其の五十三
美しき日本語の世界。
落語とは人間そのもの
今も生き続ける落語
いくら堅苦しい文章で説明しても、落語の魅力は伝わらない。
だったら論より証拠。
超高齢社会の現代日本人だからこそクスッと笑えそうな、人間臭たっぷりの小咄をひとつ。
「先生、右足が痛いんですが診ていただけますか?」
「はい、レントゲンの結果からは関節炎や神経痛や痛風ではありません。あなたの右足は大丈夫ですよ、おじいさん」
「じゃあ何です、この痛みは?」
「まあ、お歳のせいでしょう」
「先生、いい加減な診断しないでください」
「どうしてです?」
「歳のせいって、左足も同い歳だよ」
皮肉に聞こえるかもしれないが、こういう切り返しのできる大人を「粋」だと感じてしまう。
このおじいさんの言っていること、たしかに間違ってはいない。
医者は、たしかに優秀な頭脳と判断力を持っているのだろう。
だが、「常識や科学では割り切れないものが世の中にはあるんだよ」と、このおじいさんは言っている。
これが落語である。
人間なのである。
落語には、人間の常識では割り切れない会話や人生が詰まっている。
時代設定こそ江戸や明治や昭和初期だが、だから古い話だろうと思ったら、とんでもない。
もし今、あなたが思い悩んでいることがあるとすれば、落語の中にそっくりのパターンのものがあるはずだ。
人間、割り切れれば悩まない。
割り切れないから悩みなのだ。
そういう状況下にあっても、落語の登場人物たちは見事に生き生きと乗り切る。
それを見て(聴いて)いる我々は、思わず笑ってしまう。
そしてふと、「そうか、今の状況はこういうことだったのか」ということに気づく。
人間に、江戸も明治もない。
それどころか、落語を聴けば、昔の人たちの方がよほど豊かに生きていたなあ、と思うに違いない。
だから今も落語は生き続けているのである。
いつの時代になっても変わらない人間の心の持ち方
『火焔太鼓』という噺がある。
五代目・志ん生師匠が得意とした噺だが、物語は至って単純。
いつも儲からない商売ばかりしている古道具屋の旦那と、その旦那をお釈迦様の手のひらのように包んでいる女将さんが主人公。
ある日珍しい太鼓を仕入れた旦那は、得意になって「これで大儲けができる」と自慢する。
だが、旦那が夢見るタイプであればあるほど、現実主義にならざるを得ない女将さん。
そこへ太鼓の音を聞いた武士が店に入ってきてーーーと、噺は展開する。
ここで大事なのは、時代や風俗ではない。
いつの時代になっても変わらない、人間の心の持ち方なのである。
『火焔太鼓』も、ひょんなことから商売は上手くいき、女将さんが旦那を見直す。
この心と心のふれあい、人情の機微が、時代を超えて我々の心を打つ。
我々現代人も、本当はそれを望んでいるのではないだろうか。
落語の誕生は豊臣秀吉の時代にまで遡る。
噺家が登場したのは、江戸の元禄頃というのが定説である。
だから、落語の有名な噺のほとんどが古典落語に分類される。
近年の社会の変化は目まぐるしく、数年で街の表情がガラッと変わってしまう。
その中で「侘び」とか「寂び」といった俳句にも繋がる噺や、江戸や明治の町の様子を想像することは難しい時代なのかもしれない。
よく、テレビで深夜に放送される昔の映画。
それがたった2〜30年前の映画でも、我々は「古い」と感じてしまう。
だが、20年前に録画(録音)された噺家の口演は、不思議と少しも古いと感じない。
これが落語の素晴らしさであり、話芸としての凄さだと思う。
時代背景がよくわからなくても何となく惹き込まれていったことが、きっとあなたにもあるはずだ。
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