文学座『オセロー』サイト:オセロー|文学座
400年も上演されてきたシェイクスピア劇で、今までとは異なる何か、オリジナルな新しい演出を今さら打ち出すなど至難の業である。例えば今回の、死んだはずのデズデモーナやエミリアが起き上がって登場人物を見守る演出は、すでに1830年代に『オセロー』のパロディ劇で行われているという具合に(注1)。しかし、今回の鵜山演出の文学座『オセロー』は、新機軸を見たいという私の長年の望みを叶えてくれた。四半世紀前になるが、イギリス留学時代に、Peter Holland先生のチュートリアルで初めて「『オセロー』は喜劇的な構造を持っている(そもそもシェイクスピア悲劇は必ず喜劇的な部分を持つ)」と教わって以来、喜劇的な要素のある『オセロー』演出を見たいと思い続けてきたからだ(注2)。
プログラムには、SNSの喩を使いつつ、イアーゴーが「様々なアカウントを名乗って支持を広げていく」という鵜山氏のコメントが載っていたが、それよりも「客席との共犯関係をつくる」という演出方針の方が明解だった(注3)。イアーゴー(浅野雅博)は現実的でリアルな台詞回しで観客に向かい、原作通り、あらかじめオセローを陥れる策略を暴露してからそれを行動に移すパターンを繰り返す。冒頭、客席2階に設定されたブラバンショー(高橋ひろし。恐くてよかった)の館に向かって、客席1階から下卑た言葉でけしかけるシーンがある。以降も1階席の通路を使った演出により、イアーゴーの策略や視線を共有させられイアーゴーの敷いた磁場の中にいる観客は、妻の浮気を簡単に信じ込まされ嫉妬に狂うオセローに対して常に優位に立ち、距離を置いて捉える。もともと笑劇的なプロットであることもあり、オセローを演じるのが重々しい大御所歌舞伎俳優であったりしたら成立してはいけないかもしれない笑いも、喜劇俳優としての持ち味のある横田栄司のオセローにはよく似合う演出だった。事実、観客がとてもよく笑っていた。
4幕1場で、こんどは舞台上でイアーゴーがキャシオー(上川路啓志)にビアンカ(千田美智子)の話をさせているところをオセローに目撃させてデズデモーナとの情事の話をしていると思い込ませるシーンでは、舞台上で肩を組んで踊り出しそうに笑い合っているイアーゴーとキャシオーの姿を、オセローが1階客席側から見る趣向。観客はオセローと同じ方向から舞台を観ることで、(うまくすれば…)まやかしの“ocular proof” の生成過程やメカニズムが実感できる経験となっただろう(座った場所にもよると思ったけれど)。たしかに宮本起代子氏のブログ評にもあるように、「やりすぎ」感もなくはなかったが、登場人物と観客の共振は、この上演を『オセロー』上演史に遺す要素となったと思う(注4)。
ただ、とりわけ観劇巧者は、400年も上演され続けて来た作品については特に、「こうあるべき『オセロー』」像を既に持っている。だからこそ、オセローが「立派で高貴な英雄」であるべきとか、「悲劇性」が主旋律であるべきなのに、「鵜山演出は、シェイクスピアってこんない面白いんだよと押し出し過ぎる」あまりに「作品の本質」であるはずの「悲劇性を取り逃がした」といった戸惑いや批判も生んだ(注5)。面白いからいけないという言い方自体、創作の難しさも垣間見えて面白いなぁとも思ったけれど。
従来のオセロー上演からの逸脱ぶりを補ったのは、ひとつは舞台美術(乘峯雅寛)の品格だった。「あずまや」という言葉しか浮かばなかったところに、「パラドール風の籠のような小屋が置かれた回転舞台」という的確な言葉を森岡実穂氏の劇評で知ったのだが(注6)、アドリア海の宝石たる海洋都市ヴェニスを象徴するかのように、開演前から宝石箱のような籠の中に赤いマントが置かれている舞台の美しさは非常に印象深かった。その宝石箱が、同じ構造を保ったまま、芝居が進むとオセローを捕える蜘蛛の巣状になったり、オセローとデズデモーナの最期のベッドを閉じ込めていく鳥かご状になったりと、イアーゴーが回転させるにつれて変化していった。もともとヴェニスの権勢を象徴しているものがすべての基底をなしつつ少しずつ形を変えていくことで、『オセロー』における政治と情動がゆらぎ動いていくさまは見事だった。
4幕1場では、ヴェニスからキプロスにロドヴィーコー(柳橋朋典)をはじめとするオフィシャルな人達がやってくるのだが、今回はここが喜劇から悲劇への明確な分水嶺として大きな役割を果たしていた。オセローの「嫉妬」をはじめとする私的感情が、ヴェニスの公人たちの集団的情動に照らすとおぞましい狂気に見えるという一点が、作品を急転直下、「悲劇性」の方へ走らせていく。その意味で、1幕のヴェニスの公爵(石川武)や、この4幕1場のロドヴィーコー達ヴェニスの公人の登場は大きな効果を生み出していた。
もうひとつ。オセローのブラックフェイスへの批判について。正式な劇評で表立って取り沙汰されたわけではないものの、例えば「オセローの肌の色、「今時、まさか」「でも黒い」「でも鵜山さん、そんなに迂闊ではないはず」と頭グルグルしましたが(中略)悪手と感じました」とか、「顔にドーランを塗って黒くするのも、日焼けサロンに通って黒くするのもどちらもダメである」など、実際の上演を観ていないらしき人も含めての、プロ劇評家の方々のざわつきは無視できないほど大きかった。ブラックフェイス・ポリスはそれ自体、オリジナリティに欠けた杓子定規な批判ではある。それでも、酷い性差別やルッキズムがこの世にある限り「酷い」と言い続けねばいけないのと同様に、褐色メイクや日焼けを役者の気概の表れと称揚する評価や、「オセローを黒塗りにしなければ物語が伝わらない・主人公の疎外感が表現できない」といった考え方が出る限り、ブラックフェイス・ポリスもやらないわけにいかないだろう。物語を伝えるためというなら、なぜヴェニスの白人たちをみな白塗りにしないのか?バカ殿みたいでおかしいから?じゃあなぜブラックフェイスはおかしくないのか?っていう議論になるのでは。これについて、私の考えを述べておきたい。
『オセロー』は白人の役者が顔を黒塗りにして白人観客の前で上演する設定で書かれた戯曲である。ただ、1930年のPaul Robeson主演の『オセロー』上演などを経て、ブラックフェイスが黒人差別的であるからいけないという批判、およびオセローは黒人俳優で上演するべきといった当事者キャスティングの考え方は、欧米では1980年代に一般化していた。他方で、この黒人俳優の当事者キャスティングも、従来通りの白人たちの差別的なものの見方を温存し、そのステレオタイプ的な見方のなかに黒人(表象)を閉じ込めることになるからよくないという考え方も、1990年代には既に出ていた(注7)。
北村紗衣氏も論じているように、日本では黒人俳優の起用が難しいからという事情はあるものの、この両方の見方がともに日本ではいまだにあまり踏まえられていないのは、時代遅れの感が否めない。「じゃあどうすれば?」のいくつかの可能性を北村氏は過去の上演例から提示している。ブラックフェイス陥らずにオセローの他者性を表象しようとする時に、例えばオセローだけアクティング・スタイルを変える(カクシンハンの例)、日本の植民地主義の文脈に移す(アイヌ・オセローの例)、衣装で表現するなど。ただ、それでオセローの他者性への手当てはできるものの、ジェンダーやセクシュアリティ―に関するイシュがなおざりにされがちであると、北村氏は指摘している(注8)。
私自身は、原作の台詞にオセローの黒い肌についての言及が繰り返しあるので、アクティング・スタイルや設定に特別な工夫を施さずとも、台詞の言葉を大事にして上演すれば、肌を黒塗りにしなくても観客には伝わるはずだと考えている。日本の『オセロー』上演におけるオセローは、日本人の肌色のままで上演すればいけるとも思っている。白い肌と黒い肌のコントラストと煽情性が『オセロー』の核なんだから、それだと視覚的な区別がつかなくなって物語が伝えられないじゃないか、面白くないじゃないかと、、、皆さんは本当に思いますか?私は必ずしもそうは思わない。それはあまりに観客の想像力をバカにした考え方ではないだろうか。むしろ、台詞の言葉と舞台上に可視化されたものの乖離しているさまは、もとよりシェイクスピア上演の特質でもあり、成熟の証にもなるだろう。そもそも今はポスト・コロナの時代。「名誉白人」として国際社会の中でうまくやってきたつもりだったかもしれない日本人やアジア人が、コロナ禍でまっさきにヘイト・クライムに遭ったのは記憶に新しいところではないか。第二次世界大戦の戦前戦中戦後に、当時海外にいた日本人が経験したことを、これからいつなんどき私たちはまた経験しないとも限らない。そんな私たち自身こそがもしかしたらオセローであると気づくならば、今この世界情勢の中で、むしろ一層あらたな「オセロー」上演誕生のチャンスが生じるのではないだろうか(注9)。
注
1.Virginia Mason Vaughan, Othello: A Contextual History. Cambridge UP, 1994。今回はおなじ趣向であっても、デズデモーナ役のsaraの凛とした清新な演技のおかげで、オセローとデズデモーナの死後の和解が示唆され、さすがにパロディ劇とは見えなかった。あと増岡裕子のエミリアは、わたしの観劇史上最高のエミリアだった!!
2.『オセロー』の構造的な喜劇性は有名な議論で、Arden 3 Othello のA. Thompsonによる解説や大橋洋一先生のブログに詳しい。
3.文学座 40年ぶり「オセロー」 客席との共犯関係でスリリングに | 毎日新聞
4.文学座公演『オセロー』 - 因幡屋ぶろぐ
5.『悲劇喜劇』2024年11月号の山内則史氏の評(p.203)を参照。『テアトロ』2024年9月号の渡辺保氏の評(pp.10-11)も同様の論調。
6.森岡実穂氏のFacebookより。
7.オセローを演じた黒人俳優のHugh Anthony Quarshie の談話が代表例。
8 .Sae Kitamura, “How Should You Perform and Watch Othello and Hairspray in a Country Where You Could Never Hire Black Actors? Shakespeare and Casting in Japan.” Multicultural Shakespeare: Translation, Appropriation and Performance vol.22 (37), 2020;
≪https://czasopisma.uni.lodz.pl/szekspir/article/view/9361/9201≫(2024年6月23日閲覧)
9.2月に駒場アゴラ劇場で見た『滋企画オセロー』は、通常の設計とは異なりシモテの一辺に長細い通路状の舞台を設置し、伊東沙保がイアーゴーとデズデモーナの2役、佐藤滋が顔を黒塗りにしないままオセローを演じていた。クライマックスで、今リバイバル中のシティ・ポップが流れてコンテンポラリーダンス調になるなど、なかなかにケッタイで面白いオセローだったし、伊東沙保のかわいらしさと狡猾さの振れ幅がなんともはや、ヤバすぎたのだが、なんせ『オセロー』はインターセクショナルな作品である。人種イシューとセクシュアリティ・イシュー、その他の諸要素が醸す交差性の豊かさを、ひとつひとつ、どこまで手放さず拾い上げようとするかに、『オセロー』上演はかかっている。