一方で、経済成長は問題ももたらす。石油燃料をガンガン燃やせば、気候変動を加速させる。AIの活用を推し進めれば、人間を次々解雇していくのが最適解になる。その結果として、経済成長をしているけれども、社会全体は大きなマイナスを被ってしまう──そうした状況も、当然ありうるわけだ。その結果として、今こそ石油を止めよと行動する脱成長派もいれば、いや、経済成長が止まればそれはそれで死者が出る、経済成長を止めることはまかりならぬと、対立する議論も繰り広げられている。
そこで本書では、そもそも多くの国が経済成長を目指し始めたのはいつで、なぜなのか? 経済成長が止まったら何が起こるのか? 脱成長派がいうところの脱成長は実際のところ何を意味しているのか?、脱成長以外で現在の苦境に対抗するすべはあるのか──? といったことをみていくことになる。その結論としては、副題にも入っているように、絶対的に経済成長でもなければ、かといって完全な脱成長でもない、第三の道を目指すことなのだが──と、ここについては後ほど軽く触れよう。
人類の歴史は停滞の歴史であった。
今となっては経済成長すべし、しなければならないという考え方が支配的だが、歴史的にみて「経済成長」しているのは例外的な状態だ。カロリーベースでいうと紀元前10万年と1800年の産業革命前の労働者の摂取カロリーは大差がない(前者の一日の平均カロリーは2355kcalで、後者のイングランドの労働者は2322kcal)。もちろん技術的な発展は都度あったが、それによって人口が増え、増えた分の生産物を食いつぶしてしまうので、生活は人類史の大半にわたって楽にならなかったのだ。
マルサスの罠や収穫逓減といった言葉で説明されるこの成長の枷を、200年前頃から人類は突破し始めた。現在これほど重視されている国内総生産(GDP)が生まれたのも、1940年代のことで、戦時中のリソースの振りわけがその目的だった。その後冷戦期に国の優位性を示す非従来型の兵器として利用されたことでGDPを最大限大きくさせることが国家の目的として広まっていった。人類は長きにわたって〈ロング・スタグネーション〉の時代を生きてきたのであって、「成長」は新しい概念なのだ。
経済成長を重要視するだけなら良かったが、経済成長すれば人生がよくなるという見込みによって目が曇り、そこに必然的に発生するトレードオフも帳消しにしてくれると信じ込むようになったのは問題だった。あるイギリスの経済学者は1960年代初頭に、科学者が集う会合で「経済成長には代償が伴うが、西側世界においては、その代償はさほど高くつかないだろう」と言い、アメリカの経済成長についての大著をまとめたロバート・ゴードンは、「成長はすればするほどよい」と言った。
じゃ、どうする?──GDPの改善
実際には経済成長はすべてを解決する魔法の杖ではないから、経済成長を追求すればするほど環境の悪化などトレードオフで失われるものがある。じゃ、今後我々はどうすべきなのか──? というのが、本書の中心的な論点でありおもしろいところだ。
とはいえ、ウルトラCの解決策が提示されるわけではない。たとえば、まずやるべきは現在経済成長の指標として用いられることが多いGDPの技術的・道徳的な限界のような明白な穴を改善することだと語られる。GDPはそもそも、明確な値段や量をもたない活動やサービスが数字に含まれないという欠点がある。家庭内の家事労働や、国や市によって金銭のやりとりなしで提供されるサービスは(ウェブ上の無償サービスの数々も)GDPに計上されないが、これは現代においてはますます比重を増している。もう一つ重要なのはGDPには道徳的な限界があることだ。大気を汚染する自動車渋滞はGDPを上昇させる。環境災害も復旧に莫大な支出を要するからGDPを増大させる。
そうした欠陥の多い指標を多くの国家が経済の最優先事項にしてしまっているところに、まず大きな問題がある。
GDPを人類共通の最優先事項に据えてしまったことで、道徳的な代償が発生した。第一に、社会に対する貴重な貢献は何かという感覚がゆがめられた。労働市場ではそのゆがみがはっきり目に見える。今日ではたいていの場合、労働者に支払われる賃金が、その人物の能力を示すシグナルだ。
GDPの改善は、容易にはいかない。道徳的判断を数字として盛り込むのは大勢が納得する形でやるのはほぼ不可能だし、GDPに含まれない数値の改善も終わりがない。そこで著者は、「GDP役割最小化主義」を謳い、GDPの限界を最初から認識して、それを重視しない。そしてそもそも完全無欠なマスター尺度があるという認識を放棄し、価値があり重要と思われるものを測る尺度(炭素排出量や種のゆたかさなど)をいくつか選んで、その数字を並べる「ダッシュボード・アプローチ」を採用し──といったあたりは込み入った議論になっているので実際に読んで確かめてほしいところだ。
経済成長にたいする立場
で、肝心の経済成長はどうしたらいいのか。前提として、代償を払わず成長の果実だけが得られるような「ちょうどいい成長率」は存在しない。かといって、経済成長を完全に放棄した、脱成長化した社会は悲惨だ。そこで著者は、別の道を探る。
「強い脱成長」のように、まったく成長しないことを目指すのではなく、またマイルド派のように、成長に頓着しないことを試みるのでもなく、脱成長とは成長への執着を薄めることだとみなすのだ。「弱い脱成長」と言ってもいいだろう。(……)社会が大事にするであろう目的のヒエラルキーにおいて、経済成長の位置を今よりも格下げするのだ。人類が長きにわたり経済成長第一主義だったことに対する知の解決策としては、この道が理想的ではないかと僕は思っている。p.294
これは現実世界に対する直接的な政策や方策の提言というより、経済が関わる問題にたいする態度(マインドセット)の表明である。たとえば化石燃料の補助金が全世界で2022年には1兆ドルも出ているというが、この補助金を撤廃してエネルギーが高額になれば、経済成長は阻害される。経済成長至上主義ならこの補助金を撤廃するのはありえない。しかし「弱い脱成長」支持者は、この痛手は認識しつつ、それでも痛手は環境保護のために払うに値する代償だと受け入れる──というのである。
態度・姿勢の表明だけでなく、具体的な行動・提言も数多くしている。たとえば意図的に「経済インセンティブと技術進歩の方向を変える」ことを目的とし、技術開発を再生可能エネルギーや脱炭素といった方向へと振り分ける(そのためには炭素税の導入や、人間の労働を置き換えるロボットに対するロボット税の導入などを経済インセンティブとして利用する)。そもそも、経済成長が鈍化している現代において再度経済成長を引き起こすためには──と、経済成長にまつわる広範な議論を行っている。
おわりに
経済成長は重要だが、経済成長だけを目的としていたらまずいことになる、というのは多くの人が同意できるのではないだろうか。その問題解決の方針が著者と合致しない人もいるだろうが、そもそも経済成長って、GDPって、なんでこれほど重要視されるようになったんだっけ? 重要視しないとどうなるんだっけ? というところから本書は抑えてくれているので、現代においては極めて重要な一冊だ。
他にも、強い脱成長派の議論をまとめて脱成長すると何が起こるのかを語ったり、一見相性の良さそうな「長期主義」(遠い未来に良い影響を与えることが、現代における重要な道徳的優先事項であるとする倫理観)への批判だったりと、魅力的なトピックが満載なので、ぜひ読んでみてね。
