
「天命しているなあ」という気分
以前 「これは 天命だな」 -大自然の創造- という体験談(経験)を書きました。
今日はその時の経験を振り返りながら、その経験について考えを整理をしてみたいと思います。
「天命」などというと、「天」からの「命令」のような感じを受けます。しかし、上記の体験の時の気分は、そのような受け身のものではなく、いつの間にか自ずと湧き上がってきた気分でした。
ですから、「天命する」とか「天命している」と言った言葉の方が適切でしょう。この「天命する」は、その時にわたしが思い付いた言葉です。
「天命」というとどうしても、天から与えられた受動的な感じが伴います。わたしの上記の体験は、自ら進んで行っているという気分でしたので、その気分を表すには、どうしても「する」「している」を付けなければならない気がしました。
そして、この「天命する」という言葉は、わたしのお気に入りとなりました。動的で自らが進んで大自然の創造に参画している感じがします。まさに「天命しているなあ」という気分です。
「生まの人間の、生まの言葉の嬉しさと言えるような感触」、金子兜太の著書にこんな言葉がありました。このような感触を「天命する」という言葉にも思ったのでした。
「天命する」には、絵を描く必要もなく、詩歌を詠む必要もありません。「天命する」は、日常のごく平凡な行為の中にあります。「ささやかな行為」の中に、自然に湧き上がってくる気分です。何でもない日常生活の中の小さな行為の中に、「天命している」気分が溢れ出て来る。
これこそ、大自然の創造。
つまり、「大自然のわれわれへの恵みであると同時に、大自然の創造へのわれわれの参画である」。そういう気分になります、そんなことを想像してしまいます。
「すべての人が、自分の中に埋蔵資源を持っているんです。その埋蔵資源を深くほりあげて、それに新しい形を与えていく。それが創造というものなんです。」(鶴見和子)
学問がなくても、理屈が言えなくても、絵を描く才能がなくても、素朴に十分に充実した「創造的な人生」を生きることができる。しかも、だれもがいつでもどこででも。
どこにあっても自らが主人公となって、自分の命を全うする、創造する。車の運転という行為の中にも、歯の検査を受けるという受動的行為の中にも、ただ歩いているという行為自体の中にも、そのような創造性が隠れているのだと想ってしまいます。それは自ずから溢れて出てくるものなのだと思います。
何と言っても、鶴見和子的に言えば、われわれは内に深く金脈を蔵しているのですから。
このことにわたしが、気づかなかっただけでした。単なる言葉としてではなく、実感や気分をともなった実体験として。
名言や教訓、言葉としては、同じような内容の事柄を今までにいろいろ教えられたり、読んだりもしてきてはいたのでしたが、今日まで何も聞き取ることはできなかった。
この歳になって、やっと少しだけ、このことに想いを馳せることが叶うようになってきたような気がします。そう思うと、歳を重ねることも、大事な人の営みであるという思いもしてきます。
人の営みに無意味ということはなく、人はだれもが大自然の(天の)「いのち」をいただいて生きているのだなあ、「天命しているんだなあ」という思いを強くしました。
〈参考リンク〉
そして、今回のこの記事。(次の記事は下の記事。)
「天命を全うする」 -フランクル「夜と霧」・武者小路実篤「新しき村」-
「天命しているんだなあ」 -吾が然る所以を知らずして然るは、命なり-
放浪者は存在者 種田山頭火「分け入つても分け入つても青い山」 金子兜太・鈴木大拙
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