京都の老舗扇子店で巻き起こる、笑いナシ、涙ナシの、なし崩し的洛中騒動記 ~おまはんとは、いっぺんナシつけなあかん~

2025年。冨永昌敬監督。深川麻衣、室井滋、片岡礼子。
たしかに京都人は性格悪いけど、それ言わはんねやったら、よそさんも大概や。
ナウ 世紀末のエンドレスゲーム
世紀末の エンドレスゲーム
世紀末の エンドレスゲーム
さあ つまんで なめちゃお
ヘイ ヘイ!
わあ吃驚した。まだや思てザ・イエローモンキーの「A HENな飴玉」歌とてた。
ごきげんさま、知的生命体のみんな。
知的生命体のみんなは、この12月を、いかがお過ごしだろうかね。ありがとう。俺の方はというと、なんら寒さを感じることなく、コートの「ト」をはためかせ、電飛のごとく街を駆け抜けているのですよ。俺とすれ違った民草たちは、その手に、そのつま先に、ピリッと静電気が走るのだとか。
どうだ、惚れ惚れとするか!?
12月23日、知人から「ときに、ふかづめさんという生命体って、クリスマスにケイクを食べますか」と訊かれたので「いや、クリスマスケイクは食べないよ」と答えると、知人、少しく思案に暮れたのち、「左様ですか…。あ、なるほど。すると26日に、売れ残って値引きされたケイクを食べるというのですね?」と何かを確認するように再度質問してきたので「いや、値引きされたケイクも食べない」と答えたところ、知人、まるで謎かけに窮して正気を失う寸前の人、みたいに異変をきたし、やおら、アウアウ言いながら体を振動させ、白目と黒目が逆配色になった。
パニック起こしてる…。
ケイクは食べへん、ってだけのことで、何をパニック起こしてアウアウ言いながら打ち震えることがあるのか、と思いながらも、おれ、「おれが酒飲みの性分だからかは判らんが、元来、甘味はあまり好かんのだ。だからクリスマスや誕生日だからといって、べつだんケイクは食べないし、なんならケイクを買う銭があるなら、するめを買いたいと、おれはThinkするし、またhopeもする」となるべく判りよく説明した。
これを聞いて知人、むすっと膨れて「ぜんぜんメリーじゃないじゃん!」などと言う。
なに言うとんねん、こいつ。
「クリスマスなのにクリスマスケイクを食べないなんて、到底メリーとは言い難し。画竜点睛を欠くがごとしですな。ぱっぱっぱ!」と続け、ついに嘲笑した。
おれは、この知人の意味不明をきわめる言説に少しく困惑したが、わけのわからんまま言い返され、挙句嘲笑されたという事実それ自体が腹立たしかったので、このトークの大筋っていうか文脈自体は相変わらず理解不能だが、「ただ単に論理で言い負かしたろ♪」という戦闘的な気分になり、気がついたら知人と対決していた。
「黙れ、ツリーの魔人! なんて態度を、このおれに取るんだ。『クリスマスなのにクリスマスケイクを食べないなんて、到底メリーとは言い難し』とおまえは言うが、到底メリーとは言い難しかどうかは、そも、クリスマスをメリー(楽しげ、陽気)なものと捉え、その日を楽しみに指折り数えて待ち望み、イルミネーションとか見に行っちゃったりするなどし、またクリスマスの醍醐味はクリスマスケイクを食べることにほかならないよねー、みたいな考えを前提にした場合にのみ成立する判断だろうが」
「成立しまへんのん?」
「おまえ…。憎たらしくなるにつれ、だんだん敬語が抜けて関西弁になってっとるやないか。まあ、おれもか。ええわ。おれの場合は成立しません。なんとなれば、おれは原理主義的無神論者なのでクリスマスという祭事自体に興味関心がないためです。すなわち、おれは、クリスマスをメリーなものにしようという精神性があらかじめ免除されているっていうか、べつにメリーじゃなくて上等やねや。あと『画竜点睛を欠くがごとし』とも言うとったけど、この場合の画竜をクリスマス、点睛をケイクだとすると、そもそも描こうとしてへんねん。画竜を。おれは。いずくんぞ点睛を欠く道理があろうや」
我ながら、快刀乱麻を断つがごとく、このハイパー訳ワカメを論駁した。そう思ったのも束の間、おれに説破された苦しみから、しばらくキャアキャアと騒ぎながらもんどり打っていた訳ワカメは、やおら、すっくと立ちあがり…
「メリーヘリクツっす」
そう言い残し、舟もないのに八艘飛びみたいに、ピョッ、ピョッと大きく跳ねながら、消えていった。
その後ろ姿に掛ける言葉に、おれは二択のうち、一つは、「メリークリスマスみたいに言うやん…」とワカメの言葉遊びの趣深きことをペーソスを交えて言及すべきか、しからずんば、二つめは「義経か、おまえ」という八艘飛びさながらの軽やかな去り方、その身体性を好く描写する言葉にすべきかで悩み、結果、ただ無言でその背を見送った。
ことによると、おれの周りには気違いが多いのかもしらんが、この前書きのポイントは、たとえ訳のわからんジャーゴンを操る意味不明なる人物でも、張り合いがあれば良き話し相手。むしろ、ブログの前書きのネタにもならない凡なる人に比べれば、その奇はむしろ才。訳のわからん人物との交流は、まさしく願ったり叶ったりなのである、といふこと。
おそろしいことに、本稿が今年最後の更新と相なります。
いまや月に1~2本しか更新しなくなった体たらく。まさに死に体、でも書きたい。執筆意欲は依然あるが、鑑賞意欲が年々減退して、我ながらしゃらくさいので、久しぶりに「あの映画見ろよ」、「この映画について書いて」と読者からリクエストを募るのもいいかもわかりません。まあ、誰も(興味なくてorビビって)応募してこないだろうけど。
『シネマ一刀両断』。当初は5年で辞めようと想定して開設してから早8年。映画評ごっこに興じてからは来年で20年。
相変わらずの拙文を晒し、されどゴー。
綾野剛。了。
成田凌。完。
愛は勝つ。KAN。
そんなわけもこんなわけもないが、本日は『ぶぶ漬けどうどす』です。読んだらどうどす。

◆なんでも言葉通りに受けとったらあかんえ◆
おれの友人ときたら、こちらの言葉を鬼スーパー額面通りに受けとる天才ピュアボンで、たとえばその友人が最近見た映画の話などをあまりに長々と話すもんだから、途中の相槌で「えらい壮大な話やな」と俺、これは「ちょお話長いから、もうちょいキュッとまとめてんか」の意であるが、それに気づかず友人、「せやろ」と言って滔々とロング退屈トークを続けるもんやさかい、いよよ痺れをきらして「ちょ、ごめん。この山、いま何合目?」と俺、気を悪くさせるやもなと思いつつ、意を決して口にするも「ウーン、6合目」なんて飄乎として返答、相も変わらず縷縷として7合目を話し始めたので「もう酸欠やわ」と言ってしまったのだが、それさえ伝わらず「酸欠?」なんつってキョトンとしていたのがことさらに腹立たしかったので「話長い~~」とファルセットで絶叫、事ここに至ってようやく我が意を理解した友人、「いやぁ。スカタン、スカタン」なんて頭を掻きゝゝ、ちょっと照れて日本酒をクピと飲むなどする。
日本酒クピ、やあれへんがな。
斯様に、ナチュラルボーン京都府民である俺なんかは、婉曲表現を用いて空気を読むことを重んじる微細なりき人間関係の磁場、それすなわち京都に生まれ育ったため、俺自身の気質はどちらかといえば思ったことを口にするズバズバ系ではあるが、その根っこには除きがたく埋没している京都人の血っちゅーか、まあはっきりいえば性格の悪さが出汁の如くようしゅんだあるわけです。
「ぶぶ漬けどうどす」と言って客に茶漬けを出す行為が決して歓待ではなく、むしろ「早よ帰っとくんなはれ」の意であることは有名だが、生粋の京都人ほど「ぱっぱっぱっぱ。ほんまにそないなこと言うて茶漬けを出す京都人なんておましまへん」と言う。
だが、茶漬けというのはあくまで一例であって、これに類する隠語を、実際に京都人は、駆使しますョ。先刻のわたくしの「えらい壮大な話やな」も、いわば“茶漬け”であるし。
京都人のやり口は狡猾。
たとえば、近所のお喋りなおばはんが家に遊びに来ていつまでもだらだら長居をされるなどして、そろそろ相手に遠慮してもらいたい場合、直截的に「遠慮して」なんて険のある言い方をしてしまうときわめて感じが悪く、またこちらの心証も悪くなるため、多くの人、っていうかたぶん一般的には「ああ、楽しかった。またいつでも遊びに来てくださーい」なんつって終わりのムードを醸すっつーか、そろそろお開きにしましょうみたいな雰囲気を自ら瀰漫させることで遠回しに「帰れアホ」とテレパシーするが、京都人の場合は、逆に「もう一杯飲まはります? ええやんか。もっと居てぇなぁ」なんつって相手を引き留め、さらにもてなすような身振りを演じる。これに至って、よほどのアホでもない限り、相手は「あ。言われてみれば、もう2杯目のお茶も空や。3杯目をすすめてくれとる。空気も読まんと、こないな時間まで長居してしもた。悪いなぁ。そろそろ帰らな」と斟酌してお暇する、と、こういうカラクリになっとるわけで、早い話が、相手に帰ってもらうのではなく、帰った方がいいかもと気付かせる。
察させる。
空気を読まさせる。
さらにタチの悪いことに「もう一杯飲まはります?」なんて歓待するフリで、自分を“好い人”に置いたまま、「悪いなぁ」なんて反省を促し、相手を“悪い人”に仕立てるあたり!
そんな京都人のいやらしさを余すことなく描いたブラック・コメディに相違ないと踏んで観た『ぶぶ漬けどうどす』だったが、あなや! 良くも悪くも予想を裏切り、その斜め上をゆく珍妙怪奇な作だったのでした。

◆おこしやすサスペクツ◆
大筋としては、京都の老舗扇子店の長男と結婚し、東京からやってきたフリーライターの深川麻衣が、京都の実態をコミックエッセイにするべくさまざまな老舗店を取材するも、本音と建前を使い分ける京都人の底知れぬ恐ろしさにもんどり打ち、身震いなどをする、というもの。
このように聞けば、「なーんだ、さっきふかづめが言ってた『京都人のいやらしさを余すことなく描いたブラック・コメディ』に相違ねえじゃん。どこが予想の斜め上をゆく珍妙怪奇な作なんだっつー話」と、あーたは鼻をほじるかもしれない。
だとしたら鼻をほじるのは、よせ。
本作の怪奇さは、霊験あらたかな朝霧に包まれし薄明の京都市内を次々と切り取ってゆくショットにタイトルバックが挿入される開幕に早くも顕著だ。
玄妙といえば玄妙だが不気味といえば不気味なショットに、やはり玄妙といえば玄妙だが不気味といえば不気味なSEが響きわたる約5分間。溝口健二の『雨月物語』(53年) を観ているような、デヴィッド・ボウイの『ロウ』(77年) を聴いているような、まるで自分が異邦人の側へと追い立てられたかのように、強制的に感じさせられ、突きつけられ、なんでか糾弾されるオリエンタル感とでも申しましょうか。
なんちゅっても、タイトルバック始まり。
それすなわちエンドロールが無い、ということを意味するけど、これは現代映画においては少しく珍しいよね。70年代以前の映画はタイトルバックが当たり前だったし、たとえば先鋭的なタイポグラフィで数々のヒッチコック作品を彩ったことで知られるソール・バスなんかはのちの映画界のみならず広告業界やアート界におけるタイトルデザインの礎たる美の巨人であるし、こと日本映画においても小津安二郎の様式的なタイトルバックに現代日本人が懐かしさをおぼえるのは『サザエさん』のエンディングのクレジット部分へと受け継がれているからだし、木下恵介や増村保造などのタイトルバックもめいめいに独創的でありんした。
事程左様に、現代映画でタイトルバックをやる、ということは取りも直さず作家性の顕示、いわば開幕早々「この映画は作家主義に基づいとるで~!」とうそぶくに等しいセルフハードルぶち上げ行為。それ相応に勇気がいりましょう、というか、ややもすれば“ちょっとイタい奴”にしかできない芸当なのかもわかりません。
これが本作の怪奇さ。
次に珍妙さであるが、しばし扇子店の義父母のもとで世話になる深川麻衣が(観客はそれを予想、なんなら期待していたのに)別段さほどいびられることなく、いわんや京都人の洗礼を受ける“よそさん”の苦心惨憺/七転八倒をコミカルに素描するでもなく、むしろ物語は、京都に魅せられた“よそさん”たる深川が、京町の文化とか老舗の伝統に囚われず、ほどよく流行と付き合い、時代に適応しようとする洛中人の渡世を無碍にするごとく、「私が京都を救わないと!」と妙なヒロイズムで軽挙妄動に出ては、結果的に洛中全域に大迷惑をかける…という、「あ、そっち!?」というツイストによって複雑化をきわめます。
東京からやって来たよそさんが京都人に蝕まれるでも毒されるでもなく、実はよそさんこそが毒蛇で、京都を蝕んでいく…という展開性の妙。要は、ラストでどんでん返しをするのではなく、最初から凡てはどんでん返されていたというね。京都版『ユージュアル・サスペクツ』(95年) やで!
…京都版『ユージュアル・サスペクツ』ってなに?
本作の珍妙さは、この“展開性の妙”ってやつが太字で説明されない点にあり。「よそさんが京都人に毒されるハナシかと思いきや、実はよそさんこそが毒蛇で京都を毒していく」ってあたりがヌルッと自然に描かれるので、ことによると本作を見た観客の8割以上はどんでん返されたという意識すら持たぬまま「なんかヘンな映画やったな…」と首を傾げながらスクリーンの前をあとにした可能性、Die。
だから、今から『ぶぶ漬けどうどす』観るよーって輩は、先にこのブログが読めてよかったね。ありがとうだね! だいぶと“見方にコツのいる映画”であることには違わへんからな。

◆世界行けよおまえ◆
前章で述べた本作の珍妙&怪奇は、いわば映画内コモンセンスとも呼ぶべき軸をわざとズラすという、少々マニアックな作劇であります。
たとえば、伝統文化を守ることに固執してそうな京都人ほど東京でのマンション暮らしに憧れている。手間暇かけておくどさん(かまど)で炊くご飯よりも炊飯器でピッと炊きたい。京町家は掃除も一苦労。これは謙遜やのうて、なんもええことなんかありゃしまへん。イジワルだと思ってた義母の室井滋だってべつにフツーの女将だった。
黒だと思っていたものが白くて、白いものほどよく黒く。見る者の先入観を逆手にとったエッシャーの騙し絵のごとき迷ナラティブ。
監督は『パンドラの匣』(09年) や『乱暴と待機』(10年) の冨永昌敬。
おお、そうかい。素晴らしいぢゃないか。
『パンドラの匣』はいかにも受注クオリティという感じで、割としっかり撮っていたように記憶しているが、ああ『乱暴と待機』の人かと知って合点がいったわ。
冨永昌敬は、あーたがこれでいいと言うならそれでええけど多分ぜんぶ間違うてんちゃう? ってぐらい、えも言われぬ違和感や空気感をはっきりと形にする異端児である。
この人の映画は、とびきり変。どれくらい変かというと、じつは変なのに“変じゃない普通の人”から見たら至って普通の映画に映るぐらい変。
わかりにくく変、っていちばん変じゃないですか?
何かが足りない。何かがおかしい。ゆえに不安…。冨永昌敬の映画は、まるまるその違和感だけで形成されている。
“致命的に何かを欠いた不安定なショット”の組織体ゆえに、まるで間違い探しの“間違った絵”の方だけを見せられているかのような気持ち悪さが通底する映画体験というか。これも映画内コモンセンスの軸ずらしの一種で、系統的には川島雄三や市川崑のそれに類する、シュール系やオフビート系とはまた一線を画した、裏を返せばきわめて感覚論的な作家主義の、濁世(現代日本映画)における栄華の極致でもある、ちゅうのが『ぶぶ漬けどうどす』を観たおれの感想や。
今から言うことは確実に間違ってるんだけど、例えるなら本作は市川崑の 『満員電車』(57年) であり、川島雄三の『しとやかな獣』(62年) なので、そんな映画を作る人間が濁世にひとりでもいることを祝福せずに、いったい何を祝福するのかって話。
物語の主舞台は扇子屋だが、ほかにも老舗料亭や甘味処など、いずれにせよ町家のロケーションを堪能できる一本となっておるのじゃが、…ちなみに「おるのじゃが」なんて急に翁口調になったのは今からワシが渋い映画評をするからなんだけど、京町家が舞台にも関わらず“奥行きの構図”に乏しいのが本作最大の見所であり、逆見所。
戦後日本映画でもさんざ確認できるけれども、京都の町家といえば「うなぎの寝床」と呼ばれるほど間口が狭く、奥行きが深い。この奥行きこそがすぐれて映画的で、前後の配置によって人物間のパワーバランスや主体客体の如何、どちらが惚れた側でどちらが惚れられた側か…などの相関性を言葉なくともイッパツで視覚化、あるいはスクリーンという平面媒体を文字通り立体化しうるのであり、これは長らく水平構図に囚われていたアメリカ映画(演劇の歴史の浅さゆえ)に先んじる形で戦後日本映画が世界の映画史を牽引する一助となった「映画を三次元化たらしめたのは日本映画なり!」というおれの妄言を裏づける傍証、ならぬ盲証なのだけど、なんと本作『ぶぶ漬けどうどす』は、京町家の奥行きという名の“切れば絶対勝てるカード”を、こりゃもう冨永のDNAに刻まれた逆張り精神なんでしょうね、切らないんですよ。
切れよ。
切らないんですよ。
切れって。
「いいや、切らない!」
なんじゃこいつ。
ひとつ言えることは、現代日本映画の浅瀬で生きるには冨永昌敬は深海魚すぎるから、世界に行ってほしいということ。
フランスとかええんとちゃいます?
世界で戦えるんだから、世界行けよおまえ。
ただひとつ問題なのは、そもそも冨永昌敬に戦う意思がないことなんだよね。“切れば絶対勝てるカード”をついに手札に残したまま、冨永はデュエルを中断してトイレに立ち、金輪際帰ってこないみたいなデュエリストなのである。
誰もぶぶ漬けなんか出してないのに、まるで出されたみたいに冨永は帰ってしまう。
冨永は煙となる。
泡沫としての冨永。
白昼夢としての冨永!
(C)2025「ぶぶ漬けどうどす」製作委員会