INFP人生記

著者:MBTI診断INFP-T/男/家庭持ち/1980年生/吃音/HSP/営業職

地下鉄で迷う私が、Excelで未来を当てる理由――INFPが「自分の場所」に辿り着くまで

こんにちは、INFPの私です。

私は昔から、どうも「普通の人が直感でできること」が苦手でした。
地下鉄の乗り換え、タブレットのメニュー操作、
分かりやすく大きく書いてあるはずの看板。

 

「あ、こっちだ!」


そう思って進むと、だいたい逆。

 

最近では、神社のおみくじのお金を入れる場所すら分からず、
横にいた人がスッと入れるのを見て、
「え、そこだったの?」と呆然としたこともあります。

見えていないわけじゃない。
でも、意味として脳に入ってこない。

 

直感が弱い?

いいえ、違いました

 

長い間、私はこう思っていました。

 

自分は不器用なんだ

空間認識がダメなんだ

マルチタスクができないんだ

実際、若い頃に料理の世界に入り、
厨房のごちゃごちゃした環境と同時進行の作業に耐えきれず、
一年半で辞めています。

 

道具が散乱し、
指示が飛び交い、
優先順位が一瞬で切り替わる世界。

パニックにならない方がおかしかった。

 

でも後になって、はっきり分かりました。

私が苦手だったのは「料理」ではなく、
秩序が立ち上がる前の混沌だったのです。

 

なぜ工場の治具やExcelは得意だったのか

一方で、過去に工場で治具のメンテナンスをしていた頃は、
驚くほど落ち着いて作業ができていました。

そして今、
一番楽しいのは何かと聞かれたら、迷わずこう答えます。

「Excelを作っているとき」

特に、

売上予測

在庫管理

データを貼るだけで答えが出る設計

これを考えている時間が、最高に楽しい。

 

私はExcelで、

情報を分解し

ルールを決め

判断を数式に任せ

人が迷わない導線を作る

ということをやっていました。

気づけば私は、
「使う側」ではなく「設計する側」の人間だったのです。

 

 

特に相性がいいのが、

量販店

食料品

日次の売上予測

欠品ゼロ防止

この世界。

 

天候や特売で多少ブレるけれど、
芯の構造は変わらない。

 

Excelにルールを落とし込めば、
酔っていても精度が落ちないくらい、
判断を自動化できる。

これは才能というより、
脳の使い方が合っているだけなのだと思います。

 

地下鉄で迷う人が、未来を当てる

 

今なら分かります。

地下鉄で迷う私と、
Excelで未来を当てる私は、
矛盾していません。

 

私は、

直感で流れる世界が苦手

意味が曖昧なUIが苦手

でも、構造を作るのは得意

そんな人間でした。

 

INFPらしく言えば、

世界の混沌を、
静かな秩序に変える場所を
ずっと探していたのかもしれません。

 

もし、同じように迷っている人がいたら

方向音痴でもいい

マルチタスクが苦手でもいい

人より回り道でもいい

自分が「落ち着く作業」には、必ず意味があります。

私の場合、それがExcelでした。(同じように「仕組みで自分を助けたい人」へ向けて、
私なりのExcelの作り方を残しています。→ Excel時短テク大全

地下鉄で迷っても、
人生では、ちゃんと自分の場所に辿り着ける。

そんな話です。

自分は止まっているつもりでも、周囲が脱落していく

infpの田中です。

久しぶりの更新です。最近では、社会に順応するためなのか、INTPよりの結果も出るようになってきました。

さて、2026年一発目の記事は、

「自分は止まっているつもりでも、周囲が脱落していく」
この感覚についてです。

転職した当初のことを、今でもはっきり覚えています。

前職では、私はありがたいことにエースと呼ばれる時期もあり、
盛大に見送られて会社を去りました。
自分なりにやり切った、という感覚もありました。

それが――
今の会社に入社して一週間で挫折しました。

あ、これは無理かもしれない。
いや、それどころじゃない。
とんでもない判断ミスをしたのではないか。

そんな思いで、
毎朝、業火に焼かれるような気持ちで出勤していました。

年下の先輩にバカにされ、
あごで使われ、
罵倒される。

支店長からは、
マイクロマネジメントとパワハラ。

「前の会社では〜」なんて言える空気でもなく、
プライドを出せば、さらに叩かれるだけ。

正直に言うと、
自分という人間が、一度完全に壊れた感覚がありました。

 

 

それでも、辞めませんでした。

 

 

立派な理由があったわけではありません。
次が怖かっただけかもしれないし、
意地だったのかもしれない。

 

ただ一つ確かなのは、
毎日、会社に行ったということです。

 

心はボロボロでも、
評価されなくても、
「今日は昨日よりマシだったかもしれない」
それだけを頼りに。

 

気づいたら、時間が経っていました。

 

 

当時いた社員は、ほとんど辞めました。
新人も、定着せずに辞めていきました。

 

 

今、残っているのは――
もともと会社にいた本部長と、
気のいい先輩、
そして、私。

 

 

あの頃の地獄のような空気を知っている人は、
もうほとんどいません。

 

不思議なことに、
今も仕事が楽かと言われたら、全然しんどいです。

 

でも、決定的に違うのは、

自分の積み上げを、感じられている

ということです。

 

 

評価が爆上がりしたわけでも、
派手な成果が出たわけでもありません。

 

 

ただ、
・これは任せても大丈夫だろう
・あの時の判断は間違っていなかった
・あの修羅場を乗り越えた経験は、ちゃんと自分の中に残っている

そう思える瞬間が、少しずつ増えました。

 

最近、新聞で、
8年前に辞めた会社の後輩が
まさかの大出世をしているのを知りました。

 

正直、少し驚きました。
でも、同時に、すごく納得もしました。

アルバイトから入社してきてお調子者で真剣にやってる様子がない、、けど、
その人はずっと、同じ場所にいて努力を続けていたのでしょう。とてもかわいらしい性格の人でしたから周囲の持ち上げもあったことでしょう。

 

思うのです。

成功って、
前に進んでいる実感がある人よりも、

折れていない人のほうに、
後からやってくるものなんじゃないか

と。

自分はあがいて止まっているつもりでも、
周囲が脱落していく。

それは、
「何もしていない」という意味ではなく、
そこに居続けた、という事実なのだと思います。

このブログも、ほとんど誰にも見られていないのに
700記事近く書いてきました。

正直、
「何の意味があるんだろう」と思った日もあります。

 

でも、今日こうして書いていて、
少しだけ分かりました。

 

意味は、後からやってくる。

 

会社でも、
人生でも、
ブログでも。

2026年。

今年も、
派手に飛躍する自信はありません。

でも、
折れずに、居続ける自信はあります。

それでいい。
いや、それがいい。

infp-tの私は、
今日も静かに、ここにいます。

現実は長い夢、夢は短い現実

長い夢としての現実 ― 永遠のループの中で

INFP-tの田中です。

私たちは、朝、目を覚ますと「現実の世界に戻った」と思います。
けれど、本当にそうなのでしょうか。そういうようなことをふと最近思う、45歳の私です。


夢を見ていた自分が目を開け、
「これは現実だ」と認識する瞬間、
それは本当に夢からの覚醒なのでしょうか。
あるいは、ただ別の夢の層に移っただけなのかもしれません。

私はときどき、こう考えます。
現実とは、長い連続性をもった夢であり、
夢とは、短い連続性の現実ではないだろうか。

夢の中では、わずか数分の出来事が、
何時間にも感じられることがあります。
そして、夢の世界では矛盾があっても違和感を覚えません。


不思議な場所や、ありえない人物との再会すら、
その瞬間は「当然のこと」として受け入れています。

 

目を覚ましたとき、私たちはようやく気づきます。
「あれは夢だったのだ」と。
しかし、もしその「目覚め」さえも、
さらに上の層の夢の中の出来事だったとしたら──
私たちは本当にどこまでを現実と呼べるのでしょうか。

 

人は「現実に生きている」と信じています。
けれど、脳科学的に見ても、
私たちの体験はすべて意識の中で作られた映像だといわれます。


見ている風景、聞いている音、感じている痛みやぬくもり。
それらはすべて、外界の刺激を脳が再構成した“内部の世界”にすぎません。

だとすれば、「夢」と「現実」の境界は
どこにあるのでしょうか。


夢の中では外界が存在しないだけで、
私たちは同じように笑い、泣き、恐れ、願います。
その感情は、現実とまったく変わらないほど真実です。

 

現実が長く続く夢であり、夢が短い現実なのだとしたら、
私たちは、眠るたびに短い世界を旅し、
目覚めるたびに長い世界に帰っているだけなのかもしれません。

そして、そのふたつの世界は、
どちらも同じひとつの意識の中にあります。
夢も現実も、ひとりの「私」という存在が見ている物語。
長さだけが違う、二つの流れにすぎません。

そう考えると、「生きる」という行為もまた、
ひとつの長い夢のように思えてきます。


子どもの頃の思い出も、
昨日の出来事も、
いずれはすべて“遠い夢の記憶”のように霞んでいく。

時間の流れとは、夢の持続時間のようなもの。
私たちは「現実」という名の夢の中で、
目覚めることのないまま、
永遠にこのループを歩き続けているのかもしれません。

もしそうだとすれば、
今という瞬間もまた、
誰かがどこかで見ている夢の中の一場面かもしれません。

 

けれど、それでいいのだと思います。

 


夢であっても、現実であっても、
私たちが感じる優しさや、痛みや、希望は、
その瞬間、確かに「本物」だからです。

たとえ永遠に続く夢の中にいたとしても、
そこで誰かを想い、何かを信じ、
小さな光を見つけることができるのなら――


それこそが、この長い夢(=現実)を
生きる意味なのかもしれません。

誰にも破られない記録保持者――ゼロ秒はありえない理由

こんにちは、INFPーTの田中です。さて、これを書いている今、世の中は世界陸上が熱を帯びています。それに関連して、人間の限界について考えるとき、スポーツの世界記録は非常に象徴的なものになります。特に100メートル走は、私たちの身体能力の極限をわかりやすく示す舞台です。ウサイン・ボルトが9.58秒という驚異的な記録を打ち立てたとき、多くの人が「この記録はいつか破られる」と思ったことでしょう。しかし、ここで少し立ち止まって考えてみませんか。

もし、人類が未来永劫存在し続けるとしたら、世界記録はどこまで更新されるのでしょう。そして、もっと大胆に問えば、人間はいつかゼロ秒で100メートルを走れるようになるのでしょうか。

答えは明確です。ゼロ秒で走ることは、絶対に不可能です。なぜなら、距離が存在する限り、移動には必ず時間が必要だからです。私たちはこの単純な事実を見落としがちですが、ここにこそ深い哲学的な意味が隠されています。

 

数学と物理が教えるシンプルな真理

少し論理的に整理してみましょう。速さは「距離 ÷ 時間」で表されます。もし100メートルを0秒で走るとしたら、100 ÷ 0 = ∞ となり、無限大の速さが必要になります。これは現実世界では到底不可能です。

さらに物理学の視点を加えると、相対性理論により、質量を持つ物体は光速を超えることができません。光そのものでも、100メートルを進むのに約0.0000003秒(3.3×10⁻⁷秒)かかります。これはゼロではなく、必ず正の値です。

つまり、どんなに速くても、どんなに技術が進歩しても、ゼロ秒で移動することはあり得ません。距離がある限り、時間は必ず正の値を持つのです。

記録は永遠に更新され続けるのか?

ここで興味深い問いが浮かびます。「人間が未来永劫存在し、無限の挑戦が可能な場合、世界記録は永遠に更新され続けるのか?」という問題です。確かに、無数の挑戦が繰り返されるなら、記録は少しずつ縮まっていくかもしれません。しかし、ゼロ秒は不可能である以上、記録には必ず下限が存在します。数学的に言えば「ゼロに限りなく近づくことはできても、ゼロになることはない」というわけです。

ここで重要なのは、その下限が「到達可能」か「到達不能」かという点です。もし最小値が到達可能であれば、ある瞬間に誰かがその記録を達成し、以後それ以上の更新は不可能になります。逆に到達不能な下限であれば、記録は無限に縮まり続けるかもしれません。

現実世界を考えると、人間の身体は筋力、骨格、酸素供給能力などの物理的制約を持っています。そのため、どこかに「到達可能な限界時間」が存在すると考えるのが自然です。つまり、いずれ最終的な記録が生まれる可能性が高いのです。

永遠に破られない記録保持者

ゼロ秒が不可能であることを前提にすると、未来永劫に人類が挑戦を続けても、どこかで「限界の記録」に到達する瞬間が訪れます。そのとき、その記録を出した人物は、未来永劫誰にも破られない記録保持者となります。

考えてみれば、この存在はとても不思議です。無限の挑戦を経ても、その記録は揺るがない。まさに「唯一の存在」と呼ぶにふさわしいでしょう。ゼロ秒は到達不可能であるため、最終的な記録は必ず正の値を持ち、その瞬間に立つ者は永遠に破られない王者となります。

神のような存在としての最終記録保持者

この論理を深く考えると、「未来永劫にわたって揺るがない唯一の存在」という視点に行き着きます。無限の時間の中で、誰にも破られない記録を持つ存在――これは人間の理解を超えた究極の存在、つまり神のようなものではないでしょうか。

神とは、無限の時間においても揺らぐことのない存在です。同じように、ゼロ秒が不可能である以上、最終記録保持者は無限の挑戦の中でも決して記録を失わない。単純な物理の制約から、神に似た存在が必然的に生まれるのです。

INFP的視点で捉える意味

INFPタイプの人は、目に見えないものや抽象的な概念に共感を覚えやすい傾向があります。「人はなぜ生きるのか」「究極の真理とは何か」といった問いに強く惹かれるのです。このゼロ秒不可能性の話も、ただのスポーツの話ではなく、人生や存在そのものへの深い洞察に結びつきます。

どんなに努力しても超えられない壁がある。

その壁の存在があるからこそ、私たちは挑戦を続ける意味を持つ。

そして、究極の限界に到達する者が現れることで、「完璧な秩序」や「絶対的な真理」を垣間見ることができる。

この物語は、私たちの内面の探求にも通じます。無限の挑戦の中で、理想に近づく努力を続けること自体に価値があり、時には到達不可能な目標こそが、私たちの魂を輝かせるのです。

人間の挑戦と自己実現

ゼロ秒不可能性の話を現実に引き寄せて考えると、私たち一人ひとりの人生にも置き換えられます。理想の自分、究極の目標、完全な幸福――それらもまた、ゼロ秒のように到達不可能な存在かもしれません。

けれど、その「到達不可能」という事実が、挑戦を生み、成長を促すのです。INFPの私たちは、この挑戦の中にこそ意味を見出し、自分だけの価値を感じることができます。

世界記録やゼロ秒の話は単なる比喩にすぎません。
しかし、物理と数学、そして哲学を通して見えてくる「永遠に破られないもの」の存在は、人生の究極の目標や理想の姿を象徴しているとも言えるのです。

まとめ

ゼロ秒で100メートルを走ることは不可能。距離がある限り、時間は必ず正の値を持つ。

世界記録には必ず限界が存在し、いずれ誰かがその限界に到達する。

その人は未来永劫、誰にも破られない記録保持者となる。

この存在は、無限の時間の中で揺らがない「神」のような存在と重なる。

INFPにとって、この物語は、挑戦・成長・理想の追求という人生の意味と深く結びつく。

ゼロ秒が不可能であることを理解することで、私たちは現実の制約と向き合いながらも、挑戦する意味を見つけることができます。そして、永遠に破られない記録保持者の存在を想像することで、理想と現実の間にある美しさに気づくことができるのです。

INFPが怒られすぎて感じた“魂の離脱感” 自分が今ここにいない感じ|トラウマ体験と心の回復法

こんにちは、INFP-Tの田中です。私は家庭持ちで営業職をしている中年のサラリーマンです。吃音もあり、HSP気質を強く持っているため、人一倍感受性が強く、これまでの人生で数え切れないほど怒られてきました。若い頃の私は、なぜか「怒りをぶつけられやすい存在」だったように思います。理不尽に当たられることも多く、そのたびに「自分が悪いのかもしれない」と責めながら耐えてきました。

けれども、45歳になった今、ふと気づくと、以前のように激しく怒られることはほとんどなくなってきました。年齢を重ねるとINFPにもある種の「威厳」や「落ち着き」が出るのかもしれません。それはありがたいことではありますが、それでも過去の嫌な記憶が、不意にフラッシュバックしてくることがあります。

あの頃の私は、まるで「人格そのもの」を否定されているかのように、公然と罵られることがありました。お得意先や会社の重役の前で怒鳴られたときのことを、今でも鮮明に思い出します。その瞬間、私はある奇妙な感覚に襲われました。

――あれ? 今ここで怒鳴られているのは自分なんだろうか?

頭の奥がふわーっと遠のいていく。体はそこにあるのに、心だけがスッと抜け出してしまうような、幽体離脱的な感覚。私はその場に座りながら「これは自分ではなく、誰か別の人が怒鳴られているのではないか」と錯覚していました。

動物行動学によると、生き物が強いストレスや脅威を受けると「闘争か逃走か(fight or flight)」の反応を示すといいます。人間にも同じ仕組みがありますが、私の場合は「逃げたい」という気持ちが強かった。ただ、社会人としてその場から物理的に逃げ出すことはできません。そこで心だけが自動的に逃避し、 dissociation(解離)と呼ばれる状態になっていたのだと、今では理解できます。(これにちなんで思い出しましたが、二重人格・多重人格が形成されるには、幼少期の頃の過大な虐待にあった子どもが「今苦しんでいるのは自分ではない」と別人格を生み出す、というのを聞いたことがあります。無関係ではないと思います)

 

心理学的には、この現象は「防衛反応」の一種で、トラウマを受けやすいHSPやINFPに特に起こりやすいとされています。強烈なストレス下では脳が「現実感喪失」や「離人感」を生み出し、自分を守ろうとするのです。当時の私はそれを知りませんでしたから、ただ「自分は弱い人間だ」と思い込んでいました。しかし実際は、心が自分を守るために発動した仕組みだったのです。

年齢を重ねた今では、怒鳴られる場面は激減しました。けれども、ふとした瞬間に当時の光景が頭をよぎると、「あの人たちも私と同じ苦しみを味わえばいいのに」と暗い気持ちになることも正直あります。私は聖人君子ではありません。仕掛けられる側であった以上、倍返ししてやりたい、同じ強度の苦しみをもっと長く味わってほしい、と心の奥底で思うことがあるのです。

しかし同時に、私の中にはもう一つの気持ちも芽生えています。それは「自分があの地獄を生き延びた」という誇りです。あの瞬間、心が体から抜けるような感覚を経験したからこそ、今の私は「同じように苦しんでいる人の気持ち」を深く理解できるのだと思います。HSPやINFPであるがゆえに、私は過敏に傷つきやすい。しかし、その分、人の痛みに寄り添う力を持つことができるのだと信じています。

もしこの記事を読んでいるあなたが、今まさに職場や家庭で理不尽に責められているのなら、どうか自分を責めないでください。その感覚は「弱さ」ではなく、「生き延びるための知恵」です。そして時間はかかっても、必ずその呪縛から抜け出せる日がきます。私自身、45歳になってようやく過去を「思い出」と呼べるようになってきました。完全に忘れることはできなくても、その痛みを抱えたまま生きる強さを身につけられるのです。

あの頃の私は、「ここにいるのは自分なのか?」と混乱しながら怒鳴られていました。今はその経験を言葉に変えて、同じように悩む人たちに届けたいと思っています。私が歩いてきたこの道が、誰かにとっての「自分は一人じゃない」と思えるきっかけになれば、苦しんだ日々にも意味が生まれるのではないでしょうか。

 

 

※※

これはどんな症状?
このような感覚は、心理学的に「離人感」や「現実感消失」と呼ばれる解離症状に該当する可能性が高いそうです。離人感とは、自分の体や精神から切り離されたような感覚で、まるで自分の生活を外から観察しているように感じること。現実感消失は、周囲の環境が非現実的に見えたり、夢の中にいるような状態です。これらは、強いストレスやトラウマ(例: 繰り返しの叱責や虐待)がトリガーとなって起こることがあるようです。特に、怒られる状況が頻繁だと、心の防御機制として脳が一時的に「現実から離れる」ように働く場合があります。
これらの症状は、解離性障害の一種として分類され、PTSD(心的外傷後ストレス障害)や不安障害、うつ病の症状としても現れることがあります。例えば、怒鳴られるとパニックが起き、思考が停止したり、感情が麻痺したりするケースが報告されています。 原因としては、幼少期の経験(厳しい教育など)や現在のストレスが積み重なることで、心が「耐えられない現実から逃避」しようとするメカニズムが働いている可能性があります。

 

こんなものなのか?

一時的な反応として起こり得るそうです。

誰しも強いストレス下で似た感覚を経験する人はいます。例えばSNSでは、「怒鳴られるとパニックで思考停止になる」「怒られた言葉を過度に受け入れて凹む」といった声が見られます。 これは、心が一時的に「守りモード」に入る自然な反応だそうです。

 

UFOキャッチャーで学んだ“もらう勇気”──家族と少年から気づかされた人生の教訓

こんにちは、INFP-Tの田中です。
先日、家族で大型ショッピングセンターに出かけたときのことです。

フードコートの匂いと人混みのざわめきの中を抜けると、視界の奥にネオンが瞬くゲームコーナーがありました。子どもたちの笑い声と電子音が入り混じり、その熱気に包まれているだけで、何だか自分も子ども時代に戻ったような気がしました。

小学5年生の息子が、目を輝かせて私の妻に言いました。

 

「ねえ、やってもいい!?」

 

普段は「また今度」と言われるところですが、その日は給料日後。妻の財布のひもも、少しだけ緩んでいました。

息子はUFOキャッチャーに一直線。景品棚には、ぬいぐるみ、キャラクターグッズ、そして息子の視線を一瞬で釘付けにしたもの――銀色に輝くピストル型のおもちゃ。

 

「パパ、これ欲しい!」

 

100円玉を渡すと、息子は慎重にアームを動かし、狙いを定めてボタンを押しました。しかし、アームの握力はまるで赤ちゃんのほっぺを撫でるように優しく、ただ景品をかすめてずらすだけ。

がっかりしていると、隣の同じ台に、一人の少年が現れました。年は中学生くらいでしょうか。迷いのない動きで操作し、見事にそのピストルを一発でゲット。まるでプロのような手際でした。

次の瞬間、その少年は私と息子に向かって、ふいにこう言ったのです。
「いる?」

私は一瞬、戸惑いました。
知らない子から物をもらうことへの警戒心。息子の前で軽々と好意を受け取っていいのかという迷い。そんな考えが頭を巡り、私は反射的にこう言ってしまいました。


「いや、大丈夫。ありがとう」
息子も「自分でとる!」と答えました。

 

少年は「あ、そう」とだけ言い、少し興味を失ったように見えました。しかし、その後も彼は同じ台でまた一発ゲット。そこでようやく気づきました――彼はこの台の“攻略法”を知っていて、ゲームを通して人と繋がることを楽しんでいるのだと。

「もらっておけばよかった」と心の中で思い直し、勇気を出して声をかけようとした瞬間、少年は別の台へ行ってしまいました。

私たちは再びUFOキャッチャーに挑戦。

100円、200円、300円…気がつけば500円。ピストルは微妙に位置を変えるだけで一向に掴み上げられる気配がない、息子の眉間にはシワが寄ります。

そこへ妻が戻ってきて、「もう帰るわよ!」と一喝。息子は泣きそうな顔で「お兄ちゃんからもらえばよかったのに…」とつぶやきました。

事情を話すと、妻は呆れたように言いました。


「どうしてもらわなかったの? そんなの100円渡してすぐもらえばよかったじゃない!」

 

その言葉が妙に胸に刺さりました。
確かに、私は昔からこうやって遠慮しすぎて、チャンスを逃してきた気がします。自分だけならまだしも、今回は息子にまで“遠慮の連鎖”を経験させてしまった。

家に帰ってからも、この出来事が頭から離れませんでした。あの少年の差し出したピストルは、単なる景品ではなく「もらう勇気」を試すテストだったのではないか――そんな気さえしてきました。

 

半年経った今、私はこの出来事を少し違う角度から見ています。

確かに私は、即断即決や貪欲さに欠けるかもしれません。でも、その慎重さや人を警戒する性格は、私の“個性”でもあるのです。小さな幸運をその場で受け取らない分、大きな運を引き寄せるチャンスが残っている――そんなふうに考えるようになりました。

もしかしたら、またどこかで、あの少年のように何かを差し出してくれる人に出会うかもしれません。そのとき、私は遠慮せずに笑って「ありがとう」と言える自分でいたいと思います。

INFP-Tが職場の『ずけずけ事務員』に疲弊した話|境界線の引き方と心の守り方

こんにちは、INFP-Tの田中です。今日は職場でのちょっとした人間関係の悩みについて、私の体験を交えながらお話ししたいと思います。

 

なんでも遠慮なく言ってくる人に振り回される日々

私の職場には、思ったことをズバズバと言ってくる事務員さんがいます。一見すると気が利いて、周りのことによく気づく人なのですが、実際に一緒に働いてみると、なかなか大変な存在なのです。
「田中さん、このパソコン遅いんだけど、なんとかなりませんか?」
「この資料の作り方、教えてもらえません?」
「あ、ついでにこれも見てもらえますか?」


一日のうち、こんな調子で声をかけられることが頻繁にあります。気がつくと、私の作業時間の2割近くが、こうした対応に取られているのです。


最初の頃は「協力的でいい人だな」と思っていました。でも、だんだんと気づいたのです。この人は確かに周りのことに気がつくのですが、実際に手を動かして作業することは少ない。むしろ、他の人にお願いして解決してもらおうとする傾向があることに。

 

INFP-Tが陥りやすい「良い人」の罠

INFP-Tの私たちは、調和を重視し、人を助けたいという気持ちが強いタイプです。心理学的には「人助け症候群」とも呼ばれる状態に陥りやすく、自分の時間や労力を犠牲にしてでも他者の要求に応えようとしてしまいます。
私もまさにその典型でした。「頼られている」という感覚は確かに嬉しいものです。でも、それが日常的になってくると話は別です。自分の本来の業務に集中できず、常に誰かの要求に応えることに追われる状態になってしまいました。
荒れ狂う海を小舟で渡るような、そんな不安定な感覚が続きました。心が穏やかでいられる時間がどんどん減っていったのです。


境界線を引く勇気を持つまで


転機が訪れたのは、ある日のことでした。その事務員さんから「このエラーメッセージ、どういう意味ですか?」と聞かれたときのことです。画面を見ると、よくある「メモリ不足」の警告でした。
「それはパソコンのメモリが足りないということですね」と答えると、「じゃあどうすればいいんですか?」と続けて聞かれました。そのとき私は気づいたのです。この人は問題を解決したいのではなく、誰かに解決してもらいたいのだということに。
私は深呼吸をして、こう答えました。
「それについては、グーグルで『メモリ不足 対処法』と検索すると詳しい方法が出てきますよ」
その瞬間、私の中で何かが変わりました。相手は少し不満そうな顔をしましたが、実際に自分で調べて解決していました。


健全な境界線の引き方

心理学者のブレネー・ブラウンは「境界線は親切さと同義である」と述べています。最初は冷たいように感じるかもしれませんが、実際には相手の成長機会を奪わず、自分の精神的健康も保つことができる方法なのです。


私が実践するようになった境界線の引き方は以下の通りです。


1. 明確な情報提供で終わらせる
「わかりません」「それはPCの性能の問題ですね」など、事実ベースの情報だけを伝えて、解決策の提供は控える。


2. 自立を促す回答を心がける
「調べ方をお教えしますので、今度から参考にしてください」といった形で、相手の自立を促す。

 

3. 時間的な境界線を明確にする
「今は集中したい作業があるので、後ほどお答えします」など、自分のペースを尊重する。

 

罪悪感との向き合い方

境界線を引き始めた頃は、正直なところ罪悪感がありました。「冷たい人だと思われているかもしれない」「協力的でない人と評価されるのでは」という不安が頭をよぎったのです。
しかし、よく考えてみると、私が無償で時間と労力を提供し続けることで、本来なら公平に分担されるべき負担が偏っていたのです。私が「聖人」である必要はないし、むしろ健全な職場環境のためには、適切な境界線が必要だったのです。

 


人間関係の本質を見つめ直して


この経験を通じて、人間関係についても考えが変わりました。最初は「みんな自分勝手なんだ」と失望しかけましたが、実は違うということに気がつきました。
人は確かに自分のことを優先しがちですが、それは決して悪いことではありません。大切なのは、お互いが適切な距離感を保ちながら、それぞれの責任を果たすことなのです。
私が学んだのは、相手のためを思って何でも引き受けることが必ずしも親切ではないということでした。時には「NO」と言うことが、相手にとっても、自分にとっても、そして職場全体にとっても良い結果をもたらすことがあるのです。


INFP-Tとして生きていくために

私たちINFP-Tは感受性が強く、他者の感情に敏感です。それは素晴らしい特性である一方で、適切な境界線を引くことが苦手になりがちです。
でも、境界線を引くことは決して冷たいことではありません。むしろ、長期的に良い関係を築くために必要なスキルなのです。
今では、あの事務員さんとも適度な距離感を保ちながら、必要なときには協力し合える関係を築けています。私自身も、本来の業務に集中できる時間が増え、仕事の質も向上しました。
職場での人間関係に悩んでいる同じINFP-Tの方がいらっしゃいましたら、「境界線を引く勇気」を持つことをお勧めします。最初は勇気がいるかもしれませんが、きっとあなた自身と周りの人たちのためになるはずです。
人は人、自分は自分。でも時には助け合う。そんなバランスの取れた関係性こそが、私たち内向型の人間にとって心地よい環境なのだと思います。

 

※ちなみに、ずけずけいってくる事務員さんとは、あくまで業務中にそういう態度をとられるのが鬱陶しいだけで、休憩時間や飲み会などで隣り合わせる分には、その図々しさがかえって座持ちがよくて、むしろいいと思っています。