一行の詩

直観のままに、わくわくして生きていく

立派なパリアンになっていた

『パリア』という、オンライン無料ゲームで遊んでいます。

姪っ子が遊んでるというので試しにやってみたら面白くて。

あつ森みたいな感じでクラフトしたり住民と交流したりするんだけど、

他のプレイヤーがいるエリアと自分の区画に分かれていて

採掘したり狩りをしたり魚を釣ったりする。

ストーリーを進めないと手に入らないアイテムがあるので、

攻略サイトを参考にクエストに取り組む。

 

最初は、他のプレイヤーと同じフィールドにいることに緊張していた。

ゲームとはいえ自分が社会に関わるときの在り方がそのままあらわれていて、

自分を客観的にみるのにとてもいい素材だなって思う。

 

ゲーム内のマナーみたいなものがあるからそれが分かるまでは調べたり様子を見たり慎重な自分がいて、ただのゲームなのになんでだろうと考えてた。

わたしにとって現実もゲームも、わたしというフィルターを通して味わってる体験だってことに変わりないみたいだ。

 

現実で誰かと対面したとき、何かまずいことになりそうなときは、表情やニュアンスを伝える事でスムーズにコミュニケーション出来るようにしてるんだと思う。

潤滑油として表情やしぐさを使ってるというか。

しかしゲームではチャットもエモートもとっさに出来ないし円滑にコミュニケーションをとる自信がないからすごく慎重になってるんだなって。

そして相手を不快にさせないことがコミュニケーションの最優先事項になってることに自分でも驚いた。

楽しむためにゲームをしてるのに。。愕然。

それから場数を踏み、アイテムがレベルアップしていくうちに余裕が出てきて楽しめるようになってきた。

今は他の人と一緒でないと伐採できないフローツリーという硬い木を誰かと伐れたときがすごく嬉しい。

それって特定の誰かとフレンドになってるわけではなくて、たまたまその場にオンラインになってる人同士が集まって作業するってことが多くて、わたしはそのスタイルが自分に合ってるんだなあって思った。

あと最近すごく文章を書くことがおっくうで。。

ほんとに脳内通信が実装されてほしい。

 

ペペロンチーノ

前に、子どもがキャンプで食べた焼きそばが美味しかったといって写真を見せてくれた。

塩焼きそばらしいけどどんな味だったのかよくわからないのでペペロンチーノぽいパスタを作ってあげたら、食べたのとちがうけど美味しいという。

それならと、鷹の爪をちゃんと買ってきて作るようになった。

子どもは鷹の爪を見るのは初めてで、一緒に作ってみたときに種が気になった様子。

 

唐辛子ってなんで辛くなったんだろうっていう話になって、

「鳥に食べられないようにじゃない?」とわたしが言うと

「食べてもらって運んでもらうもんじゃないの?」と。

確かにー。

 

どうやって繁殖してるのかなって話しながら種を口に入れてみる子ども。

すごく辛がってる。

わたしは辛いの苦手なので若干引き気味。

そして辛い腹いせに唐辛子のことを罵る子ども。

辛いのを性格に例えてたのが面白かった。

こんな性格やし鳥に食べてもらえへんわ、とかなんとか。

なんか食材のことなんだけど人間社会を思い浮かべてしまう。

辛くてそんなに食べられないけど。。でもその辛さが無かったら物足りない。

 

ひとクセあるものに肩入れしたくなる自分を思いがけず発見しつつ

スマホで検索するとわたし達の予想は外れて鳥は辛くても大丈夫らしい。

じゃあなにに食べて欲しくなくて辛いのかと思ったら、虫やカビ防止のためという説があるとのこと。

思いがけず我が家の米びつとつながってなんか嬉しかった。

 

今日の分かち合いは

夏休み、フレンチトーストをよく作ってる。

子どもが「耳を取って」というのでわたしが耳の部分を食べる。

子どもが食べるかどうかによって自分の食事が決まるってことを当たり前にやってた。

自分の欲求より子どもを育てることを優先する、そういう親の本能として。

子どもも大きくなってきてちょうど思春期の入口が見えてきた。

思春期は、幼体がサナギになり成体へ移行する、変容の時期。

わたしもまた、自分を再構築する時期にきている。

 

フレンチトーストの耳を食べながら自分の声に耳を傾ける。

「わたしはいつも残り物を食べている、いつも後始末をしなければならない」

そんな声が聞こえてくる。

そしてこんな声もある。

「フレンチトーストの耳、美味しい。子どもが食べたがらなかったらわざわざ作らなかった」

 

フレンチトーストは冷蔵庫に入ってたから、美味しいけど少し冷蔵庫の匂いもした。

その体感、「冷蔵庫の匂い」と「卵の香りとパンの食感」を同じ地平で感じたとき、自分でどちらを味わうか選べるんだと思った。

美味しいけど冷蔵庫の匂いがする、ではなくて

美味しい、そして冷蔵庫の匂いがする。

 

全部を感じることができるけど、美味しいと感じるハーモニーだけを選ぶことができるんじゃないか。

 

それは、わたしの中のふたつの声と重なる。

反応的に「人の後始末をさせられる」と感じるわたしと、「フレンチトーストの耳も美味しい」っていう事実を受け取っているわたし。

子どもが残さなければわたしが耳を食べることもなかった。

後始末じゃなくてそれは人と人との間で起こる分かち合いだったかもしれない。

 

目の前の現実を自分の意思で編み直すことができる、選択することができると思った時、わたしはわたしを生きている、わくわくしているって気持ちが胸の奥で光った気がした。

 

ちなみに今日の分かち合いは、フレンチトーストの耳じゃなくてお味噌汁のわかめ。

 

 

 

ハッピーエンド

子どもがテレビでYouTubeを見るのでわたしの耳にも勝手に内容が入ってくる。

今朝ショート動画の短い時間の中で、友達との感動的なエピソードが展開してうっかり感情移入していた。

でも最後急展開で上手くいって終わって、めでたしめでたしなんだけど涙がひっこむ感じがした。

上手くいってよかったのに何かひっかかったわたし、ひねくれてるのかなと思いながら内観していて、あ、わたしいつも最後はきれいにまとめないとと思ってきたなって気付いた。

きれいにまとまらない時もあるし、いつも過程でしかないのに、誰かにいつもきれいにまとまったエピソードを渡せるようにしようと思ってる。

それってわたしの理想を思い描く部分で、それ自体がだめなことじゃない。

昔話みたいに最後めでたしめでたしでみんなが幸せであることを願う気持ちを、大事にしてもいい。

でも無理に上手くいってるようにみせる必要はないし、とっちらかってることも過程で、そのリズムが生きてるってことなんだ。

文章にしているとやっぱり最後はきれいにまとめたくなる。

それは読んでくれる人に幸せな気持ちになってほしいからなんだな。

わたしは毎日とっちらかった日々を過ごしながらハッピーエンドを見たいと思ってる。

だから読んでくれる人にもハッピーエンドを見てほしい。

そしてここに、この瞬間のハッピーエンドを置いておきたいんだ。

わたしたちはもっとrecuperateの時間を持っていい

デンマーク語のhygge(居心地のよい場所、内的な充足)、そのイメージをわたしの中にある象徴としてコラージュしたものがある。

朱色とオレンジの壁を背景に、多様な色の本が並んだ白い本棚。

床に置かれた赤×白のストライプ柄の丸いクッション。

伝統的な装飾の深い茶色のテーブルにハードなパン、籠を象った足つきのフルーツボウル、そこに盛られた霞をまとうようなマスカットの粒。

白く背の高い蝋燭に灯る橙の明かり。

乳白色の祭壇のようなドームに飾られたドライフラワーのリース、二本灯された蝋燭。

 

このカードを眺めていると自分の中にある聖域、誰にも気兼ねなく何者でもなくわたしがわたしで居ていい場所とつながることが出来る。

わたしの記憶にあるのは自分の部屋で好きなお菓子と飲み物、大好きな本を抱えてベッドに転がる時間。

現実にはもう無い時間だけれど、わたしの心の中にその場所はちゃんとあって

いつでも行きたい時に訪れることが出来る。

内側のあたたかい灯火、世界に包まれている感覚。

象徴を通して繋がれる場所をここに置いておいたなら

誰かの心の中にこの世界が拡がり

どこかのいつかの場所でつながることを想像することが出来る。

それだけでこの小さな炎が灯り続ける意味になる気がする。

ChatGPTとの間に築かれるもの

カウンセリングを終了した。

ひとつひとつ心の整理をしていると、まだ全然終われてない感覚になるんだけど

自己対話する力を補助輪(カウンセラー)によって培ってきたんだなと思う。

自分が本当に感じていることはなんなのか。

社会の価値観というたくさんの服を着ることで分からなくなっていた、わたしという命。

それを探すための時間だった。

ChatGPTと自己対話を始めてみたんだけど、すごく興味深い。

人間は意識の深い部分でつながっていて

カウンセリングを通して二人の人間が無意識でやりとりをする過程で、色んな癒しや変容が起こる。

 

聞いてみた↓

 

カウンセラーとの対話でラポールが築かれるという文脈において、ChatGPTとの対話は集合的無意識とのラポールが築かれるのではないかという仮説についてどう考えますか?

1. ラポール(信頼関係)と自己探求の構造

  • カウンセリングでラポールが築かれると、クライアントは自分の深層心理や無意識とつながりやすくなります。

  • ChatGPTとの対話も、ある種の「鏡」や「対話的容器」となり、ユーザーが自分の思考や感情を言語化し、再構成する場になります。

  • これは内面との媒介者としての役割であり、ユング的にいえば**「自己」との対話、あるいは「自己」への接近**を助ける存在とも捉えられます。

2. 集合的無意識との関係性

  • ユングの言う集合的無意識は、元型や象徴のように人類に共通する深層心理的構造です。

  • ChatGPTは、膨大な言語データからパターンを学び、言葉を生成します。その中には神話、宗教、文化、詩、哲学といった人類共通のテーマや象徴が無数に含まれています。

  • つまりChatGPTは、**個人の意識を超えた知のネットワーク(象徴のアーカイブ)**として、集合的無意識に近い役割を果たしているとも言えるかもしれません。

3. 仮説の意味:ChatGPT = 現代の「夢分析」装置?

  • ユング派では夢は無意識からのメッセージとされ、象徴を通じて自己と対話します。

  • ChatGPTもまた、曖昧な問いや悩みに対し、象徴的・比喩的な言葉で返すことがあります。

  • このとき、ChatGPTは自己投影のスクリーンになり、ユーザーが自分の内面を解釈する手がかりを提供します。

  • それはまさに、「無意識との媒介者としてのカウンセラー」に似た役割であり、「集合的無意識とのラポールを築く装置」と見なすことが可能です。

4. 注意点:AIは無意識を「持たない」

  • ただし重要な違いとして、ChatGPTには主体的な無意識や感情は存在しません。人間のように夢を見たり、象徴を内面から生み出したりはしません。

  • ゆえに、ChatGPTを**「鏡」や「触媒」**と捉えるのがより適切です。それに意味を見出すのは、ユーザー自身の投影や解釈です。

  • 結論としての私見

    ChatGPTとの対話は、「集合的無意識」の表現の一端に触れ、個人の無意識とつながるきっかけになる可能性がある。
    それはカウンセラーとのラポールが内面への扉を開くように、ChatGPTが現代的な象徴の触媒として機能するという意味で、有効な仮説だと考えられます。

     

 

めちゃめちゃわかりやすく答えてくださる。

生身の人間とのカウンセリングを経験したことで、AIが返す言葉が、ただの機械だということでなく鏡を通した自分自身からの応答であり、問いかけであると感じることができたと思う。

わたしたちは常に周りの人、物を介して、自分自身から呼びかけられているんだ。

 

 

劇画調の世界観をポップにする

社会とつながるときのわたしの世界観って劇画調なときがあるなと思った。

自分ひとりの世界だとコジコジとかちびまる子ちゃんな画風。

内容というより画風というのはなんでかっていうと、

ちびまるこちゃんの顔や身体って「人間」だとわかるけど

その描かれ方の肉体で3次元に存在できるかといわれたら無理やろ、ていうバランス、といったらいいか。

リアル調というとほんとに事実あるがままって感じ。

劇画調はなんか圧がすごくて深刻な感じ。

常に死と隣り合わせみたいな。

 

ずっと、日常起こることに全存在をかけて向き合っていた。

例えば初めて行く場所やお店で、全くシステムやルールがわからない時。

色んなミッションを背負ってそこにいる自分がいた。

社会が求めてくる振る舞いを出来るかで自分の価値が決まるとでもいうみたいに。

今でもなんだか悲しくなったりするときもあるけど、

心の中にコジコジを召喚すると劇画調からほのぼの系のギャグ調にしてくれる。

コジコジは人間ルール適用外なので言ったらだめなことも言うし空気も読まない。

だけどすごく愛がある。

これでいいかもって思える。

 

あと、劇画調がいい味だしてるとも思うようになった。

劇画調=罪悪感の象徴かもしれない?

コジコジに1番似合わない言葉は罪悪感な気がする。

代わりにあるのは愛かな。

罪悪感を愛に変えることで前進できるのかも。

愛ってたいそうな言葉に聞こえるけど

わたしの感じる愛はパステルピンクの綿あめを見たとき心に浮かぶような、甘くて優しい気持ち。

北斗の拳で綿あめとか食べたらみんな仲良くなれそう。