18才のセシリーが35才になるころ:『贋作・真面目が肝心』12/30昼公演

「批評家の第一の目的とは、対象を実際はそう見えないように見ることである、というのが、君の理論だったね?」

gaku-GAY-kai 2025 で『贋作・真面目が肝心』(関根信一さん作)を見ると、オスカー・ワイルドの「芸術家としての批評家」を別のやり方で読んでしまう。ワイルドの芸術論はヴィクトリア朝リアリズムの拒絶である、とは従来から言われてきたことで、これは「不可能なものへの愛」としての美、すなわち「不可視なものの可視化」というパラドクスとも結びついてきた言葉。だけれども今は、「実際はそう見えないように見る」とはフライングステージの『贋作』シリーズのことであると、ワイルドは言おうとしていたんじゃないかと思う。ワイルドにとって、芸術とは「多様な愛」と同義だったのだから。

 

元の作品『真面目が肝心』の作者ワイルドは、この戯曲を書いた後、男同士の同性愛行為を犯罪化した悪名高い「重大な猥褻(“gross indecency”)」罪で1895年に起訴され、有罪になり、苦しい牢獄生活を送った。イギリスでは、上流階級の紳士が下の階級の若い青年を愛することがある種のタブーとなっていた歴史が長く、クリストファー・マーロウの『エドワード二世』(1592年初演)にもうかがえる。そのため、同性婚が禁じられている日本の社会でアーネスト(石坂純さん)が、執事レイン(長谷川悠斗さん)との恋愛関係を隠すためにグウェンドレンとの偽装結婚を試みるというオープニングでは、青年レインのひたむきさがコミカルさにまぶされていたものの、見た目のおかしさと裏腹にイギリスの階級社会の残酷さも重ね合わせると、とても深刻な問題を含んだ幕開きとして感じられた。

 

グウェンドレン(エスムラルダさん)の初登場シーンで、アーネストからの賛美の言葉に対する「それでは発展の余地がないから困りますわ」の名セリフの「ハッテン」に別の意味の二重性をとらされるあたりから、いつもの「贋作」ぶりがうなりを上げ始める。群馬県前橋に読み替えられたところにあるジャックの「田舎の邸宅」で「上毛かるたとドイツ語」を学ばせられているセシリー(モイラさん)や、お寺の住職となったチャジュブル(中蔦聡さん)の姿にもどんどん笑わせられる。けれども、この田舎の邸宅に押しかけてきて居座るアルジャーノン(とつかおさむさん)のもとに、映画『アーネスト式プロポーズ』の流れと同じタイミングで借金取り立てにやってくるグリズビー(和田好美さん演じる、原作には事務所の名前に使われるのみで実際には登場しない人物)が、「アウティング」の脅迫をほのめかすあたりもやはり不穏。その不穏さもまた、原作通りの展開でセシリーとグウェンドレンの掛け合いがキマりまくる頃には、二人の「リアリズムの拒絶」たるキャンピーで大げさなおかしみに笑いつつ、再び後景に退いていく。ラストの大団円は、これまた原作には登場しない人物たちが次から次へと登場する波状攻撃が長く、いつまで経っても終わらない!フライングステージの年越しにふさわしく、すべての人間存在が掬われていく。執事のメリマン(水月アキラさん)はとある伯爵との思い出に。ジャックを慕って追っかけてきたレインはあの人と。そしてセシリーの母マーガレット(木村佐都美さん)の登場で明らかになるセシリーの過去までも。

 

セシリー(中央)を取り囲む登場人物たち

「アルジャーノン、今は法律で認められない同性婚、でも、私が三十五歳にな る頃には、きっと結婚できるようになっているでしょう。」と言い、アルジャーノンと抱き合って泣く愛らしいセシリーの前に、「前橋駅前」で配られた号外を持ってサロメオバマさん)が現れる。その知らせとは・・・。

 

今はまだ目には見えない、もしくは「実際にはそう見えない」けれども、「そうなって欲しい、ちょっと先の未来」を見せたハッピーな幕引きに、私のみならず観客の皆さん、思いもよらず涙が出たのではないか。「真理のための真理を愛し、その真理が実現不能であるからといってその分だけ愛が減ることなどない」と「芸術家としての批評家」の中で語ったワイルドの夢見たものが、そこにたしかにあったように思う。

 

『贋作・まじめが肝心』は、ぜひとも再演を希望するため、ラストのネタバレは可能な限り避けた。が、このブログのアップ直前の今になって、既にネタバレばればれのレポートもあることに気づく(笑)それもまたよし。この再演の実現が、私にとっては「そうなって欲しい、ちょっと先の未来」である。

 

※写真は劇団フライングステージの以下のブログより借用しました。

gaku-GAY-kai 2025 贋作・真面目が肝心: 劇団フライングステージのブログ

 

 

ダウニング・ストリート

そういえばこのブログ、なんで開設したんだっけ?と思い返してみたら、昨年イギリスに久々に労働党政権が誕生した折に、たまたま東京の地下鉄の中で、「ダウニング・ストリートって何?」という会話を耳にして、「それはブログに書きたいわ」と思ったことがキッカケだった。あれからもう一年近くも経っている。

 

イギリス、内乱期後、王政復古は1660年。

その2年後、1662年、オランダに駐在していたサー・ジョージ・ダウニングは、チャールズ一世の死刑執行令状に署名していた3人の男を捕らえた。オランダ政府は、苦しみながら死ぬことが確定している男たちの引き渡しに特に熱心ではなかったが、ダウニングの強い主張により、この3人の亡命者たちはイギリスへ送還され、絞首刑にされたうえ、四つ裂きにされた。

 

(ん、血なまぐさい。)
 

チャールズ二世はダウニングに、ウェストミンスターの土地を報酬として与え、これが現在のダウニング街となっている。

 

ダウニング・ストリートは有名だが、このイギリス史上の出来事は、現在ではほとんど記憶されていないし、とても面白いのにまったく話題にもならない。ためしに日本語ウィキペディアを見てみたが、ダウニング・ストリートの歴史にも書かれていない。この忘却は、「王党派的な純粋さ」を欠くイギリスの歴史的過去(記述)を補うために反共和派の暴力が用いられた歴史の象徴、という風に論じられることが多い。


これのわずか3年前まで、ダウニングは内乱を起こした側(クロムウェル側)に忠実な官僚であり、王党派の亡命者たちをオランダで激しく弾圧していた張本人だった。

 

(え・・・正反対の立場に立っていたんじゃないか・・・。)

(こういうことはイギリス内乱史上では掃いて捨てるほど見られる。)

 

ダウニングの結婚を祝う詩を書いたのは、事実上「クロムウェル側の桂冠詩人」と言ってもよいペイン・フィッシャーであった。ダウニングは一部の急進的な共和派の批判に対抗する形で、クロムウェルの(半ば君主政的な)政権を熱烈に擁護していたのだ。


 一部の共和派にとって、クロムウェルが1653年に「クーデター」を起こしたことは、国王処刑と同じくらい歴史的に重要な出来事だった。イギリスの国家的記憶の中で、共和派(the Commonwealth)と護国卿体制(the Protectorate)の区別が曖昧になっていることは、イギリス史から「共和派的な視点」が消されてしまった最も顕著な例の一つであるとも論じられている。

 

そんなダウニングの名を冠したダウニング・ストリートに、久々に樹立された労働党政権のスターマーが入ったことには、実際に目に見えること以上のいろんな意味を読み込みたくなるのである。

 

John Beresford, The Godfather of Downing Street: Sir George Downing 1623-1684.

 

 

リチャード二世は鏡を割っていなかった

『リチャード二世』が創作・上演された当時、クライマックスシーンで、廃位に直面した王リチャードが手に持っていた鏡を床に叩きつけて割ったりしてはいなかった可能性が高い、と論じる北村紗衣さんの論文が、Shakespeare Quarterly に掲載されました。

 

Shakespeare Quarterly は最新のシェイクスピア研究成果をまとめた季刊の学術研究誌で、エディターには研究者の大矢玲子さんも加わっておられます。通常、この雑誌を研究者以外の方が読む機会はないかもしれませんが、北村さんの論文の内容は日本でシェイクスピア上演に関わる方たちや観客にも面白く参考になる部分が多いだろうと思います。北村さんから論文を送って頂いたので(※)、内容をご紹介します。

 

 “Did Richard II Really Break the Mirror on Stage? A Close-Reading of the Close-Reading Scene” (Shakespeare Quarterly, Volume 76, Issue 1, Spring 2025, pp. 56–63) は、上演上の現実的な問題とテクストの言葉との結節点において書かれた、8ページの平明かつ明晰な論文です。焦点となる、『リチャード二世』のうちでも名高い4幕1場のシーンは、松岡和子訳を一例に挙げると以下のようになっています。省略引用します。リチャードが手に持った鏡に映る己の「皺のついていない顔」を見ながらいうセリフ:

 

                          ああ、おべっか使いの鏡め、

                          お前は私を騙している。

                          この顔に輝くのは脆い栄光――

                          この顔も栄光のように脆い!   (鏡を床に叩きつけ、粉々にする)

                          な、ご覧の通りだ、粉々に砕けてしまった。

                

        引用の下の3行の原文は以下の通りです。

        A brittle glory shineth in this face.
           As brittle as the glory is the face,     ⟨He breaks the mirror.

                             For there it is, cracked in an hundred shivers.—          

 

この場面について、①「鏡を割る」というト書きが初期のエディション(ネイハム・テイトの1681年翻案版以前の各エディション)には見られないこと、②創作年代当時、鏡は高価なものであったため、上演で実際に割られる演出は現実的ではなかったこと、③18世紀に入ってからルイス・ティボルドのエディション以降「鏡を割る」ト書きが一般化したこと。以上の本文校訂や翻案の歴史を辿ったのち、リチャードのセリフにある “there it is, cracked in an hundred shivers” が意味するのが必ずしも「鏡」ではなく、廃位される王自身の「悲しみ」の隠喩であり得ること、「リチャード自身が涙に濡れたまなざしを通して見つめた、鏡に映る己の顔」を指し得ることを精読・論証し、「鏡を割る」以外の演出の可能性へと私たちを導いています。

 

「割れた鏡が舞台上に散らばっていたら、危ないのでは。場面転換時に片づけるのはどうしていたのだろうか」という、上演上の都合を率直かつ現実的に想像したところから、この論文執筆は始まったのではないかと思います。一般向けの本では、フェミニズム批評で活躍されている北村さんですが、この論文は基本的な精読とエディション探索を経た王道の作品論であるところも興味深いです。

 

自身の愚かしさや罪や苦労(一言で言えば人生経験)が「自分の顔にあらわれていない」ことを嘆き、皺もなく美しいままの己の顔を恨めしく思うリチャードが、 “cracked” な己の顔を見たいと、実は欲していて、”there it is, cracked in an hundred shivers” という言葉を発することによってcracked な己の顔を幻視していく、そこに見られるドラマとは、つまり現実と言葉が一体化せず、ここにも別の意味でのcracked、「亀裂」が走っていることにもあるのでしょう。言葉と現実が完全に分裂していると言えば「シェイクスピアあるある」で、「美しくあってしまう顔」と「cracked」と発する言葉とが完全に分裂していることから生じるドラマ性もまた、北村さんの論文を通じて如実になっていて、その言葉のもつ重層性に心動かされるシーンだということを改めて教えられました。

 

よかれあしかれ、18世紀の本文校訂の影響下に現代の上演が(いまだに)あるという事象は、『リチャード二世』以外の作品でどのような部分に認められるのか、興味ひかれるところです。 

 

(※)現在、私自身は「21世紀に入って四半世紀のシェイクスピア研究を振り返る」という仕事をうけ負っているため、過去25年分のShakespeare Quarterlyを再読してきました。そのことを伝えたら、北村さんが論文を送ってくださいました。

 

文学座『オセロー』―劇評の評

文学座『オセロー』サイト:オセロー|文学座

 

400年も上演されてきたシェイクスピア劇で、今までとは異なる何か、オリジナルな新しい演出を今さら打ち出すなど至難の業である。例えば今回の、死んだはずのデズデモーナやエミリアが起き上がって登場人物を見守る演出は、すでに1830年代に『オセロー』のパロディ劇で行われているという具合に(注1)。しかし、今回の鵜山演出の文学座『オセロー』は、新機軸を見たいという私の長年の望みを叶えてくれた。四半世紀前になるが、イギリス留学時代に、Peter Holland先生のチュートリアルで初めて「『オセロー』は喜劇的な構造を持っている(そもそもシェイクスピア悲劇は必ず喜劇的な部分を持つ)」と教わって以来、喜劇的な要素のある『オセロー』演出を見たいと思い続けてきたからだ(注2)。

 

プログラムには、SNSの喩を使いつつ、イアーゴーが「様々なアカウントを名乗って支持を広げていく」という鵜山氏のコメントが載っていたが、それよりも「客席との共犯関係をつくる」という演出方針の方が明解だった(注3)。イアーゴー(浅野雅博)は現実的でリアルな台詞回しで観客に向かい、原作通り、あらかじめオセローを陥れる策略を暴露してからそれを行動に移すパターンを繰り返す。冒頭、客席2階に設定されたブラバンショー(高橋ひろし。恐くてよかった)の館に向かって、客席1階から下卑た言葉でけしかけるシーンがある。以降も1階席の通路を使った演出により、イアーゴーの策略や視線を共有させられイアーゴーの敷いた磁場の中にいる観客は、妻の浮気を簡単に信じ込まされ嫉妬に狂うオセローに対して常に優位に立ち、距離を置いて捉える。もともと笑劇的なプロットであることもあり、オセローを演じるのが重々しい大御所歌舞伎俳優であったりしたら成立してはいけないかもしれない笑いも、喜劇俳優としての持ち味のある横田栄司のオセローにはよく似合う演出だった。事実、観客がとてもよく笑っていた。

 

4幕1場で、こんどは舞台上でイアーゴーがキャシオー(上川路啓志)にビアンカ(千田美智子)の話をさせているところをオセローに目撃させてデズデモーナとの情事の話をしていると思い込ませるシーンでは、舞台上で肩を組んで踊り出しそうに笑い合っているイアーゴーとキャシオーの姿を、オセローが1階客席側から見る趣向。観客はオセローと同じ方向から舞台を観ることで、(うまくすれば…)まやかしの“ocular proof” の生成過程やメカニズムが実感できる経験となっただろう(座った場所にもよると思ったけれど)。たしかに宮本起代子氏のブログ評にもあるように、「やりすぎ」感もなくはなかったが、登場人物と観客の共振は、この上演を『オセロー』上演史に遺す要素となったと思う(注4)。

 

ただ、とりわけ観劇巧者は、400年も上演され続けて来た作品については特に、「こうあるべき『オセロー』」像を既に持っている。だからこそ、オセローが「立派で高貴な英雄」であるべきとか、「悲劇性」が主旋律であるべきなのに、「鵜山演出は、シェイクスピアってこんない面白いんだよと押し出し過ぎる」あまりに「作品の本質」であるはずの「悲劇性を取り逃がした」といった戸惑いや批判も生んだ(注5)。面白いからいけないという言い方自体、創作の難しさも垣間見えて面白いなぁとも思ったけれど。

 

従来のオセロー上演からの逸脱ぶりを補ったのは、ひとつは舞台美術(乘峯雅寛)の品格だった。「あずまや」という言葉しか浮かばなかったところに、「パラドール風の籠のような小屋が置かれた回転舞台」という的確な言葉を森岡実穂氏の劇評で知ったのだが(注6)、アドリア海の宝石たる海洋都市ヴェニスを象徴するかのように、開演前から宝石箱のような籠の中に赤いマントが置かれている舞台の美しさは非常に印象深かった。その宝石箱が、同じ構造を保ったまま、芝居が進むとオセローを捕える蜘蛛の巣状になったり、オセローとデズデモーナの最期のベッドを閉じ込めていく鳥かご状になったりと、イアーゴーが回転させるにつれて変化していった。もともとヴェニスの権勢を象徴しているものがすべての基底をなしつつ少しずつ形を変えていくことで、『オセロー』における政治と情動がゆらぎ動いていくさまは見事だった。

 

4幕1場では、ヴェニスからキプロスにロドヴィーコー(柳橋朋典)をはじめとするオフィシャルな人達がやってくるのだが、今回はここが喜劇から悲劇への明確な分水嶺として大きな役割を果たしていた。オセローの「嫉妬」をはじめとする私的感情が、ヴェニスの公人たちの集団的情動に照らすとおぞましい狂気に見えるという一点が、作品を急転直下、「悲劇性」の方へ走らせていく。その意味で、1幕のヴェニスの公爵(石川武)や、この4幕1場のロドヴィーコー達ヴェニスの公人の登場は大きな効果を生み出していた。

 

もうひとつ。オセローのブラックフェイスへの批判について。正式な劇評で表立って取り沙汰されたわけではないものの、例えば「オセローの肌の色、「今時、まさか」「でも黒い」「でも鵜山さん、そんなに迂闊ではないはず」と頭グルグルしましたが(中略)悪手と感じました」とか、「顔にドーランを塗って黒くするのも、日焼けサロンに通って黒くするのもどちらもダメである」など、実際の上演を観ていないらしき人も含めての、プロ劇評家の方々のざわつきは無視できないほど大きかった。ブラックフェイス・ポリスはそれ自体、オリジナリティに欠けた杓子定規な批判ではある。それでも、酷い性差別やルッキズムがこの世にある限り「酷い」と言い続けねばいけないのと同様に、褐色メイクや日焼けを役者の気概の表れと称揚する評価や、「オセローを黒塗りにしなければ物語が伝わらない・主人公の疎外感が表現できない」といった考え方が出る限り、ブラックフェイス・ポリスもやらないわけにいかないだろう。物語を伝えるためというなら、なぜヴェニスの白人たちをみな白塗りにしないのか?バカ殿みたいでおかしいから?じゃあなぜブラックフェイスはおかしくないのか?っていう議論になるのでは。これについて、私の考えを述べておきたい。

 

『オセロー』は白人の役者が顔を黒塗りにして白人観客の前で上演する設定で書かれた戯曲である。ただ、1930年のPaul  Robeson主演の『オセロー』上演などを経て、ブラックフェイスが黒人差別的であるからいけないという批判、およびオセローは黒人俳優で上演するべきといった当事者キャスティングの考え方は、欧米では1980年代に一般化していた。他方で、この黒人俳優の当事者キャスティングも、従来通りの白人たちの差別的なものの見方を温存し、そのステレオタイプ的な見方のなかに黒人(表象)を閉じ込めることになるからよくないという考え方も、1990年代には既に出ていた(注7)。

 

北村紗衣氏も論じているように、日本では黒人俳優の起用が難しいからという事情はあるものの、この両方の見方がともに日本ではいまだにあまり踏まえられていないのは、時代遅れの感が否めない。「じゃあどうすれば?」のいくつかの可能性を北村氏は過去の上演例から提示している。ブラックフェイス陥らずにオセローの他者性を表象しようとする時に、例えばオセローだけアクティング・スタイルを変える(カクシンハンの例)、日本の植民地主義の文脈に移す(アイヌ・オセローの例)、衣装で表現するなど。ただ、それでオセローの他者性への手当てはできるものの、ジェンダーセクシュアリティ―に関するイシュがなおざりにされがちであると、北村氏は指摘している(注8)。

 

私自身は、原作の台詞にオセローの黒い肌についての言及が繰り返しあるので、アクティング・スタイルや設定に特別な工夫を施さずとも、台詞の言葉を大事にして上演すれば、肌を黒塗りにしなくても観客には伝わるはずだと考えている。日本の『オセロー』上演におけるオセローは、日本人の肌色のままで上演すればいけるとも思っている。白い肌と黒い肌のコントラストと煽情性が『オセロー』の核なんだから、それだと視覚的な区別がつかなくなって物語が伝えられないじゃないか、面白くないじゃないかと、、、皆さんは本当に思いますか?私は必ずしもそうは思わない。それはあまりに観客の想像力をバカにした考え方ではないだろうか。むしろ、台詞の言葉と舞台上に可視化されたものの乖離しているさまは、もとよりシェイクスピア上演の特質でもあり、成熟の証にもなるだろう。そもそも今はポスト・コロナの時代。「名誉白人」として国際社会の中でうまくやってきたつもりだったかもしれない日本人やアジア人が、コロナ禍でまっさきにヘイト・クライムに遭ったのは記憶に新しいところではないか。第二次世界大戦の戦前戦中戦後に、当時海外にいた日本人が経験したことを、これからいつなんどき私たちはまた経験しないとも限らない。そんな私たち自身こそがもしかしたらオセローであると気づくならば、今この世界情勢の中で、むしろ一層あらたな「オセロー」上演誕生のチャンスが生じるのではないだろうか(注9)。

 

 

1.Virginia Mason Vaughan, Othello: A Contextual History. Cambridge UP, 1994。今回はおなじ趣向であっても、デズデモーナ役のsaraの凛とした清新な演技のおかげで、オセローとデズデモーナの死後の和解が示唆され、さすがにパロディ劇とは見えなかった。あと増岡裕子のエミリアは、わたしの観劇史上最高のエミリアだった!!

2.『オセロー』の構造的な喜劇性は有名な議論で、Arden 3 Othello のA. Thompsonによる解説や大橋洋一先生のブログに詳しい。

3.文学座 40年ぶり「オセロー」 客席との共犯関係でスリリングに | 毎日新聞

4.文学座公演『オセロー』 - 因幡屋ぶろぐ

5.『悲劇喜劇』2024年11月号の山内則史氏の評(p.203)を参照。『テアトロ』2024年9月号の渡辺保氏の評(pp.10-11)も同様の論調。

6.森岡実穂氏のFacebookより。

7.オセローを演じた黒人俳優のHugh Anthony Quarshie の談話が代表例。

8 .Sae Kitamura, “How Should You Perform and Watch Othello and Hairspray in a Country Where You Could Never Hire Black Actors? Shakespeare and Casting in Japan.” Multicultural Shakespeare: Translation, Appropriation and Performance vol.22 (37), 2020;

https://czasopisma.uni.lodz.pl/szekspir/article/view/9361/9201≫(2024年6月23日閲覧)

9.2月に駒場アゴラ劇場で見た『滋企画オセロー』は、通常の設計とは異なりシモテの一辺に長細い通路状の舞台を設置し、伊東沙保がイアーゴーとデズデモーナの2役、佐藤滋が顔を黒塗りにしないままオセローを演じていた。クライマックスで、今リバイバル中のシティ・ポップが流れてコンテンポラリーダンス調になるなど、なかなかにケッタイで面白いオセローだったし、伊東沙保のかわいらしさと狡猾さの振れ幅がなんともはや、ヤバすぎたのだが、なんせ『オセロー』はインターセクショナルな作品である。人種イシューとセクシュアリティ・イシュー、その他の諸要素が醸す交差性の豊かさを、ひとつひとつ、どこまで手放さず拾い上げようとするかに、『オセロー』上演はかかっている。