
オリンピックで、日本勢が頑張ったので報道も競技者の置かれている状況と背景を報道することが多かった。日本の代表に選ばれるのも困難であり、競い合って頂上を目指す者たちにスポットをあてるので、ついほだされて感動を呼び覚まされる。
そんな合間に山本周五郎著の悲恋小説を二作読んで、こちらでも目をうるうるさせられた。以下、各小説に男2人、女1人の計6人であらすじを要約してみた。
「柳橋物語」 (おせん、庄吉、幸太)
江戸大川端の逢引きで17歳のおせんは一生を決定する約束を庄吉と交わす。庄吉が難波修行から戻るまで嫁がずに待つ約束を。特に、同僚の気の荒い幸太が云い寄るはずだと念を押す。
ところが、江戸では地震や火事が度々起こり、おせんの身は運命に翻弄される。
火事の生死の分かれ目で拾った孤児を育てるおせんに対して、周囲が自堕落な女だと誤解し、それ故に生ずる過酷な運命が余りに哀しく、読んでいても辛い。
難波から戻ってきた庄吉は、同僚の幸太の子と誤解する。おせんに、自分の子でなければ捨てろと責める。捨てようとするが、辛苦を舐めて育てた子を捨てることはできない。やがて、清次は、棟梁に気に入られ入り婿になってしまう。
ここで気づくおせんの独白は、涙なしに読めない。
弱い庄吉の身を、若かったので気の毒と感じたことが、約束に至らしめる。難波に行った庄吉に操を守り抜いたのに、自分を信じようとしなかった。時を経て考えると、嫌い抜いた幸太の好意こそ本物であった。あんなに嫌ったのに、いろいろな場面で家族をも助けてくれた好意こそ尊かったと、おせんの心理を心憎いほどに絵解きする。あの火事の土壇場で、おせんに生き抜けと云って、幸太は大川に沈んでいった。
此処で巻末の解説をひろうと、「これらの過酷な運命に耐えておせんはついに精神的な勝利を得る。この世に生きながら真の人間の愛情とまごころを知る。すべてかけ違ってしまうのが、この世の辛い定めなのだと作者はおせんを信じなかった庄吉をも許している。」
読んでいて、おせんの身に起きるさまざまな状況というか設定は、周五郎の筆致でもって充分に納得させられる。最期には、真の愛情を悟った形に昇華させたが哀しすぎる悲恋小説だった。
「むかしも今も」 (おまき、直吉、清次)
親方の家で修行する二人の若者に、愚直な直吉と腕利きの清次が、その娘おまきを巡る話。
親方に認められて清次がおまきと祝言するが、清次の博打が元で追われほとぼりが冷めるまで江戸を離れ難波に逃げる。
再び解説を、以下に引用する。
『愚直な男(直吉)の愚直を貫き通した故の幸福をうたいあげた心なごむ物語りといえる。
「柳橋物語」が純粋ゆえに間違ってしまった人生の悲劇であるならば、「むかしも今も」は純粋によって得たほのぼのとした勝利である。
「柳橋物語」の幸太の切ないおせんに対する願望は、「むかしも今も」のおまきに対する直吉のハッピィエンドによって、ようやく実現され報われたといってもよい。
「柳橋物語」では、びたりとおせんによりそった作者は、「むかしも今も」の直吉に同体化している。そして、ここでも作者は庄吉と同じように「むかしも今も」のやくざな清次をも見捨てていない。直吉は、肉の陶酔すら自らに禁じ、もっと精神的である。空地で、幼児だったおまきが、直吉におしっこをさせてもらって以来、「むかしも今も」のエピソードが、詩的ルフランとして生きている。ほそぼそとした内職によって生活している江戸の庶民の生活が読者にそのまま伝わってくる。』
三角関係を扱いながら、ほんとうの愛情とは何なのかを問う感動小説は、同じ文庫本に収録されている。