もともと訳者の鯨井久志さんから座談会やイベントで会った時にスゴい作品だ!(だったかどうかわからないが、ポジティブな評価)と聞いていたから期待して読み始めたのだが、こーれはたしかにおもしろい! 妄想型統合失調症を診断された、記憶が曖昧な人物を語り手に据え、ホラーとして、幻想譚として、ある意味ではル・グインが指し示したようなファンタジイとして、様々なジャンルを横断的に踊っている長篇で、プロットだけでなく、キャラクタも、変幻自在な語りの表現も、何もかもが優れている。2025年に読んだ小説の中で間違いなくベスト3に入る。今年読めて良かった。
あらすじ・世界観など
物語は、インディア・モーガン・フェルプス、通称「インプ」と呼ばれる女性が『「わたしはこれから怪談を書く、」そう彼女はタイプした。』と書き出す場面から幕を開ける。インプは画家兼小説家のアーティストの女性だが、インプの家系の女性は母親も祖母もどちらも精神に異常をきたして自殺しており、彼女も統合失調症を病院で診断されている。統合失調症は幻覚や幻聴が伴う病で、彼女も例外ではない。
彼女は何らかの理由で回想録を書かなければいけないと考えている。それもただの回想録ではなく、怪談だ。なぜそれは「怪談」でなくてはならないのか? そもそもなぜ、まだ若いインプが回想録を書かないといけないのか? といったことは、読み進めるたびにわかってくる部分である。とりあえず、冒頭を読む限りでは、彼女は自己治癒、あるいは自分自身を理解するためにこの物語を書いているように見える。
事実ではないが、真実ではある。
過去のインプの精神状態は常に安定しているとは限らないから、書きぶりには相当な混乱がみられる。同じ出来事を何度も語るし、時系列は線形ではなく混乱していることもあるし、そもそも彼女が語ろうとしているのは2年半前の話だから、精神病の有無にかかわらず記憶も曖昧で、意識的・無意識的に事実を改変している部分もある。
インプは「嘘」を書くこともあること、「事実」ではないことも書いてしまうこと。それは、作中で何度も繰り返し念押しされていく。
(……)それに、わたしが嘘しか書けないのであれば、この原稿を書く意味はない。
だからといって、すべてが事実に基づくとは言えない。ただ、すべてが真実である、とは言える。少なくとも、わたしに書きうる限りの真実ではある。p.14
「事実」と「真実」は同じものではないか? と思うかも知れないが、インプはル=グウィンの書いたエッセイ「アメリカ人はなぜ竜がこわいか」の中から、『なぜならば、いうまでもなくファンタジーは真実だからです。〈事実〉ではありません。でも〈真実〉なのです。知っているからこそ、彼ら[アメリカ人]の多くはファンタジーをおそれるのです』と書いた部分を引用しながら、明確にこの二つを使い分けている。
たとえば、本作が「怪談」として語られなければいけないのも、本作がそもそも書かれなければいけなかったのにも、インプが夏の夜のルート122の路上で裸の女性エヴァに出会ったことに要因があるのだが、不思議なことにインプには、7月と11月の2回、「エヴァとのはじめての出会い」の記憶があるのだ。同じ人間と別の時期に最初に出会うわけがないから、どちらかは妄想である。「事実」はそうだろう。しかし、インプの「真実」は、エヴァと二度出会っているのだ──と、幻想と妄想に囚われたインプは、エヴァの正体に迫ると同時に、この回想録を紡いでいく。
語りの魅力
本作の最大の魅力は、語りそれ自体にある。インプの記憶はふらふらと飛び、強迫性障害の症状が出ていることもあって特定の数字に非常にこだわる。たとえば歩数、ものを噛んで食べた回数を執拗に数え、家を出る前には通常30回服を脱ぎ着しないといけない。シャワーを浴びるには水を17回出しては止め──と、とにかく様々な数字のカウント、通常は気にしないような数字が執拗にこの回想録には現れる。
わたしの十一歳の誕生日、その絵は九十九歳だった。そして、十六歳になるまで、わたしがその絵を本格的に調べだすことはなかった。その時点で、絵は百四歳になっていた(十一・九十九・十六・百四)。p.66
最初、インプの語りは平穏で、ゲームライターでトランスジェンダーの女性アバリンとの出会いとロマンス、後に怪談の要因となる女性エヴァ・キャニングとの出会いが綴られていく。だが、時系列が進むにつれインプの症状は悪化し、記憶は曖昧になり、〝ミーム〟や〝伝染する亡霊〟をキイにしながら、「人魚姫」、「赤ずきん」、『白鯨』、ラヴクラフト、『不思議の国のアリス』など様々なおとぎ話から文学作品に音楽、果ては松本清張の『黒い樹海』にまで言及・連環させ、幻想と、数字脅迫と、(インプの)頭の中にある作品群のイメージが溶け合った特異な語りへと変貌を遂げていくのだ。
下記は序盤の語りだが、後半の示唆でもある文章なので、一部引用しておこう。
わたし。ローズマリー・アン。キャロライン。三人の狂えし女たち。すべては連なっている。母の自殺と祖母の自殺。恐ろしいことを恐ろしくなくするために取り上げられた言葉。残されたかつての意味の失われた言葉。「人魚姫」。アバリンと出会った曇り空の日。栓のされた瓶に閉じ込められた死んだすずめとねずみ。馬から落ちて死んだ男が描いた『溺れる少女』。バイクから落ちて死んだ男が描いた『豊穣の海』。「赤ずきんちゃん」の物語を最初に書いた人物として知られているフランス人の名を名乗り、そしてその童話に基づくおぞましい芸術作品を作った男。(……)
コネチカット州頭部の暗い田舎道。マサチューセッツ州の川沿いの暗い道。エヴァ・キャニングと名乗る女性。彼女は亡霊だったかもしれないし、狼だったかもしれない。あるいは人魚だったかもしれない。はたまた、名付け得ない存在だったのかもしれない。p.35
この、記憶が曖昧、あるいは曖昧模糊とした現実をとらえるために、「だったかもしれない」を連呼する文体が、独特のリズム感となって押し寄せるのだ。
おわりに
本作はジャンル的にはホラーで、しかも統合失調症で数字脅迫の女性主人公、しかも何やらひどいめに遭いそうだ──となったら、落ち込む、暗い話なのではないかと思うかも知れないが、明るい要素もある。というのも、彼女の周りにいる人たちがみな信じられないぐらい良い人たちなのだ。インプの初期の恋人であるアバリンも自身も散々な目にあっているのに底抜けに良いやつだし、インプの主治医も、少ししか出てこない登場人物も、みなインプを支えようとしてくれている。
7月と11月、複数の最初の出会いがあるように、本作も揺らいだ波のように一意に意味をとらせない、複雑な魅力がある。二段組でそこそこ分量があることもあって容易に読み通せるわけではないが、チャレンジするだけの価値はある作品だ。特に僕は、この手のイメージの連環で繋がっていく語りが大好きだから、特別な一冊になった。
