私は今、『慰めの手紙』(ヘンリ・ナウエン著)を読んでいます。ナウエンは母を亡くしました。妻を亡くして喪失感を味わい、無力感を感じる父への慰めの手紙をまとめたものです。ナウエン自身も喪失感を味わいながら、母の死を悲しむ中で、母の死の意味を問い、新しい生き方を追求しています。思索に富み、洞察力のある文章が読めて興味を惹かれる本です。先日読んだところにこんな文章が書かれていました。
「いつでも死ねるために生きる」。
原文では
to live in order to be able to die
(訳)死ぬことができるために生きる
死は私たちを後ろから追いかけてきて、捕まえます。捕まると私たちは死にますが、いつまでも逃げ続けることはできません。必ず追いつかれます。「いつでも死ねる」とは、このようにして自分は生きてきたからこれで死んでも悔いがないという意味があると思います。「死ぬことができる」も同じような意味です。ではどのように生きれば、いつ死んでもよい、といえるのでしょうか。
メメントモリという言葉があります。ラテン語の言葉で、「死を忘れるなかれ」との意味です。人は必ず死にます。それゆえ、納得のできる人生を歩もうと考える人はいると思います。どうせ死ぬんだから、面白おかしく生きようと考える人もいるようです。
聖書は最後の審判を教えています。この審判に耐える歩みをすることが必要となります。この点については、イエス・キリストを信じ、罪赦され、信仰によって義とされているので、審判に耐えることができると私は信じています。
いつ死んでも悔いがないと言える生き方はキリスト者でも人それぞれに考えるところがあると思います。私にとっては一つしかありません。それはキリストに似た者となることを目指す生き方です。私たちは復活した時、キリストに似た者へ変えられると信じるからです。
フィリピ 3:20~21
しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。コリント二 3:18
わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。
私は、どれほど達成できたのかということは考えません。キリストに似た者となるという姿勢を保ち続ける努力を続ければよいと考えています。具体的に私はどうしているのかというと、こうです。
ヨハネ 1:14
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。
神の言葉が人となったのがイエスです。神の言葉によって生きる、老いの中にあっても、老いの中にあるから、これを貫きたいです。
