
「関ヶ原の合戦」では西軍の特攻隊長となった「宇喜多八郎秀家」。その父「直家」が岡山の石山にあった城砦に入城した機会に、大改築のうえ居城とし、城下町的繁栄の基礎をつくった。下の画像は「後楽園内」から見た「岡山城」。

秀家は、天下人秀吉の養子にもなり大出世を遂げた。義父の意見に従い、石山の東にあたる「岡山」に本丸を移し城郭の拡張整備を開始し、途中朝鮮出兵の総大将も務めたが、帰国後天守閣が落成(1597年)し、ここに豪壮きわまりない石垣と内堀を今に残す「岡山城」の城普請が完成したのだ。「廊下門」から侵入すると石段が続き、「月見櫓」の前に出る。月見櫓の内側と外側から激写。


秀家の築いた天守閣は、二階建の建物を大中小の三つに重ねた3層6階の構造で、信長公の「安土城」をお手本として建造したとあり、日本の築城の歴史から見ても重要な建造物であったのだが、第二次大戦中の米軍の空襲で消失したのがまことに残念!

どう見ても古い「野面積み」の石垣と、向こう側に月見櫓を支えている「打込萩(うちこみはぎ)」の石垣が姿を覗かせているが、割り石で奇跡の芸術的ラインを出している。

城主であった「宇喜多親子」のその後、裏切りの汚名で有名な「小早川秀秋」→池田輝政公の子孫「池田忠継」に渡り、代々池田氏の居城になった歴史がある。「不明門(あかずのもん)」は、いつもは閉まったままでついた名前。普段は廊下門から出入りしていたらしい。

今は、全開きでおっぴろげの不明門脇と、天守閣下に恒例の石垣補強を施した。


余談であるが、関ヶ原の合戦に於いて、一時は西軍有利の状態に持っていったのは、この特攻隊長の「宇喜多秀家公」と、白頭巾の「大谷吉継公」であるが、それに向けて西軍を裏切り横槍を刺したのが「小早川秀秋」だったのだ。彼は後に岡山城主となったが、大谷公の呪いに狂い死にしたと噂される。小早川が、毛利家を守るために取った裏切りとも言う方がおられるが、この時大坂城に総大将として入城していたのが「毛利輝元公」で、西軍勝利こそ毛利家繁栄の道だと言うのは誰にでも理解できるはずで、毛利軍を食い止めた「吉川広家公」もお粗末な武将と言わざるを得ない。東軍の勝利後、一気に所領を没収され、細々と存続できた毛利家がベストと言うなら別だが・・・・・。

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岡山後楽園での、地ビール人気第一位の「雄町米ラガービール」と、「独歩」の黒ビールなどで喉を潤す・・・・実にコクがあって切れもある優秀な味であった。