
▲ 今週のみけちゃん
▼ 筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第78週

■ 今週のよその猫


■ 今週の筑豊境


■ 今週の草木花実



■ 今週の撥水性

■ 今週の購「書」


赤レンガの建物は南1条交番➡google画像

望楼(大通西1)より南を望むとある。ここで望楼とはこのことだ↓
▼札幌市が発行した、「新札幌市」機関紙、札幌の歴史、第41号 平成13年8月が必要となった。ネットで調べると、メルカリで売っていた。他の号と合わせて3冊で、800円で購入。書籍ではない。必要となった理由は、倉持斎、私の戦後体験、米軍基地キャンプ・クロフォード、を読みたいからだ。関連サイト:キャンプ・クロフォードの建設
■ 今週の展示

イラストレーター、画家として国内外で活躍する黒田征太郎は、1939年、大阪に生まれました。戦後、船員として航行する合間に絵に興味を持ち、1969年に長友啓典とデザイン事務所K2を設立。1992年、ニューヨークにアトリエを構え、2009年に拠点を北九州市門司区に移すまで、世界中で様々な活動をしてきました。なかでも、渡米先で出会った野坂昭如の『戦争童話集』によって、1990年代以降から戦争のテーマと向き合うようになり、絵本をはじめ絵画の大作や壁画制作、1000回を超えるライブペインティングを通して、いのちの大切さを伝える表現活動をしています。
本展は、これまでに20万点を超える制作を行ってきた黒田征太郎の86歳にして初となる大規模個展です。厳選した作品展示によって作風の変遷と功績を大回顧するほか、会期中に対談や上映会、子ども向けのワークショップなど多数のイベントを開催します。
今週、初日、黒田征太郎により創作パフォーマンスが行われていた;

■ 今週の米軍勤務の人たち
▼ 倉島斎(作家)芥川賞候補であった;
昭和7年/1932年1月生まれ。北海道札幌市生まれ。北海道大学文学部国文科卒。中学・高校教諭などを経て、同人誌『くりま』に参加。「兄」が第64回芥川賞(昭和45年/1970年下期)の候補となる。(ソース)

愚ブログでは札幌郊外にあった米軍/進駐軍の基地であるキャンプ・クロフォードに何度も言及している。そのキャンプ・クロフォードの内部事情などの情報は少ない。実際に日本人としてキャンプ・クロフォードに関係した人の生の声というのは、おいらは知らなかった。あった。この倉島斎。昭和7年/1932年生まれなので、江藤淳と同い年だ。「新札幌市」機関紙、札幌の歴史、第41号 平成13年8月で、体験を書いている。
敗戦時、(旧制)中学生。北海中学。
中学生であった倉島斎はキャンプ・クロフォードの建設に携わった。当時、「アルバイト」という言葉はなく、「進駐軍に行く」と言っていたとのこと。稼ぎはよかったという。つまり、進駐軍でアルバイトをすることを進駐軍に行くと云っていたのだ。
家庭の事情で困窮していた倉島斎は学校を早退して、真駒内のキャンプ・クロフォードの建設現場に通っていた。徒歩で。つまり、北海中学があった現在の地下鉄東豊線の学園前駅付近から今の地下鉄南北線の自衛隊前駅まで歩いたというのだ。直線距離で6km。
さらには、基地建設完成で土木作業のアルバイトは終了するのであるが、その後、基地の娯楽施設で「ピンボーイ」をやったと。ここで、「ピンボーイ」とはボーリングのピンを並べる作業をする人だ。危険で苛酷な仕事であった。➡ピンボーイの給料が高かった理由
小学校教師の初任給が5850円だった時代に、ピンボーイの月給は1万円と高額な給料を得ていた。その理由はピンボーイの仕事はとても危険だったためである。
ピンボーイが待機していた場所はピンの裏側で、転がってきたピンや飛び散ったピンがピンボーイの体や頭に直撃して怪我をする人がいた。ひどい場合には骨折をする人もいたという。
倉島斎も高給ではあったが、一緒に働いていた人が大怪我をしたので辞める。
以上、簡単に書いたが、「肝心」な屈辱/敗戦国民の悲哀、あるいは、米国への憧憬の発生については、今日は書かない。
▼ 黒田征太郎
黒田征太郎は1939年/昭和14年生まれ。こっちは西部邁と同い年だ。B29が来なかった街(の郊外)で育った西部と違って、黒田の実家は神戸であり、戦災に遭う。
そして、黒田征太郎は高校生の時、中退し、家でをして、さらには、横浜から米軍の上陸舟艇(LST629)で働く。ベトナムなどに行ったらしい。






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