間を占めて存在し、その存在がうろうろと歩き回り移動し、そうしながらも、その中で何かを感じ、その中でその何かに促されて言葉が発せられる。「どうしよう」にもどうにもならない、「どうしよう」もない自分を引きずりながら。それを悔やみながらも、現に今ここにありありと「存在」している存在者。

 これって、まさしくわたし自身のことではないか! 人間自身のことではないか! 人間存在それ自体のことではないか!

 この身体が「こうしている」世界。ただただ「こうしている」、「天命しているんだなあ」 としか言いようがないのではないか。

 自分が今ここにこうしている理由を知らないまま(知ることはできないまま)、
  ここに「こうしている」のは、
  天からいただいた命なのだ、と。

 ほんのしづかな草の生えては咲く  山頭火

 生えて伸びて咲いてゐる幸福    山頭火


 今ここにたまたまこうして存在しているものに心を寄せて、一期に一会の出合いを大切にしたい。そういうことに思いが至るとき、それが慈悲というものなのでしょう。ここにこそ、一人の人間が大切にされなければならない根源があるのではないでしょうか。悔い悩みながらもこうして存在している儚い命。その儚さ、その健気さ、その尊さ。

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★ 上記の事柄に関連して鈴木大拙が、人間の存在について述べていることを思い起こしましたので、以下にその文章を紹介いたします。

「一点にこうして私がいる」
「存在はそれ自らに於いて絶対のものである」
「つまんだところの個物に宇宙全体がついて上る 」

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 地球ができてから、太陽ができてから、天体全部の組織ができてから、何億年経ったか計算することができぬほどの年代を経過していると、天文学者は言う。未来のこともわからぬという。

◎そのわからぬところの過去と未来とを備えている一点にこうして私がいるとすれば、この一点が動くということは時間の上に於いて、限られないところの過去が現に動いて居る、算へられないところの未来がここに現れている、ということになる。

◎すると、この現実というものは 無限の時間を含んで居り、無限の空間を容れて居る。 そういう現実の一点が私である。

◎現象界の事事物物が、総て宇宙の理體と一枚のものであれば、どんな微細なものでも、その存在はそれ自らに於いて絶対のものである。

◎そこでこの宇宙は、無数無限の絶対的個物からなってをり、しかもそれが重々無尽の網の目のように相即相融し、網の目はどの一つを抓み上げても、網全体がついて上るように、宇宙はどの部分でつまみ上げても、そのつまんだところの個物に宇宙全体がついて上る。 

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 一人は一宇宙(「一人一宇宙」)である。
 ひとりの人間が大事にされなければならない根源(根拠)は、大拙のこれらの言葉の中に示されていると思います。(上掲文の引用は「鈴木大拙全集第21巻」から)



〈参照リンク〉

 「天命」に関する6つの記事を時系列に並べた「リンク集」です。
 わたしの個人的なささやかな、妙なる体験を名付けした結果が「天命する」「天命している」「天命しているなあ」という言葉になりました。この「ささやかな体験」は、最初の記事に書きました。この「体験」がもとで、いろいろと思い付いたことを記事にしてきました。これからも、何か思い浮かんだことが出てきたら追加していきます。

「これは 天命だな」 -大自然の創造-

「天命しているなあ」という気分

「天命を全うする」 -フランクル「夜と霧」・武者小路実篤「新しき村」-

大自然の創造「天命しているなあ」 -X氏への手紙-

「天命しているんだなあ」 -吾が然る所以を知らずして然るは、命なり-(荘子・山頭火)

そして、今回のこの記事。 (以上6つの記事。)